問いの絶えざる再生のために
―シンポジウム「マックス・ヴェーバーと近代日本」を終えて―

『未來』2000年2月号掲載

橋本直人(社会思想・社会学史)


 昨年十一月二七・二八日の両日、東京大学文学部においてシンポジウム「マックス・ヴェーバーと近代日本」が開催された。橋本努、矢野善郎および筆者の企画者三名はいずれも三十歳を過ぎたばかりの若手であり、運営その他不安な点は尽きなかったが、いざふたを開けてみれば当初の予想を大きく上回る盛況ぶりにこちらが驚かされるほどであった。本稿ではこのシンポジウムの様子について簡単な報告を行ないたい。
 まず報告者をタイムテーブルと合わせて紹介する。

十一月二七日(土)
午前 〈第一討議〉「マックス・ヴェーバーと近代日本」 司会 住谷一彦
上山安敏「ウェーバーの宗教社会学――ユダヤ教とキリスト教の間」
富永健一「マックス・ヴェーバーとタルコット・パーソンズ――『資本主義の精神』の捉え方をめぐって」
山之内靖「何故に日本のヴェーバー研究者はニーチェ的モーメントを欠落させてきたか」

午後 〈政治部会〉 司会 長尾龍一
雀部幸隆「ウェーバーの大統領制論とワイマル共和国崩壊の憲政史的問題」
佐野誠「ヴェーバーとシュミット――『政治的なものの概念』におけるヴェーバーの批判的受容を中心に」
橋本努「近代的主体論の再検討――M.ウェーバー解釈にみる社会科学の精神」

同 〈資本主義部会〉 司会 濱井 修
大西晴樹「『倫理』論文とイギリス革命――最近の実証研究から」
佐久間孝正「『仮象』としてのグローバリズムと資本主義――エスニシティ、ネイションの『政治・国家社会学』としての『経済と社会』」
橋本直人「資本主義の精神における〈教育〉の契機――『倫理』解釈史からの一考察」

十一月二八日(日)
午前 〈第二討議〉 「日本マックス・ヴェーバー研究の過去・現在・未来」 司会 三島憲一
折原浩「「合わない頭をつけたトルソ」から「頭のない五肢体部分へ」――『マックス・ヴェーバー全集』(『経済と社会』「旧稿」該当巻)編纂の現状と問題点」
姜尚中「自由主義の危機とウェーバー――1930年代と1990年代」
W.シュヴェントカー「グローバル化時代におけるマックス・ヴェーバー研究の課題」
嘉目克彦「文化の普遍史と現代――文化的生の「ドイツ的形式」とマックス・ヴェーバー」

午後 〈理論・思想史部会〉 司会 米沢和彦
牧野雅彦「政治史と文化史の間――歴史学「方法論争」とウェーバー」
向井守「『シュタムラー論文』の意義」
矢野善郎「ヴェーバー方法論的合理主義の今日的意義――「合理化テーゼ」論の呪縛を超えて」


 我々企画者の主な狙いの一つは「近代日本のマックス・ヴェーバー研究を現時点で捉え返し、次世代以降への批判的継承のための展望を拓くこと」にあった。その意味で、これほどのヴェーバー研究者の参加を仰げたこと自体がまず望外の喜びであった。諸般の事情により参加いただけなかった研究者も少なくなかったが、それにしても日本のヴェーバー研究者がこれほどの規模で一堂に会し討議を繰り広げる機会は、おそらく大塚久雄らによる一九六四年のヴェーバー生誕百年記念シンポジウム以来と思われる。(付言しておけば、シュヴェントカー氏は一昨年にドイツで刊行された大著 "Max Weber in Japan" の著者である。すでに『マックス・ヴェーバーとその同時代人群像』の原著編者としてご存知の方もおられよう。)
 さらに報告者のみならず、参加者数も二日間を通じて約四百名にも上り、しかもその四分の一以上が専門研究者以外の方々(なかには高校生も!)であった。そして何よりも、二日間にわたりこれらの方々によって真摯かつ熱気のこもった討議が繰り広げられたこと、このことこそが最も印象深い事実であった。
 さて、本来ならばこの真剣な討議について個々の報告に即しながら紹介するのが本稿の課題であろう。しかし、残念ながら筆者はシンポジウム全体を落ち着いて聞ける立場にはなく、また紙幅の都合もあるので、ここでは個人的に気付いた点を二、三指摘するにとどめたい。(なおシンポジウムの全体像については、討議を踏まえた形で報告者全員による報告論文集が未来社より刊行予定なので、そちらをご覧いただければ幸いである。)
 シンポジウムを通じてまず気付かされたのは、現代的課題からヴェーバーを読み込む試みが大きな可能性を秘めているということである。「普遍史における西欧近代の意義」という、ヴェーバー研究の枠内でいえば古典的な問題設定、あるいは「近代の運命的な力としての資本主義」というこれも古典的な認識は、情報化・グローバル化という現代の状況から再定式化することで新たな意義を獲得する可能性を秘めているように思われる。いいかえれば、社会主義と世界戦争の世紀が終わろうとしている現在、我々は再びヴェーバーの問いへと呼び戻されているのであり、ヴェーバーの問いを参照することによって我々自身の問いを構成することが必要となるのではないか。
 第二にヴェーバー研究に即してみると、ヴェーバーを歴史的文脈の中に位置づけるアプローチの広がりがあらためて確認されたといえる。このアプローチそのものはヴェーバー研究の枠内ではむしろ伝統的でさえあるが、しかし特に八十年代以降はその意味付けがやや変わったように思われる。以前であれば、歴史的文脈重視のアプローチは「聖マックス」的ヴェーバー解釈に対する「脱呪術化」の狙いが大きかった。だが、このシンポジウムが示しているように、今日ではもはや歴史的文脈重視のアプローチとテクストの内在的解釈とは必ずしも対立するものではない。新たな歴史的文脈の設定がテクストの新たな読みを喚起し、新たなテクスト読解が知られざる歴史的文脈を示唆する、という相補関係こそが必要となっているし、また可能でもある。
 そして第三に、例えば大塚久雄やパーソンズに代表される古典的なヴェーバー解釈が今日でもなお一つの問いかけとして大きな意味を持ち得るということも、このシンポジウムが示唆したことの一つであるように思われる。このように述べると「ヴェーバー研究者のアナクロニズム」と思われる方もおられよう。だが、最新の情報や理論を追いかける(それ自体は必要な活動であるのだが)に忙しいあまり、それ以前の問いを「克服する」のではなく単に「忘却する」ことが我々はあまりに多くはなかったか。古典的解釈は「答え」としては古びたかもしれないが、「問いかけ」として読み返したとき、それは本当に「解決済みの問題」なのだろうか。特に近年の業績至上主義的な流れの中で、これまでに数多くなされてきた批判をもって古典的解釈を(場合によってはその批判もろとも)「用済み」とする傾向が強まっているように思われる。だが、こうした批判の意義は古典的解釈を「片付ける」ことではなく、むしろ古典的解釈における問いかけと格闘しつつ、これを新たな形へと読み変え造り変える点にあったと考えた方がよさそうである。
 そして翻ってみるならば、ヴェーバー研究という営み自身が、ヴェーバーの発した問いかけに学び格闘しながら自分自身の問いを構成してゆく営み、そうすることでヴェーバーの問いかけを常に新たに読み変え、造り変えていく営みだったのではなかろうか(これはヴェーバー研究に限ったことではなく、むしろ古典研究全般に通じることだろう)。だが、専門研究者は先人たちのこうした営みを単なる先行研究として「職業的」に扱いがちである。ヴェーバー研究がヴェーバーの問いかけとの格闘であり、その問いかけの絶えざる再構成であるということを忘れずにいたのは、むしろ専門研究者以外の方々だったのかもしれない。だからこそこのシンポジウムは専門研究者以外にこれほど多数の参加をいただき、しかもその方々を含めこれほど真剣な討議がなされたのではないだろうか。
 考えてみれば、いかにその業績大なりとはいえ、約百年前にドイツに生きた一人の社会科学者の存在が現代の日本で暮らす我々にとってなお重要であり続けるということ、これは不思議なことである。不思議でないとするならば、それはヴェーバーの問いかけとの格闘、そしてその再構成という営みが行なわれ続けたからであろう。そうした営みを通じ、ヴェーバーの問いかけはもはや我々自身の問いの一部となっている。だからこそ我々は今日もなおヴェーバーと格闘し、ヴェーバーを読み変えることで自分自身を再構成していかねばならないのである。そしてこのシンポジウム自体、この営みに寄与したいと願う一つの試みに他ならないのだ。

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