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美とエロースをめぐる覚え書き

『紀要』第43号(2001年、中央大学哲学科)掲載
土橋 茂樹

 人誰しも美しいものとの出会いの経験をもつだろう。美しい風景に息を飲み、疾駆する馬の美しい走りに魅了されることもあれば、美しい旋律に心を動かされ、美しい人に恋い焦がれることもあるだろう。そしてやがて、こう問うかもしれない。なぜ私たちは美しいものに心惹かれるのだろうか。そもそも美とは何なのだろうか。しかし、このように問うとき、私たちは知らず知らずの内に論点先取を犯している。美が既に存在している「何か」であり、私たちが接近可能な「何か」であるかのように、私たちは語り振る舞う。だがそれは果たして本当にそうなのか。

 本稿では、美しい事物・事象を美しいものとして現出させることによって自らは絶えず背後へと退き隠れる「美」というものが、それ自身、本来的に「近づき得ないもの」であって、その限りでこの世界のどこにもその場をもたない「異他的なもの」(das Fremde)であること、しかし同時に「根源的に近づき得ないものへの何らか確証可能な接近可能性」(註1)を探ることによって、美しいものに関わる「恋(エロース)」を、接近不可能な美への接近仕方として捉え返すことが可能であること、以上二点を粗描したい。その際、プラトン中期の対話篇『饗宴』のエロース論から考察の端緒を得ることになるが、それはどこまでも「示唆」の域にとどまる参照であり、本格的な『饗宴』篇研究は後日に期したい。その意味で、本稿はプラトン解釈でも『饗宴』篇研究でもなく、あくまで「美とエロースをめぐる覚え書き」に過ぎない。

1 プラトン『饗宴』篇からの示唆
 「なぜ、恋(エロース)は美しいものを対象とするのか?」(204c4)(註2)、あるいはもっと明確に「美しいものに恋する人は、たしかに恋し求めている、だが何を恋し求めるのか?」(204d5-6)と誰かに問われたらどう答えるか、そうディオティマに尋ねられ、ソクラテスは「美しいものが自分のものになることを。」(204d7)と答える。しかし、さらに「美しいものを自分のものにしたその人には何がもたらされるのか?」(204d8-9)と問いつめられ、ソクラテスは「その問いにたやすく答えることなど、私にはまったくできない」(204d10-11)とすっかり逃げ腰になってしまう。このソクラテスによる(それが本気であるにせよ、ないにせよ)解答不能の告白がいかなる意味をもつかについては、その直後のやりとりが示唆的である。

 ディオティマは、早速「美しいもの」と「善いもの」とを取り替えて、今のとまったく同じ形の問いを繰り返す。

「善いものに恋する人は、たしかに恋し求めている、だが何を恋し求めているのか?」(204e2-3)─「善いものが自分のものになることを。」(204e4)─「善いものを自分のものにしたその人には何がもたらされるのか?」(204e5)

 ここでも当然ソクラテスは再度、解答不能を告白するかと思いきや、「これはさっきのよりたやすく答えることができる。それは幸福になるということだ。」(204e6-7)と今度はすっかり自信をもって答える。まったく同形の問いと答えの中で、この決定的な違いは何に起因するのだろうか。「恋し求める」という限りでは美と善に対する我々の構えに何の相違もない。ところが、いざ美/善の獲得・所有という段になると、様相が一変する。善の所有=幸福が自明であるかの如く語られるのに対して、美の所有に関してはもはや語ることすら能わずといった風である。同義的に語られることの多い美と善にあって、一体、その両者を分かつものは何であろうか。

 そのヒントは、ディオティマによる謎のような次の言葉の内にあると思われる。

恋の働きとは、心身両面にわたって美しいものの内に産むことである。(206b7-8)

 ここで「美しいものの内への出産」と言われていることは、後の叙述によれば、知恵や徳の面で産むべきものを身ごもり始めた者が、「美しい言葉」(210a7-8)、「若者たちをより善い者にする言葉」(210c1-3)、「多くの美しく壮大な言葉や思考」を産むことである。いずれも「美しい言葉を産む」と言われるのだが、これは「美しいものを美しいと感嘆・賞賛する」つまり「讃美する」ことを意味していると私には思われる。しかし、讃美にも二種の仕方がある。一方の讃美は「その対象の各々について真実を語らねばならない」(198d3-4)、すなわち真なる讃美である。もう一方の讃美は「対象にできる限りもっとも偉大で美しいものを捧げることである。たとえそれが真にそうあろうとなかろうと。」(198d8-e1)すなわち偽りの讃美である。偽りの讃美は、時に若者を有頂天にさせることもあろうが、結局は堕落させるものである。とすれば、若者をより善くする讃美は当然、真実を語る讃美である。

 さて、『饗宴』篇からの以上の引用によって、恋(エロース)と美の関わりについて以下のような輪郭を抽出することができるだろう。

(1)恋とは、美しいものを自分のものにしたい、という欲望をもつ。
(2)しかし、恋は、美しいものを実際に獲得・所有することを直接の対象とするのではなく、
(3)恋する対象の真実を語るような仕方で讃美することを求める。

 つまり、恋と美の関係は直接的なものではなく、必ず讃美という言語的(思考的)媒介を要する何か迂回的なものである。この点で善と欲求の関係とは異なる。よい(おいしい)林檎を自分のものにしたい(食べたい)と欲し、実際に囓りついた(獲得した)ならば、その時、欲求は充足され、満足が得られる。しかし、美しい林檎に向けられる欲求は、それを獲得することへではなく、むしろその林檎を讃美することへと向けられる。ソクラテスの前述のためらいは、まさにこの点に起因していたのである。

2 第二次性質と美
 前節で、恋と美の関係は何らか迂回的なものだと述べた。しかし、この点に関しては若干の補足が必要であろう。なぜなら、美の経験はもっとも直接的だとも言い得るからである。真、善、美、正といった価値概念を何らか具現化した個体において、その個体を獲得・所有する、あるいはその個体と交わる以前に、その価値を直接「感覚できる」のは、美だけである。よい(おいしい)林檎もいい万年筆も、食べてみておいしく、使ってみて使い勝手がいいのであって、それ以前にいいか悪いかはわからない(あるいは、せいぜい「おいしそう」「よさそう」に見えるだけである)。よい人かどうか、正しい人かどうかは、見ただけではわからない。ところが、美しい人は、見ただけで美しいのである。いわば美しさが自ら輝き出て、視覚や聴覚に直接訴えかけてくるとさえ思われる。こういった可感的直接性が美の特徴ではないのだろうか。

 しかし、私たちは本当に眼前の個体の美しさを感覚しているのだろうか。たとえば今、大きな赤い夕陽が山の端に沈もうとしている。たまたま山小屋からその光景を目撃した私たちがその夕陽の美しさに感動したとしよう。さて、当然私たちは、その夕陽の「丸さ」、「赤さ」、「美しさ」を見て(感覚して)いるはずである。この時、その「丸さ」「赤さ」「美しさ」とは、果たしてその太陽が元々備え持つ、その内にある丸さ、赤さ、美しさなのだろうか。周知のように、ここでジョン・ロックによる「第一次性質」と「第二次性質」の区別を持ち込むことができる。

 まずロックは、「人が考える時、およそ知性の対象である限りのもの」 (・.i.8 ) (註3)言い換えれば心が自らの内に知覚するものと、「そのような知覚を我々の内に引き起こす物体内の物質の変容」(・.・.7)とを区別する。前者のみを「観念」(ideas)と呼び、後者すなわち観念を産む「力」(powers) は「性質」と呼ばれる。性質のうち、固体性、延長、形、動と静、数といった事物の内在的特質のことが「第一次性質」、それに対して「事物自身の内にあって、ただそれのみが第一次性質によって我々の内に様々な感覚を産む力」(註4)(・.・.10)のことが「第二次性質」と呼ばれる。先ほどの例で言えば、夕陽の「丸さ」は第一次性質、「赤さ」は第二次性質である。ところで、ロックによれば、「第一次性質の観念は撈第一次性質の類似物である、撈しかし、第二次性質によって生み出された観念は、第二次性質とまったく類似していない」(II.・.15)。この点はJ・L・マッキーの解釈(註5)に従えば、たとえ私が太陽の形を楕円と見誤ったとしても、私の観念「楕円形」と太陽の内在特質である「円形」とは、少なくとも「形」という同じカテゴリーに入るが、私の「赤い」という観念の場合、そのように色づけられた太陽に内在する力、あるいはその力の基盤となる物質が「色」という同じカテゴリーに入ることはあり得ない。私に夕陽が丸く見えるのとまったく同様に夕陽は実際に丸いのである。たとえ丸く見えるのが私の目の錯覚であったとしても、夕陽は何らかの形を実際にもっているのである。対して、私が見ているような夕陽の赤さ、あるいはそれに類する「色」を夕陽自身に帰すことはできない。夕陽が備えているのは、力とその力の基盤となる物質だけである。

 さて、ロックの考えを以上のようなものと解するなら(もちろん、彼の表象主義的な認識論にはその後多くの批判がなされたのだが、ここでそれらへ立ち入りはしない)、第一次性質である夕陽の「丸さ」は夕陽が元々備え持つものだが、第二次性質である夕陽の「赤さ」は夕陽(という物体)が元々備え持つものではない、ということになる。では夕陽の「美しさ」はどうだろうか。一見すると、美しさも第二次性質であるかのように思われる。だが、たとえばR・M・ヘアによれば「赤さ」と「美しさ」は決定的に異なる(註6)。夕陽に「赤さ」が帰属するための意味論的・言語論的規約が「同一条件下で同一対象に対する二人には、一方が赤い、他方が赤くない、ということが許されない」という形をとるのに対して、「美しさ」の帰属に関する規約の方は、「同一条件下で同一対象に対する二人には、一方が美しい、他方が美しくない、ということが許されている」という形をとるからである。「赤さ」は交通信号として利用できるが、「美しさ」はできない。色盲(そして色盲検査)は存在するが、揶揄的な表現でない限り「審美的色盲」などは存在しないし、それを検知する方法もない。しかし、こうしたことは、ヘアによれば、「赤さ」や「美しさ」という性質が事物の本性の内に存在するか否かという存在論的な問題構制から導出されるべき事柄ではなく、あくまで性質の帰属に関する言語使用上の規約に基づくべきものなのである(註7)。

 しかし、いわゆる第二次性質と価値的性質のこうした非対称性は、絶対的なものなのだろうか、それとも何らか相対化できるものなのだろうか。ある程度は相対化が可能だと言えるだろう。たとえば、B・ウィリアムズによれば、世界が第二次性質の多くをもつものとして知覚できるのは、「こうした性質が我々の世界との知覚的関わり方を構成し、また世界のこうした現れ方がある特定の仕方で現に働いていると知ったからといって、そのことによってこの体系がぐらつくことはない」(註8)からである。ある人ひとりだけが何かの加減で夕陽が金色に見えたとしよう。しかし、だからと言って、夕陽が赤いという世界了解に直ちに変更が加えられる必要はない。むしろ、その人の色覚を検査したり、見ている位置や角度を調べたりして、赤く見えなかったことの何らかの説明を加えていくことによって、同時に夕陽が赤いという事態の正当化をも行うことになるからである。同様のことが、事実と価値の混淆した「濃い(thick)概念」の下ではローカルな次元に限り成立する、とウィリアムズは言う(註9)。それはこういうことだ。紅葉を愛でる文化圏の人々、たとえば日本人にとっては、確かに紅葉は美しい、つまりそのような世界把握の体系化が成立しているのである。しかし、紅葉を美しくないと言う他の文化圏の人の主張に対して、彼に紅葉が美しく見えなかったことの説明を企てても、それは紅葉の美しさの正当化にならない。それどころかローカルな次元での判断に反省を加え、メタレベルでの説明を試みることによって、それまで成立していた審美体系に揺らぎが生じることさえあるだろう。ここに至って、第二次性質とのアナロジーは崩れるのである。

 このことは、倫理的概念の客観性に関わる大きな困難を予想させる。しかし、その問題に立ち入ることは控え、たとえ濃い概念の下でのローカル・レベルであれ、夕陽が美しい、紅葉が美しい、という世界把握の体系化が成立していると前提して、話を進めていきたい。ただし、今までの「赤さ」(第二次性質)の代わりに、J・マクダウエルに倣って「怖ろしさ」との類比を試みてみよう(註10)。「赤さ」の知覚の場合と異なり、「怖ろしさ」の場合、認知者の側の条件、つまり恐れへの傾向性から独立した観点から(つまりロック的に)考察することは、もはや意味をなさない。「恐ろしいもの」自身の内に「怖ろしさ」が存在するか否か、という形での問題構制によっては、恐怖に関する認識論は成立しない。

 さて、ある事物ないし事態を恐ろしいものにする(fearful-making)客観的な性格の認知に何らか合理的な仕方で依拠した<恐れに固有の態度・反応>を表すことが、怖ろしさを実際に経験するということであるとするならば、その経験のリアリティは、その対象がその固有の態度・反応に「見合った(merit)」(註11)ものであるということに懸かってくる。その際、その対象が恐怖に固有な態度・反応に見合ったものであるということは、それが実際に「恐ろしい(もの)」である、ということと同義である。犬嫌いの人が犬を見て逃げるのは、その犬が「恐ろしい」からである。犬好きの人が犬を見ても逃げないのは、その犬が恐ろしくないからである。恐怖に固有の態度・反応が見出される場合、そこにはその態度・反応に見合った性質が実際にある、と言ってよい。このことは「美しさ」にも当てはまる。面白いことにプラトンの記述はマクダウエルのそれと同じことを告げている。

恋し求められるに値するものは、実際に美しく、優雅で完全で、祝福されるべきものである。 (204c4-5)

3 私案提示
 いささか長い迂路を経て、再びプラトンに戻ってきた。ここまでの考察から、恋と美の関係は、<恋に固有の態度・反応は賛美である>→<賛美に値するものは実際に美しい>というように賛美を媒介した何らか迂回的なものであるということが示された。しかしこのことと、「美しいものを自分のものにした人に何がもたらされるか」という問いのもつ、ソクラテスにとって解答不能なほどの不可解さとは、一体どのようにかかわるのか。私なりの考えを概略的に展開してみたい。

3-1 <世界の内に自らの場をもたない原-異他性>の<ここ>への現
    出
 美しいものを自分のものにしたい、という恋の欲望は、「自分に固有な(eigen)ものにすること」(Aneignung)を目的とする以上、自分に固有ではないもの=異他的なもの(das Fremde)に対して発動する。「異他性」のもっとも中心的な意味契機は「空間性」にあると思われる。たとえば「外国(fremde Laender)」のもつ異他性は、「ここ(=私に固有な空間)にはない国」の「ここにはない」という性格に由来する。しかし、ここにはなくとも、あそこにはある、という程度の異他性であれば、ただ移動するだけで私に固有なものにすることができる。自分のものにするということ自体が不可解になるほどの根源的な異他性とは、したがって、私に固有化可能な一切の空間に存在しない、つまり「世界の内に自らの場をもたない」ということである。この意味での異他性を、これからは「原-異他性」と呼ぶことにする。しかし、自分のものにしたいという欲望がそれによって発動されねばならない以上、何らかの仕方で原-異他性が私に対して現前する必要がある。したがって、恋の欲望は、世界の内に自らの場をもたない原-異他性が世界内の<ここ>に現出するという、矛盾を孕んだ事態によって惹起される。

3-2 原-異他性の<ここ>への現出を讃美したいという恋の欲望
 世界の内に自らの場をもたない原-異他性によって惹起された恋の欲望はしかし、その原-異他性を直接の対象とすることはない。原-異他性は、恋に固有の態度・反応として「賛美」というある意味での言語的活動を惹起する。つまり、恋とは、世界の内に自らの場をもたない原-異他性が世界内の<ここ>に現出しているという、その現出の経緯全体を賛美したいという欲望なのである。確かに、恋の欲望とは、広義には「善なるものや美しいものの欠如の故に、その欠如しているものへと向けられた」(202d1-3)欲望であるのだが、より限定された意味においては、人間を越えた神的な事柄を、神と人間の中間に位置する「解釈者であり伝達者」(202e3)として賛美したい、という欲望のことである。この限りで、賛美とは、原-異他性の現出という事態を自らの言葉によって解釈し伝達することである。

3-3 讃美は常に既に原-異他性の隠蔽と具体的美の現出の同時遂行で
    ある
 恋に固有な態度・反応である賛美に値するもの、すなわち恋し求められるに値するものは、その限りで実際に美しいものである。「君の瞳は美しい」という賛美が捧げられたその瞳は、実際に美しいのである。しかし、ここに決定的な問題がある。私に賛美への欲望を惹起させた原-異他性は、確かにここに現出した。しかし、それはあくまで「世界の内に自らの場をもたないもの」の現出という矛盾を孕んだ事態であったはずだ。にもかかわわらず、私の賛美は、自らの意図に反して、原-異他性の現出という全体性を分断し、常に既に原-異他性を背後に退き隠すと同時に、<ここ>に固有の美を現出させる。この限りで、賛美とは、その営為事態が常に既に原-異他性の隠蔽と具体的美の現出の同時遂行であらざるを得ない。ということは、賛美とは、それがたとえ真なる賛美を意図したものであっても、それが賛美である限り、常に偽りの賛美とならざるを得ない。中間者としての恋する人は、原-異他性の現出という事態を解釈し伝達する、すなわち賛美することによって、絶えず原-異他性の現出という事態それ自身を隠蔽してしまう。言い換えれば、賛美され、伝達されるのは、その都度、原-異他性の現出という事態の「像(エイドーロン)」(cf. 212a4)でしかあり得ない。その意味では、賛美とは、世界の内に自らの場をもたない原-異他性を、世界の内で表現すること(ミーメイスタイ)、すなわちミーメーシス(註12)である。

3-4 異他性現出空間の原-異他性方向への上昇
 恋する人は、恋に固有な態度・反応、すなわち「真に」讃美することを求める。ところが、原-異他性の現出という事態を讃美する者は、不可避的にその「像」を語り表わし、偽りの讃美をなしてしまう。そうした讃美者が自らの讃美の本来性を取り戻すためには、事の真実へと自らの讃美を差し向けるしかない。事の真実とは何か。<世界の内に自らの場をもたない>という事態(原-異他性)がそれにもかかわらず<ここ>に現出している、ということである。では、その「像」とは何か。<ここ>に何か一つの異他性が現出している、すなわちここに<異他的なもの>がある、ということである。とすれば、異他的なものが現出する場のもつ<ここ>性を、<ここ>ではない<あそこ>へ、<ここ>でも<あそこ>でもない<別のところ>へ、さらに<ここ>でも<あそこ>でも<別のところ>でもないどこかへ、というように限りなく<世界の内での場のなさ>へと近づけていくことが、讃美の本来性を取り戻す方途となるだろう。それは、一方では、特殊から普遍への動きであり、他方では、身体的なものから精神的なものへの動きとなる。この身体、あの身体から、身体一般へ、さらには精神一般へ、と讃美すべき異他性現出の空間を原-異他性の方向へといわば上昇させていく動きは、讃美が、つまり恋が本来の姿に戻ろうとする、これもまた不可避な運動なのである。しかし、同時にこの本来性回復の運動は常に必ず挫折する。その挫折とは、結局本来性を回復できない、という意味での挫折ではなく、本来性を回復できたかどうかさえそもそも知ることができない、という意味での挫折である。なぜなら、<世界の内に自らの場をもたない>原-異他性が<ここ>に現出するという事態の真実が何であるのか、そのことを知ることなしには、讃美が本来性を取り戻し、真なる讃美となったかどうかの尺度を私たちが手にすることはないからである。

3-5 <世界の内に自らの場をもたない原-異他性>が<私>に現出す
    ることの意味
 私にもっとも固有な空間である<ここ>から限りなく遠ざかろうとする不可避な運動が、最終的に至ろうとしている地点を私たちは知ることができない。つまり、私の讃美しているその当の事態が「像」であるのか否か、私の讃美が本来的であるのか否か、それを知ることさえ私には叶わず、せいぜい「私には自分が真なる讃美をなしていると思われる」(cf. 202a8-9 ; ヘー・オルテー・ドクサ)としか言えないのである。ところがここにある逆説が生じる。<ここ>からの限りない逃避行が、まるでループを描くようにして、<私>自身に向かったとせよ。私にとってもっとも固有な場である<私>において、<世界の内に自らの場をもたない>原-異他性が現出するのだ。その時、突然、<私>は私にとってもっとも異他的なものとなる。確かに私は私自身にとって、もともと謎であった(「汝自身を知れ」)。しかし、それはせいぜい、私にもっとも固有な空間に何か異他的な断片がいくつか転がっている、と言った程度の謎である。しかし、その私にもっとも固有な場の「全体」すなわち<私>そのものがまさに原-異他性の場に一挙に転換してしまう、その時、一体そこで何が生じるのだろうか。私はこれ以上先へと考察を進めることができない。少なくとも以下の二点を問いかけることによって次なる考察の糸口とするのみである。

 まず、少なくともこの<私>に生じた転換経験によって、私がそれまで真なる讃美だと思っていた一切の讃美が、その瞬間に、「像」に向けられた偽りの讃美であったと一挙にわかる、そういったことがあり得るだろうか。この問いは次のように言い換えられる。私に固有な空間である<ここ>とは、私の空間である限り、私そのものではなく、いわば私にとって対象的な<ここ>に過ぎない;然るに原-異他性をそうした対象的<ここ>に何か異他的なものとして再現することは、所詮、原-異他性の現出という事態を模倣した像に過ぎない;しかし、そのことの私自身にとっての理解は、対象的ではない<ここ>、私の(所有する)空間ではなくまさに私自身である場の全体=<私>に原-異他性が現出する経験を自らの尺度にすることによって一挙に会得されるのではないだろうか。

 しかし、同時に次のことが問われねばならない。果たして、私にとって、<世界の内に自らの場をもたない>原-異他性とは何だろうか。私の世界に決して現れることのないものを、少なくとも一つは挙げることができるかもしれない。それは私の「死」である。私の死は私の経験し得る世界全体のどこにもその場をもたない。なぜなら、私の死とは、その世界の消滅でもあるからだ。しかし、もしそうなら、私の世界に決して場をもたない、私が絶対に経験し得ない<死>が<私>に現出するとは一体どういうことなのであろうか。(もちろんそれは生物学的な死ではない。なぜなら、私の生物学的な死とは、私にとって別段いかなる現出でもなく、ただ何もかもすべての消滅に過ぎないのだから。)

 以上の二つの問いに答えることは、私にはできない。そもそも私に答えることの可能な問いなのかどうかさえもわからない。言えることは、<世界の内に自らの場をもたない>原-異他性が<私>に現出するという事態そのものを、私自身が透明な指示と化すことによって露わにする、そのような讃美の仕方がもしあり得るとするなら、それこそが真なる讃美ではないか、という朧気な見通しだけである(註13)。

3-6 真なる讃美の頽落形態としての公共評価
 真なる讃美の頽落形態として日常流通している讃美のありようは、原-異他性の現出という事態をではなく、その「像」をそれと知らず讃美する、というものである。その「像」化はしかし、必ずしも私秘的とは限らず、むしろそこに公共評価の尺度として局所的に機能するような、何らかの意味の収斂が見出される(註14)。日常生活圏には、そのような意味の収斂的が無数に存在している。つまり、ある特定の意味の収斂点を取り巻く領域内にある個体を人々が「美しい」と評価するのは、その特定の意味の収斂点をその公共評価の尺度とすることによって、言い換えれば、人々が共有する信念系において、その領域での讃美対象として既に像化されたものをさしあたりの美の規範とすることによってなのである。したがって、それとは別の意味の収斂点をも含んだより広い領域内において、どちらの意味の収斂点を尺度とするかによって、その価値評価が相反することは充分あり得る。しかし、そのような複数の意味の収斂点を日常生活圏の内にもつ私たちにとって、そのような無数の収斂点の布置は、既に私たちを取り囲む環境世界の一部となっており、山々の夕景を前にすれば、あたかも夕陽を赤いと認識するように、夕陽を美しいと評価するのであり、一人の可憐な少女を前にすれば、あたかもその頬を赤いと認識するように、その少女を美しいと評価するのである。確かに「赤さ」は一つの意味の収斂点をもつであろうが、今述べているような位相での「美しさ」には、その意味が必ずしも一つに収斂する必要はなく、むしろ文脈依存的な仕方で、相互に何ら矛盾すること並存し得るのである。


 以上、3-1から3-6まで、ごく粗い私(試)案を提示した。一応辛うじて、それ自体として独立した論述形態を採ってはいるものの、言うまでもなく、そのすべてがプラトンによってインスパイアされたものであり、同時にまた顕在的、伏在的を問わずプラトンを指示しているものである。しかし、私としては、この私案をプラトン解釈として提示する目論見は微塵もないこと、したがってまた、「イデア」を「原-異他性」と解そうなどという莫迦げた野心は毛頭ないということ、この二点だけは最後に明言しておきたい。(本来、このような覚え書きは筐底に秘すべきものであり、ひたすら読者の寛恕を請うものである。)


<註>
註1)E. Husserl, Husserliana I, Haag, 1950, S.144. この箇所は他我の存在性格に関わるものであるが、本文では異他性一般の記述として取る。「根源的に近づき得ない」とは「根源的に知り得ない」ということでもあろう。すると「根源的に知り得ないものへと近づくこと」とは「無知の知」としての愛知(フィロソフィア)に他ならず、その限りでまさにエロースの問題なのである。なお、「異他性」に関しては、B. Waldenfels, “Das Eigene und das Fremde”, Deutsche Zeitschrift fuer Philosophie 43, 1995 から多くの示唆を得た。

註2)『饗宴』からの引用についてのみ、引用文の後の括弧内にその箇所を記す。

註3)以下、ロックからの引用はすべて An Essay concerning Human Understanding , ed. J.W.Yolton, London, 1965 からのものであり、(第1巻、第1章、第8節)を意味する。以下同様。

註4)J.L.Mackie, Problems from Locke , Oxford, 1976, p.12 の解釈に従って訳した。nothing. . .but をnothing except の意味で取るマッキーに対して、but を接続詞と取って「事物自身の内にはなく、むしろ第一次性質によって我々の内に様々な感覚を産む力」と解す研究者も多い。このように取るなら、第二次性質は事物の内にはなく、我々の心の中にあることになる。しかし、ここにはideas とpowers の混同があるように思われる。ここで「第一次性質によって」と言われているのは「事物の感知不可能な(ほど微細な物質)部分によって」のことであり、そうした事物の微細な物質部分によって産み出された力(すなわち第二次性質)は当然、事物の内にあるはずである。心の内にあるのは、精確に言えば、第二次性質の観念であって第二次性質ではない。因みに大槻訳はこの点で極めて精確である。

註5)Ibid ., pp. 13f.

註6)R.M.Hare, Ontology in Ethics, in; Morality and Objectivity , London, Boston, Melbourne and Henley, 1985, p. 47. なお、ヘアは「赤さ」と「悪さ」を比較しているが、ここでは本稿の主題に沿って「美しさ」に置き換えた。

註7)Ibid ., pp.47f.

註8)B.Williams, Ethics and the Limits of Philosophy , London, 1985, pp. 149f.

註9)Ibid ., p.150. cf. pp. 140f.

註10)J.McDowell, Values and Secondary Qualities, in; Morality and Objectivity , London, Boston, Melbourne and Henley, 1985, pp. 120f.

註11)Ibid ., p.118.

註12)ミーメーシスの訳語をここで「模倣」と言い切ってしまうことには抵抗がある。世界の内に自らの場をもたない原-異他性の現出という事態を、それに見合った言語媒介的な態度で「表現」しようとすると、それは必ず世界の内で異他性を表現したもの、つまり原-異他性ではなくて、それの「像」を表現したものになる。こうした「目の当たりにしているものを表現しようとして、実は像としてしか表現できない」、そういう表現をここではミーメーシスと呼ぶ。

註13)拙稿「擬マカリオスにおける「霊的感覚」」(『エイコーン』第22号、新世社、2000)において、この見通しの以下のようなギリシャ教父的展開を試みた。すなわち、「自らが透明な指示と化す」のはもはや<私>ではなく、そこにはただ、「新しい人」の誕生、さらには世界の<新たなる創造>だけが見出される、言い換えれば、霊的な方向への感覚の深化は魂の浄化と軌を一にした人間神化(テオーシス)に他ならない。

註14)公共評価の次元での「美」の働きを『大ヒッピアス』篇に即して考察したものとしては、拙稿「居丈高な仮想論難者と戸惑うソクラテス──『大ヒッピアス』篇の一解釈──」(『紀要』第42号、中央大学哲学科、1999年)を参照いただきたい。

Copyright : Shigeki Tsuchihashi 2001

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