今、倫理学に何が求められているのか(註1)

『人文研紀要』第41号(2001年、中央大学人文科学研究所)掲載
土橋 茂樹

 今日、私に振り当てられた役割は、現代社会における倫理問題および倫理学をめぐる見取り図をごく大ざっぱに描き、そこに見出される問題点、とりわけ今後、私たちが取り組むべき課題と方向性のようなものを提示することにあると思います。時間も限られておりますので、かなり雑駁な話になるかと思いますが、予めお許し願います。また、取り上げる問題はどれも極めて錯綜しており、いずれも拙速に答えを求めるような体のものではありませんので、私もここではそれぞれの分野で生じている問題群をご紹介するにとどめ、後の討論において様々な問題解決の途を探りたいと思っております。

 話の見通しをよくする意味で、ここで全体の構成を予め提示しておきます。まず、なぜ今かくも声高に倫理を求める声が挙がってきたのか、その背景的な事情について見ていくつもりです。次に、現在個別にそれぞれの領域で行われている倫理的な取り組みの数々について若干目を通してみたい、そしてそこから掬い上げられた私なりに問題だと思っている点をいくつか挙げて、将来的な希望、というよりはむしろ祈りに近いものを最後に述べてみたいと思っています。

I. 背景
 まず、なぜ、今、かくも声高に倫理を求める声が挙がってきたのか、その背景的な事情について見ていきたいと思います。

(i)科学技術の飛躍的進化に伴う生活世界、環境世界の激変
 人間は自らの生活環境を技術によって作り出す動物であります。したがって、技術が発展するに応じて人間の環境世界も変化するわけですが、現代科学技術がもたらした飛躍的な発展進化は、人間がその隅々まで目を配り得た生活世界、環境世界の姿を根本的に変えてしまいました。古来より人間の住む生活世界、とりわけ共同体社会には、それぞれ固有の倫理というもの、いわば社会的ルールというものが成立していましたが、その生活世界が大きな変貌を遂げた今、その倫理も当然大きく変化せざるをえなくなった、というわけです。

 たとえば、医療技術の飛躍的進展に伴って生と死の線引きが自然から人間の手に委ねられることによって生じた、「医師による死の幇助の問題」、「体外受精からクローンに至る生殖補助医療の問題」、「臓器移植、出産前診断による中絶の是非」などの医療分野での諸問題はその典型と言えます。さらに、高度な、しかし歪んだ工業化がもたらした「公害」問題は、今やグローバルな地球環境問題として我々の前に立ちはだかっています。(しかも、ここ日本ではローカルな「公害」という問題が ─ 例えば先日、尼崎の公害訴訟で和解が成立しましたが(註2) ─ 解決済みの過去のように葬られている感さえあります。しかし私たちにとって公害は決して終わってはいないのです。このようにローカルな問題とグローバルな問題が複雑に絡み合った形で私たちの環境の内に起こっています。これはこのこととして極めて大きな問題です。)

 また、現在大いに肯定的に捉えられている通信技術の飛躍的進歩も、私たちの生活様態を様変わりさせつつあると同時に、様々な倫理的問題を宿しているように思われます。しかも、こうした生活世界の急激な変化によってもたらされた世代間の溝の深まりの果てに、老人問題や今朝の新聞にも載っておりましたような青少年犯罪の凶暴化といった問題が立ち現れ、人々の間には妙に乾いたニヒリズムが蔓延しつつあるのです。

(ii)日本固有のある事情
 また、日本固有の事情という点では、簡単に申しますと、近代(明治期)日本における「倫理」および「倫理学」概念の形成には、欧化政策に伴う近代ヨーロッパ倫理学説の導入と、それに対抗すべく伝統的な儒教的道徳説を近代的国民国家形成の要請に応える形で国民道徳論として再構成していく動き(その極めつけが1890年(明治23年)に発布された「教育勅語」です)との拮抗関係が大きく関与していました (註3)。

 昭和に入り、和辻哲郎が「人間共同態の理法の学」として国家的倫理学の形へとその両者を綜合したものの、現実社会の倫理的・道徳的問題の側から倫理「学」へと問題が突きつけられたのではなく、あくまで官主導型の「倫理学」から倫理的問題は、いつもいわば「天下り」してきていたのです。こうした事情を指して藤田省三は「近代日本には倫理学が存在しない」と看破しています (註4)。しかし、先ほど挙げましたように、今や、私たちの現実社会、生活世界には現に数多の倫理問題が噴出しており、倫理学にその対応を迫っています。これは、市民主導の倫理というものを近代日本が初めて構築し得るチャンスとなるかもしれません。例えば『環境白書』といったものを年代を追ってみていきますと、政府がこの問題に対して常に後手後手に後から追いかける形になっているということが文言一つ一つ取ってみるとよく分かります。つまり、問題が先走っているわけです。しかし、こういう状況だからこそ、極めて逆説的な形ではありますが、市民主導の倫理が立ち上がる余地が見出されるのではないでしょうか。少なくともこうした市民サイドからの倫理形成の動きが、従来の制度化された大文字の「倫理学」をも揺さぶり始めているその兆候なのではないか、そう私は思っております。ある意味では、マイナスの問題の中にもこういったプラスの希望を持ちうるのではないかと思います。

 さて、こうした事情を背景として、次に現代の倫理をめぐる問題状況に目を移してみましょう。(予め見通しをつける意味で補足的に申しますと、問題の布置には、何らかの意味での二層構造があるのではないかと思います。すなわち、(1) 個別領域での問題に対応した、社会的政策決定にかかわる場面。いわゆる応用倫理学の局面。(2) そうした個別領域の紛争解決によっては根本的に満たされないような、ある全体的な人間の生の尺度、人の生のあるべき<かたち>を求めるような倫理の局面。以下では主に(1)の局面に光を当てながら、最終的に(2)の局面を浮き彫りにできれば、という目論みです。)

II. 個別領域での問題に対応した、いわゆる応用倫理学の局面

(i)医療の場面
 正常(健康)と異常(病理)  まず、最初に医療の場面における、正常(健康)と異常(病理)の区別ということですが、従来の医療場面では、客観的病理学、すなわち正常な生理状態(健康)と病理状態の間には質的変化はなく、単に量的な違いがあるに過ぎない、という考えに基づく定量的な病理学が発達してきました。たとえば、誰でも一定量の血糖値をもつが、それが平均値を上回ると糖尿病だ、というように考えられてきたわけです。そして、こうした量的測定を可能にするためにも、現代医学は人間を生科学的物質系としてだけ捉える方向へと(おそらく過剰なほどに)進んできたのではないかと思います。しかし同時に、こうした方向性への異議申し立てが、この科学主義的な病気概念に欠けている視点、すなわち患者の訴える身体の異常感、違和感など、いわば患者の生活世界に向けられた主観的視点を組み入れる形でなされてきました。確かに患者の生活実感などというものが、素人の思いこみという形で今まで診療室で封殺されてきたことは動かし難い事実だと思います。言い換えれば、診療室というのはパターナリズムの場であったわけです。しかし、事はもっと複雑化しているのも事実です。病気には特定の原因がある、例えば「〜病」という病気はこの菌をとれば治る、という特定病因論は、いまでは「多様な危険因子の掛け合わせで発病を確率的に推定するという発想」へと席を譲りつつあります (註5)。そうなると、患者の主観的判断どころか、その当の病気の存在自体が確率的にしか提示し得なくなってきます。

 生の質(QOL)  結局、そうやって健康と病気、正常と異常の線引きが客観的にも主観的にも困難となりつつある中、浮上してきたのが、「生の質quality of life」という概念です。生の質とは文字通り、生活環境がそこで生活する人にとっていかなる質の生活をもたらすのか、その質の良し悪しの価値評価を意味しています。当人にとっては身体もある意味ではその人の生の環境と言えますから、あらためて定義しなおせば、医療行為とは、身体環境を含む「生の質」を高めることだと、一応言うことができると思います。

 これは、身体に障害のある人にとって非常に効力を発揮してくる考え方です。例えば足が不自由であるとすれば、その足の不便さというのは確かにありますが、身体環境面での不便さを補う生活環境があれば、文字通り乙武洋匡さんが著書『五体不満足』のキャッチフレーズでお書きになっていたように「不便だけど、不幸じゃない」ということが言えるわけです。そうした患者さんをめぐる様々な関係性、環境を患者さんと医者が共に話し合い、協力しあって形成していく、それが真のインフォームド・コンセントの意味であって、巷でよく言われているように医者が一方的に告知するようなパターナリスティックなあり方は、決して望ましいインフォームド・コンセントのあり方ではないと思います。ようやく現在、医療場面においてもそのような形を避けようという流れが出てきました。

 緩和医療  しかし、今申しました「生の質(quality of life)」という評価の仕方と従来の定量医学的な立場との葛藤が最も劇的にぶつかり合う場面はやはり死を目前にした末期医療(terminal care)、緩和医療(palliative care)の場面ではないかと思います。端的に言えば、「生の長さ」すなわち生きている量を延ばす(延命)のか、あるいは「生の質」を向上して、ひょっとするとそれによって生の長さを短縮してしまうのか、その選択です。
 まず手始めに、緩和ケアに関する現在の(といってもちょっと古いのですが1990年の)WHOのレポートを引用してみましょう。

 痛みに対する適切な処置を実施しないことは決して許されない。
 鎮痛剤を適切な量で使ったことが、生を縮める結果になったとしてもそれは、過量投与によって意図的に生 を終わらせることと同じではない。適切な痛みのコントロール法が死を早めることになったとしたら、それは耐えられ得る尊厳ある生活のために必要な治療にさえ患者はもはや耐えられなかったということを意味するだけである。(註6)

つまりこれは何を言っているかというと、患者の苦痛を緩和し、彼/彼女の生の質を高めることの方を、彼/彼女の死を延ばすことよりも優先させるべきだ、と言っているわけで、場合によっては安楽死を許容しているとさえ解釈できるものです。では、延命のための医療処置を医者が敢えて自ら中断するような場合はどうなのでしょうか。

 医療が提供できることが結局機能の延長に過ぎず、生きることをよりよくするというより、死ぬことを先延ばしにするものだと、患者が感じるようになったとき、医療は限界に達する。したがって、延命のための技術を適用することが、患者にそこから得られるはずの利益との間の均衡を越えた負担ないし苦悩をもたらすようになった場合に、これを中断することは倫理的に正当化され得る。(註7)

 患者さんが「先生は私の生の質を高めようとして下さっているのではなくて、私の寿命を一分でも延ばそうとしているだけだ」と思ってしまったとき、医療がその患者さんに提供できるものはもはや何もない、もしそうだとすれば、人間にとって医療とは何なのか、改めて問い直されねばならないでしょう。

 二重結果の原則  いずれにせよ、医療関係者が医療の限界をはっきりと認識したこの立場によれば、消極的な安楽死は認められるということになるかと思います。ここでよく使われるのが、カトリックなどが得意な論法なのですが、「二重結果の原則」(The principle of double effect)と言われるものです。これは医者は患者の痛みを取り去り、生の質を高めることを意図して鎮痛剤を与える、そのsub-effect (副作用・副次的な結果)として患者さんが亡くなってしまう、その場合、積極的に安楽死をもたらそうとする医者は最初から(言葉は悪いですが)殺すことを意図して薬を与えるわけですが、それに対して前者の医者は、少しでも生の質を高めるという意図のもとに薬を与え、たまたまその結果として亡くなってしまった、その場合、その結果の責任は問われない、という論法です。

 しかし、それはすぐ考えればお分かりのように、医者がどんなことを意図していたかということはなかなか分からないし、しかも患者さんは既に亡くなってしまっているわけです。積極的安楽死と消極的安楽死といっても現象面だけ見ていれば医者以外には計り知れない面が出てきて、非常に曖昧なグレーゾーンを残してしまうことになります。そこで、例えばピーター・シンガーなどという倫理学者のように、このような灰色の、医者にある程度安楽死させる権利を認めさせるような曖昧な言い方に対し、もっとはっきりさせよう、つまり、結果だけを見ようという提案をしている倫理学者もいます(註8) 。それは、ある意味ではアメリカの医療場面の典型かもしれません。つまり、医者が責任を持つのはあくまでも医療結果である。では患者が例えばある治療によって亡くなってしまった場合、医者はどのようにして自分の責任ではないと言えるのかと言えば、患者さんがそれを望んだのだ、すなわち患者の自己決定で患者が死を望んだのだ、と主張すること、これが医者にとっての免罪符になるわけです。ですから、二重結果の原則であくまでも医者の責任は患者さんの生活の質を高める意図のうちにあるのだという立場と、あくまでも結果の責任であって生と死の選び取りは自己責任・自己決定であるという立場がぶつかるわけです。そしてここで今度は自己決定──自分の体は自分のものだから自分で勝手に扱える──という考え方が問題になるわけです。

 自己所有  私の身体は私のものであるかどうか、こんなことは従来は問題にならなかったと思います。しかし、現在の例えば臓器移植やそれの過激な発展形態としての臓器売買──私の身体は私のものだからそれを売って豊かな生活を得て何が悪いのかという主張──に対して倫理学はいかなる応答ができるのかといった問題をもはや避けて通ることはできません。ただ、この問題も他の論題と同様、この短い時間内で展開するには余りに深く広い問題ですので、一応、ここでは自己所有の思想史上の根拠ということで、ロックの言葉を挙げるに留めておきます。

たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかし人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の動きは、まさしく彼のものであると言ってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。(J. ロック『市民政府論』(鵜飼信成訳)、岩波文庫、1968年(原典1689年))

彼の言いたいことは、地球上の全てのものは神によって創造された、つまり万物は神のものだ、そうすると人間にとって唯一自分のものは何かといえば、それは私の身体である。そして私の身体が労働によって勝ち得たものは私のものだ。つまり、まず身体が私のもの、そしてその身体によって田を耕したとすればそれによって得られた物つまり収穫物は自分のものになる、という考え方です。この点ではカントも異口同音に「肉体は私のものである」と言っています (註9)。つまり、近代ヨーロッパの基本的な考え方は、自分の身体は最も私有され得るものである、私にとって最も自己所有できるものは自分の身体だ、と言ってよいかと思います。しかし、この考え方が現在大きく問い直され、激しく揺らいでいるのです (註10)。

(ii)社会政策的な場面
 さて続いては、二番目の領域である社会政策的場面を、功利主義、そして功利主義を批判するジョン・ロールズ、さらにはロールズを継承しながらも批判的スタンスを堅持するアマルティア・センという三段階で見ていきます。

 功利主義 vs ロールズ  ご存知のように最大多数の最大幸福というスローガンにもありますように、個人の欲望の充足・主観的な満足という結果を集めて、その集計量としての豊かさ(幸福の量)を増加させるというのが、(非常におおざっぱな言い方ですが)功利主義の考え方です。そしてその集計量としての豊かさが最も高いレベルで実現されている社会が良い社会である、つまり、社会評価の基準というのが欲望の充足・主観的な満足といったユーティリティ(効用)というものに一元化される思想です。それに対してロールズは「正義論」の中で、「社会正義」というのは功利主義だけではカバーできないと批判します。「社会正義」というのは非常におおざっぱな言い方をしますとたとえどんなに集計量としての豊かさがあっても、だからといってそれがまともな社会であるとは限らないということです。では、社会の「まともさ」とは一体何かということで、ロールズが説を立てるわけです。

 一応、功利主義に対するセンの批判もここで触れておきますと、全員が幸福になるといった考え方は、全員一致の原則、パレート原則とかパレート選好を実現しようとすると、そこに個人のミニマムな自由や個人の土地とか領分といった権利領域への侵害がどこかで必ず起こってきます。そして必ずどこかで誰かが、全体のためなのですからという口実で、例えば日本人がみんな飛行機で自由に旅ができるよう空港が必要なんです、だから我慢して下さいといったような形で、泣き寝入りしなければならないわけです。これをセンは「リベラル・パラドックス」と呼び、全員一致のパレート原則と自由というものが、言い換えれば、民主主義と自由主義が必ずしも両立しない場面があるということを示しました。そして、後で触れますが、セン自身はどちらを優先するかといったら民主主義つまり全員一致の法則ではなく、自由を優先させるという方向をとります。それはともかくとして、功利主義に対してロールズは、単に全体としての豊かさ、幸福というより、社会のまともさ、公正さという形で福祉政策を考えようとしたわけです。

 全メンバーが同等の自由を享受できることを条件として、個人の自由の優先性を保証してくれるような社会。つまり彼の目は効用の分配にではなく、「基本財」(人々が個々それぞれの目標を自由に追求するのを助けてくれる手段、たとえば所得、富、自由など)の分配状態に向けられます。つまり、ロールズは結果としての全体の効用ではなく、基本的な財が万人に公平に分配されることを目指します。しかし彼の言う自由とは、あくまでその基本財の一つであるわけですから、そうした自由概念には手段としての自由の面が強く出てきます。つまりそのような基本財を個々人が目標を達成しようとする自由度へと変換する場合に、例えばある所得(としての基本財)があったからといってその所得をどのような形で自分が使っていくかというのは、当然、人それぞれ多様です。そうすると基本財を平等に分配したからといって、必ずしも各人の自由の水準に不平等が生じないとは限らないわけです。簡単な話、同じ量の所得が与えられたからと言って、非常に健康な肉体を持っている人と障害を持っている人、しかもその障害を持っている人が町に出ていくことができないような劣悪な環境にあるとき、その所得は同じように自由に使えるものとはならないわけです。かくして、手段としての基本的財の分配ではなく、その基本的財をいかに自由に扱い得るかという方向へと目を転じようとしたのが次に紹介していくアマルティア・センです。

 アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチ  個人が保有する基本財や資源に注目するのではなく、多様な人間的機能(human functionings)から成るところの、人々によって選択可能な現実の生活に焦点をしぼる、つまり基本的財および資源からケイパビリティへ、これがセンの基本的な戦略です。このケイパビリティという言葉は「潜在能力」と訳されたりしますが、東北大学の川本隆史先生は「生き方の幅」と訳され、また先々月、大江健三郎とアマルティア・センの往復書簡が朝日新聞に載りましたが(註11) 、大江健三郎氏はさすが小説家ですので、ケイパビリティを「伸びる素質」と訳されていました。後に申しますが、ケイパビリティには二つの側面がありますので、訳語問題の決着はしばらく保留しておきますが、少なくともセンがやろうとしていることは、目的としての自由という考え方です。ここでひとまず、彼の著作からケイパビリティの定義にあたるようなものをいくつか抜き書きしてみましょう。

 1980年に発表された論文「何の平等か?」 (註12)では、「基本的なケイパビリティ(basic capabilities)の平等」が主張されています。それはどういうものかと言いますと、ロールズが挙げるような基本的財や資源、つまり人がとりあえず何不自由なく暮らせるための手段の平等でもなく、効用つまり結果として感じる満足の度合いの平等でもなく、基本的な生活条件を達成できること(行きたいところに移動できる能力、衣服を身にまとい雨風をしのぐための手段を入手する資力、共同体の社会生活に張りをもって参加できる権能など)の平等すなわち基本的なケイパビリティの平等をこそ目指すべきだ、という主張です。

 また1985年の『福祉の経済学』(註13) では、どれだけの財貨を持っているかでもなく、どれだけの効用を感じているかでもなく、その人が発揮できる機能ないし生き方の集合という意味でのケイパビリティでもって当人の福祉を評価するという、いわゆるケイパビリティ・アプローチが提示されました。

 そしてもっとも最近の一般向けの著書において以下のように纏められています。ちょっと長くなりますが、そのまま引用してみます。

 個人の福祉は、その人の生活の質、いわば「生活の良さ」として見ることができる。生活とは、相互に関連した「機能」(ある状態になったり、何かをすること)の集合からなっていると見なすことができる。……ここで主張したいことは、人の存在はこのような機能によって構成されており、人の福祉の評価はこれらの構成要素を評価する形をとるべきだということである。
 機能の観念と密接に関連しているのが、ケイパビリティである。これは、人が行うことのできる様々な機能の組み合せを表している。従って、ケイパビリティは「様々なタイプの生活を送る」という個人の自由を反映した機能のベクトルの集合として表すことができる。(註14)

要するに一言でまとめるなら、いろいろな財・資源といったものを自分がどのように自由に活用できるかというその自由度の幅、それがケイパビリティだと言えるかと思います。

 しかし、このケイパビリティに関しては二つの面があります。一つは現にある社会が各個人のケイパビリティをどの程度高めているかという現実評価の尺度としての働きです。つまり、社会がどのような形でケイパビリティを生み出したか、ケイパビリティを社会のproductと見る立場です。従ってそのような場合は価値尺度としての事実概念となります。それに対してもう一つの意味合いは、個人の自由というものが社会に対して何らか評価を下す際に中心的な項目となる価値である、という面に見出されます。例えばもしこのように自分が自由にケイパビリティを高められるような社会であるならば、そうした社会こそが良い社会だという形で、現実の評価というよりも、かくあるべしという規範的な意味合いをもってケイパビリティを語る場面がそうです。ですから、ケイパビリティの訳語として、事実性よりも可能性を優先させた「潜在能力」という訳語の場合、その規範的意味合いのほうが強く出てくるのですが、そのかわり事実の尺度として、あるいは社会のproduct としての意味合いはすこし薄れてきます。「生き方の幅」という訳語はそういう意味ではそちらのほうも組み入れた、なかなかこなれた言い方だと思います。いずれにせよ、個人の自由をあくまで社会的コミットメントの一つと考えるセンの自由観から私たちが学ぶべき点は多いと思います。

 ただ、センの考えにまるっきり問題がないわけではありません。たとえば、センの立場というのは一体、普遍主義なのか特殊主義なのか。つまり、それぞれの社会にはそれぞれのケイパビリティの高め方があるわけです。多様性があります。その意味では文化多元主義であると言えます。しかし(人間性といったものをある程度前提して)人間は、これこれのところまではケイパビリティを高めなければもはや人間とは言えない、例えば人間が圧制下で移動する自由すらも失われているとき、移動する自由というのはケイパビリティの一つです。社会的にまったく無視されている、これはケイパビリティが認められていないということです。つまり、センは一方でローカリティーを重視しながら他方で普遍的な人間性といったものをどこかで想定しているような気がします。そうしますと、普遍主義と特殊主義というのはセンにおいてどこで折り合いが付くのか、これはセンに限らず、現在の社会情勢の中で普遍主義と多元主義の問題、相対主義的な方向なのかあるいはどこかで尺度をもうけるのか、この問題は残ると思います。

(iii)地球環境問題
 地球環境問題について簡単に申しますと、「自然環境の保護を究極の目的とする思想、とりわけその基底部を構成する環境倫理学こそが、今日、自由主義に対する最も困難なライバル」(註15) としてその勢力を日増しに伸ばしつつつあるという点に注目すべきだと思います。自由主義というものを極めて乱暴に定義すれば、他人に危害を加えない限り何をやっても構わない、何をするのも自由だ、となりますが、その「他人に危害を加えない限り」という条件が、地球自然環境という有限な空間内ではもはやクリアできない、という自覚が環境倫理というものの根本的な発想としてあります。誰にも迷惑がかかんないんだから、何やっても私の勝手でしょ、というわけで、バカでかくて高排気量のアメリカ車を一人で乗り回している人は、たとえ自覚していなくても、有限な地球環境の中では、不特定多数の人に危害を加えつつあるんだという、そういう共通の意識が環境倫理の台頭によって私たちにも芽生えてきたのではないでしょうか。

 となると、限りあるこの自然環境を皆が平等に享受できる自由を守るためには、つまり地球上の皆が平等に自由であるためには、やむを得ず或る人々には少し我慢してもらう、つまり、不自由をしのんでもらうといった形で、どこかで対立が生じてきます。これは社会政策的には、自由主義的な生き方をとるか社会主義的な生き方をとるか、という二者択一の構図として、従来は世界にそうした二元的対立の構造をもたらしました。ところが社会主義国の雪崩のような自由主義化によって、自由というものの優位が今現在、動かし難いものとなってきたわけです。こうやって我が世の春を謳歌してきた自由主義社会にとって、環境の問題というのは、今述べたような限りある自然環境を平等に享受する自由といった点で、非常に逆説的ですが、ある意味では人々の自由を阻むものとしてにわかに立ちはだかり始めた、そう言っていいと思います(註16) 。つまり、どう自由と環境の問題を折り合わせるか、しかもそれは私たちが今住んでいるこの世界の人間に限らず未来の世代への責任、これはもう詳しく触れることができませんが、ハンス・ヨナス(註17) の提出している考えです、その未来世代への責任を現在世代の我々の自由とどう折り合わせるか。それは通時的に未来世代というだけでなく共時的には人間以外の生命体にまで責任をもたらす、こういったことに対してどう対応していけばよいかといった問題が次々に立ち現れてきている、というのがとりあえず環境面での倫理的現状かと思います。

(iv)経済および情報の場面
 私に許された時間も残りわずかですので、経済の場面つまり経済倫理学や情報分野の問題については、項目を一つずつ挙げるに留めます。

 経済倫理に関しては、企業の責任はどこまで及ぶか、という問題が重要かと思います。そもそも、企業の責任は、その企業活動の結果としてもたらされる株主の利益に関わるものなのか、あるいは企業活動の結果としてもたらされる購買者、受益者の利益なのか、あるいは、さらに表層的には直接その企業活動と関わりをもたないその地域社会・共同体全体にまでその責任は及ぶのか、そう問われた場合、現在、我々の倫理的コンセンサスは、地域社会・共同体にまで当然及ぶ、というところまで既に来ていると思います。なぜなら、受益者にとっての利益とは、決して一元化されず、むしろケイパビリティーの向上として捉えられる限り、環境世界や社会環境もその要素として組み入れられねばならないからです。

 情報分野に関しては、情報は誰のものか、という論点が、社会の急速な情報ネットワーク化に伴って緊急の課題として浮上してきています。ネットワーク内での情報公開の必要性と個人情報、個人のプライバシーの関係を見ても、社会のネットワーク化が個人のプライバシーにとってまったく新しい脅威として立ち現れていることを顕著に示しています。またそれに伴い、情報の所有をめぐる問題(著作権)も、従来の権利概念を根本から覆しかねない新たな火種となっています。さらに蛇足ながら、携帯なしではほとんど生きていけない今の若い人たちの携帯症候群を見るにつけ、私秘的空間の無際限な肥大化と公共空間の消滅という情報ネットワーク社会に潜む陥穽を危惧せずにいられません。

III. 問題群の摘出とそこからの再出発に向けて

 以上、駆け足で見てまいりましたが、共通して言えることは、旧来の倫理学では対処しきれない、もちろんそれは量的にではなく質的に、従来の倫理学がまったく使いものにならないような、まったく新しいタイプの倫理的問題が、現在、我々の生活圏に山積している、という事実です。しかし、だからといって、人類が過去から継承し続けてきた倫理的・哲学的な智恵を、その即効性の面からだけ判断して捨て去るのは、あまりに浅慮、短絡と申せましょう。では、我々は一体どのようにして、この困難な時代に立ち向かえばよいのでしょうか。残念ながら答えはありません。自分たちが解決し立ち向かうべき問題をしっかり見定め、そこからの再出発を日々新たに開始し続けていくしか途はないのではないでしょうか。

 その意味で、最後に、今まで羅列してきました諸状況から思いつくまま三つほど問題を摘出し、新たな再出発のジャンピングボードとしてご活用いただければ、と思います。まず一つ目ですが、それはこういったことです。今仮に、先ほど申しました自由と平等のジレンマという問題はまだ解決されていないのか、それともそれは疑似問題だったのか?という問いを立てたとしましょう。アマルティア・センはきっと、それは疑似問題であったと応えるはずです。なぜなら、平等の一つの項目として自由がある;だからその二つは二者択一的に選択されるべき別個のものではなく、そうした「平等としての自由」という考え方によって統合されることが可能である、そういう考えを彼は提示しているからです。しかし、そのセンに対してここで問題が出てくると思います。平等な自由を目的とするケイパビリティ・アプローチの射程の中に果たして未来世代、及び人間以外の生命体といったものが入って来るのかどうか、という問題です。現在の環境をケイパビリティの一つとして数えることは、確かに現在の環境問題へのアプローチにはなると思います。しかし、未来世代への責任と現在の地球市民としてのケイパビリティの増加とは果たして両立するのかどうか、そこにどうしても大きな問題が残ります。

 それから二番目の問題は、応用倫理学と伝統的な倫理学・哲学との関係に関するものです。今まで見てきた応用倫理的なものは、個別領域というものには基本的には絶対的な価値は存在しない、あくまでもその現場現場で相対的な解決法を見出していくといった立場でした。しかし、それに対して、例えばハンス・ヨナスの思想に共鳴する人たちなどがそうですが、普遍的な価値、客観的な尺度といったものを人間は果たして本当に失ってしまったのかどうか、その問いを改めて問い直さねばならない、そう主張する思想家たちが一方にいます。彼らは例えば、そもそも人間は何のために生きるのかという目的論の問題を今でも有効な問題設定として掲げます。ローカリティーに立つということは確かですが、しかしそれらをひっくるめて「人間性」という普遍性は果たしてないのか、そして形而上学は神と共に滅びてしまったのか、こういった問題提起は今もってなされている、否むしろ今こそ激しく求められているともいえます。そして三番目、自己決定・自己所有の源泉の問題ですけれども、これに関しては、少なくとも「私の身体は必ずしも私のものとは限らない」という方向を理論化していく作業が求められるべきだ、としか今のところ私には言えません。

 最後に、センやヨナスに共通する意識から私たちは再出発する必要があるというのが私の見通しですけれども、それは、現在(および未来において)、悲惨な状態にある者・無力で私たちの保護を必要とするもの、それが誰であれ何であれ無条件に共感と責任を感じる心、そういった世界に自分が帰属しているという意識、そういったものをまず我々が持つことへの要請に繋がると思います。そのためには何が必要かといえば、それは教育である、そしてその教育のために何が必要であるかといえば、例えば現在文字を読めない、つまり識字率が100%でない国というのはたくさんあるわけです。センはノーベル賞の賞金をインドの識字率向上のための資金にしています。つまり、そういった教育をすることによって、ある意味では確かにそこにあるはずなのに未だ言葉を与えられていない何か、それは価値であり自由でありケイパビリティーであるわけですが、そういったもののためにふさわしい言葉を自ら探し出す各自の能力をつけていく。誰も聞き耳をたてなかった声にならない声を聴いていく(これは大阪大学の鷲田清一先生、中岡成文先生らが始められた「臨床哲学」の基本的コンセプトでもあります)。そして最近出た本で『弱くある自由へ』(註18) という本がありましたが、そのタイトルに象徴的なように、もろく壊れやすい者たちが自らの存在に後ろめたさを感じることなく、最終的にはただここにいることにさえ人々から尊敬を受けるような、そしてその死が孤独で無意味なものでなく人々の魂を共振・共鳴させることができる、そんな社会を創り出す努力こそがいま改めて21世紀に際して求められているのではないか。このような提言というよりはむしろ祈りに近い言葉で、私の拙い話を締め括ることにいたします。

  
<註>
(註1)本稿は、第18回中央大学学術シンポジウム「現代社会における倫理の諸相」(2000年12月5日)においてなされた同一標題の提題発表の録音テープから起こしたものである。より詳細な加筆修正がなされるべきところであるが、このシンポジウムを踏まえた研究叢書が2002年に刊行され、私もそこに論点を絞り込んだより専門的な論考を寄せる予定であるので、問題状況を極めて一般的に綜観した当日の提題をある程度忠実に再現することにもそれ相応の意義が認められるように思う。ただし、必要最低限の註と補筆は加えておいた。

(註2)「尼崎公害訴訟」とは、地元住民が国と阪神高速道路公団および公害企業9社を相手取って1988年に提訴した大気汚染訴訟のこと。1999年2月17日に企業9社と和解成立、さらに2000年1月31日、神戸地裁による差し止め判決による原告側の歴史的勝利にもかかわらず、国・公団側の控訴によって「今世紀中の解決」が危ぶまれていたが、2000年12月1日に和解合意が成立、8日に大阪高裁で合意文書を交わし、正式に和解が成立したもの。大気汚染訴訟に関するだけでも、「西淀川公害訴訟」(98年7月)、「川崎公害訴訟」(99年5月)、それに今回と、国が相次いで和解に応じた裏には、ローカルな公害問題はなんとか今世紀中に解決を、という動きがあったことは否めない。

(註3)この点に関して、子安宣邦「近代「倫理」概念の成立とその行方」(『思想』912号、岩波書店、2000年)が極めて見通しよく、しかも勝れて問題喚起的である。子安の問題提起に対しては、すぐさま川本隆史「倫理学の隘路と突破口──予備的な覚え書き──」(『思索』第33号、東北大学哲学研究会、2000年)が「大文字の「倫理学」をめぐって繰り広げられた近代日本の倫理学のドラマを、どこでどう乗り越えていけばいいのか」という問題意識に共感を示しつつ応答している。

(註4)藤田省三「大正デモクラシー精神の一側面──近代日本思想史における普遍者の形成とその崩壊」『藤田省三著作集』4、みすず書房、1997年、78頁(初出は1959年)。

(註5)この点に関して、金森修「健康という名の規範」『科学哲学』第32巻第2号、1999年から多くを学んだ。

(註6)WHO, Cancer pain relief and palliative care (WHO Technical Report Series 804), 1990 : 8.1;世界保健機関編(武田訳)『がんの痛みからの解放とパリアティブ・ケア』、金原出版、1993年。 

(註7)Ibid. 8.2.

(註8)ピーター・シンガー『生と死の倫理』(樫則章訳)、昭和堂、1998年、第9章。

(註9)I・カント「『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き」(尾渡達雄訳)『カント全集16』、理想社、1966年(原典1764/65年)、309頁。

(註10)この問題に関しては、何はともあれ立岩真也『私的所有論』(勁草書房、1997年)が必読である。

(註11)大江健三郎「モラルの衰退との向き合い 「伸びる素質」もつ個人として」(大江健三郎氏からA・セン教授へ)、朝日新聞、2000年10月17日付夕刊。

(註12)アマルティア・セン『合理的な愚か者』(大庭健、川本隆史訳)、勁草書房、1982年所収。

(註13)アマルティア・セン『福祉の経済学』、岩波書店、1988年(原典1985年)。

(註14)アマルティア・セン『不平等の再検討 潜在能力と自由』(池本幸生、野上裕生、佐藤仁訳)、岩波書店、1999年(原典1992年)、59−60頁。なお、引用文中の「ケイパビリティ」はこの訳書においてはすべて「潜在能力」と訳されているが、ここでは前後の関係から敢えて「ケイパビリティ」という語に筆者が置き換えた。この点、訳者諸氏にお詫びし、御寛恕を請う次第である。

(註15)大澤真幸『「不気味なもの」の政治学』、新書館、2000年、160頁。

(註16)環境倫理が、「かつて社会主義が占めていた座の空隙を埋めるような形態で、われわれの前に現れた」ということの指摘は、まず米本昌平『地球環境問題とは何か』(岩波書店、1994年)によってなされ、それを前注の大澤が引き継ぐ形でさらに展開している。

(註17)ハンス・ヨナス『責任という原理』(加藤尚武監訳)、東信堂、2000年。

(註18)立岩真也『弱くある自由へ』、青土社、2000年。

Copyright : Shigeki Tsuchihashi 2001