知識と言葉

〜飛び出す知識とユビキタス〜

00E4244038k 長谷川優太

 

はじめに

 IT社会と呼ばれる高度情報化社会へ突入した現代、知識獲得の幅は無限の広がりを見せている。本論では、知識とは何かを、人間を人間たらしめる「言葉」からみた視線で説き明かし、これからの高度情報化社会の中での知識とのつき合い方を考えてみたいと思う。

 

 

1.知識と言葉

 

 −知識とは?−

 私たち人間は日々の活動の中、外界から様々な「刺激」を受けている。目に入った映像や光、耳に入った音、匂い、物を食べた味、触った感触などがそうであるが、感覚器官から入力されたこれらの刺激は脳に伝達され、主に本能的に不快な状態を嫌ったり、危険を回避するといった行動を無意識にとらせたりする。これは単純に本能であり反応でしかない。しかし繰り返し入力される同じ刺激は常に同じレベルの反応を起こさせない。一度、ある刺激が不快だったり危険だったりするものでないとわかると、その刺激は回避行動を引き起こさなくなるのである。さらに、その刺激は自分にとってどんなものであるか分析され、次に同じ刺激が入力されたときにどのように行動すべきかという属性情報と共に記憶される。この「行動」には、その刺激に関連する情報や記憶を自分の中だけで喚起するということも含まれる。これを、私たちは「知識」と呼んでいる。

 例えば、ふとある時「チュンチュン」という音の刺激が入力されたとすると、刺激を受け取った脳は記憶を探り始め、もし同じ刺激を受けた記憶にヒットすれば、「これは雀という鳥の鳴き声である」という情報を引き出すことができる。さらに、雀を見たことがあればその「姿」、雀をよく見かける「電線」、雀が鳴く「朝」といった関連情報まで引き出されるのである。

 また、ごく簡単なレベルの知識であれば、動物でも持っている。犬は飼い主の姿や匂い、声などの刺激に対して「よく世話をしてくれる人」というポジティブな感情をともなう記憶を引き起こしたり、物干し竿の音という刺激に対して「上から落ちてくる怖い物」というネガティブな感情をともなう記憶を引き起こしたりする。さらにより本能に近い知識活動の例では、親の狩りを見て体験し、食糧を得る方法を学ぶ肉食動物が挙げられる。人間の知識も、原初の時代はこのレベルだったのかもしれない。

 

 −言葉の登場−

 しかし、この程度の知識活動では不自由な点が2つある。

 ひとつは、知識が自分のためだけのものであることである。人間も動物も、大半は同種の仲間との関わりを持ちながら活動をおこなっている。しかし、その中の一個体だけが特別にある知識を持っているという状況はあまり好ましくない。例えばある動物種に対して新たな脅威(天敵など)が身近に現れたことを一個体が知った場合、その敵に関する知識をその外に出すことができないと、仲間に警戒を呼びかける際具体的な情報が与えられず、他の仲間はその敵を見るまで曖昧な危機感を持つことしかできない。結果的に危機が迫る寸前まで統制された行動がとれず、危険な状況にさらされることが多くなってしまう。

 もうひとつは、知識が失われるおそれがあることである。主に人間が、さまざまな知識を得ていく一方、新しい記憶をインプットするために古い記憶を忘れるという本能を持っているため、最後に同じ刺激を受けて得た知識が古くなってくると、活性化しづらくなり、最悪引き出されなくなる。さらに、一人一人が何も残さず死んでいくと、古い情報はどんどん消えてゆき、人間の知識はいつまで経っても進化することができなくなる。

 しかしながら、知能の発達した人間は、これを乗り越える手段を手に入れることができた。それが「言葉」である。言葉は知識の共有を可能にする。

 

 −言葉の進化−

 人間はその独特の進化により両手と両足が別々の役割を持つことができるようになり、実に様々な行動・行為をおこなえるようになった。様々な種類の行為を使いこなせるようになるということは、その行為の真似をする様を見たとき、それが何を意味するのか特定しやすくなるということである。すなわち、ジェスチャーによる効果的な知識の伝達が可能になるということである。多様なジェスチャーと、柔軟に動く口から発せられる多様な種類の声の組み合わせで、近くにいる仲間に限れば、ほぼ間違いなく意思を伝えることができる。メッセージの読み手がそれを解釈できるのならば、それは言葉のひとつと考えて良いだろう。

 しかしこのレベルの言葉では、発信者への注視が不可欠であり、また複雑な内容の知識の共有ができない。そこで、人間が発することのできる声のパターンを一定のルールを設けて定義し、ひとつ単語を言えば、その音の意味するものを明確に伝えられるようにした。それが今日で定義されている言葉というものである。「あの甲山という山の麓は、狼がたくさん棲んでいるので人間が住むのに適さない」「この乙茸というキノコは毒があるので食べられない」という知識を明確な意味を持つ言葉として容易に伝えられれば、不用意に甲山に近付く者も、乙茸に手を伸ばす者も確実に減り、人々はより安全な暮らしを手に入れることができるようになるのである。

 さらにそれが発展し、言葉を記号や文字で記すようになると、時間的・場所的に離れた相手との知識の共有が可能になり、それまでとは比べものにならないほど膨大な量の知識をもつことができるようになり、やがて文明と呼ばれるものをつくり上げるに至るのである。

 

 

2.ナレッジマネージメント

 

 −形式知と暗黙知−

 知識は、その形態により形式知暗黙知に分けられることがある。

 形式知は知識を外に伝えるために何らかの形で具体的に形式化された知識のことである。書物は書き手の知識をひとつのストーリー仕立てにまとめた、もっとも一般的な形式知のひとつと言えるだろう。書物にはたくさんの言葉が書き記され、時間と空間を越えた相手に体系的に知識を伝えるのに大きな役割を果たしている。

 しかし形式知は、受け手側がそれを観たり聴いたりしただけではその役割を果たさない。書物では、そこに書かれている言葉の意味を理解することではじめて知識が伝わったことになる。言葉が持つ意味、それはすなわちメッセージの送り手が伝えようとしている知識そのものである。それが暗黙知と呼ばれるものである。受け手がその言葉を受け取り、誤解なく解釈し、送り手が持っているのとほぼ違いないニュアンスで知識として蓄えられたとき、知識の共有は完遂されたことになる。

 形式知・暗黙知という概念を用いて誤解なく知識の共有をはかろうとする知識活動、ナレッジマネージメントは、もともと企業の社員教育に使われた手法であり、マニュアルを形式知として、正しい企業活動の知識を暗黙知として社員に対しその共有をはかるものであった。しかし、その後この手法は他の分野でも活用できることが広く知られ、さまざまな場面で使われるようになった。

 

 −暗黙知と言葉−

 伝えようとする知識を書物のように形式知として表すとき、そこに言葉が使われるのはあえて述べるまでもない。では、暗黙知に関してはどうだろうか。

 一人の人間がその中に蓄えている知識は失われやすく、しかし文明がすすむとともに個人個人がもつ知識の量は膨大になっていったと上の方で述べた。そしてこの大きな役割を果たしたのは文字で表されるレベルの言葉であるとも書いた。言葉が使われるようになってから人々の間で知識の共有をはかることができるようになったというのがその説明であるが、これはただ形式知を発信する能力を得たということに留まらない。

 言葉は、一定のルールに従ってとりきめられている。基本的に一つの概念に対し、一つの言葉が割り当てられ、受け手がそれを受け取ったとき、その意味を理解できるというしくみを持っているが、はじめて入力された言葉の意味は当然理解できない。送り手はそれを理解させるために、別の言葉を駆使して説明するわけだが、これはつまり「受け手のもっている知識を表す言葉を呼び出して関連づけることで新しい知識として獲得する」ということになる。実はこの中に人が膨大な知識を蓄えることができるカラクリが隠されている。

 ひとつは、言葉として受け取った知識は言葉として蓄えられているということである。知識を、「言葉(インデックス)+概念(意味・付帯情報)」というセットで管理することにより、言葉そのものだけをすぐに取り出せる場所に置くという作業だけで知識を蓄えることができるのである。普段は言葉だけが羅列されている、すっきりした書庫から、インデックスのタブを引っこ抜くだけで内容が記された書類ごと釣り上げることができる、というスマートなメカニズムが構築できるのである。

 しかしこれだけではあまりに膨大な量の知識を蓄えるのは難しい。が、今私たちは固有名詞や非統制語も含めると国語辞典に記載されているよりはるかに多い数の言葉をそれぞれ知識として持っている。忘れることを本能にもつ人間が、これほどの知識を保有していられるのはなぜか。これがふたつめのカラクリであるが、それは、言葉を関連づけて記憶するからである。新しい言葉を知識として取り込むとき、別の関連した言葉による説明を要するわけだが、これはつまり「新しい知識が今呼び出された既に持っている知識に関連している」と、インプットの段階で新しい言葉の置き場所が決定されるということなのである。この言葉同士の関係は、同一または類似した意味だったり、逆の意味だったり、含んだり含まれたりなどさまざまであるが、こうしてそれぞれの言葉の相対的な位置を決めておくことで知識を体系的に管理することができるのである。もし記憶の欠落でひとつの知識が抜け落ちてもリカバリーしやすいという利点もある。

 以上のことから、伝えようとする知識だけでなく、一個体が持つ知識にも言葉が不可欠であるということがわかる。これは、伝えようとする知識を形式知化するときと、形式知を誤解なく解釈するとき、つまり暗黙知と形式知の変換に言葉が不可欠であることを意味し、暗黙知が言葉と密接な関係をもつことを示している。

 人々の間で共有された知識は、形式知と暗黙知の相互変換を繰り返し、各々の知識の蓄積をさらに膨大なものにし、そしてまた共有される…といった具合に、螺旋のように進化と蓄積を続けている。

 

 

3.IT社会と知識の共有

 

−IT社会の到来−

 知識の共有をはかるための手段は、人間が言葉を使うようになってから少しずつ進化を遂げてきた。石や土を削って文字を書くところから、木簡、紙切れ、書物と来て、大量印刷術の開発、流通の拡大を背景とした新聞の普及、近代の放送メディアの登場まで、言葉を表す方法とそれを広く伝える方法は、より多く、速く、広く、より効率的なものに変化していった。そしてブッシュのMEMEXから始まった高度な情報管理構想がコンピュータの登場により実現されるに至り、かつての知識活動をはるかに超越する情報社会――IT社会の時代へと突入するのである。

 ブッシュのMEMEX構想はエンゲルバートに引き継がれ、高価な計算機でしかなかったコンピュータを情報処理装置として利用することでその可能性を切り開いた。当時の目的であった、論文の蓄積と処理は間違いなく今のデータベースの原形であり、かつてない知識の共有の強力なツールとなる片鱗を見せていた。1971年に米国国立医学図書館が世界初のオンラインデータベース情報検索サービス「MEDLINE」を開始したのを皮切りに、その後のコンピュータの、使いやすいデバイスの開発と処理の高速化、低価格化を受けて、オンラインデータベースシステムは企業レベルまで広まっていった。そしてデータ通信技術とコンピュータの個人所有化がすすむと、パソコン通信を経て、とうとうインターネットの時代がやってくるのである。

 インターネットは世界中のサーバ上にある「言葉」をほとんど自由に、時間も手間もかけずに拾ってくることを可能にした。インターネット上のテキストは非線形構造であるハイパーテキストで著され、知識から知識へのリンクが容易になっている。これは人間が言葉を管理する知識構造とほぼ同じであり、欲しい知識だけを獲得するのに無駄がない。また、放送メディアのように情報が一方通行ではなく、個人個人がそれぞれ送り手となることができ、これは個人対世界のナレッジマネージメントを実現していると言ってもよいだろう。さらにここ最近のインターネットでは、文字だけではなく映像や音声による知識の表現が可能になり、誤解ない暗黙知の伝達が容易になっている。

 

 −ユビキタス社会とこれから−

 時代はコンピュータレスへと動いている。マイクロチップを使った携帯端末や情報家電の開発により、コンピュータの前にいなくても、それと同じレベルの時間・空間を越えた情報のやりとりが容易になるというのである。「いつでもどこにでも存在する神」と喩えてユビキタスと呼ばれているが、これは何を意味するのか。

 これまで人間は、自らが獲得した知識を言葉として何らかの形で表すことで他の人間と知識を共有してきたと既に述べた。こうして外界に生み出された言葉たちは自分の力でその空間的位置を動くことができない。書物に記された言葉は、書物自体が人のいるところまで運ばれなければ読まれることができないし、話し言葉は、送り手が受け手に対して投げつけてくれないと伝わることができないのである。しかしユビキタス社会においては、言葉の空間的位置は自由に等しい。言葉は私たちの手の届く距離にふわふわと漂い、人が動けば一緒についてくる。そのうちの一つを掴んで引っ張れば、世界中に繋がる見えない糸が新たな知識を呼び寄せてくれるのである。これは、無限の知識を得る「土台」の完成に限りなく近いものなのではないだろうか。

 しかし、問題もある。知識とは、必ずしもすべての人に有益ではない。自分以外の何かを負へと追いやるための知識は、悪意をもって活用すれば確実に対象を破滅へ導く。そんな悪魔のような「神」が、常に手の届くところに漂っているというのはどれくらい危険なことかは言うまでもない。また、このような社会は膨大なエネルギーの上に成り立っているという前提も忘れてはならない。電気エネルギーを無尽蔵に使えば地球そのものを破壊しかねないし、エネルギーがなければ知識活動が行えなくなってしまうほど頼りきりというのも考えものである。

 これらの問題から、これからの言葉や知識とのつき合い方について考えるべき点は見えてくるだろうと思う。人間が今まで蓄積してきたあらゆる知識を共有できる可能性が見えてきた今、改めて言葉の歴史を振り返ってみるのも良いだろう。

 

 原初の言葉――「対話」は知識だけを伝えていたのだろうか。

 

 

参考文献

「インターネットによるデジタル・ライブラリの構築」斉藤孝、日科技連、1997

「情報検索演習」渡部満彦ら、樹村房、1998

「魔法使いの森」http://www.wizforest.com/ 新保顕理






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