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manuscript - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2012-05-22 15:54

2012-05-15 Tue

#1114. 草仮名の連綿と墨継ぎ [punctuation][graphology][japanese][hiragana][katakana][writing][manuscript][syntagma_marking]

 [2012-05-13-1], [2012-05-14-1]の記事で,分かち書きについて考えた.英語など,アルファベットのみを利用する言語だけでなく,日本語でも仮名やローマ字のみで表記する場合には,句読法 (punctuation) の一種として分かち書きするのが普通である.これは,表音文字による表記の特徴から必然的に生じる要求だろう.おもしろいことに,日本語において漢字をもとに仮名が発達していた時代にも,分かち書きに緩やかに相当するものがあった.
 例えば,天平宝字6年(762年)ごろの正倉院仮名文書の甲文書では,先駆的な真仮名の使用例が見られる(佐藤,pp. 54--55).そこでは,墨継ぎ,改行,箇条書き形式,字間の区切りなど,仮名文を読みやすくする工夫が多く含まれているという.一方,真仮名(漢字)を草書化した草仮名の最初期の例は9世紀後半より見られるようになる.当初は字間の区切りの傾向が見られたが,時代と共に語句のまとまりを意識した「連綿」と呼ばれる続け書きへと移行していった.これは,統語的な単位を意識した書き方であり,syntagma marking を標示する手段だったと考えてよい.また,仮名文とはいっても,平仮名のみで書かれたものはほとんどなく,少数の漢字を交ぜて書くのが現実であり,現在と同じように読みにくさを回避する策が練られていたことにも注意したい.
 連綿と関連して発達したもう1つの syntagma marker に「墨継ぎ」がある.佐藤 (59) を参照しよう.

墨継ぎでは、筆のつけはじめは墨が濃く、次第に枯れて細く薄くなり、また墨をつけて書くと濃いところと薄いところが生じる。その濃淡の配置は大体において文節あるいは文に対応しているのである。連綿もあるまとまりをつけるものであるが、やはり、語あるいは文節に対応していることが多い。これらはある種の分かち書きの機能を果たしていると考えられる。


 ところで,字と字をつなげて書く習慣や連綿は,もっぱら平仮名書きに見られることに注目したい.一方で,片仮名と続け書きとは,現在でも相性が悪い.これは,片仮名が基本的には漢字とともに用いられる環境から発達してきたからである.片仮名は,発生当初から,現在のような漢字仮名交じり文として用いられており,昨日の記事[2012-05-14-1]で説明したように,字種の配列パターンにより文節区切りが容易に推知できた.したがって,syntagma marking のために連綿という手段に訴える必要が特になかったものと考えられる(佐藤, pp. 60--61).

 ・ 佐藤 武義 編著 『概説 日本語の歴史』 朝倉書店,1995年.

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2012-04-28 Sat

#1097. quotation marks [punctuation][ame_bre][writing][manuscript][printing]

 英語の引用符は,quotation marks, inverted commas, quotes, speech marks などと様々に呼ばれるが,その典型的な機能の1つは直接話法における発話部分の標示である.‘abc’ のような single quotation marks と,“abc” のような double quotation marks の2種類がある.印刷上(ディスプレイ上),開きと閉じの引用符の形態は異なるが,手書きやタイピングではそれぞれ 'abc' や "abc" などと同じ形態になる.
 一般に,アメリカ式では double quotations が普通であり,イギリス式では single quotations が普通であるとされ,引用符の中に含める引用符ではその分布が逆になるというように,英米差が認められるとされる.概ねこの傾向は認められるが,実際には印刷所によりばらつきはあるようだ.
 先日,ある授業で quotation marks の使用の英米差について触れたところ,なぜこの英米差が生じたかという質問があった.英米はしばしば互いに逆のことをするのでその1例だろうと軽く思っていたくらいで,歴史的に問うことを忘れており,盲点を突かれた感じだった.そこで,調べてみた.規範的な使用法の記述は,Quirk et al. (Section III. 21) や Fowler'sThe Chicago Manual of Style など,多くの参考図書で確認できるが,歴史的な発展の経緯については触れているものが少ない.その中で,McArthur (838) が手がかりを与えてくれた.

QUOTATION MARKS [1880s]. . . . Double marks are traditionally associated with American printing practice (as in the Chicago style) and single marks with British practice (as in the Oxford and Cambridge styles), but there is much variation in practice; double marks are more often found in British texts before the 1950s, and are usual in handwriting. Quotation marks are a relatively recent invention and were not common before the 19c. . . . Single quotation marks are tidier, less obtrusive, and less space-consuming than double marks, and for this reason are increasingly preferred in Britain and elsewhere in printing styles, especially in newspapers.


 また,Crystal (283) は,quotation marks について,中世からの発展の経路を略述している.

Derive from the use of a special sign (the diple) in the margin of manuscripts to draw attention to part of the text (such as a biblical quotation); printers represented the marks by raised and inverted commas, and eventually placed them within the line; came to indicate quotations and passages of direct speech (hence the alternative names); choice of single vs double quotes is variable; latter are more common in handwritten and typed material, and in US printing . . . .


 ここまで調べてわかったことは,quotation marks は,中世の写本で注を挿入するなどの種々の用途に用いられた "diple" と呼ばれる特殊記号から発達したものであり,どうやら近現代にかけて double quotation marks として固まりつつあったようだ.それは,手書きやタイピングで受け継がれ,主としてアメリカ式として定着した.一方,1950年代よりイギリスでは印刷上の都合で簡略版ともいえる single quotation が好まれるようになり,概ね定着した.
 diple から quotation marks への発展の経路を詳しく知りたいところだが,それには中世から近代の写本や手書き資料に当たる必要があるだろう.
 英語の punctuation (句読法)の歴史については,[2010-11-23-1]の記事「#575. 現代的な punctuation の歴史は500年ほど」を参照.

 ・ Quirk, Randolph, Sidney Greenbaum, Geoffrey Leech, and Jan Svartvik. A Comprehensive Grammar of the English Language. London: Longman, 1985.
 ・ Burchfield, Robert, ed. Fowler's Modern English Usage. Rev. 3rd ed. Oxford: OUP, 1998.
 ・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
 ・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.

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2012-03-14 Wed

#1052. 英語史研究の対象となる資料 (2) [methodology][manuscript][textual_transmission][runic]

 昨日の記事[2012-03-13-1]では,日本語史資料の種類を拠り所にして,英語史資料の種類を考えた.昨日参照した佐藤では,日本語史資料を,記録・伝承上の形式という観点からも分類している (17) .概ね英語史の資料にもあてはまる分類と思われるので,引用しよう.

 (1) 文字言語資料(文献資料)
  (ア)金石文       ─┬─ 口語的要素を投影する程度は文献
  (イ)書籍(文書・典籍) ─┘  の性格によってさまざまである.
 (2) 音声言語資料
  (ウ)方言
  (エ)謡物類(謡物・語り物など)
  (オ)録音資料


 (ア)は,英語史ではルーン文字等で刻まれた碑文などが相当するだろうか.The Ruthwell Cross (8世紀初頭;The Dream of the Rood の断片を記す)や The Franks Casket (ca. 650--700) などが有名である.量としては必ずしも多くないが,成立時のものが現存する一等資料が多く,貴重である.関連して,「#572. 現存する最古の英文」 ([2010-11-20-1]) を参照.
 (イ)は,従来の英語史資料の大部分を占めるが,中世の写本では筆記者自身による原本 (autograph) が伝存しているものは稀であり,言語研究の資料として用いるには,文献学,書誌学,本文批判の手続きを経るなど,細心の注意が必要である.関連して,「#681. 刊本でなく写本を参照すべき6つの理由」 ([2011-03-09-1]) ,「#682. ファクシミリでなく写本を参照すべき5つの理由」 ([2011-03-10-1]) ,「#730. 写本文化の textual transmission」 ([2011-04-27-1]) の記事を参照.
 現代の方言により過去の言語の姿を推定する(ウ)や,謡物に残る古語を拾い出す(エ)は,それぞれの保守性と伝承性を利用する方法だが,どの時代の言語を反映しているのかが必ずしも明らかでない場合があり,(イ)の補足として利用されるべき資料だろう.
 (オ)の録音資料は,録音機器が発明されて以降の時代に限られるが,発音資料としてのほか談話資料としても価値がある.

 ・ 佐藤 武義 編著 『概説 日本語の歴史』 朝倉書店,1995年.

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2011-05-11 Wed

#744. Auchinleck MS の重要性 [auchinleck][manuscript][romance][scribe]

 The Auchinleck Manuscript (National Library of Scotland Advocates' MS. 19.2.1) は,中世イングランドの語学,文学,写本,読書文化などを論じる際に最も重要な写本の1つといっていいだろう.今日は,この写本の重要性を何点か指摘したい.以下は,Pearsall and Cunningham のイントロ部の "LITERARY AND HISTORICAL SIGNIFICANCE OF THE MANUSCRIPT" (vii--xi) から要点を抜き出してノートしたものである.

 ・ 1330--40年という早い時期に作成されており,様々なジャンルのテキストを寄せ集めた写本としては,群を抜いて最初期のものである.
 ・ 納められているテキストの大多数が,各テキストの現存する最古のヴァージョンを提供している.例外は,nos. 4, 7, 8, 13, 19, 29, 34, 35, 40 のみである.
 ・ テキストのほとんどが英語で書かれている.例外は,no. 20 の Anglo-Norman の混交体と nos. 8, 10, 36 の Latin の挿入部のみである.Auchinleck MS 以前の編纂もの (Jesus College, Oxford, MS. 29; British Library Cotton Caligula A.ix; Trinity College, Cambridge, MS. 323; Bodleian Library Digby 2; Bodleian Library Digby 85; British Library Harley 2253) には,Anglo-Norman と Latin のテキストも普通に見られた.
 ・ 以前の編纂もの写本には,主として学者層を対象としたテキストが含まれていた,Auchinleck MS には世俗的で洗練されていないテキストが多く含まれており,新しいタイプの読者層の存在が浮かび上がってくる.
 ・ テキストのジャンルの幅が広い(全44テキスト).no. 21 以外はすべて韻文で書かれている.
  - saint's legends: nos. 1, 4, 5, 12
  - other types of religious narrative: nos. 3, 6, 8, 9, 13, 16, 29
  - religious debates: nos. 7, 34
  - homiletic and monitory pieces: nos. 10, 35, 39
  - poems of religious instruction: nos. 14, 15, 36
  - a chronicle: no. 40
  - a list of names of Norman barons: no. 21 (not in verse)
  - humorous tales: nos. 27, 28
  - poems of satire and complaint: nos. 20, 42, 44
  - romances: nos. 2, 11, 17, 18, 19, 22, 23, 24, 25, 26, 30, 31, 32, 33, 37, 38, 41, 43 (accounting for three-quarters of the bulk of MS)
 ・ 非ロマンスの26テキストのうち15テキストが,現存する唯一の写しである.
 ・ ロマンスの18テキストのうち8テキストが,現存する唯一の写しであり,9テキストが現存する最も古い写しである.残りの1テキスト (no. 19 = Floris ) のみが例外.
 ・ 対象読者層は "popular" とまではいかないが,"the aspirant middle-class citizen, perhaps a wealthy merchant" (viii) だったと想定される.
 ・ ロンドンの "bookshop" で,複数の写字生が共同作業で作り上げたと考えられる.共同作業は高度に洗練されていたわけではないが,ある程度は組織化されていた.
 ・ 6人の写字生が以下の分布で共同写本作りに貢献している.scribe 1 が全体の72%を担当している.
Gatherings Item nos. Texts Scribe
1--6 1--9 Religious poems (incl. King of Tars) 1
7--10 10 Speculum Gy de Warewyke 2
11--13 Religious poems (incl. Amis) 1
11--16 14--19 Miscellaneous 3
20 Sayings of the Four Philosophers 2
21 List of names of Norman barons 4
17(?)--25 22--23 Guy of Warwick and continuation 1
24 Reinbrun 5
26--36 25 Beues of Hamtoun 5
26--29 Arthour and Merlin plus 3 fillers 1
37 30--31 Lay le freine, Roland and Vernagu 1
38--[?] 32 Otuel (and other poems?) 6
[?]--41 33--36 Kyng Alisaunder plus 3 fillers 1
42--44 37--39 Tristrem and Orfeo plus 1 filler 1
45--47 40--42 Chronicle and Horn childe plus 1 filler 1
48--[?] 43 Richard 1
52 44 The Simonie 2

・ 主要な2人の写字生 scribe 1 (全体の72%を担当) と scribe 3 (11%) の言語が14世紀前半のロンドン方言を代表していることが知られている.同世紀後半以降にロンドン方言に基づく書き言葉が標準化していくが,Auchinleck MS はそれ以前のロンドン方言の実態を知る上で重要な証拠を提供している ([2010-02-27-1]).( scribes 2, 4, 5, 6 はそれぞれ全体の約4%, 1%, 10%, 2%を担当).
・ 写本内部の同一著者推定については,Kyng Alisaunder, Richard, The Seven Sages が同じロンドンの著者に帰せられる.同様に,OrfeoLay le freine もおそらく1人の著者によるものであり,St MargaretSt Katherine も同様とされる.
・ この写本はかつて Chaucer が所有していた可能性があるという興味深い説が Loomis によって唱えられている.

 このように,Auchinleck MS とそのテキストは尽きざる魅力を秘めている.Web上のリソースとしては,以下を参照.

 ・ The Auchinleck Manuscript : National Library of Scotland: 特に写本の重要性については,Importance of the Auchinleck Manuscript を参照.
 ・ Auchinleck MS Home Page: 電子化されたテキスト (transcription) へのリンクがこちらにあり.

 下に,The Auchinleck Manuscript : National Library of Scotland の各テキスト (eds. David Burnley and Alison Wiggins) へのリンクを張っておく.

  1. The Legend of Pope Gregory (ff.1r-6v)
  2. f.6Ar / f.6Av (thin stub)
  3. The King of Tars (ff.7ra-13vb)
  4. The Life of Adam and Eve (E ff.1ra-2vb; ff.14ra-16rb)
  5. Seynt Mergrete (ff.16rb-21ra)
  6. Seynt Katerine (ff.21ra-24vb)
  7. St Patrick's Purgatory (ff.25ra-31vb)
  8. þe Desputisoun Bitven þe Bodi and þe Soule (ff.31vb-35ra stub)
  9. The Harrowing of Hell (ff.?35rb-?37rb or 37va stub)
  10. The Clerk who would see the Virgin (ff.?37rb or 37va stub-38vb)
  11. Speculum Gy de Warewyke (ff.39ra-?48rb stub)
  12. Amis and Amiloun (ff.?48rb stub-?61va stub)
  13. The Life of St Mary Magdalene (ff.?61Ava stub-65vb)
  14. The Nativity and Early Life of Mary (ff.65vb-69va)
  15. On the Seven Deadly Sins (ff.70ra-72ra)
  16. The Paternoster (ff.72ra-?72rb or ?72va stub)
  17. The Assumption of the Blessed Virgin (?72rb or ?72va stub-78ra)
  18. Sir Degare (ff.78rb-?84rb stub)
  19. The Seven Sages of Rome (ff.?84rb stub-99vb)
  20. Gathering missing (c1400 lines of text)
  21. Floris and Blancheflour (ff.100ra-104vb)
  22. The Sayings of the Four Philosophers (ff.105ra-105rb)
  23. The Battle Abbey Roll (ff.105v-107r)
  24. f.107Ar / f.107Av (thin stub)
  25. Guy of Warwick (couplets) (ff.108ra-146vb)
  26. Guy of Warwick (stanzas) (ff.145vb-167rb)
  27. Reinbroun (ff.167rb-175vb)
  28. leaf missing.
  29. Sir Beues of Hamtoun (ff.176ra-201ra)
  30. Of Arthour & of Merlin (ff.201rb-256vb)
  31. þe Wenche þat Loved þe King (ff.256vb-256A thin stub)
  32. A Peniworþ of Witt (ff.256A stub-259rb)
  33. How Our Lady's Sauter was First Found (ff.259rb-260vb)
  34. Lay le Freine (ff.261ra-262A thin stub)
  35. Roland and Vernagu (ff.?262va stub-267vb)
  36. Otuel a Knight (ff.268ra-277vb)
  37. Many leaves lost, but some recovered as fragments.
  38. Kyng Alisaunder (L f.1ra-vb; S A.15 f.1ra-2vb; L f.2ra-vb; ff.278-9)
  39. The Thrush and the Nightingale (ff.279va-vb)
  40. The Sayings of St Bernard (f.280ra)
  41. Dauid þe King (ff.280rb-280vb)
  42. Sir Tristrem (ff.281ra-299A thin stub)
  43. Sir Orfeo (ff.299A stub-303ra)
  44. The Four Foes of Mankind (f.303rb-303vb)
  45. The Anonymous Short English Metrical Chronicle (ff.304ra-317rb)
  46. Horn Childe & Maiden Rimnild (ff.317va-323vb)
  47. leaf missing.
  48. Alphabetical Praise of Women (ff.324ra-325vb)
  49. King Richard (f.326; E f.3ra-vb; S R.4 f.1ra-2vb; E f.4ra-vb; f.327)
  50. Many leaves lost.
  51. þe Simonie (ff.328r-334v)

・ Pearsall, Derek and I. C. Cunningham, eds. The Auchinleck Manuscript: National Library of Scotland Advocates' MS. 19.2.1. London: Scholar P, 1979.

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2011-04-27 Wed

#730. 写本文化の textual transmission [textual_transmission][manuscript]

 英語に限らず印刷術が発明される前の中世のテキストは,手書きの写し (copying) によって伝達されていた.写しの写し (recopying) が数世代続くと,伝言ゲームのように原テキストからの差は開いてゆくのが普通である.しかし,たとえ一度の写しであっても,人間による手書きである以上,参照している原本 (exemplar) からの逸脱は避けられない.また,その逸脱が単純な写し誤り (scribal error) であることもあれば,より意図的な編集 (editing) や翻訳 (translation) に近いものであることもある.したがって,ある原テキストの書写によって生じた新テキストは,現代の印刷文化やコピー文化が当然とする厳密な写しではなく,ある程度の逸脱を必ず含む新ヴァージョンである.写本文化における textual transmission は,このような逸脱,可変性,流動性に特徴づけられている.Boffey (117) によると,この特徴は Zumthor により "mouvance" と呼ばれているところのものである.
 写しの際に逸脱が生み出されるメカニズムとしてもっとも理解しやすいのは,写字生 (scribe) による写し誤り (error) である.これには,文字を入れ替える,別の文字を書く,文字を書き落とす,行を間違える (eyeskip) などがある.現代の手書きやタイピングにも対応するものがあるので想像しやすいだろう.テキストをキーボードで打ち込む際に行を間違えるなど,日常茶飯事である.
 単純な写し誤りではなく,より意図的な種類の逸脱としては,より良い読みを与えられるとの判断でなされる語句の置き換えがある.また,対象となる読者や聴者を意識しての改変ということもあり得る.例えば,説教であれば,易しい口語体に置き換えるであるとか,レトリックのために語順を入れ替えたりするなどが考えられる.解釈の便のために注をつけたり,句読法を変えたりということもあり得る.古風な言語で書かれた原テキストを同時代風の言語にアップデートするという改変もあるだろう.さらに,写字生が原本の方言を自分の方言に「翻訳する」という場合もある.方言の「翻訳」は特に標準英語の存在しない中英語期にあってはごく普通に行なわれており,原テキストの言語のみならずテキストの趣を大きく変えてしまう可能性をはらんでいる.
 印刷文化は,最初から完成版で原稿を収め,その完成版をコピーして頒布することを前提としている.一方で,写本文化は,最初から最後まで完成版というものはなく,非完成版が別の改変された非完成版として次々に派生してゆくという過程を前提としていた.したがって,後者のテキスト伝達では,テキストは必然的に dynamic, flexible, unfixed だったのである.
 現存する中英語テキストの version を考える際には,上記のような,現代とは異なる写本文化の textual transmission の事情を念頭に置いておく必要がある.
 中英語ロマンスの発展も,写本文化の textual transmission を特徴づける "mouvance" に支えられていた.これについては,[2010-11-06-1]の記事「Romance」を参照.

 ・ Boffey, Julia. "From Manuscript to Modern Text." A Companion to Medieval English Literature and Culture: c.1350--c.1500. Ed. Peter Brown. Malden, MA: Blackwell, 2007. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2009. 107--22.

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2011-03-10 Thu

#682. ファクシミリでなく写本を参照すべき5つの理由 [manuscript]

 昨日の記事[2011-03-09-1]に引き続き「写本へ回帰せよ」の話題.昨日の記事で挙げた Lass and Laing (7--8) による写本回帰の6つめの理由のなかに,ファクシミリでも不十分な場合があるという指摘があった.この件に関しても,Lass and Laing (9--10) が転写の現場から具体的に論じているので紹介しよう.5つの点を挙げている.

 (1) 読み取りにくい文字でも別の角度から眺めることによって判読性の高まることがある.実物写本を前にしていれば別の角度から眺めることができるが,1つの角度から撮影された写真ではその手段は使えない.
 (2) 多くのファクシミリは白黒だが,写本では色つき文字も少なくない.文字の色の変化は訂正箇所や写字生の交替を明らかにしてくれることがあるが,白黒では区別がつかないことがあり得る.
 (3) 後世の製本作業などにより,写本が開きにくかったり,テキストの端が切り落とされたりする場合,写真では影になってしまい判読性が著しく減じる.
 (4) 写本が損傷している場合,写真ではその損傷が拡大して表現されることが多い.
 (5) 暗い写真やピントの合っていない写真もある.

 実に現場らしい具体的な指摘でおもしろい.私自身のごく浅い経験から言っても,実物写本を参照する意味は大きい.写本の物理的形状や字形 ( figura ) の記述を文章で解説されてもよく分からないが,写本を見れば言わんとしていることが一目瞭然ということがある.写真では句読点のように見えても,写本でみたら物理的な小さな穴だったということもある.また,編者が判読しにくいと記述している字形を写本で参照してみたら,実は判読しにくくなかったということもあった.
 一方で,Lass and Laing (9) は,写真のほうが判読しやすい場合もあるということは述べている.スタジアム観戦よりもテレビ観戦のほうが試合の状況がよく分かる,ということに似ているかもしれない.

 ・ Lass, Roger and Margaret Laing. "Overview." Chapter 3 of "A Linguistic Atlas of Early Middle English: Introduction.'' Available online at http://www.lel.ed.ac.uk/ihd/laeme1/pdf/Introchap3.pdf .

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2011-03-09 Wed

#681. 刊本でなく写本を参照すべき6つの理由 [manuscript]

 中世英語の言語研究では,しばしば「写本へ回帰せよ」が唱えられる.刊本を利用する場合でも写本に最大限に忠実な「 diplomatic edition を参照せよ」と言われる ( diplomatic の語源については[2011-02-07-1]を参照).EETSシリーズを初めとする歴史英語テキストのエディションの多くは,そのテキストと言語に精通した文献学者による校訂を経て刊行されたものであり一般的には信頼性が高いと考えられるが,それでも言語研究には写本テキストの参照が基本とされる.
 私自身は部分的に写本を参照することはあっても,写本に基づく研究をしたといえるほどの経験はなく,写本回帰と聞くと耳が痛いのだが,刊本でなく写本を参照すべき理由は何だろうか.様々な理由があるだろうが,写本から刊本へと書き起こしている ( transcribe ) 現場から上がってくる声が最も参考になるだろう.そこで,LAEME の書き起こし作業の現場から上がってきた声を聞いてみることにする.LAEME は初期中英語の写本テキストをできる限り忠実に書き起こすことを原則として,同時代テキストの電子コーパス化を試みているが,言語研究のためには刊本に頼るのではなく是非とも写本を参照しなければならない理由が6つあるという.以下に Lass and Laing (7--8) の要点を概説する.

 (1) 多くの刊本編者は写本の省略文字等を無言で "expand" して提示する.expand の仕方に複数の可能性がある場合にも,主要なものを採用して済ませる傾向がある.厳密にいえば,これは expand された形態の頻度や分布に影響を与えかねない.
 (2) 刊本では編者の "normalising" や "modernising" の過程で,写本にあった littera ([2011-02-20-1]) の区別が失われることがある.'þ' ( "thorn" ) や 'ð' ( "eth" ) を <th> として転写する編者は今では少ないが,'ƿ' ( "wynn" ) を <w> として転写することは当たり前の慣習となっている.'ƿ' と 'w' は異なる littera であり,異なる歴史をもっていることを忘れてはならない.
 (3) 複数の版により本文校訂されたテキスト ( critical edition or "best text" ) では,現実には存在しなかった想像上の形態が「復元」されており,言語研究には利用できない.
 (4) 校訂により「写字生の意図していたであろう正しい形態」が復元されるが,写字生が常に何かを意図して書いていたという前提が怪しい.写字生が単純に間違えたという可能性が常にある.その可能性が少しでもある以上,校訂による置き換えは常に現実からの逸脱である.
 (5) 以上の4点は綴字に関わる問題であり統語には関係しないという議論があるかもしれないが,多くの編者は句読点の校訂や modernisation を実践している.これは写本テキストに現代的な言語観を反映させることになり,統語上の解釈にも影響を及ぼし得る.
 (6) LAEME は,各写字生が自立的に当時の言語を代表する存在であるとの前提に立っており,各写字生による本文テキストだけでなく行間訂正を含めた些細な貢献をも尊重する.写字生による削除や挿入などの些細な証拠を正確に見抜くには,ファクシミリ(写真)でも不十分な場合があり,やはり実物写本に当たる必要がある.

 テキストの言語を研究する際には写本に回帰することが重要であるという点は理解できるが,実際上は写本を参照できる環境にないのが現実である.「写本へ回帰せよ」を少し緩めて「ファクシミリ版を参照するように心がけよ」「刊本を参照する際には上記の点に注意せよ」くらいに理解するのがよいかもしれない.

 ・ Lass, Roger and Margaret Laing. "Overview." Chapter 3 of "A Linguistic Atlas of Early Middle English: Introduction.'' Available online at http://www.lel.ed.ac.uk/ihd/laeme1/pdf/Introchap3.pdf .

Referrer (Inside): [2012-03-14-1] [2011-03-10-1]

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