国際私法および周辺分野の研究を振り返って


                    中央大学法科大学院
                      教授 奥田安弘


6.まとめ
(1)若い時代の外国法研究の必要性
(2)学会報告
(3)論文や本の刊行
(4)在外研究
(5)異分野の専門家との付き合い方
(6)年齢に応じた研究方法

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6.まとめ

(1)若い時代の外国法研究の必要性

 法律学の研究方法は、もちろん外国法研究だけでなく、日本の判例・学説などを新たな視点から分析し直すということがあると思いますが、やはり基本は、外国法研究であり、それなくして日本法の解釈論や立法論をしっかりと行うことはできないと思います。わが国の代表的な体系書について、著者のおおよその年齢を調べたところ(版を重ねたものについては、初版)、江川先生の有斐閣全書が52歳、池原先生の『総論』が54歳、折茂先生の『各論』が47歳、山田鐐一先生の筑摩書房版『国際私法』が60歳、溜池先生の『国際私法講義』が72歳です。これらを見れば、若い研究者が少し外国法を研究したくらいで、日本法の解釈論や立法論について独自の見解を主張するなど、無謀であることがお分かりになるでしょう。

 若い頃に書く論文は、テーマの絞り方が重要です。雑誌論文でたかだか20~30頁、多くても50頁程度のもので大きなテーマを書くことは無理です。たとえば、ドイツの博士論文などは、300頁ないし400頁くらいあっても、うまくテーマを絞っていると思います。ここでは、MPIハンブルクの叢書として出版されたHarald Baum, Alternativanknüpfungen - Begriff, Funktion, Kritik, 1985, 348 S.およびJan von Hein, Das Günstigkeitsprinzip im Internationalen Deliktsrecht, 1999, 473 S.を見てみましょう。これだけの分量の本でも、選択的連結ないし優遇原則という特定のテーマに絞って、国際私法の全体を見据えながらも、問題点をよく掘り下げています。わが国の場合、東大の助手論文はともかく、通常の修士論文は、もっとコンパクトですから、よほどテーマを絞って、掘り下げることに集中するべきです。

 ひとつの方法として、対象国を限定し、特定のテーマについて徹底的に調べぬくということがあります。日本の立法作業では、よく欧米諸国の法を調査し、場合によっては、それを報告書として公表したうえで、これらを諸外国の立法動向と称して、新しい立法を根拠づけたりします。しかし、これは、あくまで調査報告書であり、論文ではありません。コンパクトな論文において、各国の立法を列挙したところで、何の説得力もありません。もっと対象国を絞って、その国の法を徹底的に調べ、圧倒的な情報量のなかで必要なものだけを厳選したことが分かるように書くべきであり、単に表面をさっと眺めただけで、あたかも日本法の解釈論や立法論にとって直ちに参考になるかのようなことを書くべきではないと思います (*30)。

 たとえば、私たちが日本法について書く際に、いつも明治時代の立法経緯から書き始める必要はありません。それは、すでに日本語で公表されており、日本の研究者であれば、誰でも知っていることを前提とするからです。しかし、外国法の場合は、わが国で先行研究がなければ、ある程度ルーツをさかのぼる必要があります。その意味では、当該外国の研究者と同じことをしたのでは足りません。彼らにとって当然の前提であっても、日本の研究者にとっては、そうでないことがあります。逆に外国人が日本法を研究する場合も、日本人研究者とはかなり異なります。そのような例として、同じくMPIハンブルクの叢書として出版されたEva Schwittek, Internationales Gesellschaftsrecht in Japan: Im Vergleich mit dem Internationalen Gesellschaftsrecht in der EU und in Deutschland, 2015, 398 S.を挙げておきます (*31)。

 ただし、どこまでさかのぼるのかは、冷静に考えるべきです。たとえば、私の場合、域外適用のルーツを探るために、19世紀のストーリーの学説までさかのぼりましたが、本来は、フベルスまでさかのぼるべきであったと言われるかもしれません。しかし、私は、アメリカ国際私法の問題を明らかにしようとしただけですから、フベルスまでさかのぼったら、大変なことになってしまいます (*32)。私の場合、大体19世紀くらいまでさかのぼることが多かったように思います。

 外国法研究で注意すべきことは、他にもたくさんあります。一口に国際私法と言っても、英米法と大陸法の違いだけでなく、大陸法でも、国により大きく異なります。私の書いたもので言えば、統一法と国際私法の関係については、ラテン法系の考え方とドイツの研究者の考え方が大きく異なることを、すでに紹介しました。どちらが正しいのかという問題ではありません。ただ私にとって納得できるのは、ドイツの研究者の考え方であり、その中でもシューリッヒの学説であるというだけのことです。

 また、当然のことですが、ドイツの本に書いてあるからといって、あたかもそれを権威であるかのように依拠するわけにはいきません。たとえば、国連の扶養料取立条約について、クロポラー教授の注釈書を読んだところ、3箇所ほど引用文献や条文の読み方に疑問があり、MPIハンブルクに滞在していたので、それをクロポラー教授に伝えました。似たような話としては、日本の民法の教授がミュンヘン大学の教授に著書の疑問点を指摘したところ、目の前で助手が厳しく叱りつけられたというのをどこかで読んだ記憶がありますが、クロポラー教授は、そのようなことをする人ではありません。ただ助手を呼び寄せて、私の疑問点を伝えるとともに、次の改訂時における修正を約束し、その約束を守って下さいました (*33)。

 さらに法体系の全体を見るべきであること、社会的背景の違いに注意すべきであることなどは、スイス国際私法に関連して述べたところです。このような資料収集は、徹底して行う必要があります。今は、インターネットである程度の情報が入手できますが、私がかつてMPIハンブルクやスイス比較法研究所において入手した資料は、今でもインターネットでは入手困難です。また、オランダ法やロシアの二国間条約について、様々な手段を駆使したことは、すでに紹介しました。一方、最新情報の入手も重要であり、私は、中央大学での新着雑誌のチェックに漏れがないように、リストを作成し、チェックした雑誌の巻号をメモしています。これらの雑誌を継続的にチェックしていたら、今注目されているテーマが分かったりしますが、とくに必要がない限り、コピーをとったりはしません。

 若い頃は、やたらとコピーをしましたが、ビギナーのうちは、それもやむを得ないことでしょう。ノートを丹念に作って、重要な箇所を全訳していたように思います。また、窪田宏先生の影響で論点や掲載頁を書いたカードを作って、それらの組合せを考えたこともあります。そのうち購入した本やコピーに直接書き込むことが多くなり、さらに慣れてくれば、それほどコピーをしなくても済むようになりました。これらは、各人の工夫次第ですが、最初は、丹念にノートを作って、論文の構成をよく考えてから、執筆に取り掛かるべきです。

 よく判例や学説を羅列している人がいますが、それは、読む人のことを考えていないからだと思います。自分にとっても、整理が不十分なのでしょう。論文の冒頭で、何を明らかにするのかを示して、その裏付けとなる資料を丹念に分析していく、テーマが一貫しており、それに向かって流れるように分析が進んでいく、どんでん返しはタブーです。最終的には、対象国の法を本当によく調べているなと思わせることが重要であり、安易に日本法との比較などは考えないことです。法の比較は、大変困難な問題であり、それは、比較法の方法論に関する本を読めば分かることです。

 法律の文章をどのように書くのかということも、大問題です。山田鐐一先生の本は、分かりやすい文章で定評がありますが、それは、よほど繰り返し推敲を重ねられたからなのでしょう。さらっと書いた文章は、読みにくいものであり、何度も修正を重ねて、いかに分かりやすく、かつ正確に書くか、自分の意図が誤って伝わらないのかを綿密にチェックし、同時に文章全体が整っているかを考えます。そのためには、改行や句読点、「てにをは」に至るまで、いつまで経っても悩むものです (*34)。溜池先生の『国際私法講義』も、大変立派な本ですが、ひとつ気になるのが「この点」という表現を多用されていることです。「この点について」ではなく、「この点」だけをつなぎの言葉として使われているのです。山田先生は、このような表現をしません。「この点」という表現は、極めて曖昧であり、外国語に翻訳することも不可能であると思われますが、最近は、他にもこれを使う人をよく見かけるので、気になるところです。

 さらに、傍点などの記号を多用する人がいるのも、気になります。私は、引用文については、よくアンダーラインを使いますが、自分の文章に記号を使うことはありません。強調したい箇所は、文章力で分かってもらえるように工夫するのが正道であろうと思います。注と本文の振り分けについては、すでに申し上げたところです (*35)。

(*30) たしかに、私も、裁判に関係する場合は、各国の立法例を羅列したことがあります。それでも、国籍法2条3号については、棄児を自国民の子と推定するだけの立法例とあくまで無国籍の防止を目的とする立法例の2種類があり、わが国の立法が後者に属することを明らかにし、また認知による国籍取得については、民法上の認知制度の変更が国籍法に影響していることを明らかにするという一貫したテーマがあり、単なる立法例の羅列ではなかったと信じています。

(*31) この本は、私も短期間のハンブルク滞在中に関わったことがあります。本の冒頭に、香港でイギリス法に準拠して設立されたキリン・ビールが疑似外国会社の例として挙げられていますが、これは、私と一緒に読んだ日本近代立法資料叢書の中に出てきます。

(*32) 北大の民法の大学院生がローマ法までさかのぼってしまい、現在は、上智大学で民法だけでなく西洋法制史を教えている例があります(福田誠治教授)。そこまですれば、立派だとも言えますが、これは全くの例外であり、一般的にはお勧めできません。

(*33) 「外国における扶養料取立システムの構築」北大法学論集53巻5号(2003年)の注56・59・62では、これらの疑問点を紹介していますが、『国籍法と国際親子法』は、注釈書の改訂版によっています。

(*34) たとえば、今年の学会では、会場の早稲田大学に早く着いたので、ロビーで『国際家族法』の原稿(プリントアウト)を修正し、昨年の学会では、京都大学で『韓国国籍法の逐条解説』のゲラを校正していました。そのように片時も原稿や校正のゲラを離さず持ち歩くのは、研究者であれば誰でもしていることだと思います。仮に原稿をパソコンの画面上でしか見直さない人がいたら、とても研究者とは言えないでしょう。環境保護には反しますが、論文や本を脱稿したら、紙の山が出来上がっているのは、当然のことです。

(*35) 本稿は、講演録ですので、講演後に思い出したことを多数注記する一方で、文献引用を一部省略していますが、悪しからずご了承ください。論文では、このようなことは致しません。

(2)学会報告

 最近憂鬱に思うのは、学会の研究報告を聴くことです。研究会に出席しなくなったのは、北大時代に一人でやる癖がついたこと、自分の原稿に忙しくて、時間がないことなどが理由ですが、学会の研究報告では、報告原稿を用意しないで、明らかに準備不足と思われる人が目立つようになり、学会の在り方として大変疑問に思っています。

 たとえば、私は、今日の講演のために原稿を用意しました。それを全部読み上げたら、時間が足りなくなるので、一部簡略化していますが、やはり原稿を作るのとそうでないのとでは、大きな違いがあります。最初にレジュメを作り、それを文章化していく過程において、何を削って、何を追加するのか、何を調べ直すのかなどを考えます。要するに、書きながら考えるわけです。原稿を用意しない人は、あまり考えてきていないということになります。それは、貴重な時間を費やして、報告を聴きに来た人に対し失礼ではないでしょうか。

 原稿を用意しない人には、何か勘違いがあるのでしょう。たとえば、原稿の読み上げは、堅苦しく、自然な話し方ではないと思っているのかもしれません。しかし、それは、自分の原稿が下手だからであり、そのような人が原稿なしで話したら、余計に下手な話し方になります。テレビやラジオのアナウンサーをみてください。彼らは、あらかじめ用意された原稿を読み上げているだけですが、極めて自然な話し方です。原稿を用意しないでする学会報告は、大変聞き苦しいものです。余計なつなぎの言葉が入ったり、不正確な表現が入ったりするので、時間がかかる割には、少ない内容しか伝えられず、しかも報告の趣旨が不明確であるため、それを確認するための質問に時間をとられて、議論を充実させることもできません。学会報告をして、質疑応答などを経たうえで、原稿を書いたほうが良い論文になると思っているのかもしれませんが、最初のレベルが低ければ、質疑応答によって、急に高いレベルまで引き上げることなど到底できません。

 以上は、私が最近気になっていることを話した次第であり、今日ご出席の皆さんには当てはまらないと思いますが、若い研究者の方に幾つか実践的なアドバイスを申し上げます。

 第1に学会報告は、自分の土俵で勝負するということです。聴衆は皆、自分の関心でしか聞いていません。たとえば、報告者が外国法をよく調べ、その結果を報告したいと思っても、最後に日本法への示唆として通常とは異なる解釈や立法論を述べたとします。そうすると、「外国法の話は、よく分からないが、日本法の話はけしからん」と言って、そこに批判が集中することになります。外国法に関する報告がメインであるのに、全く無視され、日本法の話だけになることもあります。それは、不用意に日本法の話をした報告者の責任です。とくに若いうちは、蓄積がありません。日本法の解釈論や立法論については、未熟であり、シニアの研究者であれば、誰でも知っていることを大発見であるかのように言ったり、全くの勘違いを述べてしまったりすることがあります。したがって、自分がよく調べた外国法の話に特化するのは、ひとつの方法だろうと思います。そうすれば、外国法研究の蓄積のある人が報告の趣旨に沿った質問をして、研究報告会のレベルが上がるでしょう。それでも万が一日本法との関連について質問された場合は、今後の検討課題にするという返事で全く問題ありません。

 第2に学会報告は、報告後すぐに質問が来なければ失敗ということです。報告後に沈黙があるのは、報告内容が素晴らしくて、聴衆が感心したからではありません。全く逆です。酷な言い方ですが、「質問をしても大した返事がないだろう」とか、「きちんと答えられないだろう」と思われているのです。あるいは、「つまらない報告で質問する気が起きない」ということでしょう。その原因は、論文の書き方と同じです。単に外国法を羅列しただけで、表面的なことしか見ていない、要するに掘り下げがないと思われているからです。逆に何を質問しても、答えが返ってきそうだという場合は、質問が殺到することになります。また、ストーリーも大事です。その点も、論文の書き方と同じですから、もはや繰り返しません。

 この第1の点と第2の点は、相互に関連しています。最後に少し触れただけの日本法に質疑が集中するのは、メインの外国法の部分が単なる羅列にすぎないからです。メインがつまらないから、日本法の部分を質問するしかないという可能性があります。報告者自身も、外国法を十分に掘り下げていれば、日本法との根本的な違いに気づき、安易に日本法への示唆というようなことは言わなくなるだろうと思います。

 第3に、ある程度経験を積んできたら、他の人の学会報告について、積極的に発言してください。ただし、そこで試されているのは、報告者ではなく質問者のほうです。良い質問をすれば、その人の評価が高まりますが、逆につまらない質問をしたら、自分の勉強不足をさらすことになります。私は、かつて国際法学会によく出席していた頃、芹田健太郎教授(現・神戸大学名誉教授、京都ノートルダム女子大学学長)が舌鋒するどく質問されるのをみて、見習うべきだと思いました。その後、国際法学会では、国際会議に出席した会員が裏話を披露し、聴衆もそれを有難がるのを見たりして、すっかり足が遠のいてしまいましたが、2000年からの在外研究のおりに、MPI ハンブルクで開催される小さな研究会に出席した際には、バセドー教授などが鋭いコメントをされるのを聞いて、さすがだなと思うことがあります。

(3)論文や本の刊行

 私は、『六甲台論集』、『香川法学』、『北大法学論集』、現在は、主に中央大学の『比較法雑誌』に書いていますが、いずれにせよ、論文を公表する場に恵まれました。しかし、法学部以外の学部に就職した人は、論文を公表する場に困っているようですし、実は、東大でも、『法学協会雑誌』や『国家学会雑誌』は、助手や大学院生が長い連載をするものですから、教員は、掲載の機会が少なく、そのため、いきなり本を出版することになっているようです(昔は、そうでもなかったようですが)。雑誌論文をコツコツ書き溜めて、論文集を出版する場合も、この出版不況ですから、出版助成を申請したり、一定部数を買い取ったり、自分で経費の一部を負担するといういわゆる「自費出版」などの方法を取らざるを得ないかもしれません。

 さて、そのような論文の抜刷や本を学界関係者などに送りますが、受け取った人の反応は如何でしょうか。これは、洋の東西を問わず、同じだと思うのですが、まず自分の著作が引用されているか、またどのように引用されているのかをみます。また、それ以外にも、まずは文献引用をみて、どれくらい丹念に調べているのかをみるわけです。日本の学説の「まとめ論文」は論外です。そうでなくても、日本ですでに公表された文献ばかりが多くて、外国語文献が少なかったり、同じ文献の繰り返しばかりで、翻訳と変わらなかったりするような場合は、あまり本文を読もうという気になりません。もちろん、一定のキャリアを積んだシニアの研究者が書いたものは別です。若い頃の蓄積があるからです。しかし、それほど蓄積のない若い研究者が同じようなものを書いたら、見向きもされないでしょう。今回、高杉教授の二人のお弟子さんが送ってこられた論文は、最初にしては、まずまずだと思ったので、一層の精進を期待して、メールで改善点を申し上げましたが、こういうことは、長い間なかったように思います。

 逆に私が抜刷を送って印象に残った例としては、桑田三郎先生の丁重なお手紙があります。船荷証券条約の適用根拠に関する論文です。たしか一方的抵触規定という用語の使い方について、説明不足と言われたような記憶があります。著書については、最近はメールで返事を頂くことが多いですが、丁重なお手紙を下さる先生がいらっしゃり、大変恐縮しております。また五十嵐清先生には、外国法関係の著書を中心として、数冊謹呈したところ、80歳を超えられても、すぐに全部読んだとか、誤字脱字を見つけたというようなメールを頂き、驚嘆しておりました。先生は、今年90歳で亡くなられましたが、『比較法ハンドブック〔第2版〕』(勁草書房)および『法学入門〔第4版〕』(悠々社)を出版されたのは、今年のことです。私も見習いたいと思います。

 ところで、再び気になることですが、書評の在り方が日本と欧米とでは、大きく異なるように思います。日本では、ともかく対象の図書の欠点を見つけ出し、厳しく批判をしなければ、沽券に関わると思われているようです (*36)。私も一度だけ、ある本の欠点だけを書いた書評を出したことがあり、むしろ書評を断るべきであったと後悔するとともに、著者に申し訳ないことをしたと思っています (*37)。そのような話を欧米の人にしたら、彼らは、「稀に批判を書くこともあるが、普通は、評価すべき点を書くだけであり、そうでなければ人間関係が悪くなる」と言われたことがあります。その欧米では、最近は、書評を掲載する雑誌が減る傾向にあるようです。日本でも、日本語の雑誌では、外国の研究者の本だけを書評し、Japanese Yearbook of International Law のような欧文雑誌では、日本の研究者の本を取り上げて、海外に紹介すべきですが、日本語の雑誌で日本語の本の書評や紹介を掲載する必要はないだろうと考えています。なぜなら、日本の研究者は、それらの本の出版やその内容を知っているのが当然だからです。変な書評を掲載して、わざわざ人間関係を悪くする必要はないと思います。

(*36) たとえば、折茂豊『属人法論』(有斐閣、1982年)について、いろいろ批判をした後に、「属人法に関する観念的な理想主義を高揚する本書は、あたかも、南海にただよう天然記念物の浮島の森にたとうべきであり、そこに展開される貴重な卓見は、わが国の実情に即した具体的かつ現実的な支柱を確保する必要があろう」と結ぶ書評が国際法外交雑誌82巻2号(1983年)に掲載されたところ、後に「折茂先生が激怒された」という噂を耳にしたことがあります。

(*37) 現に私は、かつて上毛新聞社編『サンバの町から――外国人と共に生きる/群馬・大泉』(上毛新聞社、1997年)という本の書評を断ったことがあります。依頼の電話をしてきた書評専門誌の編集者は、法律的な観点からどんどん間違いを指摘してほしいというのですが、私は、むしろ社会学者に依頼して、評価すべき点を書いてもらったほうがよいと答えました。

(4)在外研究

 私の研究の基礎は、窪田宏先生の指導以外に、MPI ハンブルクやスイスでの在外研究によるところが大きく、それなくしては、今日の私はないと思っています。今では、若い研究者でも、私費で海外に出かけることが多いようですが、ぜひ奨学金をとって、長期の滞在を経験して頂きたいと願っています。これも、就職先によっては、在外研究を認めない大学があり、とくに最近は、厳しいところが増えているようですので、なるべく若いうちに行くことをお勧めいたします。

 行先は、研究対象にもよりますが、私の経験では、大学よりも研究所のほうが外国からの訪問研究者への対応に慣れているので、ベターである気がします。最初に「何をしに来たのか」と訊かれます。外国で博士号を取得するためであれば、大学に行くしかありませんが、資料収集や意見交換であれば、研究所のほうが良い場合があります。いずこも大学教授は、ノルマが増える一方であり、時間に追われています。MPI ハンブルクでは、研究会などの催しが多いですし、私にとっては、それ以上に、個々の研究者と昼食をともにして意見交換をすることが大変役立っています。いずれかと言えば、私は、大規模なシンポジウムに参加するよりも、一対一の付合いのほうを好みます。あとは、なるべく欧米言語で論文を書いて、自分が何を研究しているのかを知ってもらうことも重要です。日本法研究者を除けば、彼らは、日本語を理解しないからです。有名大学の有名教授のところに留学した、ということを日本に帰ってから自慢しても仕方ありません。現地で何をして、どういう交流をしたのかが重要です。私は、会話能力が劣るので、講演は少ないですが、欧米言語での論文執筆で交流を図ることができたと自負しております (*38)。

 さらに、在外研究を勧める理由を補足すれば、海外の研究者がエネルギッシュに研究している姿を見ること自体が大きな刺激となります。たとえば、ドイツの助手は、博士論文を書きながら、司法試験を受け、合格したら、司法修習で猛烈に忙しくなります。ドイツでは、修習生が起案したものがそのまま判決文になることが多いようです。良く訓練されているということです。また、教授の授業準備を手伝ったり、博士論文とは全く違うテーマに関する教授の本や論文を手伝ったりします。さらに、ドイツの大学教授になるためには、博士論文とは異なる法分野について、教授資格取得論文 (Habilitation) を執筆する必要があり、弁護士も、博士論文を執筆した経歴のある人が一定数います。ドイツ人が日本法を徹底的に調べ、MPI ハンブルク の叢書として出版した例を先ほど紹介しましたが、彼女は現在、フランクフルトの弁護士です。

(*38) ただし、欧米言語での論文の執筆は、現地に到着した後に、外国法研究の合間にでもすればよいことだと思います。長期の在外研究であれば、日本にいる時よりも、時間的な余裕がありますし、何よりも外国語漬けの環境のなかで書いたほうがよりスピーディーかつレベルの高いものを書ける可能性があります。

(5)異分野の専門家との付き合い方

 「国際私法はこれからの学問」という人は、おおむね国際私法を知らないと思って間違いありません。私の一世代上の先輩たちも「これからの学問」と言われ、あるいは明治時代からそのように言われ続けてきたのかもしれません。しかし、国際私法は、いまだにマイナーな分野であり、司法試験での選択者数もそれほど多いわけではありません。たまに国籍法が注目されることがありますが、あれは隣接法分野にすぎません。また最近は、ハーグの子奪取条約が注目されていますが、あれは司法共助に関する条約ですから、国際私法の授業でも詳しくは取り上げないと思います。それにもかかわらず、ハーグ国際私法会議の条約だからといって、国際私法の専門家であれば、誰でも詳しいことを知っているだろうと早とちりされるのは、迷惑なことです。

 さらに困るのは、国際私法だから、何でもできるだろうと言って、自分の分野に強引に引きずりこもうとする人がいることです。たしかに実質法を全く知らなければ、国際私法の研究教育に困りますし、私も、ある程度は関わったことがあります。しかし、それにのめり込むわけにはいきません。あくまで本業は、国際私法であり、それを中心に据えるのは当然のことです。若い皆さんも、これからいろいろなお誘いがあるかもしれませんが、その点をよく心得て頂きたいと思います。

 弁護士やマスコミの皆さんとの付き合い方にも注意を要します。弁護士の方々から裁判の意見書の依頼を受けた場合、私は、まず自分が関わる必要のある事件であるか否かを考えます。とくに広い意味での家族関係の事件では、戸籍などの関係書類の送付をお願いすることが多いです。弁護士の方は、自分の理解で事件の内容を書いた手紙などを送って来られることがありますが、これまでの経験では、勘違いの例が多いです。そのように厳選して、どうしてもという事件だけを引き受けるようにしています。弁護士が研究者の真似をできないように、研究者が弁護士の真似をするわけにはいきません。裁判の意見書は、論文と同じように書くわけにいかないのですから、本来の研究とは区別すべきであろうと思います。

 またマスコミの取材については、最近は、まず私の本を読んだかどうかを尋ね、読んでいない場合は、読むべき本を申し上げます。大体は、それで連絡が来なくなります。きちんと本を読んで来られた場合は、取材に応じますが、時には膨大な時間を費やすことがあります。実際に新聞やテレビで取り上げられるのは、ごく一部であり、しかも私のコメントは、最もつまらないありふれた箇所だけが採用されます。解説の大部分は、あたかも記者が自分で調べたかのように出るわけですから、一般の読者や視聴者は、誤解するだろうと思います。せめて「○○に詳しい○○教授」というのはやめて、「取材に協力した○○教授」という紹介に変えて頂きたいと願っています。いずれにせよ、かつて戸籍の専門誌まで読んで、取材を申し込んでこられた人がいたことを思えば、まさに隔世の感があります。

 これらのことは、社会貢献として求められているのかもしれません。しかし、それも研究あってのことです。一般の方は、新聞やテレビに出たら、「ご活躍ですね」と言ってくれますが、私たちの主戦場は、研究室の中です。研究室の中は、誰も見えません。だから研究室と自宅との往復を繰り返していたら、「好きな勉強だけをして良い身分ですね」と言われます。しかし、そういう誤解にも耐えていかなければならないのが私たちの宿命なのだと思います。

(6)年齢に応じた研究方法

 かつて北大の学部生が「自分は体力に自信がないから、会社勤めは無理であり、研究者を目指したい」というのを聞いたことがあります。その学生は、国際私法ではなく別の分野を目指していました(結果的に、大学院の試験は不合格でした)。これは、とんでもない勘違いです。研究者は体力勝負です。ある意味では、会社勤め以上の長時間労働を強いられますし、授業や会議、外部の仕事などの合間を縫って、研究を進め、論文や本を書かなければなりません。

 昨年、MPI ハンブルクで相部屋になったマルティン・シャウアー教授は、私より少し若い年齢ですが、「昔は、10時間以上続けて仕事ができたが、今は集中力がなくなった」と言って、よくノートブック持参でアルスター湖畔に出かけるのを見送りました。年齢を重ねると、研究の蓄積は増えますが、気力や体力は衰えてきます。私は、まだ5時間程度であれば、連続して仕事ができますが、最近は、肩こりと眼の疲れが激しく、これ以上は段々と厳しくなってきました。今は東京に住んでいることもあり、早朝からラッシュアワーの終了時までは自宅、昼前から夕方までは研究室、就寝前の数時間は自宅で仕事をしています。

 一般に50代後半くらいから体力が落ちて、身体の不具合が出てくることが多いようですから、若い皆さんは、今のうちに体力や眼を酷使する外国法研究に励み、何冊か論文集を出版して、ある程度の年齢になったら、自分の研究をまとめる位の力は蓄えて頂きたいと願っております。外国法研究だけで一生を終える必要はありませんが、それを超えるものを書く道は、長くて苦しいということです。ご清聴ありがとうございました。

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