「間違いだらけの勉強法」付録


                                         中央大学法科大学院
                                                奥田安弘


サイトの趣旨

 以下では「間違いだらけの勉強法」を読んでも、まだ納得できない人のために、その趣旨を詳しく説明しました。次の各項目をクリックすれば、該当箇所にジャンプします。

中央大学法科大学院の現状と課題〕〔2018年の司法試験を振り返って
法律は学問なのですが〕〔法律家に対する評価〕〔学部の勉強との違い
相手の気持ちを考える〕〔短答式だけでは足りない〕〔法科大学院の未来
法曹養成制度のあるべき姿〕〔弁護士の必要経費と報酬



中央大学法科大学院の現状と課題

 2018年度の司法試験合格発表がありました。予想どおり、本学の合格率は、悪化の一歩を辿っており、今年は、ついに23.2%、全国平均の29.1%を大きく下回りました。合格率ランキングでは、16位です。
 https://www.bengo4.com/other/n_8520/

 ちなみに、不合格者数334名は、堂々の1位です!
 http://blog.livedoor.jp/kosekeito/archives/sihousiken2018-hugoukakusyasuu.html

 この期に及んで、まだ「特色ある法科大学院」とか、「企業法務が大事」とかいうのでしょうか。また選択科目と称して、実は必修科目の復習をしている「隠れ必修」が多いのは、周知の事実であり、認証評価のない年の修了生に訊いてみれば、一目瞭然です。

 実質上同じ科目で単位を揃え、司法試験の選択科目の授業は、2~3科目あるうちの1科目くらい受けて、あとは予備校の教材で間に合わせるようでは、合格率が落ちるのも当然です。展開・先端科目群(4群)は、司法試験の選択科目を除いて、原則全廃にすべきです。

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2018年の司法試験を振り返って 新着

 今年の司法試験については、国際関係法(私法系)の出題内容に少し疑問を感じておりましたが、出題趣旨および採点実感をみて一段と疑問が深まりました。とくに繰り返し「最高裁判決への言及」を求めるのは、真意を図りかねます。あたかも法源であるかのように「最高裁判決によれば」とか、さらに判決年月日まで書けというのでしょうか。

 国際私法分野では、最高裁判決といえども、舌足らずであったり、結論さえも首をかしげることが少なくありません。たとえば、今回はふたつの最高裁判決への言及が求められていますが、ひとつは説明不足の感があり、もうひとつは、結論自体に疑問があります。それなのに、こういう出題趣旨および採点実感が出たら、受験生は、最高裁判決を金科玉条のように扱い、ともかくそれを丸暗記しようとするでしょう。

 もちろん最高裁判決の存在を全く知らないのでは、話にならないので、これまで「最高裁判決を踏まえること」を求めた例はありますが、「最高裁判決への言及」まで求めたのは初めてみました。こういうことを出題の趣旨および採点実感として書いたら、受験生がどう受け止めるのか、想像しなかったのでしょうか。丸暗記を戒め、論理的な法解釈の訓練を目指してきた私たちの努力を踏みにじるものだと思います。

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法律は学問なのですが

 マスコミは、しばしば「法律や裁判が一般市民の感覚とかけ離れている」と批判しますが、少し誤解があるような気がします。もともと法律は、社会科学の一分野である法学研究に基づいており、その学問としての法学を学んだことのない一般市民がすべてを理解するのは、無理があります。

 自然科学であれば、一般市民に理解できなくても称賛されるのに、法律は、誰でも分かるべきだという思い込みがあります。それでは、裁判官や弁護士などの実務法律家を始め、法科大学院、学部、研究者養成大学院などの研究・教育機関は、すべて不要ということになります。

 たしかに、日常生活の大部分の問題は、法律の専門知識がなくても解決できるでしょう。また、一般市民を対象とした法律書も多数出版されています。しかし、少し複雑な問題になってくると、法律の専門家でも意見が分かれたりします。それをマスコミで解説したりすると、一般市民に分かりづらいからといって、最もありふれているか、または最もつまらないコメントだけが放送されたり、掲載されたりします。

 法科大学院の学生が普通の市民と同じレベルでは困ります。もちろん教養のある市民として、一般常識を兼ね備えているのは、当然ですが、さらに学問的な法概念を理解し(哲学の素養を必要とします)、法律の背景にある社会や経済などについても、一般市民に求められる以上の幅広い教養を必要とします。そのためには、人一倍の努力が必要であり、一般市民の感覚で簡単に法律が理解できると思ってもらっては困ります。

 たとえば、学生諸君の答案を読んで、「全く法律論になっていない」と思うのは、主に二つの理由があります。ひとつは、事実の読み方です。問題文に書かれた事実は、法的な評価を加える必要がありますが、学生諸君の答案は、単なる推測であったり、書かれていない事実の創造であり、法的な評価になっていないことが多々あります。

 もうひとつは、条文の読み方です。こちらのほうは、全く解釈を加えることなく、そのまま自分が勝手に作り上げた事実に当てはめています。試験の問題文は、常に解釈を求めているのであり、条文を読んで字の如く当てはめれば、答えが出るようなものを出題するわけがありません。ところが、答案は、事実のほうを勝手に変更して、条文はそのまま丸写しするだけという自分勝手なものが多いように思います。

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法律家に対する評価

 世間では、司法試験に通るだけで優秀と思ったり、さらに法科大学院の入試に合格しただけでも優秀だと誤解している人がいるようですが(場合によっては本人でさえも)、私たち法科大学院の教員からみたら、とんでもない誤解です。司法試験合格後も1年間の司法修習を経て、さらに裁判官・検察官・弁護士になったとしても、最低5年以上は、実務経験を積まなければ、一人前とはいえません。もっといえば、それらの法曹実務家としての経験を積んだとしても、法律実務はともかく、理論的な面では、法律研究者の目からみて、物足りないことは言うまでもありません。

 ところで、最高裁判事や裁判所の所長が就任記者会見において「分かりやすい裁判を目指したい」と発言することがありますし、また世間でも「裁判が分かりにくい」という苦情を述べる人がいます。しかし、そこには大きな誤解があります。裁判が扱っている問題自体は、大変難しい問題であり、それをできるだけ分かりやすく説明するよう努力したいという趣旨なのだろうと思います。

 裁判自体が分かりやすいのであれば、そもそも法律家や法律研究者、法科大学院や法学部は不要ということになります。しかし、なぜ裁判が起きて、そこに法律家が必要になるのかといえば、当事者の利害が対立するからです。すなわち、一方にとって正義は、他方にとって不当であり、裁判所がシロクロ決着をつけるために、判決を下したら、一方にとっては当然の判決であり、他方にとっては不当判決ということになるでしょう。

 それなのに、弁護士が判決後に「勝訴」とか「不当判決」という垂れ幕を裁判所の前に掲げるのをみると、本当に嘆かわしく思います。

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学部の勉強との違い

 こんな当たり前のことを書くのは、残念ですが、最近とくに気になって仕方がないのは、学生の勉強方法です。学部の勉強方法で法科大学院の入試に合格したからといって、その同じ勉強方法を法科大学院で続けてよいはずがありません。ところが、予習・復習、授業への参加など、あらゆるものが学部のままであり、何ら工夫をしている形跡が見当たりません。そんな学生が「頑張ります」と言っても、全く信用できません。

 私の授業は、2018年の時点で、国際私法Ⅰ(財産法)については、様々な本のコピーを組み合わせて使い、国際私法Ⅱ(家族法)については、私の『国際家族法』(明石書店、2015年)の一部を使っています。今年からは、それに加えて、論点メモを配ることにしました。学生が教材を読んでも、全く問題意識が芽生えないようなので、それを促すためです。

 ところが、授業の際に、学生の手許をみたところ、それらの教材や論点メモにほとんど書き込みがなく、所々線を引いたり、マーキングをしている程度なのです。六法に書き込みをしたら、試験に持ち込めないので、そこに書き込みがないのは分かりますが、教材には、条文が掲載されているのに、そちらにも書き込みがありません。要するに、予習をしたと言っても、読み流したにすぎず、教材とメモの不一致およびその理由、条文の行間の読み方など、全く検討している様子がありません。

 現に授業の際に、教材に書かれていることをそのまま尋ねたら、そこに書いてあるとおりの返事はありますが、他の解釈の可能性やさらに他の論点を突っ込んでみたら、何の返事も返ってきません。学生は教室で私の説明を待っているだけであり、これでは双方向の授業とは言えません。また私の説明を聞いて、ノートに書き込んでも、何の疑問も抱かず、単に記録しているだけであり、論理で考えていないので、全く身につきません。

 さらにそのノートと教材や論点メモ、条文との照合などの作業は全くしていないようです。試験前にノートを読み返すだけというのは、まさに学部の勉強方法ですが、授業を受けた時に本当の理解に達していないわけですから、無意味です。そもそも学生は、自分が正確にノートできたと思っているのでしょうか。話言葉というのは、不正確なものです。私たち教員は、学生諸君の勉強を手伝うだけであり、最終的には学生本人が法律の条文を手がかりに事例問題の解決を自分の言葉で書かなければなりません。そのためには、授業を受ける度に、ノートと教材や論点メモ、条文との照合などの作業を繰り返し、さらに他の文献を調べるなどの努力をしなければ、応用力など身につくはずがありません。

 なお、学生諸君は、履修科目を選ぶ際に、教員の研究業績を全く気にしていないようですが、私たち大学の教員には、小中高のような指導要領はありません。すべての授業内容は、教員が自分の研究をもとに決めるわけですから、同じ科目でも、教員ごとに内容は異なりますし、同じ教員でも、学期ごとに異なる内容の授業をするはずです。学生諸君が教員の研究内容を厳密に評価するには無理がありますが、一般的に研究業績の評価の高い教員くらいは分かるでしょう。そういう目で履修科目を選ぶくらいの努力はしてもらいたいものです。法科大学院では尚更です。

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相手の気持ちを考える

 これは、人付き合いの話ではありません。学期末試験の答案を読んでいると、相手の気持ちを全く考えていないなと思います。ここでいう相手とは、出題者であり、採点者である私のことです。司法試験の出題者や採点者も、きっと同じことを考えているはずです。

 まず出題者としての私は、授業で話したことをそのまま出すのではなく、応用をきかせた問題文を作成しようとします。そうでなければ、学生諸君の知識が本当に使えるものになっているかどうかを見極めることができないからです。司法試験の出題者も同じです。だから教科書や判例を写しても仕方ないのです。丸写しで足りるのであれば、事案を入力して、答えが出てくるデータベースを作成したほうがよほど有益であり、諸君は不要ということになります。

 同時に、法科大学院は法曹養成の機関ですから、なるべく実践的な問題文を作成しようとします。この点は、とくに学部と大きく異なります。すでに起きた事件について、裁判官としての判断を求めるだけでなく、一方の当事者の立場で答えさせたり、これから成立させようとする契約や身分的法律行為にアドバイスを与えるよう求めることがあります。いずれの場合も、思いつきではなく綿密な解釈に基づき、当該事案の解決に至る論理を示す必要があり、抽象論を書いても仕方ありません。

 採点者としての私は、以上のような出題の趣旨にきちんと答えているかどうかを見ます。学部では、ともかく知っていることをたくさん書いておけば、多少は問題文の趣旨と異なっていても、単位をもらうことができたかもしれません。しかし、法科大学院の期末試験や司法試験では、そういうわけにいきません。出題の趣旨に答えていない答案は、評価のしようがありません。

 答案構成をあまり(あるいは全く)しないで書き始める者は、出題の趣旨を最初から無視しているか、または少し考えただけで、出題の趣旨が分からないから、ともかく自分が覚えたことを書いている、と見られても仕方ありません。予備校が「答案構成は不要」というのは、学生が喜ぶことを言わなければ、経営が成り立たないだけのことであり、また法科大学院の教員で「答案構成などしなくても書ける」という者がいるとしたら、学生を相手に見栄を張っているだけです。少なくともビギナーを育てる自覚が足りません。

 最も不思議に思うのは、なぜ問題文や条文を丸写しするのかです。学生諸君は、「解釈の前提として、問題文や条文をそのまま書く必要がある」と言いますが、採点者にとっては、問題文や条文を当然の前提として、その先を書いてほしいわけであり、自分の書きやすいように書くだけだというのは、相手が見えていない証拠です。丸写しばかり多くて、肝心のその先が書けていないのでは、評価のしようがありません。

 同様に、ナンバリングや改行も、学生諸君は、読みやすくするためだと言いますが、それは、自分たちにとってそうであるだけで、採点者には、単なる行数稼ぎにしか見えません。たしかに、基本科目の試験では、一問のなかに主要な論点が幾つかあって、数十行書いた後に、改行の必要が生じることもあるでしょう。しかし、国際関係法(私法系)の試験では、一問のなかに主要な論点はひとつしかなく、改行を必要とする程の分量を書く時間とスペースが与えられていません。学生諸君の改行やナンバリングは、2~3行毎に行われており、文章のつながりを破壊しています。基本科目の教員も、そのようなことは想定していないはずです。

 ちなみに、私たち研究者は、文章を使い分けています。これは、ブログのようなものですから、なるべく文章を短くし、適当な行数で改行していますが、学術論文では、自ずから文章が長くなります。ここで学術論文というのは、大学紀要や学会誌に掲載するようなものであり、商業雑誌(ジュリストなど)に書く場合は、また文章が異なります。司法試験の答案がその目的に応じた書き方になるのは、当然のことです。

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短答式だけでは足りない

 本学の学生が短答式の勉強しかしていないと思うのは、薄っぺらな教科書しか読んでいないからだけではありません。条文に書いてあることをそのまま暗記して(さらには、条文番号まで暗記して)、それで満足してしまっているからです。また条文は、その都度参照すべきものですが、暗記に重点を置く学生は、授業や試験の際にも、丹念に条文を参照しようとしません。

 私たちのように長年にわたり法律を研究・教育し、かつ国際私法のように条文数が少ない場合でも、必ず条文を参照しながら、論文を書いたり、授業をしているのに、ビギナーの学生が条文をその都度参照しなければ、正確な法解釈論ができるはずがありません。条文に書いていないことも、判例や学説を丸暗記するのではなく、条文を参照しながら、論理的な解釈をした結果でなければ、身につきません。

 法律を知らない人(一般市民や他分野の研究者)は、法律の勉強や研究とは大量の暗記だと思い込んでおり、こればかりは、いくら説明しても理解してもらえません。慎重な法律家は、よほど簡単な問題以外は、法律の条文を参照したり、文献を調査した後でなければ答えないものですが、一般市民は、すぐに答えが返ってこなければ、不満に思うようです。しかし、法科大学院の学生が同じような勘違いをするのは、困ります。

 司法試験では、短答式は、単なる足切りのためであり、本当の勝負は、論文式です。その際には、司法試験六法の参照が許されるのですから、条文を丸暗記するのではなく、丹念に参照する必要があり、かつ条文の丸写しで済まないことくらいは、理解すべきです。短答式は、答えがはっきりしており、小中高までの勉強法と共通する面があり、またゲーム感覚で答え合わせができるので、楽かもしれません。しかし、勝負は、その先の論文式にあるのですから、そのための勉強法を中心に据えるのは、当然のことです。

 念のため付け加えれば、条文の丸暗記だけではない者も、教科書に書かれているキーワードを幾つか言えるだけであり、それをさらに説明させようとしても、全く言葉が出てこないので困ることがよくあります。そのような者の答案は、問題文や条文の丸写しにキーワードが少し付け加えられているだけなので、評価のしようがありません。結論に至る論理を示そうとすれば、たくさんの言葉が必要であり、そのような能力は、丸暗記ではなく、日頃の訓練によって習得するしかありません。

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法科大学院の未来

 間違った勉強法でも、運よく司法試験に合格する者はいるでしょう。しかし、3000人の合格者を目標としていた時代でも、結局のところ、2000人程度しか合格していません。今後は、1500人を目指すと言っていますが、実力が伴わなければ、1000人を下回ることも予想されます(それでは、法科大学院ができる前よりも少ないことになりますが)。

 ある本で司法試験合格者の再現答案が掲載されているからというので、国際関係法(私法系)の答案を見ましたが、こんなのでよく合格したものだと驚きます。国際私法以外の成績が良かったのかもしれませんが、本サイトに書いた「間違い」のオンパレードです。だから二回試験であれほど不合格者が出るのも仕方がないなと思いますし、実務に出たあと、新司法試験の合格者の評価が低いのも頷けます。

 受験者が減ったから、合格率が上がるなど、とんでもない勘違いです。司法修習やその後の法曹実務に耐えられそうもない者を、安易に合格させるはずがありません。司法試験においても、過去問をそのまま出すわけにいかないので、問題のレベルは、むしろ高まることが予想されます。

 しかし、本サイトに書いた「間違い」を克服し、法科大学院生の実力がアップすれば、司法試験の合格率は、自ずから上がるはずです。その意味では、競争試験ではなく、まさに資格試験なのです。新司法試験が始まってから、能力のある者でも不合格になったという状況は、一度も起きていないと思います。

 いかんせん法律は、言葉の学問です。それは、ある意味で芸術のような論理の美しさを要求します。こう言えば、一般の方は反発するかもしれませんが、その美しさとは、いかに多様な視点を持っているか、目配りが出来ているかということであり、決してセンスだけで出来ることではありません。むしろ法律的なセンスとは、血の滲むような努力の末に生まれるものであり、そのような努力が出来ない者、あるいは文章によってそれが表現できない者は、能力がないということになります。

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法曹養成制度のあるべき姿

 今更ながらと思われるかもしれませんが、司法修習生の給費制度が復活したので、この機会に法科大学院の関する様々な議論を眺め、その矛盾点を考えてみたいと思います。

 第1に、予備試験というのは、どうにも理解できません。法科大学院の授業料を負担できない人を救済するために、法科大学院を修了しなくても、司法試験を受験する制度が必要だというのですが、それならもともと法科大学院は不要だと言っているようなものです。真の法曹を育てるために、法科大学院が必要だと言いながら、「法曹になりたい人」の希望を優先するのは、矛盾に他なりません。依頼者にとっては、法科大学院の修了生と予備試験の合格者のどちらが必要だというのでしょうか。後者のほうが優秀だというのであれば、元の旧司法試験の制度に戻すべきではないのでしょうか。

 第2に、現在の法科大学院の必修科目と選択科目の振り分けには、どうにも納得できません。これは、法科大学院によって異なるのかもしれませんが、少なくとも本法科大学院では、司法試験の選択科目の授業を一切受講しなくても、修了することが可能となっています。必修科目の教員は、どれほど厳しい授業をしても、学生は受講せざるを得ませんが、選択科目の教員は、本当に必要な内容の授業をしたら、学生からは厳しすぎると言われて、履修者が減る一方となります。法科大学院の授業が本当に必要だと思うのであれば、司法試験の選択科目を受講していることは、法科大学院の修了要件とするのが当然ではないでしょうか。

 第3に、司法試験の合格者数について、当初は3000人を目標にすると言ったり、今では、1500人を目標にすると言ったり、そういう目標値を設けること自体が矛盾していると思います。本当に依頼者の立場を考えるのであれば、一定のレベルに達した法科大学院の修了生を司法試験に合格させ、かつ一定のレベルに達した司法修習生を二回試験に合格させるだけのことであり、そこにあらかじめ目標値などあろうはずがありません。

 もともと3000人という目標を達成できなかったのは、レベルに達する受験者が足りなかっただけのことであり、今後1000人を割り込んで、制度の創設前より減ったとしても、それは、「資格試験」である以上、当然のことであると思います。数字をとやかく言う人は、一度法科大学院の授業を受けて、司法試験を受験してみたら如何でしょうか。

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弁護士の必要経費と報酬

 弁護士になった場合に、どれほどの経費が必要となるのか、考えたことがあるでしょうか。巷では、「弁護士は正義のために働くべきだ」とか、「弁護士が儲けるのはけしからん」とか、「弁護士に頼んだら、法外な報酬を請求される」とか思い込んでいる人が多いようです。また法科大学院生も、なぜ就職が厳しいのか、よく分かっていない人が多いように思います。

 あるサイトによれば、弁護士が事務員を雇わない場合の必要経費として、「1.家賃・光熱費、2.弁護士会費、3.複合機のリース料、4.通信費、5.データベース利用料・リース料、6.書籍費、7.弁護士賠償保険、8.その他」を挙げ、月額24万2000円という金額をはじき出しています。
 http://aiben.hatenablog.com/entry/2014/05/12/151424

 しかし、東京で開業すれば、もっとかかるでしょうし、自分の生活費や諸費用(健康保険、年金の保険料など)を加えたら、毎月100万円を稼いでも、やっとでしょう。あまり戦力になりそうもない1年目の弁護士を雇うどころか、事務員を雇うことさえ躊躇ってしまいます。

 それでは、共同事務所にすれば、皆で分担できると思うかもしれませんが、その場合は、広めの事務所が必要となりますし、事務員を雇う必要も出てくるので、劇的に負担が減るとは思えません。パートナーと言えば聞こえがよいですが、要するに割り勘要員です。

 弁護士1年目から事務所経費の負担を求められることがあるようですし、少なくとも数年したら、割り勘要員になるか、それとも負担能力がなければ、出ていかざるを得ないのではないでしょうか。私は部外者ですので、それ以上の詳細は知りませんが・・・。

 逆に依頼者の側からみたら、弁護士への報酬(必要経費以外)は、どれくらい払う必要があるのでしょうか。日弁連のサイトには、弁護士報酬の目安が掲載されています。
 https://www.nichibenren.or.jp/contact/cost/legal_aid.html
また端的に弁護士費用の相場を書いたサイトもあります。
 https://www.bengoshihiyo.com/

 これらは、すべての事件を網羅しているわけではありませんが、一応の参考にはなるでしょう。法科大学院の学生も、一度閲覧すべきだと思います。なぜなら、学生諸君の勉学態度をみていたら、自分たちが将来これほど高額の報酬をもらうのに相応しい能力を求められていることに気づいていないように思うからです。一般市民どころか、会社の経営者などからみても、さすがは法律のプロといえるだけの能力がなければ、到底このように高額の報酬を払う気にはならないでしょう。そういう世界を目指していることを改めて自覚する必要があります。

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