・.はじめに

 この論文は、後期ウィトゲンシュタインの主要な成果である、言語の意味を内的出来事に還元する考え方の否定の際にとられた、行動主義的方法の裏面(1)と考えられる「独我論的方法」について考えてみたい。行動主義的方法については、ウィトゲンシュタイン自ら対話者に「仮面をつけた行動主義者ではないのか」(2)という問いを出させているように、ウィトゲンシュタインが一貫して問うてきた方法である。内的出来事から出発し、ふるまいや表出された言語(外的出来事)へいたるという方向を徹底的に否定する方法である。しかし無論ウィトゲンシュタインは行動主義者などではなく、行動主義者が通常全否定する内的な出来事については、「なにかでもなく、なにものでもないわけでもない」(3)という言い方で、全否定することを避け、内的出来事から外的出来事へという方向に転換することをめざす。さてそれでは、この行動主義的方法の裏面である「独我論的方法」とは、どのようなものだろうか。大雑把な言い方をすれば、行動主義的方法が「他人の痛み」における内的なものを否定する方法だとすれば、「独我論的方法」とは「自分の痛み」における内的なものを否定する方法だといえる。このような「独我論的方法」によって自他の非対称性が消滅し、消滅した地点から言語ゲームが始まる(4)ということになる。しかしはたしてこの方法はうまくいっているのだろうか。

 ハッカーは、周知のように『洞察と幻想』のなかで、ウィトゲンシュタインの前期から後期への過程を独我論からその論駁にいたる過程としてとらえた。確かにハッカーの詳細な分析(5)をたどれば、前期の独我論は完全に論駁されたかに見える。しかしウィトゲンシュタイン自身独我論を「トートロジー」的なものと言っている(6)ように、独我論はわれわれの「文法」の構造そのものに普遍的に妥当するものではないのか。そうすると「独我論」は論駁できるようなものではなく、常につきまとっているものではないのだろうか。この点をウィトゲンシュタイン哲学を後期から前期へと逆に遡り考えてみたい。

・.「痛み」の分析

 ウィトゲンシュタインは『哲学的探求』のなかで、痛みの分析をまず他人の痛みから始める。

 「「しかしあなたの言っていることは、たとえば痛みのふるまいがなければ痛みなど存在しないということになってしまわないか。」−それは次のようになる。ひとは、生きている人および生きている人に似ている(似たふるまいをする)ものについてのみ、それに感覚があるとか、それは見ているとか、見えていないとか、聞いているとか、聞こえないとか、意識しているとか、意識がないとか言うことができるということ。」

 「人間のようにふるまうものについてのみ、ひとはそれが痛みを感じていると言うことができる。」

 他人の痛みは人間のようなふるまいがないかぎり、わからない。そのようなふるまいが規準として働かないかぎり、他人が痛みをもっているかどうかは判別できないということである。ふるまいを規準としてそこから痛みへいたることは可能であるが、逆は不可能であると言っている。そして今度は「痛み」を感じているのが身体なのかどうかと言う問題に移りつぎのように言う。

 「痛みを感じているのは身体なのかというのは、どういう種類の論点なのか。−どうしたらそれに決着がつくのか。どうしたら痛みを感じているのは身体ではないということが承認されるのか。−多分こういうことであろう。だれかが手に痛みを感じているとき、そのように言うのは手ではなく(書くのは手であるが)、ひとはその手を慰めないで、痛がっているひとの目を見るのである。」(9)

 このことにより痛みの問題が個別の人間の身体の次元の問題ではなく、いってみれば人間の主体あるいは人間という個体の中心の問題であることが示唆される。このようなかたちで次元が移行することにより、今度は唐突に「わたしの痛み」へと話題が移っていく。「他人の痛み」はそのふるまいによって判定可能なのに対して、自分自身の痛みはどうなのかという問題である。『哲学的探究』293節はつぎのように始まる。

 「さて、ひとはみな自分自身についてのみ、痛みの何たるかを知っているとわたしに言う!−各人が箱をひとつもっていて、そのなかにはわれわれが「かぶと虫」と呼んでいるような何かが入っていると仮定しよう。」(10)そしてこの仮定の結論としてつぎのように言っている。

 「箱のなかのものは、一般に言語ゲームの一部ではないし、またあるなにかですらない。なぜならその箱は空でさえありうるのだから。」(11)ここで言っているのは、自己の痛みがなんであろうと、そしてそれが他人の痛みと同一であろうとなかろうと、そんなことは一向に関係ないのであって、表面的で公共的な言語ゲームさえうまくいけば、問題はないということである。つまり「当の対象はどうでもいいものとして考察からぬけおちてしまうのである。」(12)したがって「同じ表現を用いることによって言語ゲームが終わるのではなく、それとともに始まるのである。」(13)以上からわかるのは、他人の痛みに関しては、そのふるまいにおける規準によって痛みの有無を判定し自分の痛みについては、同じ表現を用いることによってそこから直ちに言語ゲームが始まるのであって、そこに実体的な痛みが存在する必要などまったくないということである。だからといって痛みは存在していないなどと言っているわけではない。ウィトゲンシュタインによれば「痛みとは、なにかでもなく、なにものでもないわけでもない」(14)のだ。これがウィトゲンシュタインが最終的に到達した「言語ゲーム一元論」の地平である。

 しかしこれは奇妙な事態だと言わなければならない。この奇妙さはどこからくるのか。自分と他人に共通なものは「痛み」という語でありその使い方である。ここが出発点でありこれ以上遡ることは禁止されている。他人についてそれが痛みを感じていると言うためには、呻く、転がる、顔をしかめる、あるいは「痛い」と叫ぶといった痛みの表出があれば十分であり、そのような外的な表出を規準としてかれは痛いと言うことができる。しかしそこから「なにかでもなく、なにものでもないわけでもない」ものに到達できるかどうかはわからない。ところが自分については、そのような規準はない。つまり自分の痛みを「知る/知らない」という事態は存在せず、端的に痛いのであり、その時「痛い」という単語を発すればそこから言語ゲームは始まると言うのだ。しかしそうだとすれば、どうやって同一性を判定する規準の成立しない別のレベルである「他人の痛み」と「自分の痛み」を同じ「痛み」であると同定できるのだろうか。そもそも「痛み」という語がなぜそのようにまったく異なる次元のものに同じように使われるのだろうか。後期ウィトゲンシュタインの立場からすれば、これは問いの立て方が間違っているのであり、同じ「痛み」であると同定するしないはまったく問題ではなく、単に同じ「痛み」という言葉を使っているだけだということになる。このような問題は、われわれの日常の場面では発生しないというわけである。たとえば私的言語論の文脈で「「他人はわたしの痛みを感じることはできない。」−どれがわたしの痛みなのか。なにがここで同一性の規準と考えられているのか。」(15)という問いをたて、最終的には「その場合の「痛み」という語の文法こそ、すでに準備されていたものであり、それはこの新しい語の配置される場所をさしている。」(16)という答えが提出される。このように言語や語の文法に解消する方法への転換が、グロックの言う「言語論的転回」(17)である。しかしこれは問題の解決になっているのだろうか。

・.多我論

 『哲学的探究』の「痛み」についての考察においては、自他の非対称性はふかく追究されず、自己の痛みは「痛み」という語を発することにより言語ゲームの出発点となるものとして理解されただけである。しかし『哲学的探究』執筆開始と時期的にかさなる「「個人的経験」および「感覚与件」について」においては、「わたし」の文法について不思議な想定がなされている。

 「わたしはことがらを非対称的に表現している。しかしそれを対称的に表現することもできよう。そのとき初めていかなる事実がわれわれを非対称的な表現にかりたてるのかがみてとれよう。そうするためにわたしは「わたし」という語をL・W 一人にだけではなくすべての人体に拡げて使う。わたしにあるものが他人にもあると仮定する、あるいは信じるといった言い方をしなくなるような状況を描写したいのである。すなわちわたしの意識や彼の意識を云々しなくなるような状況である。そこではわれわれはただ自分自身の意識を意識できるだけだという考えが頭に浮かぶことはないだろう。」(18)

 自他の非対称性をなくすために、「わたし」という語を対称的に他者にまで拡張して使うという想定である。そしてこの想定をすることにより「一つの体にすむエゴという観念は捨てなければならない。」(19)とウィトゲンシュタインは言っている。確かに一つの体つまりL・W に「わたし」というものは限定されないことになるが、これこそまさに独我論をつくりだす根源的な事実である。「わたし」という語の使い方がL・W に限定されるという「非対称的状態」から、「わたし」そのものが限定されることなく全事象をおおうことによって独我論は成立するからだ。しかしこのウィトゲンシュタインの想定においては、「わたし」は限定されないだけではなく他のすべての人体に使われることになるのだから、独我論へは向かわない。ウィトゲンシュタインも言うように「独我論となにからなにまであべこべになっている哲学を考えることはできないだろうか。」(20)という思考実験なのである。もしこの思考実験の想定が可能な想定であるならば、われわれの独我論は、ある意味で「わたし」という言葉の非対称的な使い方が原因で生じるのであり、独我論をうみだすさらに根源的事実である「わたし」の非限定性を不問に付すならば、その根源的事実から独我論的考え方だけが出てくるというわけでは必ずしもなくなる。つまり「わたし」という表現形式(ウィトゲンシュタインの言い方を使えば「文法」)がふかく関わっていることになる。それではこのような「独我論とはなにからなにまであべこべ」な想定は可能だろうか。もちろんこのような想定はまったく無理な想定である。すべての人体の範囲やそれらが同時にさまざまなことを行っていることを考えれば、そのような人体の内側から「わたし」が意識するというのはまったく不可能なことである。ウィトゲンシュタイン自身もそのことは認めている。

 「わたしがなにかを見ているということは、わたしだけが知っていて他人は知らないというのは馬鹿げているとしても、−その反対のことを言うよりもとにかくましではないか。」(21)

 したがって確かに「エゴという観念」がひとつの体にすみついているという考えの拒否は、独我論あるいは一般に観念論が唱えられるための根拠として認められるが、それをすべての人体に対称的に拡張するという「独我論とあべこべな」多我論とでも言うべき考えは、とても不可能に見える。そうなると「わたし」が非限定であり、特定の個人に結びつくわけではないという事実から、通常の独我論と今想定した多我論の二つが出てくるわけではないので、通常の独我論も「わたし」という言葉の表現形式によって決まってくるわけではなく、事実的な必然性によるものだと結論せざるをえない。われわれにとって思考可能なのは、「わたし」を自分の肉体から切り離して独我論的状況にするまでなのであり、それ以上の思考実験は不可能なのだ。しかしウィトゲンシュタインは、この想定が不可能なのをうけてつぎのように言う。

 「事実の構成要素という観念。「わたしという人間(一人の人間)は、わたしが見ているか見ていないかという事実の構成要素なのか。」これはまるで何か自然について問うているように聞こえるが、記号表現についての問いを表しているのだ。」(22)

 はたしてウィトゲンシュタインがいうように記号表現だけの問題だろうか。記号表現だけの問題つまり単に言語だけの問題であるかどうかということを検証するためにウィトゲンシュタインは、あのような無理な思考実験を考えだしたのではなかったのか。あの思考実験を不可能なものとしてしりぞけたわけだから、今の引用の問いも「自然」つまり事実についての問いでなければならない。なぜこれを「記号表現」の問いとウィトゲンシュタインは言うのだろうか。別の角度から考えてみたい。

・.独我論的方法

 ウィトゲンシュタインはおなじ「「個人的経験」および「感覚与件」について」のなかで、一か所だけ「独我論」について肯定的に述べている。

 「「しかし君はなにかを無視していないか−経験を。君がそれを何と呼ぼうとかまわないが−たんなる言葉の奥にある世界とまず言っていいものを。」

  だがここで独我論が教訓を与えてくれる。独我論の考えこそこの誤謬を破壊する途上にあるものである。というのは、その世界が観念であるとしたらそれはだれの観念でもない。(独我論はここまでは言わずにそれはわたしの経験だと言う。)しかしもしその観念の国が隣人をもたないならば、その世界がなんであるかをわたしが言うことができようか。わたしがするのは世界という語を定義することだけである。」(23)

 自分自身の内的な経験に依拠する相手が、ウィトゲンシュタインに対して「言葉の奥にある世界」があるだろうと詰問するのに対して、ウィトゲンシュタインはそのような考え方は独我論によって論破することができると言っている。つまりそのような観念(「世界」)は、独我論的考え方によれば「わたしの観念」であり、かつその「わたしの観念」は世界中に唯一つしかないので、だれの観念とも言えず、それはとりもなおさず他の観念と比較不可能であるということであり、そのことによってその観念についてなにかを言うことは無意味化されるというわけである。したがってウィトゲンシュタインは「「わたしは言わないですむことを無視しているだけである。」」(24)と結論を述べる。しかしこのことは、ウィトゲンシュタインの言うように「記号表現」の問題だろうか。事実の問題ではないのか。というのも自分自身だけがもっている「わたしの観念」が世界そのものであり、それは別の観念と比較不可能なのだから、それについてとやかく言うことはできないというのは、自他の非対称性に発するまさに根源的な事実だからである。

 つまりここでウィトゲンシュタインが言っていることは「だれにも帰属しない観念的な世界が存在するのは確固たる事実で、それは比較不可能である。したがって「知っている/知らない」あるいは「存在する/存在しない」などと言うことはできない。事情がこのようになっているので、わたしはそれを無視して言語だけの世界でことをすませたい」ということである。しかし最初に詰問した内的出来事に依拠する相手をこのようにして説得できるであろうか。相手は「わたし独自のかけがえのない経験がある」と言っているのにたいし「「わたし独自の」ものはないが、もっと広大な世界全体をおおう「観念の領野」があるのだ。それについて語るのは無意味だけれど」とウィトゲンシュタインは言っているわけである。これは説得というよりも相手の言ったことを認めてその上でまったく別の提案をしているだけである。この奇妙な「説得」は、『哲学的探究』における内的出来事や自分独自の経験に対するウィトゲンシュタインの態度とは明らかに異なっている。『哲学的探究』においては、内的な経験をもちだす相手に対しては徹底して「言語ゲーム」のレベルで対処し、そのような内的なものについては言語のほうから出発して「なにかでもなく、なにものでもないわけでもない」ものという言い方しかしない。この「「個人的経験」および「感覚与件」について」におけるやり方のように、直接「独我論的考え」をもちだすことはないのである。そしてこのような「独我論的考え」をもちだすのが、・で述べた「独我論的方法」である。この方法は、先に言及したように自他の非対称性に基づく方法なので、他人の経験は原理的に存在しない。つまり「その証拠がまったくありえないとき、他人の経験という観念をもつことすらできないのではないか」(25)というわけである。この「独我論的方法」についてハッカーはつぎのようにまとめている。

 「ウィトゲンシュタインの立場は、実は「無所有性」論者のそれである。彼はつぎのように論じた。「わたし」という語は二つの使用をもつ。一つは「わたしはマッチ箱をもつ」や「わたしは虫歯をもつ」の場合のように、「彼」と同一水準にあるものであり、もう一つはたとえば「わたしは歯痛をもつ」の場合のように、固有名詞やそのほかの人称代名詞と同一水準にはないが、しかし「歯痛が存在する」という形式によって消去可能なものである。」(26)

 この二つの「わたし」の用法のちがいは、前者がもっているものを外的に確認できるのに対し、後者はなにによっても確認できないということである。しかし事態はそれほど簡単であろうか。まず使用と事実の違いを確認しておきたい。「わたしはマッチ箱をもつ」と「わたしは歯痛をもつ」は言語的な使用の上では、同じような用法として使われている。「わたしは〜をもつ」という形式の言い方である。二つの言い方が異なるのは、わたしのもっているマッチ箱は視覚その他によって確認できるが、わたしの歯痛はそれができないというものである。しかしこれは、使用による違いというよりも事実的な自他の非対称性によるものである。つまりわたしのの歯痛には「知る/知らない」という可能性が原理的にはいってこないからなのである。するとこの事態は「わたし」という言葉が二つの「使用」をもつというよりも、わたしがそこに存在している事態つまり自他の非対称性により、「わたし」という言い方は同じ使用であるにもかかわらず、異なった様相を呈すると言うべきである。さてそれでは本当に異なった様相を呈するのだろうか。

・.「わたし」ということ

 「わたしはマッチ箱をもつ」と「彼はマッチ箱をもつ」とは同一水準だというのは、マッチ箱が同定可能だという点では確かに正しい。しかしこの二つの言い方から「マッチ箱」を除くと明らかに水準が違ってくる。「わたしは〜もつ」というのは、そのことを「知る/知らない」という可能性が排除された状態であるのに対して、「彼は〜もつ」というのはこちらから観察可能なものであり「知る/知らない」と言うことができる。したがって「わたしは〜もつ」と「彼は〜もつ」とは同一水準にはない。そう考えると「わたし」の使用に二つあるのではなく、「わたし」という代名詞そのものが他のすべての代名詞と異なっているということになる。どのように異なっているのか。ウィトゲンシュタインはたとえばつぎのように言っている。

 「「わたし」という語は、たとえわたしがL・W であったにせよ、「L・W」 と同じことを意味しないし、「いま話しているひと」という表現と同じことを意味するのでもない。しかしそれは「L・W」 と「わたし」は別のことを意味しているということではない。ただ二つの語はわれわれの言語において異なった道具だということだけである。」(27)

 「わたし」という語はたまたまL・W が使っているから、「L・W」 という語と一致するが、しかしそもそも「わたし」という語がもっている道具としての働きは「L・W」 とはまったく異なると言っている。「L・W」 は特定の人物を指示する語であり「わたし」というのは、だれも指示せず中心であることを表現しているだけであり、厳密に言うと必要のない言葉である。つまり「命題「わたしは痛い」と「スミスが痛い」との違いは、「L・W が痛い」と「スミスが痛い」の違いではない。むしろ呻くこととだれかが呻いていると言うこととの違いに対応するものだ。」(28)ということになる。そうなるとこの例で考えるならば、「わたしは痛い」という言明は、ただ呻けばいいのであり、「わたしは痛い」と言う必要はない。それに対し「彼が痛い」という言明は「だれかが呻いている」と言う必要がある。つまり「わたしは痛い」と「彼が痛い」との違いは、純粋に言語の用法上の違いではなく、事実に基づく自他の非対称性の違いなのである。

・.実在論的独我論と言語論的独我論

 『論理哲学論考』において独我論はつぎのような言い方で述べられている。

 「5.6 わたしの言語の限界は、わたしの世界の限界を意味する。

  5.61 論理は世界に充満している。世界の限界は論理の限界でもある。思考できないものを思考することはできない。かくして思考できないものは語ることもできない。

  5.621世界と生はひとつである。

  5.631思考し表象する主体は存在しない。

  5.632主体は世界に属さない。それは世界の限界である。

  5.633世界のどこに形而上学的主体が認められるのか。

  5.64 ここにおいて独我論を徹底すれば純粋な実在論に合致することがわかる。独我論の自我は延長をもたない点へと萎縮し、残りのものはそれに対応していた実在のみとなる。」(29)

 『論理哲学論考』のこの独我論はあきらかに二種類ある。(5.6と5.61 の二つと他のものの二種類)ハッカーの言葉を借りれば「意味論的ルート」と「認識論的かつ形而上学的ルート」(30)の二種類である。前者をペアーズにしたがい「言語論的独我論」(31)と呼び、後者を実在論と最終的に一致するという意味で「実在論的独我論」と呼びたい。『論理哲学論考』の世界観においては、論理と世界は同じ論理形式を所有し論理空間の全可能性が世界と対応している。そしてそのなかの可能性の一つが実現し「わたしの世界」になり、それは論理と対応しているのだから、「わたしの言語」にもなる。これが「言語論的独我論」である。それに対し伝統的な独我論からコギトを消去したのが、「実在論的独我論」である。ウィトゲンシュタインは、この二つの独我論を同一のものとしている。しかしこの二つの独我論は同じものなのだろうか。ハッカーは、この「実在論的独我論」がショーペンハウアーの著しい影響下に成立したことを指摘したあとで「ここでのウィトゲンシュタインの独自なところは、彼がこれらの教説を『論理哲学論考』の大部分がかかわっている精密な意味の理論に接合しようとしたところにある。」(32)と言っている。「意味論的ルート」つまり「言語論的独我論」は、『論理哲学論考』全体の意味の理論から自ずと出てくるのに対し、「実在論的独我論」のほうはそのような必然性はもっていないと指摘しているのである。そしてこのように半ば強引に二つの独我論を結びつけたことが、後期思想に影響を与えたのではなかろうか。

 『論理哲学論考』では「言語論的独我論」に「実在論的独我論」を結びつけることにより、言語のレベルと実在のレベルが、論理形式の共有という『論理哲学論考』の他の部分の教説と同時に独我論という考えによっても結びつけられた。そして中期から後期にいたる過程で、論理形式の共有という考えは捨て去られ言語による一元的世界観へと移行する。しかしもう一つの独我論の方は、ハッカーの言うように執拗に批判され続けるにもかかわらず、先述したように『哲学的探究』の段階でも事実的な自他の非対称性というかたちで「言語ゲーム」に影響を及ぼし続けている。『哲学的探究』290節の「出発点」という言い方は、ハッカーの言う独我論の論駁というよりも、独我論的状況に拘泥するのをやめてその状況に背を向け言語のほうへと方向転換したということを意味するのではないだろうか。

・.まとめ

 ウィトゲンシュタインが『哲学的探究』において、内的な出来事や私的言語を執拗に攻撃し外的な規準や言語ゲームを強調するのは、独我論的状況がわれわれの事実的な枠組みとしてアプリオリに存在していて、そのような枠組みに依拠して自らの後期思想とはまったく異なる哲学を構築するのも可能だと熟知していたからではないのか。ウィトゲンシュタインは自らの「言語ゲーム一元論」の背後には、このような独我論的哲学の領域が拡がっていることを知っていたのではないか。そしてこのような意味でウィトゲンシュタインは、独我論を論駁したというよりも不問に付したのであり、独我論についての別の表現を試みたとさえ言えるのではなかろうか。その意味でつぎのクックのウィトゲンシュタインの独我論にかんする見解には全面的に賛成できる。

 「後年ウィトゲンシュタインは独我論的考えを放棄したわけではなく、形式の点で再定式化したのである。(中略)ウィトゲンシュタCンの基本的な考えは変化していない。ただ新しい言い方をしただけなのだ。」(33)                   (了)

 

 

ウィトゲンシュタインの引用は、つぎの翻訳を参考にさせていただいた。ただし訳文は、地の文との兼ね合い等により随時変更させていただいた。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』坂井秀寿訳 法政大学出版局、『ウィトゲンシュタイン全集6』(『青色本・茶色本』、「個人的経験」および「感覚与件」について」大森荘蔵訳 所収)1975年、『ウィトゲンシュタイン全集8』(『哲学探究』藤本隆志訳)1976年 大修館書店、ウィトゲンシュタイン『哲学的探求』第一部黒崎宏訳 産業図書 1994年

(1)Hans-JohanGlock,AWittgenstein Dictionary, Blackwell,1996,Oxford UK,p351(2)Ludwig Wittgenstein,PhilosophisheUntersuchungen,Suhrkamp,1977,Frankfurt amMain,§307(以下Pと略記)(3)P,§304(4)P,§290(5)P.M.S.Hacker,Insight and Illusion,Clarendon Pr.1986,Oxford,・ The Refutation of Solipsism(『洞察と幻想』米澤克夫訳、千代田出版、1981を参照したが、訳文変更させていただいた。)(6)LudwigWittgenstein,The Blue and Blown Books,Basil Blackwell,1958,Oxford,p71(以下Bと略記)(7)P,§281(8)P,§283(9)P,§286(10)P,§293(11)P,§293(12)P,§293(13)P,§290(14)P,§304(15)P,§253(16)P,§259(17)Glock,上掲書,p350(18)Ludwig Wittgenstein,Notes for Lectures on "Private Experience"and"Sense Data",Philosophical Review,vol77,1968,pp281-282(以下Nと略記)(19)N,p282(20)N,p282(21)N,p282(22)N,p282(23)N,pp296-297(24)N,p297(25)B,p46(26)Hacker,上掲書,p223(27)B,p67(28)BB,p68(29)Ludwig Wittgenstein,Tractatus Logico-Philosophicus,Routledge and Kegan Paul LTD,London,Boston,Henley(30)Hacker,上掲書(31)David F.Pears,Wittgenstein's Treatment of Solipsism in the Tractatus,Criteria 6,1972,p58(32)Hacker,上掲書,p100(33)John W.Cook,Wittgwnstein'S Metaphysics, Cambridge UP,New York,1994,p66