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                                        藤枝静男中毒者
  
 藤枝静男(1908〜1993)をご存知でしょうか。静岡県藤枝に生まれ、旧制八高で平野謙・本多秋五と出会って終生の友となり、戦後は浜松で眼科医院を開業するかたわら、年に短編数編程度の寡作ペースで小説を書き続けた作家。どんな作品を書いたの、と問われれば、ただ一言、突き抜けた作品を書きました、とだけ答えておきます。あとは自分で味わってみて下さい。食べてみて、吐き捨てるもよし、満腹するまで藤枝作品をむさぼり読むもよし。代表作として『空気頭』、『欣求浄土』、『田紳有楽』を挙げておきます。

私・藤枝静男中毒者が藤枝静男ゆかりの土地・藤枝を訪れたのは2001年の盛夏。叩きのめすような日射しのもと、藤枝作品に描かれた町を慌ただしく踏破。その折の報告文、とあるサイトに投稿・掲載していただいていたのですが、同サイトが閉鎖の憂き目に。そこで、このたび中村昇さんのサイトに間借りさせていただくことになりました。

中村さんとは藤枝静男の話で大いに盛り上がりました。いつだったか多摩キャンパスのペデストリアンデッキを歩きながら短編小説「一家団欒」の話になって、

私「あれにはぶったまげますね!」

中村「おぉ〜!あんなの読まされたら、もう何を言ったらいいのか困っちゃうよね〜!」、

なんて意気投合したのを思い出します。中村さんのご厚意で拙文がふたたび日の目を見ましたこと、心より感謝申し上げます。(2003年2月17日)



 


  藤 枝 行 報 告                             

                                          藤枝静男中毒者

 

 2001年7月14日(土)快晴。酷暑。日帰り強行軍にて<藤枝サーガ>の地を歩いてきました。

 

今回の藤枝行では、当初の予定通り、 岳叟寺(がくそうじ)の勝見(かつみ)家累代之墓にお参りし、藤枝市郷土博物館前の藤枝静男文学碑を拝観することができました。

 

お墓は、岳叟寺にはいってすぐに見つかりました。お寺の本堂に向かって左手の墓地に入って、ほんの10メートルもありません。勝見家の方で戦死されたらしき方の星印のついた背の高いお墓がありまして、そのすぐ横です。

 

 勝見家のお墓は全部で4つ。藤枝静男さんのご両親、お兄さん(秋雄氏)、弟さん(宣夫氏)、そして藤枝静男(本名・勝見次郎)さんがおなじのお墓におられます。お兄さんの秋雄さんは藤枝さんの小説のあちこちに登場されますし、弟さんの宣夫さんも、「イペリット眼」「一枚の油絵」「山川草木」・・・などなどに登場されますね。お墓に水をかけます。墓石が暑さで焼けていて、すぐに乾いてしまいます。桶に水を汲みかえて何度も水をかけます。お花と線香をおそなえして合掌。藤枝静男さんご本人の目の前にいるような気持ち。「藤枝さん…」と声が出てしまいます。

 

 ついで藤枝静男文学碑を訪ねました。藤枝市郷土博物館の入り口近くです。向かって左側に磨いた黒大理石。そこに藤枝静男さんが自筆で書かれた「一家団欒」の冒頭近くの一節    

 

 「空からの光りともつかぬ、白っぽい光線が湖上に遍満していて、水だけはもう生ぬるい春の水になっていた。」

 

が彫り込まれています。こんなふうにして藤枝さんの言葉が、文字が、石に刻まれて半永久的に藤枝の地に佇み、藤枝さんの愛したこの土地に溶けこんでゆくのですね。藤枝さんもきっと喜んでいるのではないでしょうか。ファンとしては嬉しいかぎりです。

 

原稿用紙のます目も石に刻まれています。この原稿用紙は「勝見次郎用箋」と印刷されていました。阿部昭氏との対談で藤枝さんは、自分は未だに藤枝静男の名で名刺を作ったことがない、といっていましたが、原稿用紙もそれと同じだったのかもしれません。

 

  向かって右側の石には、小川国夫さんの言葉

 

  「不安定な気持ちに陥ちこんでしまった理想家のほとんど敗残の姿を彼は自画像として書きました 私には見えます純粋ひたむきな藤枝さんが藤枝の町を歩いています」    

 

が刻まれています。この文学碑の後ろには、藤枝作品によく登場する高草山が見えます。ロケーションがよく考えられていますね。藤枝さんと同郷の作家・小川国夫さんの『藤枝静男と私』によると、小川さんは晩年の藤枝さんと夜霧のなか自動車で高草山に登り、霧のためもうこの先は危険というところまで行かれたとのこと。高草山は頂上にテレビ塔が立っているのが目印で、藤枝の町のいたるところから見えます。高草山が見えるたびに、あの山に藤枝さんが登ったんだな、あの山が藤枝さんは好きだったんだな、という思いが湧いてきます。

 

 郷土博物館では、館員の方々にわがままを言って、藤枝の大正時代や昭和初期の旧市街地図をみせていただき、藤枝さんのご実家(勝見薬局)や近親の方々のお宅などを地図上で探索。あれこれとお世話して下さった男性館員の方は、藤枝さんに会ったこともあるそうです。羨ましい。

 

 郷土博物館を出たあと、蓮華寺池を一周し、蓮華寺池の奥の山の上にある富士見平にも登りました。蓮華寺池は、「盆切り」や「土中の庭」ほか、多くの藤枝作品で「周囲2キロの池」などと書かれている場所。富士見平は、「悲しいだけ」の結末近くに出てきます。この日は水蒸気がたっていて富士山は見えませんでしたけれども。

藤枝さんの生家跡も歩いてきました。旧東海道沿いに大黒様があるのですが、この大黒様に向かって左に警察署、それから外科医院があり、さらにその隣に蕎麦屋さんがあります。このお店が、かつて勝見家の薬局のあった場所のようです。お店の裏は木造の空き家でしたが、藤枝さんの実妹にあたる方(『或る年の冬 或る年の夏』に登場されますね)が、何年か前までこのお宅に住んでおられたようです。

 

『茫界偏視』所収の「泡のように」の記述と照らし合わせると、大黒様は、藤枝さんの子供時代から現在まで同じ位置にあるようです。その隣の警察署が、『或る年の冬 或る年の夏』などで、逮捕者が拷問される物音が聞こえると書かれていた警察署ですね。現在外科医院がある場所が、「雄飛号来たる」などに出てくるハリストス教会の跡なのでしょう。

 

先ほど名前が出た小川国夫さんの自宅も、おなじ旧東海道沿いです。小川邸は「蓮華寺池公園入り口」のバス停の真っ正面の、立派な門構えのお宅。この小川邸から北東方向に旧東海道をしばらく行くと、左手に上述の藤枝さんの生家跡の蕎麦屋さんが見えてきます。

 

この旧東海道からすこし入ったところにある養命寺(ようめいじ)にも行きました。成蹊中学を4年で修了ののち、高校浪人をしていたころ、実家の近くにある古寺の一室を借りて勉強をしていた、という話をあちこちで藤枝さんが書いています。「一家団欒」では、勉強していたお寺の墓地でペニスに刃物で切り傷をつけるなんて話も出てきます。そのお寺はここではないかと推測して訪れたのですが、思わぬ収穫がありました!

 

 たまたま外に出ておられたお寺の奥さんとおぼしき方に藤枝さんのことを尋ねると、藤枝さんが下宿したいたのはまさにこことのこと。そのうえ、「藤枝静男さんの描いた絵の複製がこの寺にある」と!わざわざ母屋の奥から額ごともってきて見せて下さいました。額の大きさは横30×縦40程度で、そこに養命寺の本堂から境内を描いた水彩画が収められています。あいにく来客があって、くわしい話はお聞きできませんでしたが、おそらく高校浪人中に描いたものと思われます。細かいタッチで写実的に描くというよりも、大まかなタッチで色を置いてゆくような絵です。写生画でありながらどこか求心的・内省的。もちろん、所詮は素人の絵、過剰な読み込みは禁物とは思いつつ、のちの藤枝文学の魂のようなものを、そこはかとなく感じてしまいます。

 

 最後に、短編集『欣求浄土』の「沼と洞穴」の冒頭に出てくる青池に行きました。中学生・高校生くらいの少年たちが池の周りで釣りをしています。「沼と洞穴」で描かれている昔の青池の面影は残っていませんが、あそこにでてくる「小祠」らしきものは見ることができました。もちろん、藤枝さんが描いているとおりのものではなく、ずっと大きくなって、小さいながら鳥居も建てられていましたが。この青池からは、「沼と洞穴」で「O山」と書かれている岡出山も見えます。

 

  藤枝に行ったことをきっかけに、藤枝文学とのつきあいが一段深まった思いがします。藤枝文学の舞台を実際に歩けたことは大きな収穫でした。しかし、藤枝文学との、いわば現実面ないし<外面>でのつきあいが実現された分、今度は、ほかでもないこの私にとって藤枝文学がどうしてこんなに魅力があるのか、藤枝文学が私のどのような部分と共鳴するのか、という<内面>でのつきあいがおのずからクローズアップされることになります。これは自己解剖のようなものを伴う、ある意味では重い問いとなりそうです。もちろん、ちゃらんぽらんな私のことですから、深刻ぶってもたかが知れていますけれど。

 

  東海道線で藤枝を発ったのは夕方でした。夕陽を背に黒く見える高草山の麓を、列車は静岡に向かいます。焼津のトンネルにさしかかるまで、車窓の向こうにはずっと高草山が見えていました。