宮沢賢治作品における対立の構造とその止揚

                   渡部芳紀

 宮沢賢治と、その作品と、それらを生み出した岩手の自然が好きで、岩手を舞台とした作品を読んできた。何度も読んでいるうち最近感じたことがあるので書いてみる。まだ輪郭だけのものだがまとめてみた。いずれ各論で詳述してみたい。

 賢治のイーハトヴ童話の中心は二つある。一つは岩手山東南麓から盛岡にかけて。もう一つは花巻の周辺である。ここでは岩手山南麓の狼森周辺を舞台にした 「狼森と笊森、盗森」、東南麓の沼森近辺を舞台とした「かしはばやしの夜」、花巻の西のなめとこ山周辺を舞台とする「なめとこ山の熊」、北上川の西の山裾 を舞台とする「鹿踊りのはじまり」、三陸海岸の陸前高田の氷上山の西を舞台とした「雪わたり」の五つの作品を中心に取り上げる。

「狼森と笊森、盗森」は、私の最も好きな作品の一つである。ここには、人と自然の温かな交流が描かれている。賢治は「広告文」の中で、この作品について <人と森との原始的な交渉で、自然の順違二面が農民に与へた永い間の印象です>と書いている。順違とは、。・すなおさ・と・さからい・である。この作品に おける<順>の・すなおさ・とは<この森にかこまれた小さな野原>にやって来た農民たちが<ここへ畑起していゝかあ>と問うと<いゝぞお>と応え、家を建 て、火をたき、木をもらうことを頼んだ農民たちに許可を与えた自然の対応を言っているのであろう。では<違>の・さからい・とは何を指すのだろうか?作品 ではそれは・さからい・と言うほどはっきり出されてないのでわかりにくいのだが、私はそれを森達の・いたずら・ととる。すなわち森が、子供らや農具や粟を 隠したのは、森が農民たちに・いたずら・をしたのだと考えるのである。

 では何故そんな・いたずら”をしたのか?
 それは農民が森の恵み、自然の恩恵を忘れたからである。
 もともと農民はこの森に囲まれた野原に来て、まわりの森の許可を得て住み着き、開墾を始めたのではなかったのか。しかも、<その人たちのために、森は冬 のあいだ、一生懸命、北からの風を防いでや>ったのである。そのおかげもあって、翌秋には<穀物がとにかくみのり、新しい畑がふえ、小屋が三つ>に増え、 <みんなは嬉しくて大人までがはね歩きました>というわけである。
 しかし<嬉しさのあまり農民達は、自分達の幸せが一生懸命働いたためだけでなく森の保護と助けの故でもあったことを忘れてしまったのである。別に森は自 分の親切を誇示する気持ちはなかったであろう。しかし、農民が森のことを全く忘れてしまっているらしいことを寂しく思い、すねたのではなかったか。それ が・いたずら・という形で現れたのではないか。
 幸いにも農民達も森へ感謝することに気付き、粟餅という形で感謝の思いを表すようになった。そのため農民達と森は、<さてそれから森もすっかりみんなのともだちでした>と極めて良好な関係になるのである。
 秋祭りの起こりを暗示するような話でもある。かくして農民と森は互いに支えあって生きていくのである。

「かしはぱやしの夜」は、不思議な魅力を持った作品である。話の内容から言えば特に好きな作品ではない。この作の魅力は歌合戦の歌に示されるオノマトベの楽しさにある。
<のろづきおほん、のろづきおほん、/おほん、おほん、/ごぎのごぎのおほん、/おほん、おほん>と言ったオノマトペが作品全体にちりぱめられている。それを読むだけで価値がある作品である。
 ついでに言っておけば賢治作品の最大の魅力は、オノマトペである。オノマトペを含んだその文体である。それは何回読んでも飽きることがない。読むだけで理屈抜きに楽しいのである。
 私がこの作品をあまり好きでないのは、柏の木大王と農民清作の喧嘩腰のやりとりにある。この両者は、何故、敵対、対立しているのか?それは清作の自然(柏の木大王)に対する傲慢な姿勢による。両者の対立は、次の対話に鮮明に表れている。

「そのひとはよしなされ。前科者ぢやぞ。前科九十八犯ぢやぞ。」
 清作が怒つてどなりました。
「うそをつけ、前科者だと。おら正直だぞ。」
大王もごつごつの胸を張つて怒りました。
「なにを、証拠はちやんとあるじや。また帳面にも載(の)つとるぢや。貴さまの悪い斧のあとのついた九十八の足さきがいまでもこの林の中にちやんと残つてゐるぢや。」
「あつはつは。をかしなはなしだ。九十八の足先といふのは、九十八の切株だらう。それがどうしたといふんだ。おれはちやんと、山主の藤助(とうすけ)に酒を二升買つてあるんだ。」
「そんならおれにはなぜ酒を員わんか。」
「買ういはれがない」
「いや、ある、沢山ある。買へ」
「買ふいはれがない」

 柏の木を切る者と切られる木との敵対関係である。切る者、切られるもの、殺す者、殺されるものの対立関係である。

 木を切る清作には木を切り自然をあやめているのだという何らの反省もなく、山主に礼をしてあるからと、傲慢に木を切る権利だけを主張する。大王は怒り狂う。この両者の間に和解の道はないのか?

 しかし、この清作と大王のやりとりの間には和解の可能性が隠されている。大王は清作に木を切るなと言っている訳ではない。「おれになぜ酒を買はんか。」 と言っているのである。清作は「買ふいはれがない」と言うが、大王は「いや、ある、沢山ある。」と言う。清作は、山主に礼をしてあるからそれ以上礼をする 必要はないと言うのだが、柏の大王からすれば被害者の自分たちこそ謝罪の礼をされて当然だと言うのである。問題の解決は簡単である。清作は木を切らしても らっている礼に大王に酒を買って行けば良いのである。本当の感謝の礼は柏の木そのものにしなけれぱいけないだろうから。もちろん、ただ礼をしただけでは本 当の解決にはならない。清作が心から自分が柏の木を切り殺(あや)めていることを自覚し、そこに罪の自覚を持ち、心から反省し、自分の生活が木の恩恵の上 にあるのだという感謝の念を持たない限り、真の解決はないだろう。清作が自然の前に謙虚になり自然の恩恵に素直に感謝するようになれば自然の方も快く清作 を助けてくれるのではないか。そうなった時、人と自然との間のありうぺき関係ができ上がるのである。

 そうした問題を別の形で描いたのが「なめとこ山の熊」である。
 この作品は、一方では、猟師の小十郎をあしらうずるい商人の旦那への憎悪の念といったものを描きながら、全体では主人公の小十郎と熊たちの温かな交情を描いている。
 ここに描かれた関係は、「かしはばやしの夜」と同じように、被害者と加害者、殺す者と殺される者との関係である。しかし、清作と柏の木大王の関係とはだいぶ様子が違っている。なにしろ<なめとこ山のあたりの熊は小十郎をすきなのだ>というのである。
 自分たちを殺す猟師の小十郎を熊は何故<すき>なのだろうか?
 それは小十郎が熊を殺す罪を自覚し、生活のために仕方なしに、謝罪しながら熊を殺しているからだ。
 小十郎は言う。<「熊。おれはてまへを僧くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめへも射たなけあならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はな し木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ」>と 小十郎は言い、<小十郎は熊どもは殺してみても決してそれを憎んでゐなかったのだ>。という訳である。
 だから、最後、小十郎が熊に殺された時も、小十郎を殺した熊は<「おヽ小十郎おまへを殺すつもりはなかった」>と詫びるし、小十郎の方は、死ぬ時に <「これが死ぬしるしだ。。死ぬとき見る火だ。熊どもゆるせよ」>と自分が殺した熊達へ謝罪の言葉を残して死んでいくのである。小十郎の死後、熊達 は小十郎の遺骸を守り取り囲むようにしている。<いちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったやうになって置かれてゐた。思ひなしかその死んで凍えてし まった小十郎の顔ほまるで生きてゐるときのやうに冴え冴えして何か笑ってゐるやうにさへ見えたのだ。

 小十郎は何故<笑ってゐるやうにさへ見えた>のだろうか?
  一つには罪をおかす人生から解放された安らぎの笑いであろうが、その笑いの中には、自分を殺した熊を決して憎んでいないという許容の表情もあったのではないか。
 
 「かしはぱやしの夜」と同じように、ここにも加害者と被害者の関係が描かれているのだが、その両者の有様は対称的である。清作と柏の木が対立・敵対の関 係にあったのに対し、ここでは、許し許され、相思相愛の関係ができ上がっている。小十郎の罪の自覚と謙虚な態度が熊をしてそのような対応をとらせているの だろう。

 「鹿踊りのはじまり」も最も魅力ある作品の一つである。方言を巧みに使い、前半は舞踏劇のように後半は歌劇のように演劇的に構成され、そこに人と鹿との温かく哀しい交歓の物語が展開されている。
 ここに描かれた人と自然(鹿)との関わりは微妙である。作者は「広告文」で<まだ剖れない巨きな愛の感情です。(中略)鹿が無心に遊んでゐます。ひとは 自分と鹿の区別を忘れ、いつしよに踊らうとさへします。>と言っている。この作品のポイントは、<まだ剖れない巨きな愛の感情>と<ひとは自分と鹿の区別 を忘れ>というところにある。この作品の魅力の一つは人間の嘉十に聞こえてくる鹿たちの方言による会話である。そこには<まだ剖れない巨きな愛の感情>の 表れがあるのであろう。
 何故、嘉十に鹿たちの声が聞こえたのだろうか?
 それは、嘉十が鹿を愛していたからだろう。<銀いろの穂を出したすすきの野原>で弁当を食べた後、<嘉十も、おしまひに栃の団子をとちの実くらゐ残しま した。「こいづさ鹿さ呉(け)でやべか。それ、鹿、来て喰(け)」と嘉十はひとりごとのやうに言って、それをうめぼちさうの白い花の下に置きました>とい う嘉十の鹿への優しさが、嘉十をして鹿の声を聞こえるようにさせたのであろう。嘉十に鹿の声が聞き取れ、その会話や太陽を讃える歌に興を覚え、

<嘉十はもうまったくじぶんと鹿とのちがひを忘れて、「ホウ、やれ、やれい。」と叫びながらすすきのかげから飛び出しました。鹿はおどろいて(中略)はやてに吹かれた木の葉のやうに、からだを斜めにして逃げ出しました>
悲しいことだが鹿は逃げてしまったのである。それは人が鹿との間に次第に作りあげてきた結果である。嘉十ひとりがいかに鹿を愛していようと突然飛び出され ては、鹿も逃げざるをえないのである。そこには厳然たる人と鹿(自然)との<区別>。相違が示されている。この作品には、<巨きな愛の感情>の中にありな がら、結局は<区別>がある人と鹿(自然)の悲しい関係を映している。ただ、救いとして、嘉十に鹿の声が聞こえたということが残されている。人と鹿が<剖 れない巨きな愛の感情>を互いに取り戻す可能性がそこに示されている。その基には、嘉十の<こいづさ鹿さ呉(け)でやべか。それ、鹿、来て喰(け)>。と いう謙虚で優しい気持ちがあったのである。

 「雪わたり」は、<キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キック、トントントン。>といったオノマトペに代表される豊かな音楽性と、人と狐の温かな交歓を描いて魅力ある作品になっている。
 <人をだますなんてあんまりむじつの罪をきせられてゐた>狐と人間の間にあった断絶が、<雪がすつかり凍つて大理石よりも堅くなり(中略)いつもは歩け ない黍の畑の中でも、すすきで一杯だつた野原の上でも、すきな方へどこ迄でも行ける>ようになることによって、人と狐の間に接触がもたれ深い友情と信頼が 生まれることで解消する話である。
 ここでは、いままでの罪の自覚とか謙虚とかは断絶を埋めるものとして出てこない。代わりにあるのは、嘘を言わず正直にすることで培われる信頼と友情である。互いに信頼しあい友情を抱くことで互いの間の溝が埋められるのである。
 ただここでは、そうした友情と信頼が狐の子供と十二歳以下の人の子供の間にだけ可能なように描かれているのが気になるところだ。(ついでに触れておく と、兄が四年生なのに十二歳で狐の幻灯会に出席できないとあるので、作品の舞台は正月以降ということがわかる。<鏡餅>を土産に持って行くので正月の満月 の晩ということになろうか?)。
 大人の間では交歓は無理なのだろうか?そうではなくて、子供を模範にすれば大人の狐と人の大人との間にも可能性があることは示されていると言えよう。
 
 このように「雪わたり」では、ふだん断絶がある人と狐が、正直と信頼の上に友情を培う話である。。「鹿踊りのはじまり」の悲しさはここにはない。人と自然との交流が最もうまくいった例になるろう。

 以上、岩手の自然を背景に展開されるイーハトヴ童話の中から自然と人との交流を扱った作品をいくつか取り上げて見てきた。そこには自然に対する様々な思 いが示されている。自然によって、人が支えられているという感謝の思い。自然を利用し時には傷つけて人が生きているという罪の自覚と謝罪の意識、従って人 は自然の前に謙虚で優しくありたいという気持ちである。

 そしてそれは、たんに人と自然との間の関係でなく人間同士の関係の中でも当てはまることであろう。自分の存在が他の人によって支えられているという感謝 の念を持つこと、自分の存在、行為へ罪の自覚を持ちかつ謝罪の念を持つことにより相手に謙虚で優しく対すること、そうした姿勢の中に、自然と人間、さらに は人間同士の関係を切り開いていく道が示されていると言えよう。
 
宮沢賢治とその作品の魅力としてよく白已犠牲ということが言われる。「銀河鉄道の夜」「よだかの星」「グスコーブドリの伝記」などにそれは鮮明に描かれて いる。  そうした自己を無にして生きる姿の美しさを私も否定するものではない。いや、むしろそれだからこそ賢治を好きなのだが、ただそれだげで賢治を見 たくないとおもうのである。それを一番の理想としながらも賢治は次善の生き方をもわれわれ凡人のために用意していてくれたのではないか。我々は皆が皆自己 を犠牲にして死ねるわけではない。そこまでできないで罪を犯しながらも生き続けているのである。ただそうしたなかでせめてこの程度の生き方はして欲しいと いう思いがこれらの作品には現れているのではなかろうか。
 
 賢治文学には、ほんとうに純粋で自己を無にした美しい生き方とともに、こうした次善の生き方も示されているゆえにさらに私にとって魅力的である。しか し、やや理屈に傾いてしまったようだ。原点にもどれば、以上取り上げた岩手を舞台とした作品群は、その文章を読むだけで魅力的である。そこに流れる詩情と 愛とオノマトペは汲めども尽きぬ魅力を持って私に迫ってくるのである。