「サガレンと八月」論

               渡部芳紀  


   

 宮 沢 賢 治 文 学 の 魅 力

 ー「サガレンと八月」前半を中心にー

宮沢賢治が大正12年8月訪れた栄浜

              「サガレンと八月」は、「タネリはたしか に一日噛んでゐたやうだった」の先行作品と して論じられることの多い作品である。独立 した作品としては殆ど論じられていない。し かも、言及されるとしても作品の後半、タネ リという少年が主人公になっている部分だけである。
今、私は、その前半を特に独立させて取り 上げて行きたい。前半の部分は、校本全集で わずか二ページと四行の短い小品である。し かし、そこに、賢治文学の大きな魅力が隠さ れているのだ。

 舞台は、サガレンの東海岸。<内地の農林 学校の助手><私>が、<標本を集め>るた め浜辺を歩いている。<西の山地から吹いて 来たまだつめた風が>、<「何の用でこゝへ 来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに 来たの。」>と呼びかけながら吹き過ぎて行 く。<私>が、答えても、その答えも聞かず 吹き過ぎて行く。<私>が、返事を待ってい たらいいと不満を述べると、風達は海の沖合 で、私から持って行った言葉を、<はぎ合わ せて>安心したような感じをしめしている。
<私>は、<あしもとの砂に小さな白い貝殻 に小さな孔があいて落ちてゐる>のを見つけつめたがいにやられた貝の標本として雑嚢にしまう。
 すると今度は、波が、<「貝殻なん ぞ何にするんだ。そんな小さな貝殻なんどな んにするんだ。何にするんだ。」>と呼びか けて来る。
 <「おれは学校の助手だからさ」 >と答えても、しつこく<「何にするんだ、 何にするんだ」>と問いかけて来るので、< 私>は、<「ものと云ふものはそんなに何で もかんでも何かにしなけぁいけないもんぢゃ ないんだよ。そんなことおれよりおまへたち がもっとよくわかってさうなもんぢゃないか。 」>と言うと、波は<すこしたぢろいだやう にからっぽな音をたてゝからぶつぶつ呟くや うに答へました。「おれはまた、おまへたち ならきっと何かにしなけゃ済まないものと思 つてたんだ。」>と。
 それを聞くと今度は、 <私>のほうが、<どきっとして顔を赤くし (中略)まるで立っても居てもゐられないや う>に思う。
 そのあとはもう波は語りかけて 来ない。・・・<オホーツク海のなぎさに座 って(中略)はまなすのいゝ匂ひを送って来 るかぜのきれぎれのものがたりを聴いてゐる とほんたうに不思議な気がするのでした。>。
こんな話から<風や草穂のいゝ性質があなた がたのこゝろにうつって見えるならどんなに うれしいかしれません。>と小品は結ばれる。

 この話の展開の中で興味があるのは、波と <私>のやり取りであろう。波があまりしつ こく「何にするんだ」と聞くので<ものと云 ふものはそんなに何でもかでも何かにしなけ ぁいけないもんぢゃないんだよ。そんなこと おれよりおまえたちのはうがもっとよくわか ってさうなもんぢゃないか。>と答えはした ものの、<おまえたちならきっと何かにしな けぁ済まないものと思ってたんだ。>と言わ れると、<私>は、<どきっとして顔を赤く し(中略)立っても居てもゐられないやう> に思つてしまう。
 自然の営みは全てが何かに 役立つようになされているわけではない。自 然の定めとして様々な表情を見せているので あろう。それに対し人間の行為は何かの為、 何か実用的に役立つことの為になされること が多い。<私>は、人間一般と較べればずっ と実用性を重んじる功利主義の価値観からは 遠い。内地を離れこんなさいはての海辺で貝 殻など拾っているところにもそれは表れてい る。そんな人間だからこそ、自然の方の風や 波も不思議がって、かつ好意を持って呼びか けてきたのであろう。しかし、波に、<おま えたちならきっと何かにしなけぁ済まないも のと思ってたんだ>と言われると、<私>も 人間の一員として恥ずかしいと思うと同時に、 厳密に考えれば、自分の行為も、世間にはそ れほど役立つものでは無いとしても、やはり 標本として役立たせようとしたことに違いは 無いことに気づき、<立っても居てもゐられ ない>くらい恥ずかしく思ったのであろう。 自分も何のことは無い。人間の仲間なんだと 思った時、自信を無くした<私>に風や波の コトバは聞こえて来なくなってしまったのだ ろうか。
 しかし、作者はそこまで理屈っぽく は描いていない。<こんなオホーツク海のな ぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなす のいゝ匂を送って来る風のきれぎれのものが たりを聴いてゐるとほんたうに不思議な気が するのでした。それも風が私にはなしてのか 私が風にはなしたのかあとはもうさおおあり わかりません。(中略)たゞそこから風や草 穂のいゝ性質があなたがたのこゝろにうつっ て見えるならどんなにうれしいかしれません >と結んでいるのだから、そのまま素直に< 風や草穂><波>の<いゝ性質>に染まって 行けばいいのだろう。
 そうした、作品の内容や展開の部分に魅力 があるのは勿論だが、それ以上にこの作品が 私を魅惑するのは、<何かにしなけぁいけな いもんぢゃない>部分である。<「何の用で こゝへ来たの、何かしらべに来たの、何かし らべに来たの。」>、<「何の用でこゝに来 たの 何かしらべにきたの しらべに来たの  何かしらべに来たの。」>、<「何してる の 何を考へてゐるの 何かしらべに来たの。 」>と三度くりかえされる風の問い掛けのな んと可愛らしいことか。これらの言葉の美し さを味わってこそこの作品の魅力は十全に発 揮されるのである。
 かねがね、私が言つていることであるが、 賢治作品の最大の魅力は、その文体である。 表現である。その響きの美しさ、楽しさ、リ ズムである。それが最も表れているのが、賢 治のオノマトペ表現である。北原白秋が『赤 い鳥』に翻訳して行った「マザーグース」な どの影響なども受けながら、賢治は、実に新 鮮で魅力的な響きの世界を作り上げている。 <キックキックトントンキックキックトント ンキックキックキックキックトントントン> (「雪わたり」)、<赤いしやつぽのカンカ ラカンのカアン><のろづきおほん、のろづ きおほん、/おほん、おほん、/ごぎのごぎ のおほん>(「かしはばやしの夜」)といっ た響きの楽しさ美しさの世界は賢治作品のい たる所に散りばめられている。賢治の作品に 意味の側面から接した場合は、何度もよむう ちその魅力が減じてくる事もあろうが、響き の側から読んで行った時には、何度読んでも 尽きない魅力が溢れているのである。

 今回取り上げた「サガレンの八月」前半も、 その表現、文体を楽しみながら読む時、酌め ども尽きぬ魅力が満ちているのである。いう なれば、この作品は、詩である。散文詩であ る。読むだけで快感の世界である。頭で作品 を読むのもいいであろう、が、それとともに、 感性で、皮膚で、感触で作品を味わうのも許 されるのではないか。従来の賢治研究が比較 的、意味中心に成されて来た感があるので少 々乱暴な言い方になったが、もう少し、意味 を離れた部分も重視して行きたいと私見を述 べてみた。御同感いただける方がいらっしゃ れば幸いである。
 (執筆予定の方が、ご病気で、急遽、筆を 執った、乱筆乱文お赦し願いたい。)


テキスト


サガレンと八月


宮沢賢治が大正12年8月訪れた栄浜

「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら 何べんも何べんも通って行きました。
「おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」私はだんだん雲の消えて青ぞら の出て来る空を見ながら、威張ってそう云いましたらもうその風は海の青い暗い波の上に行っていていま の返事も聞かないようあとからあとから別の風が来て勝手に叫んで行きました。
「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、しらべに来たの、何かしらべに来たの。」
 もう相手にならないと思いながら私はだまって海の方を見ていましたら風は親切に又叫ぶのでした。
「何してるの、何を考えてるの、何か見ているの、何かしらべに来たの。」
 私はそこでとうとうまた言ってしまいました。
「そんなにどんどん行っちまわないでせっかくひとへ物を訊いたらしばらく返事を待っていたらいいじゃないか。」
 けれどもそれもまた風がみんな一語づつ切れ切れに持って行ってしまいました。もうほんとうにだめな やつだ、はなしにもなんにもなったもんじゃない、と私がぷいっと歩き出そうとしたときでした。向うの 海が孔雀石いろと暗い藍いろと縞になっているその堺のあたりでどうもすきとおった風どもが波のために少しゆれながらぐるっと集って私からとって行ったきれ ぎれの語を丁度ぼろぼろになった地図を組み合せる時のように息をこらしてじっと見つめながらいろいろにはぎ合せているのをちらっと私は見ました。
 また私はそこから風どもが送ってよこした安心のような気持も感じて受け取りました。そしたら丁度あ しもとの砂に小さな白い貝殻に円い小さな孔があいて落ちているのを見ました。つめたがいにやられたの だな朝からこんないい標本がとれるならひるすぎは十字狐だってとれるにちがいないと私は思いながらそれを拾って雑嚢に入れたのでした。そしたら俄かに波の 音が強くなってそれは斯う云ったように聞えました。

栄浜に打ち寄せる波

「貝殻なんぞ何にするんだ。そんな小さな貝殻なんど何にするんだ、何にするんだ。」
「おれは学校の助手だからさ。」私はついまたつりこまれてどなりました。するとすぐ私の足もとから引 いて行った潮水はまた巻き返して波になってさっとしぶきをあげながら又叫びました。
「何にするんだ、何にするんだ、貝殻なんぞ何にするんだ。」
 私はむっとしてしまいました。
「あんまり訳がわからないな、ものと云うものはそんなに何でもかでも何かにしなけぁいけないもんじゃ ないんだよ。そんなことおれよりおまえたちがもっとよくわかってそうなもんじゃないか。」
 すると波はすこしたじろいだようにからっぽな音をたててからぶつぶつ呟くように答えました。
「おれはまた、おまえたちならきっと何かにしなけぁ済まないものと思ってたんだ。」
 私はどきっとして顔を赤くしてあたりを見まわしました。
 ほんとうにその返事は謙遜な申し訳けのような調子でしたけれども私はまるで立っても居てもいられな いように思いました。
 そしてそれっきり浪はもう別のことばで何べんも巻いて来ては砂をたててさびしく濁り、砂を滑らかな 鏡のようにして引いて行っては一きれの海藻をただよわせたのです。
  そして、ほんとうに、こんなオホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなすのいい匂を 送って来る風のきれぎれのものがたりを聴いているとほんとうに不思議な気持がするのでした。それも風 が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。またそれらのはなしが金字 の厚い何冊もの百科辞典にあるようなしっかりしたつかまえどこのあるものかそれとも風や波といっしょに次から次と移って消えて行くものかそれも私にはわか りません。ただそこから風や草穂のいい性質があなたがたのこころにうつって見えるならどんなにうれしいかしれません。