詩人・宮沢賢治                渡部芳紀  


 賢治の詩は難解だと言われる。卒論などのテーマも、童話が主で、詩は従になることが多い。確かに賢治の詩の宇宙の大きさが、人人を近よらせない部分もあ るかもしれない。科学用語をふんだんに使い、新鮮な語彙が魅力であるとともに、それがイメージの喚起力にブレーキをかける。それは、読者の側の責任で、科 学用語を身につけ、詩を熟読すれば豊かな詩の世界が眼前にひらけてくるのは間違いない。童話と違い、制作年月日がおおよそわかっている詩が多く、まるで日 記のように詩が作られている。詩を読み解くことにより、童話の世界からはうかがえなかった賢治の心の襞々が伝わってくることもあろう。賢治の詩の世界は、 さまざまな魅惑を持って我々の前にひろがっているのである。

 賢治を風と雲の詩人と呼ぶことが許されようか。あるいはそこに、空と光をつけ加えてもよい。賢治はいつも空を見つめていた。
 あヽいいなせいせいするな/風が吹くし/農具はぴかぴか光ってゐるし/山はぽんやり/岩頭だって岩鐘だって/みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ/そのとき雲の信号は/もう青白い春の/禁欲のそら高く掲げられてゐた(「雲の信号」)
 こうした明るい雲、爽やかな風のイメージは賢治の詩に頻繁に出てくる。例をあげていたら、きりがないくらいだ。

 「春と修羅」の第一集、第二集は、自然を中心とした叙景詩が多い。
<野原のほかでは私はいつでもは父けてゐる>(「小岩井農場」下書稿)と書き、
<雲が縮れてぎらぎら光るとき/大きな帽子をかぶって/野原をおほびらにあるけたら/おれはそのほかにもうなんにもいらない>(「火薬と紙幣」)
と書いた賢治の心が、いつも自然の方に向いていることが多かったからであろう。
 賢治は自然の風景を描き、そこに空と光を、雲と風とを描いたのだ。そこには、「農民芸術概論綱要」で<風とゆききし雲からエネルギーをとれ>と叫んだ賢治の心が反映しているのである。それは、他に対しては
<そらいつぱいの/光でできたパイプオルガンを弾くがいいヽ>(「告別」)
と呼びかけ、
<雲からも風からも/透明な力が/そのこどもに/うつれ>(〔あすこの田はねえ〕)
と祈念する言葉にあらわれている。
 そうした発言の根底には、
<わが雲に関心し/風に関心あるは/たゞに観念の故のみにはあらず/そは新なる人への力/はてしなき力の源なれぱなり>(〔わが雲に関心し〕補遺詩篇・)
という賢治のとらえ方があるのだ。
雲と風から、そして空と光から生きるエネルギーを補給した賢治こそ、真の自然詩人と呼ぶことができよう。

 また賢治は夜の詩人と呼ぶこともできよう。
〔温く含んだ南の風が〕(一五五、第二集)では、銀河を中心とした星座たちの世界を描き、「蓬露青」では、北上川と銀河とを重ねて描く。
 これらを始め、特に「春と修羅」二集以降には、夜の詩が多い。賢治は、町で<はゞけて>いるだけでなく、昼間は<はゞけて>いたのだろうか。夜にこそ、自己の解放感を味わい、己れの真の場所を得ていたのだろうか。
 夜の詩の多さは、おのずから、夕方や夜明けの詩、特に、夜明けの詩を多くしている。
<コバルト山地の氷霧のなかで/あやしい朝の火が燃え>(「コバルト山地」)、
<育じろい骸骨星座のよあけがた>(「ぬすびと」)
といった詩を始め、夜明けを詠んだ詩の傑作は多い。
 特に「真空溶媒」は薄明どきの幻想的な世界を描いた傑作である。そこでは、賢治の空想力は縦横無尽に発揮され豊かな世界を展開しているのである。
 こうした夜を描いた詩の世界に、月天子が、星が描かれ、「銀河鉄道の夜」の下地が作られて行ったのかもしれない。

 澄明なものだけが賢治の詩の世界ではない。賢治の様々な苦悩を写した詩が数多くある。
 その一つは、「春と修羅」に描かれたような自 己の修羅をえぐり出したものであろう。その修羅の自覚は、自己の病気に関しても、<罪はいま疾にかはり>(「囈語」)と自己を責める形でとらえ、<われの みみちにたゞしきと、ちちのいかりをあざわらひ、ははのなげきをさげすみて、さこそは得つるやまひゆゑ>(〔われのみみちにたゞしきと〕『文語詩稿』一百 篇)と罪の意識の下に表現されて行くのである。賢治がいかに自己に厳しかったかをうかがわせるものであろう。

 そうした自己への厳しさが、他へ向かった時には、鋭い批判の精神に変わる。
<なにを!おれはきさまらのやうな/(中略)/骨の折るのをごまかすやうな/そんな仲間でないんだぞ>(〔もう二三ベん〕「詩編補遺」)
と、ずるい人間へ怒りをぷつけ、
<卑怯な下等なやつら>(〔サキノハカといふ黒い花といっしょに〕「詩ノート」)
を糾弾する。こうした、自己をも対象とした鋭い批判精神も賢治の詩の中に見逃すことはできないのである。

 大正十五年四月より、花巻郊外の別荘で独居自炊の生活に入り、農耕に従った賢治は、おのずと、農業に関する詩を多く作ることになる。それらは、『春と修羅』第三集に顕著である。
<ぎちぎちと鳴る汚ない掌を、/おれはこれからもつことになる>(「春」)
と、希望と決意を持って入って行った世界であったが、実際の農耕の生活は大変だったようだ。「第三芸術」の<白髪あたまの小さな人>のように賢治を<悦 惚>とさせる農民もいれば、一方、インテリの農耕生活に敵意を示す人も沢山いたようだ。それら農耕に関する詩からは、賢治の喜びと苦悩とが生まに伝わって 来る。そうした中で「野の師父」は、その両面が統一されて感動を高めている最高の作品であろう。

 そうした深刻な詩群の一方で、賢治の詩の中には、ユーモアのこもった詩が数々見うけられる。
「蠕虫舞手」は、ぼうふらの世界を数式化してとらえ、「蛇踊」は、農作業の合間の蛇とのたわむれを描き、「県技師の雲に対するステートメント」では、雨雲に<満腔不満の一瞥>を与え、〔滝は黄に変って〕は雷鳴の中にありながらとぽけたおかしみをにじみ出させている。そのユーモアが「山の晨明に関する童話風の構想」のような遊びの精神を発揮した楽しい夢の世界を描かせ、また「疾中」のように、自己の死を見つめて、まるで軽みの域に達したような傑作をも生み出させるのである。

 賢治の童話の中には、オノマトペを巧みに使った傑作が多いのだが、詩の方には意外にオノマトペの楽しさが出ているものが少ない。「原体剣舞連」が その数少ない傑作の一つだろうか。賢治の詩のオノマトペの少なさが、賢治にとっての詩を考える上で一つの鍵になりそうである。それは、童話と詩への考え方 の違い、対象としての子供と大人の違いとも関わって来よう。賢治がもし童謡をたくさん作っていたら、オノマトペの楽しさはもっと発揮されたものと思われ る。

 仏教、法華経に関する詩も意外に少ない。その少ない中で、特に注目すべきものは、「不軽菩薩」〔雨ニモマケズ〕であろうか。ともにデクノポー精神につながるものであろう。特に〔雨ニモマケズ〕は、様々な議論の対象にされる作品だが、私にとっては、「虔十公園林」と同様、ただ黙ってうなづくだけである。そこには、一つの極致が表わされていると言っていいであろう。蛇足を加えれば、ここには法華経の精神が集約されているだけでなく、法華経の方法がとり入れられていると言っておこう。

 賢治の詩には、空、光、雲、風とともに、それらの中に生きている草木や鳥が詠まれることが多い。賢治がそれらをいかに愛していたかがわかるというものだ。雑草の作り出した<豪華なアラベスク>を削って畑を作る時<聖物毀損の罪>(「雑草」)を感じる賢治はピジテリアンにさえなれないのではないか。草木や鳥獣は、賢治と別個の生命ではなく、<有機交流>と<因果交流>でつながった<複合体>(「序詩」)の一部なのだ。そこでは、賢治自身鳥自体でもあるのである。賢治は詩を、<身弱きもの/意久地なきもの/あるひはすでに傷つけるもの>(〔われらぞやがて泯ぶべき〕)たちとともに歌うものとして表白して行ったのである。

 われは泯ぷるその日まで  だゞその日まで  鳥のごとくに歌はん哉  鳥のごとくに歌はんかな 〔わたぺ・よしのり中央大学教授〕