東岩手火山

               渡部芳紀  

東岩手火山(東より)


               東 岩 手 火 山 
                        渡 部 芳 紀 
    はじめに
 「東岩手火山」は、宮沢賢治の唯一の詩集『春と修羅』(大正十三年四月刊)所収の長 詩である。制作日時は、大正十一年九月十八日である。この前日の夜、宮沢賢治は自分の 教えている花巻農学校の生徒を引率して岩手山に登山、十八日の三時四十分には岩手山の 山頂をなす外輪山の一角に到着、夜明けを待って最後の登頂をしようと待機している。そ の時の様子をリアルタイム方式(その場で首からぶら下げたノ・トに眼前の様子を写し取 って行くというやり方)でスケッチしている。スケッチしたあと詩集に収めるまでに何ら かの修正は施されているとは思うがそれに関しては詳らかでない。ここでは、詩集収録の 二一八行の詩を読解するかたちで読んで生きたい。最初に詩本文を掲げ、それに〔語釈〕 〔評釈〕を付け加える形で進め、最後にまとめをしたい。
 まずは、〔語釈〕〔評釈〕をしよう。なお、便宜上、詩本文の各行の上に仮に行番号をふした。

01 月は水銀 後夜ごやの喪主もしゅ
02 火山礫れきは夜の沈殿
03 火口の巨おほきなゑぐりを見ては
04 たれもみんな愕くはずだ
05  (風としづけさ)
06 いま漂着する薬師外輪山
07 頂上の石標もある

〔語釈〕
<東岩手火山>−岩手県北東部、北緯三九・五度、東経一四一度の位置にある標高二〇四 二メートルの火山。賢治が最も愛した山として賢治作品にはしばしば登場する。

岩手山(東南より)


<後夜>−一日を昼夜六つ(晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜)に分けた 最後の時間帯をさす。夜中の二時頃から夜明けにかけての時分をいう。
<薬師外輪山>−この外輪山を特に薬師岳と称する。頂上は岩手山の頂上でもある。二〇 四一メートル。

〔評釈〕
長詩の冒頭部分。おおよその時間帯と場所(何時、何処で)と雰囲気を客観的に描写する 。
 夜明け前の東の空に、二十六夜の細い月が水銀色に光り、まるで後夜を見送る喪主のよ うに光っているのである。あたりは夜明けの気配が漂い始め、黒い火山礫が夜の澱のよう に敷きつめられている。外輪山に囲まれた火口原の中にあいた新しい火口のえぐられた跡 を見ると誰でも驚くことだろう。風の音のみ静かに渡り,その風の音によりかえってあた りの静かさが意識される。ずっと夜の登山を続けて来て、いまようやく頂上近くの薬師外 輪山の縁に到達した。頂上の標識の石標も見える。弱々しい月光が水銀色の光りとなって あたりにふりそそぐ。

09 《こんなことはじつにまれです
10 向ふの黒い山……つて それですか
11 それはここのつづきです
12 ここのつづきの外輸山です
13 あすこのてつぺんが絶頂です
14 向ふの?
15 向ふのは御室火口です
16 これから外輸山をめぐるのですけれども
17 いまはまだなんにも見えませんから
18 もすこし明るくなつてからにしませう
19 えゝ 太陽が出なくても
20 あかるくなつて
21 西岩手火山のはうの火口湖やなにか
22 見えるやうにさへなればいいんです
23 お日さまはあすこらへんで拝みます》

〔語釈〕
<こんなこと>−この部分だけでは不明な表現。後の、55行から58行にかけての
55 《じっさいこんなことは稀なのです
56 わたくしはもう十何べんも来てゐますが
57 こんなにしづかで
58 そして暖かなことはなかつたのです
という表現からして、同じことをさしているのであろう。
<御室火口>−薬師外輪山に囲まれた火口原の中央近くにある妙高火口丘にあるえぐった ように開いた火口。

岩手山山頂(中央奥)
と手前御室火口(中央)


<西岩手火山>−現岩手山山頂を東岩手山といい、それより古い旧岩手山、東岩手火山の 西五〇〇メートルほどにあるお釜湖、御苗代湖あたりを西岩手火山と称する。

山頂より西岩手火山

西岩手火山
お苗代湖(中央)


<お日さまはあすこらへんで拝みます>−これからご来光を拝もうというのである。外輪 山の東の縁当たりを考えているか。

〔評釈〕
一緒に登った農学校の生徒たちに話しかけている部分。
あたりの様子を説明したり、これからの予定を話したりしている。

24  黒い絶頂の右肩と
25  そのときのまつ赤な太陽
26  わたくしは見てゐる
27  あんまり真赤な幻想の太場だ

岩手山頂上


〔評釈〕
あたりの光景の描写。
頂上は右肩をあげたように見え、まっかなご来光の様子が目に浮かんでくる。
あまり、待ちどおしいので幻想のご来光をみるのだ。

28 《いまなん時です
29 三時四十分?
30 ちやうど一時間
32 寒いひとは提灯でも持つて
33 この岩のかげに居てください》

〔語釈〕
<四十分ありますから>−この日は、一九二二年九月一八日。この日の日の出は、五時十 分頃である。従ってここでの表現は、あたりが見えはじめる頃、空が明るくなる頃を想定 していると思われる。
<寒いひと>−この日は、暖かかったとはいえ、岩手県の、九月十八日の標高二千メート ル近くの山の上の夜明け方の寒さはかなりのものと思われる。
<提灯>−今では、懐中電灯を持って夜の登山をするのだろうが、この頃は、提灯の明か りで登山したようだ。

〔評釈〕
再び、生徒たちに呼びかける言葉に部分。ご来光の始まるのにあと四十分位だからと言っ ている。実際のご来光は、空が白みはじめ、茜に染まり始める頃を言っているのであろう 。
34  ああ 暗い雲の海だ

〔語釈〕
<暗い雲の海>−まだ光の現れる前の暗い雲海の様子。

〔評釈〕
風景描写の文章。

35 《向ふの黒いのはたしかに早池蜂です
36 横になつて浮きあがつてるのは北上山地です
37  うしろ?
38  あれですか
39 あれは雲です 柔らかさうですね
40 雲が駒ケ嶽に被さつたのです
41 水蒸気を含んだ風が
42 駒ケ嶽にぶつつかつて
43 上にあがり
44 あんなに雲になつたのです
45 鳥海山てうかいさんは見えないやうです
46 けれども
47 夜が明けたら見えるかもしれませんよ))

〔語釈〕
早池峰−早池峰山。岩手山南南東五十三キロの位置にある一九一七メートルの山。

岩手山山麓より夜明けの早池峰山


北上山地−早池峰山の左右に広がる比較的低くてなだらかな山地。

北上山地


駒ヶ岳−岩手山の西南西二〇キロ先にある秋田駒ヶ岳。一六三七メートルの山。そのまえ に<うしろ?>とあるので作者(賢治)は、南南東の早池峰を説明したあと、尋ねられて 、振り返り、西の方にある駒ヶ岳にかかった雲を説明したことになる。

秋田駒ヶ岳(八幡平より)


鳥海山−岩手山の南西一一七キロの、山形県と秋田県の県境にある二二三六メートルの山 。東北地方の最高峰。岩手山からは左右に翼を広げたような美しい姿に見える。図1参照 。この時は、暗いか、気象条件が悪いかして見えなかったと思われる。
だん 〔評釈〕
生徒の質問に答える形で周辺の山の様子を説明している部分。単なる風景の紹介に止まら ず、地学、気象学も担当する教師として気象現象の解説もしている。
なお、パソコン通信のニフティの山の展望と地図のフォ・ラムの米山一郎氏作の「やまお たく」というソフトを使って岩手山山頂から見える周辺の山の概念図を描いてみた。賢治 作品によく登場する姫神山から秋田駒ヶ岳まで表示した。→図1

48   (柔かな雲の波だ
49    あんな大きなうねりなら
50   月光会社の五千噸の汽船も
51   動揺を感じはしないだらう
52   その質は
53   蛋白石 glass-wool)
54 あるひは水酸化礬土の沈澱)

〔語釈〕
<あんな大きなうねりなら>−雲海が静かに止まっているのでなく、うねっている様子が わかる。そのうねりの様子から、雲海を海を幻想する世界に入って行く。
<月光会社>−雲海を海に見立て、雲海を照らす月の連想で作り上げた幻想の船会社。
<その質は>−雲
<蛋白石>−オパール。含水珪酸鉱物。白、無色などの物があり、虹色に光るものは宝石 として扱われる。ここでは、雲の形容。
<glassーwool>−硝子の繊維状のもの。月光に照らされた雲の形容。
<水酸化礬土>−水酸化アルミニュウム。白色の結晶をなす。雲の形容。

〔評釈〕
雲海に関しての胸のなかの思いを綴った段落。雲海から汽船を連想し雲については科学者 として科学的な比喩を使っている。

55 《じっさいこんなことは稀なのです
56 わたくしはもう十何べんも来てゐますが
57 こんなにしづかで
58 そして暖かなことはなかつたのです
59 麓の谷の底よりも
60 さつきの九合の小屋よりも
61 却つて暖かなくらゐです
62 今夜のやうなしづかな晩は
63 つめたい空気は下へ沈んで
64 霜さへ降らせ
65 暖い空気は
66 上に浮んで来るのです
67 これが気温の逆転です》
68 御室火口の盛も りあがりは
69 月のあかりに照らされてゐるのか
70 それともおれたちの提灯のあかりか
71 提灯だといふのは勿体ない
72 ひわいろで暗い

〔語釈〕
<こんなこと>−あとに続く、<こんなにしづかで/そして暖かなことはなかつたのです >を指す。09行の<こんなことはじつにまれです>を受ける言葉でもある。
<わたくしはもう十何べんも来てゐますが>−賢治は盛岡中学以来何十回と岩手山に登山 したと言われる。ここでは、十数回と言っている。
<九合>−九合目。
<気温の逆転>−普通、地上より高空が気温は低い。百メートルで〇・五度下がるという 。
<提灯だといふのは勿体ない>−提灯の光に照らされて明るいなんて言うと失礼だ。やは り月の光でひわいろに見えるのだろう
。 <ひわいろ>−小鳥のヒワの雄の胸羽のような黄緑色。

〔評釈〕
生徒たちへの話しかけの部分。
前々段の風景の説明から気象現象(回りの様子)の説明に移る。09行でも言っていた静か さと暖かさの珍しいことを強調している。

73 《それではもう四十分ばかり
74 寄り合つて待つておいでなさい
75 さうさう 北はこつちです
76 北斗七星は
77 いま山の下の方に落ちてゐますが
78 北斗星はあれです
79 それは小熊座といふ
80 あの七つの中なのです
81 それから向ふに
82 縦に三つならんだ星が見えませう
83 下には斜めに房が下つたやうになり
84 右と左とには
85 赤と青と大きな星がありませう
86 あれはオリオンです オライオンです
87 あの房の下のあたりに
88 星雲があるといふのです
89 いま見えません
90 その下のは大犬のアルフア
91 冬の晩いちばん光つて目立めだつやつです
92 夏の蠍とうら表です
93 さあみなさん ご勝手におあるきなさい
94 向ふの白いのですか
95 雪ぢやありません
96 けれども行つてごらんなさい
97 まだ一時間もありますから
98 私もスケツチをとります))

〔語釈〕
<北斗七星>−大熊座の主たる七星。ここでは、地平線下のような誤解を招くが、北極星 の東下方にひしゃくが縦になった感じに見えている。

北斗七星


<北斗星>−北極星のこと。
<それから向こふに>−ここより、東南の空に目を移し、オリオン座、大いぬ座の説明を 始める。
<縦に三つならんだ星>−オリオン座の三つ星。
<下には斜めに房が下つたやうになり>−三星の下に斜めに下がる小さな三つ星。オリオ ンの剣にあたる。
<右と左とには/赤と青と大きな星がありませう>−赤い星はベテルギュウス。オリオン 座のα星。オリオンの右肩にあたる。不規則変光星で〇・四等星から一・三等星の間で変 化する。直径は太陽の三百倍。地球から五百光年の距離にある。
青い星は、リゲル。オリオン座のβ星。オリオンの左足にあたる。光度〇・三等星。青白 色。五四三光年。なお、<右と左>は、次の行の<赤と青>と呼応しない。何方かを逆に 表記するとぴったりする。こういうところに、リアルタイム描写の特性が残っているとい えようか。
<星雲がある>−ガス星雲のオリオン座大星雲M42。
<大犬のアルフア>−シリウス。天狼星。最も明るい恒星。光度マイナス一・六等星。距 離八・七光年。
<夏の蠍とうら表です>−冬の星座オリオンは、蠍と裏表だということ。オリオンは蠍に 刺されて死んだという伝説があり、夏の星座蠍が登ってくると西の空に沈む、逆に蠍が空 に昇とオリオンは沈む。一八〇度対角にいちする星座だということ。
<向ふの白いのですか/雪ぢやありません/けれども行つてごらんなさい/まだ一時間も ありますから>−科学者として生徒の質問に直ぐは答えないのである。そのための実地研 修なのだから。生徒自身の手で確かめるよう勧めている。後に、この<雪>のようなもの は、仙人草だと明かされる。
<私もスケツチをとります>−夜明けを待つ間、自分もスケッチをしようと言っている。 ここでのスケッチとは、リアルタイムに詩でもって辺りの様子を写すこと、すなわち、こ こでいましている、詩を作ることである。賢治は、薄明の中で、手帳に鉛筆で大きな字を 書きなぐって今見てること考えていることを写しとっているのである。それがそのままか れのいう心象スケッチとして詩の形に出来上がって行くのである。

〔評釈〕
生徒に、夜明けまで暫く待つように指示し、その間、退屈しないように、あたりの状況、 特に星座を北の空と、東南の空を取り上げ説明している。そのあと、自身も詩によるスケ ッチに入っていく。ここでは、東南の星空の中心部を、杉本隆敏氏作「Starry N ight−j」という星座ソフトで描いてみた。→図2

オリオン座・大犬座・二十五夜の月など


99   はてなわたくしの帳面の
100   書いた分がたつた三枚になつてゐる
101   事によると月光のいたづらだ
102   藤原が提灯を見せてゐる
103   ああページが折れ込んだのだ
104   さあでは私はひとり行かう
105   外輪山の自然な美しい歩道の上を
106   月の半分は赤銅しやくどう  地球照ア ー スシヤイン

〔語釈〕
<書いた分がたつた三枚になつてゐる/事によると月光のいたづらだ>−今まで書き留め てきた詩の部分がたった三枚だなんて変だ。もっと沢山書いたのに三枚しかないなんて。 これは、人を騙すという月光のいたづらにちがいない、の意。
<藤原が提灯を見せてゐる>−当時の農学校の教え子に藤原健太、藤原清作がいる。その 何方か?
<提灯を見せてゐる>−見えやすいように帳面の上に提灯を掲げてくれるのである。
<ああページが折れ込んだのだ>−少ない、おかしいと思っていたら、すでに書いた文を おりこんでしまっていたのだった。
<外輪山の自然な美しい歩道の上を>−火口をぐるりと取り巻く外輪山の尾根筋は程よい 幅をもった歩道のようになっている。明るくなるまでの待ち時間をそこを歩いて過ごそう というのである。
<赤銅>−赤銅色。赤銅のような紫を帯びた黒。月の影の部分の形容。
<地球照ア ー スシヤイン >−月の影の部分に地球の反射光が当たって赤銅色に光っている様子 。

〔評釈〕
自己の思いを綴った段落。スケッチを取りはじめ、綴じ込みに気付き、それも解決して、 外輪山の縁を散歩し始める。東の空には二十六夜の月がその影の部分を赤銅色にそめてい る。

107 《お月さまには黒い処もある》
108  《後藤又兵衛いつつも拝んだづなす》
109  私のひとりごとの反響に
110  小田島治衛はる が云つてゐる。
111 《山中鹿之助だらう》
112  もうかまはない 歩いていゝ
113    どつちにしてもそれは善い いことだ

〔語釈〕
<後藤又兵衛>−安土桃山・江戸初期の武将。
<小田島治衛はる >−当時、農学校二年生。
<山中鹿之助>−室町後期の武将。尼子氏に仕え尼子氏が毛利に降伏したのちも尼子氏の 再興に努めた。秀吉の中国征伐に従って上月城を落としたが、毛利氏に攻略され、捕らえ られ殺されたと言われる。月を愛し、兜に三日月型の鍬型をつけていた。戦勝を祈願して 月を拝んだと言われる。
<もうかまはない 歩いていゝ>−かなり明るくなって来たので、もう危険も無くなった から歩いてもいい。
<どつちにしてもそれは善い いことだ>−後藤又兵衛だろうが、山中鹿之助だろうがどっ ちでもいい。ともかく月を拝むのはいいことだ。

〔評釈〕
常々、月というと光る部分のみに注目しがちだが、光る部分の隣には黒い部分を持ってい るのだと言った思いを独り言すると、何を思ったか生徒が後藤又兵衛が月を拝んだと言い だす。山中鹿之助じゃないかと思うがそんなことはどっちでもいいことで、肝心なのは、 この美しい夜明けの山頂付近で大自然を満喫しながら歩くことなのだ。もう明るくなりは じめた。そろそろ歩いても危険無いだろう。
会話・対話を交えた心情描写の部分。

114 二十五日の月のあかりに照らされて
115 薬師火口の外輪山をあるくとき
116 わたくしは地球の華族である
117 蛋白石の雲は・にたゝえ
118 オリオン 金牛 もろもろの星座
119 澄み切り澄みわたつて
120 瞬きさへもすくなく
121 わたくしの額の上にかがやき
122  さうだ オリオンの右肩から
123  ほんたうに鋼青の壮麗が
124  ふるえて私にやつて来る

<二十五日の月>−インターネットの加倉井厚夫氏のホームページ「賢治の事務所」によれば、この朝、月齢は二十五・九である。形は太陽の方(東)を まるくした逆三日月型である。従って、満月ほどは明るくないのだが、山上の闇の中では 十分明かりを感じさせるのであろう。
<華族>−明治時代に設けられた、身分制度の一つ。華族令により、公、侯、伯、子、男 の爵位を授けられた者。ここでは、自分が幸せ者であるということを華族に例えた。
<金牛>−牡牛座。オリオン座の右上に位置する。
<鋼青>−賢治の造語。青みを帯びた鋼色?青みを帯びた銀色?といった色か?
<壮麗>−厳かで麗しいこと。さかんで美しい様。

〔評釈〕
自然を愛し、自然の中で己を取り戻し生き生きと幸福感を味わっている賢治の姿が出てい る段落。
特に<二十五日の月のあかりに照らされて/薬師火口の外輪山をあるくとき/わたくしは 地球の華族である>の部分は、賢治の自然の中にいる幸福感を象徴的に表している表現で ある。この三行が直接的に彼の自然への愛を吐露したものとすれば、その後の<蛋白石の 雲は・にたゝえ/オリオン 金牛 もろもろの星座/澄み切り澄みわたつて/瞬きさへも すくなく/わたくしの額の上にかがやき>は、その幸福感を描写でしたものであり、更に <さうだ オリオンの右肩から/ほんたうに鋼青の壮麗が/ふるえて私にやつて来る>も 、夜明けの大自然の神々しい美しさを描きその中に感動しようとしている己を描いている のである。

125 三つの提灯は夢の火口原の
126 白いとこまで降りてゐる
127 《雪ですか 雪ぢやないでせう》
128 困つたやうに返事してゐるのは
129 雪でなく 仙人草のくさむらなのだ
130 さうでなければ高陵土カオリンゲル
131 残りの一つの提灯は
132 一升のところに停つてゐる
133 それはきつと河村慶助が
134 外套の袖にぼんやり手を引つ込めてゐる
135 《御室おむろ の方の火口へでもお入りなさい
136 噴火口へでも入つてごらんなさい
137 硫黄のつぶは拾へないでせうが》
138 斯んなによく声がとゞくのは
139 メガホーンもしかけてあるのだ
140 しばらく躊躇してゐるやうだ
141  《先生 中さ入はひつてもいがべすか》
142 《えゝ おはいりなさい 大丈夫です)
143 堤灯が三つ沈んでしまふ
144 そのでこぼこのまつ黒の線
145 すこしのかなしさ

〔語釈〕
<夢の火口原>−夢のなかで見るような幻想的な美しさにみちた火口原。
<《雪ですか 雪ぢやないでせう》/困つたやうに返事してゐるは/雪でなく 仙人草の くさむらなのだ/さうでなければ高陵土カオリンゲル>−作者賢治<わたくし>は、自信を持っ て仙人草と言っているが本当にそうだったのだろうか。<わたくし>も一抹の不安があっ たか、<さうでなければ高陵土カオリンゲル>とも付け足しており違う場合も考えていたと思わ れる。結局この<向ふの白いの>は<わたくし>に直接は確かめられず作品は終わってい る。筆者が勝手な逞しい推測をするに、この<向ふの白いの>は、本当に雪だったのでは ないかということがある。今回この原稿を書くにあたって何度も以前登山したときの写真 を見てみたのだがその中に一か所雪のような真っ白なところがある。どう見ても雪である 。草や粘土ではない。筆者が登ったのは九月十日、賢治が登ったのは九月十八日で一週間 くらいしか違わない。とすると同じところの白い物を見ているのかも知れない。<《雪で すか 雪ぢやないでせう》>と言われて<困つたやうに返事してゐる>のは、先生は雪じ ゃないと思い込んでいるが本当に雪だった。先生に言っていいものかどうか躊躇していた のではないか。そんなふうにも考えられなくもない。自分の写真にあまりはっきりと雪の 跡があるので。少々非論理的推測をしてみた。
<仙人草>−キンポウゲ科のつる性多年草。各地の原野、路傍に生える。高さ三メートル にたっする。七〜九月頃、茎径二、三センチの白花をつける。
<高陵土カオリンゲル>−アルミニュウムの含水珪酸塩を主成分とする粘土。陶磁器の原料、製 紙原料などに利用。
<一升>−一升=十合、すなわち十合目=頂上。
<残りの一つの提灯は>−この表現からすると生徒四人を引率して登山したか。 川村慶助、藤原、小田島治衛、宮沢の四名である。
<川村慶助>−農学校第三回生。大正十三年卒。
<斯んなによく声がとゞくのは/メガホーンもしかけてあるのだ>−普通より声が良く届 くのはここ火口原にはメガホンがしかけてあるのだ。外輪山の中で反響して、声が良く届 くのであろう。
<そのでこぼこのまつ黒の線>−三人が火口の中に入った証拠のように内部に入った提灯 の光で穴の縁のでこぼこの形がシルエットのように黒く浮かび出るのである。
<すこしのかなしさ>−三人の農学校生徒が火口の中に入ってしまったので急にひっそり となり少し寂しく悲しい気持ちになったのだろう。

〔評釈〕
引率の教師・作者と農学校生徒たちとのやりとりを書いた段落。
あたりがほんのりと白み始め、生徒たちはさっきから気になっていた雪の様な白い所に近 づいて行った。雪かと思ったら仙人草の白い花が一面咲いているのだった。気の早い川村 慶助は一人で頂上に行ったようだ。寒そうに見える。他の三人も寒いだろうと、川口に入 ってもいいと大きな声を出す。外輪山に囲まれて、まるでメガホンで話しているように声 がよく通る。三人の生徒は火口に入った。人声が途絶えて急にひっそりと寂しくなる。

146 けれどもこれはいつたいなんといふいゝことだ
147 大きな帽子をかぶり
148 ちぎれた繻子のマントを着て
149 薬師火口の外輪山の
150 しづかな月明を行くといふのは

〔語釈〕
<繻子>−絹織物の一種。織物の表面に縦糸だけか横糸だけを浮かせたもの。表面は滑ら かで艶がある。
<月明>−月が明るいこと。明るい月の光り。

〔評釈〕
倒置を使い、大自然の中を歩く喜びを強調している。
<大きな帽子をかぶり/ちぎれた繻子のマントを着て>は、いでたちや形にとらわれない 様をあらわし、何より、<薬師外輪山の/しづかな月明>の中を歩く喜びを<これはなん といゝことだ>ろうと自然とある喜びを語る。114 行から116 行の<二十五日の月の明か りに照らされて/薬師火口の外輪山をあるくとき/わたくしは地球の華族である>と彫っ た碑がある。呼応して作者の自然の中にある喜びの表白である。

151 この石標は
152 下向の道と書いてあるにさういない
153 火口のなかから提灯が出て来た
154 宮沢の声もきこえる

〔語釈〕
<石標>−石の道標。
<下向>−下山。
<宮沢>−農学校の生徒。

〔評釈〕
この辺りから作者は辺りの様子を次々とスケッチして行く。前半の会話を交えたり二重括 弧を付けたり、一、二段下げたりといった表記上の工夫はあまり施されなくなる。

155 雲の海のはてはだんだん平らになる
156 それは一つの雲平線うんぴやうせん をつくるのだ
157 雲平線をつくるのだといふのは
158 月のひかりのひだりから
159 みぎへすばやく擦過した
160 一つの夜の幻覚だ

〔語釈〕
<雲平線>−地平線に対し今は雲海を見ているので雲平線とユーモア込めて表現した。

〔評釈〕
ユーモアを込めて<雲平線>などと言ってみたが、自分で照れてこんな言い方するのも< 一つの夜の幻覚だ>としている。

161 いま火口原の中に
162 一点しろく光ひかる もの
163 わたくしを呼んでゐる呼んでゐるのか
164 私は気圏オペラの役者です
165 鉛筆のさやは光り
166 速かに指の黒い影はうごき
167 背を円くして立つてゐる私は
168 たしかに気圏オペラの役者です

〔語釈〕
<一点しろく光ひかる もの>−火口から出てきた生徒の提灯の光り?
<わたくしを呼んでゐる呼んでゐるのか>−読んでいるように感じる。が少し感覚が乱れ てきて、読んでるように感じただけかもしれないとふと思う。このあたり賢治得意のリア ルタイムスケッチで書いている。賢治の思いの微妙な揺れがそのまま写されている。
<私は気圏オペラの役者です>−思いが火口原に行き、あそこから見たら外輪山の縁に立 つ自分はまるで空に屹立したようで、気圏という雄大な舞台で歌うオペラ役者のように見 えるだろう。それに確かにこの雄大な大自然のなかで自分を<地球の華族>だと思い、ま た<薬師火口の外輪山の/しづかな月明を行くといふのは><いつたいなんといふいゝこ と>だと思う自分は<たしかに気圏オペラの役者>に違いないと自分でも思う。
<鉛筆のさやは光り/速かに指の黒い影はうごき>−先程からずっとリアルタイムに詩を 書いている。帳面に鉛筆で辺りの様子をまた自分の思いを感動を次々と写し取っているの だ。

〔評釈〕
リアルタイム描写の様子が伺われる部分。賢治の高揚した思いは自分を<私は気圏オペラ の役者です>と表現させる。自分の幸福感を表白した部分である。

169 また月光と火山塊のかげ
170 向ふの黒い巨きなは壁は
171 熔岩か集塊岩 力強い肩だ
172 とにかく夜があけてお鉢廻りのときは
173 あすこからこつちへ出て来るのだ

〔語釈〕
<また>−軽く話題を変えるのに使った。
<向ふの黒い巨きなは壁は>−頂上付近の外輪山を指すか?右上がりのスロープになって おり<力強い肩>に符号する。
<集塊岩>−火山灰や岩滓がんさいの中に、火山弾あ鎔岩餅などの大きな火山放出物が散在する岩石。広義には、火山性の砕屑岩をさす。
<力強い肩>−力強い肩を思わせる形をしている。頂上付近の形状に似ている。
<お鉢廻り>−外輪山を一周すること。外輪山内側の形がちょうどすり鉢のような形であ るところからくる言い方。
<あすこからこつちへ出て来るのだ>−外輪山の全景は一部妙高によって見えないが、外 輪山を一周する(お鉢廻り)とき、あの頂上の方からこっちへ出てくるのだ。(この辺り 筆者は実に主観的な解釈をしている。これは、絶対こう読まねばならぬという類のもので はない。賢治の本文自身がリアルタイム描写のため完全ではない。現地を知っている筆者 としてはどう見てもこうとしか読めないという位置から書いている。現地を知っているこ とがすべてではない。そんな傲慢な考えは持っていない。あくまでも一つの仮説として読 んでいただければと思う。)

〔評釈
〕 <向ふの黒い巨きなは壁は>を見ながらの作者の述懐。リアルタイム描写をしているため 即興的面白さはあるが少々省略しすぎで意味不鮮明。

174 なまぬるい風だ
175 これが気温の逆転だ
176   (つかれてゐるな
177    わたしはやつぱり睡いのだ)

〔評釈〕
標高二千メートル近い山の上なのにこんな<なまぬるい風>が吹くなんて、<気温の逆転 だ>と思う。それにしてもこんな<なまぬるい風>をうけると徹夜で登山してきた疲れが どっと出て来て眠気が襲ってくる。そういった正直な述懐をした部分。

178 火山弾には黒い影
179 その妙好めうかうの火口丘には
180 幾条かの軌道のあと
181 鳥の声!
182 鳥の声!
183 海抜六千八百尺の
184 月明をかける鳥の声
185 鳥はいよいよしつかりとなき
186 私はゆつくりと踏み
187 月はいま二つに見える
188 やつぱり疲れからの乱視なのだ


〔語釈〕
<妙好>−火口原内にある小さい火口丘。その麓に火口が口を開けている。
<火口丘>−中央火口丘。カルデラや火口の内部に生じた小火山。複式火山の内側の火山 。
<軌道>−物が一定の方向に流れた跡。

〔評釈〕
周辺の描写である。火口原には中央火口丘の妙好が立ち、その斜面には軌道のあとがある 。折しも鳥が鳴いて月明の高みを翔けて行く。夜明けが近づいたのだ。私はいよいよ夜明 けだなとしっかり地面を踏みしめながら思う。空を見上げると細い月が二つに見える。徹 夜の疲れから仮性乱視になったようだ。

189 かすかに光る火山塊の一つの面
190 オリオンは幻怪げんくわい
191 月のまはりは熟した瑪瑙と葡萄
191 あくびと月光の動転どうてん

〔語釈〕
<かすかに光る火山塊の一つの面>−薄明により火山岩塊の一面が光り出す。
<オリオンは幻怪げんくわい >−空の雰囲気が変わりだしオリオンも奇怪な姿に見え出す。
<瑪瑙>−縞状を呈する玉髄。無水珪酸を主成分とし、赤、白、緑、褐色などの縞は沈殿 面に平行に平行に生じる。
<動転>−移り変わること。

〔評釈〕
疲れと、うっすら空に薄明が兆しはじめたのとであたりの様子が少し変化しだす。微妙な 変わりようで捕らえ難い部分。火山岩塊はうっすら一面を光らせ始め、オリオン座はやや 趣を変え、幻の怪人のよう、月の回りは層をなした葡萄色に見えだす。眠くて欠伸が出、 月光も変化し始める。

193     (あんまりはねあるぐなぢやい
194      汝うなひとりだらいがべあ
195      子供等わらしやど も連れでて目にあへば
196      汝うなひとりであすまないんだぢやい)

〔語釈〕
<あんまりはねあるぐなぢやい>−あんまり撥ね歩くんじゃない。
<汝うなひとりだらいがべあ>−お前一人ならいいだろうが。
<めにあへば>−ひどいめにあったら。

〔評釈〕
疲れから幻覚が起こり始め、父親の賢治を叱る声が幻聴として聞こえて来る。あんまりは しゃぐでない。自分一人なら、ひどいめにあっても自分だけが苦しめばいいが、子供たち を連れていてひどいめにあったら、お前ひとりだけではすまない。気をつけないといけな い。

197 火口丘くわこうきうの上には天の川の小さな爆発
198 みんなのデカンシヨの声も聞こえる
199 月のその銀の角のはじが
200 潰れてすこし円くなる
201 天の海とオ・パルの雲
202 あたたかい空気は
203 ふつと撚よりになつて飛ばされて来る
204 きつと屈折率も低く
205 濃い蔗糖溶液しよたうようえきに
206 また水を加へたやうなのだらう

〔語釈〕
<火口丘くわこうきうの上には天の川の小さな爆発>−北西の火口丘の上に白鳥座からカシオペ ア座にかけての天の川が仄かに光っている。
<デカンシヨ>−でかんしょ節。丹波杜氏たちが「あとの半年は寝て暮らす」と歌ったと ころから「出稼ぎしよう」の意。今宵徹夜で騒ぎましょうの意で「徹今宵」から来たのと の説などある。明治末から大正初めにかけ全国の学生間、花柳界で歌われた。ここでは、 徹夜登山で眠くなってきた生徒たちが景気付けに歌っているか?
<月のその銀の角のはじが/潰れてすこし円くなる>−闇の中では鋭角的に鋭い角を見せ ていた二十五夜の月の角も薄明の兆しのなかでやや潰れたように円く見えだす。
<天の海とオ・パルの雲>−天の海、すなわち雲海とその雲海をなすオパール色の雲。
<撚より>−ねじられたもの。空気の渦になって飛んでくる。
<濃い蔗糖溶液しよたうようえきに/また水を加へたやうなのだらう>−空気の流れを目に見える ように例えるとすると丁度、濃い蔗糖の溶液に水を加えた時出来る流れの模様みたいなも のだろう。

〔評釈〕
辺り全体の雰囲気を描く。次第に夜明けが近づき、さえざえした月も形がくずれて来る。

207 東は淀み
208 提灯ちやうちん はもとの火口の上に立つ
209 また口笛を吹いてゐる
210 わたくしも戻る
211 わたくしの影を見たのか提灯も戻る
212   (その影は鉄色の背景の
213    ひとりの修羅に見える筈だ)
214 さう考へたのは間違ひらしい
215 とにかくあくびと影ぼふし
216 空のあの辺の星は微かな散点
217 すなはち空の模様がちがつてゐる
218 そして今度は月が蹇ちぢまる

〔語釈〕
<東は淀み>−東の空は薄明のなかで淀んでいる。
<鉄色>−鉄の様な色。緑を帯びた黒。赤みを帯びた黒。
<修羅>−阿修羅の略。阿修羅の妬み深くて戦いを好んだところから、嫉妬、猜疑から起 こる争いや、長い闘争、戦争、激怒、情念などの例え。
<その影は鉄色の背景の/ひとりの修羅に見える筈だ>−わたしの影は、暗い鉄色の空を 背景にした一人の修羅に見えるに違いない。修羅は、賢治の常套語。自分を自虐的に表現 するとき使った。ここでは突然表白されるがすぐ自分から否定する。
<とにかくあくびと影ぼふし>−徹夜登山の疲れが現れてくる。
<空のあの辺の星は微かな散点>−空が白み始め、星も明るい星が点在するだけになって きた。
<月が蹇ちぢまる>−今まで闇のなかで光り輝き自己を鮮明に主張していたのが、薄明の中 月の光りその物が弱々しくなり、縮まったように感じられる。

〔評釈〕
夜明けが近づき、徹夜登山の疲れもピークに達し、夜中の高揚感が次第に薄れ、夜明けの 到来とともに現実感が増してきて気持も沈滞してくる。

    結び
 長詩「東岩手火山」を評釈してきた。特色の一つに、リアルタイム創作ということがあ げられよう。その長所はまさにリアルな同時性にあろう。山頂付近の引率教師と生徒との 姿が実に生き生きと描写されている。がそれはまた両刃の刀のように短所ともなっていく 。普通は構成を考えて最後にクライマックスがくるものだが、この詩においては同時進行 していった結果徹夜登山の疲れがそのまま作詩のつかれになってしまった。作品の終わり 頃はただ描写しているだけといった感じで緊張がなくなっている。この詩はむしろ作品の 前半、山頂下に着いて、一休みしたあと頂上を目指そうというその時の感動が密度濃く現 れている。そこに現れているのは自然と共にある喜びである。

114 二十五日の月のあかりに照らされて
115 薬師火口の外輪山をあるくとき
116 わたくしは地球の華族である

146 けれどもこれはいつたいなんといふいゝことだ
147 大きな帽子をかぶり
148 ちぎれた繻子のマントを着て
149 薬師火口の外輪山の
150 しづかな月明を行くといふのは

164 私は気圏オペラの役者です

こうした言葉には賢治がいかに自然を愛しその中で如何に大きな幸福感を味わっていたか が表れている。
こういう思いは、「小岩井農場」では、<町では自分ははばけている(注−萎縮している )と言い、
「一本木野」では、

 こんなあかるい穹窿きゆうりゆうと草を
 はんにちゆつくりあるくことは
 いつたいなんといふおんけいだらふ
 わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる

という。そうした自然への愛がこの詩においても強く主張されていることが伺われる。

このように「東岩手火山」は、リアルタイム形式で生き生きと場面を再現させながらそこ に賢治の自然への愛、自然讃歌を写した作品なのである。リアルタイム描写という方法と 、徹夜登山という素材から疲労がそのまま反映し末尾はやや弱いものになってしまったが 、その自然描写と自然讃歌のゆえに私にとってはとても魅力ある作品になっているのであ る。)


渡部芳紀研究室