花巻を歩く

羅須地人協会

 花巻は賢治の生まれ育った町である。静か に流れる北上川の畔にあるこの町を歩いてみ よう。

 まずは、新幹線新花巻駅から出発しよう。 改札口を出たらすぐ外に出ないで改札口前の ロビーの左前方にある観光案内所を訪れずれ よう。市内の様々なパンフレットが用意され ている。それを貰ったらロビーのさらに奥に 行くと花巻周辺の観光案内のコーナーがある 。右には花巻近辺の風景のカラーパネルがあ り、その前には賢治の銀河鉄道を模した模型 の機関車が走っている。正面には賢治の「鹿 踊りのはじまり」にちなんだビデオがセット され五分おきぐらいに鹿踊りの様子が写し出 される。太鼓の音を背景に流される鹿踊りの ビデオを見るとイーハトヴを訪れたのだとい う実感が湧いてくる。

 

駅前碑

駅前広場には大きな横長の賢治碑がある。 「セロ弾きのゴーシュ」の碑である。
碑に近 づくと音楽が流れだす。賢治作詩作曲の「星 めぐりの歌」と「セロ弾きのゴーシュ」に「 トロメライ」ともじられて出て来る「トロイ メライ」である。広場から新幹線の駅を振り 替えると、駅の建物が銀河鉄道の機関車が、 左右から向かい合う形にデザインされている のがわかる。駅前では、自動販売機も駐車場 の入り口の建物もごみ箱も鹿踊りの形をして いる。

 駅前からはタクシーで、西南に見える胡四 王山にある宮澤賢治記念館に行こう。日本有 数の個人文学館である。遠く花巻市街を臨み 、北上川を見下ろす見晴らしのよい所にある。 ビデオ、スライド、テープを駆 使して視聴覚に訴える多彩な展示がされてい る。賢治及び賢治文学を理解するうえで、必 見の所である。見学時間は、最低2時間はと りたい。

駐車場の一隅には、「注文の多い料 理店」−ワイルドキャットレストラン「山猫 軒」がある。農協経営の洒落た美味しい店で、客 が食べられることもない。敷地内の各所に、 賢治にちなんだ木碑、彫刻碑、ポラーノの広 場、シグナルがあり、南の斜面には、賢治設 計の南斜花壇、日時計花壇が作られている。

賢治設計の南斜花壇

花壇下の駐車場の回りには、ウメバチソウや ハヤチネウスユキソウが咲き、ポラーノの広 場には、四つ葉のクローバー(しろつめくさ )が生えている。下の駐車場の下方には、イ ーハトブ館がある。その時その時に応じた特 別展示をしている。ホールではイーハトーブ の案内の映画も見られる。

時間に余裕がある時は記念館山頂駐車場出口から 左へ路をたどろう。200メートルも歩くと 故四王神社に到る。ここから花巻の東北の郊 外が見おろせる。眼下には銀河鉄道のヒント になった軽便鉄道の後裔釜石線が走っている。 北上川がゆったりと流れ北には姫神山、岩手 山も見える。北北西の紫波には賢治の恋人が 住んでいて賢治はその人を思ってこの丘に登 っている。

宮沢賢治記念館

  記念館で賢治と花巻の概略を掴んだら、花 巻市内の賢治ゆかりの地を訪れよう。

 まずは、記念館の北北西へ5キロも行った 花巻農業高校を尋ねよう。(賢治ゆかりの場 所は、花巻の郊外の東西南北に点在している ので、能率よく市内を巡るには、なるべくタ クシーや駅レンタカーを使うとよい。小グル ープには、ワゴン車を使ったジャンボタクシ ーもある。)

 農業高校は、市街の東北の郊外、花巻空港の東 北に隣接し、北上川の右岸に沿っている。賢 治が大正十年から十五年まで、教員を勤めた 学校。後に訪れる市内のぎんどろ公園の地か ら、現在地に移転してきたもの。
正門を入った右手の芝生の中に、賢治ゆかりの羅須地人 協会の建物がある。後に訪れる賢治詩碑跡か ら、移築されたもの。高校の正面玄関で記帳 し、鍵を借りれば、建物の内部を自由に見学 できる。賢治が独居自炊しながら、開墾に従 事し、若い農民と共に語り、音楽に興じ、ま た妹トシの看病をした頃を忍ぶのもよい。

羅須地人協会

建物の西脇には、賢治が花巻農業高校の教員を していた時作詩した「精神歌」の碑があり、 芝生の入口近くには、賢治設計の日時計や賢 治の碑も作られている。

 次にイギリス海岸を訪れよう。北上川を五 キロほど下った所だが、いったん西の国道に 出て、南に下り東の河畔に出ることになる。 北上川の右岸で、賢治の命名になる地。

<それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸 の風をした川の岸です。(中略)北上山地を 横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への 落合から、少し下流の西岸でした。イギリス 海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿っ てずいぶん広く露出し、(中略)殊にその泥 岩層は、川の水の増すたんび、綺麗に洗はれ るものですから、何とも云へず青白くさっぱ りしてゐました。所々には、水増しの時でき た小さな壺穴の痕や、またそれがいくつも続 いた浅い溝、(中略)日が強く照るときは岩 は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ われもあ>(「イギリス海岸」)る岸辺であ る。今は下流に堰が出来た関係で、余程水量 が減らない限り、その異様な川床は見られな い。「銀河鉄道の夜」の「プリオシン海岸」 のモデルである。

イギリス海岸

 イギリス海岸より国道四号に出て、南下し 、豊沢川を渡って三百メートルほど行って左 斜めに入ろう。さらに四、五百メートル行き 賢治詩碑左の標識の所を左に入って四百メー トルも行くと羅須地人協会跡に到る。賢治が 大正十五年春より昭和三年夏にかけ、独居自 炊の生活をし、農耕に従い、農民指導を行っ た所。小公園になっており、高村光太郎揮毫 になる「雨ニモマケズ」の詩碑がたっている 。数ある賢治の碑の中で最初に作られたもの 。ここに建っていた建物が先ほどの花巻農業 高校敷地内に移築されているのである。この 地は「セロ弾きのゴーシェ」の舞台のヒント になった所と言う。

地人館

詩碑の入口の左側に地人館 (旧佐 藤郷士館)がある。館の入口の右手に賢治の「 母」の詩碑がたっている。館内には、花巻ゆ かりの人の展示がされている。賢治、光太郎 を初め、日本のシュール芸術の草分け、東隣 の東和町出身の萬鉄五郎、盛岡中学(現盛岡 一高)で啄木や賢治の後輩にあたる現代屈指 の具象彫刻家舟越保武氏らの展示がある。伊藤館長は賢治の生き写しの様な人。いつまでもお元気で。
   次に市内に入ろう。豊沢川を渡って北に進 み、二つ交差点を過ぎた左側に賢治の生家宮 澤家がある。建物は戦災で失われている。
 生家の北の交差点を左(西)へ曲がり、道なりに北西へ五〇 〇メートルも行けば「シグナルとシグナレス 」の舞台花巻駅、西方へ一キロ半ほど行くと 、左(南)にぎんどろ公園がある。賢治が奉 職した花巻農学校の跡である。

ぎんどろ公園・風の又三郎の碑

公園の南隅、大きな辛夷(マグノリア)の木の下に賢治の 「早春」の碑がたっている。その近くには、 賢治が愛したギンドロの木が銀色のビロード の葉裏を風に閃らめかせている。公園の中央 には、本郷新賞を受賞した「風の又三郎」の 少年少女の群像と碑がたっている。公園のト イレは、賢治の「どんぐりと山猫」にちなん でどんぐりの形に作られている。公園の西に 市立図書館があり、その手前には賢治の「高 原」の詩碑がある。
<海だべがど おら お もたれば/やっぱり光る山だたぢゃい/ホウ /髪毛 風吹けば/鹿踊りだぢゃい>と彫っ てある。そこより駐車場を左に見てだらだら 坂を下って行くと、坂の終わる手前右側に 石段がある。賢治の墓のある身照寺である。

身照寺

石段の上には、しだれ桜 が顔をのぞかせている。身延山から株分けし たものだそうな。この瀟洒な寺の裏の 墓地に賢治が眠っている。
境内は狭いながら も手入れが行き届いていて、四季折々の花が 美しい(門の脇の枝垂桜はみごとである)。 本堂の裏手の墓地の入口には、パンフレット が置いてあり、自由に貰える。寺と賢治との ゆかりが記されている。賢治は熱心な法華経 信者でこの寺の建立のため「法華堂建立勧進 文」まで書いているが、宮澤家が真宗だった ため、死後真宗の寺に葬られていた。昭和二 十六年、賢治の遺志を請けて、宮澤家が改宗 し、日蓮宗のこの寺に葬られることになった 。宮澤家の骨堂の左側にあるのが賢治供養塔 である。静かにお参りしたいものである。

宮沢賢治骨堂(右)と賢治供養塔(左)

  身照寺を出て、坂を少し下ると主要道に出 る。そこにあるバス停石神から高村山荘行き のバスで西へ十三キロほど入った山口の山裾 (現・花巻市太田三−九一)に高村山荘と高 村光太郎記念館がある。賢治の弟清六氏宅に 疎開していた光太郎が、戦災に会った後、昭 和二十年十月から二十七年十月まで自己流謫 (るたく) の生活を送った所。当時をしのばせる山 荘が二重の套屋の中に保存されている。山荘 から記念館に到る道の右脇に「雪白く積めり 」の詩碑がある。

高村山荘

 花巻市内から来た主要道を豊沢河に沿って さらに北西に入って行けば賢治と縁の深い志 戸平温泉、大沢温泉、鉛温泉と道は続く。鉛 温泉は田宮虎彦の「銀心中」の舞台である。 鉛とその奥の豊沢湖、さらにその奥の大空の 滝、なめとこ山、中山峠の辺りは賢治の「な めとこ山の熊」の舞台である。時間がある時 は訪れるとよい。

 花巻温泉は花巻駅から十キロほど北西の山 裾にある。駅からバスかタクシーで行くこと になる。光太郎山荘の辺りからはタクシーや 車なら直接行くことができる。
 温泉入口から温泉街の中央に続く道路の北 側には桜が並木になっている。古い木は賢治 が農学校の生徒に手伝ってもらって植えたも の。温泉街の北にあるバラ園の前身の花壇は 賢治が設計したもの。今は賢治記念館の南斜 面に再現されている。バラ園の東端には賢治 設計と言われる日時計もある。花巻温泉は賢 治の父も開発に力を貸している。松雲閣や紅 葉館は「一九三一年度極東ビヂテリアン大会 見聞録」の舞台である。松雲閣の先の左手に 温泉開発者金田国士をたたえた光太郎の詩碑 がある。詩碑の先から左へ下ると釜淵の滝に 到る。賢治が農学校の生徒を引率して遊んだ 「台川」の舞台である。

釜淵の滝

 なお市街の南を流れる豊沢川の石神地区は 「さいかち淵」の舞台であり「風の又三郎」 に使われている。石神記念公園に賢治碑があ る。その他市内各所や小中高等学校に賢治の 碑がある。

JR花巻駅前には、「風の又三郎」をイメージした風車のモニュメントがある。駅から左に行き緩い坂を100メートルも下ると、左のコンクリートの壁にかすかに絵らしき物が描いてある。ここは、夜になって訪れると、夜行塗料で描かれた銀河鉄道が姿を現す。
 駅から右手に進み、駐車場を過ぎて、線路より、一本内側の道を線路と平行に100メートルも行くと、右手に「林風舎」がある。賢治の縁戚の方が運営して いる賢治グッズと喫茶のしゃれたお店である。店内中央壁面には賢治の大きな肖像画が飾られ、落ち着いた雰囲気で気分がゆったりする。店名は勿論、賢治の 「北守将軍と三人兄弟の医者」の3人兄弟の二番目「リンプー先生」からとったもの。花巻の散歩に疲れたらひと休みしたい。

 花巻駅、新花巻駅からは、賢治・光太郎コースの観光バスが土日祝日に出ている。

   今回のコースは、十一時新花巻駅から回り出して夕方までで 回れるが少々きついか。出来れば10時から 廻り出したい。


→「宮沢賢治を歩く」ホームページ


リンク


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イーハトーブの風の森
花巻在住の小田島貢さんのホームページ。宮沢賢治、高村光太郎ほか、花巻に関する豊かな情報があります。花巻を訪れる前に必見。

たかのおもちゃ
花巻在住のたかさんのホームページ。なんとも楽しい宮沢賢治関連の写真、絵、エッセイが見られます。


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渡部芳紀研究室
中央大学文学部文学科国文学専攻


「心の王者・太宰治ーわたしの太宰治観」
                     渡 部 芳 紀


    <弱さの文学>への疑問
太宰文学を<弱さの文学>としたり<滅びの文学>としたりする見方がある。太宰の文学に影響されて自殺する青少年がいるということも聞く。が、はたして大 宰治は本当に弱かったのか。大宰文学は人間の弱さを書いた文学なのか。たしかに、太宰文学に弱い部分を持った人間が登場する場合が多いのは否定できない。 大宰が弱い面を持っていたのもたしかだろう。が、世の中に強いだけの人間がいないように、弱さだけの人間もいないだろう。太宰のなかには弱い面と同時に強 い面が、太宰文学のなかに、弱さの面と同時に強さの側面が、不健康な傾向のなかにきわめて健康なものが、下降せんとする志向とともに上昇せんとする志向 が、同時に存在しているのである。

   太宰文学を自分の弱さの根拠づけのために弱さの典型にしてしまったり、太宰の生き方を自分の人生の敗北の理由にしたりするのは身勝手というべきである。
 太宰は自分の弱い部分に苦しみ悩みながらも、なんとか生き続けようと苦闘したのだ。彼の文学は、その苦闘の反映であり、かつ、読者に対して、苦しくても なんとか強く生きようとのはげましの思いで綴っているのである。世にいうように、ただ、自分の弱さを愚痴るためだけでどうして、あれだけの分量の小説を書 く必要があろうか。
 太宰は、全集にして九巻の小説と一巻のエッセイを残した。一巻弱の習作も書いている。それは単なる弱さのあらわれでなく、むしろ、なんとか強く生きよう とする太宰のもがぎ苦しんだ姿の象徴なのである。九巻分の小説を描くエネルギーは莫大なものである。太宰の持っている強い生命力の面にも目をやらなければ ならない。そうでなくては、延べ十六年間にわたる創作活動も維持できなかったであろうし、死後五十年近くにわたって、これだけ多くの読者を得ることもでき なかったであろう。

      <心の王者>・精神の貴族・愛
 人は何を幸福とするのだろうか。金をたくさん得ることか。有名になり名誉を得ることか。衣食住に何不自由のない状態か。美しく賢い相手と結婚し安定した家庭を築くことか。たしかにそれらも幸福の構成要素の一つかもしれない。
 が、なによりも大切なことは、幸福は、衣、食、住、金などの物質的なものによっては決して得られない、もっと心や精神と深く関わった問題だということであろう。図式的にいえば、人間の真の幸福は、物質よりも精神の問題にかかっているということである。

 太宰は津軽でも屈指の大地主の家に生まれ育った。父親は、衆議院議員、貴族院議負なども勤めた。物質的には何不自由ない生活であった。しかし、そのなか で、どうしても幸福を実感できなかった。幼時から母と離され、母の愛に飢えていた。兄弟のなかにおける疎外感は彼に劣等感を植えつけ、容貌や色黒といった ささいなことでも劣等感は助長され心の負担は増した。彼は、幸福が決して物質の中になく、心のなかにあることを感づいていたの である。太宰が、文学の道を選んだというのも、そこに心の幸福、真の幸福を求めようとしたからである。太宰が、生家のいいなりになり、長兄の言に従って、 地道に学問を積んでいれば、津軽屈指の大地主一族の一員としての物質的安定は保証されていたであろう。それを、あえて文学の道を選んだのである。この非実 用的で無用で、物質的欲望には何の役にも立たない道を。

 太宰文学は終始一貫、物質的幸福を否定し、精神の幸福、精神の豊かさを強調している。創作集『晩年』を中心とする前期の文学活動では<ダンデイズム>精神を根底に据えて精神の貴族を目ざしている。『晩年』を代表する「道化の華」は、まさに、<心>を中心にした幸福を描いたのであった。<狂言><虚構><道化>といった<虚>なるもの、無用のもの、空なるものに真善美を見ようとするのである。

 同じく『晩年』中の「猿ケ島」で、主人(猿?)公の猿が、猿ヶ島の物質的生活的には安定した環境を捨てて、苦しみと不安があるかもしれないが、真の世 界、本当の自由を求めて猿ケ島を脱出していく姿にもそれは出ていよう。その他さまざまに方法を工夫ながら、単なる受身の心の世界でなく、もっと積極的な心 の世界、豊かな精神の世界、華美で、夢幻的で、豪華な心と聖心の世界を目ざしていくのである。しかし、その世界の追求にはやる余り、またその方法があまり に斬新すぎたために、物質中心の、功利精神から成り立つ現実社会から復讐され、挫折を味わい、一時沈黙する。

   中期の太宰は、一歩後退したところで、<心の王者>を 追究していく。物質を重んずる功利的現実へ一歩妥協し、そのなかで精神の貴族を目ざすのである。昭和十四年ころから、明るく健康な愛情のあふれた作品が数 多く書かれるようになる。それらは前期の作品のような力みがなく、それだけ反俗姿勢は薄いがほのぽのとした愛情が色濃く流れているのである。

   中期のこうした傾向はさらに進んでいくが、従来、太宰のデカダンスの傾向、反俗精神を強調する人々からは、それらはそれほど高く買われていない。しかし、<心の王者>として、心の幸福を目ざす太宰にとっては、それらこそ、一番大切な世界であり、中心的なものなのである。
 中期のこうしたヒューマンな傾向、明るく健康な世界の典型が「津軽」なのである。その中で太宰は、自分は<愛情と真理の使徒>であり、<このたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追究した>と述べる。
 この一科目とは<人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目>すなわち<愛>を 研究する科目なのである。太宰が文学の道を選んだのもまさにここにある。<愛>を求め、<愛>の世界の構築のために文学にいそしんでいるのである。そうし てこそ、大宰は、<心の王者>となることができる幸福を手にすることもできるのである。「津軽」は<愛>を目ざす太宰の一つの到達を示す作品といえよう。

   反俗の精神・価値の転倒
 あるものに対する愛は、あるものに対する憎しみでもある。自然を愛する時、自然を破壊するものは憎しみの対象である。<愛>を<心の王者>を目ざす時、愛なき世界、物質中心の世界は憎しみと批判の対象となる。『晩年』巻頭の「葉」において<芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である>といいながら、一方、<われは山賊。うぬが誇をかすめとらむ>といわざるを得ないのである。<心の王者>を目ざすゆえに、それを妨げるものを憎むのである。それは、俗世間の価値観に反抗することであり、反俗の精神となって現われてくるのである。
 こうした<愛>と<反俗の精神>とが結びあったところに『斜陽』が位置しているともいえよう。『斜陽』の持っていた<恋と革命>と<没落への挽歌>とい う二つの主題は、かず子の<愛>と、直治や上原の<反俗の精神>へと平行移動することもできるのである。そして最後の傑作となった『人間失格」は、<愛> よりも<反俗精神>の強い作品であり、その意味では、太宰の従来めざしていた文学からはややはずれた作品だということができるだろう。

   以上見てきたように太宰文学は、根底に、精神の貴族、<心の王者>を目ざした積極的側面をしっかりと持ったものなのである。実用性・功利性を重んずる現世の価値観に対して、<ナンセンスの美しさ>(「古典龍頭蛇尾」昭11)をいい、<無用ノ長物>を推賞し、<千代紙貼リマゼ、キレイナ小箱、コレ、何スルノ?ナンニモシナイ、コレグケノモノ、キレイデシヨ?>(「走ラヌ名馬」昭11)と、非実用の世界を強調していく。そこには俗世間の価値観に屈しない太宰の積極的側面が出ているといえる。
 <心の王者>は、<詩人>を指す。昭和十五年一月二十五日付『三田新聞」に発表した「心の王者」において、<詩人>は、神の<光>に陶然と酔い、<夢の国>に遊んで<地上の事を忘れてゐた>。しかし<詩人>は<地上の営みに於いては、何の誇るところが無くっても、其の自由な高貴の憧れによって時々は神と共にさへ住めるのです>という。この<詩人>は、太宰自身の目ざすところのものであったということができよう。

   今後への展望
 このように、世間で思われているよりずっと積極姿勢を持っていた太宰文学なのに、その韜晦的文学方法から多くの誤解を招いている。それは<笑ひながら厳粛のことを語る>(「狂言の神」)、<君不看双眼色、不語似無愁(きみみずやそうがんのいろかたらざれぱうれいなきににたり)>(「虚構の春」)と随所で繰り返される姿勢である。自分の主張をあからさまに展開するのを避け、逆説的に、また、難解に表現することが多かった。それが太宰文学を多くの誤解の中に包んだ一つの原因でもあるだろう。
 これからの太宰文学は、大宰の現実生活上のさまざまな伝説にまどわさることなく、作品に素直に接することにより、正しく受容読解されていくことが望まれる。太宰は作品の中で全てを語っている。太宰の作品に虚心に触れあうところから、正しい太宰像と太宰文学像とを築き上げていきたいものである。そうなった時に、太宰文学のために自殺したなどということは起こらなくなるであろう。

 太宰の文学修業に費やしたエネルッギーは大変なものであった。古今東西の本を読み、何千枚もの習作を書き捨てた。その上に立って、流暢華麗な文体を持っ た太宰文学がある。田中英光、小山清といった弟子の作家もいたが、本質的に太宰を引書継いているとはいい難い。現在の多くの作家に、さまざまな影響を与え ながらも、真の後継者は一人も出ていないのが太宰である。太宰文学は模倣者を許さぬ個性の強い文学である。もし模倣しても、亜流を出ぬ下品なものになって しまうであろう。そうした意味でも、太宰は天才的な作家であったということができよう。各人各様に、 それぞれ自分自身の手で太宰文学に臨むのが望ましいといえよう。
         拙著『太宰治 心の王者』(洋々社)より


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