名作のふるさと  津山

                 渡部芳紀

津山(神南備山より)


 今回は岡山県の北部津山を歩こう。

津山は鶴山城を中心とした城下町である。 美作地方の産業と文化の中心地で、歌人尾 上紫舟、仏文学社斉藤寛、作家片岡鉄兵、 詩人矢野峰人、哲学者出隆、俳人西東三 鬼、政治家平沼驥一郎ら多くの傑人を生ん でいる。おのずから文化人の訪れも多い。 戦争中は谷崎潤一郎が疎開していた。今回 は谷崎を中心に町を回ってみよう。交通の 要所で、姫路、岡山、鳥取、新見の四方向 からJRが通じ、中国自動車道の津山イン タ−チェンジもある。今日は津山駅から出 発しよう。

 駅の北口広場から斜め右へ行くとすぐ吉 井川にかかった今津屋橋を渡る。吉井川は 津山市街の南部を西から東へ流れている。 谷崎は「都わすれの記」で
<はじめて見る町のすがた趣変りていと珍し、日々吉井川 のほとりまでそゞろ歩きす>
と詞書して
<のがれ来てくらすもよしや吉井川河原の ほたる橋のゆふかぜ>
<燈火(ともしび)をいましむる町を小夜ふけてわれは顔にも飛ぶ蛍かな>
などと詠んでいる。
谷崎が津山に滞在したのは昭和二十年五月十五日よ り七月七日まで。太平洋戦争の戦火を逃れ て疎開し、七月七日には、さらに西の奥地 勝山に再疎開している。

 橋を渡って四百mも進んだ大手町の交差 点を右(東)に曲り百mも行くと左にキリ スト教図書館、作州ふるさと観光センタ −、郷土博物館と科学教育博物館、市立図 書館が並んである。観光センタ−では「津山 ご城下めぐり旅」などの案内図がもらえる。 博物館では津山の歴史を辿ることができ る。

津山の概略を掴んだらすぐ北の城跡鶴 山公園に登ろう。
鶴山城は室町時代山名氏が築城、その後廃城になっていたが慶長い 八年この地に俸じられた森蘭丸の弟森忠正 が十三年かけて築城したもの。森家廃藩 後は松平家が引き継いだ名城であった。今 は石垣を残すのみであるが公園として市民 の憩の場になっている。

切符売場を抜けて左周りに一段上の石垣に登ると左に尾上紫 舟の歌碑がある。
<生ぬくきにほひみたせ て山さくらさききはまれは雨よふらしも>
と彫ってある。
尾上紫舟(明治九年から昭 和三十二年)は、歌人、書家、国文学者。 城の西四百mほどの田町の出身のゆかりによ る。近くに芭蕉の句碑もある。

園内は広く桜、躑躅、もみじなど季節季節の木々が植 えられている。石垣の南の鼻からは市内が 一望される。

公園の北西の裏門から北へ抜 けると、津山文化センタ−がある。玄関前 に西東三鬼の句碑がある。
<花冷えの/城の石垣/手で叩く>
と彫ってある。俳人西東三鬼(一九〇〇〜一九六二)が津山の南 新座の出身の所縁による。

 次に北方七百mほどにある衆楽公園を訪 れよう。センタ−の西に先ほどの今津屋橋 からの道が南北に通っている。その道を北 へ六、七百m行くとバス停津山市役所の交 差点に出る。市役所と津山商業高校の間の 道を右(東)へ曲り、二百mも進むとバス 停衆楽公園前に着く。左側(北)に衆楽公 園がある。

森家二代藩主長継公が明暦三年 (1657)京都から作庭師を招いて築造 した池泉回遊式の庭園。南北に長い池の周 辺に余芳閣、清涼軒などの瀟洒な建物が配 されている。
公園の西北部、松の木の下に は山口誓子の句碑がある。
<糸桜/水にも/地にも/枝を垂れ>
とある。この地を訪れた時の句だろうか。

公園を見たら、公園 前の東西の道を横切って南へ二百mも行 くと美作高校の裏に突き当たる。右に曲り 左、左と曲がって南の正門へ出よう。正門 を入った右前方、学校の校舎の手前の植込 の中に
<うつくしき五郡の/山に護られて /学ぶ少女は/いみじかりけれ>
と彫った与謝野晶子歌碑がある。昭和八年七月三日 、講演で訪れた際詠んだ歌。


 正門前の東西に走る道を西に進み、今津 屋橋からの道を横切り二百mも行くと津山 高校に突き当たる。明治三十三年に建てら れた洋館の本館は学校の伝統を物語ってい る。

高校に沿う形で北から、さらに西へ三、四 百m行くと、南から来た道と交差する。八 幡宮の交差点である。
南西の角に地蔵院と鶴山幼稚園とがある。地蔵院の門から境内 に入る。北隣りに鶴山幼稚園がある。幼稚 園の園庭の前に愛山廟がある。松平藩最後 の藩主九代慶倫公の墓がある。廟の門に 向って右手前に谷崎潤一郎の碑がある。

<池におつる雨の音侘びし。因に云ふ此の 御殿は明治初年に城より此處に移し建てし ものヽ由にて愛山宕々庵と号す。床の間に 松平康倫公の書「愛山」の軸をかけその上 に確堂公書宕々庵の額あり。六畳の間に慎 由公夫人静儀の和歌松上の霞「山は今朝霞 のきぬにつヽまれて千代の色そふ松の村立 」の額あり。>
と「疎開日記」昭和二十年 五月十五日の一節が彫ってある。疎開初日 の晩の印象である。この廟の前にあった松 平邸に七月七日まで疎開していた所縁によ る。今は幼稚園の敷地に成っている。同日 記で疎開先に着いた印象を
<八子松平邸は 東照宮の廟前にあり。(中略)予等に充て られたるは十畳と六畳の御殿作りの座敷に て回り縁ありて池に臨む。(中略)庭は土 塀に囲まれ、つヽじ最も多く、見事なる梅 樹楓樹あり。石も中々美しきものあり。>
と書いている。

愛山廟


「都わすれの記」では<鯉をどり水蓮しげる水の上にわれも浮身を宿 すべきかな>と短歌に詠む。
隣りの地蔵院に関しては
<学童疎開して宿泊す。毎朝七 時頃声を揃えて「お父さんお母さんお早う ございます」と云ふのが聞こゆ。>
と記している。短かい滞在だったが「細雪」を書 き継いだ重要な時期である。

 愛山宕々庵の前の道を北へ一キロも行く と左に美作の九百十二社の総本部的神社総 社宮があり右手には和銅六年(七一三)美 作の国誕生時の国府跡がある。

 宕々庵の前の道を南に五百m下だり広い 道に出たら左に曲がると左側に尾上紫舟の 屋敷跡がある。その先(東)の交差点を右 (南)へ曲り津山警察署前から繁華街ミ ラ−ストリ−ト銀天街を抜けて吉井川ま で七、八百m行った城見橋の北詰めには中 村汀女の句碑がある。

吉井川に沿って東か ら来た道は橋の北からやや北にカ−ブして 川からそれて行く。その道を西へ三百mも 行った左、バス停南新座の手前の南、八十 四番地に西東三鬼の生家がある。近くには 昭和十四年に総理大臣を務めた平沼驥一郎 の別邸もある。

バス停の西の蘭田川にか かった中田川橋を渡り右にまがって北へ二 百mも行くと左に成道寺がある。本堂に向 かって左手に広がる墓地のほぼ中央に西東 三鬼の正方形の墓がある。右に西東三鬼之 墓と彫り左下に<水枕/がばりと寒い/海 がある>と三鬼の代表作が刻んである。

寺の東北二百mほどの所に大みこしで名高い 徳守神社もある。「疎開日記」には<街を 見物す。徳守神社に詣で平沼邸の前など通 る>と書いている。

成道寺から南に下だり もとの道を西へ三百m行き左に曲がって境 橋を渡り国道五十三号線に出たら右に進み すぐ左へ入り細道を行き姫新線、津山線の 二つの踏みきりを越え二、三百m行くと長 法寺に着く。

 神南備山(久米の皿山)の裾にあるこの 寺は白壁の美しい寺だ。別名あじさい寺と いわれ三千本のあじさいが咲く。津山線の 津山の一つ西の津山口からは徒歩十分であ る。山門からまっすぐ進んだ突当りの右に 白壁を背景に薄田泣菫の「公孫樹下にたち て」の詩碑がある。

  銀杏よ、汝常盤木の
  神のめぐみの緑葉を、
  霜に誇るにくらべては、
  いかに自然の健児ぞや。
  われら願はく狗児(いぬころ)の
  乳のしたヽりに媚ぶる如、
  心よわくも平和(やはらぎ)の
  小さき名をば呼ばざらむ。
  絶ゆる隙なきたヽかひに、
  馴れし心の驕りこそ、
  ながき吾世のながらへの
  栄ぞ、価値ぞ、幸福ぞ。

と長詩の、末尾に近い十二行が彫られている。
明治三十四年十月<秋美作津山に遊び 姉なる人にしたがひて近郊を逍遥し途に公 孫樹を過ぎてよめる>詩。
第一節には、<向脛ふとくたからかに、/青きみ空に そヽりたる、/見れば鎧へる神の子の/陣 に立てるに似たりけり。>ともある。

碑の後にその公孫樹の大樹が聳えたっている。

公孫樹


階段をさらに登れば、鐘楼のある広場に出 る。鐘楼の脇には「田岡嶺雲ゆかりの鐘」 と彫った碑が立っている。明治二十九年、 津山中学教師として赴任した若き文豪田岡 嶺雲は土地の芸妓と激しい恋に落ちたが実 らず翌年十一月、失意のうちに津山を去っ た。

田岡嶺雲の胸にここの鐘がしみじみと 響いたという所縁による。近くに「公孫樹 下にたちて」の別の一節を刻んだ碑もある 。神南備山の山頂(三五六m)には車でも 登れる。津山の町が美しく見下ろされる。 時間の余裕がある時は登りたい。

 その他、今回触れられなかったが市内に は見所が多い。ゆっくり回りたいものであ る。


◎リンク

にこにこ本舗
津山在住の渡邉 道朗 さんのホームページ・俳句やユーモアのこもった短文・小品などがあります。



渡部芳紀研究室
中央大学文学部文学科国文学専攻