中村・大方         

                                     渡部芳紀

上林暁は、四国は高知県南西部、四万十川の河口に近い中村の東隣り大方町の出身である。まずは、大方町を訪ねよう。

大方を歩く

町を訪れたら、まず最初に、土佐くろしお鉄道土佐入野駅の南方、四キロも続 く白砂青松の美しい松原、入野松原の中ほどにある「大方あかつき館」を訪れよう。一階は図書館、二階が上林暁文学館になっている。貴重な資料の数々が収蔵 展示されている。立派なカタログも作られている。ここで上林の基本を身につけてから、上林文学のふるさと、故郷大方と中学時代を過ごした西隣の中村とを歩 きたい。閉館は、月曜、第一、第三土曜、開館時間は十時から五時まで(平日は六時)。

 館の一階に上林暁のモニュメントがあり、東にある加茂神社の裏、浜に向かった一隅に上村暁の碑がある。

梢に咲いてゐる花よりも

地に散ってゐる花を

美しいとおもふ

       上林暁 

と彫ってある。

町内下田ノ口の国道からやや東南へ入ったところには、上林暁の生家があり、さらに南へ行った、石崎パス停の上に、上林の実家徳廣家の墓地がある。「父イタロウ」の一節<父イタロウは、海や松原や川口や田圃の見える、見晴しのいい、小さな岡の上に眠っている。>を刻んだ両親の墓も珍しい。上林の墓には本名の徳廣厳城墓と彫ってある。

母校の田ノ口小学校には、「努力の碑」と銘された上林碑がある。

大方町は、田ノ口を中心として、「薔薇盗人」「ちちははの記」ほか、多くの上林作品の舞台となっている。入野松原も美しく、余裕がある時は、のんびりと散索したいところである。大方をみたら、西隣の中村に向かおう。

中村を歩く

中村は土佐の小京都ともいわれる。関白まで勤めた一条教房は、応仁の乱を逃 れ、応仁二年(一四六八)中村に下向、幡多の荘園の回復につとめた。中村の地形が京都に似ているため京をしのぶ祇園、京町、鴨川、東山などの地名をつけ、 街並みも碁盤状に作り、その中央に御所のように屋敷を構えて住んだ。その後、長宗我部、山内などが、この地を支配した。

 東隣りの大方町出身の上林暁は、旧制中村中学(現・中村高校)の出身で、中村とも関わりが深い。「四万十川幻想」(昭46)は、上林と中村との関わりを語った作品である。今回は、この作品を中心に、中村の街を回ってみよう。

第三セクター方式土佐くろしお鉄道の中村駅から出発しよう。駅前に中村市観光情報センターがあるので立ち寄り、中村のパンフレット、案内図などもらって出発しょう。

 駅から少し進むと広い通り(国道439号線)に出るので、右(北)へ曲がってまっすぐ進もう。三〇〇メートルも行って左(西)へ入ると太平寺がある。

十六世紀半ば、寺を修復の際、一条氏三代房基により、非常避難所として、土塀に、三角形の矢狭間が作られた。石垣も堅固で、城の趣がある珍しいもの。境内には、大村卓の書で、自由民権運動の犠牲になった人を弔う「自由之碑」が立つ。開基の性公尼と覚雲の座像は室町時代の肖像彫刻の傑作で国の重要文化財である。ちょっと寄り道してみるのもよいだろう。

もとの大通りにもどりさらに北へ進もう。五、六百メートル行き、宿毛方面への標識に従って左(西)へ曲がり、市役所・市立図書館の手前で今度は右へまがり、二百メートルも行くと、左に一条神社がある。中村の中心である。もと一条教房が居を構えたところ。中村御所と呼ばれた。一五七四年、長宗我部により、一条氏は中村を追われたが、遺臣によって、一六〇七年、一条氏数代の霊をまつる一条神社が造られた。十一月二三〜二五日には、一条大祭がにぎやかに行われる。

一条神社の前の道をまっすぐ二百メートルも西へ進むと山すその道に突きあたる。左へ行けば、すぐ右手に中村貝塚がある。右手へ行げば、左に、中村検察庁がある。その敷地の左脇に、幸徳秋水の墓の案内板が立っている。検察庁の左(南)の細道を三〇メートルも入って行くと、右手が墓地になっている。右側中央あたりに、幸徳秋水の墓が立っている。

幸徳秋水は、明治四年、高知県幡多郡中村町(現、中村市京町二丁目)に生ま れた。中江兆民に師事し、「萬朗報」「平民新聞」などに健筆をふるった評論家、社会主義者、無政府主義者。明治四十五年一月二十四日、大逆事件により処刑 された。墓は検察庁の方を見つめて立っている。

「四万十川幻想」で、上林暁は、〈私ははじめて幸徳秋水の墓を弔うた。戦争 中までは禁断の墓だった。秋水の墓は裁判所の裏手、正福寺の墓地にあった。山の崖が迫っているので、狭い墓地だった。政治家で秋水の親友であった小泉壬申 の書いた「幸徳秋水茎」という文字が目立つだけで、その他には目立つものは何もなかった。ごく普通の小さな墓だった。秋水は反逆者であるから、大きな墓を たてることが許されなかったのである。〉と書いている。

検察庁の前にもどり、道を北へ二百メートルも進むと、一条氏三代の房基の墓に至る。その手前より左の山上、為松公園に登る道がある。その細道(乗用車は入れる)を道なりに登って行くと、中村城跡為松公園に至る。

右手(東側)の小高い丘に登って行くと、幸徳秋水の大きな碑が立っている。碑面には

 <区々成敗且休/論 千古惟応急/気存 如是而生/如是死罪人又/覚布衣尊/死刑宣告之日便成/秋水>とある。

 (区々の成敗しばらく論ずるをやめよ 千古これまさに意気存す かくのごとくに生き かくのごとく死す 罪人またおぽゆ布衣の尊きを)

 ささいな成敗はしぽらく論ずるのをやめよう。千古の歴史に光るのは、人間の意気だけである。自分はこのように生きこのように死ぬ。罪人になった今でも、仕官してない平民の自由をつくづく感じることであるの意で、死刑宣告の直後、看守にたのまれて作った漢詩だという。

 背面には「秋水・幸徳伝次郎の略歴」として<一八七一年(明治四)二月五 日この地中村市に生まれ、幼時から豊かな才能を示した。一九〇〇年前後『萬朗報』の論説記者として名文をもって世に知られた。同郷の師中江兆民の自由民権 論を継承・発展させて、わが国社会主義運動の先駆者となり、『廿世紀之怪物帝国主義』『社会主義神髄』などを著述して多くの読者を得た。日露戦争に反対し て『平民新聞』紙上に、「非戦論」を展開した。やがて無政府主義思想に転じ、時の権力によって「大逆事件」の首謀者に仕立てられ一九十一年(明治四四)一 月二四日、東京市ケ谷監獄の絞首台で平和と民主主義のための闘いの生涯を閉じた。一九八三年一月二四日幸徳秋水刑死七〇周年記念事業実行委員会〉と彫って ある。

秋水の碑の左脇を通って萩の植えられた道をさらに進んで行くと広場に出る。左には、四万十川が見下ろされる。広場のつき当たり(北端)に白い横長の四角い石でつくられた文学碑がある。上林暁の碑だ。 

四万十川の

青き流れを

忘れめや

と彫ってある。「四万十川幻想」の<9 文学碑>の章で、<地元から建設場 所を知らせてきた。為松城址の一の丸、今の為松公園にきまったのである。小さい山城の址で、石垣が若干残っている。前に四万十川の鉄橋が見え、うしろを振 りかえると、旧中学をへだてて、後川が見える>と書いてある。豊かな木々の繁茂で、それらは完全には見えないが風景の美しいところである。この両川の景色 は、郷土資料館から眺めよう。

郷土資料館は秋水の碑の前から左ななめに東へ下って行くとあ る。城の形に作られた建物だ。中村貝塚の出土品や、中村関連の歴史資料などが展示されている。一番上の階は展望室になっていて、南方眼下に中村市街が見下 ろされる。西には四万十川が、東には、その支流の後(うしろ)川が流れ、はるか南で合流している。眼下、後川の手前には中村高等学校も眺められる。

中村高等学校には、同校出身のアララギ派歌人橋田東声の歌碑や上林暁の碑がある。

 上林の碑は、正門を入った右側、低い石に、つつましやかに

文芸は

私の一の芸

二の芸

三の芸である

       上林暁

と白い字で彫ってある。

為松公園からは、中村高校に下ってもよし、西の四万十川の遊覧船乗り場へ下るのもよい。川沿いに五キロも登ると有名な今成沈下橋にいたる。川下へニキロほど下った左岸には、不破八幡宮がある。「四万十川幻想」では、

 古い八幡様がある。五百年近く前、中村を開府した京都の公卿一条氏 が、石清水八幡を勧請したものである。今は神殿が国の重要文化財に指定されている。毎年初秋の頃には大祭があって、上げ馬(競馬)が呼びものであった。私 が中学へ行っている頃は県社であった。県立中学の生徒である私たちは、祭の度毎に参拝した。上級生になると、鉄砲を担いで、武装して参詣した。

と描いている。

四万十川の対岸入田(にゆうた)は、堺事件の当事者が流されたところ。森鴎外の「堺事件」の舞台として登場する。

四万十川橋から三キロほど下った右岸の土手上、バス停甲ケ峰の脇には展望台がある。四万十川が美しく眺められる。

 四万十川(一名渡川)は汪々として湖水の如く、幅或は二十町、深サ時に十尋、中に白渚青嶼ありて、煙霧杳溟、岸を隔つるの人家隠見出没の間に在り

という志賀重昂の「日本風景論」の一節は、やや大げさではあるが、ここからの眺めはそれに近い。

なお、中村から四万十川を三十キロも上流へ行った西土佐村津野川のあたりは、笹山久三の「四万十川−あつよしの夏」(昭62・12「文芸」)の舞台である。その中で四万十川の上流の様子を、

 予土線に乗って、窪川を発ち江川崎に向かう途中、初めの頃に現れる 川は、岩肌の目立つ早瀬である。それは、江川崎に近付くに従って大きな淵と、その対岸に川原のある風景を持つようになるが、その傾向は、下流に行くに従っ て顕著になる。中流域にもなると、流れが山肌にぶつかった所には、広く深く長い淵を形成し始める。

と描いている。日本一の清流といわれる四万十川の上流も歩いてみたいものである。(写真・筆者)


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