『黒い雨』
                           渡部芳紀  

 「黒い雨」は、初め「姪の結婚」の題で、「新潮」の昭和四十年一月号から七月号まで連載し、同八月号より「黒い 雨」と改題して、四十一年九月号まで書き継がれた。同年十月には新潮社より『黒い雨』として刊行され、十二月十七日、昭和四十一年、第十九回野間文芸賞を 受賞した。
 発表当初より評判を呼び、早くも昭和四十年十二月号「新潮」で河上徹太郎は<悲惨の極にあって人間味のある珍しい原爆小説で><重厚だ、本格的な小説>であると高く評価した(後に、新潮文庫の「解説」昭45・6では、<凄惨(せいさん)さと同時に、それよりもしみじみとした人生永遠の哀愁の籠った、戦争文学の傑作>だとする。)。
 連載が終了した際、江藤淳は<作者が見事にこの平常心をつらぬき通し><動かしがたい説得力を持ち>、<原爆をどんなイデオロギーにも曇らされぬ眼で、これほど直視し切った小説を私ははじめて読んだ><深い感銘を受けた>(「文芸時(上)」「朝日新聞」昭41・8・25夕)と大変高い評価を与え、平野謙は、<構成上の若干の乱れ>を指摘しつつ、<最も注目すべき長篇>で、<政治的イデオロギィ的な現状に><大きな無言の警告を発している>(「文芸時評−九月の小説(上)」「毎日新聞」昭41・8・31夕)と評した。
 また、「群像」の「創作合評」(昭41・10)では、佐伯彰一が登場人物の肉付けの無さを指摘しつつ<非常に野心的な長篇>だとし、北原武夫は<抑制は実にみごと>だとする。
 山本健吉は「地についた平常人」(「朝日新聞」昭41・”・24夕)で<井伏さんの文学の、また文体の勝利>だと評価し、佐伯彰一は「小説家と記録者」(「朝日新聞」昭41・12.8夕)で<日常的な記録者の位置>からの<無私の勝利>だとする。 こうした数多くの評価の上に、野間文芸賞を受賞するのだが、「群像」(42.1)の選考委員の言葉は、讃辞に満ちている。
中島健蔵は<本年度の諸作のうち><最大の収穫>だと言い、
伊藤整は<現代日本文学にとっても特記すべき作品>だとし、
大岡昇平は<戦後現われた最も優れた作品がもしれない>と高く評価した。
 
 しかし、批判が無かったわけではない。
北村美恵は「井伏鱒二『黒い雨』論」(「新日本文学」昭41。皿)で<被爆体験を記録として歴史化>し<仮空の実在>を生み出すという<勇敢な実験>を評価しつつ、それは前半では成功しアクチュアリティを持っているが、後半で失政したとする。
日沼倫太郎も<「無私」の目>を持った<記録者の強さ>を認め、<現代の「方丈記」>として評価しつつ、作者が<原爆という素材のもつ悲惨にびきこまれ> すぎ、<細部がストーリーをけちらしている><短篇小説の骨格>の作品で、<美学的完全作品ではない>、<本年度の、あるい戦後最高のすぐれた小説とする 多くの意見に対し反対する>(「現代の『方丈記』」「図書新聞」昭41・12・3)と評した。
 やや遅くなるが佐々木基一は<十九世紀小説と同じやり方で原爆をとらえたのでは、アクチュアルな衝撃力は>弱まる(「現代のリアリズムとは何か」「群像」昭42・4)と批判し、
大野晋は<読むのに極めて難儀した><高く評価することがでぎな>い(「『黒い雨」と『炎える母』」(「文学界」昭43.2)と否定し、
川村二郎は<法外な「歴史的」事実と、その事実にさらされた「人間」とを、同時に見ることがでぎなくなった>ところに<作品の瑠瑛>を見、だがそれが<井伏鱒二の文学世界>の<危険なガス体>を<逆説的に証している>と評した。
 しかし、これら批判的意見は数も少なく、しかも、「黒い雨」の全否定ではなく、全体的には評価しつつ、その一部を批判するという程度のものであり、発表当時、この作品がいかに高く評価されていたかということがわかるのである。

 こうした世間の高い評価に対して、井伏鱒二自身は、どう発言しているのであろうか。野間文芸賞受賞の際の「感想」(「群像」昭42・1)では、
<ルポルタージュのやうなものだから純粋な小説とは云はれない。その点、今度の野間賞を受けるについて少し気にかかる>と謙遜して述べ、
「井伏さんから聞いたこと」(その十一)伴俊彦(「井伏鱒二全集第十三巻」「月報」昭50.4)では<戦争反対の気持も含めて、極力事実を尊重してルポルタージュとして書いた>と述懐している。
 作者としては、小説を自分で作ったというより、資料を与えてくれたみんなで力をあわせて作り上げた記録という思いが強いようだ。が、それはそれで作者独自のものを持ち、高い評価に価するものを持っていると言えよう。

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 「黒い雨」には、二つの時間の軸がある。
 一つは、この作品の「現在」の時間で、昭和二十五年六月から八月にかけて経過して行く。
 この間、主人公閑間(かんま)重松は、結婚の話が進行中の姪の高丸矢須子が原爆症の患者ではないかという世間の噂を打ち消すため、「矢須子の日記」と、 自分の「被爆日記」とを清書して行く。その際中の、七月上句、矢須子に原爆症の症状が現われ始め、その病状を写すため、主人公の妻シゲ子による「高丸矢須 子病状日記」が書かれ、さらに、矢須子の治療、病闘の参考に知人から借りた「広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記」と、その妻の「回想的に語った記録」とが 紹介される。
 これら数々の日記・手記は、八月六日広島原爆投下をめぐってのもので、矢須子の日記には、八月五日〜九日、「被爆日記」には八月六日〜十五日、「岩竹博の手記」には六月末から九月初めごろにかけての「過去」の時間が描かれている。
 この二つの時間は、片方が原爆投下時の非日常的事件を写したものであり、片方は、約五年を経た、表面的には日常的な(裏に原爆症という非日常を潜めた) 日々を写したものである。これら二つの時間は、対照されて、互いの世界を浮きぽりにする。片や原爆による<阿鼻叫喚>の世界であり、片や五年後の、広島市 から数十キロ東北の山間の小畠村の静かな世界である。この対称的な時間を対照させることにより「過去」の異常な時間と「現在」に潜む「過去」につながる異 常とを叫弾するのである。

 この作品はそうした二つの「時間」軸を持つとともに、その主たる「過去」の時間を、数々の記録という構成要素によって浮き上がらせている。
 作者自身<この作品は、新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音などによって書いたもの>(「感想」)と言っている ように、作品は、前にあげた日記、手記を骨格とし、その骨を肉付けする形で、「広島にて戦時下に於ける食生活」、<葬式を仕切る立場のものとして>の「傭 忘録」、市役所助役柴田重暉著『原爆の実相』、<故充田タカに関する記録>、<告知板>、<布告>、<大野浦の役揚の記録>、<敵機の落して行った伝 単>、<曽祖父>あて<明治六年霜月吉日>日付けの手紙、と数々の実際の、あるいは虚構の記録類が挿入され、さらに<田淵実氏>の話、車内の人々の話、川 原の人々の話といった伝聞形式での挿話もしるされる。
 こうした<記録>によって作品を成立させる方法は、『井伏鱒二論』(冬樹社、昭53・5)で松本鶴雄も指摘しているように、初期の「さざなみ軍記」以来、近くは「武州鉢形城」で も試みられている方法である。ただ、「さざなみ軍記」「武州鉢形城」と、その<記録>の要素が次第に複雑になって来て、「黒い雨」では、それら以上に様々 な<記録>が駆使されているという違いがある。それだけ、原爆という問題が大きく、その複雑で正体のとらえどころのない怪物性をなんとか総合的に把握しよ うという作者の意図があるのだろう。
 井伏は、もともと抑制のきいた、自己を表面に出さないタイプの小説家である。それが、この作では、徹底して主観を抑え、事件の記録に徹しようとしてい る。彼にとって、原爆は、自分の身近な人々を殺傷した、自分の故郷の自然を破壊した、日本の国民を死傷させたといったような個別的特殊的な事件ではなく なっているのだ。原爆は人類に与えられた課題であり、自己の主観を排し、<悪写実>に徹して事実を写しとり、<記録>として後世に伝え、人類永遠の課題と してほしい事件なのだ。井伏は、「黒い雨」により人類の「歴史」の重要な一こまを<記録>しようとする。後世の人々にそれを伝え残そうとする。しかも、原 爆の悲惨を自分の皮膚で、肉で、骨で知った者にそれを語らせて行く。井伏は「生きた歴史」を書こうとしているのだ。

 「歴史」への思いは、「武州鉢形城」にも顕著である。庶民の姿を通しての「生きた歴史」への思いはそこにもある。
 井伏は河盛好蔵との対談(『日本の文学」第52巻付録、昭41・11、中央公論)で<大田洋子の小説を読んで、(中略)原爆を書くならもう少しちゃんとしなければいかんと思ったのです。原民喜君のはよかったですね>と言っている。
 長岡弘方は 『原爆文学吏』(風媒社、昭48.6)で「黒い雨」への<圧倒的な讃辞>が<大田や峠の遺産を結果として距しめ>てはならぬと言い、<一人の文学的天才よ りは、多くの人間的誠実さの継続する多様な個性的営為こそが、原爆文学にあってはとりわけ必要なのだ>と「黒い雨」が教えてくれると言う。そして、「黒い 雨」の勝利を<個を通じて普遍的な人間にいたり、小状況の集積により大状況に対置するというーーその節度と誠実さ>にあるとする。
 そうした長岡の意見に基本的に賛成しつつ、なおかつ、大田洋子や原民喜の原爆文学より一段高いものを「黒い雨」に見ざるを得ない。実体験者でない井伏の 方が、写実力においても、総合力においてもそれらの文学を上まわっているのは否定できない。井伏のそうした「生きた歴史」を<記録>しようという意識は、 この作において原爆から始まりながら、原爆を越えたものになっている。彼は、戦時下の庶民の姿を写し、時流に乗った人々を踊らせ、そこに太平洋戦争下の状 況を、さらには戦争というものを浮き上がらせている。そこでは原爆は一つの象徴になっているのだ。

 井伏には、その文学的出発の時期の「さざなみ軍記」以来、「遙拝隊長」「武州鉢形城」など戦争を扱ったものが 多い。そしてこの「黒い雨」では、戦争下の状況を原爆をはなれて克明に写して行く。軍隊に関して言えば、第一陸軍病院長鷲尾中佐があり、何人かの幹部を登 場させての官僚主義批判があり、敗色が濃くなって以来の統制の乱れがあり、いぱらなくなった憲兵がある。これら戦時下における軍人たちの姿は、原爆をはな れてあった姿であろう。そうした人々の姿を通して婉曲な戦争批判、軍部批判が行なわれて行くのだ。
 原爆下の避難民の姿は、他の都市の被災者の姿と重なって来る部分もあろうし、福山の空襲を写したりするのも、戦争そのものを書き残そうという意識のあら われであろう。「広島にて戦時下に於ける食生活」は、広島をはなれてまさに<戦時下>の日本人の食生活であった。隣組、闇屋、燈火管制、耐乏生活、配給、 そして、賢治の詩の<玄米四合>を<三合>と変えさせた<曲学阿世の徒>たちの婆、<左翼学者と以前から親しいので><町内づぎあいに気をつかっている> 人や、<アメリカの大学を卒業>したゆえに<憲兵隊に何度も呼び出され><空襲警報のときには誰よりも早く飛び比して「空襲、空襲」と呼び廻る>学者、そ うしたことを写し出すことにより、戦時下の狂気をまざまざと浮かび上がらせるのである。
 それらの上に、<戦争というものは、老若男女を(なぶり) 殺しにするものだ><戦争はいやだ。勝放はどちらでもいい。早く済みさえすれぼいい。いわゆ る正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい>といった発言が重ねられて来る。<わしらは、国家のない国に生まれたかったのう>という兵隊の言葉は、庶民の 切実な叫びであった。そしてそれは、「遙拝隊長」の一兵隊の<マレー人が、わしゃ羨ましい。国家がないぱっかりに、戦争なんか他所(よそ)ごとちゃ>と言 う発言とてらしあわせるとき、これらの言葉が井伏の戦争批判の表白なのだとわかってくるだろう。
 「黒い雨」の最後に近く主人公をして<重大放送>に背を向けさせた作者は、そこに戦争への、戦争を引書起こした者たちへの、強い抗議を示したのである。
 また、作者の思いは、そうした悲惨をただ写すだけでなく、きめ細かに、庶民の知恵をも拾い上げて行く。蚊遺りとしてのユーカリの葉や杉の葉、<鼻血が出 たとき>は<後頭部の毛を三本、引き抜く>のを初めとしての様々な傷の手当ての仕方、煙ののがれ方、そうした様々な庶民の知恵をも写しとって行く。そこに は、今後、同じような事態になったときのことを考え後世の人々に伝えたいものであるとともに、長年日本人の間に受けつがれて来た庶民の知恵を<記録>して おきたいという思いのあらわれでもあるだろう。
 このように、様々な<記録>を写すという形式によって、井伏は、「生きた歴史」を残そうとした。その象徴として、主人公閑間重松の<わしのヒストリー>という「原爆日記」があったのである。

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 「黒い雨」が原爆文学の中でも傑出しているのは、そのリアリズムの精神にあるといえよう。原民喜で も大田洋子でも、原爆を体験しているという点では井伏以上に生ま生ましく原爆下の様子を見ているはずだ。しかし、逆に、彼らは、あまりにも体験に寄りかか りすぎたかもしれない。また、実際にあまりにもはっきりと見てしまったゆえに書けなかった部分もあったのではないか。それに対し、原爆下の広島に一歩も足 を踏み入れず、<手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音>などによって作りあげた井伏の作品の方が生ま生ましく原爆の惨状が伝わって来るのはな ぜなのだろう。それは作者の徹底した写実の精神に負うところが大である。
 作品の骨格をなす「被爆日記」の描き方に関して、その筆者である主人公閑間重松は<わしのは描写の上から云うて、悪写実という文章じゃ。しかし、事実は事実じゃ>と言っているが、それはそのまま井伏の写実の姿勢と言っても良いだろう。主観を排し感情を排して、<事実>を<記録>することに徹するのだ。
 <大本営発表(昭和二十年八月七日十五時三十分) 一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり 二、敵は右攻撃に新型爆弾 を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり>(「朝日新聞」昭20.8.8)の表現のなんと婉曲なことか。この背後に数十万の人の死を読みとった者が何人 いたろうか。「雨ニモ負ケズ」の<玄米四合>を<三合>に変えさせた軍部の傲慢がそこにはある。
 そうした戦時下の情勢に反発するかのごとく、徹底した<悪写実>を試みたのがこの小説だ。人類始まって以来の最も凶悪な兵器に立ちむかうには、ただ黙ってありのままを写す以外に無い。
 <今ここでこの病気では死にたくない。どこか他の場所で納得の行く病気で死にたい>と思いつついかに多くの人々が死んで行ったことか。いやそうしたこと を思う間も無く一瞬のうちにいかに多くの人が消えて行ったことか。それらの人々の霊を弔うためには、単に嘆いたり悲しんだり怒ったりしてもしようの無いこ とである。
 残された者に出来るのは、まず、事実を残りなく、ありのままに<記録>することなのだ。<どうしようにも、どうしてあげることも出来ないんだから、黙っ て歩け><ここも大急ぎで通りすぎた>という「神曲」を思わせる表現が本文中にはいくつも出て来る。原爆の悲惨の前に手も足も出ない小っぽけな人間の姿が そこにはある。自分に出来るのは、そこで見たことを間違いなく写しとること、そして人々に伝えることでしかないのだ。
 そうした<悪写実>の上に、いかに残酷で悲惨な場面が写し出されることか。<半焼死体に僕の靴が引っかかって、足の骨や腰骨などが三尺四方にも四尺四方 にも散った>とか<逆さになった女の尻(しり)から大腸が長さにして三尺あまりも噴きだして、径三寸あまりの太さに脹(ふく)らんでいた>とか、例をあげ 出したらきりが無い。極端に言えば、全篇に残酷シーンが繰り広げられていると言って良いくらいだ。くどい、もうけっこうだ、と読者に思わせるほど惨状の描 写は繰り返される。確かにそれはくどく、この作品の欠点と言ってもよい側面ではある。しかし、事実をできるだけ多く<記録>したいとする作者の立場からす れば、それは必要なことであったのであろう。
 こうした残酷悲惨な描写は、井伏の他の作品にも時々見られるものだ。<朴斉はその声にびっくりして脇差を持ちなほし、そのかすれ声を目あてに突きさし た。確かに手答へがあった>(「おらんだ伝法金水」)、<大型の渦は、死骸の頭部を起点にしたり胃部を起点にしたりして、硬直した肉体を水平面において回 転させた>(「川」)、<三郎次の首をねじ切ってしまった。三都次の胴体からは四尺ばかりの高さに血潮の噴水がほとばしり>(「さざなみ軍記」)といった 具合である。これらはほんの一例にすぎない。井伏が残酷な場面をあまり抑制をしないで描くのは事実といってよい。しかし、それを井伏の残酷趣味のなせるわ ざだとは考えたくない。それは井伏の一つの写実の姿勢のあらわれなのだ。その写実の姿勢が「黒い雨」においては実にかなっていたということが言えよう。
 しかし、井伏は、残酷だけに徹しているわけでは無い。作品の中に<松林で春蝉が今年の第一声をあげだした>とか、<屋根の葉が軒先から黄色い滝水のよう に流れ落ちた>とか、<溝には目高が群をつくって、その小さな淀(よど)みのほとりに石菖蒲(せきしょう)が茂っていた>といった自然の描写が挿入され る。悲惨残酷な場面の連続の中で、そうした描写がなんと潤いに満ちていることか。そうした潤いある自然描写の頂点にあるのが、作品の末尾、八月十五日の部 分の<透き徹(とお)った水>の流れる<溝(みぞ)>の場面だろう。

<溝の手前の湿っぽい地面には杉苔(すぎごけ)や銭苔(ぜにごけ)がところどころに密生し、溝の両側には疎穂(そすい)状の赤い小花をつけた水引草の群落 がある>そんな溝の中の<清冽(せいれつ)な><透き徹った水>の流れを、<鰻の子が行列をつくって>登って行く。主人公はそれを見て、<水の匂がするよ うだ>と言っている。なんと美しい場面だろう。原子爆弾という超異常な事件を味わわされた直後長い戦争の時期に終止符が打たれた時の象徴的情景である。こ の潤いある自然の復活は、主人公の暖かく潤いのある人間らしい生活のよみがえりでもあった。

 残酷な描写が井伏の一つの特徴であったとすれば、こうした自然の描出も井伏の特色である。この苔にかこまれた溝の情景は、<岩屋の天井には、杉苔と銭苔 とが密生して、銭苔は緑色の鱗(うろこ)でもって地所とり(小児の遊戯の一種)の形式で繁殖し、杉苔は最も細く且つ紅色の花柄の尖端に、可憐な花を咲かせ た>という処女作「山淑魚」の世界にまで遡って行くし、「さざなみ軍記」の、戦時下における<笛を吹く稽古>や<野山の柿(かき)の木は、海の紺碧の色を 背景にして、朱色の果実は特に濃い朱色に見えた>情景にもつながって行くのである。そして、こうした抒情は、部分だけのものでなく、多田道太邸の言い方を 借りれば<広島はこのぱあい悲しめる意識>、山椒魚の<意識>であり、<ふるさとの小畠村は、広島をなだめる意識><小蝦の意識>(「戦後ベストセラー物 語−『黒い雨』」、「朝日ジャーナル」昭42・3・5号)であるといった、作品の構造にまで反映しているものなのだ。
 こうした自然の描出のうち、「現在」の時間の中で描かれる<芒種>やく虫供養>や<お田植祭>を初めとする様々なお祭もなんと生き生きとしていること か。それは<貧しいながらも生活を大事にしていたことの象徴>であり、<あの阿鼻叫喚の巷(ちまた)>と対照されるとき<いとおしむぺきものだ>という思 いがより効果的に出てくるのである。特に<野良仕事>で殺した<虫類を供養する><虫供養>は、何十万という人間を殺したあの忌まわしい原子爆弾と並べら れたとき、無言の抗議の思いをいかに効果的に表白させることか。あの非日常的な原爆下の<阿鼻叫喚>の世界と対時して、「黒い雨」には、庶民の貧しいなが らも必死の生活が繰り広げられる。原爆で傷つきながらも田舎に逃げることをせず一生懸命に石炭を求めて歩きまわる主人公閑間重松の姿は、そうした、日常の 生活に己れを賭ける姿勢の象徴である。そして、「過去」の時間の中で、必死に生活を守ろうとした重松は、「現在」の時間の中で、原爆症という異常をつきつ けられながら、鯉の養殖に取り組むのである。それ惟、「武州鉢形城」の弘光寺の住職が<椎茸栽培>に取り組むのと、自然に関わるという点では似ていなが ら、生活の持つ意味ははるかに重い。

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 このように「黒い雨」は、井伏鱒二の様々な特色を支えとして、<悪写実>に徹し、<記録>の体裁によって作りあげられた原爆小説である。原爆の洗礼を受けた者の内面的な苦悩の側面がまだ弱いという瑕瑾(かきん)は持ちながらも、原爆下の悲惨な世界を描き、原爆に対する強い抗議をこめ、さらに戦争への抗議をも表白した貴重な作品と言えよう。原爆の悲惨は、ここに描かれた世界のみに止どまっていない。むしろ本当の悲惨は、これ以後にあると言っても過言ではなかろう。「黒い雨」は、一つの結実である。さらに、その後の結実を我々は課題としなければならない。
 この論にとりかかっている際中の昭和五十五年十月一九日午後九時二十分、閑間重松のモデルと言われる重松静馬氏が腎孟腫瘍のため広島県神石郡三和町小畠の自宅で亡くなられた。ご冥福を祈ってこの拙い文を終わりたいと思う。