津軽

                  

太宰治作・渡部芳紀写真


 

  津軽の雪

   こな雪
   つぶ雪
   わた雪
   みづ雪
   かた雪
   ざらめ雪
   こほり雪
      (東奥年間より)
 

  序編

弘前城の桜

 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要 な事件の一つであった。私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけ で、その他の町村に就いては少しも知るところが無かったのである。

太宰治生家・記念館

 金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうに ちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。それから三里ほど南下 し、岩木川に沿うて五所川原という町が在る。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるようだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺 には他に無い。善く言えば、活気のある町であり、悪く言えば、さわがしい町である。農村の匂いは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらいの小さい町 にも既に幽かに忍びいっている模様である。大袈裟な比喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五 所川原は浅草、といったようなところでもあろうか。ここには、私の叔母がいる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこ の五所川原の叔母の家へ遊びに来た。私は、中学校にはいるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかったと 言ってよい。やがて、青森の中学校に入学試験を受けに行く時、それは、わずか三、四時間の旅であった筈なのに、私にとっては非常な大旅行の感じで、その時 の興奮を私は少し脚色して小説にも書いた事があって、その描写は必ずしも事実そのままではなく、かなしいお道化の虚構に満ちてはいるが、けれども、感じ は、だいたいあんなものだったと思っている。すなわち、「誰にも知られぬ、このような侘びしいおしゃれは、年一年と工夫に富み、村の小学校を卒業して馬車 にゆられ汽車に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校の入学試験を受けるために出掛けたときの、そのときの少年の服装は、あわれに珍妙なものであ りました。白いフランネルのシャツは、よっぽど気に入っていたものとみえて、やはり、そのときも着ていました。しかも、こんどのシャツには蝶々の翅のよう な大きい襟がついていて、その襟を、夏の開襟シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっぱり 出し、着物の襟に覆いかぶせているのです。なんだか、よだれ掛けのようにも見えます。でも、少年は悲しく緊張して、その風俗が、そっくり貴公子のように見 えるだろうと思っていたのです。久留米絣に、白っぽい縞の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに没 し、母は病身ゆえ、少年の身のまわり一切は、やさしい嫂の心づくしでした。少年は、嫂に怜悧に甘えて、むりやりシャツの襟を大きくしてもらって、嫂が笑う と本気に怒り、少年の美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口惜しく思うのでした。『瀟洒、典雅。』少年の美学の一切は、それに尽きていました。いや いや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きていました。マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるように、あやうく羽 織って、そうしてそれを小粋な業だと信じていました。どこから、そんなことを覚えたのでしょう。おしゃれの本能というものは、手本がなくても、おのずから 発明するものかも知れません。ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとっては一世一代の凝った身なりであったわけで す。興奮のあまり、その本州北端の一小都会に着いたとたんに少年の言葉つきまで一変してしまっていたほどでした。かねて少年雑誌で習い覚えてあった東京弁 を使いました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやっぱり少年の生れ故郷と全く同じ、津軽弁でありましたので、少年はすこし 拍子抜けがしました。生れ故郷と、その小都会とは、十里も離れていないのでした。」
 この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざっと三百二十年ほ ど前である。当時、すでに人家が千軒くらいあったという。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ 浜に於いて最も殷賑の要港となり、明治四年の廃藩置県に依って青森県の誕生すると共に、県庁所在地となっていまは本州の北門を守り、北海道函館との間の鉄 道連絡船などの事に到っては知らぬ人もあるまい。現在戸数は二万以上、人口十万を越えている様子であるが、旅人にとっては、あまり感じのいい町では無いよ うである。たびたびの大火のために家屋が貧弱になってしまったのは致し方が無いとしても、旅人にとって、市の中心部はどこか、さっぱり見当がつかない様子 である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び、何事も旅人に呼びかけようとはしないようである。旅人は、落ちつかぬ気持で、そそくさとこの町を通り抜け る。けれども私は、この青森市に四年いた。そうして、その四箇年は、私の生涯に於いて、たいへん重大な時期でもあったようである。その頃の私の生活に就い ては、「思い出」という私の初期の小説にかなり克明に書かれてある。
「いい成績ではなかったが、私はその春、中学校へ受験して合格した。私は、新しい袴と黒い靴下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅 紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織って、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装 を解いた。入口にちぎれた古いのれんのさげてあるその家へ、私はずっと世話になることになっていたのである。

豊田家跡

 私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持っているが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると、私は笑いながらそれへ軽く会釈をしたものである。
 それなのに、学校はちっとも面白くなかった。校舎は、まちの端れにあって、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、波の音 や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにいる教師たちは私をひどく迫害したの である。
 私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであったが、お 父さんがなくなってよく勉強もできなかったろう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であっただけに、私のこころはいっそう傷つ けられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしているとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびは大きいの で職員室で評判である、とも言われた。私はそんな馬鹿げたことを話し合っている職員室を、おかしく思った。
 私と同じ町から来ている一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじっさい生意気そうに見える、あんなに殴られてばかり いると落第するにちがいない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたいにひとり家路を急いだ。靴底を波になめられつつ溜息つい て歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いていたら、鼠色のびっくりするほど大きい帆がすぐ目の前をよろよろととおって行った。」

合浦公園

 この中学校は、いまも昔と変らず青森市の東端にある。ひらたい公園というのは、合浦公園の事である。そうしてこの公園は、ほ とんど中学校の裏庭と言ってもいいほど、中学校と密着していた。私は冬の吹雪の時以外は、学校の行き帰り、この公園を通り抜け、海岸づたいに歩いた。言わ ば裏路である。あまり生徒が歩いていない。私には、この裏路が、すがすがしく思われた。初夏の朝は、殊によかった。なおまた、私の世話になった呉服店とい うのは、寺町の豊田家である。二十代ちかく続いた青森市屈指の老舗である。ここのお父さんは先年なくなられたが、私はこのお父さんに実の子以上に大事にさ れた。忘れる事が出来ない。この二、三年来、私は青森市へ二、三度行ったが、その度毎に、このお父さんのお墓へおまいりして、そうして必ず豊田家に宿泊さ せてもらうならわしである。
「私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には 隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰か見ているような気がして、私 はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら眩いた、などと傍から傍 から説明句をつけていたのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は 寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そ して、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。

堤川

(中略)
 なにはさてお前は衆にすぐれていなければいけないのだ、という脅迫めいた考えからであったが、じじつ私は勉強していたのである。三年生になって からは、いつもクラスの首席であった。てんとりむしと言われずに首席となることは困難であったが、私はそのような嘲りを受けなかった許りか、級友を手なら す術まで心得ていた。蛸というあだなの柔道の主将さえ私には従順であった。教室の隅に紙屑入の大きな壷があって、私はときたまそれを指さして、蛸、つぼへ はいらないかと言えば、蛸はその壷へ頭をいれて笑うのだ。笑い声が壷に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついていた。私が顔の 吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切った絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑しがらなかった程なのである。
 私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数も殖えて、毎朝、目をさますたびに掌で顔を撫でまわしてその有様をしらべた。 いろいろな薬を買ってつけたが、ききめがないのである。私はそれを薬屋へ買いに行くときには、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかって、と 他人から頼まれたふうにして言わなければいけなかったのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考えて目の先が暗くなるほど恥しかった。いっそ死んでやった らと思うことさえあった。私の顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達していた。他家へとついでいた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に来るひ とがあるまい、とまで言っていたそうである。私はせっせと薬をつけた。
 弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買いに行って呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折 にも、私は彼の失敗を願ったほどであったけれど、こうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判って来たのである。弟は大きくな るにつれて無口で内気になっていた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出していたが、みんな気の弱々した文章であった。私にくらべて学校の成績がよく ないのを絶えず苦にしていて、私がなぐさめでもするとかえって不気嫌になった。また、自分の額の生えぎわが富士のかたちになって女みたいなのをいまいまし がっていた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じていたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と対するときには、みん な押し隠して了うか、みんなさらけ出して了うか、どちらかであったのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
 秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合った。それはい つか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって、私たちの右足の小指に目に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長く伸びて 一方の端がきっと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである。ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとい往 来で会っても、その糸はこんぐらかることがない、そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである。私はこの話をはじめて聞いたときに は、かなり興奮して、うちへ帰ってからもすぐ弟に物語ってやったほどであった。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前 のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言った。大きい 庭下駄をはいて、団扇をもって、月見草を眺めている少女は、いかにも弟と似つかわしく思われた。私のを語る番であったが、私は真暗い海に目をやったまま、 赤い帯しめての、とだけ言って口を噤んだ。海峡を渡って来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線 から浮んで出た。」
 この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に 行った。深い港の海に、雪がひそひそ降っているのはいいものだ。最近は青森港も船舶輻湊して、この桟橋も船で埋って景色どころではない。それから、隅田川 に似た広い川というのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川というものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊跨して逆流す るかのように流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな例え方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であったのであろ う。青森に於ける四年間は、その故に、私にとって忘れがたい時期であったとも言えるであろう。青森に就いての思い出は、だいたいそんなものだが、この青森 市から三里ほど東の浅虫という海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。やはりその「思い出」という小説の中に次のような一節がある。

浅虫

「秋になって、私はその都会から汽車で三十分くらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病 後の末の姉とが家を借りて湯治していたのだ。私はずっとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、 中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいはその頃になって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている 私は、それでも一途に勉強していた。私はそこから汽車で学校へかよった。日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海 岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、声をそ ろえて歌った。遊びつかれてその岩の上で眠って、目がさめると潮が満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢から 醒めないでいるような気がするのである。」
 いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言ってやりたいところでもあろうか。この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしも よいとは言えない。寒々した東北の漁村の趣は、それは当然の事で、決してとがむべきではないが、それでいて、井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙 な高慢を感じて閉口したのは私だけであろうか。自分の故郷の温泉であるから、思い切って悪口を言うのであるが、田舎のくせに、どこか、すれているような、 妙な不安が感ぜられてならない。私は最近、この温泉地に泊った事はないけれども、宿賃が、おやと思うほど高くなかったら幸いである。これは明らかに私の言 いすぎて、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、そうして貧しい芸術家の小さい勘でものを言っているだけ で、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者に押しつけたくはないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないほうがいいかも知れ ない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直しているに違いないと思われる。ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この 寒々した温泉地を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にいて浅墓の幻影に酔わせた事があるのではあるまい かという疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、最近たびたび、この思い出の温泉地を汽車で通過しながら、敢えて下車しなかったというだ けの話なのである。

大鰐温泉

 津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉という事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との 県境に近いところに在って、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡っているようである。山麓の温泉である。ここには、津軽藩の歴史のにおいが幽かに 残っていた。私の肉親たちは、この温泉地へも、しばしば湯治に来たので、私も少年の頃あそびに行ったが、浅虫ほど鮮明な思い出は残っていない。けれども、 浅虫のかずかずの思い出は、鮮やかであると同時に、その思い出のことごとくが必ずしも愉快とは言えないのに較べて、大鰐の思い出は霞んではいても懐しい。 海と山の差異であろうか。私はもう、二十年ちかくも大鰐温泉を見ないが、いま見ると、やはり浅虫のように都会の残杯冷炙に宿酔してあれている感じがするで あろうか。私には、それは、あきらめ切れない。ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。そこが、まず、私にとってたのみの綱である。また、 この温泉のすぐ近くに碇ヶ関というところがあって、そこは旧藩時代の津軽秋田間の関所で、したがってこの辺には史跡も多く、昔の津軽人の生活が根強く残っ ているに相違ないのだから、そんなに易々と都会の風に席巻されようとは思われぬ。さらにまた、最後のたのみの大綱は、ここから三里北方に弘前城が、いまも なお天守閣をそっくり残して、年々歳々、陽春には桜花に包まれその健在を誇っている事である。この弘前城が控えている限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり 悪酔いするなどの事はあるまいと私は思い込んでいたいのである。

弘前城天守閣

 弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将 軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一候伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区画をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、ようやく完成を見たのが、こ の弘前城であるという。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて、弘前、黒石の二藩にわかれて津軽を支配し、元 禄七名君の中の巨擘とまでうたわれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども、七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と 化せしめ、藩の財政もまた窮乏の極度に達し、前途暗憺たるうちにも、八代信明、九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり、十一代順承の時代に到ってからくも危 機を脱し、つづいて十二代承昭の時代に、めでたく藩籍を奉還し、ここに現在の青森県が誕生したという経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の 大略でもある。津軽の歴史に就いては、また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが、いまは、弘前に就いての私の昔の思い出を少し書いて、この津軽の序 編を結ぶ事にする。
 私は、この弘前の城下に三年いたのである。弘前高等学校の文科に三年いたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝っていた。甚だ異様なもの であった。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄って、さいしょは朝顔日記であったろうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまったけれど も、野崎村、壺坂、それから紙治など一とおり当時は覚え込んでいたのである。どうしてそんな、がらにも無い奇怪な事をはじめたのか。私はその責任の全部 を、この弘前市に負わせようとは思わないが、しかし、その責任の一斑は弘前市に引受けていただきたいと思っている。義太夫が、不思議にさかんなまちなので ある。ときどき素人の義太夫発表会が、まちの劇場でひらかれる。私も、いちど聞きに行ったが、まちの旦那たちが、ちゃんと裃を着て、真面目に義太夫を唸っ ている。いずれもあまり、上手ではなかったが、少しも気障なところが無く、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸っている。青森市にも昔から粋人が少くな かったようであるが、芸者たちから、兄さんうまいわね、と言われたいばかりの端唄の稽古、または、自分の粋人振りを政策やら商策やらの武器として用いてい る抜け目のない人さえあるらしく、つまらない芸事に何という事もなく馬鹿な大汗をかいて勉強致しているこの様な可憐な旦那は、弘前市の方に多く見かけられ るように思われる。つまり、この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残っているらしいのである。永慶軍記という古書にも、「奥羽両州の人の心、愚にし て、威強き者にも随う事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賎しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随わず。」とい う言葉が記されているそうだが、弘前の人には、そのような、ほんものの馬鹿意地があって、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固 守して世のもの笑いになるという傾向があるようだ。私もまた、ここに三年いたおかげで、ひどく懐古的になって、義太夫に熱中してみたり、また、次のような 浪曼性を発揮するような男になった。次の文章は、私の昔の小説の一節であって、やはりおどけた虚構には違いないのであるが、しかし、凡その雰囲気に於いて は、まずこんなものであった、と苦笑しながら白状せざるを得ないのである。
「喫茶店で、葡萄酒飲んでいるうちは、よかったのですが、そのうちに割烹店へ、のこのこはいっていって芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚 えたのです。少年はそれを別段、わるいこととも思いませんでした。粋な、やくざなふるまいは、つねに最も高尚な趣味であると信じていました。城下まちの、 古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行っているうちに、少年のお洒落の本能はまたもむっくり頭をもたげ、こんどは、それこそ大変なことになり ました。芝居で見た『め組の喧嘩』の鳶の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、きょうはめっぽう、きれえじゃねえ か、などと言ってみたく、ワクワクしながら、その服装の準備にとりかかりました。紺の腹掛。あれは、すぐ手にはいりました。あの腹掛のドンブリに、古風な 財布をいれて、こう懐手して歩くと、いっぱしの、やくざに見えます。角帯も買いました。締め上げるときゅっと鳴る博多の帯です。唐桟の単衣を一まい呉服屋 さんにたのんで、こしらえてもらいました。鳶の者だか、ばくち打ちだか、お店ものだか、わけのわからぬ服装になってしまいました。統一が無いのです。とに かく、芝居に出て来る人物の印象を与えるような服装だったら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまでは よかったのですが、ふと少年は妙なことを考えました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピッチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいているよう ですけれど、あれを欲しいと思いました。ひょっとこめ、と言って、ぱっと裾をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が目にしみるほど引き立ち ます。さるまた一つでは、いけません。少年は、その股引を買い求めようと、城下まちを端から端まで走り回りました。どこにも無いのです。あのね、ほら、あ の左官屋さんなんか、はいているじゃないか、ぴちっとした紺の股引き、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して、呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩いた のですが、さあ、あれは、いま、と店の人たち笑いながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑いころで、少年は、汗だくで捜し回り、とうとう或る店の主人か ら、それは、うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、そこへ行ってお聞きになると、ひょっとしたらわかるかも知れませ ん、といいこと教えられ、なるほど消防とは気がつかなかった。鳶の者と言えば、火消しのことで、いまで言えば消防だ、なるほど道理だ、と勢い付いて、その 教えられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消火ポンプが並べられてありました。纏もあります。なんだか心細くなって、それでも勇気を鼓舞して、股 引ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答えて持って来たものは、紺の木綿の股引には、ちがい無いけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの赤線 が縦にずんと引かれていました。流石にそれをはいて歩く勇気も無く、少年は淋しく股引をあきらめる他なかったのです。」
 さすがの馬鹿の本場に於いても、これくらいの馬鹿は少かったかも知れない。書き写しながら作者自身、すこし憂鬱になった。この、芸者たちと一 緒にごはんを食べた割烹店の在る花街を、榎小路、とは言わなかったかしら。何しろ二十年ちかく昔の事であるから、記憶も薄くなってはっきりしないが、お宮 の坂の下の、榎小路、というところだったと覚えている。また、紺の股引を買いに汗だくで歩き回ったところは、土手町という城下に於いて最も繁華な商店街で ある。それらに較べると、青森の花街の名は、浜町である。その名に個性がないように思われる。弘前の土手町に相当する青森の商店街は、大町と呼ばれてい る。これも同様のように思われる。ついでだから、弘前の町名と、青森の町名とを次に列記してみよう。この二つの小都会の性格の相違が案外はっきりして来る かも知れない。本町、在府町、土手町、住吉町、桶屋町、銅屋町、茶畑町、代官町、萱町、百石町、上鞘師町、下鞘師町、鉄砲町、若党町、小人町、鷹匠町、五 十石町、紺屋町、などというのが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次のようなものである。浜町、新浜町、大町、米町、新町、柳 町、寺町、堤町、塩町、蜆貝町、新蜆貝町、浦町、浪打、栄町。
 けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思っているのでは決してない。鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ 限った町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、 津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にこう言って教えている。「自惚れちゃいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山 が無いからだ。他の国に行ってみろ。あれくらいの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちゃいけないぜ。」
 歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言ってよいくらいにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに依怙地にその封建性 を自慢みたいにしているのだろう。ひらき直って言うまでも無い事だが、九州、西国、大和などに較べると、この津軽地方などは、ほとんど一様に新開地と言っ てもいいくらいのものなのだ。全国に誇り得るどのような歴史を有しているのか。近くは明治御維新の時だって、この藩からどのような勤皇家が出たか。藩の態 度はどうであったか。露骨に言えば、ただ、他藩の驥尾に付して進退しただけの事ではなかったか。どこにいったい誇るべき伝統があるのだ。けれども弘前人は 頑固に何やら肩をそびやかしている。そうして、どんなに勢強きものに対しても、かれは賎しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる事にこそあれ、 とて、随わぬのである。この地方出身の陸軍大将一戸兵衛閣下は、帰郷の時には必ず、和服にセルの袴であったという話を聞いている。将星の軍装で帰郷するな らば、郷里の者たちはすぐさま目をむき肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言うのがわかっていたから、賢明に、帰郷の時は和服 にセルの袴ときめて居られたというような話を聞いたが、全部が事実で無いとしても、このような伝説が起るのも無理がないと思われるほど、弘前の城下の人た ちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるようだ。何を隠そう、実は、私にもそんな仕末のわるい骨が一本あって、そのためばかりでもなかろうが、まあ、 おかげで未だにその日暮しの長屋住居から浮かび上る事が出来ずにいるのだ。数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、
 汝を愛し、汝を憎む。
 だいぶ弘前の悪口を言ったが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。言 わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このように津軽の悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津 軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。なんと言っても、私は津軽を愛しているのだから。

弘前城の桜

最勝院

 弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられている。桜の頃の弘前公園は、日 本一と田山花袋が折紙をつけてくれているそうだ。弘前師団の司令部がある。お山参詣と言って、毎年陰暦七月二十八日より八月一日に到る三日間、津軽の霊峰 岩木山の山頂奥宮に於けるお祭りに参詣する人、数万、参詣の行き帰り躍りながらこのまちを通過し、まちは殷賑を極める。旅行案内記には、まずざっとそのよ うな事が書かれてある。けれども私は、弘前市を説明するに当って、それだけでは、どうしても不服なのである。それゆえ、あれこれと年少の頃の記憶をたど り、何か一つ、弘前の面目を躍如たらしむるものを描写したかったのであるが、どれもこれも、たわい無い思い出ばかりで、うまくゆかず、とうとう自分にも思 いがけなかったひどい悪口など出て来て、作者みずから途方に暮れるばかりである。私はこの旧津軽藩の城下まちに、こだわりすぎているのだ。ここは私たち津 軽人の究極の魂の拠りどころでなければならぬ筈なのに、どうも、それにしては、私のこれまでの説明だけでは、この城下まちの性格が、まだまだあいまいであ る。桜花に包まれた天守閣は、何も弘前城に限った事ではない。日本全国たいていのお城は桜花に包まれているではないか。その桜花に包まれた天守閣が傍に控 えているからとて、大鰐温泉が津軽の匂いを保守できるとは、きまっていないではないか。弘前城が控えている限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔するな どの事はあるまい、とついさっき、ばかに調子づいて書いた筈だが、いろいろ考えて、考えつめて行くと、それもただ、作者の美文調のだらしない感傷にすぎな いような気がして来て、何もかも、たよりにならず、心細くなるばかりである。いったいこの城下まちは、だらしないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら、 県庁を他の新興のまちに奪われている。日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持って行かざる を得なかったところに、青森県の不幸があったとさえ私は思っている。私は決して青森市を特にきらっているわけではない。新興のまちの繁栄を見るのも、また 爽快である。私は、ただ、この弘前市の負けていながら、のほほん顔でいるのが歯がゆいのである。負けているものに、加勢したいのは自然の人情である。私は 何とかして弘前市の肩を持ってやりたく、まったく下手な文章ながら、あれこれと工夫して努めて書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得 の強さを描写する事はついに出来なかった。重ねて言う。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国、どこを捜しても見つからぬ特異 の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感しているのであるが、それが何であるか、形にあらわして、はっきりこれと読者に誇示できないのが、 くやしくてたまらない。この、もどかしさ。
 あれは春の夕暮だったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望し たとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはずれに孤立している ものだとばかり思っていたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそ めてひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持で思わず深い溜息をもらしたのである。万葉集などに よく出て来る「隠沼」というような感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸の まちでは無いと思った。とは言っても、これもまた私の、いい気な独り合点で、読者には何の事やらおわかりにならぬかも知れないが、弘前城はこの隠沼を持っ ているから希代の名城なのだ、といまになっては私も強引に押切るより他はない。隠沼のほとりに万朶の花が咲いて、そうして白壁の天守閣が無言で立っている としたら、その城は必ず天下の名城にちがいない。そうして、その名城の傍の温泉も、永遠に淳朴の気風を失う事は無いであろうと、ちかごろの言葉で言えば 「希望的観測」を試みて、私はこの愛する弘前城と決別する事にしよう。

隠沼(弘前城より西を望む)

思えば、おのれの肉親を語る事が至難な業であると同様に、故郷の核心を語る事も容易に出来る業ではない。ほめていいのか、けな していいのか、わからない。私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思い出を展開しながら、また、 身のほど知らぬ冒涜の批評の蕪辞をつらねたが、果して私はこの六つの町を的確に語り得たか、どうか、それを考えると、おのずから憂鬱にならざるを得ない。 罪万死に当るべき暴言を吐いているかも知れない。この六つの町は、私の過去に於いて最も私と親しく、私の性格を創成し、私の宿命を規定した町であるから、 かえって私はこれらの町に就いて盲目なところがあるかも知れない。これらの町を語るに当って、私は決して適任者ではなかったという事を、いま、はっきり自 覚した。以下、本編に於いて私は、この六つの町に就いて語る事は努めて避けたい気持である。私は、他の津軽の町を語ろう。
 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、という序編の冒頭の文章に、いよいよこ れから引返して行くわけであるが、私はこの旅行に依って、まったく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。それまでは私は、本当に、あの六つの町の 他は知らなかったのである。小学校の頃、遠足に行ったり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見た事はあったが、それは現在の私に、なつかしい思い出とし て色濃く残ってはいないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰っても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラッパ飲みしなが ら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかったし、高等学校時代には、休暇になると必ず東京の、すぐ上の兄(この兄は彫刻を 学んでいたが、二十七歳で死んだ)その兄の家へ遊びに行ったし、高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それっきり十年も故郷へ帰らなかったのであるか ら、このたびの津軽旅行は、私にとって、なかなか重大の事件であったと言わざるを得ない。

生家洋間

 私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶり の意見は避けたいと思う。私がそれを言ったところで、所詮は、一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金である。それらに就いて、くわしく知りたい人は、その地方の 専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目であ る。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が 出来たならば、昭和の津軽風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。

  本編

  一 巡 礼

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で、」
「そうして、苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障になる。おい、おれは旅に出るよ。」
 私もいい加減にとしをとったせいか、自分の気持の説明などは、気障な事のように思われて、(しかも、それは、たいていありふれた文学的な虚飾なのだから)何も言いたくないのである。
 津軽の事を書いてみないか、と或る出版社の親しい編集者に前から言われていたし、私も生きているうちに、いちど、自分の生れた地方の隅々まで見て置きたくて、或る年の春、乞食のような姿で東京を出発した。
 五月中旬の事である。乞食のような、という形容は、多分に主観的の意味で使用したのであるが、しかし、客観的に言ったって、あまり立派な姿では なかった。私には背広服が一着も無い。勤労奉仕の作業服があるだけである。それも仕立屋に特別に注文して作らせたものではなかった。有り合せの木綿の布切 を、家の者が紺色に染めて、ジャンパーみたいなものと、ズボンみたいなものにでっち上げた何だか合点のゆかない見馴れぬ型の作業服なのである。染めた直後 は、布地の色もたしかに紺であった筈だが、一、二度着て外へ出たら、たちまち変色して、むらさきみたいな妙な色になった。むらさきの洋装は、女でも、よほ どの美人でなければ似合わない。私はそのむらさきの作業服に緑色のスフのゲートルをつけて、ゴム底の白いズックの靴をはいた。帽子は、スフのテニス帽。あ の洒落者が、こんな姿で旅に出るのは、生れてはじめての事であった。けれども流石に背中のリュックサックには、母の形見を縫い直して仕立てた縫紋の一重羽 織と大島の袷、それから仙台平の袴を忍ばせていた。いつ、どんな事があるかもわからない。
 十七時三十分上野発の急行列車に乗ったのだが、夜のふけると共に、ひどく寒くなって来た。私は、そのジャンパーみたいなものの下に、薄いシャ ツを二枚着ているだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の外套を着て、膝掛けなどを用意して来ている人さえ、寒い、今夜はまたどうしたのかへ んに寒い、と騒いでいる。私にも、この寒さは意外であった。東京ではその頃すでに、セルの単衣を着て歩いている気早やな人もあったのである。私は、東北の 寒さを失念していた。私は手足を出来るだけ小さくちぢめて、それこそ全く亀縮の形で、ここだ、心頭滅却の修行はここだ、と自分に言い聞かせてみたけれど も、暁に及んでいよいよ寒く、心頭滅却の修行もいまはあきらめて、ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい、と頗 る現実的な事を一心に念ずる下品な有様となった。青森には、朝の八時に着いた。T君が駅に迎えに来ていた。私が前もって手紙で知らせて置いたのである。
「和服でおいでになると思っていました。」
「そんな時代じゃありません。」私は努めて冗談めかしてそう言った。
 T君は、女のお子さんを連れて来ていた。ああ、このお子さんにお土産を持って来ればよかったと、その時すぐに思った。
「とにかく、私の家へちょっとお寄りになってお休みになったら?」
「ありがとう。きょうおひる頃までに、蟹田のN君のところへ行こうと思っているんだけど。」
「存じて居ります。Nさんから聞きました。Nさんも、お待ちになっているようです。とにかく、蟹田行のバスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです。」
 炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、という私のけしからぬ俗な念願は、奇跡的に実現せられた。T君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこって、そうして鉄瓶には一本お銚子がいれられていた。
「このたびは御苦労さまでした。」とT君は、あらたまって私にお辞儀をして、「ビールのほうが、いいんでしたかしら。」
「いや、お酒が。」私は低く咳ばらいした。
 T君は昔、私の家にいた事がある。おもに鶏舎の世話をしていた。私と同じとしだったので、仲良く遊んだ。「女中たちを怒鳴り散らすところが、あ れの悪いような善いようなところだ」とその頃、祖母がT君を批評して言ったのを私は聞いて覚えている。のちT君は青森に出て来て勉強して、それから青森市 の或る病院に勤めて、患者からも、また病院の職員たちからも、かなり信頼されていた様子である。先年出征して、南方の孤島で戦い、病気になって昨年帰還 し、病気をなおしてまた以前の病院につとめているのである。
「戦地で一ばん、うれしかった事は何かね。」
「それは、」T君は言下に答えた。「戦地で配給のビールをコップに一ぱい飲んだ時です。大事に大事に少しずつ吸い込んで、途中でコップを唇から離して一息つこうと思ったのですが、どうしてもコップが唇から離れないのですね。どうしても離れないのです。」
 T君もお酒の好きな人であった。けれども、いまは、少しも飲まない。そうして時々、軽く咳をしている。
「どうだね、からだのほうは。」T君はずっと以前に一度、肋膜を病んだ事があって、こんどそれが戦地で再発したのである。
「こんどは銃後の奉公です。病院で病人の世話をするには、自分でも病気でいちど苦しんでみなければ、わからないところがあります。こんどは、いい体験を得ました。」
「さすがに人間ができて来たようだね。じっさい、胸の病気なんてものは、」と私は、少し酔って来たので、おくめんも無く医者に医学を説きはじめた。「精神の病気なんだ。忘れちまえば、なおるもんだ。たまには大いに酒でも飲むさ。」
「ええ、まあ、ほどよくやっています。」と言って、笑った。私の乱暴な医学は、本職にはあまり信用されないようであった。
「何か召上りませんか。青森にも、このごろは、おいしいおさかなが少くなって。」
「いや、ありがとう。」私は傍のお膳をぼんやり眺めながら、「おいしそうなものばかりじゃないか。手数をかけるね。でも、僕は、そんなにたべたくないんだ。」
 こんど津軽へ出掛けるに当って、心にきめた事が一つあった。それは、食い物に淡泊なれ、という事であった。私は別に聖者でもなし、こんな事を言 うのは甚だてれくさいのであるが、東京の人は、どうも食い物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間のせいか、武士は食わねど高楊枝などという、ちょっと やけくそにも似たあの馬鹿々々しい痩せ我慢の姿を滑稽に思いながらも愛しているのである。何もことさらに楊枝まで使ってみせなくてもよさそうに思われるの だが、そこが男の意地である。男の意地というものは、とかく滑稽な形であらわれがちのものである。東京の人の中には、意地も張りも無く、地方へ行って、自 分たちはいまほとんど餓死せんばかりの状態なのです、とひどく大袈裟に窮状を訴え、そうして田舎の人の差し出す白米のごはんなどを拝んで食べて、お追従た らたら、何かもっと食べるものはありませんか、おいもですか、そいつは有難い、幾月ぶりでこんなおいしいおいもを食べる事でしょう、ついでに少し家へ持っ て帰りたいのですけれども、わけていただけませんでしょうかしら、などと満面に卑屈の笑いを浮べて嘆願する人がたまにあるとかいう噂を聞いた。東京の人み なが、確実に同量の食料の配給を受けている筈である。その人ひとりが、特別に餓死せんばかりの状態なのは奇怪である。或いは胃拡張なのかも知れないが、と にかく食べ物の哀訴嘆願は、みっともない。お国のため、などと開き直った事は言わずとも、いつの世だって、人間としての誇りは持ち堪えていたいものだ。東 京の少数の例外者が、地方へ行って、ひどく出鱈目に帝都の食料不足を訴えるので、地方の人たちは、東京から来た客人を、すべて食べものをあさりに来たもの として軽蔑して取扱うようになったという噂も聞いた。私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない。姿こそ、むらさき色の乞食にも似ているが、私は真理 と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない! と東京の人全部の名誉のためにも、演説口調できざな大見得を切ってやりたいくらいの決意をひめて津軽へ来たのだ。 もし、誰か私に向って、さあさ、このごはんは白米です、おなかが破れるほど食べて下さい、東京はひどいって話じゃありませんか、としんからの好意を以て 言ってくれても、私は軽く一ぱいだけ食べて、そうしてこう言おうと思っていた。「なれたせいか、東京のごはんのほうがおいしい。副食物だって、ちょうど無 くなったと思った頃に、ちゃんと配給があります。いつのまにやら胃腑が撤収して小さくなっているので、少したべると満腹します。よくしたもんですよ。」
 けれども私のそんなひねくれた用心は、まったく無駄であった。私は津軽のあちこちの知合いの家を訪れたが、一人として私に、白いごはんです よ、腹の破れるほど食い溜めなさいなどと言ってくれた人は無かった。殊にも、私の生家の八十八歳の祖母などに至っては、「東京は、おいしいものが何でもあ るところだから、お前に、何かおいしいものを食べさせようと思っても困ってしまうな。瓜の粕漬でも食べさせたいが、どうしたわけだか、このごろ酒粕もとん と無いてば。」と面目なさそうに言うので、私は実に幸福な気がした。言わば私は、食べ物などの事にはあまり敏感でないおっとりした人たちとばかり会ったの である。私は自分の幸運を神に感謝した。あれも持って行け、これも持って行け、と私に食料品のお土産をしつこく押しつけた人も無かった。おかげで私は軽い リュックサックを背負って気楽に旅をつづける事が出来たのであるが、けれども帰京してみると、私の家には、それぞれの旅先の優しい人たちからの小包が、私 よりもさきに一ぱいとどいていたので呆然とした。それは余談だが、とにかく、T君もそれ以上私に食べものをすすめはしなかったし、東京の食べ物はどんな工 合であるかなどという事は、一ぺんも話題にのぼらなかった。おもな話題は、やはり、むかし二人が金木の家で一緒に遊んだ頃の思い出であった。
「僕は、しかし君を、親友だと思っているんだぜ。」実に乱暴な、失敬な、いやみったらしく気障ったらしい芝居気たっぷりの、思い上った言葉である。私は言ってしまって身悶えした。他に言いかたが無いものか。
「それは、かえって愉快じゃないんです。」T君も敏感に察したようである。「私は金木のあなたの家に仕えた者です。そうして、あなたは御主人で す。そう思っていただかないと、私は、うれしくないんです。へんなものですね。あれから二十年も経っていますけれども、いまでもしょっちゅう金木のあなた の家の夢を見るんです。戦地でも見ました。鶏に餌をやる事を忘れた、しまった! と思って、はっと夢から醒める事があります。」
 バスの時間が来た。私はT君と一緒に外へ出た。もう寒くはない。お天気はいいし、それに、熱燗のお酒も飲んだし、寒いどころか、額に汗がにじ み出て来た。合浦公園の桜は、いま、満開だという話であった。青森市の街路は白っぽく乾いて、いや、酔眼に映った出鱈目な印象を述べる事は慎しもう。青森 市は、いま造船で懸命なのだ。途中、中学時代に私がお世話になった豊田のお父さんのお墓におまいりして、バスの発着所にいそいだ。どうだね、君も一緒に蟹 田へ行かないか、と昔の私ならば、気軽に言えたのでもあろうが、私も流石にとしをとって少しは遠慮という事を覚えて来たせいか、それとも、いや、気持のや やこしい説明はよそう。つまり、お互い、大人になったのであろう。大人というものは侘しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければな らぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだろう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならな い、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。私は黙って歩いていた。突然、T君のほうから言い出した。
「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Nさんの家で会いましょう。」
「病院のほうは?」
「あしたは日曜です。」
「なあんだ、そうか。早く言えばいいのに。」
 私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残っていた。

  二 蟹  田

蟹田

 津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だったところである。青森市からバスに乗って、この東海岸を北 上すると、後潟、蓬田、蟹田、平館、一本木、今別、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点で ある。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛の部落にたどりつく。文字どおり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、ぎ りぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いっさい避けなけ ればならぬ。とにかく、この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。そうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部 落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言ってもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一 千に近く、人口は五千をはるかに越えている様子である。ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々として目立つ建築物の 一つであろう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になっている。竹内運平という弘前の人の著した 「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であったとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用 いたそうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽 九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、これらの事は、すべて私があとで調べて知った事で、それまで は私は、蟹田は蟹の名産地、そうして私の中学時代の唯一の友人のN君がいるという事だけしか知らなかったのである。私がこんど津軽を行脚するに当って、N 君のところへも立寄ってごやっかいになりたく、前もってN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、「なんにも、おかまい下さるな。あなたは、知らん振りを していて下さい。お出迎えなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」というような事を書いてやった筈で、食べものには淡泊 なれ、という私の自戒も、蟹だけには除外例を認めていたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しゃこ、何の養分にも ならないような食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かった筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到っ て、はしなくも生来の貧婪性の一端を暴露しちゃった。
 蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のように積み上げて私を待ち受けてくれていた。
「リンゴ酒でなくちゃいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言いにくそうにして言うのである。
 駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまっているのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「大人」の私は知っているので、遠慮し て、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のように、リンゴ酒が割合い豊富だという噂を聞いていたのだ。
「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
 N君は、ほっとした面持で、
「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きじゃないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒や ビールを飲みあきて、故郷の匂いのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、こう手紙にも書いているのに相違ないから、リンゴ酒を出しましょうと言うのだが、僕 はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらいになった筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしているのに違いないと言ったんだ。」
「でも、奥さんの言も当っていない事はないんだ。」
「何を言ってる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」
「ビールは、あとのほうがいい。」私も少し図々しくなって来た。
「僕もそのほうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまわないから、すぐ持って来てくれ。」
  何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。
  青雲倶に達せず、白髪逓に相驚く。
  二十年前に別れ、三千里外に行く。
  此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん。  (白居易)
 私は、中学時代には、よその家へ遊びに行った事は絶無であったが、どういうわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行った。 N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿していた。私たちは毎朝、誘い合って一緒に登校した。そうして、帰りには裏路の、海岸伝いにぶらぶら歩いて、 雨が降っても、あわてて走ったりなどはせず、全身濡れ鼠になっても平気で、ゆっくり歩いた。いま思えば二人とも、頗る鷹揚に、抜けたようなところのある子 であった。そこが二人の友情の鍵かも知れなかった。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持って近くの山へ 遊びに行った。「思い出」という私の初期の小説の中に出て来る「友人」というのはたいていこのN君の事なのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出 て、或る雑誌社に勤めたようである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の 下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であったが、しかし、私たちはほとんど毎日のように会って遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかった。N 君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりいたようである。けれども私は、人にだまされる 度毎に少しずつ暗い卑屈な男になって行ったが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になって行くのである。N君は 不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思うより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服していた。N君は、中学時 代にも金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちょいちょい遊びに来て、そうして、この兄が二十七で死んだ 時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなって帰郷し た。家業を継いでからも、その不思議な人徳に依り、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の 幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になっている模様なのである。その夜も、N君の家へこの地方の若い顔役が二、三 人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んだけれども、N君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であった。芭蕉翁の行脚掟として世に伝えられて いるものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり、という一箇条があったようであるが、 あの、論語の酒無量不及乱という言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞いをするな、という意味に私は解しているので、敢えて翁の教えに従おうともし ないのである。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。当り前の話ではないか。私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではある まいかと思われる。よその家でごちそうになって、そうして乱に及ぶなどという、それほどの馬鹿ではないつもりだ。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せ ん、である。私は大いに飲んだ。なおまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諧の外、雑話すべからず、雑話出ずれば居眠りして労を養うべし、という条項も あったようであるが、私はこの掟にも従わなかった。芭蕉翁の行脚は、私たち俗人から見れば、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑いたく なるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらえて歩いている。俳諧の聴講生に取りまかれている講師ならば、それは俳諧の他の雑話を避 けて、そうして雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であろうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらえるための旅ではなし、N君だってま さか私から、文学の講義を聞こうと思って酒席をもうけたわけじゃあるまいし、また、その夜、N君のお家へ遊びに来られた顔役の人たちだって、私がN君の昔 からの親友であるという理由で私にも多少の親しみを感じてくれて、盃の献酬をしているというような実情なのだから、私が開き直って、文学精神の在りどころ を説き来り説き去り、しこうして、雑談いずれば床柱を背にして狸寝入りをするというのは、あまりおだやかな仕草ではないように思われる。私はその夜、文学 の事は一言も語らなかった。東京の言葉さえ使わなかった。かえって気障なくらいに努力して、純粋の津軽弁で話をした。そうして日常瑣事の世俗の雑談ばかり した。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違いないと思われるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島 修治というのは、私の生れた時からの戸籍名であって、また、オズカスというのは叔父糟という漢字でもあてはめたらいいのであろうか、三男坊や四男坊をいや しめて言う時に、この地方ではその言葉を使うのである。)こんどの旅に依って、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようという企画も、私に無い わけではなかったのである。都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかもうとする念願である。言いかたを変えれば、津軽人とは、どんなもの であったか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。そうして私は、実に容易に、随所 に於いてそれを発見した。誰がどうというのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思い上った批評はゆるされない。それこそ、失礼きわまる事である。私 はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見しているのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ目つきをして私は旅をしていな かったつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いていた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいうべきものを囁かれる事が実にし ばしばあったのである。私はそれを信じた。私の発見というのは、そのように、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どな たが何とおっしゃったとか、私はそれには、ほとんど何もこだわるところが無かったのである。それは当然の事で、私などには、それにこだわる資格も何も無い のであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かった。「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という妙な言葉 を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いていた。
 慎しもうと思いながら、つい、下手な感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言っているのか、わからない場合が多い。嘘を 言っている事さえある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまずい虚飾を行っているようで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔 ほぞを噛むと知っていながら、興奮するとつい、それこそ「回らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言い出し、相手の心に軽蔑どころ か、憐憫の情をさえ起させてしまうのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
 その夜は、しかし、私はそのような下手な感懐をもらす事はせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいているようだったけれども、居眠りもせず大いに雑談に のみ打興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでいるばかりで一向に 手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がっているのに違いないとお思いになった様子で、ご自分でせっせと蟹を器用にむいて、その白い 美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかという、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもい くつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがったばかりの蟹なのであろう。もぎたての果実のように新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関 心たれという自戒を平気で破って、三つも四つも食べた。この夜、奥さんは、来る人来る人みんなにお膳を差し上げて、この土地の人でさえ、そのお膳の料理の 豊潤に驚いていたくいであった。顔役のお客さんたちが帰ってしまうと、私とN君は奥の座敷から茶の間へ酒席を移して、アトフキをはじめた。アトフキという のは、この津軽地方に於いて、祝言か何か家に人寄せがあった場合、お客が皆かえった後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の 宴の事であって、或いは「後引き」の訛かも知れない。N君は私よりも更にアルコールには強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂いは無かったが、
「しかし、君も、」と私は、深い溜息をついて、「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」
 僕に酒を教えたのは、実に、このN君なのである。それは、たしかに、そうなのである。
「うむ。」とN君は盃を手にしたままで、真面目に首肯き、「僕だって、ずいぶんその事に就いては考えているんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事を やらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかったよ。でもね、このごろは、こう考え直そうと努めているんだ。あいつは、僕が教えなくたって、ひとりで、酒 飲みになった奴に違いない。僕の知った事ではないと。」
「ああ、そうなんだ。そのとおりなんだ。君に責任なんかありゃしないよ。全く、そのとおりなんだ。」
 やがて奥さんも加り、お互いの子供の事など語り合って、しんみり、アトフキをやっているうちに、突如、鶏鳴あかつきを告げたので、大いに驚いて私は寝所へ引上げた。
 翌る朝、目をさますと、青森市のT君の声が聞えた。約束どおり、朝の一番のバスでやって来てくれたのだ。私はすぐにはね起きた。T君がいてくれ ると、私は、何だか安心で、気強いのである。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来ていた。また、その病院の蟹田分院の事務長をし ているSさんという人も一緒に来ていた。私が顔を洗っている間に、三厩の近くの今別から、Mさんという小説の好きな若い人も、私が蟹田に来る事をN君から でも聞いていたらしく、はにかんで笑いながらやって来られた。Mさんは、N君とも、またT君とも、Sさんとも旧知の間柄のようである。これから、すぐ皆 で、蟹田の山へ花見に行こうという相談が、まとまった様子である。
 観瀾山。私はれいのむらさきのジャンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのようなものものしい身支度をする必要は全然 なかった。その山は、蟹田の町はずれにあって、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかった。その日 は、まぶしいくらいの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。

夏泊方面

東北の海と言えば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒涛逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひ どく温和でそうして水の色も淡く、塩分も薄いように感ぜられ、磯の香さえほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似ている。深さなど に就いては、国防上、言わぬほうがいいかも知れないが、波は優しく砂浜を嬲っている。そうして海浜のすぐ近くに網がいくつも立てられていて、蟹をはじめ、 イカ、カレイ、サバ、イワシ、鱈、アンコウ、さまざまの魚が四季を通じて容易に捕獲できる様子である。この町では、いまも昔と変らず、毎朝、さかなやがリ ヤカーにさかなを一ぱい積んで、イカにサバだじゃあ、アンコウにアオバだじゃあ、スズキにホッケだじゃあ、と怒っているような大声で叫んで、売り歩いてい るのである。そうして、この辺のさかなやは、その日にとれたさかなばかりを売り歩いて、前日の売れ残りは一さい取扱わないようである。よそへ送ってしまう のかも知れない。だから、この町の人たちは、その日にとれた生きたさかなばかり食べているわけであるが、しかし、海が荒れたりなどしてたった一日でも漁の 無かった時には、町中に一尾のなまざかなも見当らず、町の人たちは、干物と山菜で食事をしている。これは、蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、ま た、外ヶ浜だけとも限らず、津軽の西海岸の漁村に於いても、全く同様である。蟹田はまた、頗る山菜にめぐまれているところのようである。蟹田は海岸の町で はあるが、また、平野もあれば、山もある。津軽半島の東海岸は、山がすぐ海岸に迫っているので、平野は乏しく、山の斜面に田や畑を開墾しているところも少 くない状態なので、山を越えて津軽半島西部の広い津軽平野に住んでいる人たちは、この外ヶ浜地方を、カゲ(山の陰の意)と呼んで、多少、あわれんでいる傾 向が無いわけでもないように思われる。けれども、この蟹田地方だけは、決して西部に劣らぬ見事な沃野を持っているのだ。西部の人たちに、あわれまれている と知ったら、蟹田の人たちは、くすぐったく思うだろう。蟹田地方には、蟹田川という水量ゆたかな温和な川がゆるゆると流れていて、その流域に田畑が広く展 開しているのである。

蟹田川

ただこの地方には、東風も、西風も強く当るので不作のとしも少くないようであるが、しかし、西部の人たちが想像しているほど、 土地が痩せてはいないのである。観瀾山から見下すと、水量たっぷりの蟹田川が長蛇の如くうねって、その両側に一番打のすんだ水田が落ちつき払って控えてい て、ゆたかな、たのもしい景観をなしている。山は奥羽山脈の支脈の梵珠山脈である。この山脈は津軽半島の根元から起ってまっすぐに北進して半島の突端の竜 飛岬まで走って海にころげ落ちる。二百メートルから三、四百メートルくらいの低い山々が並んで、観瀾山からほぼまっすぐ西に青く聳えている大倉岳は、この 山脈に於いて増川岳などと共に最高の山の一つなのであるが、それとて、七百メートルあるかないかくらいのものなのである。けれども、山高きが故に貴から ず、樹木あるが故に貴し、とか、いやに興覚めなハッキリした事を断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の人たちは、敢えてその山脈の低さを恥 じる必要もあるまい。この山脈は、全国有数の扁柏の産地である。その古い伝統を誇ってよい津軽の産物は、扁柏である。林檎なんかじゃないんだ。林檎なんて のは、明治初年にアメリカ人から種をもらって試植し、それから明治二十年代に到ってフランスの宣教師からフランス流の剪定法を教わって、俄然、成績を挙 げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはいってからの事で、まさか、東京の雷おこし、 桑名の焼はまぐりほど軽薄な「産物」でも無いが、紀州の蜜柑などに較べと、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言えばすぐに林檎を 思い出し、そうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないように見受けられる。青森県という名もそこから起ったのではないかと思われるほど、津軽の山々に は樹木が枝々をからませ合って冬もなお青く繁っている。昔から、日本三大森林地の一つとして数えられているようであって、昭和四年版の日本地理風俗大系に も、「そもそも、この津軽の大森林は遠く津軽藩祖為信の遺業に因し、爾来、厳然たる制度の下に今日なおその鬱蒼をつづけ、そうしてわが国の模範林制と呼ば れている。はじめ天和、貞享の頃、津軽半島地方に於いて、日本海岸の砂丘数里の間に植林を行い、もって潮風を防ぎ、またもって岩木川下流地方の荒蕪開拓に 資した。爾来、藩にてはこの方針を襲い、鋭意植林に努めた結果、寛永年間にはいわゆる・nbsp;風樹林の成木を見て、またこれに依って耕地八千三百余町 歩の開墾を見るに到った。それより、藩内の各地は頻りに造林につとめ、百有余所の大藩有林を設けるに及んだ。かくて明治時代に到っても、官庁は大いに林政 に注意し、青森県扁柏林の好評は世に嘖々として聞える。けだしこの地方の材質は、よく各種の建築土木の用途に適し、殊に水湿に耐える特性を有すると、材木 の産出の豊富なると、またその運搬に比較的便利なるとをもって重宝がられ、年産額八十万石。」と記されてあるが、これは昭和四年版であるから、現在の産額 はその三倍くらいになっていると思われる。

ひば

けれども、以上は、津軽地方全体の扁柏林に就いての記述であって、これを以って特別に蟹田地方だけの自慢となす事は出来ない が、しかし、この観瀾山から眺められるこんもり繁った山々は、津軽地方に於いても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田川の河口の大 きな写真が出ていて、そうして、その写真には、「この蟹田川付近には日本三美林の称ある扁柏の国有林があり、蟹田町はその積出港としてなかなか盛んな港 で、ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。この地方の木材は良質でしかも安価なので知られている。」 という説明が付せられてある。蟹田の人たちは誇らじと欲するも得べけんやである。しかも、この津軽半島の脊梁をなす梵珠山脈は、扁柏ばかりでなく、杉、山 毛欅、楢、桂、橡、カラ松などの木材も産し、また、山菜の豊富を以て知られているのである。半島の西部の金木地方も、山菜はなかなか豊富であるが、この蟹 田地方も、ワラビ、ゼンマイ、ウド、タケノコ、フキ、アザミ、キノコの類が、町のすぐ近くの山麓から実に容易にとれるのである。このように蟹田町は、田あ り畑あり、海の幸、山の幸にも恵まれて、それこそ鼓腹撃壌の別天地のように読者には思われるだろうが、しかし、この観瀾山から見下した蟹田の町の気配は、 何か物憂い。活気が無いのだ。いままで私は蟹田をほめ過ぎるほど、ほめて書いて来たのであるから、ここらで少し、悪口を言ったって、蟹田の人たちはまさか 私を殴りやしないだろうと思われる。蟹田の人たちは温和である。温和というのは美徳であるが、町をもの憂くさせるほど町民が無気力なのも、旅人にとっては 心細い。天然の恵みが多いという事は、町勢にとって、かえって悪い事ではあるまいかと思わせるほど、蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかえっている。 河口の防波堤も半分つくりかけて投げ出したような形に見える。家を建てようとして地ならしをして、それっきり、家を建てようともせずその赤土の空地にかぼ ちゃなどを植えている。観瀾山から、それが全部見えるというわけではないが、蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるように思われる。町政 の溌剌たる推進をさまたげる妙な古陋の策動屋みたいなものがいるんじゃないか、と私はN君に尋ねたら、この若い町会議員は苦笑して、よせ、よせ、と言っ た。つつしむべきは士族の商法、文士の政談。私の蟹田町政に就いての出しゃばりの質問は、くろうとの町会議員の憫笑を招来しただけの馬鹿らしい結果に終っ た。それに就いて、すぐ思い出される話はドガの失敗談である。フランス画壇の名匠エドガア・ドガは、かつてパリーの或る舞踊劇場の廊下で、偶然、大政治家 クレマンソオと同じ長椅子に腰をおろした。ドガは遠慮も無く、かねて自己の抱懐していた高邁の政治談をこの大政治家に向って開陳した。「私が、もし、宰相 となったならば、ですね、その責任の重大を思い、あらゆる恩愛のきずなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あ たりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルに於いて残務の整理をし、睡魔 の襲うと共に、服も靴もぬがずに、そのままベッドにごろ寝をして、翌る朝、目が覚めると直ちに立って、立ったまま鶏卵とスープを喫し、鞄をかかえて役所へ 行くという工合の生活をするに違いない!」と情熱をこめて語ったのであるが、クレマンソオは一言も答えず、ただ、なんだか全く呆れはてたような軽蔑の目つ きで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであったという。ドガ氏も、その目つきには参ったらしい。よっぽど恥かしかったと見えて、その失敗談は誰 にも知らせず、十五年経ってから、彼の少数の友人の中でも一ばんのお気に入りだったらしいヴァレリイ氏にだけ、こっそり打ち明けたのである。十五年という ひどく永い年月、ひた隠しに隠していたところを見ると、さすが傲慢不遜の名匠も、くろうと政治家の無意識な軽蔑の目つきにやられて、それこそ骨のずいまで こたえたものがあったのであろうと、そぞろ同情の念の胸にせまり来るを覚えるのである。とかく芸術家の政治談は、怪我のもとである。ドガ氏がよいお手本で ある。一個の貧乏文士に過ぎない私は、観瀾山の桜の花や、また津軽の友人たちの愛情に就いてだけ語っているほうが、どうやら無難のようである。

観瀾山

 その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、「蟹田ってのは、風の町だね」と私は、れいの独り合点の卓説を 吐いたりなどしていたものだが、きょうの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑うかのような、おだやかな上天気である。そよとの風も無い。観瀾山の桜は、いま が最盛期らしい。静かに、淡く咲いている。爛漫という形容は、当っていない。花弁も薄くすきとおるようで、心細く、いかにも雪に洗われて咲いたという感じ である。違った種類の桜かも知れないと思わせる程である。ノヴァリスの青い花も、こんな花を空想して言ったのではあるまいかと思わせるほど、幽かな花だ。 私たちは桜花の下の芝生にあぐらをかいて座って、重箱をひろげた。これは、やはり、N君の奥さんのお料理である。他に、蟹とシャコが、大きい竹の籠に一ぱ い。それから、ビール。私はいやしく見られない程度に、シャコの皮をむき、蟹の脚をしゃぶり、重箱のお料理にも箸をつけた。重箱のお料理の中では、ヤリイ カの胴にヤリイカの透明な卵をぎゅうぎゅうつめ込んで、そのままお醤油の付焼きにして輪切りにしてあったのが、私にはひどくおいしかった。帰還兵のT君 は、暑い暑いと言って上衣を脱ぎ半裸体になって立ち上り、軍隊式の体操をはじめた。タオルの手拭いで向う鉢巻きをしたその黒い顔は、ちょっとビルマのバー モオ長官に似ていた。その日、集った人たちは、情熱の程度に於いてはそれぞれ少しずつ相違があったようであるが、何か小説に就いての述懐を私から聞き出し たいような素振りを見せた。私は問われただけの事は、ハッキリ答えた。「問に答えざるはよろしからず」というれいの芭蕉翁の行脚の掟にしたがったわけであ るが、しかし、他のもっと重大な箇条には見事にそむいてしまった。一、他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。私 はその、甚だいやしい事を、やっちゃった。芭蕉だって、他門の俳諧の悪口は、チクチク言ったに違いないのであるが、けれども流石に私みたいに、たしなみも 何も無く、眉をはね上げ口を曲げ、肩をいからして他の小説家を罵倒するなどというあさましい事はしなかったであろう。私は、にがにがしくも、そのあさまし い振舞いをしてしまったのである。日本の或る五十年配の作家の仕事に就いて問われて、私は、そんなによくはない、とつい、うっかり答えてしまったのであ る。最近、その作家の過去の仕事が、どういうわけか、畏敬に近いくらいの感情で東京の読書人にも迎えられている様子で、神様、という妙な呼び方をする者な ども出て来て、その作家を好きだと告白する事は、その読書人の趣味の高尚を証明するたずきになるというへんな風潮さえ瞥見せられて、それこそ、贔屓の引き だおしと言うもので、その作家は大いに迷惑して苦笑しているのかも知れないが、しかし、私はかねてその作家の奇妙な勢威を望見して、れいの津軽人の愚昧な る心から、「かれは賎しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従う事は出来なかった。そうして、このごろに 到って、その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思ったが、格別、趣味の高尚は感じなかった。かえって、エゲツナイところに、この作 家の強みがあるのではあるまいかと思ったくらいであった。書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取った一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生 き方に就いてときどき「良心的」な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないほうがよいと思われるくらいで、「文学的」 な青臭さから離れようとして、かえって、それにはまってしまっているようなミミッチイものが感ぜられた。ユウモアを心掛けているらしい箇所も、意外なほど たくさんあったが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きているので読者は素直に笑えない。貴族的、という幼い批評を耳 にした事もあったが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きだおしである。貴族というものは、だらしないくらい闊達なものではないかと思われる。フランス 革命の際、暴徒たちが王の居室にまで乱入したが、その時、フランス国王ルイ十六世、暗愚なりと雖も、からから笑って矢庭に暴徒のひとりから革命帽を奪いと り、自分でそれをひょいとかぶって、フランス万歳、と叫んだ。血に飢えたる暴徒たちも、この天衣無縫の不思議な気品に打たれて、思わず王と共に、フランス 万歳を絶叫し、王の身体には一指も触れずにおとなしく王の居室から退去したのである。まことの貴族には、このような無邪気なつくろわぬ気品があるものだ。 口をひきしめて襟元をかき合せてすましているのは、あれは、貴族の下男によくある型だ。貴族的なんて、あわれな言葉を使っちゃいけない。
 その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の作家の心酔者らしく、私に対して、その作家の事ばかり質問する ので、とうとう私も芭蕉翁の行脚の掟を破って、そのような悪口を言い、言いはじめたら次第に興奮して来て、それこそ眉をはね上げ口を曲げる結果になって、 貴族的なんて、へんなところで脱線してしまった。一座の人たちは,私の話に少しも同感の色を示さなかった。
「貴族的なんて、そんな馬鹿な事を私たちは言ってはいません。」と今別から来たMさんは、当惑の面持で、ひとりごとのようにして言った。酔漢の放言に閉口し切っているというようなふうに見えた。他の人たちも、互いに顔を見合わせてにやにや笑っている。
「要するに、」私の声は悲鳴に似ていた。ああ、先輩作家の悪口は言うものではない。「男振りにだまされちゃいかんと言う事だ。ルイ十六世は、史上まれに見る醜男だったんだ。」いよいよ脱線するばかりである。
「でも、あの人の作品は、私は好きです。」とMさんは、イヤにはっきり宣言する。
「日本じゃ、あの人の作品など、いいほうなんでしょう?」と青森の病院のHさんは、つつましく、取りなし顔に言う。
 私の立場は、いけなくなるばかりだ。
「そりゃ、いいほうかも知れない。まあ、いいほうだろう。しかし、君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言ってくれないのは、ひどいじゃないか。」私は笑いながら本音を吐いた。
 みんな微笑した。やはり、本音を吐くに限る、と私は図に乗り、
「僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いているんだ。その大望が重すぎて、よろめいているのが僕の現在のこの姿だ。君たち には、だらしのない無知な薄汚い姿に見えるだろうが、しかし僕は本当の気品というものを知っている。松葉の形の干菓子を出したり、青磁の壺に水仙を投げ入 れて見せたって、僕はちっともそれを上品だとは思わない。成金趣味だよ、失敬だよ。本当の気品というものは、真黒いどっしりした大きい岩に白菊一輪だ。土 台に、むさい大きい岩が無くちゃ駄目なもんだ。それが本当の上品というものだ。君たちなんか、まだ若いから、針金で支えられたカーネーションをコップに投 げいれたみたいな女学生くさいリリシズムを、芸術の気品だなんて思っていやがる。」
 暴言であった。「他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。」この翁の行脚の掟は、厳粛の真理に似てい る。じっさい、甚だいやしいものだ。私にはこのいやしい悪癖があるので、東京の文壇に於いても、皆に不愉快の感を与え、薄汚い馬鹿者として遠ざけられてい るのである。
「まあ、仕様が無いや。」と私は、うしろに両手をついて仰向き、「僕の作品なんか、まったく、ひどいんだからな。何を言ったって、はじまらん。 でも、君たちの好きなその作家の十分の一くらいは、僕の仕事をみとめてくれてもいいじゃないか。君たちは、僕の仕事をさっぱりみとめてくれないから、僕 だって、あらぬ事を口走りたくなって来るんだ。みとめてくれよ。二十分の一でもいいんだ。みとめろよ。」
 みんな、ひどく笑った。笑われて、私も、気持がたすかった。蟹田分院の事務長のSさんが、腰を浮かして、
「どうです。この辺で、席を変えませんか。」と、世慣れた人に特有の慈悲深くなだめるような口調で言った。蟹田町で一ばん大きいEという旅館に、皆の昼飯の仕度をさせてあるという。いいのか、と私はT君に目でたずねた。
「いいんです。ごちそうになりましょう。」T君は立ち上って上衣を着ながら、「僕たちが前から計画していたのです。Sさんが配給の上等酒をとって 置いたそうですから、これから皆で、それをごちそうになりに行きましょう。Nさんのごちそうにばかりなっていては、いけません。」
 私はT君の言う事におとなしく従った。だから、T君が傍についていてくれると、心強いのである。
 Eという旅館は、なかなか綺麗だった。部屋の床の間も、ちゃんとしていたし、便所も清潔だった。ひとりでやって来て泊っても、わびしくない宿だ と思った。いったいに、津軽半島の東海岸の旅館は、西海岸のそれと較べると上等である。昔から多くの他国の旅人を送り迎えした伝統のあらわれかも知れな い。昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出する事になっていたので、この外ヶ浜街道はそのための全国の旅人を朝夕送迎していたのである。旅館のお膳 にも蟹が付いていた。
「やっぱり、蟹田だなあ。」と誰か言った。
 T君はお酒を飲めないので、ひとり、さきにごはんを食べたが、他の人たちは、皆、Sさんの上等酒を飲み、ごはんを後回しにした。酔うに従ってSさんは、上機嫌になって来た。
「私はね、誰の小説でも、みな一様に好きなんです。読んでみると、みんな面白い。なかなか、どうして、上手なものです。だから私は、小説家ってや つを好きで仕様が無いんです。どんな小説家でも、好きで好きでたまらないんです。私は、子供を、男の子で三つになりましたがね、こいつを小説家にしようと 思っているんです。名前も、文男と付けました。文の男と書きます。頭の恰好が、どうも、あなたに似ているようです。失礼ながら、そんな工合に、はちが開い ているような形なのです。」
 私の頭が、鉢が開いているとは初耳であった。私は、自分の容貌のいろいろさまざまの欠点を残りくま無く知悉しているつもりであったが、頭の形 までへんだとは気がつかなかった。自分で気の付かない欠点がまだまだたくさんあるのではあるまいかと、他の作家の悪口を言った直後でもあったし、ひどく不 安になって来た。Sさんは、いよいよ上機嫌で、
「どうです。お酒もそろそろ無くなったようですし、これから私の家へみんなでいらっしゃいませんか。ね。ちょっとでいいんです。うちの女房に も、文男にも、会ってやって下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね。」と、しきりに私を誘惑す るのである。御好志はありがたかったが、私は頭の鉢以来、とみに意気が沮喪して、早くN君の家へ引上げて、一寝入りしたかった。Sさんのお家へ行って、こ んどは頭の鉢どころか、頭の内容まで見破られ、ののしられるような結果になるのではあるまいかと思えばなおさら気が重かった。私は、れいに依ってT君の顔 色を伺った。T君が行けと言えば、これは、行かなくてはなるまいと覚悟していた。T君は、真面目な顔をしてちょっと考え、
「行っておやりになったら? Sさんは、きょうは珍らしくひどく酔っているようですが、
 ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみにして待っていたのです。」
 私は行く事にした。頭の鉢にこだわる事は、やめた。あれはSさんが、ユウモアのつもりでおっしゃったのに違いないと思い直した。どうも、容貌に 自信が無いと、こんなつまらぬ事にもくよくよしていけない。容貌に就いてばかりでなく、私にいま最も欠けているものは「自信」かも知れない。
 Sさんのお家へ行って、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさえ少しめんくらった。Sさんは、お家へはいるなり、たてつづけに奥さんに用事を言いつけるのである。
「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。とうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰って人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよか ろう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んじゃったんだ。リンゴ酒を持って来い。なんだ、一升しか無いのか。少い! もう二升買って来い。待て。その縁側 にかけてある干鱈をむしって、待て、それは金槌でたたいてやわらかくしてから、むしらなくちゃ駄目なものなんだ。待て、そんな手つきじゃいけない、僕がや る。干鱈をたたくには、こんな工合いに、こんな工合いに、あ、痛え、まあ、こんな工合いだ。おい、醤油を持って来い。干鱈には醤油をつけなくちゃ駄目だ。 コップが一つ、いや二つ足りない。早く持って来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買って来い、待て、坊やを連れて来 い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらうんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいているというんでしょう。あなたの頭の形に似ている と思うんですがね。しめたものです。おい、坊やをあっちへ連れて行け。うるさくてかなわない。お客さんの前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬じゃ ないか。成金趣味だぞ。早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまうじゃないか。待て、お前はここにいてサアヴィスをしろ。さあ、みんなにお酌。リ ンゴ酒は隣りのおばさんに頼んで買って来てもらえ。おばさんは、砂糖をほしがっていたから少しわけてやれ。待て、おばさんにやっちゃいかん。東京のお客さ んに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちゃいけないよ。全部、差し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んで紐でゆわえて差し上げろ。 子供を泣かせちゃ、いかん。失敬じゃないか。成金趣味だぞ。貴族ってのはそんなものじゃないんだ。待て。砂糖はお客さんがお帰りの時でいいんだってば。音 楽、音楽。レコードをはじめろ。シューベルト、ショパン、バッハ、なんでもいい。音楽を始めろ。待て。なんだ、それは、バッハか。やめろ。うるさくてかな わん。話も何も出来やしない。もっと静かなレコードを掛けろ、待て、食うものが無くなった。アンコーのフライを作れ。ソースがわが家の自慢と来ている。果 してお客さんのお気に召すかどうか、待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食えないものだ。そうだ。卵味 噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」
 私は決して誇張法を用いて描写しているのではない。この疾風怒涛の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。干鱈というのは、大きい鱈を吹 雪にさらして凍らせて干したもので、芭蕉翁などのよろこびそうな軽い閑雅な味のものであるが、Sさんの家の縁側には、それが五、六本つるされてあって、S さんは、よろよろと立ち上り、それを二、三本ひったくって、滅多矢鱈に鉄槌で乱打し、左の親指を負傷して、それから、ころんで、這うようにして皆にリンゴ 酒を注いで回り、頭の鉢の一件も、決してSさんは私をからかうつもりで言ったのではなく、また、ユウモアのつもりで言ったのでもなかったのだという事が私 にはっきりわかって来た。Sさんは、鉢のひらいた頭というものを、真剣に尊敬しているらしいのである。いいものだと思っているらしいのである。津軽人の愚 直可憐、見るべしである。そうして、ついには、卵味噌、卵味噌と連呼するに到ったのであるが、この卵味噌のカヤキなるものに就いては、一般の読者には少し く説明が要るように思われる。津軽に於いては、牛鍋、鳥鍋の事をそれぞれ、牛のカヤキ、鳥のカヤキという工合に呼ぶのである。貝焼の訛りであろうと思われ る。いまはそうでもないようだけれど、私の幼少の頃には、津軽に於いては、肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用いていた。貝殻から幾分ダシが出ると盲信 しているところも無いわけではないようであるが、とにかく、これは先住民族アイヌの遺風ではなかろうかと思われる。私たちは皆、このカヤキを食べて育った のである。卵味噌のカヤキというのは、その貝の鍋を使い、味噌に鰹節をけずって入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、実は、これは 病人の食べるものなのである。病気になって食がすすまなくなった時、このカヤキの卵味噌をお粥に載せて食べるのである。けれども、これもまた津軽特有の料 理の一つにはちがいなかった。Sさんは、それを思いつき、私に食べさせようとして連呼しているのだ。私は奥さんに、もうたくさんですから、と拝むように頼 んでSさんの家を辞去した。読者もここに注目をしていただきたい。その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋の津軽人のそれ である。これは私に於いても、Sさんと全く同様な事がしばしばあるので、遠慮なく言う事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいい かわからなくなってしまうのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、そうして電灯に頭をぶつけて電灯の笠を割ったりなどした経験さえ私にはあ る。食事中に珍客があらわれた場合に、私はすぐに箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら玄関に出るので、かえってお客に顔をしかめられる事がある。お客を 待たせて、心静かに食事をつづけるなどという芸当は私には出来ないのである。そうしてSさんの如く、実質に於いては、到れりつくせりの心づかいをして、そ うして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になって、かえって後でそのお客に自分の非礼をお詫びし なければならぬなどという事になるのである。ちぎっては投げ、むしっては投げ、取って投げ、果ては自分の命までも、という愛情の表現は、関東、関西の人た ちにはかえって無礼な暴力的なもののように思われ、ついには敬遠という事になるのではあるまいか、と私はSさんに依って私自身の宿命を知らされたような気 がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかった。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも 知れない。東京の人は、ただ妙にもったいぶって、チョッピリずつ料理を出すからなあ。ぶえんの平茸ではないけれど、私も木曽殿みたいに、この愛情の過度の 露出のゆえに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。「かい給え、かい給えや」とぞ責めたりける、である。
 後で聞いたが、Sさんはそれから一週間、その日の卵味噌の事を思い出すと恥ずかしくて酒を飲まずには居られなかったという。ふだんは人一倍は にかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人というものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人 よりも、はるかに優雅な、こまかい思いやりを持っている。その抑制が、事情に依って、どっと堰を破って奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなって、 「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう」といそがす形になってしまって、軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になるのである。Sさんはその翌日、小さく なって酒を飲み、そこへ一友人がたずねて行って、
「どう? あれから奥さんに叱られたでしょう?」と笑いながら尋ねたら、Sさんは、処女の如くはにかんで、
「いいえ、まだ。」と答えたという。
 叱られるつもりでいるらしい。

  三 外 ヶ 浜

 Sさんの家を辞去してN君の家へ引上げ、N君と私は、さらにまたビールを飲み、その夜はT君も引きとめられてN君の家へ泊る事になった。 三人一緒に奥の部屋に寝たのであるが、T君は翌朝早々、私たちのまだ眠っているうちにバスで青森へ帰った。勤めがいそがしい様子である。
「咳をしていたね。」T君が起きて身支度をしながらコンコンと軽い咳をしていたのを、私は眠っていながらも耳ざとく聞いてへんに悲しかったので、起きるとすぐにN君にそう言った。N君も起きてズボンをはきながら、
「うん、咳をしていた。」と厳粛な顔をして言った。酒飲みというものは、酒を飲んでいない時にはひどく厳粛な顔をしているものである。いや、顔ば かりではないかも知れない。心も、きびしくなっているものである。「あまり、いい咳じゃなかったね。」N君も、さすがに、眠っているようではあっても、 ちゃんとそれを聞き取っていたのである。
「気で押すさ。」とN君は突き放すような口調で言って、ズボンのバンドをしめ上げ、「僕たちだって、なおしたんじゃないか。」
 N君も、私も、永い間、呼吸器の病気と闘って来たのである。N君はひどい喘息だったが、いまはそれを完全に克服してしまった様子である。
 この旅行に出る前に、満州の兵隊たちのために発行されている或る雑誌に短編小説を一つ送る事を約束していて、その締切がきょうあすに迫っていた ので、私はその日一日と、それから翌る日一日と、二日間、奥の部屋を借りて仕事をした。N君も、その間、別棟の精米工場で働いていた。二日目の夕刻、N君 は私の仕事をしている部屋へやって来て、
「書けたかね。二、三枚でも書けたかね。僕のほうは、もう一時間経ったら、完了だ。一週間分の仕事を二日でやってしまった。あとでまた遊ぼうと 思うと気持に張合いが出て、仕事の能率もぐんと上るね。もう少しだ。最後の馬力をかけよう。」と言って、すぐ工場のほうへ行き、十分も経たぬうちに、また 私の部屋へやって来て、
「書けたかね。僕のほうは、もう少しだ。このごろは機械の調子もいいんだ。君は、まだうちの工場を見た事が無いだろう。汚い工場だよ。見ないほ うがいいかも知れない。まあ、精を出そう。僕は工場のほうにいるからね。」と言って帰って行くのである。鈍感な私も、やっと、その時、気がついた。N君は 私に、工場で働いている彼の甲斐甲斐しい姿を見せたいのに違いない。もうすぐ彼の仕事が終るから、終らないうちに見に来い、という謎であったのだ。私はそ れに気が付いて微笑した。いそいで仕事を片付け、私は、道路を隔て別棟になっている精米工場に出かけた。N君は継ぎはぎだらけのコール天の上衣を着て、目 まぐるしく回転する巨大な精米機の傍に、両腕をうしろにまわし、仔細らしい顔をして立っていた。

中貞商店

「さかんだね。」と私は大声で言った。
 N君は振りかえり、それは嬉しそうに笑って、
「仕事は、すんだか。よかったな。僕のほうも、もうすぐなんだ。はいり給え。下駄のままでいい。」と言うのだが、私は、下駄のままで精米所へのこ のこはいるほど無神経な男ではない。N君だって、清潔な藁草履とはきかえている。そこらを見回しても、上草履のようなものも無かったし、私は、工場の門口 に立って、ただ、にやにや、笑っていた。裸足になってはいろうかとも思ったが、それはN君をただ恐縮させるばかりの大袈裟な偽善的な仕草に似ているように も思われて、裸足にもなれなかった。私には、常識的な善事を行うに当って、甚だてれる悪癖がある。
「ずいぶん大がかりな機械じゃないか。よく君はひとりで操縦が出来るね。」お世辞では無かった。N君も、私と同様、科学的知識に於いては、あまり達人ではなかったのである。
「いや、簡単なものなんだ。このスウィッチをこうすると、」などと言いながら、あちこちのスウィッチをひねって、モーターをぴたりと止めて見せた り、また籾殻の吹雪を現出させて見せたり、出来上りの米を瀑布のようにざっと落下させて見せたり自由自在にその巨大な機械をあやつって見せるのである。
 ふと私は、工場のまん中の柱に張りつけられてある小さいポスターに目をとめた。お銚子の形の顔をした男が、あぐらをかき腕まくりして大盃を傾 け、その大盃には家や土蔵がちょこんと載っていて、そうしてその妙な画には、「酒は身を飲み家を飲む」という説明の文句が印刷されてあった。私は、そのポ スターを永い事、見つめていたので、N君も気がついたか、私の顔を見てにやりと笑った。私もにやりと笑った。同罪の士である。「どうもねえ」という感じな のである。私はそんなポスターを工場の柱に張って置くN君を、いじらしく思った。誰か大酒を恨まざる、である。私の場合は、あの大盃に、私の貧しい約二十 種類の著書が載っているという按配なのである。私には、飲むべき家も蔵も無い。「酒は身を飲み著書を飲む」とでも言うべきところであろう。
 工場の奥に、かなり大きい機械が二つ休んでいる。あれは何? とN君に聞いたら、N君は幽かな溜息をついて、
「あれは、なあ、縄を作る機械と、筵を作る機械なんだが、なかなか操作がむずかしくて、どうも僕の手には負えないんだ。四、五年前、この辺一帯ひ どい不作で、精米の依頼もばったり無くなって、いや、困ってねえ、毎日毎日、炉傍に座って煙草をふかして、いろいろ考えた末、こんな機械を買って、この工 場の隅で、ばったんばったんやってみたのだが、僕は不器用だから、どうしても、うまくいかないんだ。淋しいもんだったよ。結局一家六人、ほそぼそと寝食い さ。あの頃は、もう、どうなる事かと思ったね。」
 N君には、四歳の男の子がひとりある他に、死んだ妹さんの子供をも三人あずかっているのだ。妹さんの御亭主も、北支で戦死をなさったので、N 君夫妻は、この三人の遺児を当然の事として育て、自分の子供と全く同様に可愛がっているのだ。奥さんの言に依れば、N君は可愛がりすぎる傾きさえあるそう だ。三人の遺児のうち、一番の総領は青森の工業学校にはいっているのだそうで、その子が或る土曜日に青森から七里の道をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中 の十二時頃に蟹田の家へたどり着き、伯父さん、伯父さん、と言って玄関の戸を叩き、N君は飛び起きて玄関をあけ、無我夢中でその子の肩を抱いて、歩いて来 たのか、へえ、歩いて来たのか、と許り言ってものも言えず、そうして、奥さんを矢鱈に叱り飛ばして、それ、砂糖湯を飲ませろ、餅を焼け、うどんを温めろ と、矢継早に用事を言いつけ、奥さんは、この子は疲れて眠いでしょうから、と言いかけたら、「な、なにい!」と言って頗る大袈裟に奥さんに向ってこぶしを 振り上げ、あまりにどうも珍妙な喧嘩なので、甥のその子が、ぷっと噴き出して、N君もこぶしを振り上げながら笑い出し、奥さんも笑って、何が何やら、うや むやになったという事などもあったそうで、それもまた、N君の人柄の片鱗を示す好箇の挿話であると私には感じられた。
「七転び八起きだね。いろんな事がある。」と言って私は、自分の身の上とも思い合せ、ふっと涙ぐましくなった。この善良な友人が、馴れぬ手つき で、工場の隅で、ひとり、ばったんばったん筵を織っている侘しい姿が、ありありと眼前に見えるような気がして来た。私は、この友人を愛している。
 その夜はまた、お互い一仕事すんだのだから、などと言いわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作の事に就いて話し合った。N君は青森県郷土史研究会の会員だったので、郷土史の文献をかなり持っていた。
「何せ、こんなだからなあ。」と言ってN君は或る本をひらいて私に見せたが、そのペエジには次のような、津軽凶作の年表とでもいうべき不吉な一覧表が載っていた。
元和一年    大凶
元和二年    大凶
寛永十七年   大凶
寛永十八年   大凶
寛永十九年    凶
明暦二年     凶
寛文六年     凶
寛文十一年    凶
延宝二年     凶
延宝三年     凶
延宝七年     凶
天和一年    大凶
貞享一年     凶
元禄五年    大凶
元禄七年    大凶
元禄八年    大凶
元禄九年     凶
元禄十五年   半凶
宝永二年     凶
宝永三年     凶
宝永四年    大凶
享保一年     凶
享保五年     凶
元文二年     凶
元文五年     凶
延享二年    大凶
延享四年     凶
寛延二年    大凶
宝暦五年    大凶
明和四年     凶
安永五年    半凶
天明二年    大凶
天明三年    大凶
天明六年    大凶
天明七年    半凶
寛政一年     凶
寛政五年     凶
寛政十一年    凶
文化十年     凶
天保三年    半凶
天保四年    大凶
天保六年    大凶
天保七年    大凶
天保八年     凶
天保九年    大凶
天保十年     凶
慶応二年     凶
明治二年     凶
明治六年     凶
明治二十二年   凶
明治二十四年   凶
明治三十年    凶
明治三十五年  大凶
明治三十八年  大凶
大正二年     凶
昭和六年     凶
昭和九年     凶
昭和十年     凶
昭和十五年   半凶
 津軽の人でなくても、この年表に接しては溜息をつかざるを得ないだろう。大阪夏の陣、豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約 六十回の凶作があったのである。まず五年に一度ずつ凶作に見舞われているという勘定になるのである。さらにまた、N君はべつな本をひらいて私に見せたが、 それには、「翌天保四年に到りては、立春吉祥の其日より東風頻に吹荒み、三月上巳の節句に到れども積雪消えず農家にて雪舟用いたり。五月に到り苗の生長僅 かに一束なれども時節の階級避くべからざるが故に竟に其儘植付けに着手したり。然れども連日の東風弥々吹き募り、六月土用に入りても密雲幕々として天候朦 々晴天白日を見る事殆ど稀なり(中略)毎日朝夕の冷気強く六月土用中に綿入を着用せり、夜は殊に冷にして七月佞武多(作者注。陰暦七夕の頃、武者の形ある いは竜虎の形などの極彩色の大灯寵を荷車に載せて曳き、若い衆たちさまざまに扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。他町の大灯籠と 衝突して喧嘩の事必ずあり。坂上田村麻呂、蝦夷征伐の折、このような大灯籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せ之を殲滅せし遺風なりとの説あれども、 なお信ずるに足らず。津軽に限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。東北の夏祭りの山車と思わば大過なからん歟。)の頃に到りても道路にては蚊の声を聞か ず、家屋の内に於ては聊か之を聞く事あれども蚊帳を用うるを要せず蝉声の如きも甚だ稀なり、七月六日頃より暑気出で盆前単衣物を着用す、同十三日頃より早 稲大いに出穂ありし為人気頗る宜しく盆踊りも頗る賑かなりしが、同十五日、十六日の日光白色を帯び恰も夜中の鏡に似たり、同十七日夜半、踊児も散り、来往 の者も稀疎にして追々暁方に及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往来老若之を見る者涕泣充満たり。」という、あわれと言うより他には全く 言いようのない有様が記されてあって、私たちの幼い頃にも、老人たちからケガズ(津軽では、凶作の事をケガズと言う。飢渇の訛りかも知れない。)の酸鼻戦 慄の状を聞き、幼いながらも暗憺たる気持になって泣きべそをかいてしまったものだが、久し振りで故郷に帰り、このような記録をあからさまに見せつけられ、 哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さえ感ぜられて、
「これは、いかん。」と言った。「科学の世の中とか何とか偉そうな事を言ってたって、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教えてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。」
「いや、技師たちもいろいろ研究はしているのだ。冷害に堪えるように品種が改良されてもいるし、植付けの時期にも工夫が加えられて、今では、昔のように徹底した不作など無くなったけれども、でも、それでも、やっぱり、四、五年に一度は、いけない時があるんだねえ。」
「だらしが無え。」私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げてののしった。N君は笑って、
「砂漠の中で生きている人もあるんだからね。怒ったって仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。」
「あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。」
「それでも君は、負けないじゃないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。第八師団は国宝だって言われているじゃないか。」
 生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすって育った私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝わっていないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうら やましいものには違いないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるように努力するより他には仕方がないようだ。いたずらに過去の 悲惨に嘆息せず、N君みたいにその櫛風沐雨の伝統を鷹揚に誇っているほうがいいのかも知れない。しかも津軽だって、いつまでも昔のように酸鼻の地獄絵を繰 り返しているわけではない。その翌日、私はN君に案内してもらって、外ヶ浜街道をバスで北上し、三厩で一泊して、それからさらに海岸の波打際の心細い路を 歩いて本州の北端、竜飛岬まで行ったのであるが、その三厩竜飛間の荒涼索漠たる各部落でさえ、烈風に抗し、怒涛に屈せず、懸命に一家を支え、津軽人の健在 を可憐に誇示していたし、三厩以南の各部落、殊にも三厩、今別などに到っては瀟洒たる海港の明るい雰囲気の中に落ちつき払った生活を展開して見せてくれて いたのである。ああ、いたずらにケガズの影におびえる事なかれである。以下は佐藤弘という理学士の快文章であるが、私のこの書の読者の憂鬱を消すために、 なおまた私たち津軽人の明るい出発の乾盃の辞としてちょっと借用して見よう。佐藤理学士の奥州産業総説に曰く、「撃てば則ち草に匿れ、追えば即ち山に入っ た蝦夷族の版図たりし奥州、山岳重畳して到るところ天然の障壁をなし、以て交通を阻害している奥州、風波高く海運不便なる日本海と、北上山脈にさえぎられ て発達しない鋸歯状の岬湾の多い太平洋とに包まれた奥州。しかも冬期降雪多く、本州中で一番寒く、古来、数十回の凶作に襲来されたという奥州。九州の耕地 面積二割五分に対して、わずかに一割半を占むる哀れなる奥州。どこから見ても不利な自然的条件に支配されているその奥州は、さて、六百三十万の人口を養う に、今日いかなる産業に拠っているであろうか。
 どの地理書を繙いても、奥州の地たるや本州の東北端に僻在し、衣、食、住、いずれも粗撲、とある。古来からの茅葺、柾葺、杉皮葺は、とにかく として、現在多くの民は、トタン葺の家に住み、ふろしきを被って、もんぺいをはき、中流以下悉く粗食に甘んじている、という。真偽や如何。それほど奥州の 地は、産業に恵まれていないのであろうか。高速度を以て誇りとする第二十世紀の文明は、ひとり東北の地に到達していないのであろうか。否、それは既に過去 の奥州であって、人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まず文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる台頭力を、この奥州の地に認め なければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州 人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与え、而して、いまや見よ、開発ま た開拓、膏田沃野の刻一刻と増加することを。そして改良また改善、牧畜、林業、漁業の日に日に盛大におもむく事を。まして況んや、住民の分布薄疎にして、 将来の発展の余裕、また大いにこの地にありというに於いてをや。
 むく鳥、鴨、四十雀、雁などの渡り鳥の大群が、食を求めてこの地方をさまよい歩くが如く、膨脹時代にあった大和民族が各地方より北上してこの 奥州に到り、蝦夷を征服しつつ、或いは山に猟し、或いは川に漁して、いろいろな富源の魅力にひきつけられ、あちらこちらと、さまよい歩いた。かくして数代 経過し、ここに人々は、思い思いの地に定着して、或いは秋田、荘内、津軽の平野に米を植え、或いは北奥の山地に殖林を試み、或いは平原に馬を飼い、或いは 海辺の漁業に専心して以て今日に於ける隆盛なる産業の基礎を作ったのである。奥州六県、六百三十万の民はかくして先人の開発せし特徴ある産業をおろそかに せず、益々これが発達の途を講じ、渡り鳥は永遠にさまよえども、素朴なる東北の民は最早や動かず、米を作って林檎を売り、鬱蒼たる美林につづく緑の大平原 には毛並輝く見事な若駒を走らせ、出漁の船は躍る銀鱗を満載して港にはいるのである。」
 まことに有難い祝辞で、思わず駈け寄ってお礼の握手でもしたくなるくらいのものだ。さて私はその翌日、N君の案内で奥州外ヶ浜を北上したのであるが、出発に先立ち、まず問題は酒であった。
「お酒は、どうします? リュックサックに、ビールの二、三本も入れて置きましょうか?」と、奥さんに言われて、私は、まったく、冷汗三斗の思いであった。なぜ、酒飲みなどという不面目な種族の男に生れて来たか、と思った。
「いや、いいです。無ければ無いで、また、それは、べつに。」などと、しどろもどろの不得要領なる事を言いながらリュックサックを背負い、逃げるが如く家を出て、後からやって来たN君に、
「いや、どうも。酒、と聞くとひやっとするよ。針の筵だ。」と実感をそのまま言った。N君も同じ思いと見えて、顔を赤くし、うふふと笑い、
「僕もね、ひとりじゃ我慢も出来るんだが、君の顔を見ると、飲まずには居られないんだ。今別のMさんが配給のお酒を近所から少しずつ集めて置くって言っていたから、今別にちょっと立寄ろうじゃないか。」
 私は複雑な溜息をついて、
「みんなに苦労をかけるわい。」と言った。
 はじめは蟹田から船でまっすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスという計画であったのだが、その日は朝から東風が強く、荒天といっていいくらい の天候で、乗って行く筈の定期船は欠航になってしまったので、予定をかえて、バスで出発する事にしたのである。バスは案外、空いていて、二人とも楽に腰か ける事が出来た。外ヶ浜街道を一時間ほど北上したら、次第に風も弱くなり、青空も見えて来て、このぶんならば定期船も出るのではなかろうかと思われた。と にかく、今別のMさんのお家へ立寄り、船が出るようだったら、お酒をもらってすぐ今別の港から船に乗ろうという事にした。往きも帰りも同じ陸路を通るの は、気がきかなくて、つまらない事のように思われた。N君はバスの窓から、さまざまの風景を指差して説明してくれたが、もうそろそろ要塞地帯に近づいてい るのだから、そのN君の親切な説明をここにいちいち書き記すのは慎しむべきであろう。とにかく、この辺には、昔の蝦夷の栖家の面影は少しも見受けられず、 お天気のよくなって来たせいか、どの村落も小綺麗に明るく見えた。寛政年間に出版せられた京の名医橘南谿の東遊記には、「天地ひらけしよりこのかた今の時 ほど太平なる事はあらじ、西は鬼界屋玖の島より東は奥州の外ヶ浜まで号令の行届かざる所もなし。往古は屋玖の島は屋玖国とて異国のように聞え、奥州も半ば 蝦夷人の領地なりしにや、猶近き頃まで夷人の住所なりしと見えて南部、津軽辺の地名には蛮名多し。外ヶ浜通りの村の名にもタッピ、ホロヅキ、内マッペ、外 マッペ、イマベツ、ウテツなどいう所有り。是皆蝦夷詞なり。今にても、ウテツなどの辺は風俗もやや蝦夷に類して津軽の人も彼等はエゾ種といいて、いやしむ るなり。余思うにウテツ辺に限らず、南部、津軽辺の村民も大かたはエゾ種なるべし。只早く皇化に浴して風俗言語も改りたる所は、先祖より日本人のごとくい いなし居る事とぞ思わる。故に礼儀文華のいまだ開けざるはもっともの事なり。」と記されてあるが、それから約百五十年、地下の南谿を今日この坦々たるコン クリート道路をバスに乗せて通らせたならば、呆然たるさまにて首をひねり、或いは、こぞの雪いまいずこなどという嘆を発するかも知れない。南谿の東遊記西 遊記は江戸時代の名著の一つに数えられているようであるが、その凡例にも、「予が漫遊もと医学の為なれば医事にかかれることは雑談といえども別に記録して 同志の人にも示す。只此書は旅中見聞せる事を筆のついでにしるせるものにして、強て其事の虚実を正さず、誤りしるせる事も多かるべし。」とみずから告白し ている如く、読者の好奇心を刺激すれば足るというような荒唐無稽に似た記事も少しとしないと言ってよい。他の地方の事は言わず、例をこの外ヶ浜近辺に就い ての記事だけに限って言っても、「奥州三馬屋(作者注。三厩の古称。)は、松前渡海の津にて、津軽領外ヶ浜にありて、日本東北の限りなり。むかし源義経、 高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給いしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたえかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈 りしに、忽ち風かわり恙なく松前の地に渡り給いぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音という。又波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並 べり。是義経の馬を立給いし所となり。是によりて此地を三馬屋と称するなりとぞ。」と、何の疑いもさしはさまずに記してあるし、また、「奥州津軽の外ヶ浜 に平館という所あり。此所の北にあたり巌石海に突出たる所あり、是を石崎の鼻という。其所を越えて暫く行けば朱谷あり。山々高く聳えたる間より細き谷川流 れ出て海に落る。此谷の土石皆朱色なり。水の色までいと赤く、ぬれたる石の朝日に映ずるいろ誠に花やかにして目さむる心地す、其落る所の海の小石までも多 く朱色なり。此辺の海中の魚皆赤しと云。谷にある所の朱の気によりて、海中の魚、或は石までも朱色なること無情有情ともに是に感ずる事ふしぎなり。」と 言ってすましているかと思うと、また、おきなと称する怪魚が北海に住んでいて、「其大きさ二里三里にも及べるにや、ついに其魚の全身を見たる人はなし。稀 れに海上に浮たるを見るに大なる島いくつも出来たるごとくなり、是おきなの背中尾鰭などの少しずつ見ゆるなりとぞ。二十尋三十尋の鯨を呑む事、鯨の鰯を呑 むがごとくなるゆえ、此魚来れば鯨東西に逃走るなり。」などと言っておどかしたり、また、「此三馬屋に逗留せし頃、一夜、此家の近きあたりの老人来りぬれ ば、家内の祖父祖母など打集り、囲炉裏にまといして四方山の物語せしに彼者共語りしは、扨も此二三十年以前松前の津波程おそろしかりしことはあらず、其頃 風も静に雨も遠かりしが、只何となく空の気色打くもりたるようなりしに、夜々折々光り物して東西に虚空を飛行するものあり、漸々に甚敷、其四五日前に到れ ば白昼にもいろいろの神々虚空を飛行し給う。衣冠にて馬上に見ゆるもあり、或は竜に乗り雲に乗り、或は犀象のたぐいに打乗り、白き装束なるもあり、赤き青 き色々の出立にて、其姿も亦大なるもあり小きもあり、異類異形の仏神空中にみちみちて東西に飛行し玉う。我々も皆外へ出て毎日々々いと有難くおがみたり。 不思議なる事にてまのあたり拝み奉ることよと四五日が程もいいくらすうちに、ある夕暮、沖の方を見やりたるに、真白にして雪の山の如きもの遥に見ゆ。あれ 見よ、又ふしぎなるものの海中に出来たれといううちに、だんだんに近く寄り来りて、近く見えし嶋山の上を打越して来るを見るに大波の打来るなり。すわ津波 こそ、はや逃げよ、と老若男女われさきにと逃迷いしかど、しばしが間に打寄て、民屋田畑草木禽獣まで少しも残らず海底のみくずと成れば、生残る人民、海辺 の村里には一人もなし、扨こそ初に神々の雲中を飛行し給いけるは此大変ある事をしろしめして此地を逃去り給いしなるべしといい合て恐れ侍りぬと語りぬ。」 などという、もったいないような、また夢のような事も、平易の文章でさらさらと書き記されているのである。現在のこの辺の風景に就いては、この際、あまり 具体的に書かぬほうがよいと思われるし、荒唐無稽とは言っても、せめて古人の旅行記など書き写し、そのお伽噺みたいな雰囲気にひたってみるのも一興と思わ れて、実は、東遊記の二三の記事をここに抜書きしたというわけでもあったのだが、ついでにもう一つ、小説の好きな人には殊にも面白く感ぜられるのではある まいかと思われる記事があるから紹介しよう。
「奥州津軽の外ヶ浜に在りし頃、所の役人より丹後の人は居ずやと頻りに吟味せし事あり。いかなるゆえぞと尋ぬるに、津軽の岩城山の神はなはだ丹 後の人を忌嫌う、もし忍びても丹後の人此地に入る時は天気大きに損じて風雨打続き船の出入無く、津軽領はなはだ難儀に及ぶとなり。余が遊びし頃も打続き風 悪しかりければ、丹後の人の入りて居るにやと吟味せしこととぞ。天気あしければ、いつにても役人よりきびしく吟味して、もし入込み居る時は急に送り出すこ ととなり。丹後の人、津軽領の界を出れば、天気たちまち晴て風静に成なり。土俗の、いいならわしにて忌嫌うのみならず、役人よりも毎度改むる事、珍らしき 事なり。青森、三馬屋、そのほか外ヶ浜通り港々、最も甚敷丹後の人を忌嫌う。あまりあやしければ、いかなるわけのありてかくはいう事ぞと委敷尋ね問うに、 当国岩城山の神と云うは、安寿姫出生の地なればとて安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよいて、三庄太夫にくるしめられしゆえ、今に至り、其国の人といえ ば忌嫌いて風雨を起し岩城の神荒れ玉うとなり。外ヶ浜通り九十里余、皆多くは漁猟又は船の通行にて世渡ることなれば、常々最も順風を願う。然るに、差当り たる天気にさわりあることなれば、一国こぞって丹後の人を忌嫌う事にはなりぬ。此説、隣境にも及びて松前南部等にても港々にては多くは丹後人を忌みて送り 出す事なり。かばかり人の恨は深きものにや。」
 へんな話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。丹後の国は、いまの京都府の北部であるが、あの辺の人は、この時代に津軽へ来たら、ひどいめ に遭わなければならなかったわけである。安寿姫と廚子王の話は、私たちも子供の頃から絵本などで知らされているし、また鴎外の傑作「山椒大夫」の事は、小 説の好きな人なら誰でも知っている。けれども、あの哀話の美しい姉弟が津軽の生れで、そうして死後岩木山に祭られているという事は、あまり知られていない ようであるが、実は、私はこれも何だか、あやしい話だと思っているのである。義経が津軽に来たとか、三里の大魚が泳いでいるとか、石の色が溶けて川の水も 魚の鱗も赤いとかということを、平気で書いている南谿氏の事だから、これも或いはれいの「強いて其事の虚実を正さず」式の無責任な記事かも知れない。もっ とも、この安寿廚子王津軽人説は、和漢三才図会の岩城山権現の条にも出ている。三才図会は漢文で少し読みにくいが、「相伝う、昔、当国(津軽)の領主、岩 城判官正氏という者あり。永保元年の冬、在京中、讒者の為に西海に謫せらる。本国に二子あり。姉を安寿と名づく。弟を津志王丸と名づく。母と共にさまよ い、出羽を過ぎ、越後に到り直江の浦云々」などと自信ありげに書き出しているが、おしまいのほうに到って、「岩城と津軽の岩城山とは南北百余里を隔て之を 祭るはいぶかし」とおのずから語るに落ちるような工合になってしまっている。鴎外の「山椒大夫」には、「岩代の信夫郡の住家を出て」と書いている。つまり これは、岩城という字を、「いわき」と読んだり「いわしろ」と読んだりして、ごちゃまぜになって、とうとう津軽の岩木山がその伝説を引受ける事になったの ではないかと思われる。しかし、昔の津軽の人たちは、安寿廚子王が津軽の子供である事を堅く信じ、にっくき山淑大夫を呪うあまりに、丹後の人が入込めば津 軽の天候が悪化するとまで思いつめていたとは、私たち安寿厨子王の同情者にとっては、痛快でない事もないのである。
 外ヶ浜の昔噺は、これ位にしてやめて、さて、私たちのバスはお昼頃、Mさんのいる今別に着いた。今別は前にも言ったように、明るく、近代的と さえ言いたいくらいの港町である。人口も、四千に近いようである。N君に案内されて、Mさんのお家を訪れたが、奥さんが出て来られて、留守です、とおっ しゃる。ちょっとお元気が無いように見受けられた。よその家庭のこのような様子を見ると、私はすぐに、ああ、これは、僕の事で喧嘩をしたんじゃないかな?  と思ってしまう癖がある。当っている事もあるし、当っていない事もある。作家や新聞記者等の出現は、善良の家庭に、とかく不安の感を起させ易いものであ る。その事は、作家にとっても、かなりの苦痛になっている筈である。この苦痛を体験した事のない作家は、馬鹿である。
「どちらへ、いらっしゃったのですか?」とN君はのんびりしている。リュックサックをおろして、「とにかく、ちょっと休ませていただきます。」玄関の式台に腰をおろした。
「呼んでまいります。」
「はあ、すみませんですな。」N君は泰然たるものである。「病院のほうですか?」
「え、そうかと思います。」美しく内気そうな奥さんは、小さい声で言って下駄をつっかけ外へ出て行った。Mさんは、今別の或る病院に勤めているのである。
 私もN君と並んで式台に腰をおろし、Mさんを待った。
「よく、打合せて置いたのかね。」
「うん、まあね。」N君は、落ちついて煙草をふかしている。
「あいにく昼飯時で、いけなかったね。」私は何かと気をもんでいた。
「いや、僕たちもお弁当を持って来たんだから。」と言って澄ましている。西郷隆盛もかくやと思われるくらいであった。
 Mさんが来た。はにかんで笑いながら、
「さ、どうぞ。」と言う。
「いや、そうしても居られないんです。」とN君は腰をあげて、「船が出るようだったら、すぐに船で竜飛まで行きたいと思っているのです。」
「そう。」Mさんは軽く首肯き、「じゃあ、出るかどうか、ちょっと聞いて来ます。」
 Mさんがわざわざ波止場まで聞きに行ってくれたのだが、船はやはり欠航という事であった。
「仕方が無い。」たのもしい私の案内者は別に落胆した様子も見せず、「それじゃ、ここでちょっと休ませてもらって弁当を食べるか。」
「うん、ここで腰かけたままでいい。」私はいやらしく遠慮した。
「あがりませんか。」Mさんは気弱そうに言う。
「あがらしてもらおうじゃないか。」N君は平気でゲートルを解きはじめた。「ゆっくり、次の旅程を考えましょう。」
 私たちはMさんの書斎に通された。小さい囲炉裏があって、炭火がパチパチ言っておこっていた。書棚には本がぎっしりつまっていて、ヴァレリイ全 集や鏡花全集も揃えられてあった。「礼儀文華のいまだ開けざるはもっともの事なり」と自信ありげに断案を下した南谿氏も、ここに到って或いは失神するかも 知れない。
「お酒は、あります。」上品なMさんは、かえってご自分のほうで顔を赤くしてそう言った。
「飲みましょう。」
「いやいや、ここで飲んでは、」と言いかけて、N君は、うふふと笑ってごまかした。
「それは大丈夫。」とMさんは敏感に察して、「竜飛へお持ちになる酒は、また別に取って置いてありますから。」
「ほほ、」とN君は、はしゃいで、「いや、しかし、いまから飲んでは、きょうのうちに竜飛に到着する事が出来なくなるかも、」などと言っているう ちに、奥さんが黙ってお銚子を持って来た。この奥さんは、もとから無口な人なのであって、別に僕たちに対して怒っているのでは無いかも知れない、と私は自 分に都合のいいように考え直し、
「それじゃ酔わない程度に、少し飲もうか。」とN君に向って提案した。
「飲んだら酔うよ。」N君は先輩顔で言って、「きょうは、これあ、三厩泊りかな?」
「それがいいでしょう。きょうは今別でゆっくり遊んで、三厩までだったら歩いて、まあ、ぶらぶら歩いて一時間かな? どんなに酔ってたって楽に行けます。」とMさんもすすめる。きょうは三厩一泊ときめて、私たちは飲んだ。
 私には、この部屋へはいった時から、こだわっていたものが一つあった。それは私が蟹田でつい悪口を言ってしまったあの五十年配の作家の随筆集 が、Mさんの机の上にきちんと置かれている事であった。愛読者というものは偉いもので、私があの日、蟹田の観瀾山であれほど口汚くこの作家を罵倒しても、 この作家に対するMさんの信頼はいささかも動揺しなかったものと見える。
「ちょっと、その本を貸して。」どうも気になって落ちつかないので、とうとう私は、Mさんからその本を借りて、いい加減にぱっと開いて、その箇 所を鵜の目鷹の目で読みはじめた。何かアラを拾って凱歌を挙げたかったのであるが、私の読んだ箇所は、その作家も特別に緊張して書いたところらしく、さす がに打ち込むすきが無いのである。私は、黙って読んだ。一ページ読み、二ページ読み、三ページ読み、とうとう五ページ読んで、それから、本を投げ出した。
「いま読んだところは、少しよかった。しかし、他の作品には悪いところもある。」と私は負け惜しみを言った。
 Mさんは、うれしそうにしていた。
「装釘が豪華だからなあ。」と私は小さい声で、さらに負け惜しみを言った。「こんな上等の紙に、こんな大きな活字で印刷されたら、たいていの文章は、立派に見えるよ。」
 Mさんは相手にせず、ただ黙って笑っている。勝利者の微笑である。けれども私は本心は、そんなに口惜しくもなかったのである。いい文章を読ん で、ほっとしていたのである。アラを拾って凱歌などを奏するよりは、どんなに、いい気持のものかわからない。ウソじゃない。私は、いい文章を読みたい。

本覚寺

 今別には本覚寺という有名なお寺がある。貞伝和尚という偉い坊主が、ここの住職だったので知られているのである。貞伝和尚の 事は、竹内運平氏著の青森県通史にも記載せられてある。すなわち、「貞伝和尚は、今別の新山甚左衛門の子で、早く弘前誓願寺に弟子入して、のち磐城平、専 称寺に修業する事十五年、二十九歳の時より津軽今別、本覚寺の住職となって、享保十六年四十二歳に到る間、其教化する処、津軽地方のみならず近隣の国々に も及び、享保十二年、金銅塔婆建立の供養の時の如きは、領内は勿論、南部、秋田、松前地方の善男善女の雲集参詣を見た」というような事が記されてある。そ のお寺を、これから一つ見に行こうじゃないか、と外ヶ浜の案内者N町会議員は言い出した。
「文学談もいいが、どうも、君の文学談は一般向きでないね。ヘンテコなところがある。だから、いつまで経っても有名にならん。貞伝和尚なんかは ね、」とN君は、かなり酔っていた。「貞伝和尚なんかはね、仏の教えを説くのは後まわしにして、まず民衆の生活の福利増進を図ってやった。そうでもなく ちゃ、民衆なんか、仏の教えも何も聞きやしないんだ。貞伝和尚は、或いは産業を興し、或いは、」と言いかけて、ひとりで噴き出し、「まあ、とにかく行って 見よう。今別へ来て本覚寺を見なくちゃ恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りなんだ。そう言いながら、実は、僕もまだ見ていないんだ。いい機会だから、きょう は見に行きたい。みんなで一緒に見に行こうじゃないか。」
 私は、ここで飲みながらMさんと、所謂ヘンテコなところのある文学談をしていたかった。Mさんも、そうらしかった。けれども、N君の貞伝和尚に対する情熱はなかなかのもので、とうとう私たちの重い尻を上げさせてしまった。
「それじゃ、その本覚寺に立寄って、それからまっすぐに三厩まで歩いて行ってしまおう。」
 私は玄関の式台に腰かけてゲートルを巻き付けながら、「どうです、あなたも。」と、Mさんを誘った。
「はあ、三厩までお供させていただきます。」
「そいつあ有難い。この勢いじゃ、町会議員は今夜あたり、三厩の宿で蟹田町政に就いて長講一席やらかすんじゃないかと思って、実は、憂鬱だったんです。あなたが付合ってくれると、心強い。奥さん、御主人を今夜、お借りします。」
「はあ。」とだけ言って、微笑する。少しは慣れた様子であった。いや、あきらめたのかも知れない。
 私たちはお酒をそれぞれの水筒につめてもらって、大陽気で出発した。そうして途中も、N君は、テイデン和尚、テイデン和尚、と言い、頗るうるさ かったのである。お寺の屋根が見えて来た頃、私たちは、魚売の小母さんに出会った。曳いているリヤカーには、さまざまのさかなが一ぱい積まれている。私は 二尺くらいの鯛を見つけて、
「その鯛は、いくらです。」まるっきり見当が、つかなかった。
「一円七十銭です。」安いものだと思った。
 私は、つい、買ってしまった。けれども、買ってしまってから、仕末に窮した。これからお寺へ行くのである。二尺の鯛をさげてお寺へ行くのは奇怪の図である。私は途方にくれた。
「つまらんものを買ったねえ。」とN君は、口をゆがめて私を軽蔑した。「そんなものを買ってどうするの?」
「いや、三厩の宿へ行って、これを一枚のままで塩焼きにしてもらって、大きいお皿に載せて三人でつつこうと思ってね。」
「どうも、君は、ヘンテコな事を考える。それでは、まるでお祝言か何かみたいだ。」
「でも、一円七十銭で、ちょっと豪華な気分にひたる事も出来るんだから、有難いじゃないか。」
「有難かないよ。一円七十銭なんて、この辺では高い。実に君は下手な買い物をした。」
「そうかねえ。」私は、しょげた。
 とうとう私は二尺の鯛をぶらさげたまま、お寺の境内にはいってしまった。
「どうしましょう。」と私は小声でMさんに相談した。「弱りました。」
「そうですね。」Mさんは真面目な顔して考えて、「お寺へ行って新聞紙か何かもらって来ましょう。ちょっと、ここで待っていて下さい。」
 Mさんはお寺の庫裏のほうに行き、やがて新聞紙と紐を持って来て、問題の鯛を包んで私のリュックサックにいれてくれた。私は、ほっとして、お寺の山門を見上げたりなどしたが、別段すぐれた建築とも見えなかった。
「たいしたお寺でもないじゃないか。」と私は小声でN君に言った。
「いやいや、いやいや。外観よりも内容がいいんだ。とにかく、お寺へはいって坊さんの説明でも聞きましょう。」
 私は気が重かった。しぶしぶN君の後について行ったが、それから、実にひどいめに会った。お寺の坊さんはお留守のようで、五十年配のおかみさん らしいひとが出て来て、私たちを本堂に案内してくれて、それから、長い長い説明がはじまった。私たちは、きちんと膝を折って、かしこまって拝聴していなけ ればならぬのである。説明がちょっと一区切ついて、やれうれしやと立上ろうとすると、N君は膝をすすめて、
「しからば、さらにもう一つお尋ねいたしますが、」と言うのである。「いったい、このお寺はテイデン和尚が、いつごろお作りになったものなのでしょうか。」
「何をおっしゃっているのです。貞伝上人様はこのお寺を御草創なさったのではございませんよ。貞伝上人様は、このお寺の中興開山、五代目の上人様でございまして、──」と、またもや長い説明が続く。
「そうでしたかな。」とN君は、きょとんとして、「しからば、さらにお尋ねいたしますが、このテイザン和尚は、」テイザン和尚と言った。まったく滅茶苦茶である。
 N君は、ひとり熱狂して膝をすすめ膝をすすめ、ついにはその老婦人の膝との間隔が紙一重くらいのところまで進出して、一問一答をつづけるのである。そろそろ、あたりが暗くなって来て、これから三厩まで行けるかどうか、心細くなって来た。
「あそこにありまする大きな見事な額は、その大野九郎兵衛様のお書きになった額でございます。」
「さようでございますか。」とN君は感服し、「大野九郎兵衛様と申しますと、─」
「ご存じでございましょう。忠臣義士のひとりでございます。」忠臣義士と言ったようである。「あのお方は、この土地でおなくなりになりまして、お なくなりになったのは、四十二歳、たいへん御信仰の厚いお方でございましたそうで、このお寺にもたびたび莫大の御寄進をなされ、─」
 Mさんはこの時とうとう立ち上り、おかみさんの前に行って、内ポケットから白紙に包んだものを差出し、黙って丁寧にお辞儀をしてそれからN君に向って、
「そろそろ、おいとまを。」と小さい声で言った。
「はあ、いや、帰りましょう。」とN君は鷹揚に言い、「結構なお話を承りました。」とおかみさんにおあいそを言って、ようやく立ち上ったのであるが、あとで聞いてみると、おかみさんの話を一つも記憶していないという。私たちは呆れて、
「あんなに情熱的にいろんな質問を発していたじゃないか。」と言うと、
「いや、すべて、うわのそらだった。何せ、ひどく酔ってたんだ。僕は君たちがいろいろ知りたいだろうと思って、がまんして、あのおかみの話相手になってやっていたんだ。僕は犠牲者だ。」つまらない犠牲心を発揮したものである。
 三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけていた。表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらい上等である。部屋から、すぐ海が見える。小雨が降りはじめて、海は白く凪いでいる。
「わるくないね。鯛もあるし、海の雨を眺めながら、ゆっくり飲もう。」私はリュックサックから鯛の包みを出して、女中さんに渡し、「これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持って来て下さい。」
 この女中さんは、あまり利巧でないような顔をしていて、ただ、はあ、とだけ言って、ぼんやりその包を受取って部屋から出て行った。
「わかりましたか。」N君も、私と同様すこし女中さんに不安を感じたのであろう。呼びとめて念を押した。「そのまま塩焼きにするんですよ。三人だ からと言って、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに、三等分の必要はないんですよ。わかりましたか。」N君の説明も、あまり上手とは言えなかっ た。女中さんは、やっぱり、はあ、と頼りないような返事をしただけであった。
 やがてお膳が出た。鯛はいま塩焼にしています、お酒はきょうは無いそうです、とにこりともせずに、れいの、利巧そうでない女中さんが言う。
「仕方が無い。持参の酒を飲もう。」
「そういう事になるね。」とN君は気早く、水筒を引寄せ、「すみませんがお銚子を二本と盃を三つばかり。」
 ことさらに三つとは限らないか、などと冗談を言っているうちに、鯛が出た。ことさらに三つに切らなくてもいいというN君の注意が、実に馬鹿々々 しい結果になっていたのである。頭も尾も骨もなく、ただ鯛の切身の塩焼きが五片ばかり、何の風情も無く白茶けて皿に載っているのである。私は決して、たべ ものにこだわっているのではない。食いたくて、二尺の鯛を買ったのではない。読者は、わかってくれるだろうと思う。私はそれを一尾の原形のままで焼いても らって、そうしてそれを大皿に載せて眺めたかったのである。食う食わないは主要な問題でないのだ。私は、それを眺めながらお酒を飲み、ゆたかな気分になり たかったのである。ことさらに三つに切らなくてもいい、というN君の言い方もへんだったが、そんなら五つに切りましょうと考えるこの宿の者の無神経が、癪 にさわるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思いであった。
「つまらねえ事をしてくれた。」お皿に愚かしく積まれてある五切れのやきざかな(それはもう鯛では無い、単なる、やきざかなだ)を眺めて、私 は、泣きたく思った。せめて、刺身にでもしてもらったのなら、まだ、あきらめもつくと思った。頭や骨はどうしたろう。大きい見事な頭だったのに、捨て ちゃったのかしら。さかなの豊富な地方の宿は、かえって、さかなに鈍感になって、料理法も何も知りやしない。
「怒るなよ、おいしいぜ。」人格円満のN君は、平気でそのやきざかなに箸をつけて、そう言った。
「そうかね。それじゃ、君がひとりで全部たべたらいい。食えよ。僕は、食わん。こんなもの、馬鹿々々しくって食えるか。だいたい、君が悪いんだ。 ことさらに三等分の必要は無い、なんて、そんな蟹田町会の予算総会で使うような気取った言葉で注釈を加えるから、あの間抜けの女中が、まごついてしまった んだ。君が悪いんだ。僕は、君を、うらむよ。」
 N君はのんきに、うふふと笑い、
「しかし、また、愉快じゃないか。三つに切ったりなどしないように、と言ったら、五つに切った。しゃれている。しゃれているよ、ここの人は。さあ、乾盃。乾盃、乾盃。」
 私は、わけのわからぬ乾盃を強いられ、鯛の鬱憤のせいか、ひどく酩酊して、あやうく乱に及びそうになったので、ひとりでさっさと寝てしまった。いま思い出しても、あの鯛は、くやしい。だいたい、無神経だ。
 翌る朝、起きたら、まだ雨が降っていた。下へ降りて、宿の者に聞いたら、きょうも船は欠航らしいという事であった。竜飛まで海岸伝いに歩いて行 くより他は無い。雨のはれ次第、思い切って、すぐ出発しようという事になり、私たちは、また蒲団にもぐり込んで雑談しながら雨のはれるのを待った。
「姉と妹とがあってね、」私は、ふいとそんなお伽噺をはじめた。姉と妹が、母親から同じ分量の松毬を与えられ、これでもって、ごはんとおみおつ けを作って見よと言いつけられ、ケチで用心深い妹は、松毬を大事にして一個ずつ竈にほうり込んで燃やし、おみおつけどころか、ごはんさえ満足に煮ることが 出来なかった。姉はおっとりして、こだわらぬ性格だったので、与えられた松毬をいちどにどっと惜しげも無く竈にくべたところが、その火で楽にごはんが出 来、そうして、あとに燠が残ったので、その燠で、おみおつけも出来た。「そんな話、知ってる? ね、飲もうよ。竜飛へ持って行くんだって、ゆうべ、もう一 つの水筒のお酒、残して置いたろう? あれ、飲もうよ。ケチケチしてたって仕様が無いよ。こだわらずに、いちどにどっとやろうじゃないか。そうすると、あ とに燠が残るかも知れない。いや、残らなくてもいい。竜飛へ行ったら、また、何とかなるさ。何も竜飛でお酒を飲まなくたって、いいじゃないか。死ぬわけ じゃあるまいし。お酒を飲まずに寝て、静かに、来しかた行く末を考えるのも、わるくないものだよ。」
「わかった、わかった。」N君は、がばと起きて、「万事、姉娘式で行こう。いちどにどっと、やってしまおう。」
 私たちは起きて囲炉裏をかこみ、鉄瓶にお燗をして、雨のはれるのを待ちながら、残りのお酒を全部、飲んでしまった。
 お昼頃、雨がはれた。私たちは、おそい朝飯をたべ、出発の身仕度をした。うすら寒い曇天である。宿の前で、Mさんとわかれ、N君と私は北に向って発足した。
「登って見ようか。」N君は、義経寺の石の鳥居の前で立ちどまった。松前の何某という鳥居の寄進者の名が、その柱に刻み込まれていた。
「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐって、石の段々を登った。頂上まで、かなりあった。石段の両側の樹々の梢から雨のしずくが落ちて来る。
「これか。」
 石段を登り切った小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立っている。堂の扉には、笹竜胆の源家の紋が付いている。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、
「これか。」と、また言った。
「これだ。」N君は間抜けた声で答えた。

義経寺堂屋

 むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給いしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたえかねて、 所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かわり恙なく松前の地に渡り給いぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音という。
 れいの「東遊記」で紹介せされているのは、この寺である。
 私たちは無言で石段を降りた。
「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだろう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかという話だ。」N君はそう言って、力無く笑った。私は信じたいと思ったが、駄目であった。鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまた曰く、
「波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給いし所となり。是によりて此地を三馬屋と称するなりとぞ。」
 私たちはその巨岩の前を、ことさらに急いで通り過ぎた。故郷のこのような伝説は、奇妙に恥ずかしいものである。

三馬屋

「これは、きっと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠そうそれがしは九郎判官、してまたこれなる髯男は 武蔵坊弁慶、一夜の宿をたのむぞ、なんて言って、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違いない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけじゃな く、江戸時代になっても、そんな義経と弁慶が、うろついていたのかも知れない。」
「しかし、弁慶の役は、つまらなかったろうね。」N君は私よりも更に鬚が濃いので、或いは弁慶の役を押しつけられるのではなかろうかという不安を感じたらしかった。「七つ道具という重いものを背負って歩かなくちゃいけないのだから、やっかいだ。」
 話しているうちに、そんな二人の不良青年の放浪生活が、ひどく楽しかったもののように空想せられ、うらやましくさえなって来た。
「この辺には、美人が多いね。」と私は小声で言った。通り過ぎる部落の、家の陰からちらと姿を見せてふっと消える娘さんたちは、みな色が白く、みなりも小ざっぱりして、気品があった。手足が荒れていない感じなのである。
「そうかね。そう言えば、そうだね。」N君ほど、女にあっさりしている人も少い。ただ、もっぱら、酒である。
「まさか、いま、義経だと言って名乗ったって、信じないだろうしね。」私は馬鹿な事を空想していた。
 はじめは、そんなたわいない事を言い合って、ぶらぶら歩いていたのだが、だんだん二人の歩調が早くなって来た。まるで二人で足早を競っているみ たいな形になって、そうして、めっきり無口になった。三厩の酒の酔いが醒めて来たのである。ひどく寒い。いそがざるを得ないのである。私たちは、共に厳粛 な顔になって、せっせと歩いた。浜風が次第に強くなって来た。私は帽子を幾度も吹き飛ばされそうになって、その度毎に、帽子の鍔をぐっと下にひっぱり、と うとうスフの帽子の鍔の付根が、びりりと破れてしまった。雨が時々、ぱらぱら降る。真黒い雲が低く空を覆っている。波のうねりも大きくなって来て、海岸伝 いの細い路を歩いている私たちの頬にしぶきがかかる。
「これでも、道がずいぶんよくなったのだよ。六、七年前は、こうではなかった。波のひくのを待って素早く通り抜けなければならぬところが幾箇処もあったのだからね。」
「でも、いまでも、夜は駄目だね。とても、歩けまい。」
「そう、夜は駄目だ。義経でも弁慶でも駄目だ。」
 私たちは真面目な顔をしてそんな事を言い、尚もせっせと歩いた。
「疲れないか。」N君は振返って言った。「案外、健脚だね。」
「うん、未だ老いずだ。」
 二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなって来た。凄愴とでもいう感じである。それは、もはや、風景でなかった。風景という ものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、言わば、人間の目で舐められて軟化し、人間に飼われてなついてしまって、高さ三十五丈の華厳の滝に でも、やっぱり檻の中の猛獣のような、人くさい匂いが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間 の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なってやしない。点景人物の存在もゆるさない。強いて、点景人物を置こうと すれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。むらさきのジャンパーを着たにやけ男などは、一も二も無くはねかえされてしまう。絵 にも歌にもなりゃしない。ただ岩石と、水である。ゴンチャロフであったか、大洋を航海して時化に遭った時、老練の船長が、「まあちょっと甲板に出てごらん なさい。この大きい波を何と形容したらいいのでしょう。あなたがた文学者は、きっとこの波に対して、素晴らしい形容詞を与えて下さるに違いない。」ゴン チャロフは、波を見つめてやがて、溜息をつき、ただ一言、「おそろしい。」
 大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思い浮ばないのと同様に、この本州の路のきわまるところの岩石や水も、ただ、お そろしいばかりで、私はそれらから目をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。もう三十分くらいで竜飛に着くという頃に、私は幽かに笑い、
「こりゃどうも、やっぱりお酒を残して置いたほうがよかったね。竜飛の宿に、お酒があるとは思えないし、どうもこう寒くてはね。」と思わず愚痴をこぼした。
「いや、僕もいまその事を考えていたんだ。も少し行くと、僕の昔の知合いの家があるんだが、ひょっとするとそこに配給のお酒があるかも知れない。そこは、お酒を飲まない家なんだ。」
「当ってみてくれ。」
「うん、やっぱり酒が無くちゃいけない。」
 竜飛の一つ手前の部落に、その知合いの家があった。N君は帽子を脱いでその家へはいり、しばらくして、笑いを噛み殺しているような顔をして出て来て、
「悪運つよし。水筒に一ぱいつめてもらって来た。五合以上はある。」
「燠が残っていたわけだ。行こう。」
 もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るようにして竜飛に向って突進した。路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。
「竜飛だ。」とN君が、変った調子で言った。
「ここが?」落ちついて見回すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりに なって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてい るのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ 浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのであ る。

龍飛

「誰だって驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはいってしまった、と思ってひやりとしたからね。」とN君も言っていた。
 けれども、ここは国防上、ずいぶん重要な土地である。私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければならぬ。露路をとおって私たちは旅館 に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と目をみはるほど小綺麗で、そうして普請も決して薄っぺらでない。 まず、どてらに着換えて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて座り、やっと、どうやら、人心地を取かえした。

奥谷旅館

「ええと、お酒はありますか。」N君は、思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答えは、案外であった。
「へえ、ございます。」おもながの、上品な婆さんである。そう答えて、平然としている。N君は苦笑して、
「いや、おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」
「どうぞ、ナンボでも。」と言って微笑んでいる。
 私たちは顔を見合せた。このお婆さんは、このごろお酒が貴重品になっているという事実を、知らないのではなかろうかとさえ疑われた。
「きょう配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて、」と言って、集めるような手つきをして、それから一升瓶をたくさんかかえるように腕をひろげて、「さっき内の者が、こんなに一ぱい持ってまいりました。」
「それくらいあれば、たくさんだ。」と私は、やっと安心して、「この鉄瓶でお燗をしますから、お銚子にお酒をいれて、四、五本、いや、めんどうく さい、六本、すぐに持って来て下さい。」お婆さんの気の変らぬうちに、たくさん取寄せて置いたほうがいいと思った。「お膳は、あとでもいいから。」
 お婆さんは、言われたとおりに、お盆へ、お銚子を六本載せて持って来た。一、二本、飲んでいるうちにお膳も出た。
「どうぞ、まあ、ごゆっくり。」
「ありがとう。」
 六本のお酒が、またたく間に無くなった。
「もう無くなった。」私は驚いた。「ばかに早いね。早すぎるよ。」
「そんなに飲んだかね。」とN君も、いぶかしそうな顔をして、からのお銚子を一本ずつ振って見て、「無い。何せ寒かったもので、無我夢中で飲んだらしいね。」
「どのお銚子にも、こぼれるくらい一ぱいお酒がはいっていたんだぜ。こんなに早く飲んでしまって、もう六本なんて言ったら、お婆さんは僕たちを化 物じゃないかと思って警戒するかも知れない。つまらぬ恐怖心を起させて、もうお酒はかんべんして下さいなどと言われてもいけないから、ここは、持参の酒を お燗して飲んで、少し間をもたせて、それから、もう六本ばかりと言ったほうがよい。今夜は、この本州の北端の宿で、一つ飲み明かそうじゃないか。」と、へ んな策略を案出したのが失敗の基であった。
 私たちは、水筒のお酒をお銚子に移して、こんどは出来るだけゆっくり飲んだ。そのうちにN君は、急に酔って来た。
「こりゃいかん。今夜は僕は酔うかも知れない。」酔うかも知れないじゃない。既にひどく酔ってしまった様子である。「こりゃ、いかん。今夜は、僕は酔うぞ。いいか。酔ってもいいか。」
「かまわないとも。僕も今夜は酔うつもりだ。ま、ゆっくりやろう。」
「歌を一つやらかそうか。僕の歌は、君、聞いた事が無いだろう。めったにやらないんだ。でも、今夜は一つ歌いたい。ね、君、歌ってもいいだろう。」
「仕方がない。拝聴しよう。」私は覚悟をきめた。
 いくう、山河あ、と、れいの牧水の旅の歌を、N君は目をつぶって低く吟じはじめた。想像していたほどは、ひどくない。黙って聞いていると、身にしみるものがあった。
「どう? へんかね。」
「いや、ちょっと、ほろりとした。」
「それじゃ、もう一つ。」
 こんどは、ひどかった。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になったのか、仰天するほどのおそろしい蛮声を張り上げた。
 とうかいのう、小島のう、磯のう、と、啄木の歌をはじめたのだが、その声の荒々しく大きい事、外の風の音も、彼の声のために打消されてしまったほどであった。
「ひどいなあ。」と言ったら、
「ひどいか。それじゃ、やり直し。」大きく深呼吸を一つして、さらに蛮声を張り上げるのである。東海の磯の小島、と間違って歌ったり、また、どう いうわけか突如として、今もまた昔を書けば増鏡、なんて増鏡の歌が出たり、呻くが如く、喚くが如く、おらぶが如く、実にまずい事になってしまった。私は、 奥のお婆さんに聞えなければいいが、とはらはらしていたのだが、果せる哉、襖がすっとあいて、お婆さんが出て来て、
「さ、歌コも出たようだし、そろそろ、お休みになりせえ。」と言って、お膳をさげ、さっさと蒲団をひいてしまった。さすがに、N君の気宇広大の 蛮声には、度胆を抜かれたものらしい。私はまだまだ、これから、大いに飲もうと思っていたのに、実に、馬鹿らしい事になってしまった。
「まずかった。歌は、まずかった。一つか二つでよせばよかったのだ。あれじゃあ、誰だっておどろくよ。」と私は、ぶつぶつ不平を言いながら、泣寝入りの形であった。
 翌る朝、私は寝床の中で、童女のいい歌声を聞いた。翌る日は風もおさまり、部屋には朝日がさし込んでいて、童女が表の路で手毬歌を歌っているのである。私は、頭をもたげて、耳をすました。
  せッせッせ
  夏もちかづく
  八十八夜
  野にも山にも
  新緑の
  風に藤波
  さわぐ時
 私は、たまらない気持になった。いまでも中央の人たちに蝦夷の土地と思い込まれて軽蔑されている本州の北端で、このような美しい発音の爽やかな 歌を聞こうとは思わなかった。かの佐藤理学士の言説の如く、「人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まず文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられ たあの鬱勃たる台頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまこと に神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教 化の御光を与え、而して、いまや見よ云々。」というような、希望に満ちた曙光に似たものを、その可憐な童女の歌声に感じて、私はたまらない気持であった。

  四 津軽平野

「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田(今の秋田)渟代(今の能 代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連石布、蝦夷を以て唐の天子に示す。 随行の官人、伊吉連博徳、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云わく、類に三種あり近きを熟蝦夷、次を麁蝦夷、遠きを都加留と名くと。其他の蝦夷は、おのずか ら別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の将軍藤原保則、乱を平げて津軽より渡島に至り、雑 種の夷人前代未だ嘗て帰付せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽の陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の下に付せし以来の 事なるべし。
「青森県沿革」本県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といい、明治の初年には此地に弘前・黒石・ 八戸・七戸および斗南の五藩ありしが、明治四年七月列藩を廃して悉く県となし、同年九月府県廃合の事あり。一時みな弘前県に合併せしが、同年十一月弘前県 を廃し、青森県を置き、前記の各藩を以て其管下とせしも、後二戸郡を岩手県に付し、以て今日に到れり。
「津軽氏」藤原氏より出でたる氏。鎮守府将軍秀郷より八世秀栄、康和の頃陸奥津軽郡の地を領し、後に津軽十三の湊に城きて居り、津軽を氏とす。明応年中、近衛尚通の子政信、家を継ぐ。政信の孫為信に到りて大に著わる。其子孫わかれて弘前・黒石の旧藩主たりし諸家等となる。
「津軽為信」戦国時代の武将。父は大浦甚三郎守信、母は堀越城主武田重信の女なり。天文十九年正月生る。幼名扇。永禄十年三月、十八歳の時、伯父 津軽為則の養子となり、近衛前久の猶子となれり。妻は為則の女なり。元亀二年五月、南部高信と戦いこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畑顕村を 伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑を略し、十三年には凡そ津軽を一統し、十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還 る。十七年、鷹、馬等を秀吉に贈り好を通ず。されば十八年の小田原征伐にも早く秀吉の軍に応じたりしを以て、津軽及合浦・外ヶ浜一円を安堵せり。十九年の 九戸乱にも兵を出し、文禄二年四月上洛して秀吉に謁し、又近衛家に謁え、牡丹花の徽章を用うるを許さる。尋で使を肥前名護屋に遣わし、秀吉の陣を犒い、三 年正月には従四位下右京大夫となり、慶長五年関ヶ原の役には、兵を出して徳川家康の軍に従い、西上して大垣に戦い、上野国大館二千石を加増す。十二年十二 月五日、京都にて卒す。年五十八。
「津軽平野」陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を限とし、南 は羽後境の矢立峠・立石越等により分水線を画し、西は岩木山塊と海岸一帯の砂丘(・nbsp;風山と称す)に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南よ り来る平川及び東より来る浅瀬石川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に入る。平野の広袤、南北約十五里、東西の幅約五里、北する に随って幅は縮小し、木造・五所川原の線にて三里、十三潟の岸に到れば僅かに一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野 より出ず。
                        (以上、日本百科大辞典に拠る)
 津軽の歴史は、あまり人に知られていない。陸奥も青森県も津軽と同じものだと思っている人さえあるようである。無理もない事で、私たちの学校で 習った日本歴史の教科書には、津軽という名詞が、たった一箇所に、ちらと出ているだけであった。すなわち、阿倍比羅夫の蝦夷討伐のところに、「孝徳天皇が 崩ぜられて、斉明天皇がお立ちになるや、中大兄皇子は、引続き皇太子として政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた」 というような文章があって、津軽の名前も出て来るが、本当にもう、それっきり、小学校の教科書にも、また中学校の教科書にも、高等学校の講義にも、その比 羅夫のところの他には津軽なんて名前は出て来ない。皇紀五百七十三年の四道将軍の派遣も、北方は今の福島県あたり迄だったようだし、それから約二百年後の 日本武尊の蝦夷御平定も北は日高見国までのようで、日高見国というのは今の宮城県の北部あたりらしく、それから約五百五十年くらい経って大化改新があり、 阿倍比羅夫の蝦夷征伐に依って、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それっ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市付近)秋田城(今の秋田市)を築 いて蝦夷を鎮められたと伝えられているだけで津軽の名前はも早や出て来ない。平安時代になって、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆 沢城(今の岩手県水沢町付近)を築いて鎮所となしたとあるが、津軽まではやって来なかったようである。その後、弘仁年間には文室綿麻呂の遠征があり、また 元慶二年には出羽蝦夷の叛乱があり藤原保則その平定に赴き、その叛乱には津軽蝦夷も荷担していたとかいう事であるが、専門家でもない私たちは、蝦夷征伐と いえば田村麻呂、その次には約二百五十年ばかり飛んで源平時代初期の、前九年後三年の役を教えられているばかりである。この前九年後三年の役だって、舞台 は今の岩手県・秋田県であって、安倍氏清原氏などの所謂熟蝦夷が活躍するばかりで、都加留などという奥地の純粋の蝦夷の動静に就いては、私たちの教科書に は少しも記されていなかった。それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依って奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科 書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちょっと立って裾をはたいて座り直したというだけの形で、薩長土の各藩に於けるが如き積 極性は認められない。まあ、大過なく時勢に便乗した、と言われても、仕方の無いようなところがある。結局、もう、何も無い。私たちの教科書、神代の事は申 すもかしこし、神武天皇以来現代まで、阿倍比羅夫ただ一個所に於いて「津軽」の名前を見つける事が出来るだけだというのは、まことに心細い。いったい、そ の間、津軽では何をしていたのか。ただ、裾をはたいて座り直し、また裾をはたいて座り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、目をぱちくりさせていただ けの事なのか。いやいやそうではないらしい。ご当人に言わせると、「こう見えても、これでなかなか忙がしくてねえ。」というようなところらしい。
「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であった。名義は『道の奥』で、略され て『みちのく』となった。その『みち』の国の名を、古い地方音によって『むつ』と発音し、『むつ』の国となった。この地方は東海東山両道の末をうけて、一 番奥にある異民族住居の国であったから、漠然と道の奥と呼んだに他ならぬ。漢字『陸』は『道』の義である。
 次に出羽は『いでは』で、出端の義と解せられる。古は本州中部から東北の日本海方面地方を、漠然と越の国と呼んだ。これも奥の方は、陸奥と同 じく、久しく異民族住居の化外の地で、これを出端と言ったのであろう。即ち太平洋方面なる陸奥と共に、もと久しく王化の外に置かれた僻陬であったことを、 その名に示している。」というのは、喜田博士の解説であるが、簡明である。解説は簡単で明瞭なるに越した事はない。出羽奥州すでに化外の僻陬と見なされて いたのだから、その極北の津軽半島などに到っては熊や猿の住む土地くらいに考えられていたかも知れない。喜田博士は、さらに奥羽の沿革を説き、「頼朝の奥 羽平定以後と雖も、その統治に当り自然他と同一なること能わず、『出羽陸奥に於いては夷の地たるによりて』との理由のもとに、一旦実施しかけた田制改革の 処分をも中止して、すべて秀衡、泰衡の旧規に従うべきことを命ずるのやむを得ざる程であった。随って最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存する もの多く、直接鎌倉武士を以てしては、これを統治し難い事情があったと見えて、土豪安東氏を代官に任じ、蝦夷管領としてこれを鎮撫せしめた」というような 事を記している。この安東氏の頃あたりから、まあ、少しは津軽の事情もわかって来る。その前は、何が何やら、アイヌがうろうろしていただけの事かも知れな い。しかし、このアイヌは、ばかに出来ない。所謂日本の先住民族の一種であるが、いま北海道に残ってしょんぼりしているアイヌとは、根本的にたちが違って いたものらしい。その遺物遺跡を見るに、世界のあらゆる石器時代の土器に比して優位をしめている程であるとも言われ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから 北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随って石器時代にも、奥羽地方の同族に見るが如き発達を遂げるに到らず、殊に近世は、 松前藩以来、内地人の圧迫を被ること多く、甚しく去勢されて、堕落の極に達しているのに反し、奥羽のアイヌは、溌剌と独自の文化を誇り、或いは内地諸国に 移住し、また内地人も奥羽へ盛んに入り込んで来て、次第に他の地方と区別の無い大和民族になってしまった。それに就いて理学博士小川琢治氏も、次のように 論断しているようである。「続日本紀には奈良朝前後に粛慎人及び渤海人が、日本海を渡って来朝した記載がある。そのうち特に著しいのは聖武天皇の天平十八 年(一四〇六年)及び光仁天皇の宝亀二年(一四三一年)の如く渤海人千余人、つぎに三百余人の多人数が、それぞれ今の秋田地方に来着した事実で、満州地方 と交通が頗る自由に行われたのは想像し難くない。秋田付近から五銖銭が出土したことがあり、東北には漢文帝武帝を祀った神社があったらしいのは、いずれも 直接の交通が大陸とこの地方との間に行われたことを推測せしめる。今昔物語に、安倍頼時が満州に渡って見聞したことを載せたのは、これらの考古学及び土俗 学上の資料と併せ考えて、決して一場の説話として捨てるべきものでない。われわれは、更に一歩を進めて、当時の東北蕃族は皇化東漸以前に、大陸との直接の 交通に依って得たる文華の程度が、不充分なる中央に残った史料から推定する如く、低級ではなかったことを同時に確信し得られるのである。田村麻呂、頼義、 義家などの武将が、これを綏服するに頗る困難であったのも、敵手が単に無知なるがために精悍なる台湾生蕃の如き土族でなかったと考えて、はじめて氷解する のである。」
 そうして、小川博士は、大和朝廷の大官たちが、しばしば蝦夷、東人、毛人などと名乗ったのは、一つには、奥羽地方人の勇猛、またはその異国的 なハイカラな情緒にあやかりたいという意味もあったのではなかろうかと考えてみるのも面白いではないか、というような事も言い添えている。こうして見る と、津軽人の祖先も、本州の北端で、決してただうろうろしていたわけでは無かったようでもあるが、けれども、中央の歴史には、どういうものか、さっぱり出 て来ない。わずかに、前述の安東氏あたりから、津軽の様子が、ほのかに分明して来る。喜田博士の曰く、「安東氏は自ら安倍貞任の子高星の後と称し、その遠 祖は長髄彦の兄安日なりと言っている。長髄彦、神武天皇に抗して誅せられ、兄安日は奥州外ヶ浜に流されて、その子孫安倍氏となったというのである。いずれ にしても鎌倉時代以前よりの、北奥の大豪族であったに相違ない。津軽に於いて、口三郡は鎌倉役であり、奥三郡は御内裏様御領で、天下の御帳に載らざる無役 の地だったと伝えられているのは、鎌倉幕府の威力もその奥地に及ばず、安東氏の自由に委して、謂わゆる守護不入の地となっていたことを語ったものであろ う。
 鎌倉時代の末、津軽に於いて安東氏一族の間に内訌あり、遂に蝦夷の騒乱となるに到って、幕府の執権北条高時、将を遣わしてこれを鎮撫せしめたが、鎌倉武士の威力を以てしてこれに勝つ能わず、結局和談の儀を以て引き上げたとある。」
 さすがの喜田博士も津軽の歴史を述べるに当っては、少し自信のなさそうな口振りである。まったく、津軽の歴史は、はっきりしないらしい。ただ、 この北端の国は、他国と戦い、負けた事が無いというのは本当のようだ。服従という観念に全く欠けていたらしい。他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振り をして勝手に振舞わせていたらしい。昭和文壇に於ける誰かと似ている。それはともかく、他国が相手にせぬので、仲間同志で悪口を言い合い格闘をはじめる。 安東氏一族の内訌に端を発した津軽蝦夷の騒擾などその一例である。津軽の人、竹内運平氏の青森県通史に拠れば、「この安東一族の騒乱は、引いて関八州の騒 動となり、所謂北条九代記の『是ぞ天地の命の革むべき危機の初め』となってやがては元弘の変となり、建武の中興となった」とあるが、或いはその御大業の遠 因の一つに数えられてしかるべきものかも知れない。まことならば、津軽が、ほんの少しでも中央の政局を動かしたのは、実にこれ一つという事になって、この 安東氏一族の内訌は、津軽の歴史に特筆大書すべき光栄ある記録とでも言わなければならなくなる。いまの青森県の太平洋寄りの地方は古くから糠部と称する蝦 夷地であったが、鎌倉時代以後、ここに甲州武田氏の一族南部氏が移り住み、その勢い頗る強大となり、吉野、室町時代を経て、秀吉の全国統一に到るまで、津 軽はこの南部と争い、津軽に於いては安東氏のかわりに津軽氏が立ち、どうやら津軽一国を安堵し、津軽氏は十二代つづいて、明治維新、藩主承昭は藩籍を謹ん で奉還したというのが、まあ、津軽の歴史の大略である。この津軽氏の遠祖に就いては諸説がある。喜田博士もそれに触れて、「津軽に於いては、安東氏没落 し、津軽氏独立して南部氏と境を接して長く相敵視するの間柄となった。津軽氏は近衛関白尚通の後裔と称している。しかし一方では南部氏の分れであるとい い、或いは藤原基衡の次男秀栄の後だとも、或いは安東氏の一族であるかの如くにも伝え、諸説紛々適従するところを知らぬ。」と言っている。また、竹内運平 氏もその事に就いて次のように述べている。「南部家と津軽家とは江戸時代を通じ、著しく感情の疎隔を有しつつ終始した。右の原因は、南部氏が津軽家を以て 祖先の敵であり旧領を押領せるものと見做す事、及び津軽家はもと南部の一族であり、被官の地位にあったのに其主に背いたと称し、また一方、津軽家にては、 わが遠祖は藤原氏であり、中世に於いても近衛家の血統の加われるものである、と主張する事等から起って居るらしい。勿論、事実に於いて南部高信は津軽為信 のために亡ぼされ、津軽郡中の南部方の諸城は奪取せられて居るのみならず、為信数代の祖大浦光信の母は、南部久慈備前守の女であり、以後数代南部信濃守と 称して居る家柄であったから、南部氏の津軽家に対し一族の裏切者として深怨を含んで居る事も無理のない事と思う。なお、津軽家はその遠祖を藤原、近衛家な どに求めているが、現在より見ては、必ずしも吾等を首肯せしむる根本証拠を伴うて居るものではない。南部氏に非ず、との弁護の立場を取って居る可足記の如 きも、甚だ力弱い論旨を示して居る。古くは津軽に於いても高屋家記の如きは、大浦氏を以て南部家の支族とし、木立日記にも『南部様津軽様御家は御一体な り』と云い、近来出版になった読史備要等も為信を久慈氏(南部氏一族)として居る事に対し、それを否定すべき確実なる資料は、今のところ無いように思う。 しかし津軽には過去にこそ南部の血統もあり、また被官ではあっても、血統の他の一面にはどんな由緒のものもないとは云えない。」と喜田博士同様、断乎たる 結論は避けている。それを簡明直截に疑わず規定しているのは、日本百科大辞典だけであったから、一つの参考としてこの章のはじめに載せて置いた。
 以上くだくだしく述べて来たが、考えてみると、津軽というのは、日本全国から見てまことに渺たる存在である。芭蕉の「奥の細道」には、その出 発に当り、「前途三千里のおもい胸にふさがりて」と書いてあるが、それだって北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍歩 かなければならぬ。そうして、その青森県の日本海寄りの半島たった一つが津軽なのである。昔の津軽は、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平 野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下ってせいぜい深浦あたり迄、そうして南は、まあ弘前迄といっていいだろう。分家の黒石藩が 南にあるが、この辺にはまた黒石藩としての独自の伝統もあり、津軽藩とちがった所謂文化的な気風も育成せられているようだから、これは除いて、そうして、 北端は竜飛である。まことに心細いくらいに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかったのも無理はないと思われて来る。私は、その「道の奥」の奥の極 点の宿で一夜を明し、翌る日、やっぱりまだ船が出そうにも無いので、前日歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまっす ぐに蟹田のN君の家へ帰って来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着い たのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかえて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた 土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなっていた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があって山中には路らしい 路も無いような有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て 仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居という家族の居間にさがって、改めて 嫂に挨拶した。

仏間

常居(手前右)

「いつ、東京を?」と嫂は聞いた。
 私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思っていますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思っていますから、その折にはよろしくお願いします、というような葉書を嫂に差上げていたのである。
「一週間ほど前です。東海岸で、手間どってしまいました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました。」N君の事は、嫂も知っている筈だった。
「そう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配していました。陽子や光ちゃんなどは、とて も待って、毎日交代に停車場へ出張していたのですよ。おしまいには、怒って、もう来たって知らない、と言っていた人もありました。」
 陽子というのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちょいちょい金木へ遊びに来るらしく、その時 も、お二人でやって来ていたのである。光ちゃんというのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝いに来ている素直な子である。 その二人の姪が、からみ合いながら、えヘへ、なんておどけた笑い方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少 しも奥さんらしくない。
「おかしい恰好。」と私の服装をすぐに笑った。
「ばか。これが、東京のはやりさ。」
 嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。
「よく来た。ああ、よく来た。」と大声で言う。元気な人だったが、でも、さすがに少し弱って来ているようにも見えた。
「どうしますか。」と嫂は私に向って、「ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんないるんですけど。」
 陽子のお婿さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめている様子である。
 兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらい打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかっていない。
「お差支えなかったら、二階へ行きましょうか。」ここでひとりで、ビールなど飲んでいるのも、いじけているみたいで、いやらしい事だと思った。
「どちらだって、かまいませんよ。」嫂は笑いながら、「それじゃ、二階へお膳を。」と光ちゃんたちに言いつけた。
 私はジャンパー姿のままで二階に上って行った。金襖の一ばんいい日本間で、兄たちは、ひっそりお酒を飲んでいた。私はどたばたとはいり、

金襖の部屋

「修治です。はじめて。」と言って、まずお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、 あ、と言って、ちょっと首肯いたきりだった。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言っていいかも知れない。私は慣れているので平気でお膳について、光 ちゃんと嫂のお酌で、黙ってお酒を飲んでいた。お婿さんは、床柱をうしろにして座って、もうだいぶお顔が赤くなっている。兄たちも、昔はお酒に強かったよ うだが、このごろは、めっきり弱くなったようで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互いゆずり合って いる。外ヶ浜で荒っぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のようで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。

金襖の部屋床の間

「蟹は、どうしましょう。あとで?」と嫂は小声で私に言った。私は蟹田の蟹を少しお土産に持って来たのだ。
「さあ。」蟹というものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちょっと躊躇した。嫂も同じ気持だったのかも知れない。
「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまいませんよ。持って来なさい。ナプキンも一緒に。」
 今夜は、長兄もお婿さんがいるせいか、機嫌がいいようだ。
 蟹が出た。
「おあがり、なさいませんか。」と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まっさきに蟹の甲羅をむいた。
 私は、ほっとした。
「失礼ですが、どなたです。」お婿さんは、無邪気そうな笑顔で私に言った。はっと思った。無理もないとすぐに思い直して、
「はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です。」と笑いながら答えたが、しょげてしまって、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかったかし ら、と卑屈に気を使って、次兄の顔色を伺ったが、次兄は知らん顔をしているので、取りつく島も無かった。ま、いいや、と私は膝を崩して、光ちゃんに、こん どはビールをお酌させた。
 金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けな いという悪い宿業を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕い、 あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。

生家

 翌る日は、雨であった。起きて二階の長兄の応接間へ行ってみたら、長兄はお婿さんに絵を見せていた。金屏風が二つあって、一つには山桜、一つには田園の山水とでもいった閑雅な風景が画かれている。私は落款を見た。が、読めなかった。
「誰です。」と顔を赤らめ、おどおどしながら聞いた。
「スイアン。」と兄は答えた。
「スイアン。」まだわからなかった。
「知らないのか。」兄は別に叱りもせず、おだやかにそう言って、「百穂のお父さんです。」
「へえ?」百穂のお父さんもやっぱり画家だったという事は聞いて知っていたが、そのお父さんが穂庵という人で、こんないい絵をかくとは知らなかっ た。私だって、絵はきらいではないし、いや、きらいどころか、かなり通のつもりでいたのだが、穂庵を知らなかったとは、大失態であった。屏風をひとめ見 て、おや? 穂庵、と軽く言ったなら、長兄も少しは私を見直したかも知れなかったのに、間抜けた声で、誰です、は情ない。取返しのつかぬ事になってしまっ た、と身悶えしたが、兄は、そんな私を問題にせず、
「秋田には、偉い人がいます。」とお婿さんに向って低く言った。
「津軽の綾足はどうでしょう。」名誉回復と、それから、お世辞のつもりもあって、私は、おっかなびっくり出しゃばってみた。津軽の画家といえば、 まあ、綾足くらいのものらしいが、実はこれも、この前に金木へ来た時、兄の持っている綾足の画を見せてもらって、はじめて、津軽にもこんな偉い画家がいた という事を知った次第なのである。
「あれは、また、べつのもので。」と兄は全く気乗りのしないような口調で呟いて、椅子に腰をおろした。私たちは皆、立って屏風の絵を眺めていたのだが、兄が座ったので、お婿さんもそれと向い合った椅子に腰をかけ、私は少し離れて、入口の傍のソファに腰をおろした。
「この人などは、まあ、これで、ほんすじでしょうから。」とやはりお婿さんのほうを向いて言った。兄は前から、私には、あまり直接話をしない。
 そう言えば、綾足のぼってりした重量感には、もう少しどうかするとゲテモノに落ちそうな不安もある。
「文化の伝統、といいますか、」兄は背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、「やっぱり、秋田には、根強いものがあると思います。」
「津軽は、だめか。」何を言っても、ぶざまな結果になるので、私はあきらめて、笑いながらひとりごとを言った。
「こんど、津軽の事を何か書くんだって?」と兄は、突然、私に向って話しかけた。
「ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので、」と私はしどろもどろになり、「何か、いい参考書でも無いでしょうか。」
「さあ、」と兄は笑い、「わたしも、どうも、郷土史にはあまり興味が無いので。」
「津軽名所案内といったような極く大衆的な本でも無いでしょうか。まるで、もう、何も知らないのですから。」
「無い、無い。」と兄は私のずぼらに呆れたように苦笑しながら首を振って、それから立ち上ってお婿さんに、
「それじゃあ、わたしは農会へちょっと行って来ますから、そこらにある本でも御覧になって、どうも、きょうはお天気がわるくて。」と言って出かけて行った。
「農会も、いま、いそがしいのでしょうね。」と私はお婿さんに尋ねた。
「ええ、いま、ちょうど米の供出割当の決定があるので、たいへんなのです。」とお婿さんは若くても、地主だから、その方面の事はよく知っている。いろいろこまかい数字を挙げて説明してくれたが、私には、半分もわからなかった。
「僕などは、いままで米の事などむきになって考えた事は無かったようなものなのですが、でも、こんな時代になって来ると、やはり汽車の窓から水田 をそれこそ、わが事のように一喜一憂して眺めているのですね。ことしは、いつまでも、こんなにうすら寒くて、田植えもおくれるんじゃないでしょうか。」私 は、れいに依って専門家に向い、半可通を振りまわした。
「大丈夫でしょう。このごろは寒ければ寒いで、対策も考えて居りますから。苗の発育も、まあ、普通のようです。」
「そうですか。」と私は、もっともらしい顔をして首肯き、「僕の知識は、きのう汽車の窓からこの津軽平野を眺めて得ただけのものなのですが、馬耕 というんですか、あの馬に挽かせて田を打ちかえすあれを、牛に挽かせてやっているのがずいぶん多いようですね。僕たちの子供の頃には、馬耕に限らず、荷車 を挽かせるのでも何でも、全部、馬で、牛を使役するという事は、ほとんど無かったんですがね。僕なんか、はじめて東京へ行った時、牛が荷車を挽いているの を見て、奇怪に感じた程です。」
「そうでしょう。馬はめっきり少くなりました。たいてい、出征したのです。それから、牛は飼養するのに手数がかからないという関係もあるでしょうね。でも、仕事の能率の点では、牛は馬の半分、いや、もっともっと駄目かも知れません。」
「出征といえば、もう、─」
「僕ですか? もう、二度も令状をいただきましたが、二度とも途中でかえされて、面目ないんです。」健康な青年の、くったくない笑顔はいいものだ。「こんどは、かえされたくないと思っているんですが。」自然な口調で、軽く言った。
「この地方に、これは偉い、としんから敬服出来るような、隠れた大人物がいないものでしょうか。」
「さあ、僕なんかには、よくわかりませんけど、篤農家などと言われている人の中に、ひょっとしたら、あるんじゃないでしょうか。」
「そうでしょうね。」私は大いに同感だった。「僕なんかも、理屈は下手だし、まあ篤文家とでもいったような痴の一念で生きて行きたいと思っている のですが、どうも、つまらぬ虚栄などもあって、常識的な、きざったらしい事になってしまって、ものになりません。しかし、篤農家も、篤農家としてあまり大 きいレッテルをはられると、だめになりはしませんか。」
「そう。そうです。新聞社などが無責任に矢鱈に騒ぎ立て、ひっぱり出して講演をさせたり何かするので、せっかくの篤農家も妙な男になってしまうのです。有名になってしまうと、駄目になります。」
「まったくですね。」私はそれにも同感だった。「男って、あわれなものですからね。名声には、もろいものです。ジャアナリズムなんて、もとをただ せば、アメリカあたりの資本家の発明したもので、いい加減なものですからね。毒薬ですよ。有名になったとたんに、たいてい腑抜けになっていますからね。」 私は、へんなところで自分の一身上の鬱憤をはらした。こんな不平家は、しかし、そうは言っても、内心では有名になりたがっているというような傾向があるか ら、注意を要する。
 ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一草も変っていない感じであった。こうして、古い家をそのまま保持している兄の 努力も並たいていではなかろうと察した。池のほとりに立っていたら、チャボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな 音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。私には、あの句がわからなかった。どこがいいのか、さっぱり見当もつかなかった。名物にう まいものなし、と断じていたが、それは私の受けた教育が悪かったせいであった。あの古池の句に就いて、私たちは学校で、どんな説明を与えられていたか。森 閑たる昼なお暗きところに蒼然たる古池があって、そこに、どぶうんと(大川へ身投げじゃあるまいし)蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々、一鳥啼きて山さらに静 かなりとはこの事だ、と教えられていたのである。なんという、思わせぶりたっぷりの、月並な駄句であろう。いやみったらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ち ならん、と永い間、私はこの句を敬遠していたのだが、いま、いや、そうじゃないと思い直した。どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなってしまうの だ。余韻も何も無い。ただの、チャボリだ。言わば世の中のほんの片隅の、実にまずしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるも のがあったのだ。古池や蛙飛び込む水の音。そう思ってこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしてい る。言わば破格の着想である。月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まずしいものの、まずしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけ も、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。いい芸術家は、こう来なくっちゃ嘘だ、とひとりで興奮して、その夜、旅の手帖にこう書 いた。
「山吹や蛙飛び込む水の音。其角、ものかは。なんにも知らない。われと来て遊べや親の無い雀。すこし近い。でも、あけすけでいや味。古池や、無類なり。」
 翌る日は、上天気だった。姪の陽子と、そのお婿さんと、私と、それからアヤが皆のお弁当を背負って、四人で、金木町から一里ほど東の高流と称す る二百メートル足らずの、なだらかな小山に遊びに行った。アヤ、と言っても、女の名前ではない。じいや、という程の意味である。お父さん、という意味にも 使われる。アヤに対するFemme は、アパである。アバとも言う。どういうところから、これらの言葉が起って来たのか、私には、わからない。オヤ、オバの訛りか、などと当てずっぽうしてみ たってはじまらない。諸家の諸説がある事であろう。高流という山の名前も、姪の説に依ると、高長根というのが正しい呼び方で、なだらかに裾のひろがってい るさまが、さながら長根の感じとか何とかという事であったが、これにもまた諸家の諸説があるのであろう。諸家の諸説が紛々として帰趨の定まらぬところに、 郷土学の妙味がある様子である。姪とアヤは、お弁当や何かで手間取っているので、お婿さんと私とだけ、一足さきに家を出た。よい天気である。津軽の旅行 は、五、六月に限る。れいの「東遊記」にも、「昔より北地に遊ぶ人は皆夏ばかりなれば、草木も青み渡り、風も南風に変り、海づらものどかなれば、恐ろしき 名にも立ざる事と覚ゆ。我北地に到りしは、九月より三月の頃なれば、途中にて旅人には絶えて会う事なかりし。我旅行は医術修行の為なれば、格別の事なり。 只名所をのみ探らんとの心にて行く人は必ず四月以後に行くべき国なり。」としてあるが、旅行の達人の言として、読者もこれだけは信じて、覚えて置くがよ い。津軽では、梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度にこの頃、花が咲くのである。自信ありげに、私が先に立って町はずれまで歩いて来たが、高流へ行く路が わからない。小学校の頃に二、三度行った事があるきりなのだから、忘れるのも無理はないとも思ったが、しかし、その辺の様子が、幼い頃の記憶とまるで違っ ている。私は当惑して、
「停車場や何か出来て、この辺は、すっかり変って、高流には、どう行けばいいのか、わからなくなりました。あの山なんですがね。」と私は、前方 に見える、への字形に盛りあがった薄みどり色の丘陵を指差して言った。「この辺で、少しぶらぶらして、アヤたちを待つ事にしましょう。」とお婿さんに笑い ながら提案した。
「そうしましょう。」とお婿さんも笑いながら、「この辺に、青森県の修錬農場があるとか聞きましたけど。」私よりも、よく知っている。
「そうですか。捜してみましょう。」

修練農場(現・弘前大学農学部)

 修錬農場は、その路から半丁ほど右にはいった小高い丘の上にあった。農村中堅人物の養成と拓士訓練の為に設立せられたものの ようであるが、この本州の北端の原野に、もったいないくらいの堂々たる設備である。秩父の宮様が弘前の八師団に御勤務あそばされていらっしゃった折に、か しこくも、この農場にひとかたならず御助勢下されたとか、講堂もその御陰で、地方稀に見る荘厳の建物になって、その他、作業場あり、家畜小屋あり、肥料蓄 積所、寄宿舎、私は、ただ、目を丸くして驚くばかりであった。
「へえ? ちっとも、知らなかった。金木には過ぎたるものじゃないですか。」そう言いながら、私は、へんに嬉しくて仕方が無かった。やっぱり自分の生れた土地には、ひそかに、力こぶをいれているものらしい。

石碑

 農場の入口に、大きい石碑が立っていて、それには、昭和十年八月、朝香宮様の御成、同年九月、高松宮様の御成、同年十月、秩 父宮様ならびに同妃宮様の御成、昭和十三年八月に秩父宮様ふたたび御成、という幾重もの光栄を謹んで記しているのである。金木町の人たちは、この農場を、 もっともっと誇ってよい。金木だけではない、これは、津軽平野の永遠の誇りであろう。実習地とでもいうのか、津軽の各部落から選ばれた模範農村青年たちの 作った畑や果樹園、水田などが、それらの建築物の背後に、実に美しく展開していた。お婿さんはあちこち歩いて耕地をつくづく眺め、
「たいしたものだなあ。」と溜息をついて言った。お婿さんは地主だから、私などより、ずいぶんいろいろ、わかるところがあるのであろう。
「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるとこ ろに、ふわりと浮んでいる。実際、軽く浮んでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立 てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女 ではある。

金木から見た岩木山

「金木も、どうも、わるくないじゃないか。」私は、あわてたような口調で言った。「わるくないよ。」口をとがらせて言っている。
「いいですな。」お婿さんは落ちついて言った。
 私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れない と思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかった。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。 崩れてしまって、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いという伝説もあるそうだが、米のほうはともかく、こ の北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のほうは、どうも、心細いように、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせいかも知 れない。
「アヤたちは、どうしたでしょうね。」ふっと私は、その事が心配になり出した。「どんどんさきに行ってしまったんじゃないかしら。」アヤたちの 事を、つい忘却しているほど、私たちは、修錬農場の設備や風景に感心してしまっていたのである。私たちは、もとの路に引返して、あちこち見回していると、 アヤが、思いがけない傍系の野路からひょっこり出て来て、わしたちは、いままであなたたちを手わけしてさがしていた、と笑いながら言う。アヤは、この辺の 野原を捜し回り、姪は、高流へ行く路をまっすぐにどんどん後を追っかけるようにして行ったという。
「そいつあ気の毒だったな。陽ちゃんは、それじゃあ、ずいぶん遠くまで行ってしまったろうね。おうい。」と前方に向って大声で呼んだが、何の返事も無い。
「まいりましょう。」とアヤは背中の荷物をゆすり上げて、「どうせ、一本道ですから。」
 空には雲雀がせわしく囀っている。こうして、故郷の春の野路を歩くのも、二十年振りくらいであろうか。一面の芝生で、ところどころに低い灌木の 繁みがあったり、小さい沼があったり、土地の起伏もゆるやかで、一昔前だったら都会の人たちは、絶好のゴルフ場とでも言ってほめたであろう。しかも、見 よ、いまはこの原野にも着々と開墾の鍬が入れられ、人家の屋根も美しく光り、あれが更生部落、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木も発展し て、賑やかになったものだと、しみじみ思った。そろそろ、山の登り坂にさしかかっても、まだ姪の姿が見えない。
「どうしたのでしょうね。」私は、母親ゆずりの苦労性である。
「いやあ、どこかにいるでしょう。」新郎は、てれながらも余裕を見せた。
「とにかく、聞いてみましょう。」私は路傍の畑で働いているお百姓さんに、スフの帽子をとってお辞儀をして、「この路を、洋服を着た若いアネサマ がとおりませんでしたか。」と尋ねた。とおった、という答えである。何だか、走るように、ひどくいそいでとおったという。春の野路を、走るようにいそいで 新郎の後を追って行く姪の姿を想像して、わるくないと思った。しばらく山を登って行くと、並木の落葉松の陰に姪が笑いながら立っていた。ここまで追っかけ て来てもいないから、あとから来るのだろうと思って、ここでワラビを取っていたという。別に疲れた様子も見えない。この辺は、ワラビ、ウド、アザミ、タケ ノコなど山菜の宝庫らしい。秋には、初茸、土かぶり、なめこなどのキノコ類が、アヤの形容に依れば「敷かさっているほど」一ぱい生えて、五所川原、木造あ たりの遠方から取りに来る人もあるという。
「陽ちゃまは、きのこ取りの名人です。」と言い添えた。また、山を登りながら、
「金木へ、宮様がおいでになったそうだね。」と私が言うと、アヤは、改まった口調で、はい、と答えた。
「ありがたい事だな。」
「はい。」と緊張している。
「よく、金木みたいなところに、おいで下さったものだな。」
「はい。」
「自動車で、おいでになったか。」
「はい。自動車でおいでになりました。」
「アヤも、拝んだか。」
「はい。拝ませていただきました。」
「アヤは、仕合せだな。」
「はい。」と答えて、首筋に巻いているタオルで顔の汗を拭いた。
 鶯が鳴いている。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路の両側の芝生に明るく咲いてい る。背の低い柳、カシワも新芽を出して、そうして山を登って行くにつれて、笹がたいへん多くなった。二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなか なかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言いたいくらいのものであった。私たちは立ちどまって、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、ま た少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。
「これが頂上か。」私はちょっと気抜けして、アヤに尋ねた。
「はい、そうです。」
「なあんだ。」とは言ったものの、眼前に展開している春の津軽平野の風景には、うっとりしてしまった。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光って 見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のように鈍く光っているのは、田光沼であろうか。さらにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがっているのは、 十三湖らしい。十三湖あるいは十三潟と呼ばれて、「津軽大小の河水凡そ十有三の派流、この地に落合いて大湖となる。しかも各河川固有の色を失わず」と「十 三往来」に記され、津軽平野北端の湖で、岩木川をはじめ津軽平野を流れる大小十三の河川がここに集り、周囲は約八里、しかし、河川の運び来る土砂の為に、 湖底は浅く、最も深いところでも三メートルくらいのものだという。水は、海水の流入によって鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、そ の河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでいるという。湖が日本海に開いている南口に、十三という小さい部落がある。この辺は、いま から七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であったという説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出 し、殷盛を極めたとかいう話であるが、いまはその一片の面影も無いようである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域に はいる。私たちは目を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさっと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一望の内である。北は権現 崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無い。

高流から津軽平野

「これはいい。僕だったら、ここへお城を築いて、」と言いかけたら、
「冬はどうします?」と陽子につっ込まれて、ぐっとつまった。
「これで、雪が降らなければなあ。」と私は、幽かな憂鬱を感じて嘆息した。
 山の陰の谷川に降りて、河原で弁当をひらいた。渓流にひやしたビールは、わるくなかった。姪とアヤは、リンゴ液を飲んだ。そのうちに、ふと私は見つけた。
「蛇!」
 お婿さんは脱ぎ捨てた上衣をかかえて腰をうかした。
「大丈夫、大丈夫。」と私は谷川の対岸の岩壁を指差して言った。「あの岩壁に這い上ろうとしているのです。」奔湍から首をぬっと出して、見る見る 一尺ばかり岩壁によじ登りかけては、はらりと落ちる。また、するすると登りかけては、落ちる。執念深く二十回ほどそれを試みて、さすがに疲れてあきらめた か、流れに押流されるようにして長々と水面にからだを浮かせたままこちらの岸に近づいて来た。アヤは、この時、立ち上った。一間ばかりの木の枝を持ち、 黙って走って行って、ざんぶと渓流に突入し、ずぶりとやった。私たちは目をそむけ、
「死んだか、死んだか。」私は、あわれな声を出した。
「片付けました。」アヤは、木の枝も一緒に渓流にほうり投げた。
「まむしじゃないか。」私は、それでも、まだ恐怖していた。
「まむしなら、生捕りにしますが、いまのは、青大将でした。まむしの生胆は薬になります。」
「まむしも、この山にいるのかね。」
「はい。」
 私は、浮かぬ気持で、ビールを飲んだ。
 アヤは、誰よりも早くごはんをすまして、それから大きい丸太を引ずって来て、それを渓流に投げ入れ、足がかりにして、ひょいと対岸に飛び移った。そうして、対岸の山の絶壁によじ登り、ウドやアザミなど、山菜を取り集めている様子である。
「あぶないなあ。わざわざ、あんな危いところへ行かなくったって、他のところにもたくさん生えているのに。」私は、はらはらしながらアヤの冒険を 批評した。「あれはきっと、アヤは興奮して、わざとあんな危いところへ行き、僕たちにアヤの勇敢なところを大いに見せびらかそうという魂胆に違いない。」
「そうよ、そうよ。」と姪も大笑いしながら、賛成した。
「アヤあ!」と私は大声で呼びかけた。「もう、いい。あぶないから、もう、いい。」
「はい。」とアヤは答えて、するすると崖から降りた。私は、ほっとした。
 帰りは、アヤの取り集めた山菜を、陽子が背負った。この姪は、もとから、なりも振りも、あまりかまわない子であった。帰途は、外ヶ浜に於ける 「いまだ老いざる健脚家」も、さすがに疲れて、めっきり無口になってしまった。山から降りたら、郭公が鳴いている。町はずれの製材所には、材木がおびただ しく積まれていて、トロッコがたえず右往左往している。
 ゆたかな里の風景である。
「金木も、しかし、活気を呈して来ました。」と、私はぽつんと言った。
「そうですか。」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂そうに、そう言った。
 私は急にてれて、
「いやあ、僕なんかには、何もわかりやしませんけど、でも、十年前の金木は、こうじゃなかったような気がします。だんだん、さびれて行くばかりの町のように見えました。いまのようじゃなかった。いまは何か、もりかえしたような感じがします。」
 家へ帰って兄に、金木の景色もなかなかいい、思いをあらたにしました、と言ったら、兄は、としをとると自分の生れて育った土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思われて来るものです、と答えた。
 翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加わって、金木の東南方一里半くらいの、鹿の子川溜池というところへ出かけた。出発真際に、兄のところへお客さ んが見えたので、私たちだけ一足さきに出かけた。嫂は、モンペに白足袋に草履といういでたちであった。二里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとって、金木 へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で、前日よりさらに暖かかった。私たちは、アヤに案内されて金木川に沿うて森林鉄道の軌道をてくて く歩いた。軌道の枕木の間隔が、一歩には狭く、半歩には広く、ひどく意地悪く出来ていて、甚だ歩きにくかった。私は疲れて、早くも無口になり、汗ばかり拭 いていた。お天気がよすぎると、旅人はぐったりなって、かえって意気があがらぬもののようである。
「この辺が、大水の跡です。」アヤは、立ちどまって説明した。川の付近の田畑数町歩一面に、激戦地の跡もかくやと思わせるほど、巨大の根株や、 丸太が散乱している。その前のとし、私の家の八十八歳の祖母も、とんと経験が無い、と言っているほどの大洪水がこの金木町を襲ったのである。
「この木が、みんな山から流されて来たのです。」と言って、アヤは悲しそうな顔をした。
「ひどいなあ。」私は汗を拭きながら、「まるで、海のようだったろうね。」
「海のようでした。」
 金木川にわかれて、こんどは鹿の子川に沿うてしばらくのぼり、やっと森林鉄道の軌道から解放されて、ちょっと右へはいったところに、周囲半里以 上もあるかと思われる大きい溜池が、それこそ一鳥啼いて更に静かな面持ちで、蒼々満々と水を湛えている。この辺は、荘右衛門沢という深い谷間だったそうで あるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きい溜池を作ったのは、昭和十六年、つい最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も彫り 込まれていた。溜池の周囲に工事の跡の絶壁の赤土が、まだ生々しく露出しているので、所謂天然の荘厳を欠いてはいるが、しかし、金木という一部落の力が感 ぜられ、このような人為の成果というものも、また、快適な風景とせざるを得ない、などと、おっちよこちょいの旅の批評家は、立ちどまって煙草をふかし、四 方八方を眺めながら、いい加減の感想をまとめていた。私は自信ありげに、一同を引率し、溜池のほとりを歩いて、

鹿子川ため池

「ここがいい。この辺がいい。」と言って池の岬の木陰に腰をおろした。「アヤ、ちょっと調べてくれ。これは、ウルシの木じゃないだろうな。」ウルシにかぶれては、私はこのさき旅をつづけるのに、憂鬱でたまらないだろう。ウルシの木ではないと言う。
「じゃあ、その木は。なんだか、あやしい木だ。調べてくれ。」みんなは笑っていたが、私は真面目であった。それも、ウルシの木ではないと言う。私 は全く安心して、この場所で弁当をひらく事にきめた。ビールを飲みながら、私はいい機嫌で少しおしゃべりをした。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から 三里半ばかり離れた西海岸の高山というところへ行って、はじめて海を見た時の興奮を話した。その時には引率の先生がまっさきに興奮して、私たちを海に向け て二列横隊にならばせ、「われは海の子」という唱歌を合唱させたが、生れてはじめて海を見たくせに、われは海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に、とかいう海岸生 れの子供の歌をうたうのは、いかにも不自然で、私は子供心にも恥かしく落ちつかない気持であった。

高山稲荷より西海岸

そうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝って、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使った神社の焼印の綺麗に幾つも 押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言われたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出か けたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばって、まず袴と靴をぬがせられ、草履、といっても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履という、片ちんば の、すり切れたみじめな草履をあてがわれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあずけ、とうとう病人用として学校で傭って行った荷車に載せられ、家へ帰った 時の恰好ったら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑わせていると、
「おうい。」と呼ぶ声。兄だ。
「おうい。」と私たちも口々に呼んだ。アヤは走って迎えに行った。やがて、兄は、ピッケルをさげて現われた。私はありったけのビールをみな飲んで しまっていたので、甚だ具合がわるかった。兄は、すぐにごはんを食べ、それから皆で、溜池の奥の方へ歩いて行った。バサッと大きい音がして、水鳥が池から 飛び立った。私とお婿さんとは顔を見合せ、意味も無く、うなずき合った。雁だか鴨だか、口に出して言えるほどには、お互い自信がなかったようなふうなの だ。とにかく、野生の水鳥には違いなかった。深山幽谷の精気が、ふっと感ぜられた。兄は、背中を丸くして黙って歩いている。兄とこうして、一緒に外を歩く のも何年振りであろうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのように背中を丸くして黙って歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうし ろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きながら歩いた事があったけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。私は兄から、あの事件に就いてまだ許されている とは思わない。一生、だめかも知れない。ひびのはいった茶碗は、どう仕様も無い。どうしたって、もとのとおりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れ ない種族である。この後、もう、これっきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思った。水の落ちる音が、次第に高く聞えて来 た。溜池の端に、鹿の子滝という、この地方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢の縁に 沿うた幅一尺くらいの心細い小路を歩いているのであって、右手はすぐ屏風を立てたような山、左手は足もとから断崖になっていて、その谷底に滝壷がいかにも 深そうな青い色でとぐろを巻いているのである。

鹿の子滝

「これは、どうも、目まいの気味です。」と嫂は、冗談めかして言って、陽子の手にすがりついて、おっかなそうに歩いている。
 右手の山腹には、ツツジが美しく咲いている。兄はピッケルを肩にかついで、ツツジの見事に咲き誇っている箇所に来るたんびに、少し歩調をゆるめ る。藤の花も、そろそろ咲きかけている。路は次第に下り坂になって、私たちは滝口に降りた。一間ほどの幅の小さい谷川で、流れのまんなかあたりに、木の根 株が置かれてあり、それを足がかりにして、ひょいひょいと二歩で飛び越せるようになっている。ひとりひとり、ひょいひょいと飛び越した。嫂が、ひとり残っ た。
「だめです。」と言って笑うばかりで飛び越そうとしない。足がすくんで、前に出ない様子である。
「おぶってやりなさい。」と兄は、アヤに言いつけた。アヤが傍へ寄っても、嫂は、ただ笑って、だめだめと手を振るばかりだ。この時、アヤは怪力を 発揮し、巨大の根っこを抱きかかえて来て、ざんぶとばかり滝口に投じた。まあ、どうやら、橋が出来た。嫂は、ちょっと渡りかけたが、やはり足が前にすすま ないらしい。アヤの肩に手を置いて、やっと半分くらい渡りかけて、あとは川も浅いので、即席の橋から川へ飛び降りて、じゃぶじゃぶと水の中を歩いて渡って しまった。モンペの裾も白足袋も草履も、びしょ濡れになった様子である。
「まるで、もう、高山帰りの姿です。」嫂は、私のさっきの高山へ遠足してみじめな姿で帰った話をふと思い出したらしく、笑いながらそう言って、陽子もお婿さんも、どっと笑ったら、兄は振りかえって、
「え? 何?」と聞いた。みんな笑うのをやめた。兄がへんな顔をしているので、説明してあげようかな、とも思ったが、あまり馬鹿々々しい話なので、あらたまって「高山帰り」の由来を説き起す勇気は私にも無かった。兄は黙って歩き出した。兄は、いつでも孤独である。

  五 西 海 岸

高山稲荷

 前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知っていなかった。津軽 の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行った事がない。高山というのは、金木からまっすぐ西に三里半ばかり 行き車力という人口五千くらいのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷さんは有名なものだそうであるが、何せ少年の頃の記憶 であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残っているくらいのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまっている。この機会に、津軽の西 海岸を回ってみようという計画も前から私にあったのである。鹿の子川溜池へ遊びに行ったその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時 頃、五所川原駅で五能線に乗りかえ、十分経つか経たぬかのうちに、木造駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちょっと見て置きたい と思っていたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少いようだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が、どっどっ と、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いている。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を 迎えている。父はこの町のMという旧家の三男かであったのを、私の家から迎えられて何代目かの当主になったのである。この父は、私の十四の時に死んだので あるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言わざるを得ない。また自作の「思い出」の中の一説を借りるが、「私の父は非常に忙しい人 で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居らなかった。私は此の父を恐れていた。父の万年筆をほしがっていながらそれを言い出 せないで、ひとり色々と思い悩んだ末、或る晩に床の中で目をつぶったまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼 びかけた事があったけれど、勿論それは父の耳にも心にもはいらなかったらしい。私と弟とが米俵のぎっしり積まれたひろい米蔵に入って面白く遊んでいると、 父が入口に立ちはだかって、坊主、出ろ、出ろ、と叱った。光を背から受けているので父の大きい姿がまっくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟うと今でも、 いやな気がする。(中略)その翌春、雪のまだ深く積っていた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の 死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父の死骸は大きい寝棺に横たわり橇に乗って故郷へ帰っ て来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やがて森の陰から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私 は美しいと思った。つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集った。棺の蓋が取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠っている ようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣声を聞き、さそわれて涙を流した。」まあ、だいたいこんな事だけが父に関する記憶と言ってい いくらいのもので、父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおっかなさを感じ、またそれゆえ安心して寄りかかってもいたし、父がいないから淋 しいなどと思った事はいちども無かったのである。しかし、だんだんとしを取るにつれて、いったい父は、どんな性格の男だったのだろう、などと無礼な忖度を してみるようになって、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらわれ、実は死んだのではなくて或る政治上の意味で姿をかくしていたのだという事がわ かり、思い出の父の面影よりは少し老い疲れていて、私はその姿をひどくなつかしく思ったり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に 強くなって来たのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死ん で、私は子供心にはそのとしがたいへんな老齢のように感ぜられ、まず大往生と思っていたのだが、いまは五十三の死没を頽齢の大往生どころか、ひどい若死に と考えるようになった。も少し父を生かして置いたら、津軽のためにも、もっともっと偉い事業をしたのかも知れん、などと生意気な事など考えている。その父 が、どんな家に生れて、どんな町に育ったか、私はそれを一度見て置きたいと思っていたのだ。木造の町は、一本路の両側に家が立ち並んでいるだけだ。そうし て、家々の背後には、見事に打返された水田が展開している。水田のところどころにポプラの並木が立っている。こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプ ラを見た。他でもたくさん見たに違いないのであるが、木造のポプラほど、あざやかに記憶に残ってはいない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよい でいた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違わず、華奢で頗る美人である。このように山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出す るという伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであろう。これも、金木地方と同様にちょっと心細いので はあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆じゃないかとさえ私には疑われた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言うまい。こんな 話は、えてして差しさわりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにわかに断定を下すべき筋合のものではないかも知れない。その日 も、ひどくいい天気で、停車場からただまっすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のようなものが、もやもや煙っていて、ゴム底の靴で猫のように足 音も無くのこのこ歩いているうちに春の温気にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造警察署の看板を、木造警察署と読んで、なるほど木造の建築物、と 首肯き、はっと気付いて苦笑したりなどした。

木造のコモヒ

 木造は、また、コモヒの町である。コモヒというのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞって店先に日よけ の天幕を張ったろう、そうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しそうな顔をして歩いたろう、そうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思ったろう、 つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作ってあるのが、北国のコモヒだと思えば、たいして間違いは 無い。しかも之は、日ざしをよけるために作ったのではない。そんな、しゃれたものではない。冬、雪が深く積った時に、家と家との聯絡に便利なように、各々 の軒をくっつけ、長い廊下を作って置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買い物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の 遊び場としても東京の歩道のような危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとって大助かりだろうし、また、私のように、春の温気にまいった旅人も、こ こへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に座っている人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。コモヒというのは、小店の 訛りであると一般に信じられているようだが、私は、隠瀬あるいは隠日とでもいう漢字をあてはめたほうが、早わかりではなかろうか、などと考えてひとりで悦 にいっている次第である。そのコモヒを歩いていたら、M薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとおり過ぎて、やはりコモヒをまっ すぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考えた。この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒというものがあるらしいけれど も、この木造町みたいに、町全部がコモヒに依って貫通せられているといったようなところは少いのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまった。 しばらく歩いて、ようやくコモヒも尽きたところで私は回れ右して、溜息ついて引返した。私は今まで、Mの家に行った事は、いちども無い。木造町へ来た事も 無い。或いは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来た事はあったかも知れないが、いまの私の記憶には何も残っていない。Mの家の当主は、私よりも四つ 五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちょいちょい金木へも遊びに来て私とは顔馴染である。私がいま、たずねて行っても、まさか、いやな顔はなさるまいが、 どうも、しかし、私の訪ね方が唐突である。こんな薄汚いなりをして、Mさんしばらく、などと何の用も無いのに卑屈に笑って声をかけたら、Mさんはぎょっと して、こいついよいよ東京を食いつめて、金でも借りに来たんじゃないか、などと思やすまいか。死ぬまえにいちど、父の生れた家を見たくて、というのも、お そろしいくらいに気障だ。男が、いいとしをして、そんな事はとても言えたもんじゃない。いっそこのまま帰ろうか、などと悶えて歩いているうちに、またもと のM薬品問屋の前に来た。もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまわない。はいろう。私は、とっさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のほ うに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢いで私には何も言わせず、引っぱり上げるように座敷へ上げて、床の間の 前に無理矢理座らせてしまった。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言いつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かった。

木造の松木家の隣家

「久し振り。久し振り。」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらいです。」
「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらいでしょう。」
「そうだろうとも、そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た。」
 この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだと いう話を聞いているが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。私には養子の父の心理が何かわかるような 気がして、微笑ましかった。そう思って見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似ている。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人 間」に触れたような気がして、このMさんのお家へ立寄った甲斐があったと思った。Mさんは、何かと私をもてなそうとする。
「いや、もういいんだ。一時の汽車で、深浦へ行かなければいけないのです。」
「深浦へ? 何しに?」
「べつに、どうってわけも無いけど、いちど見て置きたいのです。」
「書くのか?」
「ええ、それもあるんだけど、」いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるような事は言えなかった。
「じゃあ、木造の事も書くんだな。木造の事を書くんだったらね、」とMさんは、少しもこだわるところがなく、「まず第一に、米の供出高を書いても らいたいね。警察署管内の比較では、この木造署管内は、全国一だ。どうです、日本一ですよ。これは、僕たちの努力の結晶と言っても、差支え無いと思う。こ の辺一帯の田の、水が枯れた時に、僕は隣村へ水をもらいに行って、ついに大成功して、大トラ変じて水虎大明神という事になったのです。僕たちも、地主だか らって、遊んでは居られない。僕は脊髄がわるいんだけど、でも、田の草取りをしましたよ。まあ、こんどは東京のあんた達にも、おいしいごはんがどっさり配 給されるでしょう。」たのもしい限りである。Mさんは、小さい頃から、闊達な気性のひとであった。子供っぽいくりくりした丸い目に魅力があって、この地方 の人たち皆に敬愛せられているようだ。私は、心の中でMさんの仕合せを祈り、なおも引きとめられるのを汗を流して辞去し、午後一時の深浦行きの汽車にやっ と間に合う事が出来た。

大戸瀬の千畳敷

 木造から、五能線に依って約三十分くらいで鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまいになって、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺 め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいうものだそ うで、その海蝕を受けて平坦になった斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座 敷になったので、これを千畳敷と名付け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛え、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これ を盃沼と称するのだそうだけれど、直径一尺から二尺くらいのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よっぽどの大酒飲みが名付けたものに違いない。 この辺の海岸には奇岩削立し、怒涛にその脚を絶えず洗われている、と、まあ、名所案内記ふうに書けば、そうもなるのだろうが、外ヶ浜北端の海浜のような異 様な物凄さは無く、言わば全国到るところにある普通の「風景」になってしまっていて、津軽独得の佶屈とでもいうような他国の者にとって特に難解の雰囲気は 無い。つまり、ひらけているのである。人の目に、舐められて、明るく馴れてしまっているのである。れいの竹内運平氏は「青森県通史」に於いて、この辺以南 は、昔からの津軽領ではなく、秋田領であったのを、慶長八年に隣藩佐竹氏と談合の上、これを津軽領に編入したというような記録もあると言っている。私など ただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言うのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないような気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無 い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるような気がする。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的で ある。ばかな傲慢な心は持っていない。大戸瀬から約四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるような、決して出 しゃばろうとせぬつつましい温和な表情、悪く言えばお利巧なちゃっかりした表情をして、旅人を無言で送迎している。つまり、旅人に対しては全く無関心のふ うを示しているのである。私は、深浦のこのような雰囲気を深浦の欠点として挙げて言っているのでは決してない。そんな表情でもしなければ、人はこの世に生 きて行き切れないのではないかとも思っている。これは、成長してしまった大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥底深く沈潜している。津軽の北部に 見受けられるような、子供っぽい悪あがきは無い。津軽の北部は、生煮えの野菜みたいだが、ここはもう透明に煮え切っている。ああ、そうだ。こうして較べて みるとよくわかる。津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信というものがないのだ。まるっきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、「かれ は賎しきものなるぞ」などと人の悪口ばかり言って、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、そうし て悲しい孤独の宿命を形成するという事になったのかも知れない。津軽の人よ、顔を挙げて笑えよ。ルネッサンス直前の鬱勃たる台頭力をこの地に認めると断言 してはばからぬ人さえあったではないか。日本の文華が小さく完成して行きづまっている時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になっている か、一夜しずかに考えて、などというとすぐ、それそれそんなに不自然に肩を張る。人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信 じて、しばらく努力を続けて行こうではないか。

深浦

 深浦町は、現在人口五千くらい、旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鰺ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置 かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とおり海岸の名勝がそ ろっている。しずかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されている。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じが する。駅からまっすぐに一本路をとおって、町のはずれに、円覚寺の仁王門がある。

円覚寺

この寺の薬師堂は、国宝に指定せられているという。私は、それにおまいりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思った。完成されている町は、また 旅人に、わびしい感じを与えるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷った。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思っ た。なるべく思い出さないようにしているのだが、心の空虚の隙をねらって、ひょいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上って町の郵便局へ行き、葉書を一 枚買って、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持 がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かっ た。私はその早さに、少し救われた。部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港 の特産物のようである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやってきて以来、人のごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんと お酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考えを起し、さっきお膳を持って来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまえ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございませ ん、という。どこか他に飲むところは無いかと聞くと、ございます、と言下に答えた。ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行っ て見ると、意外に小綺麗な料亭であった。二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向って大あぐらをかき、酒、酒、と言った。お酒だ け、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持っ てすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。
「深浦の名所は何です。」
「観音さんへおまいりなさいましたか。」
「観音さん? あ、円覚寺の事を、観音さんと言うのか。そう。」このおばさんから、何か古めかしい話を聞く事が出来るかも知れないと思った。しか るに、その座敷に、ぶってり太った若い女があらわれて、妙にきざな洒落など飛ばし、私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく率直たるべしと思い、
「君、お願いだから下へ行ってくれないか。」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどい めに会った。その若い女中が、ふくれて立ち上ると、おばさんも一緒に立ち上り、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひ とりが黙って座っているなどは、朋輩の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の灯台の灯を眺 め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べていたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持って来て、

秋田屋旅館

「あなたは、津島さんでしょう。」と言った。
「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。
「そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので。」
「でも、あれは、偽名でもないのです。」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです。」
 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。こうして、 津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしお腹綿にしみる ものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。

鯵ヶ沢

 鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄った。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん 栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪回りの和船の発着所でもあったようだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがったさかなは、御 城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を賑わしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらい、木造、深浦よりも少いような具 合で、往年の隆々たる勢力を失いかけているようだ。鰺ヶ沢というからには、きっと昔の或る時期に、見事な鰺がたくさんとれたところかとも思われるが、私た ちの幼年時代には、ここの鰺の話はちっとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であった。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるようであるから、読 者もご存じの事と思うが、鰰、または魚雷などという字を書いて、鱗の無い五、六寸くらいのさかなで、まあ、海の鮎とでも思っていただいたら大過ないのでは あるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のようである。東京の人たちは、あれを油っこくていやだと言っているようだけれど、私たちには非常に淡 泊な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのまま薄醤油で煮て片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたいらげる人は決して珍らしくな い。ハタハタの会などがあって、一ばん多く食べた人には賞品、などという話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなっているし、それに料理法も知ら ないだろうから、ことさらまずいものに感ぜられるのであろう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出ているようだし、また、ハタハタの味は淡いという意味の 江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされていたものかも知れない。いずれにもせよ、このハタハタを食べる事は、 津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるという事には間違いない。私は、そのハタハタに依って、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知ってはいたのだが、その町を見る のは、いまがはじめてであった。山を背負い、片方はすぐ海の、おそろしくひょろ長い町である。市中はものの匂いや、とかいう凡兆の句を思い出させるよう な、妙によどんだ甘酸っぱい匂いのする町である。川の水も、どろりと濁っている。どこか、疲れている。木造町のように、ここにも長い「コモヒ」があるけれ ども、少し崩れかかっている、木造町のコモヒのような涼しさが無い。その日も、ひどくいい天気だったが、日ざしを避けて、コモヒを歩いていても、へんに息 づまるような気持がする。飲食店が多いようである。昔は、ここは所謂銘酒屋のようなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思われる。今でも、そ のなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく「やすんで行きせえ」などと言って道を通る人に呼びかけている。ちょうどお昼だった ので、私は、そのおそばやの一軒にはいって、休ませてもらった。おそばに、焼ざかなが二皿ついて、四十銭であった。おそばのおつゆも、まずくなかった。そ れにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄行っても、同じような家並が何の変化もなく、だらだらと続いているのである。私は、一里歩いたよ うな気がした。やっと町のはずれに出て、また引返した。町の中心というものが無いのである。たいていの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、 町の重になっていて、その町を素通りする旅人にも、ああ、この辺がクライマックスだな、と感じさせるように出来ているものだが、鰺ヶ沢にはそれが無い。扇 のかなめがこわれて、ばらばらに、ほどけている感じだ。これでは町の勢力あらそいなど、ごたごたあるのではなかろうかと、れいのドガ式政談さえ胸中に往来 したほど、どこか、かなめの心細い町であった。こう書きながら、私は幽かに苦笑しているのであるが、深浦といい鰺ヶ沢といい、これでも私の好きな友人なん かがいて、ああよく来てくれた、と言ってよろこんで迎えてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深 浦、鰺ヶ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもって書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあてにならないものである。深浦、鰺ヶ沢 の人は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑って見のがしてほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故土を汚すほどの権威も何も持っていない のだから。
 鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗って五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まっすぐに、中畑さんのお宅へ伺っ た。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるか ずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらいに、ひどくふけていた。昨年、病 気をなさって、それから、こんなに痩せたのだそうである。
「時代だじゃあ。あんたが、こんな姿で東京からやって来るようになったもののう。」と、それでも嬉しそうに、私の乞食にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れているな。」と言って、自分で立って箪笥から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。
「これから、ハイカラ町へ行きたいと思ってるんだけど。」
「あ、それはいい。行っていらっしゃい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めっきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五 所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでいるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町という名前であったのだけれども、いまは大町とか何 とか、別な名前のようである。五所川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の幼年時代の思い出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或 る新聞に次のような随筆を発表した。
「叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だったと思いま す。たしか、友右衛門だった筈です。梅の由兵衛に泣かされました。回舞台を、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上ってしまった程に驚きました。あの 旭座は、その後間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火炎が、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見 物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が、罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供心にも、どういうわけだか、その技師の罪名 と、運命を忘れる事が出来ませんでした。旭座という名前が『火』の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。
 七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあったのか も知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りまし た。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵児帯でした。ひどく恥かしく思いました。叔 母が顔色を変えて走って来ました。私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ぶりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔 母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな、遠い思い出になりました。」
 中畑さんのひとり娘のけいちゃんと一緒に中畑さんの家を出て、
「僕は岩木川を、ちょっと見たいんだけどな。ここから遠いか。」
 すぐそこだという。
「それじゃ、連れて行って。」

五所川原付近の岩木川

 けいちゃんの案内で町を五分も歩いたかと思うと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶が あるが、もっと町から遠かったように覚えている。子供の足には、これくらいの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであろう。それに私は、家の中にばかりい て、外へ出るのがおっかなくて、外出の時には目まいするほど緊張していたものだから、なおさら遠く思われたのだろう。橋がある。これは、記憶とそんなに違 わず、いま見てもやっぱり同じ様に、長い橋だ。
「いぬいばし、と言ったかしら。」
「ええ、そう。」
「いぬい、って、どんな字だったかしら。方角の乾だったかな?」
「さあ、そうでしょう。」笑っている。
「自信無し、か。どうでもいいや。渡ってみよう。」
 私は片手で欄干を撫でながらゆっくり橋を渡って行った。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似ている。河原一面の緑の草から陽炎がのぼって、何だか目がくるめくようだ。そうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光って流れている。
「夏には、ここへみんな夕涼みにまいります。他に行くところもないし。」
 五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑わう事だろうと思った。
「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちゃんは、川の上流のほうを指差して教えて、
「父の自慢の招魂堂。」と笑いながら小声で言い添えた。
 なかなか立派な建築物のように見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違いない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立って、しばらく話をした。
「林檎はもう、間伐というのか、少しずつ伐って、伐ったあとに馬鈴薯だか何だか植えるって話を聞いたけど。」
「土地によるのじゃないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」
 大川の土手の陰に、林檎畑があって、白い粉っぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感ずる。
「けいちゃんからも、ずいぶん林檎を送っていただいたね。こんど、おむこさんをもらうんだって?」
「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。
「いつ? もう近いの?」
「あさってよ。」
「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちゃんは、まるでひと事のように、けろりとしている。「帰ろう。いそがしいんだろう?」
「いいえ、ちっとも。」ひどく落ちついている。ひとり娘で、そうして養子を迎え、家系を嗣ごうとしているひとは、十九や二十の若さでも、やっぱりどこか違っている、と私はひそかに感心した。
「あした小泊へ行って、」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言った。「たけに会おうと思っているんだ。」
「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」
「うん。そう。」
「よろこぶでしょうねえ。」
「どうだか。会えるといいけど。」
 このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、会ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。三十年ちかくも会わないでいるのだ が、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかも知れない。以下は、自作「思い出」の中の文章である。
「六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢 中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませ た。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見 せて説明した。火を放けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。 血の池や、針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐 けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。

卒塔婆(後生車)

 そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒堵婆が林のように立っていた。卒堵婆には、 満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから回して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその回した人は極楽 へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に回れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが回すと、いい音をたててひとしきり回って、かならずひっ そりと止るのだけれど、私が回すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを回して見ても皆言 い合せたようにからんからんと逆回りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に回しつづけた。日が暮れかけて来 たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。(中略)やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかいなくなって いた。或漁村へ嫁に行ったのであるが、私がそのあとを追うだろうという懸念からか、私には何も言わずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけ は私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代って知らせたようだ。たけは、油断 大敵でせえ、と言っただけで格別ほめもしなかった。」
 私の母は病身だったので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになってふらふら立って歩けるようになった頃、乳母にわ かれて、その乳母の代りに子守としてやとわれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから 八つまで、私はたけに教育された。そうして、或る朝、ふと目をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はっと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声 挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の思いで泣いて、それから、二、三日、私はしゃくり上げてばかりいた。いまでも、その折の苦しさを、忘れて はいない。それから、一年ほど経って、ひょっくりたけと会ったが、たけは、へんによそよそしくしているので、私にはひどく怨めしかった。それっきり、たけ と会っていない。四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、その時、あの「思い出」の中のたけの箇所を朗読した。故郷といえば、た けを思い出すのである。たけは、あの時の私の朗読放送を聞かなかったのであろう。何のたよりも無かった。そのまま今日に到っているのであるが、こんどの津 軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ会いたいと切に念願をしていたのだ。いいところは後回しという、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私 はたけのいる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いて それから大鰐温泉へでも行って一泊して、そうして、それから最後に小泊へ行こうと思っていたのだが、東京からわずかしか持って来ない私の旅費も、そろそろ 心細くなっていたし、それに、さすがに旅の疲れも出て来たのか、これからまたあちこち回って歩くのも大儀になって来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、 いよいよ東京へ帰る時に途中でちょっと立寄ろうという具合に予定を変更して、きょうは五所川原の叔母の家に一泊させてもらって、あす、五所川原からまっす ぐに、小泊へ行ってしまおうと思い立ったのである。けいちゃんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行ってみると、叔母は不在であった。叔母のお孫さんが病気で 弘前の病院に入院しているので、それの付添に行っているというのである。
「あなたが、こっちへ来ているという事を、母はもう知って、ぜひ会いたいから弘前へ寄こしてくれって電話がありましたよ。」と従姉が笑いながら言った。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとって家を嗣がせているのである。
「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちょっと立ち寄ろうと思っていますから、病院にもきっと行きます。」
「あすは小泊の、たけに会いに行くんだそうです。」けいちゃんは、何かとご自分の支度でいそがしいだろうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでいる。
「たけに。」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。」従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕っていたか知っているようであった。
「でも、会えるかどうか。」私には、それが心配であった。もちろん打合せも何もしているわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのである。
「小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いていましたけど、」とけいちゃんは立って、台所に貼りつけられてある時間表を調べ、「あしたの一番の汽車 でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合いませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさらないように。」ご自分の大事な日をまるで忘れているみたいで あった。一番の八時の汽車で五所川原を立って、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗っ て約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるという見込みがついた。日が暮れて、けいちゃんがやっとお家へ帰ったのと入違いに、先生(お医者さんの養子 を、私たちは昔から固有名詞みたいに、そう呼んでいた)が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。
 翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に駈けつけ、やっと一番の汽車に間に合った。きょうもまた、よいお天気である。私の頭 は朦朧としている。二日酔いの気味である。ハイカラ町の家には、こわい人もいないので、前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じっとりと額に涌いて出 る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁って汚れて腐敗しているようで、どうにも、かなわない気持である。このような自己嫌悪を、お酒を飲みす ぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みという弱点のゆえに、私はとかく人 から軽んぜられる。世の中に、酒というものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考えて、ぼんやり窓 外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、蘆野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で蘆野公園の切符を求 め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の蘆野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう蘆野公園の切符をせしめたという昔の逸事 を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげ て切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、目を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれて ある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然と している。

旧芦野公園駅

少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどか な駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、蘆野公園と叫んでもいいと思った。汽車は、落葉松の林の中 を走る。この辺は、金木の公園になっている。沼が見える。蘆の湖という名前である。この沼に兄は、むかし遊覧のボートを一艘寄贈した筈である。

芦野公園ため池

すぐに、中里に着く。人口、四千くらいの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟、相内、脇元などの部落に到ると水田もめっきり少くな るので、まあ、ここは津軽平野の北門と言っていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの金丸という親戚の呉服屋さんへ遊びに来た事があるが、四つくらいの 時であろうか、村のはずれの滝の他には、何も記憶に残っていない。
「修っちゃあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑いながら立っている。私より一つ二つ年上だった筈であるが、あまり老けていない。
「久し振りだのう。どこへ。」
「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに会いたくて、他の事はみな上の空である。「このバスで行くんだ。それじゃあ、失敬。」
「そう。帰りには、うちへも寄って下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」
 指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立っている。たけの事さえ無かったら、私はこの幼馴染との奇遇をよろこび、 あの新宅にもきっと立寄らせていただき、ゆっくり中里の話でも伺ったのに違いないが、何せ一刻を争うみたいに意味も無く気がせいていたので、
「じゃ、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さっさとバスに乗ってしまった。バスは、かなり込んでいた。私は小泊まで約二時間、立っ たままであった。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言われる安東氏一族は、この辺に住んでいて、十三港の繁栄などに就いて は前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在ったものらしい。バスは山路をのぼって北に進む。路が悪いと見えて、かなり激し くゆれる。私は網棚の横の棒にしっかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やっぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒 い。人の肌の匂いが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きている。東海岸の竜飛などに較べると、ずっと優しいけれど、でも、 この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛った ような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たま りである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。

十三湖夕景

十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依って以後は、こ まかい描写を避けよう。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。西 海岸の部落は、ここでおしまいになっているのだ。つまり私は、五所川原あたりを中心にして、柱時計の振子のように、旧津軽領の西海岸南端の深浦港からふら りと舞いもどってこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまったというわけなのである。ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるが、中古 の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって仮泊する事になっていたという。江戸時代には、近 くの十三港と共に米や木材の積出しがさかんに行われた事など、前にもしばしば書いて置いたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合いなくらい 立派である。水田は、村のはずれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊富なようで、ソイ、アブラメ、イカ、イワシなどの魚類の他に、コンブ、ワカメ の類の海草もたくさんとれるらしい。

小泊

「越野たけ、という人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。
「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野という苗字の家がたくさんあるので。」
「前に金木にいた事があるんです。そうして、いまは、五十くらいのひとなんです。」私は懸命である。
「ああ、わかりました。その人なら居ります。」
「いますか。どこにいます。家はどの辺です。」

越野金物店

 私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらいの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十 倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思って入口のガラス戸に走り寄ったら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかっている のである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いずれも固くしまっている。留守だ。私は途方にくれて、汗を拭った。引越した、なんて事は無かろう。どこか へ、ちょっと外出したのか。いや、東京と違って、田舎ではちょっとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどという事は無い。二、三日あるいは もっと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。家さえわかったら、もう大丈夫と思っていた僕は馬鹿であっ た。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さんと呼んでみたが、もとより返事のある筈は無かった。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向いの煙草 屋にはいり、越野さんの家には誰もいないようですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行ったんだろう、と事もなげ に答えた。私は勢い込んで、
「それで、その運動会は、どこでやっているのです。この近くですか、それとも。」
 すぐそこだという。この路をまっすぐに行くと田圃に出て、それから学校があって、運動会はその学校の裏でやっているという。
「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」
「そうですか。ありがとう。」
 教えられたとおりに行くと、なるほど田圃があって、その畦道を伝って行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立っている。その学校の裏に 回ってみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るような気持というのであろう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭 礼が、いま目の前で行われているのだ。まず、万国旗。着飾った娘たち。あちこちに白昼の酔っぱらい。そうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎっしり と立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなったと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、 そうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大 陽気で語り笑っているのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思った。たしかに、日出ずる国だと思った。国運を賭しての大戦争のさいちゅうでも、本 州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑いと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思いで あった。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていたというようなお伽噺の主人公に私はなった ような気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。目 の大きい頬ぺたの赤いひとであった。右か、左の目蓋の上に、小さい赤いほくろがあった。私はそれだけしか覚えていないのである。会えば、わかる。その自信 はあったが、この群集の中から捜し出す事は、むずかしいなあ、と私は運動場を見回してべそをかいた。どうにも、手の下しようが無いのである。
 私はただ、運動場のまわりを、うろうろ歩くばかりである。
「越野たけというひと、どこにいるか、ご存じじゃありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたずねた。「五十くらいのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。
「金物屋の越野。」青年は考えて、「あ、向うのあのへんの小屋にいたような気がするな。」
「そうですか。あのへんですか?」
「さあ、はっきりは、わからない。何だか、見かけたような気がするんだが、まあ、捜してごらん。」
 その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざったらしく打明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言い、その漠然 と指差された方角へ行ってまごまごしてみたが、そんな事でわかる筈は無かった。とうとう私は、昼食さいちゅうの団欒の掛小屋の中に、ぬっと顔を突き入れ、
「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらじゃございませんか。」
「ちがいますよ。」ふとったおかみさんは不機嫌そうに眉をひそめて言う。
「そうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかったでしょうか。」
「さあ、わかりませんねえ。何せ、おおぜいの人ですから。」
 私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはいませんか、金物屋のたけはいませ んか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまわったが、わからなかった。二日酔いの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行って水を飲み、そ れからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジャンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福そうな賑わいを、ぼんやり眺めた。この中に、いるのだ。た しかに、いるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせているのであろう。いっそ、学校の先生にたのんで、メガホ ンで「越野たけさん、御面会」とでも叫んでもらおうかしら、とも思ったが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだった。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事 までして無理に自分の喜びをでっち上げるのはイヤだった。縁が無いのだ。神様が会うなとおっしゃっているのだ。帰ろう。私は、ジャンパーを着て立ち上っ た。また畦道を伝って歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待っていたっていいじゃないか。そ うも思ったが、その四時間、宿屋の汚い一室でしょんぼり待っているうちに、もう、たけなんかどうでもいいような、腹立たしい気持になりやしないだろうか。 私は、いまのこの気持のままでたけに会いたいのだ。しかし、どうしても会う事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたずねて来て、すぐそこ に、いまいるという事がちゃんとわかっていながら、会えずに帰るというのも、私のこれまでの要領の悪かった生涯にふさわしい出来事なのかも知れない。私が 有頂天で立てた計画は、いつでもこのように、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰ろう。考えてみると、い かに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕って、ひとめ会いたいだのな んだの、それだからお前はだめだというのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思うのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違って、どうし てこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだろう。しっかりせんかい。私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行き が出る。もう、それっきりで、あとは無いという事であった。一時三十分のバスで帰る事にきめた。もう三十分くらいあいだがある。少しおなかもすいて来てい る。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ這入って、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが」と言い、また内心は、やっぱり未練のようなものがあって、もしこの 宿が感じがよかったら、ここで四時頃まで休ませてもらって、などと考えてもいたのであるが、断られた。きょうは内の者がみな運動会へ行っているので、何も 出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷い返事をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をお ろし、十分くらい休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それじゃあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行って、ひと知れず今生のいとま乞いでもし て来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはずれている。そうして戸が二、三寸あいている。天のたすけ! と勇気百倍、グ ワラリという品の悪い形容でも使わなければ間に合わないほど勢い込んでガラス戸を押しあけ、
「ごめん下さい、ごめん下さい。」
「はい。」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、
「金木の津島です。」と名乗った。
 少女は、あ、と言って笑った。津島の子供を育てたという事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言って聞かせていたのかも知れない。もうそれ だけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなった。ありがたいものだと思った。私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で 言える。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたっていい。私は、この少女ときょうだいだ。
「ああ、よかった。」私は思わずそう口走って、「たけは? まだ、運動会?」
「そう。」少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついて首肯き、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰ったの。」気の毒だが、その腹 いたが、よかったのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまえたからには、もう安心。大丈夫たけに会える。もう何が何でもこの子に縋って、離れなけれやいいの だ。
「ずいぶん運動場を捜し回ったんだが、見つからなかった。」
「そう。」と言ってかすかに首肯き、おなかをおさえた。
「まだ痛いか。」
「すこし。」と言った。
「薬を飲んだか。」
 黙って首肯く。
「ひどく痛いか。」
 笑って、かぶりを振った。
「それじゃあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行ってくれよ。お前もおなかが痛いだろうが、僕だって、遠くから来たんだ。歩けるか。」
「うん。」と大きく首肯いた。
「偉い、偉い。じゃあ一つたのむよ。」
 うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつっかけ、おなかをおさえて、からだをくの字に曲げながら家を出た。
「運動会で走ったか。」
「走った。」
「賞品をもらったか。」
「もらわない。」
 おなかをおさえながら、とっとと私の先に立って歩く。また畦道をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな目をして私を見た。
「修治だ。」私は笑って帽子をとった。
「あらあ。」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたよ うな弱い口調で、「さ、はいって運動会を。」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお座りになりせえ。」とたけの傍に座らせ、たけはそれきり何も言 わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安 心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風 の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なく なった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その 子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。そうだったら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまっている。そんな有難い 母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしているやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。

「津軽」の像

「津軽」の像記念館

 たけの頬は、やっぱり赤くて、そうして、右の目蓋の上には、小さい罌粟(けし)粒ほどの赤いほくろが、ちゃんとある。髪には 白髪もまじっているが、でも、いま私のわきにきちんと座っているたけは、私の幼い頃の思い出のたけと、少しも変わっていない。あとで聞いたが、たけが私の 家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、けれど も、私の思い出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま目の前に見るこのたけと寸分もちがわない老成した人であった。これもあとで、たけから聞 いた事だが、その日、たけの締めていたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公していた頃にも締めていたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、 私の家からもらったものだという事である。そのせいもあったのかも知れないが、たけは、私の思い出とそっくり同じ匂いで座っている。たぶん贔屓目であろう が、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違った気位を持っているように感ぜられた。着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄 は、まさか、いきではないが、でも、選択がしっかりしている。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持っている。私も、いつまでも黙っていたら、し ばらく経ってたけは、まっすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかった。 でも、やはり黙っていた。
 たけは、ふと気がついたようにして、
「何か、たべないか。」と私に言った。
「要らない。」と答えた。本当に、何もたべたくなかった。
「餅があるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。
「いいんだ。食いたくないんだ。」
 たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、「餅のほうでないんだものな。」と小声で言って微笑んだ。三十年ちかく互いに消息が無くても、私の酒飲みをちゃんと察しているようである。不思議なものだ。私がにやにやしていたら、たけは眉をひそめ、
「たばこも飲むのう。さっきから、立てつづけにふかしている。たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきゃのう。」と言った。油断大敵のれいである。私は笑いを収めた。
 私が真面目な顔になってしまったら、こんどは、たけのほうで笑い、立ち上って、
「竜神様の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘った。
「ああ、行こう。」
 私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登った。砂山には、スミレが咲いていた。背の低い藤の蔓も、這い拡がっている。たけは黙っての ぼって行く。私も何も言わず、ぶらぶら歩いてついて行った。砂山を登り切って、だらだら降りると竜神様の森があって、その森の小路のところどころに八重桜 が咲いている。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取って、歩きながらその枝の花をむしって地べたに投げ捨て、それから立ちどまって、 勢いよく私のほうに向き直り、にわかに、堰を切ったみたいに能弁になった。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小 屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十 年ちかく、たけはお前に会いたくて、会えるかな、会えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はる ばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、 お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩き まわって、庫の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、愛ご くてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、 お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言うたびごとに、手にしている桜の小枝の花を夢中で、むしり 取っては捨て、むしり取っては捨てている。
「子供は?」とうとうその小枝もへし折って捨て、両肘を張ってモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答えた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
 次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。 きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気付いた。私は、この時はじめて、私の育ち の本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於 けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人 たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
 さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと 思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽したようにも思われる。私は虚飾を行わなかっ た。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。
 
 
 
 

※編注  文中604行目のまたは■にある■は、魚へんに雷と書く文字であるが、JISで定義されておらず、代わりになる文字もないため、魚雷(全角二文字ー横書きのみ可能)で表記した。