水上を歩く

                             渡部芳紀

谷川岳を南方より眺める


 

 太宰治は、昭和十一年八月七日、パピナール 中毒と肺病をなおそうと谷川温泉を訪れている。

 八月十二日付け小館善四郎宛書簡で

<七日 から、こちらに来てゐます。丈夫にならうと 存じ、苦しく、それでも、人類最高の苦しみ 、くぐり抜けて、肺病もとにかく、おさえて 、それから下山するつもりです。一日一円な にがし、半ば自炊、まずしく不自由、蚤がも つとも、苦しく存じます。中毒も、一日一日 苦痛うすらぎ、山の険しい霊気に打たれて、 蜻蛉すら、かげうすく、はらはら幽霊みたい に飛んでゐます。>

と書いているような生活 であったのだろう。この間、「創生記」の執 筆にも努める。

 八月一一日、太宰の期待していた第三回芥 川賞(昭和一一年上半期)に落選した事を知 り、「創生記」の末尾に「山上通信」を執筆。 その中で、選考委員の佐藤春夫から予め打診 があり無理が無かったら貰って下さいと頼ん でいた事などを書いた。

 この文が後々太宰の 一生に大きく影響して行く。

 「創生記」に佐 藤春夫とのいきさつを書いた事から、パビナ ール中毒治療の必要性が求められ武蔵野病院 に半ば騙されるようにして入院させられる事 になる。
 その十月十三日から十一月十二日ま での一ヵ月の入院期間中に、妻初代が太宰の 親類の学生と姦通を犯し結局離婚することに なる。
 離婚を決意するきっかけになったのが 昭和十二年三月下旬の水上村谷川温泉に於け る妻との心中事件である。

 心中を決意した太 宰と妻初代は、太宰が前年の夏世話になった 川久保屋に一泊、翌日、谷川温泉から水上に 戻る途中の山中で心中を計ったという。心中 には失敗し、結局二人は別れることになる。
 その顛末を記したのが「姥捨」である。

 太宰 は、武蔵野病院入院、妻の姦通による離婚の あと作風を大きく変え、いわゆる中期に入っ て行くことになる。この水上谷川温泉は太宰 の人生と作品にとって重要な位置を占めてい るのである。
では次に、水上の谷川温泉を訪 ねてみよう。

 水上駅に下りたら駅前の観光会館で水上の 観光パンフレットを貰おう。その中には「水 上文学歌碑巡り」もある。太宰の「姥捨」の 碑も紹介されている。

 谷川温泉は駅から三キ ロ弱の距離である。少々の登りになる。体力 に合わせてタクシーにするか歩きにするか選 択したい。谷川温泉行きのバスもある。

 駅を出て駅前の道を右へ辿る。左に道なり に曲がり三百メートルも行くと利根川に掛か った谷川橋を渡る。橋を渡った向かい上には 水上町役場がある。ここでも町のパンフレッ トや文学歌碑巡りの冊子が貰える。

 橋を渡り 左へ曲がり二百メートルも行くと芦間の三叉 路に出る。信号の所から右斜め上へ入ってい くのが谷川温泉への道である。
 ゆったりとし た登り坂のその道を登って行こう。右手は山 、左には眼下に水上の温泉街が見える。
 二三 百メートルも行くと道は大きく右へカーブす る。左に水上中学校へ渡る横吹橋がある。
 道 はさらに右へと回って行き左下に谷川を見な がら北へ向かう。
 橋から二〇〇メートルも行 くと左に下がる小道と別れる。
 さらに百メー トルも行くと左に谷川岳・谷川温泉と書いた 大きな標識がある。自動車二、三台が駐車で きそうな空き地があり谷川岳が展望できる。
 そのやや先の右手道路脇に太宰治の「姥捨」 の文学碑がある。

 私が訪れたのは、三月 三十日であったが地図や話で聞いた位置に見 つからない。もしやと道端の岩の雪を手で掻 き退けたら本を開いた形の太宰碑が出て来た 。碑には

 小説
  姥捨
        太宰治
水上駅に到 着したのは、朝の四時である。まだ暗かった 。心配していた雪もたいてい消えていて、駅 のもの蔭に薄鼠いろして静かにのこっている だけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで 歩いて行けるかも知れないと思ったが、それ でも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩 き起した。

と「姥捨」の一節が、現代表記 で彫られている。

「姥捨」の碑


 この辺りが作品で主人公達 が心中を計った場所ということからこの地に 造られたのであろう。

 作品には
<だらだら山 を下るにしたがつて、雪も薄くなり、嘉七は 小声で、あそこか、ここか、かず枝に相談を はじめた。かず枝は、もつと水上みなかみの駅に ちかいはうが、淋しくなくてよい、と言つた 。やがて、水上のまちが、眼下にくろく展開 した。>

と書いてあるので、作者としては、 心中の場は、ここより百メートルから二百メ ートル位水上寄りのカーブに近い辺りに設定 しているのであろう。

さらに
<路の左側の杉 林に、嘉七は、わざとゆつくりはひつていつ た。(中略)ふたり坐れるほどの草原を、や つと捜し当てた。そこには、すこし日が当た つて、泉もあつた。>

という表現や、心中に 失敗して目が覚めた時、

<深夜の山の杉の木 は、によきによき黙つてつつ立つて、尖つた針の梢こずえ には、冷い半月がかかつてゐた 。>

とも書いてあるので、南あるいはやや東 に向いた水上を見下ろす斜面と設定されてい ると考えられる。現在の水上中学校を見下ろ す辺りがその設定に近いかと思われる。しか し、心中そのものが虚構では無いかとも言わ れる舞台をそれほど詮索することもないであ ろう。谷川岳と谷川を望む現在地が碑の位置 としては適地と言つていいであろう。

 ここより北西へ道なりに一キロちょっと行 けば谷川温泉に到る。

 谷川温泉の手前で道は 右のスキー場へ到る広い道と左の谷川温泉へ の細い道と別れる。

 左の道へ入れば谷川温泉 の町並みの中へ入って行く。左の町営の共同 温泉「湯テルメ・谷川」の入口を過ぎた右手 に旅館たにがわがある。

谷川温泉と谷川岳

 道の左手には三十台 分程の駐車場がある。
 正面には谷川岳の西の 稜線が真っ白に雪を被っている。

 左の駐車場 の道よりに旅館たにがわを背に太宰治の文学 碑が立っている。
 左右二面からなり、
 右には 太宰が好きだった伊藤左千夫の歌が

<池水は 濁りに/にごり藤波の/影もうつらず/雨降 りしきる/録左千夫歌/太宰治>

と彫られ、 左の面には

<太宰治「姥捨」の宿>として
< (前略)川久保屋(中略)の建物をのちに増 改築したのが谷川本館(旅館たにがわ)であ り、現在の駐車場がその跡地にあたる。(中 略)昭和六十三年六月佳日/長篠康一郎>
と彫ってある。

太宰治碑

 ここより五十メートルも奥へ 進んだ左手に旅館金盛館せせらぎがある。「創生記」の末尾の「山上通信」の最後に

<七 日、借銭にてこの山奥の温泉に来たり、なか ばは自炊、粗末の暮しはじめて、文字どほり 着た切り雀、難病の病ひ必ずなほしてからで なければ必ず下山せず、人類最高の苦しみく ぐり抜けて、わがまことの創生記(中略)も う、いやだ。勝手にしろ。誰でもよい、ここ へお金を送つて下さい。私は、肺病をなほし たいのだ。(群馬県谷川温泉金盛館。)>

と 作品の主人公嘉七が逗留していることになっ ている旅館だ。

金盛館/b>

 河原には金盛館専用の野天風 呂もある。

 ひと通り谷川温泉を回ったら、最 後に共同温泉「湯テルメ・谷川」に寄りたい 。五百円でゆっくり温泉に入り休憩できる。 三つの源泉からそれぞれ違った湯が湧きだし ている。河原にある露天風呂からは真っ白に 雪を頂いた谷川岳が眺められる。館の前には 詩曲「谷川岳」の碑が谷川岳を背に立ってい る。

<谷川岳(俎嵒)/白眉の麗峰天空に聳 え/千仭の懸崖雪を粧いて屹つ/夕日は雲に 浮かびて翳る俎嵒まないたぐら/幽谷深沈として人 煙を絶す>と浮き彫りされている。解説板に は、<詩曲「谷川岳」は正面に聳える秀麗な 谷川を讃美して止まない水上町有志による佳 作です/荘重な詩雄渾な曲は、NHKテレビ により全国に放映されました。この碑には限 りなく美しい水上の自然を守ることへの希い が込められています/平成三年十一月>

と書 かれている。俎嵒は谷川岳の西南に延びる尾 根で谷川温泉の谷川の向こうに真っ白に光っ ている。

「姥捨」で、主人公が泊まった部屋 からの眺めを

<そとは、いくらか明るくなつてゐて、まつ白な山腹が、すぐ眼のまへに現 はれた。谷間を覗いてみると、もやもや朝霧 の底に一條の谷川が黒く流れてゐるのが見え た。>

と書いているのもこの山の姿を写した ものであろう。

谷川温泉より谷川岳西稜線

旅館たにがわから五十メートルも水上より に小さな沢がある。沢に沿って左に曲がり百 メートルも登って行くと左に富士浅間神社の 登り口がある。石段を登り杉の参道を百メー トルも行くと神社本殿がある。本殿に向かっ て右手に若山牧水の歌碑がある。

<わがゆく は山の窪なるひとつ路冬日ひかりて氷たる路 >

と彫ってある。大正七年、当地を訪れた際 の歌である。

 時間の許す時は、水上町各地に点在する歌 碑・文学碑を訪ねるのも良い。

与謝野 晶子・寛、林房雄、吉井勇、川田順、西条八 十、北原白秋、若山牧水碑がある。

四万温泉

 昭和十五年四月三十日、太宰治は井伏 鱒二、伊馬鵜平等と訪れる。
四万館に泊まり 、五月一日、帰京。

その時の太宰の様子を井伏は、

<太宰治君は人に恥をかかせないやう に気をくばる人であつた。いつか伊馬君の案 内で太宰君と一緒に四万温泉に行き、宿の裏 で熊笹の竹の子がたくさん生えてゐるのを見 て、それを採り集めた。そのころ私は根曲竹 と熊笹の竹の子の区別を知らなかつたので、 太宰君に「この竹の子は、津軽で食べる竹の 子だね」と云つて採集を手伝つてもらつた。 太宰君は大儀さうに手伝つてくれた。(中略 )根曲竹をよく知つてゐた筈の太宰君は、四 万温泉で大儀さうに熊笹の竹の子を採る手伝 いひをしてくれた。「それは食用の竹の子で はない」と云ふ代わりに、のろくさと竹の子 狩の仲間になつてくれた。こんな心づかひす る性質では、私の気のつかなかつたことで相 当な心づかひをさせてゐたかもわからない。 >(井伏鱒二「太宰治のこと」)

と回想して いる。

 


「太宰治資料館」ホームページ


「名作のふるさと」ホームページ


渡部芳紀研究室
中央大学文学部文学科国文学専攻