思い出


                                  太宰治作・渡部芳紀写真

岩木山(金木より)

       一章

 黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立っていた。叔母は誰かをおんぶしているらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路の静け さを私は忘れずにいる。叔母は、てんしさまがお隠れになったのだ、と私に教えて、生き神様、と言い添えた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたような気が する。それから、私は何か不敬なことを言ったらしい。叔母は、そんなことを言うものでない、お隠れになったと言え、と私をたしなめた。どこへお隠れになっ たのだろう、と私は知っていながら、わざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す。
 私は明治四十二年の夏の生れであるから、此の大帝崩御のときは数えどしの四つをすこし越えていた。多分おなじ頃の事であったろうと思うが、私 は叔母とふたりで私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き、そこで見た滝を忘れない。滝は村にちかい山の中にあった。青々と苔の生えた崖から幅 の広い滝がしろく落ちていた。知らない男の人の肩車に乗って私はそれを眺めた。何かの社が傍にあって、その男の人が私にそこのさまざまな絵馬を見せたが私 は段々とさびしくなって、がちゃ、がちゃ、と泣いた。私は叔母をがちゃと呼んでいたのである。叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を敷いて騒いでいた が、私の泣き声を聞いて、いそいで立ち上った。そのとき毛氈が足にひっかかったらしく、お辞儀でもするようにからだを深くよろめかした。他のひとたちはそ れを見て、酔った、酔ったと叔母をはやしたてた。私は遥かはなれてこれを見おろし、口惜しくて口惜しくて、いよいよ大声を立てて泣き喚いた。またある夜、 叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。叔母の胸は玄関のくぐり戸いっぱいにふさがっていた。その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたってい た。叔母は、お前がいやになった、とあらあらしく呟くのである。私は叔母のその乳房に頬をよせて、そうしないでけんせ、と願いつつしきりに涙を流した。叔 母が私を揺り起した時は、私は床の中で叔母の胸に顔を押しつけて泣いていた。眼が覚めてからも、私はまだまだ悲しくて永いことすすり泣いた。けれども、そ の夢のことは叔母にも誰にも話さなかった。

藤の滝

 叔母についての追憶はいろいろとあるが、その頃の父母の思い出は生憎と一つも持ち合せない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母 と叔母の娘四人の大家族だった筈であるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにいたと言ってよい。広い裏庭に、むかし林檎 の大木が五六本あったようで、どんよりと曇った日、それらの木に女の子が多人数で昇って行った有様や、そのおなじ庭の一隅に菊畑があって、雨の降っていた とき、私はやはり大勢の女の子らと傘さし合って菊の花の咲きそろっているのを眺めたことなど、幽かに覚えて居るけれど、あの女の子らが私の姉や従姉たち だったかも知れない。
 六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢 中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなればたけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませ た。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見 せて説明した。火を放けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。 血の池や、針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐 けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。
雲祥寺

 そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のよう な黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから回して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその回した人は極楽へ行き、一旦とまりそうに なってから、又からんと逆に回れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが回すと、いい音をたててひとしきり回って、かならずひっそりと止るのだけれど、私 が回すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを回して見ても皆言い合せたようにからんから んと逆回りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に回しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその 墓地から立ち去った。

卒塔婆(後生車)

 父母はその頃東京にすまっていたらしく、私は叔母に連れられて上京した。私は余程ながく東京に居たのだそうであるが、あまり記憶に残っていない。その東 京の別宅へ、ときどき訪れる婆のことを覚えているだけである。私は此の婆がきらいで、婆の来る度毎に泣いた。婆は私に赤い郵便自動車の玩具をひとつ呉れた が、ちっとも面白くなかったのである。
 やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかいなくなっていた。或漁村へ嫁に行ったのであるが、私が そのあとを追うだろうという懸念からか、私には何も言わずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよ そしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代って知らせたようだ。たけは、油断大敵でせえ、と言っただけで格別ほめもしな かった。
 同じ頃、叔母とも別れなければならぬ事情が起った。それまでに叔母の次女は嫁ぎ、三女は死に、長女は歯医者の養子をとっていた。叔母はその長 女夫婦と末娘とを連れて、遠くのまちへ分家したのである。私もついて行った。それは冬のことで、私は叔母と一緒に橇の隅へうずくまっていると、橇の動きだ す前に私のすぐ上の兄が、婿、婿と私を罵って橇の幌の外から私の尻を何辺もつついた。私は歯を食いしばって此の屈辱にこらえた。私は叔母に貰われたのだと 思っていたが、学校にはいるようになったら、また故郷へ返されたのである。
 学校に入ってからの私は、もう子供でなかった。裏の空屋敷には色んな雑草がのんのんと繁っていたが、夏の或る天気のいい日に私はその草原の上 で弟の子守から息苦しいことを教えられた。私が八つぐらいで、子守もそのころは十四五を越えていまいと思う。苜蓿を私の田舎では「ぼくさ」と呼んでいる が、その子守は私と三つちがう弟に、ぼくさの四つ葉を捜して来い、と言いつけて追いやり私を抱いてころころと転げ回った。それからも私たちは蔵の中だの押 入の中だのに隠れて遊んだ。弟がひどく邪魔であった。押入のそとにひとり残された弟が、しくしく泣き出した為、私のすぐの兄に私たちのことを見つけられて しまった時もある。兄が弟から聞いて、その押入の戸をあけたのだ。子守は、押入へ銭を落したのだ、と平気で言っていた。
 嘘は私もしじゅう吐いていた。小学二年か三年の雛祭りのとき学校の先生に、うちの人が今日は雛さまを飾るのだから早く帰れと言っている、と嘘 を吐いて授業を一時間も受けずに帰宅し、家の人には、きょうは桃の節句だから学校は休みです、と言って雛を箱から出すのに要らぬ手伝いをしたことがある。 また私は小鳥の卵を愛した。雀の卵は蔵の屋根瓦をはぐと、いつでもたくさん手にいれられたが、さくらどりの卵やからすの卵などは私の屋根に転ってなかった のだ。その燃えるような緑の卵や可笑しい斑点のある卵を、私は学校の生徒たちから貰った。その代り私はその生徒たちに私の蔵書を五冊十冊とまとめて与える のである。集めた卵は綿でくるんで机の引き出しに一杯しまって置いた。すぐの兄は、私のその秘密の取引に感づいたらしく、ある晩、私に西洋の童話集ともう 一冊なんの本だか忘れたが、その二つを貸して呉れと言った。私は兄の意地悪さを憎んだ。私はその両方の本とも卵に投資して了ってないのであった。兄は私が ないと言えばその本の行先を追及するつもりなのだ。私は、きっとあった筈だから捜して見る、と答えた。私は、私の部屋は勿論、家中いっぱいランプをさげて 捜して歩いた。兄は私についてあるきながら、ないのだろう、と言って笑っていた。私は、ある、と頑強に言い張った。台所の戸棚の上によじのぼってまで捜し た。兄はしまいに、もういい、と言った。
 学校で作る私の綴方も、ことごとく出鱈目であったと言ってよい。私は私自身を神妙ないい子にして綴るよう努力した。そうすれば、いつも皆に かっさいされるのである。剽窃さえした。当時傑作として先生たちに言いはやされた「弟の影絵」というのは、なにか少年雑誌の一等当選作だったのを私がそっ くり盗んだものである。先生は私にそれを毛筆で清書させ、展覧会に出させた。あとで本好きのひとりの生徒にそれを発見され、私はその生徒の死ぬことを祈っ た。やはりそのころ「秋の夜」というのも皆の先生にほめられたが、それは、私が勉強して頭が痛くなったから縁側へ出て庭を見渡した、月のいい夜で池には鯉 や金魚がたくさん遊んでいた、私はその庭の静かな景色を夢中で眺めていたが、隣部屋から母たちの笑い声がどっと起ったので、はっと気がついたら私の頭痛が なおって居た、という小品文であった。此の中には真実がひとつもないのだ。庭の描写は、たしか姉たちの作文帳から抜き取ったものであったし、だいいち私は 頭のいたくなるほど勉強した覚えなどさっぱりないのである。私は学校が嫌いで、したがって学校の本など勉強したことは一回もなかった。娯楽本ばかり読んで いたのである。うちの人は私が本さえ読んで居れば、それを勉強だと思っていた。
 しかし私が綴方へ真実を書き込むと必ずよくない結果が起ったのである。父母が私を愛して呉れないという不平を書き綴ったときには、受持訓導に 教員室へ呼ばれて叱られた。「もし戦争が起ったなら。」という題を与えられて、地震雷火事親爺、それ以上に怖い戦争が起ったなら先ず山の中へでも逃げ込も う、逃げるついでに先生をも誘おう、先生も人間、僕も人間、いくさの怖いのは同じであろう、と書いた。此の時には校長と次席訓導とが二人がかりで私を調べ た。どういう気持で之を書いたか、と聞かれたので、私はただ面白半分に書きました、といい加減なごまかしを言った。次席訓導は手帖へ、「好奇心」と書き込 んだ。それから私と次席訓導とが少し議論を始めた。先生も人間、僕も人間、と書いてあるが人間というものは皆おなじものか、と彼は尋ねた。そう思う、と私 はもじもじしながら答えた。私はいったいに口が重い方であった。それでは僕と此の校長先生とは同じ人間でありながら、どうして給料が違うのだ、と彼に問わ れて私は暫く考えた。そして、それは仕事がちがうからでないか、と答えた。鉄縁の眼鏡をかけ、顔の細い次席訓導は私のその言葉をすぐ手帖に書きとった。私 はかねてから此の先生に好意を持っていた。それから彼は私にこんな質問をした。君のお父さんと僕たちとは同じ人間か。私は困って何とも答えなかった。
 私の父は非常に忙しい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居らなかった。私は此の父を恐れていた。父の万年 筆をほしがっていながらそれを言い出せないで、ひとり色々と思い悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶったまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひ つ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があったけれど、勿論それは父の耳にも心にもはいらなかったらしい。私と弟とが米俵のぎっしり積まれたひ ろい米蔵に入って面白く遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、坊主、出ろ、出ろ、と叱った。光を背から受けているので父の大きい姿がまっくろに見え た。私は、あの時の恐怖を惟うと今でもいやな気がする。
 母に対しても私は親しめなかった。乳母の乳で育って叔母の懐で大きくなった私は、小学校の二三年のときまで母を知らなかったのである。下男が ふたりかかって私にそれを教えたのだが、ある夜、傍に寝ていた母が私の蒲団の動くのを不審がって、なにをしているのか、と私に尋ねた。私はひどく当惑し て、腰が痛いからあんまやっているのだ、と返事した。母は、そんなら揉んだらいい、たたいて許りいたって、と眠そうに言った。私は黙ってしばらく腰を撫で さすった。母への追憶はわびしいものが多い。私が蔵から兄の洋服を出し、それを着て裏庭の花壇の間をぶらぶら歩きながら、私の即興的に作曲する哀調のこ もった歌を口ずさんでは涙ぐんでいた。私はその身装で帳場の書生と遊びたく思い、女中を呼びにやったが、書生は仲々来なかった。私は裏庭の竹垣を靴先でか らからと撫でたりしながら彼を待っていたのであるが、とうとうしびれを切らして、ズボンのポケットに両手をつっ込んだまま泣き出した。私の泣いているのを 見つけた母は、どうした訳か、その洋服をはぎ取って了って私の尻をぴしゃぴしゃとぶったのである。私は身を切られるような恥辱を感じた。
 私は早くから服装に関心を持っていたのである。シャツの袖口にはボタンが付いていないと承知できなかった。白いフランネルのシャツを好んだ。 襦袢の襟も白くなければいけなかった。えりもとからその白襟を一分か二分のぞかせるように注意した。十五夜のときには、村の生徒たちはみんな晴衣を着て学 校へ出て来るが、私も毎年きまって茶色の太い縞のある本ネルの着物を着て行って、学校の狭い廊下を女のようになよなよと小走りにはしって見たりするので あった。私はそのようなおしゃれを、人に感付かれぬようひそかにやった。うちの人たちは私の容貌を兄弟中で一番わるいわるい、と言っていたし、そのような 悪いおとこが、こんなおしゃれをすると知られたら皆に笑われるだろう、と考えたからである。私は、かえって服装に無関心であるように振舞い、しかもそれは 或る程度まで成功したように思う。誰の眼にも私は鈍重で野暮臭く見えたにちがいないのだ。私が兄弟たちとお膳のまえに座っているときなど、祖母や母がよく 私の顔のわるい事を真面目に言ったものだが、私にはやはりくやしかった。私は自分をいいおとこだと信じていたので、女中部屋なんかへ行って、兄弟中で誰が 一番いいおとこだろう、とそれとなく聞くことがあった。女中たちは、長兄が一番で、その次が治ちゃだ、と大抵そう言った。私は顔を赤くして、それでも少し 不満だった。長兄よりもいいおとこだと言って欲しかったのである。
 私は容貌のことだけでなく、不器用だという点で祖母たちの気にいらなかった。箸の持ちかたが下手で食事の度毎に祖母から注意されたし、私のお じぎは尻があがって見苦しいとも言われた。私は祖母の前にきちんと座らされ、何回も何回もおじぎをさせられたけれど、いくらやって見ても祖母は上手だと 言って呉れないのである。
 祖母も私にとって苦手であったのだ。村の芝居小屋の舞台開きに東京の雀三郎一座というのがかかったとき、私はその興業中いちにちも欠かさず見 物に行った。その小屋は私の父が建てたのだから、私はいつでもただでいい席に座れたのである。学校から帰るとすぐ、私は柔い着物と着換え、端に小さい鉛筆 をむすびつけた細い銀鎖を帯に吊りさげて芝居小屋へ走った。生れて始めて歌舞伎というものを知ったのであるし、私は興奮して、狂言を見ている間も幾度とな く涙を流した。その興行が済んでから、私は弟や親類の子らを集めて一座を作り自分で芝居をやって見た。私は前からこんな催物が好きで、下男や女中たちを集 めては、昔話を聞かせたり、幻灯や活動写真を映して見せたりしたものである。そのときには、「山中鹿之助」と「鳩の家」と「かっぽれ」と三つの狂言を並べ た。山中鹿之助が谷河の岸の或る茶店で、早川鮎之助という家来を得る条を或る少年雑誌から抜き取って、それを私が脚色した。拙者は山中鹿之助と申すもので あるが、――という長い言葉を歌舞伎の七五調に直すのに苦心をした。「鳩の家」は私がなんべん繰り返して読んでも必ず涙の出た長編小説で、その中でも殊に 哀れな所を二幕に仕上げたものであった。「かっぽれ」は雀三郎一座がおしまいの幕の時、いつも楽屋総出でそれを踊ったものだから、私もそれを踊ることにし たのである。五六にち稽古して愈々その日、文庫蔵のまえの広い廊下を舞台にして、小さい引幕などをこしらえた。昼のうちからそんな準備をしていたのだが、 その引幕の針金に祖母が顎をひっかけて了った。祖母は、此の針金でわたしを殺すつもりか、河原乞食の真似糞はやめろ、と言って私たちをののしった。それで もその晩はやはり下男や女中たちを十人ほど集めてその芝居をやってみせたが、祖母の言葉を考えると私の胸は重くふさがった。私は山中鹿之助や「鳩の家」の 男の子の役をつとめ、かっぽれも踊ったけれど少しも気乗りがせずたまらなく淋しかった。そののちも私はときどき「牛盗人」や「皿屋敷」や「俊徳丸」などの 芝居をやったが、祖母はその都度にがにがしげにしていた。
 私は祖母を好いてはいなかったが、私の眠られない夜には祖母を有難く思うことがあった。私は小学三四年のころから不眠症にかかって、夜の二時 になっても三時になっても眠れないで、よく寝床のなかで泣いた。寝る前に砂糖をなめればいいとか、時計のかちかちを数えるとか、水で両足を冷せとか、ねむ のきの葉を枕のしたに敷いて寝るといいとか、さまざまの眠る工夫をうちの人たちから教えられたが、あまり効目がなかったようである。私は苦労性であって、 いろんなことをほじくり返して気にするものだから、尚のこと眠れなかったのであろう。父の鼻眼鏡をこっそりいじくって、ぽきっとその硝子を割ってしまった ときには、幾夜もつづけて寝苦しい思いをした。一軒置いて隣りの小間物屋では書物類もわずか売っていて、ある日私は、そこで婦人雑誌の口絵などを見ていた が、そのうちの一枚で黄色い人魚の水彩画が欲しくてならず、盗もうと考えて静かに雑誌から切り離していたら、そこの若主人に、治こ、治こ、と見とがめら れ、その雑誌を音高く店の畳に投げつけて家まで飛んではしって来たことがあったけれど、そういうやりそこないもまた私をひどく眠らせなかった。私は又、寝 床の中で火事の恐怖に理由なく苦しめられた。此の家が焼けたら、と思うと眠るどころではなかったのである。いつかの夜、私が寝しなに厠へ行ったら、その厠 と廊下ひとつ隔てた真暗い帳場の部屋で、書生がひとりして活動写真をうつしていた。白熊の、氷の崖から海へ飛び込む有様が、部屋の襖ヘマッチ箱ほどの大き さでちらちら映っていたのである。私はそれを覗いて見て、書生のそういう心持が堪らなく悲しく思われた。床に就いてからも、その活動写真のことを考えると 胸がどきどきしてならぬのだ。書生の身の上を思ったり、また、その映写機のフィルムから発火して大事になったらどうしようとそのことが心配で心配で、その 夜はあけがた近くになる迄まどろむ事が出来なかったのである。祖母を有難く思うのはこんな夜であった。
 まず、晩の八時ごろ女中が私を寝かして呉れて、私の眠るまではその女中も私の傍に寝ながら付いていなければならなかったのだが、私は女中を気 の毒に思い、床につくとすぐ眠ったふりをするのである。女中がこっそり私の床から脱け出るのを覚えつつ、私は睡眠できるようひたすら念じるのである。十時 頃まで床のなかで転輾してから、私はめそめそ泣き出して起き上る。その時分になると、うちの人は皆寝てしまっていて、祖母だけが起きているのだ。祖母は夜 番の爺と、台所の大きい囲炉裏を挟んで話をしている。私はたんぜんを着たままその間にはいって、むっつりしながら彼等の話を聞いているのである。彼等はき まって村の人々の噂話をしていた。或る秋の夜更に、私は彼等のぼそぼそと語り合う話に耳傾けていると、遠くから虫おくり祭の太鼓の音がどんどんと響いて来 たが、それを聞いて、ああ、まだ起きている人がたくさんあるのだ、とずいぶん気強く思ったことだけは忘れずにいる。
 音に就いて思い出す。私の長兄は、そのころ東京の大学にいたが、暑中休暇になって帰郷する度毎に、音楽や文学などのあたらしい趣味を田舎へひ ろめた。長兄は劇を勉強していた。或る郷土の雑誌に発表した「奪い合い」という一幕物は、村の若い人たちの間で評判だった。それを仕上げたとき、長兄は数 多くの弟や妹たちにも読んで聞かせた。皆、判らない判らない、と言って聞いていたが、私には判った。幕切の、くらい晩だなあ、という一言に含まれた詩をさ え理解できた。私はそれに「奪い合い」でなく「あざみ草」と言う題をつけるべきだと考えたので、あとで、兄の書き損じた原稿用紙の隅へ、その私の意見を小 さく書いて置いた。兄は多分それに気が付かなかったのであろう、題名をかえることなくその儘発表して了った。レコオドもかなり集めていた。私の父は、うち で何かの饗応があると必ず、遠い大きなまちからはるばる芸者を呼んで、私も五つ六つの頃から、そんな芸者たちに抱かれたりした記憶があって、「むかしむか しそのむかし」だの「あれは紀のくにみかんぶね」だのの唄や踊りを覚えているのである。そういうことから、私は兄のレコオドの洋楽よりも邦楽の方に早くな じんだ。ある夜、私が寝ていると、兄の部屋からいい音が漏れて来たので、枕から頭をもたげて耳をすました。あくる日、私は朝早く起き兄の部屋へ行って手当 り次第あれこれとレコオドを掛けて見た。そしてとうとう私は見つけた。前夜、私を眠らせぬほど興奮させたそのレコオドは、蘭蝶だった。
 私はけれども長兄より次兄に多く親しんだ。次兄は東京の商業学校を優等で出て、そのまま帰郷し、うちの銀行に勤めていたのである。次兄も亦う ちの人たちに冷く取扱われていた。私は、母や祖母が、いちばん悪いおとこは私で、そのつぎに悪いのは次兄だ、と言っているのを聞いた事があるので、次兄の 不人気もその容貌がもとであろうと思っていた。なんにも要らない、おとこ振りばかりでもよく生れたかった、なあ治、と半分は私をからかうように呟いた次兄 の冗談口を私は記憶している。しかし私は次兄の顔をよくないと本心から感じたことが一度もないのだ。あたまも兄弟のうちではいい方だと信じている。次兄は 毎日のように酒を呑んで祖母と喧嘩した。私はそのたんびひそかに祖母を憎んだ。
 末の兄と私とはお互いに反目していた。私は色々な秘密を此の兄に握られていたので、いつもけむったかった。それに、末の兄と私の弟とは、顔の つくりが似て皆から美しいとほめられていたし、私は此のふたりに上下から圧迫されるような気がしてたまらなかったのである。その兄が東京の中学に行って、 私はようやくほっとした。弟は、末子で優しい顔をしていたから父にも母にも愛された。私は絶えず弟を嫉妬していて、ときどきなぐっては母に叱られ、母をう らんだ。私が十か十一のころのことと思う。私のシャツや襦袢の縫目へ胡麻をふり撒いたようにしらみがたかった時など、弟がそれを鳥渡笑ったというので、文 字通り弟を殴り倒した。けれども私は矢張り心配になって、弟の頭に出来たいくつかの瘤へ不可飲という薬をつけてやった。
 私は姉たちには可愛がられた。いちばん上の姉は死に、次の姉は嫁ぎ、あとの二人の姉はそれぞれ違うまちの女学校へ行っていた。私の村には汽車 がなかったので、三里ほど離れた汽車のあるまちと往き来するのに、夏は馬車、冬は橇、春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くより他なかったのである。姉た ちは橇に酔うので、冬やすみの時も歩いて帰った。私はそのつどつど村端れの材木が積まれてあるところまで迎えに出たのである。日がとっぷり暮れても道は雪 あかりで明るいのだ。やがて隣村の森のかげから姉たちの提灯がちらちら現れると、私は、おう、と大声あげて両手を振った。
 上の姉の学校は下の姉の学校よりも小さいまちにあったので、お土産も下の姉のそれに較べていつも貧しげだった。いつか上の姉が、なにもなくて え、と顔を赤くして言いつつ線香花火を五束六束バスケットから出して私に与えたが、私はそのとき胸をしめつけられる思いがした。此の姉も亦きりょうがわる いとうちの人たちからいわれいわれしていたのである。
 この姉は女学校へはいるまでは、曾祖母とふたりで離座敷に寝起していたものだから、曾祖母の娘だとばかり私は思っていたほどであった。曾祖母 は私が小学校を卒業する頃なくなったが、白い着物を着せられ小さくかじかんだ曾祖母の姿を納棺の際ちらと見た私は、この姿がこののちながく私の目にこびり ついたらどうしようと心配した。
 私は程なく小学校を卒業したが、からだが弱いからと言うので、うちの人たちは私を高等小学校に一年間だけ通わせることにした。からだが丈夫に なったら中学へいれてやる、それも兄たちのように東京の学校では健康に悪いから、もっと田舎の中学へいれてやる、と父が言っていた。私は中学校へなどそれ ほど入りたくなかったのだけれどそれでも、からだが弱くて残念に思う、と綴方へ書いて先生たちの同情を強いたりしていた。
 この時分には、私の村にも町制が敷かれていたが、その高等小学校は私の町と付近の五六カ村と共同で出資して作られたものであって、まちから半 里も離れた松林の中に在った。私は病気のためにしじゅう学校をやすんでいたのだけれどその小学校の代表者だったので、他村からの優等生がたくさん集る高等 小学校でも一番になるよう努めなければいけなかったのである。しかし私はそこでも相変らず勉強をしなかった。いまに中学生に成るのだ、という私の自矜が、 その高等小学校を汚く不愉快に感じさせていたのだ。私は授業中おもに連続の漫画をかいた。休憩時間になると、声色をつかってそれを生徒たちへ説明してやっ た。そんな漫画をかいた手帖が四五冊もたまった。机に頬杖ついて教室の外の景色をぼんやり眺めて一時間を過すこともあった。私は硝子窓の傍に座席をもって いたが、その窓の硝子板には蝿がいっぴき押しつぶされてながいことねばりついたままでいて、それが私の視野の片隅にぼんやりと大きくはいって来ると、私に は雉か山鳩かのように思われ、幾たびとなく驚かされたものであった。私を愛している五六人の生徒たちと一緒に授業を逃げて、松林の裏にある沼の岸辺に寝こ ろびつつ、女生徒の話をしたり、皆で着物をまくってそこにうっすり生えそめた毛を較べ合ったりして遊んだのである。
 その学校は男と女の共学であったが、それでも私は自分から女生徒に近づいたことなどなかった。私は欲情がはげしいから、懸命にそれをおさえ、 女にもたいへん臆病になっていた。私はそれまで、二人三人の女の子から思われたが、いつでも知らない振りをして来たのだった。帝展の入選画帳を父の本棚か ら持ち出しては、その中にひそめられた白い画に頬をほてらせて眺めいったり、私の飼っていたひとつがいの兎にしばしば交尾させ、その雄兎の背中をこんもり と丸くする容姿に胸をときめかせたり、そんなことで私はこらえていた。私は見え坊であったから、あの、あんまをさえ誰にも打ちあけなかった。その害を本で 読んで、それをやめようとさまざまな苦心をしたが、駄目であった。そのうちに私はそんな遠い学校へ毎日あるいてかよったお陰で、からだも太って来た。額の 辺にあわつぶのような小さい吹出物がでてきた。之も恥かしく思った。私はそれへ宝丹膏という薬を真赤に塗った。長兄はそのとし結婚して、祝言の晩に私と弟 とはその新しい嫂の部屋へ忍んで行ったが、嫂は部屋の入口を背にして座って髪を結わせていた。私は鏡に映った花嫁のほのじろい笑顔をちらと見るなり、弟を ひきずって逃げ帰った。そして私は、たいしたもんでねえでば! と力こめて強がりを言った。薬で赤い私の額のためによけい気もひけて、尚のことこんな反発 をしたのであった。
 冬ちかくなって、私も中学校への受験勉強を始めなければいけなくなった。私は雑誌の広告を見て、東京へ色々の参考書を注文した。けれども、そ れを本箱に並べただけで、ちっとも読まなかった。私の受験することになっていた中学校は、県でだいいちのまちに在って、志願者も二三倍は必ずあったのであ る。私はときどき落第の懸念に襲われた。そんな時には私も勉強をした。そして一週間もつづけて勉強すると、すぐ及第の確信がついて来るのだ。勉強するとな ると、夜十二時ちかくまで床につかないで、朝はたいてい四時に起きた。勉強中は、たみという女中を傍に置いて、火をおこさせたり茶をわかさせたりした。た みは、どんなにおそくまで宵っぱりしても翌る朝は、四時になると必ず私を起しに来た。私が算術の鼠が子を産む応用問題などに困らされている傍で、たみはお となしく小説本を読んでいた。あとになって、たみの代りに年とった肥えた女中が私へつくようになったが、それが母のさしがねである事を知った私は、母のそ の底意を考えて顔をしかめた。
 その翌春、雪のまだ深く積っていた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、こ ういうセンセイションの方に興奮を感じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父の死骸は大きい寝棺に横たわり橇に乗って故郷へ帰って来た。私は 大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やがて森の陰から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私は美しいと 思った。
 つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集った。棺の蓋が取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠っているようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣声を聞き、さそわれて涙を流した。
 私の家はそのひとつきもの間、火事のような騒ぎであった。私はその混雑にまぎれて、受験勉強を全く怠ったのである。高等小学校の学年試験にも殆 ど出鱈目な答案を作って出した。私の成績は全体の三番かそれくらいであったが、これは明らかに受持訓導の私のうちに対する遠慮からであった。私はそのころ 既に記憶力の減退を感じていて、したしらべでもして行かないと試験には何も書けなかったのである。私にとってそんな経験は始めてであった。

       二章

 いい成績ではなかったが、私はその春、中学校へ受験して合格をした。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよ して羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織って、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店 で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんをさげてあるその家へ、私はずっと世話になることになっていたのである。

豊田家跡

 私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持っているが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると、私は笑いながらそれへ軽く会釈をしたものである。
 それなのに、学校はちっとも面白くなかった。校舎は、まちの端れにあって、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音 や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにいる教師たちは私をひどく迫害したの である。
合浦公園

 私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであったが、お父さんがな くなってよく勉強もできなかったろう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であっただけに、私のこころはいっそう傷けられた。そ ののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしているとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびが大きいので職員室で評 判である、とも言われた。私はそんな莫迦げたことを話し合っている職員室を、おかしく思った。
 私と同じ町から来ている一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじっさい生意気そうに見える、あんなに殴られてばかり いると落第するにちがいない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたいにひとり家路を急いだ。靴底を波になめられつつ溜息つい て歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いていたら、鼠色のびっくりするほど大きい帆がすぐ目の前をよろよろととおって行った。
 私は散りかけている花弁であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。私は、自分を今 にきっとえらくなるものと思っていたし、英雄としての名誉をまもって、たとい大人の侮りにでも容赦できなかったのであるから、この落第という不名誉も、そ れだけ致命的であったのである。その後の私は兢兢として授業を受けた。授業を受けながらも、この教室のなかには目に見えぬ百人の敵がいるのだと考えて、少 しも油断をしなかった。朝、学校へ出掛けしなには、私の机の上ヘトランプを並べて、その日いちにちの運命を占った。ハアトは大吉であった。ダイヤは半吉、 クラブは半凶、スペエドは大凶であった。そしてその頃は、来る日も来る日もスペエドばかり出たのである。
 それから間もなく試験が来たけれど、私は博物でも地理でも修身でも、教科書の一字一句をそのまま暗記して了うように努めた。これは私のいちか ばちかの潔癖から来ているのであろうが、この勉強法は私の為によくない結果を呼んだ。私は勉強が窮屈でならなかったし、試験の際も、融通がきかなくて、殆 ど完璧に近いよい答案を作ることもあれば、つまらぬ一字一句につまずいて、思索が乱れ、ただ意味もなしに答案用紙を汚している場合もあったのである。
 しかし私の第一学期の成績はクラスの三番であった。操行も甲であった。落第の懸念に苦しまされていた私は、その通告簿を片手に握って、もう一方の手で靴を吊り下げたまま、裏の海岸まではだしで走った。嬉しかったのである。
 一学期をおえて、はじめての帰郷のときは、私は故郷の弟たちに私の中学生生活の短い経験を出来るだけ輝かしく説明したく思って、私がその三四カ月間身につけたすべてのもの、座蒲団のはてまで行李につめた。
 馬車にゆられながら隣村の森を抜けると、幾里四方もの青田の海が展開して、その青田の果てるあたりに私のうちの赤い大屋根が聳えていた。私はそれを眺めて十年も見ない気がした。
太宰治生家

 私はその休暇のひとつきほど得意な気持でいたことがない。私は弟たちへ中学校のことを誇張して夢のように物語った。その小都会の有様をも、つとめて幻妖に物語ったのである。
 私は風景をスケッチしたり昆虫の採集をしたりして、野原や谷川をはしり回った。水彩画を五枚えがくのと珍らしい昆虫の標本を十種あつめるのと が、教師に課された休暇中の宿題であった。私は捕虫網を肩にかついで、弟にはピンセットだの毒壼だののはいった採集鞄を持たせ、もんしろ蝶やばったを追い ながら一日を夏の野原で過した。夜は庭園で焚火をめらめらと燃やして、飛んで来るたくさんの虫を網や箒で片っぱしからたたき落した。末の兄は美術学校の塑 像科へ入っていたが、まいにち中庭の大きい栗の木の下で粘土をいじくっていた。もう女学校を卒えていた私のすぐの姉の胸像を作っていたのである。私も亦そ の傍で、姉の顔を幾枚もスケッチして、兄とお互いの出来上り案配をけなし合った。姉は真面目に私たちのモデルになっていたが、そんな場合おもに私の水彩画 の方の肩を持った。この兄は若いときはみんな天才だ、などと言って、私のあらゆる才能を莫迦にしていた。私の文章をさえ、小学生の綴方、と言って嘲ってい た。私もその当時は、兄の芸術的な力をあからさまに軽蔑していたのである。
 ある晩、その兄が私の寝ているところへ来て、治、珍動物だよ、と声を低くして言いながら、しゃがんで蚊帳の下から鼻紙に軽く包んだものをそっ と入れて寄こした。兄は、私が珍らしい昆虫を集めているのを知っていたのだ。包の中では、かさかさと虫のもがく足音がしていた。私は、そのかすかな音に、 肉親の情を知らされた。私が手暴くその小さい紙包をほどくと、兄は、逃げるぜえ、そら、そら、と息をつめるようにして言った。見ると普通のくわがたむしで あった。私はその鞘翅類をも私の採集した珍昆虫十種のうちにいれて教師へ出した。
 休暇が終りになると私は悲しくなった。故郷をあとにし、その小都会へ来て、呉服商の二階で独りして行李をあけた時には、私はもう少しで泣くと ころであった。私は、そんな淋しい場合には、本屋へ行くことにしていた。そのときも私は近くの本屋へ走った。そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見た だけでも、私の憂愁は不思議に消えるのだ。その本屋の隅の書棚には、私の欲しくても買えない本が五六冊あって、私はときどき、その前へ何気なさそうに立ち 止っては膝をふるわせながらその本の頁を盗み見たものだけれど、しかし私が本屋へ行くのは、なにもそんな医学じみた記事を読むためばかりではなかったので ある。その当時私にとって、どんな本でも休養と慰安であったからである。
 学校の勉強はいよいよ面白くなかった。白地図に山脈や港湾や河川を水絵具で記入する宿題などは、なによりも呪わしかった。私は物事に凝るほう であったから、この地図の彩色には三四時間も費やした。歴史なんかも、教師はわざわざノオトを作らせてそれへ講義の要点を書き込めと言いつけたが、教師の 講義は教科書を読むようなものであったから、自然とそのノオトヘも教科書の文章をそのまま書き写すよりほかなかったのである。私はそれでも成績にみれんが あったので、そんな宿題を毎日せい出してやったのである。秋になると、そのまちの中等学校どうしの色色なスポオツの試合が始った。田舎から出て来た私は、 野球の試合など見たことさえなかった。小説本で、満塁とか、アタックショオトとか、中堅とか、そんな用語を覚えていただけであって、やがて其の試合の観方 をおぼえたけれど余り熱狂できなかった。野球ばかりでなく、庭球でも、柔道でも、なにか他校と試合のある度に私も応援団の一人として、選手たちに声援を与 えなければならなかったのであるが、そのことが尚さら中学生生活をいやなものにして了った。応援団長というのがあって、わざと汚い恰好で日の丸の扇子など を持ち、校庭の隅の小高い岡にのぼって演説をすれば、生徒たちはその団長の姿を、むさい、むさい、と言って喜ぶのである。試合のときは、ひとゲエムのあい まあいまに団長が扇子をひらひらさせて、オオル・スタンド・アップと叫んだ。私たちは立ち上って、紫の小さい三角旗を一斉にゆらゆら振りながら、よい敵よ い敵けなげなれども、という応援歌をうたうのである。そのことは私にとって恥しかった。私は、すきを見ては、その応援から逃げて家へ帰った。
 しかし、私にもスポオツの経験がない訳ではなかったのである。私の顔が蒼黒くて、私はそれを例のあんまの故であると信じていたので、人から私 の顔色を言われると、私のその秘密を指摘されたようにどぎまぎした。私は、どんなにかして血色をよくしたく思い、スポオツをはじめたのである。
 私はよほど前からこの血色を苦にしていたものであった。小学校四五年のころ、末の兄からデモクラシイという思想を聞き、母までデモクラシイの ため税金がめっきり高くなって作米の殆どみんなを税金に取られる、と客たちにこぼしているのを耳にして、私はその思想に心弱くうろたえた。そして、夏は下 男たちの庭の草刈に手つだいしたり、冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら、下男たちにデモクラシイの思想を教えた。そうして、下男たちは私の手 助けを余りよろこばなかったのをやがて知った。私の刈った草などは後からまた彼等が刈り直さなければいけなかったらしいのである。私は下男たちを助ける名 の陰で、私の顔色をよくする事をも計っていたのであったが、それほど労働してさえ私の顔色はよくならなかったのである。
 中学校にはいるようになってから、私はスポオツに依っていい顔色を得ようと思いたって、暑いじぶんには、学校の帰りしなに必ず海へはいって泳 いだ。私は胸泳といって雨蛙のように両脚をひらいて泳ぐ方法を好んだ。頭を水から真直に出して泳ぐのだから、波の起伏のこまかい縞目も、岸の青葉も、流れ る雲も、みんな泳ぎながらに眺められるのだ。私は亀のように頭をすっとできるだけ高くのばして泳いだ。すこしでも顔を太陽に近寄せて、早く日焼がしたいか らであった。
 また、私のいたうちの裏がひろい墓地だったので、私はそこへ百米の直線コオスを作り、ひとりでまじめに走った。その墓地はたかいポプラの繁み で囲まれていて、はしり疲れると私はそこの卒塔婆の文字などを読み読みしながらぶらついた。月穿潭底とか、三界唯一心とかの句をいまでも忘れずにいる。あ る日私は、銭苔のいっぱい生えている黒くしめった墓石に、寂性清寥居士という名前を見つけてかなり心を騒がせ、その墓のまえに新しく飾られてあった紙の蓮 華の白い葉に、おれはいま土のしたで蛆虫とあそんでいる、と或る仏蘭西の詩人から暗示された言葉を、泥を含ませた私の人指ゆびでもって、さも幽霊が記した かのようにほそぼそとなすり書いて置いた。そのあくる日の夕方、私は運動にとりかかる前に、先ずきのうの墓標へお参りしたら、朝の驟雨で亡魂の文字はその 近親の誰をも泣かせぬうちに跡かたもなく洗いさらわれて、蓮華の白い葉もところどころ破れていた。
常光寺

 私はそんな事をして遊んでいたのであったが、走る事も大変巧くなったのである。両脚の筋肉もくりくりと丸くふくれて来た。けれども顔色は、やっぱりよくならなかったのだ。黒い表皮の底には、濁った蒼い色が気持悪くよどんでいた。
 私は顔に興味を持っていたのである。読書にあきると手鏡をとり出し、微笑んだり眉をひそめたり頬杖ついて思案にくれたりして、その表情をあかず 眺めた。私は必ずひとを笑わせることの出来る表情を会得した。目を細くして鼻を皺め、口を小さく尖らすと、児熊のようで可愛かったのである。私は不満なと きや当惑したときにその顔をした。私のすぐの姉はそのじぶん、まちの県立病院の内科へ入院していたが、私は姉を見舞いに行ってその顔をして見せると、姉は 腹をおさえて寝台の上をころげ回った。姉はうちから連れて来た中年の女中とふたりきりで病院に暮していたものだから、ずいぶん淋しがって、病院の長い廊下 をのしのし歩いて来る私の足音を聞くと、もうはしゃいでいた。私の足音は並はずれて高いのだ。私が若し一週間でも姉のところを訪れないと、姉は女中を使っ て私を迎いによこした。私が行かないと、姉の熱は不思議にあがって容態がよくない、とその女中が真顔で言っていた。
 その頃はもう私も十五六になっていたし、手の甲には静脈の青い血管がうっすりと透いて見えて、からだも異様におもおもしく感じられていた。私 は同じクラスのいろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合った。学校からの帰りにはきっと二人してならんで歩いた。お互いの小指がすれあってさえも、私たちは 顔を赤くした。いつぞや、二人で学校の裏道の方を歩いて帰ったら、芹やはこべの青々と伸びている田溝の中にいもりがいっぴき浮いているのをその生徒が見つ け、黙ってそれを掬って私に呉れた。私は、いもりは嫌いであったけれど、嬉しそうにはしゃぎながらそれを手巾へくるんだ。うちへ持って帰って、中庭の小さ な池に放した。いもりは短い首をふりふり泳ぎ回っていたが、次の朝みたら逃げて了っていなかった。
 私はたかい自矜の心を持っていたから、私の思いを相手に打ち明けるなど考えもつかぬことであった。その生徒へは普段から口もあんまり利かな かったし、また同じころ隣の家の痩せた女学生をも私は意識していたのだが、此の女学生とは道で会っても、ほとんどその人を莫迦にしているようにぐっと顔を そむけてやるのである。秋のじぶん、夜中に火事があって、私も起きて外へ出て見たら、つい近くの社の陰あたりが火の粉をちらして燃えていた。社の杉林がそ の炎を囲うようにまっくろく立って、そのうえを小鳥がたくさん落葉のように狂い飛んでいた。私は、隣のうちの門口から白い寝巻の女の子が私の方を見ている のを、ちゃんと知っていながら、横顔だけをそっちにむけてじっと火事を眺めた。炎の赤い光を浴びた私の横顔は、きっときらきら美しく見えるだろうと思って いたのである。こんな案配であったから、私はまえの生徒とでも、また此の女学生とでも、もっと進んだ交渉を持つことができなかった。けれどもひとりでいる ときには、私はもっと大胆だった筈である。鏡の私の顔へ、片目をつぶって笑いかけたり、机の上に小刀で薄い唇をほりつけて、それへ私の唇をのせたりした。 この唇には、あとで赤いインクを塗ってみたが、妙にどすぐろくなっていやな感じがして来たから、私は小刀ですっかり削りとって了った。
堤川

 私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似 た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰か見ているような気がして、私はいつでも 何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句 をつけていたのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわ くわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おし まいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就いて満足し切れなかったか ら、いつも空虚なあがきをしていた。私には十重二十重の仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかったのであ る。そしてとうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であった。ここにはたくさんの同類がいて、みんな私と同じように此のわけのわからぬおのの きを見つめているように思われたのである。作家になろう、作家になろう、と私はひそかに願望した。弟もそのとし中学校へはいって、私とひとつ部屋に寝起し ていたが、私は弟と相談して、初夏のころに五六人の友人たちを集め同人雑誌をつくった。私の居るうちの筋向いに大きい印刷所があったから、そこへ頼んだの である。表紙も石版でうつくしく刷らせた。クラスの人たちへその雑誌を配ってやった。私はそれへ毎月ひとつずつ創作を発表したのである。はじめは道徳に就 いての哲学者めいた小説を書いた。一行か二行の断片的な随筆をも得意としていた。この雑誌はそれから一年ほど続けたが、私はそのことで長兄と気まずいこと を起してしまった。
 長兄は私の文学に熱狂しているらしいのを心配して、郷里から長い手紙をよこしたのである。化学には方程式あり幾何には定理があって、それを解 する完全な鍵が与えられているが、文学にはそれがないのです、ゆるされた年齢、環境に達しなければ文学を正当に掴むことが不可能と存じます、と物堅い調子 で書いてあった。私もそうだと思った。しかも私は、自分をその許された人間であると信じた。私はすぐ長兄へ返事した。兄上の言うことは本当だと思う、立派 な兄を持つことは幸福である、しかし、私は文学のために勉強を怠ることがない、その故にこそいっそう勉強しているほどである、と誇張した感情をさえところ どころにまぜて長兄へ告げてやったのである。
 なにはさてお前は衆にすぐれていなければいけないのだ、という脅迫めいた考えからであったが、じじつ私は勉強していたのである。三年生になっ てからは、いつもクラスの首席であった。てんとりむしと言われずに首席になることは困難であったが、私はそのような嘲りを受けなかった許りか、級友を手な らす術まで心得ていた。蛸というあだなの柔道の主将さえ私には従順であった。教室の隅に紙屑入の大きな壺があって、私はときたまそれを指さして、蛸もつぼ へはいらないかと言えば、蛸はその壺へ頭をいれて笑うのだ。笑い声が壺に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついていた。私が顔 の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切った絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑しがらなかった程なのである。
 私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数も殖えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顔を撫でまわしてその有様をしらべた。 いろいろな薬を買ってつけたが、ききめがないのである。私はそれを薬屋へ買いに行くときには、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかって、と 他人から頼まれたふうにして言わなければいけなかったのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考えて眼の先が暗くなるほど恥しかった。いっそ死んでやった らと思うことさえあった。私の顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達していた。他家へとついでいた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に来るひ とがあるまい、とまで言っていたそうである。私はせっせと薬をつけた。
 弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買いに行って呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折 にも、私は彼の失敗を願っていたほどであったけれど、こうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判って来たのである。弟は大き くなるにつれて無口で内気になっていた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出していたが、みんな気の弱々した文章であった。私にくらべて学校の成績が よくないのを絶えず苦にしていて、私がなぐさめでもするとかえって不気嫌になった。また、自分の額の生えぎわが富士のかたちに三角になって女みたいなのを いまいましがっていた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じていたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と対するとき には、みんな押し隠して了うか、みんなさらけ出して了うか、どちらかであったのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
 秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合った。それはい つか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長く伸びて 一方の端がきっと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである、ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとい往 来で会っても、その糸はこんぐらかることがない、そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである。私はこの話をはじめて聞いたときに は、かなり興奮して、うちへ帰ってからもすぐ弟に物語ってやったほどであった。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前 のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言った。大きい 庭下駄をはいて、団扇をもって、月見草を眺めている少女は、いかにも弟と似つかわしく思われた。私のを語る番であったが、私は真暗い海に眼をやったまま、 赤い帯しめての、とだけ言って口を噤んだ。海峡を渡って来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線 から浮んで出た。
 これだけは弟にもかくしていた。私がそのとしの夏休みに故郷へ帰ったら、浴衣に赤い帯をしめたあたらしい小柄な小間使が、乱暴な動作で私の洋服を脱がせて呉れたのだ。みよと言った。
 私は寝しなに煙草を一本こっそりふかして、小説の書き出しなどを考える癖があったが、みよはいつの間にかそれを知って了って、ある晩私の床をの べてから枕元へ、きちんと煙草盆を置いたのである。私はその次の朝、部屋を掃除しに来たみよへ、煙草はかくれてのんでいるのだから煙草盆なんか置いてはい けない、と言いつけた。みよは、はあ、と言ってふくれたようにしていた。同じ休暇中のことだったが、まちに浪花節の興行物が来たとき、私のうちでは、使っ ている人たち全部を芝居小屋へ聞きにやった。私と弟も行けと言われたが、私たちは田舎の興行物を莫迦にして、わざと蛍をとりに田圃へ出かけたのである。隣 村の森ちかくまで行ったが、あんまり夜露がひどかったので、二十そこそこを、籠にためただけでうちへ帰った。浪花節へ行っていた人たちもそろそろ帰って来 た。みよに床をひかせ、蚊帳をつらせてから、私たちは電灯を消してその蛍を蚊帳のなかへ放した。蛍は蚊帳のあちこちをすっすっと飛んだ。みよも暫蚊帳のそ とに佇んで蛍を見ていた。私は弟と並んで寝ころびながら、蛍の青い火よりもみよのほのじろい姿をよけいに感じていた。浪花節は面白かったろうか、と私はす こし堅くなって聞いた。私はそれまで、女中には用事以外の口を決してきかなかったのである。みよは静かな口調で、いいえ、と言った。私はふきだした。弟 は、蚊帳の裾に吸いついている一匹の蛍を団扇でばさばさ追いたてながら黙っていた。私はなにやら工合がわるかった。
 そのころから私はみよを意識しだした。赤い糸と言えば、みよのすがたが胸に浮んだ。

       三章

 四年生になってから、私の部屋へは毎日のようにふたりの生徒が遊びに来た。私は葡萄酒と鯣をふるまった。そうして彼等に多くの出鱈目を教 えたのである。炭のおこしかたに就いて一冊の書物が出ているとか、「けだものの機械」という或る新進作家の著書に私がべたべたと機械油を塗って置いて、こ うして発売されているのだが、珍らしい装幀でないかとか、「美貌の友」という翻訳本のところどころカットされて、そのブランクになっている箇所へ、私のこ しらえたひどい文章を、知っている印刷屋へ秘密にたのんで刷りいれてもらって、これは奇書だとか、そんなことを言って友人たちを驚かせたものであった。
 みよの思い出も次第にうすれていたし、そのうえに私は、ひとつうちに居る者どうしが思ったり思われたりすることを変にうしろめたく感じていた し、ふだんから女の悪口ばかり言って来ている手前もあったし、みよに就いて例えほのかにでも心を乱したのが腹立しく思われるときさえあったほどで、弟には もちろん、これらの友人たちにもみよの事だけは言わずに置いたのである。
 ところが、そのあたり私は、ある露西亜の作家の名だかい長編小説を読んで、また考え直して了った。それは、ひとりの女囚人の経歴から書き出さ れていたが、その女のいけなくなる第一歩は、彼女の主人の甥にあたる貴族の大学生に誘惑されたことからはじまっていた。私はその小説のもっと大きなあじわ いを忘れて、そのふたりが咲き乱れたライラックの花の下で最初の接吻を交したペエジに私の枯葉の枝折をはさんでおいたのだ。私もまた、すぐれた小説をよそ ごとのようにして読むことができなかったのである。私には、そのふたりがみよと私とに似ているような気分がしてならなかった。私がいま少しすべてにあつか ましかったら、いよいよ此の貴族とそっくりになれるのだ、と思った。そう思うと私の臆病さがはかなく感じられもするのである。こんな気のせせこましさが私 の過去をあまりに平坦にしてしまったのだと考えた。私自身で人生のかがやかしい受難者になりたく思われたのである。
 私は此のことをまず弟へ打ち明けた。晩に寝てから打ち明けた。私は厳粛な態度で話すつもりであったが、そう意識してこしらえた姿勢が逆に邪魔 をして来て、結局うわついた。私は、頸筋をさすったり両手をもみ合せたりして、気品のない話かたをした。そうしなければかなわぬ私の習性を私は悲しく思っ た。弟は、うすい下唇をちろちろ舐めながら、寝がえりもせず聞いていたが、けっこんするのか、と言いにくそうにして尋ねた。私はなぜだかぎょっとした。で きるかどうか、とわざとしおれて答えた。弟は、恐らくできないのではないかという意味のことを案外なおとなびた口調でまわりくどく言った。それを聞いて、 私は自分のほんとうの態度をはっきり見つけた。私はむっとして、たけりたけったのである。蒲団から半身を出して、だからたたかうのだ、たたかうのだ、と声 をひそめて強く言い張った。弟は更紗染めの蒲団の下でからだをくねくねさせて何か言おうとしているらしかったが、私の方を盗むようにして見て、そっと微笑 んだ。私も笑い出した。そして、門出だから、と言いつつ弟の方へ手を差し出した。弟も恥しそうに蒲団から右手を出した。私は低く声を立てて笑いながら、二 三度弟の力ない指をゆすぶった。
 しかし、友人たちに私の決意を承認させるときには、こんな苦心をしなくてよかった。友人たちは私の話を聞きながら、あれこれと思案をめぐらし ているような恰好をして見せたが、それは、私の話がすんでからそれへの同意に効果を添えようためのものでしかないのを、私は知っていた。じじつその通り だったのである。
 四年生のときの夏やすみには、私はこの友人たちふたりをつれて故郷へ帰った。うわべは、三人で高等学校への受験勉強を始めるためであったが、 みよを見せたい心も私にあって、むりやりに友をつれて来たのである。私は、私の友がうちの人たちに不評判でないように祈った。私の兄たちの友人は、みんな 地方でも名のある家庭の青年ばかりだったから、私の友のように金釦のふたつしかない上着などを着てはいなかったのである。
 裏の空屋敷には、そのじぶん大きな鶏舎が建てられていて、私たちはその傍の番小屋で午前中だけ勉強した。番小屋の外側は白と緑のペンキでいろ どられて、なかば二坪ほどの板の間で、まだ新しいワニス塗の卓子や椅子がきちんとならべられていた。ひろい扉が東側と北側に二つもついていたし、南側にも 洋ふうの開窓があって、それを皆いっぱいに明け放すと風がどんどんはいって来て書物のペエジがいつもぱらぱらとそよいでいるのだ。まわりには雑草がむかし のままに生えしげっていて、黄いろい雛が何十羽となくその草の間に見えかくれしつつ遊んでいた。
 私たち三人はひるめしどきを楽しみにしていた。その番小屋へ、どの女中が、めしを知らせに来るかが問題であったのである。みよでない女中が来 れば、私たちは卓をぱたぱた叩いたり舌打したりして大騒ぎをした。みよが来ると、みんなしんとなった。そして、みよが立ち去るといっせいに吹き出したもの であった。或る晴れた日、弟も私たちと一緒にそこで勉強をしていたが、ひるになって、きょうは誰が来るだろう、といつものように皆で語り合った。弟だけは 話からはずれて、窓ぎわをぶらぶら歩きながら英語の単語を暗記していた。私たちは色んな冗談を言って、書物を投げつけ合ったり足踏して床を鳴らしていた が、そのうちに私は少しふざけ過ぎて了った。私は弟をも仲間にいれたく思って、お前はさっきから黙っているが、さては、と唇を軽くかんで弟をにらんでやっ たのである。すると弟は、いや、と短く叫んで右手を大きく振った。持っていた単語のカアドが二三枚ぱっと飛び散った。私はびっくりして視線をかえた。その とっさの間に私は気まずい断定を下した。みよの事はきょう限りよそうと思った。それからすぐ、なにごともなかったように笑い崩れた。
 その日めしを知らせに来たのは、仕合せと、みよでなかった。母屋へ通る豆畑のあいだの狭い道を、てんてんと一列につらなって歩いて行く皆のうしろへついて、私は陽気にはしゃぎながら豆の丸い葉を幾枚も幾枚もむしりとった。
 犠牲などということは始めから考えてなかった。ただいやだったのだ。ライラックの白い茂みが泥を浴びせられた。殊にその悪戯者が肉親であるのがいっそういやであった。
 それからの二三日は、さまざまに思いなやんだ。みよだって庭を歩くことがあるでないか。彼は私の握手にほとんど当惑した。要するに私はめでたいのではないだろうか。私にとって、めでたいという事ほどひどい恥辱はなかったのである。
 おなじころ、よくないことが続いて起った。ある日の昼食の際に、私は弟や友人たちといっしょに食卓へ向っていたが、その傍でみよが、紅い猿の面 の絵団扇でぱさぱさと私たちをあおぎながら給仕していた。私はその団扇の風の量で、みよの心をこっそり計っていたものだ。みよは、私よりも弟の方を多くあ おいだ。私は絶望して、カツレツの皿へぱちっとフオクを置いた。
 みんなして私をいじめるのだ、と思い込んだ。友人たちだってまえから知っていたに違いない、と無闇に人を疑った。もう、みよを忘れてやるからいい、と私はひとりできめていた。
 また二三日たって、ある朝のこと、私は、前夜ふかした煙草がまだ五六ぽん箱にはいって残っているのを枕元へ置き忘れたままで番小屋へ出掛け、あ とで気がついてうろたえて部屋へ引返して見たが、部屋は綺麗に片づけられ箱がなかったのである。私は観念した。みよを呼んで、煙草はどうした、見つけられ たろう、と叱るようにして聞いた。みよは真面目な顔をして首を振った。そしてすぐ、部屋のなげしの裏へ背のびして手をつっこんだ。金色の二つの蝙蝠が飛ん でいる緑いろの小さな紙箱はそこから出た。
 私はこのことから勇気を百倍にもして取りもどし、まえからの決意にふたたび眼ざめたのである。しかし、弟のことを思うとやはり気がふさがっ て、みよのわけで友人たちと騒ぐことをも避けたし、そのほか弟には、なにかにつけていやしい遠慮をした。自分から進んでみよを誘惑することもひかえた。私 はみよから打ち明けられるのを待つことにした。私はいくらでもその機会をみよに与えることができたのだ。私は屡々みよを部屋へ呼んで要らない用事を言いつ けた。そして、みよが私の部屋へはいって来るときには、私はどこかしら油断のあるくつろいだ恰好をして見せたのである。みよの心を動かすために、私は顔に も気をくばった。その頃になって私の顔の吹出物もどうやら直っていたが、それでも惰性で、私はなにかと顔をこしらえていた。私はその蓋のおもてに蔦のよう な長くくねった蔓草がいっぱい彫り込まれてある美しい銀のコンパクトを持っていた。それでもって私のきめを時折うめていたのだけれど、それを尚すこし心を いれてしたのである。
 これからはもう、みよの決心しだいであると思った。しかし、機会はなかなか来なかったのである。番小屋で勉強している間も、ときどきそこから脱け出て、みよを見に母屋へ帰った。殆どあらっぽい程ばたんばたんとはき掃除しているみよの姿を、そっと眺めては唇をかんだ。
 そのうちにとうとう夏やすみも終りになって、私は弟や友人たちとともに故郷を立ち去らなければいけなくなった。せめて此のつぎの休暇まで私を忘れさせないで置くような何か鳥渡した思い出だけでも、みよの心に植えつけたいと念じたが、それも駄目であった。
 出発の日が来て、私たちはうちの黒い箱馬車へ乗り込んだ。うちの人たちと並んで玄関先へ、みよも見送りに立っていた。みよは、私の方も弟の方 も、見なかった。はずした萌黄のたすきを珠数のように両手でつまぐりながら下ばかりを向いていた。いよいよ馬車が動き出してもそうしていた。私はおおきい 心残りを感じて故郷を離れたのである。
 秋になって、私はその都会から汽車で三十分ぐらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯 治していたのだ。私はずっとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へは いって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいはその頃になって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、それでも一途に勉強 していた。私はそこから汽車で学校へかよった、日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私たちは、もう、みよの事を忘れたようにしていた。私は友人たちと必ず ピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟 に教えてもらって、声をそろえて歌った。遊びつかれてその岩の上で眠って、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっている ので、私たちはまだ夢から醒めないでいるような気がするのである。

浅虫

 私はこの友人たちと一日でも会わなかったら淋しいのだ。そのころの事であるが、或る野分のあらい日に、私は学校で教師につよく両頬をなぐられた。それが 偶然にも私の仁侠的な行為からそんな処罰を受けたのだから、私の友人たちは怒った。その日の放課後、四年生全部が博物教室へ集って、その教師の追放につい て協議したのである。ストライキ、ストライキ、と声高くさけぶ生徒もあった。私は狼狽した。もし私一個人のためを思ってストライキをするのだったら、よし て呉れ、私はあの教師を憎んでいない、事件は簡単なのだ、簡単なのだ、と生徒たちに頼みまわった。友人たちは私を卑怯だとか勝手だとか言った。私は息苦し くなって、その教室から出て了った。温泉場の家へ帰って、私はすぐ湯にはいった。野分にたたかれて破れつくした二三枚の芭蕉の葉が、その庭の隅から湯槽の なかへ青い影を落していた。私は湯槽のふちに腰かけながら生きた気もせず思いに沈んだ。
 恥しい思い出に襲われるときにはそれを振りはらうために、ひとりして、さて、と呟く癖が私にあった。簡単なのだ、簡単なのだ、と囁いて、あちこちをうろうろしていた自身の姿を想像して私は、湯を掌で掬ってはこぼし掬ってはこぼししながら、さて、さて、と何回も言った。
 あくる日、その教師が私たちにあやまって、結局ストライキは起らなかったし、友人たちともわけなく仲直り出来たけれど、この災難は私を暗くした。みよのことなどしきりに思い出された。ついには、みよと会わねば自分がこのまま堕落してしまいそうにも、考えられたのである。
 ちょうど母も姉も湯治からかえることになって、その出立の日が、あたかも土曜日であったから、私は母たちを送って行くという名目で、故郷へ戻る ことが出来た。友人たちには秘密にしてこっそり出掛けたのである。弟にも帰郷のほんとのわけは言わずに置いた。言わなくても判っているのだと思っていた。
 みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になっている呉服商へひとまず落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向った。列車がプラットフ オムを離れるとき、見送りに来ていた弟が、列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言った。私はそれをうっかり素直に受けいれて、よしよ し、と気嫌よくうなずいた。
 馬車が隣村を過ぎて、次第にうちへ近づいて来ると、私はまったく落ちつかなかった。日が暮れて、空も山もまっくらだった。稲田が秋風に吹かれ てさらさらと動く声に、耳傾けては胸を轟かせた。絶えまなく窓のそとの闇に眼をくばって、道ばたのすすきのむれが白くぽっかり鼻先に浮ぶと、のけぞるくら いびっくりした。
 玄関のほの暗い軒灯の下でうちの人たちがうようよ出迎えていた。馬車がとまったとき、みよもばたばた走って玄関から出て来た。寒そうに肩を丸くすぼめていた。
 その夜、二階の一間に寝てから、私は非常に淋しいことを考えた。凡俗という観念に苦しめられたのである。みよのことが起ってからは、私もとうと う莫迦になって了ったのではないか。女を思うなど、誰にでもできることである。しかし、私のはちがう、ひとくちには言えぬがちがう。私の場合は、あらゆる 意味で下等でない。しかし、女を思うほどの者は誰でもそう考えているのではないか。しかし、と私は自身のたばこの煙にむせびながら強情を張った。私の場合 には思想がある!
 私はその夜、みよと結婚するに就いて、必ずさけられないうちの人たちとの論争を思い、寒いほどの勇気を得た。私のすべての行為は凡俗でない、 やはり私はこの世のかなりな単位にちがいないのだ、と確信した。それでもひどく淋しかった。淋しさが、どこから来るのか判らなかった。どうしても寝つかれ ないので、あのあんまをした。みよの事をすっかり頭から抜いてした。みよをよごす気にはなれなかったのである。
 朝、眼をさますと、秋空がたかく澄んでいた。私は早くから起きて、むかいの畑へ葡萄を取りに出かけた。みよに大きい竹籠を持たせてついて来さ せた。私はできるだけ気軽なふうでみよにそう言いつけたのだから、誰にも怪しまれなかったのである。葡萄棚は畑の東南の隅にあって、十坪ぐらいの大きさに ひろがっていた。葡萄の熟すころになると、よしずで四方をきちんと囲った。私たちは片すみの小さい潜戸をあけて、かこいの中へはいった。なかは、ほっかり と暖かった。二三匹の黄色いあしながばちが、ぶんぶん言って飛んでいた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、まわりのよしずを透して明るくさしていて、みよの姿も うすみどりいろに見えた。ここへ来る途中には、私もあれこれと計画して、悪党らしく口まげて微笑んだりしたのであったが、こうしてたった二人きりになって 見ると、あまりの気づまりから殆ど不気嫌になって了った。私はその板の潜戸をさえわざとあけたままにしていたものだ。
 私は背が高かったから、踏台なしに、ぱちんぱちんと植木鋏で葡萄のふさを摘んだ。そして、いちいちそれをみよへ手渡した。みよはその一房一房 の朝露を白いエプロンで手早く拭きとって、下の籠にいれた。私たちはひとことも語らなかった。永い時間のように思われた。そのうちに私はだんだん怒りっぽ くなった。葡萄がやっと籠いっぱいになろうとするころ、みよは、私の渡す一房へ差し伸べて寄こした片手を、ぴくっとひっこめた。私は、葡萄をみよの方へお しつけ、おい、と呼んで舌打した。
 みよは、右手の付根を左手できゅっと握っていきんでいた。刺されたべ、と聞くと、ああ、とまぶしそうに眼を細めた。ばか、と私は叱って了っ た。みよは黙って、笑っていた。これ以上私はそこにいたたまらなかった。くすりつけてやる、と言ってそのかこいから飛び出した。すぐ母屋へつれて帰って、 私はアンモニアの瓶を帳場の薬棚から捜してやった。その紫の硝子瓶を、出来るだけ乱暴にみよへ手渡したきりで、自分で塗ってやろうとはしなかった。
 その日の午後に、私は、近ごろまちから新しく通い出した灰色の幌のかかってあるそまつな乗合自動車にゆすぶられながら、故郷を去った。うちの 人たちは馬車で行け、と言ったのだが、定紋のついて黒くてかてか光ったうちの箱馬車は、殿様くさくて私にはいやだったのである。私は、みよとふたりして摘 みとった一籠の葡萄を膝の上にのせて、落葉のしきつめた田舎道を意味ぶかく眺めた。私は満足していた。あれだけの思い出でもみよに植えつけてやったのは私 として精いっぱいのことである、と思った。みよはもう私のものにきまった、と安心した。
 そのとしの冬やすみは、中学生としての最後の休暇であったのである。帰郷の日のちかくなるにつれて、私と弟とは幾分の気まずさをお互いに感じていた。
 いよいよ共にふるさとの家へ帰って来て、私たちは先ず台所の石の炉ばたに向いあってあぐらをかいて、それからきょろきょろとうちの中を見わたし たのである。みよがいないのだ。私たちは二度も三度も不安な瞳をぶっつけ合った。その日、夕飯をすませてから、私たちは次兄に誘われて彼の部屋へ行き、三 人して火燵にはいりながらトランプをして遊んだ。私にはトランプのどの札もただまっくろに見えていた。話の何かいいついでがあったから、思い切って次兄に 尋ねた。女中がひとり足りなくなったようだが、と手に持っている五六枚のトランプで顔を被うようにしつつ、余念なさそうな口調で言った。もし次兄が突っこ んで来たら、さいわい弟も居合せていることだし、はっきり言ってしまおうと心をきめていた。
 次兄は、自分の手の札を首かしげかしげしてあれこれと出し迷いながら、みよか、みよは婆様と喧嘩して里さ戻った、あれは意地っぱりだぜえ、と呟いて、ひらっと一枚捨てた。私も一枚投げた。弟も黙って一枚捨てた。
 それから四五日して、私は鶏舎の番小屋を訪れ、そこの番人である小説の好きな青年から、もっとくわしい話を聞いた。みよは、ある下男にたったい ちどよごされたのを、ほかの女中たちに知られて、私のうちにいたたまらなくなったのだ。男は、他にもいろいろ悪いことをしたので、そのときは既に私のうち から出されていた。それにしても、青年はすこし言い過ぎた。みよは、やめせ、やめせ、とあとで囁いた、とその男の手柄話まで添えて。
 正月がすぎて、冬やすみも終りに近づいた頃、私は弟とふたりで、文庫蔵へはいってさまざまな蔵書や軸物を見てあそんでいた。高いあかり窓から 雪の降っているのがちらちら見えた。父の代から長兄の代にうつると、うちの部屋部屋の飾りつけから、こういう蔵書や軸物の類まで、ひたひたと変って行くの を、私は帰郷の度毎に、興深く眺めていた。私は長兄がちかごろあたらしく求めたらしい一本の軸物をひろげて見ていた。山吹が水に散っている絵であった。弟 は私の傍へ、大きな写真箱を持ち出して来て、何百枚もの写真を、冷くなる指先へときどき白い息を吐きかけながら、せっせと見ていた。しばらくして、弟は私 の方へ、まだ台紙の新しい手札型の写真をいちまいのべて寄こした。見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母の家へでも行ったらしく、そのとき、叔母と三 人してうつした写真のようであった。母がひとり低いソファに座って、そのうしろに叔母とみよが同じ背たけぐらいで並んで立っていた。背景は薔薇の咲き乱れ た花園であった。私たちは、お互いの頭をよせつつ、なお鳥渡の間その写真に眼をそそいだ。私は、こころの中でとっくに弟と和解をしていたのだし、みよのあ のことも、ぐずぐずして弟にはまだ知らせてなかったし、わりにおちつきを装うてその写真を眺めることが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にか けての輪廓がぼっとしていた。叔母は両手を帯の上に組んでまぶしそうにしていた。私は、似ていると思った。

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中央大学文学部文学科国文学専攻
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