太 宰 治 を 歩 く

(吉 祥 寺 か ら 三 鷹 へ)

               渡部芳紀  

井の頭公園


吉祥寺から三鷹禅林寺へと太宰治ゆかりの地を中心に歩きます。途中、野口雨情の碑や山本有三の旧居、国木田独歩の碑なども見て最後は禅林寺で森鴎外や太宰治の墓に参ります。

・日時  月 日(火) 10時〜3時
コース
 ・吉祥寺駅南口→
 ・井の頭公園(「乞食学生」「黄村先生言行録」「花吹雪」の舞台・野口雨情碑・松本訓導の碑)→
 ・井の頭自然文化園(北村西望記念館・野口雨情書斎・童心居)→
 ・玉川上水→
 ・山本有三旧居(現・三鷹青少年文庫)→
 ・太宰治旧居跡→
 ・太宰治入水地跡→
 ・三鷹駅周辺(昼食?)→
 ・三鷹駅北口・国木田独歩碑→
 ・太宰治ゆかりの地(山崎富栄の下宿ほか)→
 ・三鷹中央通り文学碑めぐり(三木露風・武者小路実篤・太宰治・亀井勝一郎・山本有三)→
 禅林寺(森鴎外遺書碑・鴎外墓・太宰治墓)解散→
 余力のある人は神代植物園を経て京王線調布駅やつつじが丘駅に出られます。

講師 渡部芳紀(中央大学文学部教授)
今回は、吉祥寺駅から三鷹駅方面にかけて、文学にかかわりある場所を たどってみよう。>

スタートは、吉祥寺駅南口である。南口を出たすぐの商店街は、昔のご ちゃごちゃした面影を少し残している。太宰治がこのあたりを歩き回って いた時を偲べるのだろうか。しかし、二、三〇メートルも進み、井の頭通 りに至ると雰囲気は一変する。大きなデパートが行く手をふさぐ。横断歩 道を渡り、ちょっと右へ進み、建物をよけて、建物の右側の小道をたどる。 まっすぐ南下すると数分で・井の頭公園・である。

うっそうと茂った欅の木々の下を歩いて行くと井の頭池にかかった七井 橋に出る。池の周りは、桜や杉や種々の緑でかこまれている。この公園は、 太宰治の数々の作品の舞台となっている。橋の手前右手にある茶店は、 「乞食学生」に登場する店だろうか。七井橋を鯉を眺めながら渡って行こ う。多量の雨が降るとすぐ冠水する橋である。途中、一段高くなった橋の ところで、池を見渡すのもよい。北方は、マンションが林の後ろから顔を 出して不粋だが、南方は、木々の緑にかこまれて池がずっと続いている。 池の面を泳いでいる小さな水鳥はカイツブリだ。鳰におの名の通り、しょっ 中水に入って餌をあさっている。キチキチキチキチと時々甲かん高い声で啼 く。注意していると、池のほとりに、鳰(にお)の浮巣を見ることもできる。

鳰の浮き巣

橋 の南東側はボートに乗れる。桜花が池面に枝を差しかけている頃はみごと である。太宰の「花火(日の出前)」では、この公園とボートが重要な役 割を担っている。
橋を渡り池にそって右手へめぐって行くと、右側に弁天 宮がある。「乞食学生」に登場する。

弁天宮

弁天様の裏、池のほとりの茶店の左 側の道を登ると、太宰旧居の方へ続くが、今は、池に沿って右回りに進も う。左手の斜面に梅の木が何本が植わっている。「黄村先生言行録」に出 てくるものであろう。道はカーブして右へ曲がって行く。右手に動物園の 入口を見て、さらに進む。園内、道の右側には水族館がある。ここには山 椒魚がいる。「黄村先生言行録」で、先生が<のぼせてしまつた>両棲類 だ。
さらに進むと池の北の端に出、そこに、<お茶の水>と呼ばれる泉が 湧いている。昔、将軍が三鷹に鷹狩りに来て、ここの水で茶をたてたとか。 ・亀井勝一郎・もここの水で茶をたてたらしい。この井の頭の池から流れ 出た水が神田上水となり、神田川となるのである。

お茶の水

泉のところから池にそって右へ曲がり、南へ少し下って行くと、左手に野口雨情の碑がある。
<啼いてさわいで/日の昏れ頃は/葦に行々子(よしきり)/はなりゃせぬ>
と彫ってある。雨情は近くの吉祥寺北町に住んでいてこのあたりをよく散歩し たという。

野口有情歌碑

ここよりもどって、弁天裏の茶店の左側を登ると雑木林へ出る。 以前は杉が多かったが、今は、桂、楢、松など様々な木が生えている。太 宰の歩いていた頃は杉の大木が沢山あったのだが、戦争の供出で切り倒さ れたとか。

公園の雑木林

林の中を、やや左ななめに進み、途中、自動車も通る小道を横 切り、さらに進むと、玉川上水にぶつかる。その手前、木暗い下に、少々 盛り土されたところがあり、その上に、大きな石碑がたっている。・松本 訓導の碑・だ。
「乞食学生」で
<この辺で、むかし松本訓導といふ優しい 先生が、教へ子を救はうとしてかへつて自分が溺死なされた。川幅は、こ んなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いといふ>
と書いている。

松本訓導の碑

この あたりから下流にかけては上水の両側に遊歩道ができている。
左へ下って 行くと、途中武者小路実篤の旧居のそばを通って明星学園高校の 前に出る。その門前が、昭和二十三年六月十九日、太宰と山崎富栄の心中 死体があがった場所である。

松本訓導の碑から右へ上れば、すぐ万助橋 に出る。

井の頭公園は、「ヴィヨンの妻」「犯人」などにも登場し、万助橋は、 「乞食学生」にも出てくるが、なによりも太宰の回りの人々の回想によく 出てくる。太宰が自宅から吉祥寺へ飲みに行く時、井の頭公園に出る時、 亀井勝一郎を訪れる時、必ず渡ったのがこの万助橋だ。

万助橋の上流右側 (左岸側)は、井の頭自然文化園で動物園をかねている。万助橋のた もと、自然文化園の角に彫刻家北村西望の百歳記念の碑がある。自然文化 園の内側、上水にそった三角屋根の建物は、・北村西望・のアトリエだ。 建物の周辺には、数々の彫刻が並んでいる。北村西望の代表作だ。時間の 無い時は金網ごしにでも見てみよう。余裕のある人は、万助橋から吉祥寺 方面へ百メートルも行くと、左に自然文化園入口がある。

アトリエの右手には、北村西望の記念館があり、二つの建物と、その周辺に西望の大部分 の作品が展示されている。「将軍の孫」、「笑う少女」など愛らしい像も ある。

将軍の孫

一つの建物には、長崎平和公園にある祈念像の原型がある。この像 はここのアトリエで作られたのである。ぜひ訪れてみたい。

平和祈念像

園内には、野口雨情の書斎・童心居も移築されている。縁側に座っ て雨情が「兎のダンス」「青い目の人形」「あの町この町」「証城寺の 狸囃子」「波浮の港」など多くの詩を作り思索の時を過ごした頃を偲ぶ のもよかろう。

童心居

万助橋を渡り、上水の左側(右岸)の道を上って行こう。三、四分行く と、左側に山本有三記念館(三鷹市下連雀2-12-27 )がある。
・山 本有三の旧居が元になっている。昭和十一年から二十一年にかけてここに住み、・ 「路傍の石」・などを生んでいる。門の手前右には、山本有三の顔のレリーフ と<くちびるに歌を持て>の一節を 彫った文学碑がある。

門を入った、奥の左にあるしゃれた洋館が旧 居である。有三は三鷹の名誉市民であった。旧居は三鷹市に寄贈され去年より市営の記念館になった。山本有三の机や椅子、書籍、書簡、資料などの展示や、 居間などが公開されている。月曜日は休館である。洋館の前は、芝生の美しい公園になって いる。右(西)側壁には、有三の言葉を刻んだ碑がはめこまれている。

山本有三記念館

書斎

上水に沿う道にもどり、旧居の先(北)の小道を左(南)へ入りしばら く南下すると、小さな交差点に出る。交差点を過ぎて五〇メートルも行っ て右(西)へ入ったところが、太宰治の旧居(現三鷹市下連雀2-14- 7 )跡である。左(東側)に井心亭(せいしんてい)があるのが目標である。
昭和十四年から二十三年までここに住み、数々の作品の原 点となった。場所を確かめる程度にとどめ、家に近づいたりして迷惑をか けたくないもの。井心亭の道路に面した所に太宰の庭にあった百日紅が移植されている。

太宰の家にあった百日紅

太宰治旧居跡

道をもどり、先ほどの小さな交差点を左(西)へ曲がり、 道なりに行くと三鷹駅の南口に近づいて行く。太宰がいつも歩いた道であ る。駅南の大きな交差点を右(北)へ行けば三鷹駅である。

(途中信号の あるむらさき橋通りの交差点を過ぎ2本目の小 道を右に曲がり真っ直ぐ北上すると玉川上水にぶつかる。その右手の畔、 ビストロサガン前が太宰治入水場所の跡である。
歩道に赤い岩が据えられている。脇に青森県金木産の岩とプレートが付いている。太宰入水の地点を示す岩である。入水の地ということをはばかって字は彫り込んでない。

入水地碑

上水に沿つて左へ進むと、道路脇に太宰治のプレートがある。

太宰治プレート

さらに進めば 三鷹駅である。

三鷹駅の下を玉川上水がくぐっている。南口から北口へ は駅の階段で抜けられる。北口の階段を下った右側、交番の脇に、・国木 田独歩の碑・がある。
武者小路実篤の筆で、「山林に自由存す」の一節が 彫られている。独歩がこの上流の玉川上水沿いをよく散策したゆかりによ る。

国木田独歩碑

南口から南方を見ると、右前方に大きなビルが見える。この地にあった 塚本美容院に太宰と心中した山崎富栄が勤めていて、駅前のヤキトリ屋で太宰と知り合っ たのである。

駅から南下し、最初の曲がり角を左へ道を入り、つきあたりを さらに左(北)へ曲がると右に永塚葬儀社がある。この建物の北側の二階 が富栄の下宿であった。太宰と富栄は、その部屋に、「人間失格」や「グ ッドバイ」を遺稿として残し、ここから北へ少し行くと突きあたる玉川上 水へ身を投げたのである。

富栄の下宿(二階手前)

三鷹駅から南口中央通りを南へ辿ると、最初のさくら通り との交差点を過ぎた左に・三木露風の碑・が、さらに進めば、右手に・武 者小路・、さらに・太宰治と亀井勝一郎の碑・、その先の左に・山本有三 の碑・がある。有三の碑の先の交差点を右に曲がり最初の道を左に曲がれ ば連雀通りに出る。

連雀通りを南へ五百メートルも行くと広い路に出る。右に二、三十メートルも行くと禅林寺入口である。右(北)へ曲がり五十メートル進むと山門に着く。

禅林寺山門

山門を入ると、右側に大きな銀杏の木があり、その 根方に横長の文学碑がある。・森鴎外・の遺書を彫った碑だ。

まっすぐ進 み、毎年六月十九日、桜桃忌が行われる本堂の裏に出て、中央の道を北へ 進むと、まず右手に森林太郎墓と彫った鴎外の墓があり、次に左前方に太 宰の墓がある。

森鴎外墓> 太宰治墓

「花吹雪」の中で<この寺には、森鴎外の墓がある。(中 略)墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺 麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れない>と主人 公が述懐する文章がある。
太宰の死の一年後、ここに墓地ができ、尊敬す る鴎外のななめ隣りに眠ることになったのである。

時間の余裕がある時は、禅林寺の西隣りの八幡宮脇のバス停から調布あ るいはつつじが丘行きのバスに乗り神代植物園、深大寺へ足を延ばしたい。

深大寺

深大寺には、・芭蕉、中村草田男、皆吉爽雨・の句碑や、・高浜虚子 の像・(寺の内庭にあり見られない)などがある。この行程は、七時間ほ どでまわれる。深大寺前からは、京王線調布・つつじが丘、中央線三鷹・ 吉祥寺方面のバスがある。

実践編
平成14年10月19日、中央大学公開講座『知の回廊』の催しとしてこのコースを歩く。その際の伊藤勝之さん撮影の写真のホームページ
。 平成14年11月2日、「朝日新聞」土曜版(B版)
に、このコースの文学散歩が紹介されました。
            

資 料 編

野口雨情

明治15〜昭和20(1882〜1945)。民謡・童謡詩人。茨城県 生まれ。早大英文科中退卒。大正中期に北原白秋・西条八十らとともに近 代童謡の隆盛に尽力した。童謡・民謡ともに土の香りのする地方的な素朴 さと哀愁に特色があり、広く国民に愛唱された。民謡「船頭小唄」「波浮 の港」は名高い。童謡集に『十五夜お月さん』(1921)がある。大正13年 3月より(武蔵野市)吉祥寺北町(1-24-5)に移転、昭和19年1月、宇都 宮に疎開するまで住んだ。

亀井勝一郎
 明治40〜昭和41(1907〜1966) 評論家。北海道函館生まれ。東京大学美 学科中退。若い頃、左翼思想から転向、自己の再生をめぐって思索を深め、 奈良の古仏参拝に心の安らぎを見出すようになる。その体験は、『大和古 寺風物誌』(昭和18)にまとめられる。ほかに『日本人の精神史』などが ある。
 昭和9年から11年まで三鷹市下連雀に住む。11年より41年までは武蔵野 市(御殿山1 -8-22 )に住む。

北村西望
 明治17年〜昭和63年?(1884 〜1988) 彫刻家。長崎県島原生まれ。東京 美術学校卒。文展に度々入賞。母校の教授。芸術院会員。代表作に「怒 濤」「晩鐘」「長崎平和祈念像」などがある。井の頭公園内のアトリエで 平和祈念像の原型を作った。武蔵野市御殿山1-17-23 に住んでいた縁によ る。現在、井の頭文化園内に記念館がある。

太宰治
明治42年〜昭和23(1909〜1948)小説家。青森県金木生まれ。東大仏文 科中退。津軽屈指の大地主の子息として生まれる。青森中学校、弘前高等 学校を経て、東大仏文科に進む。昭和7年、左翼運動より身を引き文学に 打ち込む。昭和8年、「思ひ出」、昭和9年「葉」、昭和10年、「逆行」 「道化の華」など発表。第一回芥川賞次席。この頃より次第に麻薬中毒が ひどくなり、11年秋、入院。退院後、「HUMAN LOST」、「二十 世紀旗手」を発表。昭和8年〜12年までは、前期と言い、オーソドックス な作品を書く一方、ダンディズムを基に難解で斬新な作品を作った。その 奇行と難解さが多くの誤解を生み、妻、友人、先輩の信頼を失い、(裏切 られ)暫く筆を折り、沈黙の時期を過ごす。
昭和13年より、作風を変え、易しく明るい作品が多くなる。14年には、 石原美知子と再婚。妻の実家のある甲府に一年弱住んだ後、昭和14年秋、 三鷹下連雀の貸家に引っ越す。安定した生活をバックに「走れメロス」 「富嶽百景」、「津軽」、「お伽草紙」などの力作を次々と世に出す。
昭 和20年7月、甲府に疎開。さらに津軽の金木の生家に疎開。終戦を迎える。 戦後は、旺盛な創作欲を見せ、「パンドラの匣」で明るい希望を語り始め たが、次第に戦後文化人達の便乗主義に失望し、「春の枯葉」「冬の花 火」「十五年間」「苦悩の年間」などで批判精神を強める。21年11月、三 鷹の家に戻り、活動を開始。「ヴィヨンの妻」「斜陽」とデカダンスな反 俗、逆説の姿勢を示し文壇の寵児になったが、心身ともに疲労し、23年6 月13日深更、山崎富栄とともに玉川上水に入水してはてた。墓は三鷹禅林 寺の森鴎外の墓の斜め前にある。

国木田独歩
明治4年〜41年(1871〜1908)詩人・小説家。千葉県銚子市生まれ。少 年時、山口県下で過ごす。早稲田大学中退。青年時代、大分県佐伯で教師 をしたり、東京で徳富蘇峰の下『国民之友』『国民新聞』の編集に従事。 日清戦争では海軍従軍記者として『愛弟通信』(明治27〜28)を書き文名 を得た。佐々城信子との恋愛結婚に破れてのち文学者として立ち、初め詩 人として『独歩吟』等を発表。ついで「源叔父」「武蔵野」「忘れ得ぬ人 々」等の短編小説を発表した。初期の作品には詩的、浪漫的なものが多い が、中期あたりから現実的、運命的なものも多くなり、死を前にした晩年 の「竹の木戸」「二老人」に至ってそれらを止揚した清澄な境地をかいま 見せた。
「武蔵野」では、信子と玉川上水の辺を歩き回った様子を描いている。

三木露風
明治22〜昭和39(1889 〜1964) 詩人。兵庫県竜野生まれ。早大、慶大中 退。若くして『文庫』『新声』に詩歌を投じ、詩集『廃園』(明治42年) の甘美な印象派風の抒情詩によって北原白秋と並称された。『寂しき曙』 (明治43年)以後内省的傾向を深め、「白き手の猟人」の象徴詩から『幻 の田園』(大正4年)の東洋的汎神論に赴き、さらに『良心』(大正4年 )以後はキリスト教信仰を得て宗教詩に向かった。その間、詩誌『未来』 を創刊。他に童謡集『真珠島』等がある。
 昭和3年より昭和39年まで三鷹市牟礼4-17-18 に在住。

武者小路実篤
明治18〜昭和51(1885〜1976)小説家・劇作家・詩人。東京生まれ。学 習院を経て東大社会学科中退。学習院時代トルストイに傾倒、大学ではメ ーテルリンクの『智恵と運命』に接し、トルストイ熱を脱却。明治43年創 刊の『白樺』での活動などで、積極的な自我肯定を行った。さらに理想社 会実現のため大正7年九州日向に「新しき村」を創設。村内生活を送る中 で「幸福者」、「友情」、「或る男」、戯曲「愛欲」を生んだ。昭和12年 から30年まで三鷹市牟礼に住む。三鷹市名誉市民。

山本有三
明治20年〜昭和49年(1887〜1974) 劇作家・小説家。栃木県栃木市生ま れ。東大独文科卒。第3次「新思潮」同人を経て、社会の不正を批判し人 間の尊厳を訴えた「生命の冠」等の社会劇で認められ、次いで人間内部の 矛盾と心理的葛藤を捉えた「坂崎出羽守」などの歴史劇に進む。さらに人 間の向上と誠実な自己変革を主題にした長編小説「波」「女の一生」「路 傍の石」等を発表。
昭和11年より21年まで三鷹市下連雀に住む。三鷹市名誉市民。

森鴎外
文久2〜大正11(1862〜1922) 小説家・評論家・翻訳家。本名林太郎。 別号観潮楼主人。島根県津和野生まれ。東大医学部卒。軍医として陸軍省 にはいる。明治17年ドイツに留学。21年帰国。明治22(89)年、新声社同 人達と訳詩集「於母影」を発表。浪漫主義の端緒となる。その後「しがら み草紙」を発刊、評論を中心に啓蒙活動を進める。一方、「舞姫」など清 新な小説を発表。明治32年、小倉に左遷され、その間、「即興詩人」を翻 訳。日清戦争従軍後、軍医総監、陸軍省医務局長に昇進。明治42年より、 旺盛な創作期に入り、「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「妄想」 「かのやうに」など発表。明治天皇の死とそれに続く乃木大将の死を契機 に「阿部一族」「興津弥五衛門の遺書」など発表。その後、歴史小説に移 り「渋江抽斎」「北条霞亭」など発表。晩年は国立博物館総長も努める。 墓は三鷹市禅林寺にある。

渡部芳紀研究室