名作のふるさと 千葉県船橋

               渡 部 芳 紀


太宰の二十数回の転居の中で<私には千葉船橋の家 が最も愛着が深かつた>(「十五年間」)と いう。
 前期の傑作「ダス・ゲマイネ」「虚構 の春」「狂言の神」がここで書かれ、「めく ら草紙」「喝采」「黄金風景」の主たる舞台 であり、「人間失格」の最後を締めくくる舞 台でもある。
 では、<最も愛着が深かつた>という船橋 を訪れてみよう。

 JR船橋駅の南口に下り先ずは太宰治の碑 を訪ねよう。

駅から真っ直ぐ南へ大通りを進 む。百メートルも行くと京成線の踏切を越え る。道の脇に京成船橋駅がある。訪れる時は どちらの電車でもいいだろう。さらに百メー トルも行くと大通りから左の仲町商店街への 入り口がある。勤労市民センターの入口でも ある。ここを行けば太宰の旧居へ行けるがそ のまま南へ進もう。さらに百五十メートルも 行くと大きな交差点を過ぎる。交差点を過ぎ 百メートルも行くと右に市民文化ホール・中 央公民館に入り口がある。

公園風の広場に なっていて二人の少女の腰掛けた銅像がある。 その広場の斜め向こう、広場の南西の隅に太宰 治の碑がある。碑の後ろは市民会館 の地下駐車場の入口になっている。

太宰碑


碑には<太宰 治「十五年間」より/たのむ!もう一 晩この家に寐かせて下さい、玄関の夾竹桃も 僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ 、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまっ たのを忘れていない。/船橋市長大橋和夫/ 昭和五十八年十一月三日/寄贈 船橋中央ラ イオンズクラブ>と彫ってある。

碑の右後ろ には夾竹桃のみごとなのが植えられている。 <私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら と心をひかれた。欲しいと思つた。>(「め くら草紙」)と書かれた夾竹桃である。

碑と夾竹桃


解説板には、<太宰治の植えた夾竹桃>と題し、

<この夾竹桃は、太宰治(明治四十二年〜昭 和二十三年)が、昭和十年夏から昭和十一年 秋にかけて、千葉県東葛飾郡船橋町五日市本 宿一、九二八番地(船橋市宮本一丁目一二番 九号)に借家住いをしていた時に、その敷地 内に植えられたものですが、昭和五七年一二 月、その敷地が整備されることになり、改め てこの地に移植された。
太宰治は、当時、 「めくら草紙」の中でこの夾竹桃を植えた時 の様子を書いておりますが、戦後の作品「一 五年間」では、次のように、この夾竹桃に対 する自分の愛着ぶりを書き遺しました。

私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった 。そこで「ダス・ゲマイネ」といふのや、ま た「虚構の春」などといふ作品を書いた。ど うしてもその家から引き上げなければならな くなった日に、私は、たのむ!もう一晩この 家に寝かせて下さい。
玄関の夾竹桃も僕が 植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と 或る人にたのんで手放しで泣いてしまったの を忘れてゐない。

   昭和五八年三月
     船橋市教育委員会
     船橋中央ライオンズクラブ 寄贈>と書いてある。

 夾竹桃を見たら、先程の交差点まで戻って交 差点から東へ行こう。途中、所々に昔の建物 が残っていて往時を偲ばせる。
五百メートルも行くと海老川に架かった海老川橋に出る。 海老川に沿って左へ曲がり北へ進もう。二つ 目の栄橋の欄干が楽譜になっている。欄干 の中央に少女の銅像が置かれ、その台座に、 いずみ・たく作詞、さだまさし作曲の「手の ひらを太陽に」の歌詞が浮き彫りされている。

 この橋を東に渡り五十メートルも行くと京 成線の踏切がある。(この辺りでは他に踏切 はない。太宰の旧居を訪ねるには栄橋東の踏 切を渡るといい。)

踏切りを渡ってちょっと 行った最初の路地を左(北)へ曲がろう。自 転車だけが通行可能(軽自動車は大丈夫?) なような細い路地を小さな四つ辻を一つ越え て北に進むと(曲がってから百メートル位) 右に太宰治旧居跡がある。その右脇の立札には

<太宰治は、昭和十年七月から一年三月余 、旧船橋町五日市本宿に住んだ。この間、「 ダス・ゲマイネ」「めくら草紙」「虚構の春 」などの名作を世に送った。
この旧居跡には、太宰が植えた夾竹桃があったが、今は中 央公民館前広場の文学碑のそばに写され、毎 年美しい花をつけている。
船橋は太宰文学の飛躍の地であるとともに、生涯の中できわ めてゆかりの深い土地の一つである。
        船橋市教育委員会>
と書いてある。

 旧居跡を見たら先程の栄橋に戻ろう。再び 海老川に沿って北(上流)へ進む。二百メー トルも行くと二つ目の九重橋に到る。この橋 は全体が太宰のイメージで造られている。

九重橋


太宰の旧居に最も近い橋で、今でこそこの橋 の東の踏切は廃止されてしまった が太宰は船橋駅から帰る時は必ずこの橋を渡 ったと思われる。太宰から神戸雄一に宛てた 葉書の地図ではこの橋を渡る道が案内され ている。そのゆかりから橋の欄干の中央には 本を広げた形のブロンズの左のページに太宰 の顔のレリーフと年譜が置かれ、右のページ には

<走れメロス 太宰治
妹の婚礼を終えたメロスは
刑場めざして走った
遅れれば身がわりに
親友が殺される
日は既に 西に傾いた>と彫ってある。

欄干の横には片 側六枚のブロンズのレリーフが嵌め込まれて いる。
「富嶽百景」「もの思う葦」「津軽」 「人間失格」「地球図」「斜陽」のイメージ を描いたレリーフである。「人間失格」のも のには<此の橋は太宰治の昔路>と浮き彫り されている。

橋を西へ渡り真っ直ぐ進むと船 橋小学校に到る。小学校の北に沿って回り、 学校の北から北へ抜け京成線の踏切を渡り左 へ行けばJR船橋駅に出る。帰りのコースは 太宰の案内図に従った道のりである。
 時間が許せば市内をぶらぶら歩いて太宰の 昔を偲びたい。

 最後に船橋の海を眺めよう。海岸の船橋海 浜公園を訪れよう。太宰の頃の海岸は埋め立て られ住宅や工場地帯になっている。その先の 埋め立て地が今干潟となり渡り鳥の憩いの場 になっている。「黄金風景」の場面を想像す るには少々苦しいかも知れないが、東京湾の 海を遠望して海岸を彷徨い歩いた太宰の姿を 偲びたい。


「太宰治資料館」ホームページ


「名作のふるさと」ホームページ


渡部芳紀研究室
中央大学文学部文学科国文学専攻