戦後の戯作−論

               渡 部 芳 紀


   1

 まずお断わりしておきたいのは、本稿は、「戦後の戯作−論」であって、「戦後のー戯作論」ではないということである。特に、戦後、著しい活躍を示したいわゆる「新戯作派」を中心に論を進めて行きたいと思う。
 「新戯作派」とは、太平洋戦争後の昭和二十一年から二十二年ごろにかけて、特異な作風によって一時期を画した作家たちを指す。しかし、この派は、一緒に 同人誌を出したり、グルーブを作ったりした集団を指すのではなく、戦後の秩序の崩壊と世相の混乱の中にあって、同傾向の作風を示した一群の作家たちを総称 する呼び方である。昭和の十年代にその文学的出発をした戦前派の作家たちで、石川淳・坂口安吾・織田作之助・太宰治を中心に、伊藤整・高見順らも加え、さ らに田中英光を含ませ(佐々木基一)る場合もある。それぞれの作家が戯作者的傾向を持つゆえに命名されたと考えられるが、今日では、これらの一連の作家た ちを「無頼派」と称するのが一般的である。
 「新戯作派」という呼称に関しては、<林房雄が江戸期の戯作文学にちなんで命名したもの>(森安理文「新戯作派」『文芸用語の基礎知識』昭51・3、至 文堂)と言われるが、その最初のものは、林房雄の「小説時評」(『小説と読物』昭22・6)に出ているという(浅子逸男「『新戯作派』の命名者」『都大論 究』16、昭54・4)。林は、その中で、<日本の現文壇には大略次の四つの流派があるらしく見える>とし、上村暁を<私小説派>、丹羽文雄・高見順を <本格小説派>、石川達三を<新社会派>、坂口安吾を<新戯作派>と類別している。この第四のく新戯作派>は<外道扱ひ>だが、<織田作之助、坂口安吾、 太宰治、石川淳など新進気鋭の若手>を選手とLて頑張っているとし、<小説の目的はすべての芸術と等しく人を楽しませることだ。小説の精神は永遠に新しい 戯作精神でなければならぬ。>と支持Lているという。平野謙も<最近林房雄によって、織田作之助、坂口安吾、太宰治、石川淳らは新戯作派などと呼ばれてい るそうだ>(「人性の俳優」昭22・6・22)と、林房雄に応じた発言をしており、このあたりに、「新戯作派」という呼称の嚆矢があるようである。

   2

   ところで、この<新戯作派>の呼称を生み出した根源には、坂口安吾の<戯作>に対する数々の発言があると思われる。
 早く、昭和十四年『文体』四月号に掲載した「茶番に寄せて」において<そのうち、思いきった戯作を書いて、読者に見参(けんざん)するつもりである>と 発言していた安吾は、昭和二十一年十一月二十五日になされたという太宰治・織田作之助との座談会「観楽極りて哀惜多」し(掲載されたのは『読物春秋』昭 24・1)において<一番大切な事は戯作者といふことだね。面倒臭いことでなしに、戯作者といふことが大切だ。>と、もっぱら女のことだけを話した座談会 の最後で、これだけは言っておきたいというように発言している。これは発表は命名よりも遅くなったわけだが、昭和二十二年『近代文学』一月号には、「戯作 者文学論」を掲げ、<私は常にみずから戯作者をもって任じてゐる><私はただの戯作者でもかまはない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、 その戯作に私の生存が賭けられてゐる>と、己を戯作者とする発言を行なっている。さらに昭和二十二年四月号の『改造』には「大阪の反逆−織田作之助の死 −」を書き、<織田のこの徹底した戯作根性は見上げたものだ><文学には、本質的な戯作性が必要不可欠なものであると私は信じてゐる>と、文学における戯 作性の重要性を強調している。太宰や織田にも、戯作精神に対する発言はあるが、安吾のように、はっきり<戯作>という言葉を使っては発言していない。そう いうところからも、「新戯作派」の呼称の基には、安吾の発言が大いに関係しているものと考えられる。

   3

 それでは、なぜ、これらの作家たちが「新戯作派」と称せられるようになったのか、これらの文学者たちの特色をみながら考えて行こう。
 <戯作>および<戯作者>とは何かということを『文芸用語の基礎知識』(至文堂)で見ると、<戯作とは、黄表紙・洒落本・草双紙・読本・滑稽本・人情本 等、江戸時代後期から明治初年に書かれた散文系統の俗文学の総称であり、それらの作者が戯作者である>(森脇理文)とし、その特色として、<正統な文学 (漢詩・漢文・和歌・雅文等)に対し、非正統である戯作者は、自らなぐさみ戯れ、また、読者に慰みを提供するという姿勢から俗に居なおり、さまざまに趣向 をこらして作品を書いた>とまとめている。これによれば、<戯作者>の特色は、<非正統>、<なぐさみ戯れ>、<俗に居なおり>、<さまざまに趣向をこら した作品を書いた>というところに、その基本があると思われる。それらの特色を頭に置いて先の作家たちを振りかえってみると、数々の首肯できる点が出てく るのである。

   4

 まず、戯作の最大の特色である<なぐさみ戯れ>に関して見てみよう。
 戯作への発言の多い安吾は、<小説におもしろさは不可欠の要件だ>、<日本文学にとつて(中略)徹底的にオツチヨコチヨイな戯作者根性が必要なのだ>と し、とくに織田作之助の中に<読者をおもしろがらせやうといふこの徹底した根性>を見出して高く評価している(「大阪の反逆--織田作之助の死--」)。 そして、その精神の上に<小説家はロマンを書くことを考えるべきものだ>(同)と言い、己を<私はただの戯作者、物語作者にすぎない>(「戯作者文学 論」)とするのである。こうした戯作性重視の安吾の発言は、安吾の文学的出発の時期にまでさか登ることができる。昭和七年二月発行の『青い馬』第五号に載 せた「FARCEに就いて」において、単なる写実を批判し、<荒唐無稽をその本来の面目とするファルスを、<滑稽文学>を、文学の重要な側面として主張し ている。安吾の発言が、単なる戦後の混乱した世相の中における便乗的な発言ではなく、彼の信ずる文学観の中に深く根をおろしたものであることがわかろう。
 太宰は戯作という言葉こそ使わないが、<なぐさみ戯れ>を重視していた。<僕は糞真面目な話を恐れます>(「津軽地方とチエホフ」『アサヒグラフ』昭 21・1・1)と言い、<虚構(中略)そこにこそ作家の真の苦しみといふものがある>(「如是我聞」『新潮』昭23・3・5〜7)とする太宰は、<文学に 於いて、最も大事なのは、「心づくし」といふものである>(同)という信念から、<軽い楽しい物語の創造に努力する>(「桜桃」『世界』昭23・5)ので ある。そうした精神は、太宰のどの作品にも表われているが、なかでも、遺稿の「グツト・バイ」(『朝日評論』23.7)はその典型的なものと言えよう。
 太宰の場合も、安吾同様、そうした<なぐさみ戯れ>の戯作精神はその文学的出発の頃から保持されている。第一創作集『晩年』(昭11・6、砂子屋書房) の巻頭を飾った「葉」(『鷭』昭9.4〕の一節<芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である>という言葉には、それが如実にあらわれているし、それは『晩 年』全体に流れる基本的精神でもあった。<やさしくて、かなしくて、をかしくて、気高くて、他に何が要るのでせう>(「『晩年』に就いて」『文筆』昭 13・2)と言い、<僕の芸術は、おもちやの持つ美しさ>(「もの思ふ葦(その一)」『日本浪曼派』昭10・12)と言い、文学を<無為に享楽する> (「古典龍頭蛇尾」(『文芸懇談会』昭11・5)ことを主張し、<ナンセンスの美しさ>(同)を推す太宰の戯作精神は、その後、中期の、「畜犬談」(『文 学者』昭14・10)、『お伽草紙』(昭20.10、筑摩書房)をその典型としつつ、彼の文学全体を貫く基本精神となって行くのである。坂口安吾によって <徹底した戯作根性>を指摘された織田作之助も<「リアリズムの極致はユーモアだよ」>と「世相」(『人間』昭21・4)の主人公に語らせ、「可能性の文 学」(『改造』昭21.12)では「世相」を<嘘の可能性を試してみた小説>だといい、坂口安吾の嘘を例にあげながら<嘘つきでない小説家なんて、私にと つては凡そ意味がない>と、小説および小説家にとっての<嘘>の比重の重さを語る。こうした織田の発言の中にも戯作に通ずる意識をうかがうことができるの である。
 また、安吾や太宰や織田のこれらの発言を作品の虚構性、嘘、物語性の重視という側面から見た場合には、先にあげた戯作の特色の<さまざまな趣向をこらし て作品を書いた>という項目にも通じて来るということが言えよう。これはとりもなおさず、後に述べるような私小説的リアリズムの批判、既成文学・伝統文学 批判にもつながって来るものだとも言えよう。
 ところで、安吾・太宰・織田を通して、戯作の<なぐさみ戯れ>に通じる特色を探って来たわけであるが、彼らは、ただ、単純に、ファルスを、ユーモアを、 おもしろさをめざしていたわけではない。安吾の<オツチヨコチヨイな戯作根性>は<厳たる思想性の自覚>(「大阪の反逆」)を同時に要求され、<市民への 奉仕の美>をうたう太宰も<われは山賊。うぬが誇をかすめとらむ>(「葉」)と、文学の反俗性、批判精神の側面を同時に叫んでいるのである。彼らの戯作根 性は、単なる戯れではなく、そうした批判精神を内に蔵したものであることがわかるし、安吾の言う<文学のふるさと>(「文学のふるさと」『現代文学』昭 16・8)も、そういう側面につながったものだろう。

   5

 こうした側面は、先の戯作の特色の<非正統>という特色とも強くつながって来る。
 <非正統>に対する<正統>とは何か。
 それを文学の世界で見ていけば、藤村・漱石といった大家たちに代表される既成文学であり、志賀直哉を筆頭とする私小説的リアリズム文学であろう。彼らは、これら既成文学、伝統的文学とその代表著たちを徹底的に攻撃する。
 坂口安吾は「デカダン文学論」(『新潮』昭21・10)で<藤村も横光利一も><ある型によつて思考しており、肉体的な論理によつて思考してはいない> と批判し、漱石を<軽薄な知性のイミテーシヨン>(「戯作者文学論」)と一蹴し、志賀直哉は<戯作性が欠け><無思想な芸のない退屈千万な読物>を書くと 痛烈に批判する(「大阪の反逆」)。安吾の伝統文学に対する反抗の姿勢の強さがはっきりと打ち出されていることがわかろう。
 織田作之助も「可能性の文学」において、<人間の可能性><文学の可能性>を追究せず、<伝統小説の定跡を最高の権威>としている日本の文学を批判し、 志賀直哉の文学の価値を一応は認めながらも彼の小説が<日本の小説のオルソドツクスとなり、主流となつたことに罪はあると、断言して憚からない>とする。 ここにも、既成文学、<正統>の文学へ反逆している<非正統>の側面があらわれていると言えよう。
 太宰治の場合で言えば、<俗中の俗夏目漱石>(「もの思ふ葦(その一)」『東京日日新聞』昭10・12・15)といった初期の発言をはじめ、島崎藤村の <出稼人根性(デカセギニンコンジヤウ)>(「創生記」『新潮』昭11・10)を批判し、「如是我聞」においては、志賀直哉に対して言葉の限りをつくして 批判をあぴせかけるのである。
 これらの発言にも、<正統>の文学に反逆した<非正統>という特色が如実に表われているということがいえよう。
 それはまた、文学に限らず、社会や倫理の<正統>に対する<非正統>としてもあらわれている。
 安吾の<小説の精神は常に現世に反逆的なものであり><文学は常に良俗に反するものだ>(「恋愛論」『婦人公論』昭22・4)という主張は、<堕落とい ふ真実の母胎によつて始めて人間が誕生した><生きよ堕(お)ちよ>と言った「堕落論」(『新潮』昭21・4)にも共通するものだ。彼の反逆の姿勢は、単 に文学の世界にとどまるものではなく、既成の価値観、倫理、権威にも及んで行くのである。
 太宰が「斜陽」の中で直治や上原という<不良>を登場させ、主人公かず子をして、<恋と革命>のため<古い道徳>と戦わせるのも、そうした既成の価値観のいっさいを否定しようという精神のあらわれであろう。
 ただ、それら否定の精神も、単なる否定のための否定ではなく、<よりよきなにかを探してゐる>(「恋愛論」)反逆であり、<堕ちる道を堕ちきることに よって、自分自身を発見し、救>(「堕落諭」)うための反倫理であり、<不良とは、優しさの事ではないかしら>(「斜陽」)と逆説的に新しい倫理を模索す る姿勢のあらわれでもあるのである。
 <なぐさみ戯れ>ることが、批判的側面を持っていたように、否定的反抗的批判的姿勢も新しい価値観倫理観を生み出すための積極的側面を持っているのであ る。太宰の<私は無頼派(リベルタン)です。束縛に反抗します。時を得顔のものを嘲笑します>(「返事−貴司山治宛−」『東西』昭21・3)という<無頼 派>宣言も、ただ<無頼>を目的としたものでないことは明白であろう。
 文学においても生活においても<正統>なるものに反逆し、<非正統>の位置に己を置いて行ったこれらの作家たちの内部には、意外と温かく柔軟なヒユーマニズムが流れているともいえるのである。それは反俗でありながら、<俗に居なお>る精神とも通じて来るものであろう。
   
   6

 <俗に居なおり>という戯作者の態度は、戦後の戯作者たちにはどのようにあらわれているだろうか。
 彼らは反俗の姿勢を持しながらも、高踏的に俗に対して行ったのではなかった。常に己の中の俗を見つめつつ俗を打っていったのである。安吾の『堕落論」の精神もそれに通ずるものであり、太宰や織田作之助の無頼の姿勢もそのあらわれであろう。
 また、これを角度を変えて見れば、人間に対する愛というヒューマンな側面と見ることもできよう。人間に対する温かな愛情が、彼らの戯作精神の背後には流れているのである。
 <あらゆる人間のおのおののいのちに対する敬愛と尊重といたはりは戯作者根性の根底であり、小説のおもしろさを狙ふこと自体、作者の大いなる人間愛> (「大阪の反逆」)を安吾は表明しているし、<悠悠たる塵中の人/常に塵中の趣を楽む>「もの思ふ葦(その一)」『日本浪曼派』昭10.10)と発言して いた太宰は、<世の中にのみ眼をむけよ>(「もの思ふ葦(その二)」『作品』「文芸通信」昭11・1)と言い、自然への嗜好を拒否する。「竹青」(『文 芸』昭20・4)の竹青をして、<人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬ><もつと、むきになつて、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに 没頭してみて下さい>と言わせ、「浦島さん」(『お伽草紙』)の浦島を、龍宮城から地上へ帰させるのである。織田作之助の大阪庶民の風俗を描き出そうとい う姿勢も、世相を写そうという態度も、そうした人間愛、俗への傾斜から発しているものであろう。
 このように見て来ると、これらの作家の中に、<俗に居なおり>という特色に通ずるものが脈々と流れていることも首肯できるのである。
 
 以上、4.5.6章を通して見て来たように、江戸時代の戯作および戯作者の特色である<なぐさみ戯れ><さまざまに趣向をこらして作品を書いた>、<非 正統>、<俗に居なおり>といった傾向は、戦後<新戯作派>と称された人々の中にもはっきりと見てとることができるのである。
 ところで、今まで、戯作の特色としてとりあげて来たこれらの傾向は、言葉を換えて言えば、文学の虚構性の重視であり、既成の価値観、倫理への反抗であ り、既成の権威、既成の文学の否定であり、反俗の精神である。それは、現在「無頼派」と称されている人々の文学の特色を示す言葉でもあるわけである。もち ろん、先にも触れた通り「新戯作派」と称される人々と「無頼派」と称される人々とはほとんど重なり、これらは同義語のようなものなので、その特色が共通す るのは当たりまえのことと言える。ただ、現在は、「無頼派」の称が優先しており、その特色を示す場合も、後者のような言葉で説明される場合が多いのであ る。そこには、「無頼」という語の方が、「戯作」という語よりも、より包括的に、かつ、的を射て、この派の特色を表現できるということが根本なのだろう が、一つ見方を変えてみると、座標の原点の移動といった推測もできるのである。
 今まで見て来たように、「新戯作派」の呼称のもとになったのは坂口安吾の発言によるところが大きいと考えられる。それに対し、「無頼派」の呼称は、太宰 の発言による命名と考えられている。同じ傾向を示した作家たちだが、戦後の一時期は、「堕落論」の安吾の発言の方が人々の注目を集め、命名のもととなり、 その後、奥野健男の発言などにも影響されつつ、世間の評価も太宰の方にやや傾き、「無頼派」の呼称の方に座標軸が移動して来たとは考えられないだろうか。
 『無頼派」の中には、奥野のように三好十郎・平林たい子まで含めて考える立場もある。
 
   7

 以上のように、戦後の戯作派「新戯作派」は、現在は「無頼派」と称され、戦後文学の重要な一端を担わされているのであるが、この仲間たちを、単に戦後の 混乱の中に花咲いた徒花(あだばな)としてだけとらえるのでなく、その文学的出発にまでさか登り、昭和十年代作家として考えようとする奥野健男(「昭和十 年代文学とは何か」、『現代文学の基軸』昭42・3、徳間書店)の意見や、磯貝英夫「無頼への意識−昭和十年代文学の反逆児ー」(『国文学』昭45・1) の論考がある。
 特に奥野は、この派の文学方法上の様々な試みと<自己表出の文学>とに、現代の文学につながるものを認め、さらには、<未来の可能性を賭けたい>とし、 現代文学史の基本的な構図の原点をそこに置いている。「新戯作派」「無頼派」に、近代文学史の中で重要な位置づけを与えようとする重要な意見だと言えよ う。

 本論考では、「無頼派」「新戯作派」に関してさかんに行なわれている一般的考察はさけた。全体的具体的な知識を得られたいむきは、多くの先行文献があるのでそれらを参照されたい。
 「新戯作派」の呼称が生れてから三十年近くの歳月が経過し、<戯作>の意味あいが風化し、「無頼派」の語にとってかわられつつある時に当たり、<戯作> の特集というこの機に当たり、<戯作>の特色の側から、もう一度、この派の特色をあらい直してみた。そのため、論の進め方も全般的総括的にせず、安吾・太 宰・織田中心になったことを了解されたい。

     〔わたべ・よしのり 中央大学教授)
             (初出、『解釈と鑑賞』(昭和54・8)


「太宰治資料館」ホームページ


渡部芳紀研究室
(中央大学文学部文学科 国文学専攻)