金木を歩く

           

渡部芳紀

金木・高流より岩木山

 今回は、太宰治の故郷、津軽半島の中心部の金木をじっくり歩いてみよう。

 津軽鉄道で南から金木に近づくと、右斜め前方にたれ目のように山腹に崖を持った小山が見えてくる。「故郷」で、妻に<「こっちの低い山脈は、ぼんじゅ山脈というのだ。あれが馬禿山だ。」>と車中から説明する山だ。「魚服記」の舞台である。

馬禿山

左斜め前方の町並みの中には一際大きな赤茶色の屋根の家が見える。太宰治の生家・現太宰治記念館である。と思うまもなく、金木駅に着く。

 金木では、なによりもまず、太宰の生家・太宰治記念館 を訪れよう。駅を降りたら駅前の道をまっすぐ前方に進もう。百メートルも進んだ右のスーパー成田の先の道を斜め右に入る。ゆるい下り坂を行くと、左に郵便 局がある。さらに行くと左に町役場がある。日曜には、記念館の駐車場として使える。役場前からさらに五十メートルも行くと、四辻がある。左に曲がり五十 メートルも行くと左に金木町太宰治記念館「斜陽館」がある。太宰治の生家である。「思い出」初め、「帰去来」「故郷」「津軽」ほか、数々の作品の舞台に なっているところである。

太宰治記念館(生家)

 記念館のパンフレットには、<明治の大地主、津島源右 衛門(作家太宰治の父)が建築した入母屋造りの建物で、明治四十年六月に完成する。米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使い、階下十一室二百七十八坪、 二階八室百十六坪、付属建物や泉水を配した庭園などを合わせて宅地約六百八十坪の豪邸である。>とある。

 明治四十二年六月十九日、太宰治は、この家に、源右衛 門、タ子(たね)の六男(実質四男)としてうまれ、大正十二年三月まで生い育ち、その後は、青森中学校、弘前高等学校時代は、帰省先として、昭和五年四 月、東大に入学してからは、六月、三兄圭治の葬儀で帰省してから十年近く、帰省出来ない時期があったが、十六年八月、母の見舞いに帰省、翌年は、母の見舞 い、及び葬儀で、十八年は母の法要で、十九年は、「津軽」の取材で、訪れ、二十年七月から二十一年十一月までは、疎開生活を送っている。太宰と太宰の文学 に多大な影を落としている生家である。

 長らく民間の旅館「斜陽館」として運営されていたが、平成八年、金木町が買収、復元して、十年四月より、記念館として一般に公開された。

 入口を入ると右手に受け付けがある。一般五百円、高校 大学生三百円、中・小学生二百円(二十名以上の団体だと、それぞれ、百円安くなる。)年末年始(十二月二十七日〜一月四日)以外は年中無休である。受け付 けの先は、裏まで抜ける広い土間である。津軽四番目の地主時代は、年貢米が積み上げられた所だという。左手には畳敷きの広い部屋が広がる。何処からでも上 がれるが、受け付けで貰ったパンフレットに従い、土間を奥に進んで板の間の所から左に上がろう。

 広い板の間は屋根裏まで吹き抜けである。中央に囲炉裏 が切られ土間に接した所にかまどもある。台所であったところだろう。板の間の右奥(東北隅)の一角に畳を敷いた部屋がある。パンフレットには元台所跡とあ るが、太宰の幼年時代は、夫を亡くした叔母きえが従姉妹たちと住んで居たところだという。幼年時代の太宰はもっぱらこの叔母の部屋で叔母の子のようにして 過ごしていたらしい。

 その部屋を見たら、まっすぐ進んで、正面の第一展示室 に入ろう。三つある蔵の第一の蔵・文庫蔵である。「思い出」の結びで主人公と弟が、恋人みよと叔母の写真を見る蔵だ。現在は、展示室として、太宰関係の資 料が一、二階に展示されている。太宰の着ていた二重廻し、紋付き、袴ほか、身につけていたもの、火鉢、机、お膳、硯ほか調度品、原稿、書簡、写真、貴重な 同人雑誌、文芸誌、単行本、研究書等、津島家の調度品類など狭い空間にびっちり展示してある。見学者も多く、資料も多く、何かもったいない感じ。もっと広 いスペースでゆっくり見られれば嬉しいことである。現在は、生家そのものを見て貰う方に主力が置かれ、それはそれで、充分嬉しいのだが、資料の豊富さか ら、展示の方のスペースも徐々に考えて戴きたい物である。もったいない。私は、許可を得て、写真も撮らせて貰ったが、次々と「撮影禁止ですよ!」と見学者 から、注意されて、いちいちあ、許可得てるんですと言うのが大変だった。そんなに、次々と人が流れていった。余り、禁止ですよと言われるので、今回は撮る のを諦めて、もっと空いているとき、もう一度撮らせていただこうと諦めた。

 展示室で、太宰と金木の輪郭を掴んだら、生家内部を見学しよう。パンフレットに能率良い回り方が順路として図示されている。

 先ほど土間から板の間に登った時、すぐ左にあったのが、常居(じょい)である。

常居(手前右)

「故郷」で、母の見舞いのため妻子を連れて初めて帰省し た、<私は妻子と共に仏間へ行って、仏さまを拝んで、それから内輪の客だけが集る「常居」という部屋へさがって、その一隅に座った。長兄の嫂も、次兄の嫂 も、笑顔を以て迎えて呉れた。祖母も、女中に手をひかれてやって来た。祖母は八十六歳である。耳が遠くなってしまった様子だが、元気だ。妻は園子にも、お 辞儀をさせようとして苦心していたが、園子はてんでお辞儀をしようとせず、ふらふら部屋を歩きまわって、皆をあぶながらせた。

 兄が出て来た。すっと部屋を素通りして、次の間に行っ てしまった。顔色も悪く、ぎょっとするほど痩せて、けわしい容貌になっていた。次の間にも母の病気見舞いの客がひとり来ているのだ。兄はそのお客としばら く話をして、やがてその客が帰って行ってから、「常居」に来て、私が何も言わぬさきから、

「ああ。」と首肯いて畳に手をつき、軽くお辞儀をした。

「いろいろ御心配をかけました。」私は固くなってお辞儀をした。「文治兄さんだ。」と妻に知らせた。

 兄は、妻のお辞儀がはじまらぬうちに、妻に向ってお辞儀をした。私は、はらはらした。お辞儀がすむと、兄はさっさと二階へ行った。

 はてな? と思った。何かあったな、と私は、ひがんだ。この兄は、以前から機嫌の悪い時に限って、このように妙によそよそしく、ていねいにお辞儀をするのである。>

 兄と、十年ぶりに再会し、妻子を初めて紹介する場面である。

 常居は、十三、五畳、中央に囲炉裏が切ってある。西隣の茶の間より一段低く作られている。

 常居の先、展示室ヨリの東北の角にあるのは、小座敷、作品では、「小間」である。

常居とともに、家族が普段いる部屋である。他の部屋が広いので、狭く感じられるが、十畳ある。

 「故郷」の末尾、母の見舞いで、帰郷し久しぶりに長兄とも会って、夕食をともにし、泊まることになったが、居場所がなくてうろうろした後、

 <家の中は、見舞い客で混雑していた。私は見舞客たち に見られないように、台所のほうから、こっそりはいって、離れの病室へ行きかけて、ふと「常居」の隣りの「小間」をのぞいて、そこに次兄がひとり座ってい るのを見つけ、こわいものに引きずられるように、するすると傍へ行って座った。内心、少からずビクビクしながら、

「お母さんは、どうしても、だめですか?」と言った。いかにも唐突な質問で、自分ながら、まずいと思った。英治さんは、苦笑を浮べ、ちょっとあたりを見回してから、

「まあ、こんどは、むずかしいと思わねばいけない。」と言った。そこへ突然、長兄がはいって来た。少しまごついて、あちこち歩きまわって、押入れをあけたりしめたりして、それから、どかと次兄の傍にあぐらをかいた。

「困った、こんどは、困った。」そう言って顔を伏せ、眼鏡を額に押し上げ、片手で両目をおさえた。

 ふと気がつくと、いつの間にか私の背後に、一ばん上の姉が、ひっそり座っていた。>

と作品を結ぶ。放蕩息子ならぬ、弟の十年ぶりの長兄との再会の作品「故郷」結びの場面である。

 その、西隣は座敷、十五畳である。東の面に二間幅の床の間を持った、この家の一番の中心、客間に相当する所。

その、西隣が、仏間十八畳(三間×三間)である。実質上家の中心。西面の左半分が仏壇、右半分が床の間である。

 十年ぶりに母の見舞いにわが家に帰った時の様子を、「帰去来」では、

<仏間に通された。中畑さんが仏壇の扉を一ぱいに押しひらいた。私は仏壇に向って座って、お辞儀をした。それから、嫂に挨拶した。(中略)

 背後にスッスッと足音が聞える。私は緊張した。母だ。母は、私からよほど離れて座った。私は、黙ってお辞儀をした。顔を挙げて見たら、母は涙を拭いていた。小さいお婆さんになっていた。

 また背後に、スッスッと足音が聞える。一瞬、妙な、(もったいない事だが、)気味の悪さを感じた。眼の前にあらわれるまで、なんだかこわい。

「修ッちゃあ、よく来たナ。」祖母である。八十五歳だ。大きい声で言う。母よりも、はるかに元気だ。「会いたいと思うていたね。ワレはなんにも言わねども、いちど会いたいと思うていたね。」

 陽気な人である。いまでも晩酌を欠かした事が無いという。>

仏間

 また、「故郷」では、

 <「ごはんですよ。美知子さんも、一緒にどうぞ。」嫂はもう、私たちに対して何の警戒心も抱いていない様子だった。私にはそれが、ひどくたのもしく思われた。なんでもこの人に相談したら、間違いが無いのではあるまいかと思った。

 母屋の仏間に案内された。床の間を背にして、五所川原の先生(叔母の養子)それから北さん、中畑さん、それに向い合って、長兄、次兄、私、美知子と七人だけの座席が設けられていた。>と描かれる。

 6月19日の太宰生誕祭は、この仏間の床の間に太宰の写真を掲げて執り行われる。

 仏間の南隣は、十五畳の座敷、その、東、先ほどの座敷の南隣は十五畳の茶の間、茶の間の東隣りは、常居である。旅館の「斜陽館」当時、この一階の部屋部屋の襖をはずして、金木町出身の歌手吉幾三氏の結婚披露宴が行われたそうである。

 順路に従って、仏間の北側の廊下を西へ進むと一階の廊 下の突き当たりになる。その右角に付属して便所がある。客用の便所で、「帰去来」で、<私は立って、廊下へ出た。廊下の突き当りに、お客用のお便所がある 事は私も知ってはいたのだが、長兄の留守に、勝手に家の中を知った振りしてのこのこ歩き回るのは、よくない事だと思ったので、ちょっと英治さんに尋ねたの だが、英治さんは私を、きざな奴だと思ったかも知れない。私は手を洗ってからも、しばらくそこに立って窓から庭を眺めていた。一木一草も変っていない。私 は家の内外を、もっともっと見て回りたかった。ひとめ見て置きたい所がたくさんたくさんあったのだ。けれどもそれは、いかにも図々しい事のようだから、そ この小さい窓から庭を、むさぼるように眺めるだけで我慢する事にした。>と描かれる。この角から振り返ると、北側の長い廊下が見通せる。「哀蚊」の長い廊 下もかくやと連想される。

 北側の廊下の北に広がる庭も眺めたい。池を囲んで、草木が植え込まれている。戦後の小品「庭」の舞台である。

 角の便所は、現在は見学場所の一つ。内部も見られる が、もちろん使用はできない。この角を左に曲がれば、道路に面した和室(八畳)である。そこを抜ければ、今回の復元で発見された津島家が銀行をしていた頃 の金融執務室(八畳)で、左の壁際には、金庫を据える跡も見つかった。向かい側には、カウンター様の台もある。左に曲がれば座敷に抜ける。右の階段を登れ ば二階に上がれる。

 階段は、洋風に造られている。順路に従って左へ上がろう。上がったところ、二階南側中央は、洋間である。南側を廊下が貫きその北側に洋間、控室、和室と三間が続いている。

洋間

 洋間は、三間四方の一八畳相当の広い部屋。絨毯が敷かれ、ソファが置かれ、シャンデリアが輝き、緞帳のようなカーテンが窓を飾っている。今でも、豪華さを感じさせる物。明治の末頃、如何に贅を尽くした物であったか。

 その隣は十畳の控え室。洋間との間にドアがある。洋間の控え室だったのだろう。その東隣は十畳の和室、いわゆる斜陽の間である。奥の四枚の銀襖に漢詩が書かれている。その右端の漢詩の末尾に「斜陽」の二字がある。

 もどって、控え室から裏に抜ける。すぐ前に右手(東)へ降りる狭い階段がある。広い家なので玄関脇の広い正規の階段以外に家族用の狭い階段をつくったのだろう。太宰も良く利用したという。その先右側(建物全体の東北隅)には、離れ風の八畳の和室がある。

 左に回り、二階北側の廊下を東からたどると、まず、金襖の十二・五畳の和室がある。東に床の間、西隣の境と南の入口の襖に金箔が貼られている。

金屏風の間

「津軽」では、

<私はジャンパー姿のままで二階に上って行った。金襖の一ばんいい日本間で、兄たちは、ひっそりお酒を飲んでいた。私はどたばたとはいり、

「修治です。はじめて。」と言って、まずお婿さんに挨拶 して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言って、ちょっと首肯いたきりだった。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀 と言っていいかも知れない。私は慣れているので平気でお膳について、光ちゃんと嫂のお酌で、黙ってお酒を飲んでいた。お婿さんは、床柱をうしろにして座っ て、もうだいぶお顔が赤くなっている。兄たちも、昔はお酒に強かったようだが、このごろは、めっきり弱くなったようで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、 いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互いゆずり合っている。外ヶ浜で荒っぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のようで、兄たち と私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。

「蟹は、どうしましょう。あとで?」と嫂は小声で私に言った。私は蟹田の蟹を少しお土産に持って来たのだ。

(中略)

「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまいませんよ。持って来なさい。ナプキンも一緒に。」

(中略)

 私は、ほっとした。

「失礼ですが、どなたです。」お婿さんは、無邪気そうな笑顔で私に言った。はっと思った。無理もないとすぐに思い直して、

「はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です。」と笑 いながら答えたが、しょげてしまって、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかったかしら、と卑屈に気を使って、次兄の顔色を伺ったが、次兄は知らん顔 をしているので、取りつく島も無かった。ま、いいや、と私は膝を崩して、光ちゃんに、こんどはビールをお酌させた。>

 その西隣には、十畳の和室がある。金襖の裏には人物を配した南画風の絵が描かれている。

 南北に貫く中廊下を経て西北の隅に西の廊下向きには八畳の和室がある。二面に南画風の風景画の襖がある。

 その南隣り、西の廊下に面してもう一つ八畳の和室がある。その南は、広い階段で玄関先の左脇に降りる事になる。

 以上、板の間を除いて一階九室、二階八室、のべ百七十六畳の広さである。

 土間に降りて左(西)へ、抜けると左に風呂場跡があ る。以前旅館だったころ、学生の私が初めてここに泊まったときは、ここにあった銅製の大きな風呂に入ったのだった。当時は津島家名残の銅(あかがね)造り の風呂が残っていたのである。その先に白壁造りの蔵が二つある。手前の小さいのがが第二の蔵、その先の大きいのが第三の蔵で、第三の蔵は年貢米を保管した ところとか。

 記念館の前には金木町観光物産館「マディニー」が出来た。津軽一帯の観光情報・太宰関連の資料やお土産等も買える。マディニーとは、津軽弁で丁寧に、心を込めての意。

 金木町観光物産館「マディニー」の駐車場の右前方に津軽三味線会館が出来た。時間のあるときは、こちらも楽しみたい。その右手、道を隔てた北側に雲祥寺がある。

雲祥寺

 雲祥寺は、「思い出」の舞台である。

 <六つ七つになると思い出もはっきりしている。(中 略)たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わさ れ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴 や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされた ときには恐ろしくて泣き出した。

 そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにか の生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから 回して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその回した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に回れば地獄へ落ちる、とたけは 言った。たけが回すと、いい音をたててひとしきり回って、かならずひっそりと止るのだけれど、私が回すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記 憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを回して見ても皆言い合せたようにからんからんと逆回りした日があったのである。私は破れかけるかん しゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に回しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。>

卒塔婆(後生車)

 本堂の内部の左脇に、<御絵掛地>「十王曼陀羅」が展 示してある。以前は、盆などの特別の時しか見られなかったのだが、見学者の希望に応えて、常時見学出来る様になった。ありがたいことである。太宰の描いた 描写そのままの絵が確認出来る。展示の脇には、解説のパンフレットもあって、自由に貰える。寺の好意に応えて静かに味わいたい。

 本堂を出て広場の右脇に墓地との境の石塀を背に作品に描かれた鉄の輪のついた卒塔婆(地元では後生車という)が数基たっている。最近は奉納する人がいないのか、古びて朽ちかけているのは残念である。

 なお、雲祥寺の住職一戸彰晃氏は、最近ホームページを 作られ、「十王曼陀羅」を順次公開している。太宰や金木の情報が豊かにある。掲示板では、太宰はもとより、仏教に関する諸々の質問、相談に答えている。一 度訪問してみたい。(http://www.jomon.ne.jp/~evsmh5c9/index.html)

雲祥寺を出たら、右へ曲がり先ほどの道をさらに西へと辿ろう。七、八十メートル行くと、スーパーの駐車場がある角を右(北)に入る道がある。金木小学校(明治高等小学校跡)、芦野公園へ到る道だ。今は、さらにまっすぐ五十メートルも進む。左に南台寺がある。

 門を入ると正面に本堂、右に釣鐘堂がある。釣鐘道は、太宰の長兄文治の寄進とか。本堂の左手に本堂に向かって津島家の墓地がある。「帰去来」では、

 <金木駅に着いた。見ると、改札口に次兄の英治さんが立っている。笑っている。

 私は、十年振りに故郷の土を踏んでみた。(中略)

「お墓。」と誰か、低く言った。それだけで皆に了解出来た。四人は黙って、まっすぐにお寺へ行った。そうして、父の墓を拝んだ。墓の傍の栗の大木は、昔のままだった。>

と描かれている。その栗の大木も、墓の両側に控えてい る。一坪も無いくらいの墓地の入口には鳥居がある。墓地の中央には、「対馬姓」と刻んだ墓碑があり、その右側面には天保六乙未年と彫って在る。その右に先 祖累代の墓がある。家紋の鶴がきざんである。その手前に、長兄文治氏の墓、中央の左に「貴族院議員対馬源右衛門墓」と刻んだ太宰の父の墓がある。

 この寺には、太宰の幼少時、日曜学校が行われていたとか。「思い出」では、たけが本を借りてきて主人公に読ませる描写がある。

 南台寺にお参りしたら先ほどの駐車場のある三叉路に戻 り、道を左に曲がろう。太宰散策の道である。太宰が明治高等小学校に通い、疎開中には、訪ねてきた人と芦野公園まで歩いた道だ。途中右手道脇に「太宰治/ 思い出/広場/園子」と長女園子さんの筆跡を赤壁に配した休憩所がある。可愛いベンチを取り囲んで回りの煉瓦塀に時代を追って太宰の全作品の名がモザイク 風に書き込まれている。小学校に通う子供たちや、太宰ゆかりの地を散策する人たちの休憩所である。

 さらに道をたどれば金木小学校に到る。その手前道路脇に明治高等小学校跡の碑がある。太宰が大正十一年四月から一年間通った所だ。

 正門から、まっすぐ入って行くと左手校舎の手前に<微笑誠心>と彫った太宰の碑がある。太宰が長兄文治に宛てた書簡からとった句で署名も修治となっている。

 小学校前の国道三三九号を北へ行くと芦野公園駅に出る。現在の駅舎の北隣に旧駅舎が保存されている。「津軽」で、

<蘆野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着い て、(中略)窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげ て切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、目を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれて ある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然と している。少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどかな駅は、全国にも あまり類例が無いに違いない。>と描かれている駅舎である。今は、軽食と喫茶の店になっている。時間が在ればぜひ休憩したい。内部は余り改装されておら ず、昔の駅舎の面影を残しているので、太宰当時を偲ぶのもいい。切符売り場や旧改札口も残り、店からのんびりホームに出ることもできる。うまくすると、 「走れメロス」号に会うかもしれない。お腹が空いていれば、店自慢のオムライスがお勧め。逸品である。

 現駅舎の右手の踏切を渡れば芦野公園である。松や桜の 中を左手に進む。芦野公園は県内でも有数の桜の名所である。筆者が訪れた日も広場は人で埋まっていた。太宰文学碑の案内に従って進んでいくと太宰碑の前に 到る。太宰の友人阿部合成の手になるもの「葉」のエピグラフ、<撰ばれてあることの/恍惚と不安と/二つわれにあり>とヴェルレーヌの詩の一節が彫ってあ る。

太宰碑

碑の脇から吊り橋が先に延びている。

 吊り橋を渡るとさらに左へ浮橋が延びている。浮橋を半分も渡ると東に馬禿山が見えてくる。<老いぼれた人の横顔に似ていた>「魚服記」と描かれた様子がよくわかる。東北には高流(丘)も見える。

 芦野公園を見たら、時間あれば、芦野湖の裏(東)の川 倉賽の河原も訪れたい。芦野公園駅の南から国道を東に入り金木の記念館前から来た道の交差点を左(北)に曲がって一キロも行くと、川倉地蔵がある。祭礼の 日は、イタコの口寄せもある霊地である。子供の来世での幸せを祈って奉納された人形たちがお堂を埋め尽くしている。鉄輪を付けた御所車も見事に並んでい る。

 蘆野公園周辺を見たら、金木に戻ろう。

 次に、金木駅から東の方面を見よう。

 駅の北の踏切を東に越えて五〇〇メートルも行くと弘前 大学農学部の農場がある。「津軽」で<修錬農場は、その路から半丁ほど右にはいった小高い丘の上にあった。>と描かれた「修錬農場」にあたる。教育現場な ので迷惑かけないようにしたい。門を入った正面に事務所があるので、どうしても見学したい人は、許可を得ると良い。校舎の右手に「津軽」で、<農場の入口 に、大きい石碑が立っていて、それには、昭和十年八月、朝香宮様の御成、同年九月、高松宮様の御成、同年十月、秩父宮様ならびに同妃宮様の御成、昭和十三 年八月に秩父宮様ふたたび御成、という幾重もの光栄を謹んで記している>と記された碑がある。農場の裏に回れば、

<「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではな かった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮んでいる。実際、軽く浮んでいる感じなのであ る。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に 浮んでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある。>と描いている岩木山が田園の向こうに見える。

 農場の門の前から五〇メートルも行った所から左に入り 東北にまっすぐ三キロも行った大東ヶ丘からさらに右手へ大倉岳への道を入ってやや登ったところ。高流である。現在工事用の土砂の採掘をやっていて危険なの で工事の無い日曜以外は無理か?タクシーで行って、車に待っていて貰い、工事して無ければ危険ない所で高流の展望が味わえる。「津軽」で、

高流より岩木山

<眼前に展開している春の津軽平野の風景には、うっとり してしまった。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光って見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のように鈍く光っているのは、田光沼であろうか。さ らにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがっているのは、十三湖らしい(中略)その十三湖の北に権現崎が見える。(中略)目を転じて、前方の岩木川のさら に遠方の青くさっと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一望の内である。北は権現崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無 い。>と太宰としては珍しく風景描写に陶然としている展望を楽しむことが出来る。

 農場前の道を高流方向に入らず道なりに一キロも行くと金木川を渡る。その先の製材所の所の交差点を左青森方面に曲がる。金木川に沿うようにして七百メートルも進むと左の金木川に架かった橋がある。この辺りから、斜め左前方を見ると、馬禿げ山が見える。

この辺りからは、垂れ目の三角山と言う感じ、二つの土色 の崖が左右の山腹に見える。天馬が降りてきて左右の前足で付けた跡だという。この左の崖を正面から見ると<老いぼれた人の横顔に似ていた>「魚服記」と言 うように見える。来た道をさらに東へ進めば三キロ程で鹿の子川溜池に着く。

 <鹿の子川に沿うてしばらくのぼり、やっと森林鉄道の 軌道から解放されて、ちょっと右へはいったところに、周囲半里以上もあるかと思われる大きい溜池が、それこそ一鳥啼いて更に静かな面持ちで、蒼々満々と水 を湛えている。この辺は、荘右衛門沢という深い谷間だったそうであるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きい溜池を作ったのは、昭和十六年、つい 最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も彫り込まれていた。溜池の周囲に工事の跡の絶壁の赤土が、まだ生々しく露出しているので、所謂 天然の荘厳を欠いてはいるが、しかし、金木という一部落の力が感ぜられ、このような人為の成果というものも、また、快適な風景とせざるを得ない、などと、 おっちよこちょいの旅の批評家は、立ちどまって煙草をふかし、四方八方を眺めながら、いい加減の感想をまとめていた。>「津軽」と描かれた池だ。

 道の右脇に碑が立っている。太宰の長兄津島文治の名前も見える。そのあと、一行は上流の鹿ノ子滝へと徒歩で向かう。

 <それから皆で、溜池の奥の方へ歩いて行った。(中 略)深山幽谷の精気が、ふっと感ぜられた。兄は、背中を丸くして黙って歩いている。兄とこうして、一緒に外を歩くのも何年振りであろうか。十年ほど前、東 京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのように背中を丸くして黙って歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうしろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きな がら歩いた事があったけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。(中略)。水の落ちる音が、次第に高く聞えて来た。溜池の端に、鹿の子滝という、この地 方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢の縁に沿うた幅一尺くらいの心細い小路を歩いて いるのであって、右手はすぐ屏風を立てたような山、左手は足もとから断崖になっていて、その谷底に滝壷がいかにも深そうな青い色でとぐろを巻いているので ある。(中略)

 右手の山腹には、ツツジが美しく咲いている。(中略) 藤の花も、そろそろ咲きかけている。路は次第に下り坂になって、私たちは滝口に降りた。一間ほどの幅の小さい谷川で、流れのまんなかあたりに、木の根株が 置かれてあり、それを足がかりにして、ひょいひょいと二歩で飛び越せるようになっている。ひとりひとり、ひょいひょいと飛び越した。>と滝の口(滝の落ち 口)まで、行っている。

 結構距離があるので、時間の無いときは、ため池から国 道を車で一キロほど登ろう。左に鹿ノ子滝の標識があるところに車一台分の余地がある。そこに車を置いて道路から鹿ノ子滝を見おろそう。冬から春先には、木 の葉が落ちているので滝も見えるが夏など余り見えない。ぜひ、展望台を作ってもらいたいものである。

 ここより、五十メートルも上流に、下へ降りる道があ る。そこを行くとすぐ滝口に出る。太宰たちとは逆に川を渡り急な崖の下を行けば滝を間近に見ることが出来る。殆ど垂直の滑りやすい崖なので注意したい。馬 禿山から鹿ノ子滝あたりが、「魚服記」の舞台である。地元の人たちは、滝のモデルは南隣の藤の滝だという。幽邃な感じ、水量、滝壷の感じからそういう。鹿 ノ子滝と、藤の滝が合成されて「魚服記」の滝になったと言えよう。

 鹿ノ子滝を見たら金木に戻ろう。先ほどの橋あたりから 北に入って馬禿山に近づきたい。それが、今の私の望みである。今年は、金木町推薦の十二本ヤス(日本一のヒバという)を見に高流と馬禿山の間の山中に入っ た。その途中、右手に馬禿山の崖が見えたので正面から見たいと山中に分け入ったが、結局正面には行ったのだが木の間越しにしか見えなかった。次回には、徒 歩で金木川方面から近づこうと思う。

 金木に戻ったら、記念館前の道を南にまっすぐ三百メー トルも行くと、金木川を越えた右手に金木病院がある。太宰の通った金木小学校の跡である。さらにその道を南へ辿ると、町中へ入る道とバイパスとして町を迂 回し北へ行く道との別れに着く。この三角地帯に太宰の「走れメロス」のレリーフと、「津軽」の金木の一節を彫った碑と太宰の上半身の浮き彫り像を見ること が出来る。

太宰レリーフ

長年故郷に拒まれていた太宰も今は完全に受け入れられ毎年生誕祭が盛大に行われている。

 津軽という遠い地域にあるが、「津軽」「思い出」「帰去来」「故郷」などをひもときながら、一度は訪れてみたい町である。