太宰治を読む鍵



太 宰 文 学 を 読 む 鍵 

                   渡 部 芳 紀 

  太宰治が心中して果ててから四十九年が経 過した。その間、太宰文学は風化するどころ かますます多くの読者を魅きつけている。本ホームページでも賢治や啄木を抜いてアクセス度ナンバー1である。文 庫本のベストセラーの一位と二位も太宰の 「人間失格」と「斜陽」だという。

戦後の混 乱した社会の中で生れた太宰文学は、そうし た社会背景の中でしか本当には理解され得な いという意見もある。また、作品よりも人間 やその生き方に興味がもたれ、作品の本質と は関わりない所で読まれている側面もあろう。 津軽屈指の大金持ちの子息、非合法運動への 参加と脱落、四度に渡る自殺未遂、心中事件 の末の女性との心中による死、麻薬中毒、多 額の借金、芥川賞をめぐる奇行、愛人と私生 児等々、めったに人が体験できないようなこ とを太宰は一人で演じきり死んで行った。そ うした様々な側面を持った太宰文学は、様々 な読まれ方をしているといえよう。
ここでは、そうした多様性の中、多くの誤 解の中で読まれている太宰文学を整理すると 共にその難解さを解く鍵をも提示してみよう。

 太宰とその文学に切り込む視点は様々にあ る。まずは、そうした視点、問題点を整理し てみよう。

 太宰治と生家
太宰が津軽屈指の大地主の 家に生まれたという事は大いに太宰とその文 学に関わっている。それは、「恍惚と不安」 と呼ぶにふさわしい選良意識と劣等感として 太宰とその文学を規制している(注1)。
彼の成長 して行つた時期は、折しも明治末から大正、 昭和初年にかけて、日本の近代史のなかでも 特に左翼運動の盛んな時代であった。自分が ブルジョアの出身であるという意識が、負い 目となって太宰にのしかかった。習作期の 「地主一代」や「無間奈落」から最後の「人 間失格」までこの問題は尾をひいている。

 生家と関連して、太宰が津軽という地方の 出身だということもその文学の根底をなして いよう。特に、「津軽」では、津軽人として の誇りと劣等感を語っている。

家の問題と関連して左翼非合法運動への参 加と挫折がある。
相馬正一(注2)のように否定的 に捉えるひともいるが、受け身で参加してた わけでは無く太宰なりの選択と覚悟があった。しかし、結局は、保守党の若手政 治家であった兄文治の圧力もあり、社会的弾 圧の強さにも負けて、挫折、転向することに なる。
ここでも太宰は強い罪の自覚と負い目 とを抱くことになる。この転向と負い目を一 番重視するのは奥野健男である(注3)。太宰の下 降指向と結び付けて太宰論を展開している。
「道化の華」「狂言の春」「虚構の春」「逆 行」「駈込み訴へ」「東京八景」「十五年 間」「苦悩の年間」「斜陽」「人間失格」と この問題と関連する作品は枚挙に暇がない。

女性との関わりも無視出来ない問題である。 この視点は複雑な様相を呈する。
母、叔母、 といった母性的問題、養育係たけとの関わり、 地方豪家ゆえの多くの女性の使用人の中で育 ったといつた問題、最初の妻小山初代、二番 目の妻美智子、昭和五年十一月、心中して死 なせてしまった田辺あつみ、「斜陽」のモデ ル太田静子、一緒に死んだ山崎富栄等、太宰 と女性との関わりといっても、その様相は多 様である。
女性との関わりは特に長篠康一郎 の発言(注4)が多く、大胆でユニークな発想を展 開している。最近では、赤城孝之の研究(注5)も 付け加えられている。
作品としては、「女生徒」「皮膚と心」「カチカチ山」「嘘」「男 女同権」「女類」「ヴィヨンの妻」「斜陽」 「人間失格」「おさん」ほか枚挙に暇がない。

太宰と麻薬中毒、それに伴う借金の問題も 重要であろう。
「狂言の神」「虚構の春」 「創生記」「HUMAN LOST」「二十 世紀旗手」など、昭和十年から十一年にかけ ての太宰とその作品を論ずる際には避けて通 れない問題であろう。相馬正一のように麻薬 問題を重視する立場(注6)から長篠康一郎のよう にそれを回り(特に佐藤春夫、井伏鱒二ら文 壇の先輩達の)のでっちあげだとする立場(注7) まで色々な受け取り方がされている。読者の客観 的な判断で取り組むとよいであろう。

 麻薬中毒問題と重なるように芥川賞の問題 もある。筆者が最初に取り上げた問題(注8)だが その後、佐藤春夫、川端康成などから新しい 資料が公開され太宰を考える上で興味有る問題 点である。作品としては「逆行」「道化の華」「創生記」が中心 となる。

 キリスト教の視点から太宰とその文学を語 ることも大切である。
昭和十一、二年頃、最 初の聖書への接近が見られ、その後、昭和十 六、七年頃、昭和二十一から二十三年頃と太 宰と聖書との接近は、三つの山を持っている。 それぞれ、太宰が苦しんでいた時である。一 般的には、佐古純一郎らキリスト者の意見(注9) は、太宰は、律法的に聖書を受けとったとす る。私は、その苦しい時期に特に読んでいる 点を取り上げ福音の側面もあったとする(注 10) 。作品では、「HUMAN LOST」「正 義と微笑」「駈込み訴へ」「父」「桜桃」な ど多数がキリストあるいはキリスト教に関わ りを持っている。

、太宰の作品群の 中に翻案物といわれるものがある。古今東西 の古典作品や他人の日記、手記などを素材 とし太宰独特の脚色を加えた作品達である。
「地球図」「女生徒」「走れメロス」「駈込 み訴へ」「右大臣実朝」「清貧譚」「竹青」 「西鶴諸国噺」「お伽草紙」「パンドラの 匣」「斜陽」など枚挙に暇がないほどだ。特 に、自由な発言の許されなかった戦時下に翻 案物が多い。原作の制約の中で太宰の才能は 自由に羽ばたき開花している。

太宰と自殺という視点も様々の問題点を持 っている。
昭和四年十二月、カルモチンを飲 んで昏睡状態になったのを初め、昭和五年十 一月、江ノ島近くの小動崎での田辺あつみと の心中事件、昭和十年三月の鎌倉八幡宮近く の山中での縊死未遂、昭和十二年三月下旬の 妻初代との谷川温泉における心中未遂事件、昭和二十三年六月 十三日深更、山崎富栄と玉川上水に入り心中。
これらのうち、昭和四年の未遂は、間違えて 睡眠薬を飲みすぎた注(11)ともいわれ、昭和五 年の心中事件に関しては、相手が死に太宰が 生き残ったということもあって、太宰があつ みを殺したのだと主張する意見(注12)もある。 昭和十年の縊死未遂も狂言という意見(注 13)が あり、十二年の心中未遂も、狂言(注14)とす る考えがある。最後の心中事件に関しても、 太宰は死ぬ気はなかったのに相手の山崎富栄 に引きずりこまれた、つまり殺されたのだと いった意見* 15もある。
 作品では、昭和五年の心中は、「道化の華 」「狂言の神」「虚構の春」ほか多くの作品 に描かれ太宰の中に如何に根を下ろしている かを伺わせる。昭和十年の縊死未遂は、「狂 言の神」、昭和十二年の心中未遂は、「姥 捨」に描かれている。自分で作品にじかに触 れながら、太宰作品の虚と実を考えてみるの もいいだろう。
打案  以上、主たる問題点を取り上げてみた。こ の他にも多くの太宰文学の特色が考えられる。
 ところで、太宰文学は私小説の体裁をとる ことが多い。しかし、実際には、そこに虚構 やデフォルメが加えられもとの体験とはかけ 離れた作品に昇華していることが多い。小説 に描かれた事イコール事実と思い込まないこ と肝要である。そういう点では、伝記研究、 その成果としての年譜の意味は大きい。

 太宰の伝記研究は、相馬正一、長篠康一郎 等によって昭和四十年代に飛躍的に進展しそ の後も補足的に今日まで受け継がれてきてい る。両者とも多くの新資料を掘り出し伝記研究 に寄与した。資料にのっとった判断はそれぞ れの個性によるものなので、我々としては客 観的にそれらの資料を使つていけばよいであ ろう。

 そうした伝記的資料も視野に入れつつさら に広範な資料を踏まえて山内祥史により詳細 正確な年譜(注16)が作られている。その詳しい 年譜は年譜の枠を越えて伝記そのものと言っ てもよいかもしれない。年譜は、山内祥史の もの抜きでは語れない。

 山内祥史には、年譜と共に詳細な文献目録 (注17)の業績がある。
昭和三十七年より開始さ れた研究は三十年以上に渡って進められ他に 類を見ない完璧なものになっている。太宰と 太宰文学を語るものにとり山内の文献目録は 必携の書になっている。さらに、それらの成 果を踏まえ、太宰の全作品に関し詳細な解題 (注18)が纏められている。一本に纏められるの が待たれるが、これも必読の資料である。

 このように、様々の問題点を孕みながら太 宰の作品は近代文学の中に抜きんでた一つの 山を作り上げている。その研究も飛躍的に進 み、多くの業績が積み重ねられて来た。しか し、太宰とその作品世界はその大きさゆえに 今でも難解さと謎とに包まれた部分が多い。 次に、太宰と太宰文学が持つ謎と難解さを解 く鍵を取り上げてみよう。

   2
 ここでは太宰とその文学を解く鍵について 考察してみたい。それにより太宰と太宰文学 の世界は、より大きく開けて来るであろう。

太宰の生き方と文学の根底にあるのはダン ディズムの精神である。
 ダンディズムとは、十九世紀初頭の三、四 十年間、イギリスの上流階級の若者の間で 流行したおしゃれ哲学である。服装・装飾だ けでなく、立ち居振る舞いにいたるまで特定 の様式を守った。バイロン、ボードレール、 プーシキンなどにその傾向が見られる。
太宰は、ボードーレールやプーシキンを通してダ ンディズムに触れたようだ。

その特色は大きく二つに纏められる。
その一つ、積極的側 面の特色は、「身嗜み(トワレット) 」に意を用い、 飾りたてるのを大事にする事 である。
その根底には、「美しいもの高尚なものはすべて、 理性と計算の結果」であるという考えがあり、 粗野で不潔で地上的なものへの批判。社会の 卑俗生への侮蔑がある。

 さらにそれは、「人工的なものの重視」に つながる。知性や理性への信頼である。
太宰の言葉を使えば<水到りて渠(きょ)なる、このや うな小説があつたなら、千年万年たつても 、 生きて居る。>「めくら草紙」
<人工の美、といふ言葉こそ使うがよい。いかに天衣なりといへども、 無縫ならば汚くて見られぬ。>(「もの思ふ 葦〔その一〕」)。
<知性の職人。>(「同)。
<芸術、もともと賑やかな華美の祭礼。 >(「二十世紀旗手」)。
<理知で切りきざ んだ工合ひの芸でなければ面白くないのです。 >(「ダス・ゲマイネ」)
という訳である。

 この精神は、裏返せば「反自然の意識」に なる。自然を「汚(けが)らわしい」とみるのである。
<世の中にのみ眼をむけよ。自然の風景に惑溺 して居る我が姿を、自覚したるときには、 「われ老憊らうばいしたり。」と素直に、敗北の 告白をこそせよ>(「もの思ふ葦〔その一 〕」)。
<山のお花畑、初雪の富士の霊峰。(中略)そのやうな絵葉書よりも浅草仲店の 絵はがきを好むのだ。>(「もの思ふ葦〔そ の一〕」)
などという表現にそれは表れていよう。

 そのような、ダンディズムの精神への理解 があってこそ太宰の次の発言も理解出来るの である。
私は、死ぬるとも、巧言令色であらねばならぬ。鉄の原則。>(「めくら草 紙」)。
<ほととぎす、いまはのきはの一声 は、「死ぬるとも、巧言令色であれ!」> (「もの思ふ葦〔その一〕」)。
従来の日本の考え方では、<巧言令色>は、軽蔑す べき態度である。それを、愛の表現、奉仕の 精神の表れとして重視したのである。言葉を巧みに操り、愛想よくすることを相手に対する愛情のあらわれ、心遣い、心尽くし、だと言うのである。

 ダンディズムの消極的表れは、「韜晦(ミ スチフィカシオン)」という形で表される。 自分の才能・地位などを隠しくらますことで ある。自分の本心をあからさまに表現するこ とを良くないこととするのである。
<なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく悲しき 面容おももちすな。(マタイ六章十六)>(「狂 言の神」「正義と微笑」ほか)。
<笑ひながら厳粛のことを語る>(「狂言の神」)
<君不看双眼色、不語似無愁>(「虚構の春」)。
<笑ヒナガラ厳粛(げんしゅ)ノコトヲ語(かた) レ>(「創生記」)。
<語らざれば、うれひ無きに似たり>(「悶悶日記」)。
ここにあるのは、苦悩を人に見せぬための心遣いであり、 <市民への奉仕の美>(「逆行」)であり、 心づくしである。

 消極的な表れの他の形は、無為の精神であ る。
<日本文学は、たいへん実用的である。 (中略)ユウモレスクなるものと遠い。(中 略)文章を無為に享楽する法を知らぬ。やた らに深刻をよろこぶ。ナンセンスの美しさを 知らぬ。>(「古典竜頭蛇尾」昭和11・5 )。
< 千代紙貼リマゼ、キレイナ小箱、コレ、 何スルノ?
ナンニモシナイ、コレダケノ モノ、キレイデシヨ?>(「走ラヌ名馬」昭 和11・7 ・25)。
無為とは、この世の中の為 になることをなさぬという事である。そこに は、物質中心主義・功利主義の現世への批判・抗議 の思いが表れている。

 こうした太宰の昭和十年から十一年にかけ れの発言には、ダンディズムの精神が色濃く 表れていると言えよう。
ダンディズムとは、典雅、高邁、不羈独立を標榜する精神的貴族 主義であり、英雄主義である。それは、自我 崇拝の個人主義の上に成り立っている。近代 の功利的物質中心主義の中で、個人の存在が 疎外されようとする時、徹底した精神主義で、 それに抵抗しようとするものである。
そこには自(おのず)から、反俗の精神、批判精神が伴って行く。

<「ここはいいところだよ。日が当るし、木 があるし、水の音が聞えるし、それにだいい ち、めしの心配がいらないのだよ。」(中 略)ああ。この誘惑は真実に似てゐる。ある ひは真珠津かもしれぬ。私は心のなかで大き くよろめくものを覚えたのである。けれども、 けれども血は、山で育つた私の馬鹿な血は、 やはり執拗(しつやう)に叫ぶのだ。/……否!>( 「猿ヶ島」)

 ただ、太宰のダンディズムの表れで一つだ けボードレールなどと違うところがある。本 来のダンディズムは俗を嫌うのに対し、太宰 は、俗を受け入れる面があった。勿論、俗の 意味合いが違うので、人間臭さとでも言った らよかろうか。
<塵中の人/常に塵中の趣を 楽しむ>(「塵中の人」)
といった傾向があり、大衆の中でやっていこうという姿勢がある。 太宰の目は常に民衆に向かっていたというこ とが出来よう。

以上、ダンディズムの特色を、積極面と消 極面の二面から見てきたのであるが、それら の特徴が太宰の生き方と文学に如実に表れて いるのが納得できよう。

 太宰がダンディズムの精神に直接触れたの は、昭和九年ころと思われる。初めは、師である東京帝国大学仏文科教授辰野 隆の『ボオドレル研究序説』(注 19)でその考え を知ったのかもしれない。その後、ボードレ ールの著作に直接触れさらに理解が深まった のではなかろうか。
昭和九年十一月二日付け山岸外史宛書簡で、
<ボオドレエルのダンデイズムについてのエツセイを読みかけ、貴兄 へ葉書したくなつた>
という言葉が見えるし、 この頃からダンディズムやボードレールへの 発言が多くなっている。こうした精神を根底 に太宰は自分の人生を文学を人工の極致へと こしらえ上げて行ったのだ。
 そう考える時、太宰の前期の奇行も難解な 、まるで錯乱しているように見える文学も見 えてくるのである。太宰は、そうした奇行を、 難解な作品を、わざと作っていたのだ。錯乱 している振りをし、奇行を演じたのである。

 太宰のダンディズムへの傾斜は、ただボー ドレールなどの思想に触れたからと言うだけ では説明しきれないであろう。本来の性向と して、そうしたものを持っていてそれがダン ディズムという思想に触れ開花結実したとい ったらよかろうか。とまれ、太宰の人生と文 学を根底で支えるものはこの精神なのである。 それは、前期の昭和九年から十二年の前半ま で色濃く彼の人生と文学をいろどっていた。 しかし、その傾向は世の大きな反発を招くこ ととなる。
 その生活と文学の人工化は、世の理解の限 界を越え、文学で言えば、芥川賞問題では、 その価値を理解してもらえず次席に甘んじ、 生活では、先輩友人に騙されるようにして精 神病院に入れられ、入院中に妻が姦通 を犯すという事態を引き起こす。
太宰のまわりの人々や読者への愛は全く理解 してもらえなかったのだ。理解どころかかえ って誤解されまわりの人々から裏切られる結 果を招く。
そうした事態を見て太宰はダンデ ィズムの精神の敗北を実感するのである。

<食はぬ、しし、食つたふりして、しし食 つたむくいを受ける。>(「HUMAN L OST」)

これは、ダンディズムの敗北の 宣言である。実際には食っていない美味しい 肉を食ったフリをしたら、人々は、あいつだ け、美味しい肉を食っていい思ひをしているとやっかまれ 報い(罰)をうけたというのである。

 昭和十二年四月、「HUMAN LOST」 の末尾にこの言葉を記し太宰はダンディズム の精神を捨てた。いや後退させた。前期の生 きる姿勢と文学の中心だった精神を捨て、沈 黙の世界に入って行く。昭和十三年秋、新た に作品を発表しだした時、彼の作品はがらり と様相を変えて表れてきたのである。易しい、 理解しやすい、平明な形で再生したのである。 しかし、一見、投げ出されたように見えるダ ンディズムの精神は形を変えて引き継がれ太 宰文学の根底に生きつづけて行くのである。

 以上、ダンディズムを中心に考察してきた。 ダンディズムを理解することにより太宰とそ の文学は、より鮮明に見えてくるのである。 この小論が少しでもお役に立てば幸いである。

注1 亀井勝一郎『無頼派の祈り−太宰治』 昭和三九年 審美社
注2 相馬正一『評伝太宰治』昭和57〜60年 筑摩書房
注3 奥野健男『太宰治論』昭和三一年 近 代生活社
注4 長篠康一郎『人間太宰治の研究』昭和 四三年〜四五年 虎見書房
注5 赤木孝之『太宰治彷徨の文学』昭和六 三年 洋々社
注6 注2に同じ。
注7 注4に同じ。
注8 渡部芳紀「太宰治−中期の世界」( 『早稲田文学』昭和四六・一一)
注9 佐古純一郎『太宰治論』昭和三八年 審美社
注10 注8に同じ。
注11 注2に同じ。
注12 五味康祐 未詳
注1314 注4に同じ。
注15 三枝康高『太宰治とその生涯』昭和三 三年 現代社
注16 山内祥史「年譜」『太宰治全集別巻』 平成四年 筑摩書房
注17 山内祥史『太宰治』人物書誌大系7 昭和五八年 日外アソシエーツ
注18 「解題」『太宰治全集』一〜九 平成 一〜二年 筑摩書房
注19 辰野隆『ボオドレエル研究序説』昭和 四年 第一書房


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