太宰治とコミュニズム
               渡部芳紀 
 太宰治とコミユニズムとの関わりを論じたものは、後に紹介するようにかなりな数にのぼっている。ここでは、その代表的なものをいくつか紹介することから始めたい。
 まず、太宰のコミユニズム体験およびそれからの離反を非常に重視する立場の意見を紹介する。
 臼井吉見は「太宰治論−鎖のまま」(『現代目本文学全集49』筑摩書房、昭29・9)において

左翼運動からの敗走が、彼にどのような残酷な傷手を与えたかは明瞭である。

とコミユニズムからの離反を重視する発言をする。
 奥野健男は「太宰治論」の「生涯と作品」中の、「コミニズムの時代−『晩年』以前−」(『近代文学』昭30・3)の章で、
 
 ぼくは彼の作品を読めば読むほど、太宰文学の本質に食い入ったコミニズムの影響の深さを知るのです。ぼくは太宰の文学も生涯もすべて、コミニズムからの陥没意識、コミニズムに対する罪の意識によって、律せられていると思えるのです。

とコミュニズムとの関わりを太宰治の根底に置いた発言をする。
 吉本隆明も書評「『太宰治論』奥野健男著」(『近代文学』昭31,6、『芸術的抵抗と挫折』未来社、昭34・2、所収)において

 わたしは、はっきりといまでは太宰治の文学を特異な転向文学のひとつとして位置づけるべきだとかんがえている。

とコミュニズムからの離反を重視する立場を表明する。
 亀井勝一郎は、「太宰治研究のために」(作家研究叢書『太宰治研究』亀井編、新潮社、昭31.10)において、

 作品を一筋の道のようにつらぬいているのは「逃亡者」の苦悩であり、「裏切り」の苛責である。それが女性との関係において描かれているとは云え、背景として、私はやはり左翼運動との連関を考えないわけにはゆかない。

とコミュニズムからの「逃亡」と「裏切り」を太宰文学の重要な要素として指摘している。
 
 一方に、このような太宰とコミュニズムとの関わりを重視する立場があるのに対して、他方では、その関わりを、ある程度認めながらも、太宰において根本的問題ではないとする立場の人々がいる。

 本多秋五は「太宰治と共産主義」(「近代文学鑑賞講座第19巻亀井勝一郎編『太宰治』角川書店、昭34・5)において

 太宰治さえ左翼の影響をうけた一時期をもったのだ(中略)、共産主義を学びそれを摂取し、身につける人間と、太宰はどだい人種がちがっていた。

とコミュニズムの太宰における重みを否定した。
 佐古純一郎は「太宰治における罪の意識」(『解釈と鑑賞』昭35・3、『太宰治論』審美社、昭38.12所収)において、

 太宰治における罪の意識を、革命運動からの脱落への反省にもとづく裏切りの意識から意義づけようとする傾向がかなり一般化されているが、私はそういう説に共鳴しない。(中略)
 大宰治において共産主義が主体的に確立されていたとは私には考えられない。

とその関わりを重視する見方を批判した。
 相馬正一は、『日本近代文学』第一集一昭39・11)に発表したものを一部改稿した「太宰治とコミュニズム」(太宰治全集別巻、奥野健男編『太宰治研究』筑摩書房、昭43・4)において、

コミュニズムそのものに対して主体的に志向し行動した事実はなく、いずれも二義的理由や外在的な力の作用によって止む得ず接触したことが明らかになった。(中略)

と前置きした後、

 別に主義主張を奉じてそれに命を賭けたという性質のものではないから、「罪の意識」という倫理的な負い目を考える必要はない(中略)。文学志向の誤算か ら生じた左傾であり、(中略)思想としてのコミュニズムそのものの信奉から生じたものではなかったのである(中略)。この時期の太宰をシンパサイザーとし て規定することには異論はないが、それもきわめて特異な存在として認容する限りにおいてはじめていえることなのである。

と現象としてのコミュニズムとの関わりは認めながらも、思想として太宰の中に深く関わったものではないと否定する立場に立った。

 このように、太宰治とコミュニズムとの関係は、非常に重視する立場から、全く否定する立場まで、様々な議論を呼んでいる。一体太宰治とコミュニズムとの 関わりはどのように考えて行ったら良いのか。本稿では多くの人々の発言、様々な資料を紹介しながら、その関わりの真実の姿に接近してみたいと思うのであ る。

2
 太宰治とコミュニズムとの関わりを、中学以前、弘高時代、大学時代、戦後といった順でたどってみよう。

 まず中学時代以前だが、この頃は、コミュニズム体験というほどのことはほとんどないと言ってよい。強いて取りあげれば、「思ひ出」には次のような発言がある。

 小学校四年生のころ、末の兄からデモクラシイといふ思想を聞き、母までデモクラシイのため税金がめつきり高くなつて作米の殆どみんなを税金に取られる、と客たちにこぼしてゐるのを耳にして、私はその思想に心弱くうろたへた。

と言ったものであろうか。ただ、これはコミュニズムというほどのものではないだろう。
 
 はっきり太宰の中で、コミュニズムが意識されるのは、弘前高校時代である。
 昭和三年五月、太宰は、富田弘宗、三浦正次らと同人雑誌『細胞文芸』を創刊した。三浦によれば、<細胞という生物学の名前に魅力を感じて>(筑摩版全集月報12昭31・9)の命名だということだが、当時旺んだった、プロレタリア文学を意識していたことも間違いあるまい。
 太宰はここに「無間奈落」の序編「父の妾宅」を発表している。津軽地方屈指の大地主である太宰の生家を素材として、その醜悪さを暴露した体裁のものである。
 『細胞文芸』六月号には、「無間奈落」の第一章が載せられたらしいが、この号は散佚して不明である。同号には<或る意外な障碍に出合ひました。これから 先は、書くのを躊躇しねばならなくなりました>(石上玄一郎「弘高時代の太宰治」八雲版全集附録第七号、昭24・4)と付記があり、何らかの圧力を予感さ せながら未完で終わっているという。
 昭和三年十二月一日、太宰は、上田重彦(石上玄一郎)を委員長とする弘前高等学校新聞雑誌部委員に任命されている。この新聞雑誌部は、弘高内の左翼細胞によって中核が構成されており、自ら、太宰もコミュニズムの思想に接触するようになったと考えられる。
 十二月十五日発行の『校友会雑誌』十三号に、太宰は、「此の夫婦」(昭和三年十月脱稿)を発表している。
 主人公光一郎は、<大学時代は、一端(いっぱし)の社会主義者>だったが、今は、友人の赤城を<世に言ふ唯物論者で><現在の彼にとっては最も疎(う と)ましい種類の男>だと思う人間として造型している。コミュニズムヘの言及はあるが、特にプロレタリア小説的と言うものではない。
 昭和四年二月、弘前高等学校長鈴木信太郎が公金を流用し、新聞雑誌部の指導で十九日から二十三日まで同盟休校を行い、校長排斥に成功した。春頃、このス トライキに材をとって<改造で募集してゐたアンデパンタンヘ応募するために書かれた>(前記石上)「学生群」の初稿が執筆されたと考えられる。
 「学生群」は、『改造』の懸賞小説としては落選したが、後昭和五年『座標』の七、八、九月号に(昭和五年六、七、八月脱稿)掲載された。大地主の息子で、かつ、プロレタリア運動にも心を魅かれる青井を通して、当時の太宰の苦衷を語っていると言えよう。
 五月十三日、『弘高新聞』第六号に「哀蚊」(昭和四年四月二十五目脱稿)が発表される。同作品には<なぜ(ヽヽ)百万長者のお家では悪巧(わるだく)み をしねばならぬかを先づ考へて御覧遊ぱしませ。>といった表現が見られ、地方豪家である生家への批判の意識が下地になっていると思われる。
 八月三日、『猟騎兵』第六号には、「虎徹宵話」(昭和四年三月十日脱稿)が発表される。新選組の近藤勇の姿を通して、時代の流れを知り、かつ<殺されるのを待つてゐる>男を描く。明治維新への<時の流れ>は、当時の、コミュニズムの潮を反映させたものであろう。
 九月二十五日の『弘高新聞』には「花火」(昭和四年九月十三日脱稿)が発表される。<階級意識を愈々確乎たるものにする>ため<金持共の生活の無内容を 極めて野蛮に暴露したもの>(「花火」)といった意識の下に、主人公<僕>が、自分の体験を語って行くという体裁のものである。これもコミュニズムを意識 した作品ということができよう。
 十二月十日の深夜、カルモチンによる自殺未遂事件が起こる。第二学期の試験の始まる前夜のことである。
 本多秋五は<自殺計画が「思想的な苦悩」からであったということは、いえるのである>(前出)とし、
 相馬正一は、<太宰の性格や当時の生活の在り方から判断して、「思想的苦悩」だけで死を選ぶこと
は到底考えられない>、<その原因は思想的な問題よりもむしろ学業成績と女にあった>(前出)と言う。
 昭和五年一月、同人誌『座標』創刊号に、「長篇 地主一代」(昭和四年十二月九日脱稿)の序章「花火供養」が発表される。大正末から昭和初頭にかけ新聞 紙上を賑わした秋田県北秋田郡前田村の「阿仁田の小作争議」に材を借りながら、大地主である自分の家をも批判的暴露的に描き出したものである。
 一月十六、七日、弘前警察署により、上田重彦ほか校内外の左翼分子、十三名(内労働者四名)が検挙され、新聞雑誌部委員を含む十六名が学校当局に処分さ れた(内務省警保局編『社会運動の状況2昭和五年』)。<新聞雑誌部関係の学生で取り調べも家宅捜索も受けなかったのは、おそらく太宰一人であろうといわ れている>(相馬同前)という。学生では小宮山義治、上田重彦、広瀬秀雄が四月九日、起訴猶与となる。それ以前の三月三日、上記三名は、学校当局から放校 処分(警保局資料では増淵俊一も)、ほか論旨退学三名、無期停学二名など大量に処分者を出した。
 三月、『座標』三号に「長篇 地主一代」第二回(昭和五年二月十四日脱稿)を発表する。
 三月十五日、弘前高等学校を卒業。

 こうした弘前高時代の太宰とコミュニズムとの関わりに関して、上田重彦(石上玄一郎)は、<我々研究会(筆者注「政治研究会」)の者は彼を一種の精神的 奇型児と見傲し、彼に対しては入会を誘ひもしなかったし寧ろ、好意あるいたはりの眼を以て臨んでいた><私は数名の学生とともに弘前署の特高に検挙され、 学校の方は放校になつた。津島は研究会のメンバーでもなかったから無事に卒業し東大の仏文にも行つたが、のちに津島が大学で左翼の運動をしてゐると聞いて 意外に思つた>(前出)と述べている。
 また、大高勝次郎は、「津島修治の思い出」(『無名群』昭37・4)で、<私の知る限りでは、彼は弘高在学中は左翼の思想にも組織にも無関係であった>と言っている。
 相馬正一は<左翼的な作品を書いたり校内細胞と接触してストライキに積極的に参加したとしても、それはどこまでも太宰の文学的理由に基づくものであっ て、コミュニズムとの直接的な関係は考えられません>(『菊池九郎。佐々木五三郎・太宰治(上)』弘前図書館、昭43・1、『太宰治』津軽書房、昭51。 6所収)と言う。
 弘前高等学校時代の太宰は、左翼運動の近くにおり、その思想にも触れ、習作の数々にもその反映は見られるが、その姿勢は、積極的なものではなかったと言えよう。

   3
 大学にはいってからの太宰とコミュニズムとの関わりはどうだろうか。
 昭和八年二月十九日、『サンデー東奥』に発表した「列車」の主人公は、<数年まへ私は或る思想団体にいささかでも関係を持ったことがあって>と、コミュニズムとの関わりを述べる。
 昭和九年七月の「猿面冠者」の主人公は<革命家を夢み>た一時期を持つ。「狂言の神」(昭11−10)の主人公は<七年まへには、若き兵士であったさうな>と設定され、「虚構の春」の一書簡には<私は或る期間、穴蔵の中で、陰欝なる政治運動に加担してみた>と書かれる。
 これらから推して、東京帝国大学仏文科に入学して上京した後、なんらかの形でコミユニズムの運動に参加して行ったのは間違いないようだ。
 大高勝次郎によると、<受験の為に東京に集ったときから、私達は既に、一つの会合を作った。私達といっても左翼的傾向のある者ばかりであったがの会合の 場所は、大抵津島の下宿であった。津島は(中略)喜んで室を提供した。会合はまだ正規のものでなかったから、気楽な空気が充満していた>(前出)と語る。 入学前に左翼的な会合が持たれていたということであろうか。
 昭和五年四月下旬か五月上旬、戸塚町の学生下宿常磐館に落ちついた。高田馬場の駅の近くである。
 五月の初め頃、工藤永蔵が太宰を訪れる。
 工藤は、東京帝国大学理学部地質学科の学生で、青森中学、弘前高校では太宰の三年上の先輩に当たる。当時の日本共産党の中央委員長兼政治局長の田中清玄 とは弘高同期であり、田中の指示で<上京してくる弘高生のなかに党支持者を作ることが、任務>(「太宰治の思い出−共産主義との関連において」『太宰治研 究』10、昭44・9)であった。警保局資料では四月下旬(工藤の記憶では六月)「赤旗」の印刷担当者にもなっている。
 太宰に会い、<学内の組織に入りマルクス・レーニン主義を学習すること><青森県の進歩的学生の組織(日曜会といった)に入り指導していくこと><党のために極秘に資金その他の援助をしていくこと>(同前)をすすめた。
 それにより、毎月十円の資金援助を承諾したという。先の大高勝次郎も<その頃津島は学生組織を通じて、地下のK・Pに十円のカンパを出した>と言っている。
 日曜会は、<昭和二年ソビエトに招かれ、同三年に帰国した秋田雨雀を囲んで青森県の進歩的学生達が集まった会>(渡辺惣助「激しい渦の中でした左翼運動 時代」、『太陽』昭46・9)で、<昭和五年七月頃まで続けた>、<太宰も一時この会のために働いてくれた>(同渡辺)と言う。
 昭和五年も夏近い頃、当時左翼運動に参加していた弘前の先輩岡村文雄は、<非合法の左翼運動に資金を出し、またその運動の連絡を進んでひき受けていた> 太宰に顔あわせする目的で工藤と常磐館を訪れたと言う(「太宰治とその時代」、『コローキアム太宰治』津軽書房、昭52・4所収)。
 当時、左翼運動に参加していた大高勝次郎は<アジトとして、津島の室を度々利用させて貰った><色々なカンパにも、相応のことをしてくれた>、<併し、 私は津島を左翼の組織に加入するようにすすめたことは一度もなかった。津島のような人間が、苦しみに満ちた地下運動に堪えられるとは思われなかったからで ある>と語っている。
 <マルクス・レーニン主義の学習>(工藤)に関しては、<その頃の津島はマルクス主義の文献をも努めて勉強した。彼は、服部之総の「明治維新史」、野呂栄太郎の「日本資本主義発達史」ブハーリンの「転形期の経済学」等を私達のグルーブから借りて読んだ>(大高)と言う。
 中村地平は、<陽春四月大学へ入学して間もないころ>、音楽美学の教室で、太宰に席をゆづられた。<彼はそのまま、読みかけの本によみふけりだした。左 翼の本らしかった>(「太宰と私」、八雲版全集第十三巻「附録」、昭24・4)と回想している。マルクス主義の勉強の側面が出ていると言えよう。
 「人間失格」の主人公大庭葉蔵は<共産主義の読書会とかいふ(R・Sとかいってゐた)>会に参加している。
 「読書会」(R.S)(注ーReading Society)とは、<昭和四年十一月学連の解体と共に学内に於ける初歩的左翼組織として、従前の社会科学研究会に代置され>、<左翼組織の存在する学 校内には必ずその組織を見たもの>で<共青学校細胞の補助機関>であり、<学内に於てマルクス・レーニン主義の研究及宣伝>をする<大衆組織>で、東大 R・Sの場合、昭和七年六月、東大プロレタリア文化団体協議会に発展解消するまで続いた(司法省刑事局『思想研究資料特集第八十五号、昭和十六年五月』、 社会問題資料研究会編『最近における左翼学生運動』東洋文化社、昭47・9所収)会のことを想定しているのであろう。
 <学内の組織に入り>(工藤)というのはどうだったのだろう。
 太宰の作品を見ると、「道化の華」(昭10・5)の主人公大庭葉蔵は<行動隊のキヤツプ>と設定され、「人間失格」(昭23・6〜8)の主人公大庭葉蔵は<マルクス学生の行動隊隊長>と設定されている。
 公安調査庁調査資料の復刻『日本共産党史(戦前)』(現代史研究会、昭37・11)によると、<行動隊は党組織の一部として、原則的には党員によって編成され、攻撃的な性質をもつもの>で、<昭和五年二月の総選挙闘争と関連して進められた>組織らしい。
 <三人を一組とし、一人を隊長として行動の際は一人が見張をなし、二人が行動する>と<編成指令>にはあるようだ。ただし、五月十七目の中央ビューロー 会議で<従来の極左方針を清算>したらしい。共青の行動隊が東大にもあったようだが、その終わり頃の組織に太宰が参加していたのだろうか。よくわからない 部分である。
 
 太宰の参加組織に関しては、紺野与次郎が<党員であったことはありませんね。事実上ではね。そのころのアジト提供者というのは、むしろ非党員なんです> (「太宰治とコミュニズム」、『太宰治の人と芸術』第二号、昭50.4)と言っており、状況からして党員ではなかったようだ。古い年譜を見るとく東大の反 帝国主義学生連盟に加わり>(例、筑摩版定本全集)とある。何が根拠になっているのだろうか。
 当時、「東京日日新聞」の社会部の記者をやっていた飛島定城の「作家以前の太宰治」(八雲版全集附録第10、昭24・10)によると<大学の二年から三 年生の頃太宰は熱烈なマルキストだった><彼は東大の反帝国主義学生連盟のグループと、郷里青森県出身の在京学生を左翼化する仕事をやってゐたらしい>と あり、このあたりが典拠となっているのかもしれない。
 反帝同盟とは、『最近に於ける左翼学生運動』(既出)によれば、昭和二年五月に労働党を中心に組織された対支非干渉同盟に始まり、昭和三年七月、戦争反 対同盟に改組、昭和四年十一月、国際的な反帝国主義民族独立支持同盟に加盟して日本支部となり日本反帝同盟となった。反帝同盟東大班は、昭和四年四月創 立、昭和七年三月十七日の検挙で崩壊している。この組織に太宰が関係していたのであろうか。
 文部省学生部の『思想調査資料第十一集、(秘)昭和六年八月』によると、<東京帝国大学に於いては昭和四年十一月各高校別に班を組織>、<間もなく学部 別に組織を変更>、<各学部には各々一名乃至二名の責任者があり>、<各学部班は各科を単位として班を作り班に一人宛の責任者を置き、文学部班の如きは毎 週水旺日午后三時より学内図書館屋上に於いて各科班責任者会議を催した>と言う。
 檀一雄の『小説太宰治』(六興出版社、昭24・11。審美社、昭39・9)には、太宰が、図書館屋上からアジビラを星のように降らせた思い出を語ったと いう話が出て来るし、太宰の「二十世紀旗手」(断片)には、<かつて、きみも、僕も、若き兵士、ロックフエラア図書館の屋上庭園から(中略)、このポオル の先端、真紅の旗ひるがへるのも夢ではないぞ(中略)野望、打ち明け合つて>といった表現も見られる。太宰は反帝東大班の活動と何らかの関係があったのだ ろうか。
 興味あるのは、先の文部省学生部編の資料によると<反帝同盟日本支部は昭和四年末の検挙によってその中心分子を失ひ、一時活動停止の状態であったが、そ の後平田某が中心となつて反帝国同盟書記局を構成し活動を継続していた>が、全協刷新同盟の西川某が平田を除名、平田派は東京地方委員会幹部と相呼応して 対抗したという。結局刷新派が破れ、反帝は共産党の直接指導下にはいったという。
 先の工藤永蔵の文には<この頃私は平田と呼んでもらっていた>とあり、昭和六年の部分には<修治が学生運動や青年運動から手を切ること、殊に全協などの 人と接触しないように注意した>とある。反帝の内紛で全協刷新同盟と対立した<平田>が工藤と同一かどうか、わからないが興味ある話である。もし同一人だ とすれば、太宰が反帝東大班と何らかの接触を持っていた可能性は充分考えられると言えよう。

 話はもとにもどるが、昭和五年六月二十一日、太宰の兄圭治が逝去し、その時、上京した長兄文治は、知人から太宰のシンパ活動を知らされたという。
 七月十五日、七・一五事件で、田中清玄ら共産党幹部がいっせいに検挙され中央ビューローは崩壊した。工藤も危険を避けて三ケ月ほど身をかくし、十一月頃、太宰を尋ねるようになったと言う。
 太宰は、七月十五日以降十月頃までの間に杉並署に留置され、北方四郎の引取りで放免されるという事件があったという。
 太宰の「東京八景」(昭16・1)によれば、<二学期からは、学校へは、ほとんど出なかった。世人の最も恐怖してゐたあの日蔭の仕事に、平気で手助けし てゐた。(中略)私は、その一期間、純粋な政治家であつた>と書かれたのがこの頃なのだろうか。ただ、その頃は工藤とは会っていないわけで、太宰が工藤以 外の組織とじかに接触していたということになるのだろうか。
 十月一日、弘前高等学校時代の恋人、青森の芸妓小山初代が出奔上京。十一月上旬には長兄文治が上京して、初代の処遇が話しあわれ、分家除籍を条件に結婚が許されたという。
 十一月十九日、分家除籍され、十一月二十四日、小山家と結納を交す。
 十一月二十五日から、太宰は、バアの女給田辺あつみと行動を伴にし、友人たちと会ったあと、二十八日、鎌倉に向かい、同日夜半、鎌倉郡腰越町小動崎(こ ゆるぎがさき)の海岸でカルモチンをのんで心中を計る。二十九日、未明、苦悶中を発見され、女は死に、太宰は近くの恵風園療養所に収容された。自殺幇助罪 容疑で取り調べを受けたが起訴猶予となった。
 「東京八景」では、<Hとの事で、母にも、兄にも、叔母にも呆れられてしまつたといふ自覚が、私の投身の最も直接な一因だつた>と書き、左翼運動に関しては、<自分の其の方面に於ける能力の限度が少しづつ見えて来た>ことも、原因の一部としている。
 相馬正一は、「東京八景」の記述を<そのまま太宰の実生活に当てはめて考えることは危険である。(中略)このあたりはまだ比較的気ままな生活の中で簡単な仕事だけを引き受けていたのである>(既出)と言う。

 昭和六年一月二十七日、上京中の長兄と会談、証文としての「覚」が取り交された。その第六条の一項には、<社会主義運動二参加シ、或ハ社会主義者又ハ社会主義運動へ金銭或ハ其ノ他物質的援助ヲナシタルトキ>は、仕送りを減ずるか停止・廃止すると記されていた。
 二月には故郷に帰っていた小山初代が上京、品川区五反田一丁目の島津家の分譲地に新築された階下二間、二階二間の一軒家を借りて住んだ。
 「東京八景」では、<五反田は、阿呆の時代である。私は完全に、無意志であった。(中略)ずるずるまた、れいの仕事の手伝ひなどを、はじめてゐた。けれども、こんどは、なんの情熱も無かった>と書いている。
 田村文雄によれば、心中事件後<「済まなかった、申訳ない、心を入れかえて、やります」と誓ったのである。その誓いの通り、彼はその後かなりの意欲を もって積極的に、非合法組織の中に働いていたし、彼の顔つきはきりりとひき緊ってきて、とても私など近よれないというほどのものを感じさせた>(既出)と 言う。
 三月十日頃、当事「赤旗」の責任者をしていた工藤(『日本共産党史(戦前)』)によれば、<休止の状態を続けてみた機関紙「赤旗」は、昭和六年一月二十 五日第三十四号から再刊した。当時の中央印刷所は、工藤永蔵を責任者として>とあり、『昭和七年自一月至七月社会運動情勢(東京控訴院管内)昭和八年四 月』東洋文化社、社会問題資料研究会編、昭54・1)によれば、三十四号〜四十三号(六年五月三十一日)までが工藤労(ママ)蔵責任担当で、謄写版刷七 ページから十六ページ(平均十ページぐらいで、発行部数は三十四〜三十九号二〇〇部、四十〜四十二号二五〇部、四十三〜四十五号は三〇〇部であった)は、 「赤旗」の三・一五記念特別号のガリ版製版を渡辺惣助にたのみ、<渡辺と五反田の修治宅に伴い、修治に頼んで二階の一室をその仕事に使わしてもらい、徹夜 で仕上げて間に合せることが出来た>と言う。「三・一五記念特集号」は、三月十日発行で三十五と三十六号の間に出され、赤・黒二色刷り、九ページで定価は 五銭である(復刻版『赤旗』第一巻、ゴニ書房刊、昭29.7)。
 三月下旬、飛島定城の紹介で、弘前出身の藤野敬止(けいし)を二階の一室に下宿させた。藤野は弘前高校で工藤の同期で、当時東大新人会弘高班のメンバー であり、日曜会の一員でもあった。共産覚のシンパとして特高警察に追われており、六月下旬までの三ケ月ほど同居したと言う。
 工藤は<四月に入って松村から「重要な人間を一人預って貰えないか」と依頼された時、事情を話して、この家の二階に住まわせることにして貰ったが、多分一ケ月位滞在したことと思う>と言う。この「重要な人間」は、当時の共産覚中央委員紺野与次郎である。
 昭和五年七月十五日以来、共産党中枢は破壊されていたが、松村昇(スパイM・本名飯塚盈延(みちのぶ))が風間丈吉らと連絡をとりあい、岩田義道、紺野 与次郎の四名で中央ビューローを結成、共産党の中央部を再建していた(絲屋寿雄『日本社会主義運動思想史に・』法政大学出版局、昭55・11)。
 紺野与次郎は伊藤誠之との対話「太宰治とコミュニズム」(『太宰治の人と芸術』第二号、昭50・4)で、<一月から九月>の<寒いとき>に、<赤旗 「セッキ」>の印刷の<場所を頼んだんですね><その部屋を借してもらうことになったんです>、<一週間に、一度か二度行ってるんです>(同三号、昭 51・4)と言う。
 『日本共産党史(戦前)』によれば、松村を介して、コミンテルン上海極東局へ党代表を送れと指示があり、紺野が代表として派遣され、三月十五日に出発、四月十五日に帰国している。この前後のことなのだろうか。
 <そのころの、かれはね、党のいちばん上層部の指導部員が泊まっていたということを、知っていた筈>(紺野、第三号)だという。
 紺野は明治四十三年三月九日生まれ。太宰より数ケ月年下の同学年の青年(数え年22才)であった。自分と同じ年ぐらいの若者が非合法運動の先端となって苦労している。そうした姿を太宰はどのように眺めていたのであろうか。
 六月下旬には、工藤が<安全を保つため転居をすすめ>、神田同朋町の神田明神石崖下の家へ移った。工藤は<私が街頭連絡に使った場所が近くにあった関係もあって、頻繁に立ち寄るようになった。渡辺とも一緒によく訪ねた>と言う。
 このあたり、相馬は<神田同朋町への移転は太宰の個人的な都合によるもの>、<工藤も身に危険を感じてきたので太宰には格別仕事を与えず、大抵のことは自分の責任において処理した。その代り、太宰の家を自分や党関係者のアジトとして利用した>と伝えている。
 七月に入り、<私は党の技術部門から離れ、東京市委員会に所属し、江東地区委員となったので、渡辺とも組織的な関係が切れた。今迄のように、修治の処へも余り顔を出せぬようになった>と工藤は言う。
 内務省警保局発行の『昭和六年中ニ於ケル 社会運動の状況』によれば、<七月二十四日頃従来ノ東京市委員会ヲ変更シ、東京地方委員会トシテ>組織を確立、工藤(永蔵と記載)は第一地区(江東)で、責任者島谷寿平の下、池田楽とともに委員になっている。
 八月の中頃、工藤が<久し振りに修治を訪ねていったら、渡辺が松村や宮川寅雄などをつれて来て一室にこもり会議を始めたので、これは大変なことになった と、危擢の念を起こした。私は意識的に修治の所から足を遠ざけ、九月九日私が検挙されるまで修治を訪ねなかったように思う>と言うことだ。
 <これは大変なことになったと、危擢の念を起こした>と言うのは、今までは、工藤が間にあって、仕事を選んで太宰に与えていたのに、別のルートで、直接 に太宰が危険な仕事に入りつつあるのを感じたからであろう。宮川寅雄は、共産党の中央委員、松村は松村昇(本名飯塚盈延)で<組織面では党中央より一段高 いところになっていたといってよいくらいの超最高幹部>(立花隆『日本共産覚の研究(上)』講談社、昭53・3。注−スパイであったが)である。
 山岸外史の「太宰治と共産党」(『太宰治おぼえがき』審美社、昭38・10)によれば、太宰は<「家の二階には風間などもよくやってきたものだ」と言ったことがある>という。
 風間は風間丈吉で当時の中央委員長である。さきの紺野与次郎といい、太宰の家をアジトとして利用していたのは、党の最高の幹部たちであったということが 言えよう。「赤旗」の印刷所になったり、最高幹部たちの会が開かれたりで、同じアジトでも、太宰の場合は、非常に重要なアジトの一つだったのではなかろう か。重要な仕事を負わされているとともに、危険も多かったはずである。
 工藤は、<昭和六年九月九日、東京市 (ママ)委員会の会合場所である戸塚のグランド裏の家にいき集合したとき、官憲に襲われ全員が逮捕された>(工藤)(内務省警保局によれば九月十三日)。 以後、工藤との連絡は絶たれ、<しばらく渡辺惣助が時折共産党との連絡に訪れた>(山内祥史「年譜」桂英澄編『太宰治研究 その回想』筑摩書房、昭53. 6)という。工藤とは、工藤が<十一月頃中野刑務所に送られ>た後、連絡がつき<毎月五円宛の送金を頼んだ><この送金は一年位続いて途絶えたように思 う>(工藤)と言う。太宰は川崎想子のペンネームなどで工藤に送金している。
 田村文雄によれば<工藤さんの救援活動としての激励の手紙、その他の差し入れなど、殆んど彼が中心になって動いていた>(既出)と言う。また、<このよ うな八方塞がりの時こそ研究に身をいれるのだというわけで、進んで私を誘って、資本論の中の「地代論」の勉強をやろうということになった>、<私の下宿で 読書会を始めたのである。(中略)彼はいろいろの資料を持参して、勉強した意見を述べて研究会を盛りあげてくれた>そうである。十月下旬から十一月上旬、 <同朋町の太宰の住居は、青森の組合関係との連絡場所に使ったことから足がついて、太宰は取調べのため一晩西神田署に留置され、その後ちょいちょい刑事が 来るようになった>(渡辺)と言う。
 大高勝次郎によれば<左翼運動に関係中、津島は二度ほど検挙され、ぶた箱に打込まれた。その苦痛を彼は顔に現わして、私に語った>(既出)という。
 このままでは危険だという渡辺のすすめで神田和泉町へ移転。渡辺は、太宰の家を<党の連絡場所に使用することを取り止め、出入りの党関係者をも制限した>(既出)という。
 太宰とコミュニズムの運動との関わりは、このあたりまでがピークだったのではないか。このあたり以降、先の太宰の引用にもあるように消極性がさらに増していったのではないか。

 昭和七年三月には、淀橋区柏木に転居する。山手線を一つの円と考えれば、神田とは正反対の方向に越したわけだ。警察の目をくらます意図があったのだろうか。
 四月頃からは渡辺も<次第に身辺が危くなって来たので太宰からは遠ざかるようにした>(既出)という。先に工藤を失い、今、渡辺とも別れ、党との関係も疎遠になったのではなかろうか。
 相馬は、工藤と連絡が切れたあと、<太宰は予期しない過激な覚活動の中に次第に巻きこまれていく><やがてアジト変更の指令まで来る>と言っているが、 この時点では、渡辺が中心にあったのではないか。渡辺は昭和七年五月には共産党の家屋資金局の重要なポストについており、それ以前にも、党の中でかなりの 位置にいたと思われ、渡辺の連絡指示が充分党の意向を示していたのではないか。その渡辺が、資金局にはいった頃から、太宰のもとを遠ざかったのだ。それに よって太宰も党から遠ざかったと見てもいいのではないか。
 相馬は、<純粋な政治家>の時期を、昭和六、七年に考えているが、「東京八景」の記述からすれば、それは、昭和五年のことである。さらに相馬は、<昭和 七年に入ってからはますますその傾向が(渡部注−外部から動かされる)強まり、「とても遊び半分の気持では出来ない(中略−渡部)マルクス学生の行動隊々 長といふものに、自分はなっていた。(『人間失格』)といわれる時期が到来する。検挙、投獄が行なわれ、いつのまにか太宰のような人間までが党活動の重要 ポストに就かされるようになっ
ていたのである>と言う。
 しかし、「人間失格」のこの記述は、文脈の上では、心中以前のこととして書かれており、それを太宰の生活の反映と見るとしても、昭和五年の部分に当てる 方が妥当で、昭和七年の部分には使えない。先にもふれたが、共産党の行動隊の活動も、昭和五年ぐらいまでのものであったのである。
 昭和七年六月上旬の一時期は、府下中野町(現中野区)小滝に住んだらしい。
 この頃、金木の生家を特高刑事が訪間、長兄の耳にも、太宰の西神田署留置の件が入った。昭和六年初めの「覚」により、即刻送金が停止されたという。

 六月下旬、留守中に刑事二人が訪れ、帰宅後引越することになり夜逃げ同然で京橋区八丁堀三丁目の材木屋の二階に越したという。その際、特高警察の目を逃れるため落合一雄という偽名を使ったという。
 警察では、太宰の行方が知れなくなったので太宰の生家に協力を要請、長兄文治は<「親戚の者に託して」、「きびしく運動離脱の誓約を迫り」、「内密に青 森に赴き、警察署に出頭して左翼運動からの離脱を誓約すれば、大学卒業まで送金を継続する」という条件を伝えた>(山内「年譜」)という。
 七月中旬、太宰は小館善四郎をたずねている。
 小館によれば<帰りしなの玄関先で、母が、「警察のことは一日も早くさっぱりさせるに越したことはない」という風のことを言って、二人を元気づけていた ことが思い出される。一日二日後に、太宰は青森署に出頭した>(「片隅の追憶・ー白金三光町ー」『太宰治研究6』昭39.10)という。
 太宰はまず、<青森の豊田家に赴き、母タチ、長兄文治と二階の一室で会談。長兄文治は烈しく叱責し、母夕子は涙ながらに哀願したという。翌日、長兄文治 に伴われて青森警察署に出頭。二、三日(?)留置されたまま取調べを受け、共産党活動との絶縁を誓約して帰京した。取調べの結果、起訴され書類送検となっ たが、それは一応の形式上の手続きにすぎなかったといわれる>(山内「年譜」)という。
 
 七月三十一日には、静岡県静浦町の坂部啓次郎方へ行き、一ケ月間滞在、「思ひ出」を書き始め、創作中心の生活にはいって行く。
 九月には芝区白金三光町の大鳥圭介の旧邸の一室を借りて住む。やがて飛島定城の妻子も同居した。
 井伏鱒二によると<飛島さんと同居してからは、まだ左翼関係の書物だけは持ってゐても、左翼のことを口にしなくなったさうである>(「解説。新潮社版『太宰治集上』昭24・10)という。
 三光町には青森出身の友人たちが来て、大声でさわぐので共産主義者とまちがわれ近所の人が高輪署に連絡し、臨検を受け、<太宰君の書棚にあつた社会主義的な書物は全部押収され、(中略)太宰君は留置された>(井伏)という。
 飛島によればくこの大邸宅には依然としてマルクスボーイが集まった>(既出)ということだが、どちらが正しいのだろうか。
 十月三十日、熱海の会議に集っていた共産党の地方代表が松村の手引きで全員検挙され(熱海事件)、引き続き、風間、紺野らの幹部も根こそぎ逮捕され、組 織は壊滅的な打撃をこうむった。そうした報道を太宰はどういう気持ちで聞いたであろうか。渡辺惣助も十二月一目、京橋で捕えられた。
 十二月下旬、青森検事局から出頭を命ぜられ、左翼運動との絶縁を誓約、そのまま帰京した。以後、コミュニズムの運動から完全に離れた。

    4
 コミュニズムの運動から全く離脱した太宰は、その後作家として数々の苦汁をなめながら進んで行くことになる。その太宰の数多い作品の端々に、コミュニズム体験を踏まえた描写が見られる。
 「列車」(昭8・2・19『サンデー東奥』)では<数年まへ私は或る思想団体にいささかでも関係を持つたことがあって、のちまもなく見晴えのせぬ申しわけを立ててその団体と別れてしまった>と書き、「葉」(昭9・4)では、留置された体験を断片として挿入する。
 「猿面冠者」(昭9・7)の作中作の主人公は、<革命家を夢みて敗北>した人間として設定され、「逆行」(昭10・2)の主人公は<三度、留置場にぶちこまれた。思想の罪人としてであった>と造型されている。
 「道化の華」(昭10・5)の<或る直裁な哲学に心をそそられ>た主人公大庭葉蔵は<僕は、これまで、左翼の仕事をしてゐたのだよ。ビラを撒いたり、デモをやったり、柄にないことをしてゐたのさ>と語る。
 「虚構の春」(昭11・7)には、<私は或る期間、穴蔵の中で、陰欝なる政治運動に加担してみた>という人物が登場する。
 「狂言の神」(昭11・10)には、<七年まへには、若き兵士であったさうな>という左翼運動体験者が登場する。
 「懶惰の歌留多」(昭H・4)には、<ろ 牢屋は暗い。/暗いばかりか、冬寒く、夏暑く、百万の蚊群。たまったものでない>と留置の体験の反映ともみられる項目がある。
 「花燭」(昭14・5)には、<学生時代、二、三の目立った事業を為した。恋愛と、酒と、それから或る種の政治運動。牢屋にいれられたこともあった>男が登場する。
 「おしやれ童子」(昭14・11)の主人公は、今までのおしゃれも忘れて一時期、左翼運動に触れ<何やら街頭をうろうろ>したりする。
 「善蔵を思ふ」(昭15・4)では牢屋の体験を語り、「東京八景」(昭16i)では、今までもた
びたび引用したように、自己のコミュニズム体験をかなり具体的に語っている。
 「小さいアルバム」(昭17・7)の主人公は、学生時代のことを<私は絶えずキヨトキヨト動き廻って一瞬もじっとしていない>時期だったと語り、左翼運動体験を暗示する。
 この後は、時代が戦時下の厳しい情勢に移って行くためか、コミュニズムの体験を反映させた表現は戦後まで見られなくなる。
 昭和七年にコミュニズムの運動から離れ、作家活動に入って行った太宰は、己れのコミュニズム体験を、主として昭和八年から十四年頃まで、作品にたびたび語り、昭和十五〜十七年は、残映のように語って、後、口をつぐんでいることがわかる。
 
 今までは、ただ単純に、作品に表われたコミュニズム体験の反映を取り出してみたのであるが、そのコミユニズム体験の背後に、共通した意識が流れていることがわかる。それは、裏切りの意識であり、それにともなう罪の自覚である。
 「列車」の主人公は<私のあんな申しわけが立つ立たぬどころではない>と語り、 「虚構の春」の一人物は、<私ひとりだけ逃げた。(中略)転向者の苦悩?なにを言ふのだ。あれほどたくみに裏切つて、いまさら、ゆるされると思つてゐるのか>と語る。
 「狂言の神」の主人公も、<私ひとりが逃げたのである。(中略)裏切者として厳酷なる刑罰を待つてみた>と表現される。
 「花燭」は、自伝的作品にはほど遠いものだが、主人公は<かれの場合、これは転向といふ言葉さへ許されない。廃残(はいざん)である。破産である>と造型されている。
 「おしやれ童子」の主人公は、<少年は、左翼運動をさへ裏切りました。卑劣漢の焼印を、自分で自分の額に押したのでした>と語られる。
 「善蔵を思ふ」では、<おのれの悪の自覚ゆえに弱い>主人公の姿が描かれる。
 この時期一貫しているのは、左翼運動を裏切ったという罪の自覚であり、その<悪の自覚>を一つの基盤とした謙虚な姿勢である。この<悪の自覚>は、太宰文学の一つの基底だということが言えよう。

 ところで、こうしたコミュニズムの体験を語った文章の一方で、太宰の作品の中で、コミユニズムに関しての微妙な発言が見られる。
 それは、左翼運動からは脱落したが、その根底をなす唯物史観への、信奉である。 「虚構の春」では、<私は唯物史観を信じてゐる。唯物論弁証法に拠らざ れば、どのやうな些々たる現象をも、把握できない。十年来の信条であった。肉体化さへ、されて居る>と唯物史観への信頼を表明し、「HUMAN LOST」では、<弁証法>の大切さを強調する。
 「姥捨」(昭13・10)では、主人公は<私の世界観>が<自身を滅亡する人種だと>自覚させ、それゆえ、<反立法としての私の役割>を演じようとしたと、自己の過去を語って行く。
 ここにあるのは、左翼運動からの脱落への裏切りの意識、罪の自覚は強く持ちながらも、その左翼運動の根底を成していた、<唯物史観>への、ひとかたなら ぬ信頼感である。それは、「文学者として近衛内閣に要望す」(『新潮』昭15・9)というアンケートで、太宰は、ただ一言、<唯物史観の徹底検討>と答え ていることなどにもうかがえるのである。

   5
 次に、戦後の、コミュニズムと太宰との関わりを整理してみたい。
 昭和二〇年十一月十四日(渡辺惣助の日記による。津川武一によれば九日)、青森県共産党再建会議が、津川武一の家で開かれた。出席者は<渡辺惣助、雨森 (注−卓三郎)、津川(注−武一)、山中(沙和宗一)、内山、山鹿、唐牛、原、島口、田村(注−文雄)、杉浦、津島(太宰治)の十二名>(小野正文『太宰 治をどう読むか』弘文堂、昭37.2)であった。<戦後の共産党をどうして再建してゆくかの相談会>(津川武一「太宰治の死」『東奥日報』昭23.6. 22)であった。
 この会に太宰も参加している。しかし、<この時彼はあまり発言しなかった>(田村文雄既出)らしく、<日本共産覚は、ロシアとも世界共産覚とも手を切ってやるのだと結論が出たとき、太宰は全く口をつぐんでしまった>(津川武一>、そして、途中で退席したという。
 この事に対し、小野正文は<太宰には、共産党再建に対する興味も意欲もなかったことは明瞭である。彼は純粋に、故旧忘れ得べき、こういう人なつかしさで 顔を出したのである>(前出)と語る。戦後の太宰がコミュニズムの運動と直接かかわったのは、この一回きりだと思われる。

 戦後も、作品において、またエッセイにおいて、さらには、書簡において、太宰のコミュニズムに対する発言が見られる。
 戦後の、作品における最初のコミュニズムに関する発言は「苦悩の年鑑」(昭21.6)である。自分の思想の遍歴を語った作品で、太宰は、過去の己れの左翼体験を語っている。
 が、そこでの発言は、戦前のものとは微妙に違っている。とくに昭和八年から十四年頃にかけて色濃かった裏切りの意識、罪の自覚が弱まっている。己れの過去の姿を、かわいた眼で見て描写している。
 <所謂「大物。と言はれてゐた人たちは、たいていまともな人問だった。しかし、小物には閉口であった。ほらばかり吹いて、さうして、やたらに人を攻撃して凄がつてゐた>と批判的な言辞さえも弄する。
 この変化は一体、どこから来ているのだろうか。それは、太宰が罪の自覚、裏切りの意識から、ある
意味で解放されたからである。自分自身の在り方としての罪の自覚はまだ持続しつつも、他者に対する、とくに裏切った仲間に対する罪の意識からは解放されて行くのである。
 昭和二十年十一月二十三日付、井伏鱒二宛書簡では、
<共産主義も自由主義もへつたくれもない、人間の欲張つてゐるうちは、世の中はよくなりつこありませんよ>
と発言し、昭和二十一年一月十五日、同じく井伏宛書簡では
<共産党なんかとは私は真正面から戦ふつもりです>
と正面きって、左翼批判をしている。
 一月二十五日付提重久宛書簡では<君、いまさら赤い旗振つて、「われら若き兵士プロレタリアの」といふ歌、うたへますか。無理ですよ>と発言する。
 昭和二十一年三月『東西』に発表した「返事−貴司山治宛」という書簡体のエッセイでも
<あの右翼のやっかい以前の左翼のやっかい時代が、また来るのかしら、あれももう私は、ごめんです>
と批判的に語っている。そして、同じエッセイの中で、左翼に対し
<もうこんどは私もおびえない事にしてゐます>と発言する。

 こうしたコミュニズムに対する太宰の態度の変化はどこから来たのか。
 敗戦直後の太宰は、「パンドラの匣」などにも表れているように、新しい希望と期待に胸をふくらませていた。「パンドラの匣」の主人公が語る
<君、あたらしい時代は、たしかに来てみる。それは羽衣のやうに軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のやうに清冽なものだ>という希望に満ちた言葉は、当時の太宰の気持ちでもあったであろう。しかし、現実に迎えた戦後の社会はどうであったか。
 戦後の太宰が見たのは、謙虚さ、つつましやかさを忘れた自信家たちの姿である。
<このごろはまた文壇は新型便乗、ニガニガしき事かぎりなく>(昭21・1・12、尾崎一雄宛)、
<このごろの雑誌の新型便乗ニガニガしき事かぎりなく>(昭21・1・15、井伏宛)、
<このごろの「文化人」共の馬鹿さ加減、どうかしてるんじやないか>(昭21・4・22、提重久宛)
と言った発言を繰り返し、戦後の文化人への批判を強めて行く。
 戦前は、こぞって左翼運動に参加し、戦中は、それらの人々が、多く右傾したり沈黙を守り、戦後、再び、左翼を標携する。そうした羞恥心のない、破廉恥な態度、己れの姿勢に対しての罪の自覚のなさに反発するのである。
 そして、その一番身近かな例は、当時疎開していた津軽文化人の姿ではなかったのか。先の共産党の再建会議などもその一例であろう。そのあたりから、太宰の戦後社会に対する希望と期待は放擲され、批判精神、反俗精神に身をかためて進み始めるのである。
 そうした姿勢を根底に、まだ心に残っていた、コミュニズム運動への劣等感は全く影をひそめ、批判的に対せるようになるのである。
 <社会問題や政治問題に就いてどれだけ言ひ立てても私たちの日々の暮しの憂欝は解決されるものではない>(「トカトントン」昭22・1)、
<理論は、所詮、論理への愛である。生きてゐる人間への愛では無い>(「斜陽」昭22・7〜10)といった作品人物を通しての発言は、「人間失格」において、主人公大庭葉蔵のコミュニズム運動への批判的態度とつながって行くのである。
 ただ、こうした批判は、運動(ヽヽ)の側に力点がおかれていて、思想そのものの全否定ではなかったのは、戦前と通じている。
 <私は社会主義といふものはやはり正しいものだといふ実感をもつて居ります>(「津軽とチエホフ」昭21.6)、
<所詮(いわゆる)社会主義の世の中になるのは、それは当り前の事と思はねばならぬ>(「新しい形の個人主義」昭22.1)といった発言に、それが表われていよう。 が基本的には、太宰の心は政治、および政治思想からは放れている。
 <私は政治運動には興味が無い。自分の性格がそれに向かないばかりか、それに依つて自分が救はれるとも思つてゐない、ただそれは、自分には、うつたうし い許(ばか)りだ。私の視線は、いつも人間の「家」のはうに向いてゐる>(「家庭の幸福」昭23・8>といった太宰の最後の発言の中に、その基本姿勢はお かれていると言ってよい。この姿勢は、昭和七年、太宰がコミュニズム運動を離れ、文学を選択したときに決定されたのだ。その上に立って、<人の心と人の心 の触れ合ひ>を<専門科目>(「津軽」昭19・11)とする小説家として生きて来たのである。

   6
 長々と太宰治とコミュニズムとの関わりをさぐって来たのであるが、最後に、こうした太宰とコミユニズムとの関わりについて論及した意見を紹介しよう。
 太宰の死後、最初に太宰とコミュニズムとの関わりに言及しているのは、志賀直哉の「太宰治の死」(『文芸』昭23.10)である。その中で、直哉は、 <広津君は太宰君の自殺の一番元の原因は共産主義からの没落意識だと云つてゐた>と、広津の意見を紹介する。太宰とコミュニズムとの関わりについての、こ く初めの発言と言えよう。
 そのあと、最初にあげた臼井吉見や亀井勝一郎、奥野健男、吉本隆明の意見などがつづく。
 昭和三十二年十月、雨森卓三郎は「太宰治と共産党」(筑摩版『太宰治全集』月報1)で、その関わりを推論する。
 昭和三十四年一月、山領健二は「日本浪漫派−亀井勝一郎」(「共同研究『転向』」)で、<日本浪漫派におけるコミュニズムからの転向は、太宰と亀井の二人によって代表される>と、太宰を代表的転向文学者と位置づけた。そのあと、先の本多秋五の否定的意見が出される。
 昭和三十四年十一月、鳥居邦朗は「太宰治における文学精神の形成」(『国語と国文学』)で、<その文学においても、それがコミュニズムを潜って殊更大き く変身したということは言えない>が、<その文学の現実からの乖離を決定的にした一連の事件の一つとして>コミュニズムの問題を考えるべきだとした。
 昭和三十六年六月一日〜七日の『陸奥新報』に載った大沢久明の「太宰治とコミュニズム」は、表面的現象面をつづったもの。大沢にはほかに多くの言及があるが、皮相で感情的なものである。
 昭和三十八年十月、山岸外史は「太宰治と共産党」(『太宰治おぼえがき』審美社所収)で<太宰の最も本質的な苦悩の形成は、やはり青年期における太宰のマルキシズムとの関連にはじまっている>と結論づけた。
 昭和三十八年十二月、法橋和彦は「太宰治における転向の前景と後景」(『太宰治研究』5)で、<太宰における転向は、思想というよりは感情への、精神というよりは肉体への、倫理というよりは本能への無条件な屈伏>であったとした。
 そのあと、相馬正一、工藤永蔵らの重要な発言が続く。
 昭和四十五年五月、長篠康一郎は『人間太宰治の研究』・(虎見書房)で<苛酷な党活動に巻きこまれた事実が無いからには、友人知己の誰一人としてそれを明確に説明できずとも、至極当り前の話>だと否定的に論じた。
 昭和四十八年四月、斉藤末弘は『太宰治と椎名麟三』(緑地社)で<「シンパ」にすぎぬ太宰に私は異論はないが、共産主義との係わりが「時代の流れ」であ り、非主体的であったとして片づけてしまうわけにはゆかない。いつもアウトロゥであった太宰治の姿勢に「黒々としたもの」として現われていると私は思うの だ>とした。
 昭和四十八年六月、鶴見俊輔は「太宰治とその時代」(「現代日本文学アルバム『太宰治』」学習研究社、所収)で、<マルクス主義の理論の影は見えない> が、<共産主義の理想は、彼の作品の中に(中略)住みついてはなれない>、その意味では<太宰治の文学は、戦中戦後を通じて、非転向の文学だ>とした。
 昭和五十一年十二月、饗庭孝雄は『太宰治論』(講談社)で、思想を現実変革の起因としてアクティブにとらえたのではなく<もっぱら心情的なレヴェルで><受けとめたということは確実>だとした。
 昭和五十二年十二月、島田昭男は「太宰治と革命運動」(『太宰治』1、教育出版センター)で、相馬の意見に偽疑を呈する形で<運動へのかかわり方の暖昧 さ−ー不貫徹性のゆえ(ヽヽ)に切り捨てられてよい性質のものではなく、むしろそうであったがゆえにこそ(ヽヽヽヽヽ)充分検討される必要がある>と結論 づけながら、総合的客観的把握につとめた。

 こうした論に目をやりつつ、私は、なるべく客観的に太宰治とコミュニズムとの関わりをさぐりたいと思った。この論では、一つには、研究史的な意味をもた せつつ、関係文献の大部分を紹介して、まずは、現時点での、このテーマに関する、総合的な位置づけをやってみた。依頼された枚数ははるかにオーバーしたの で、あとのまとめはまたの機会にしたい。このテーマで太宰を考えたい人の一つの手がかりとなれば幸いである。文献自身に語らせるように努め、私の意見は圧 さえてある。こうした文献の整理の仕方そのものの中に、私の意見は流れていると考えていただきたい。最後に、太宰の身近にいた何人かの人の卒直な意見を並 べて終わることにしたい。

 <「裏切者」などと極めつけるのは、事情を知らない人達の考えることで、修治の、あの精一杯の党に対する寄与に対して気の毒だと恩う>(工藤永蔵、既出)
 <あの厳しい情勢の中で、精一杯党活動のために尽してくれた太宰には、工藤も私も心から感謝するものである>(渡辺惣助、既出)
<アジトを提供するということは、その当時としては非常に勇気のいることだったですね>(紺野与次郎、既出)

 太宰としては、彼なりに精一杯努め、そして傷つき、その傷を一つの基盤として、彼の文学と人生を構築していったと言うことが言えよう。
(本稿のうち一、三章は『一冊の講座太宰治』有精堂所収「太宰治のコミュニズム体験」と重複することをお断わりしておく。)
(本稿補筆後・相馬正一『評伝太宰治第一部』(筑摩書房、昭57・5)が出た。相馬の論は、さらに進展しているので、そちらを参照されたい。)
  (『紀要』(中央大学文学部)文学科第51号、昭和58.3)より