上野・本郷・千駄木文学散歩(子規・漱石・鴎外を中心に)

                      渡部芳紀

コース

鶯谷駅北口(集合)→@中村不折書道記念館→A根岸・子規庵→B上野公園→東照宮→C時の鐘→五条神社 →Dホテル鴎外荘(水月ホテル)(旧居)(昼食)→E不忍の池→F無縁坂→G東大龍岡門→医学部前→H赤門→I赤門前法真寺(一葉旧居)→J東大三四郎池 →K東大農学部(旧一高)→L根津神社→M漱石旧居(東京医大)→N藪下道→O鴎外旧居観潮楼(鴎外記念本郷図書館)→P団子坂→Q地下鉄千駄木駅(解 散)

10時集合→5時解散?    5、6キロ歩くか?

 

鶯谷・上野の山から不忍の池本郷千駄木と歩いてみよう。

 鶯谷駅北口から歩いて五分も行くと中村不折旧居跡に書道博物館がある。子規の親友の画家だ。書道の大家でもある。森鴎外の墓の字でも知られている。その前に正岡子規の住んだ子規庵がある。明治二十七年二月一日、下谷区上根岸町八十二番地(現台東区根岸二−五−十一)へ母八重、妹律とともに転居。明治二十八年三月三日、従軍に出発。広島に向かう。十月三十一日、従軍とその後の療養生活を終え帰宅。以後三十五年九月十九日亡くなるまでこの家に住んだ。

子規庵

「小園の記」で〈我に二十坪の小 園あり。(中略)小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ。余をして幾何か獄卒窓に呻吟するにまさると思はしむる者は此十歩の地と数種の芳葩 (はうは)とあるがために外ならず。〉と描かれた所。庭には萩・薄・鶏頭・秋海棠などが植えられていた。子規終焉の家は子規庵として同じ場所に復元されて いる。鴬谷駅から日暮里駅に向かい山手線の外側を五分程行った所。子規の親友中村不折の旧居跡の書道博物館に向かいあっている。月曜を除く毎日(月曜が休 日のときは翌火曜日)、十時半から十二時、および一時から四時まで一般公開されている。入庵料三百円。

 

資料『墨汁一滴』冒頭

病める枕邊に巻紙状袋など入れたる箱あり、其上に寒暖計を置けり。其寒暖計に小き輪飾をくゝりつけたるは病中いさゝか新年をことほぐの心ながら歯朶(しだ)の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。其下に橙(だいだい)を置き橙に並びてそれと同じ大きさ程の地球儀を据ゑたり。此地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨(そこつ)の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいさゝかながら日本の國も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林黒龍江などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる處無きは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀は此赤き色と紫色との如何に変りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、是れ我病室の蓬莱(ほうらい)なり。

枕べの塞さ計りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも

『墨汁一滴』(明治三十四年一月十六日)

 

 子規庵を見たら、上野公園へ向かおう。宮沢賢治のよく通った上野図書館前を過ぎ動物園の前を過ぎる。右手には東照宮がある。鳥居の南には精養軒がある。純一が先輩の大村と〈動物園の前から、東照宮の一の鳥居の内を横切つて、精養軒の裏口から這入つた。〉所である。漱石の「三四郎」にもたびたび登場する。近代文学にはよく登場する西洋レストランである。

精養軒の前を南へ下ると、右に時の鐘がある。江戸時代、時報を告げていた鐘である。

さらに、南に下れば、右に花園稲荷神社、五条神社がある。さらに下ると清水観音堂がある。京都の清水寺に対し、東の清水寺に相当する。京都には及びもつかないが小規模な舞台もある。観音堂から下(西)に下れば不忍の池弁天堂の前に出る。

子規は、〈石橋の下に咲けり蓮の花〉という句を残している。

上野不忍池弁天堂に向かって左岸辺に春夫の献詩を付した「扇塚」がある。碑には春夫の筆跡で〈扇塚/あゝ佳き人のおも影は/しのばざらめや不忍池乃保とりに香を焚紀かたみのあふぎ納めつゝ/佐藤春夫〉と彫ってある。初代花柳寿美が45年間 愛用した扇を埋めたもの。

弁天の参道脇には西条八十作詞の「カナリア」の碑もある。

 

「金糸雀(かなりや)」 西条八十作詞・成田為三作曲

唄(うた)を忘れた 金糸雀(かなりや)は

後(うしろ)の山に 棄てましょか

いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は

背戸(せど)の小薮(こやぶ)に 埋(い)けましょか

いえ いえ それはなりませぬ

 

唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は

柳の鞭(むち)で ぶちましょか

いえ いえ それはかわいそう

 

唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は

象牙(ぞうげ)の船に 銀の櫂(かい)

月夜の海に 浮(うか)べれば

忘れた唄を おもいだす

 

不忍の池の周辺は「雁」の舞台でもある。

弁天にお参りしたら、池の東の道路を北へ進もう。東照宮の鳥居の前を過ぎさらに三百mも北へ行くと、左に鴎外荘ホテルがある。道端に森鴎外旧居跡と彫った石柱と解説板が立っている。明治二十二年夏から最初の妻登志子と新婚生活を送り、二十三年十月離婚して、千駄木に越すまで住んだ所。解説板の脇の入口を入って行くと、旧居鴎外荘がある。門の右手には「舞姫」の碑がある。碑の脇に、長谷川泉撰並びに書、「鴎外『舞姫』の碑」と題した副碑があり、

 

〈森鴎外(一八六二〜一九二二)はこの地において文壇処女作の「舞姫」を出した。又「うたかたの記」や新体詩集「於母影」(新声社)を出し、新声社の機関誌「しがらみ草紙」を発刊した。故に近代文学史上画期的な活躍をする基礎を築いたのが、この地である。〉

 

と彫ってある。駐車場の脇には「於母影」の碑がある。庭には鴎外在住当時のくろがねもちの木などもある。

 鴎外荘を見たなら、その南側の道を西へ二百mも行き、南へ曲がると左に上野動物園の子供動物園や水族館がある。このあたりは「雁」の頃は、不忍の池の北端にあたる池であった。水族館の辺りで、岡田の投げた石にあたって雁が死んだことになる。

不忍の池沿いの道を南へ行くと、左に交番があり、交番前の横断歩道を西へ渡ると、横山大観記念館がある。大観記念館の南あたりに、福地桜痴の旧居があった。桜痴の家の南隣に、「雁」のヒロインお玉を囲っている高利貸の末造の家があると設定されている。そこから南へ二百mも行き、東天紅の先の信号を右に曲がる。

無縁坂

「雁」のヒーロー岡田達は、雁をマントの下に隠してここ〈無縁坂の方角へ曲る角〉まで、やって来たのである。少し行くと、巡査の立っていた四つ辻がある。交番は今はない。

四つ辻の先は、次第に登る無縁坂である。左には旧岩崎弥太郎邸(現司法研修所)の石塀が続く。右の坂の途中に茶色のマンションがある。このあたりが、お玉のいた〈格子戸の家〉があったと設定されている所である。

無縁坂は、さだまさしの「無縁坂」の舞台でもある。

 

無縁坂(さだ・まさし作詞・作曲)

母がまだ若い頃 僕の手をひいて

この坂を登る度 いつもため息をついた

ため息つけば それで済む

後だけは見ちゃだめと

笑ってた白い手は とてもやわらかだった

運がいいとか 悪いとか

人は時々 口にするけど

そうゆうことって確かにあると

あなたをみてて そう思う

忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な

ささやかな僕の 母の人生

 

いつかしら僕よりも 母は小さくなった

知らぬまに 白い手はとても小さくなった

母はすべてを暦に刻んで

流して来たんだろう

悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに

運がいいとか 悪いとか

人は時々 口にするけど

めぐる暦は季節の中で

漂い乍ら過ぎてゆく

忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な

ささやかな僕の 母の人生

 

坂を登りつめ真っ直ぐ行くと、道は突き当たる。昔は、道は真っ直ぐ百m程延びていた。現在の東大校内の南研究棟のあたりに、岡田達の下宿していた上条があった。道なりに進んで行くと、東大の龍岡門に出る。

東大校内に入り、真っ直ぐ二百mも行くと、南研究棟の前に出る。その北は、鴎外の頃の医学部の建物があったあたりである。南研究棟の先を左(西)に行けば、東大赤門に出る。

 赤門の向かい側に法真寺がある。本郷通りに面した門柱の左側面に一葉の「行く雲」の一節の原稿の筆跡を刻んだ碑が嵌め込んである。その前には文京区の作った「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」と題した解説板が建っている。一葉は、明治九年から十四年までの五年間(四歳から九歳まで)を参道左手の今は、駐車場になっている辺りに住んでいた。「行く雲」では

〈上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内廣々と桃櫻いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの觀音さま濡 れ佛にておはします御肩のあたり膝のあたり、はら/\と花散りこぼれて前に供へし樒(しきみ)の枝につもれるもをかしく、下ゆく子守りが鉢卷の上へ、しば しやどかせ春のゆく衞と舞ひくるもみゆ、かすむ夕べの朧月よに人顏ほのぼのと暗く成りて、風少しそふ寺内の花をば去歳も一昨年も其まへの年も、桂次此處に 大方は宿を定めて、ぶらぶらあるきに立ならしたる處なれば、今歳この度とりわけて珍らしきさまにもあらぬを、今こん春はとても立かへり蹈べき地にあらずと 思ふに、こゝの濡れ佛さまにも中々の名殘をしまれて、夕げ終りての宵々家を出ては御寺參り殊勝に、觀音さまには合掌を申て、我が戀人のゆく末を守り玉へ と、お志しのほどいつまでも消えねば宜いが。(中略) 軒ばの櫻くる年も笑ふて、隣の寺の觀音樣御手を膝に柔和の御相これも笑めるが如く、若いさかりの熱といふ物にあはれみ給へば〉

と主要な舞台として取り上げている。〈腰ごろもの觀音さま〉は本堂に向かって左手前に柔和なお姿で今も鎮座している。像の前には「一葉塚」が造られている。本堂の裏には一葉会館がある。平時は閉じられていて希望があれば見せてもらえるようだ。一葉の命日に当たる十一月二十三日には、毎年一葉忌が文京区の後援で行われ、法要に加え作品朗読や講演がある。

 

三四郎池

もどって赤門から校内に戻り、北 へ進み、三四郎池を訪れよう。加賀百万石の前田家の藩邸跡の池である。漱石の「三四郎」の舞台に使われて以来、通称三四郎池と呼ばれるようになった。太宰 治の「逆行」の「盗賊」の舞台でもある。さらに北に回れば、安田講堂がある。講堂前の地下は食堂になっている。校内をさらに北に進み、歩道橋を渡って農学 部に入ろう。漱石の教えていた旧一高跡の跡である。

本郷通りに出て、北へ五十mも行き、右に曲がろう。「青年」の冒頭の舞台で、小泉純一は

 

〈本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がつて、根津権現の表坂上にある袖浦館といふ下宿屋の前に到着した〉

 

と書かれている。

本郷通りから右に曲がり、突き当たりを左に百五十mも行くと、左に願行寺がある。鴎外の史伝「細木香以」の舞台である。

 

〈本堂の東側の中程に、真直に石塀に向つて通じてゐる小径こみちがあつて、其衝當つきあたりに塀を背にし西に面して立つてゐるのが、香以が一家の墓である〉

 

と鴎外が書いた通りに辿って行くと、細木家の墓に至る。

 

 願行寺から百mも行くと、〈此處は道が丁字路になつてゐる。権現前から登つて来る道が、自分の辿つて来た道を鉛直に切る處に袖浦館はある。〉と書かれたT字路に出る。袖浦館のあった所は、今は駐車場になっている。

 

 以下、「青年」の小泉純一と同じコースを辿って鴎外の旧居観潮楼まで歩こう。純一は鴎外の作った方眼図を基に、東の〈権現坂の方へ向いて歩き出〉す。〈Sの字をぞんざいに書いたやう〉な坂を下ると、左に根津神社がある。本殿手前の左側乙女稲荷神社との境の石垣の脇には、「文豪憩の石」がある。漱石、鴎外等が休んだ石だという。

根津神社

その十mも北の小溝の脇に、花崗石で作った円筒形の水飲台がある。石の小溝側の側面には、

〈戦利砲弾奉納/陸軍軍医監森林太郎/陸軍少将中村愛三/明治三十九年九月十日建之〉

と彫ってある。昔は、この台の上に砲弾が乗っていたのであろう。

樋口一葉は、根津神社を訪れた時のことを〈「梅がゝ聞ながら藪下より参らん」とて、根津神社をぬけてかへる。風寒けれど春ははる也。鶯の初音折々にして、思はずもあしとゞむる垣根もあり。紅梅の色をかしきに目をうばはるゝも少なからず〉(樋口一葉「にっ記」明治二十五年二月十八日)

 

神社の裏に抜けると、向かい側は日本医科大学とその附属病院の建物である。坂をやや登ると、医科大学と病院の間を北へ抜ける道がある。〈藪下の狭い道〉と書かれた道である。この道を真っ直ぐ北へ四百mも行けば、観潮楼の跡に至る。今は、医科大学前の坂を西へ登り、医科大学の先の四つ辻を右へ曲がろう。先程の願行寺から続く道である。

百mも行った道の左脇に、夏目漱石旧居跡の碑(文京区向ケ丘二−二十−六)がある。漱石が、明治三十六年三月より明治三十九年歳末まで住んだ所。「我輩は猫である」「道草」の舞台である。その家には、鴎外も、明治二十三年十月より二十五年一月まで住んだ。建物は現在、岐阜県犬山市の明治村に移築されている。碑の後ろの塀の上には猫の銅像がある。

鴎外・漱石旧居

 漱石・鴎外旧居跡から東へ降りる細道がある。それを下れば、先程の藪下道に出る。道を左(北)へ曲がろう。四百m程行くと、

 

〈爪先上がりの道を、平らになる處まで登ると、又右側が崖になつてゐて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀のある家を見る(中略)これが鴎村の家だ〉

 

と書かれた鴎外の旧居観潮楼跡に至る。現在は、文京区立鴎外記念本郷図書館(千駄木一−二十三−四)と なっている。鴎外が、明治二十五年より大正十一年六十歳で没するまで、三十年間(途中、明治三十二年六月より三十五年三月まで小倉に在った)居住した所。 増築した二階の書斎から海が眺められたので、観潮楼と名付けられたと言う。今は裏門となっている門を入った正面の壁には、「沙羅の木」の詩碑がはめ込まれ ている。左手の庭には、鴎外が腰掛けた姿の、写真などでも知られている石や、銀杏の老樹も残されている。図書館内には、鴎外記念室が併設され、鴎外の遺品や資料などが展示されている。

観潮楼跡

 観潮楼跡から「青年」の主人公小泉純一と同じように、

 

〈四つ辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。〉と書かれた団子坂を下ろう。漱石の「三四郎」の舞台でもある。二百mも下ると、団子坂下の交差点に出る。交差点の地下は、営団千代田線千駄木駅である。

 

 図書館正門前の道を向かいに渡り、ちょっと左(西)に行った所は、青踏社発祥の地である。

その道をさらに西へ三百mも行き、駒込学園前の交差点を北へ曲がる。この願行寺・漱石旧居跡から北へ続いてきた道を二百mも行った右側に、養源寺がある。本堂裏の墓地の右前方の木立の下に「安井夫人」に登場する安井息軒の墓がある。時間の余裕のあるときは

ここまで足を延ばしたい。

 

 時間のあるときには、団子坂下 の交差点をそのまま横切り、六百mも行くと、谷中墓地に至る。墓地の西の谷中七丁目・五丁目あたりは、旧初音町である。小泉純一は、このあたりに下宿して いた。したがって、谷中墓地から南の上野公園など、度々作品に登場する。鴎外自身、明治二十二年七月から東京美術学校(現芸大)で美術解剖学講師を務め、 大正六年から帝室博物館(現国立博物館)総長を務め、この地区との関わりは深い。ゆっくり、上野公園周辺を鴎外の「青年」の跡を歩き回るのもよいであろう。

 

資料編

中村不折 

1866〜1943)洋画家。東京出身。本名彌太郎。はじめ小山正太郎に学ぶ。パリに留学。帰国後、太平洋画会会員となり、同会の代表的画家として文展で活躍。また、書道にも深い関心を示し、その収集を基礎として書道博物館を創立。(鴎外墓の書参照)

 

正岡子規

1867〜1902)俳人・歌人。名は常規(ツネノリ)。別号は獺祭(ダツサイ)書屋主人、竹の里人。松山市の人。日本新聞社に入り、俳諧を研究。雑誌「ホトトギス」に拠って写生俳句・写生文を首唱、また「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新を試み、新体詩・小説にも筆を染めた。その俳句を日本派、和歌を根岸派という。

森鴎外

文久2〜大正1118621922 小説家・評論家・翻訳家。本名林太郎。別号観潮楼主人。島根県津和野生れ。東大医学部卒。軍医として陸軍省にはいる。明治17年ドイツに留学。21年帰国。明治221989)年、新声社同人達と訳詩集「於母影」を発表。浪漫主義の端緒となる。その後「しがらみ草紙」を発刊、評論を中心に啓蒙活動を進める。一方、「舞姫」など清新な小説を発表。明治32年、小倉に左遷され、その間、「即興詩人」を翻訳。日清戦争従軍後、軍医総監、陸軍省医務局長に昇進。明治42年より、旺盛な創作期に入り、「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「妄想」「かのやうに」など発表。明治天皇の死とそれに続く乃木大将の死を契機に「阿部一族」「興津弥五衛門の遺書」など発表。その後、歴史小説に移り「渋江抽斎」「北条霞亭」など発表。晩年は国立博物館総長も努める。墓は三鷹市禅林寺にある。

樋口一葉

18721896)小説家。本名、奈津。東京生れ。和歌を中島歌子に学び、小説は半井(ナカライ)桃水に師事、のちに「文学界」同人と親交。小説「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などのほか、文学性高い多数の日記を残した。

 

夏目漱石

1867〜1916) 英文学者・小説家。名は金之助。江戸牛込生れ。東大卒。五高教授。1900年(明治33)イギリスに留学、帰国後東大講師、のち朝日新聞社に入社。 1905年「吾輩は猫である」、次いで「倫敦塔」を出して文壇の地歩を確保。他に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」など。


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