『人間の運命』の魅力

     

                    野乃宮 紀子

1 最初の感動

日本の近代そのもの、ジャン・クリストフ

わかりやすい文章

人間を育て、幸福にする文学

日本の知性・良心・真心

 

2 『人間の運命』に描かれた森次郎の友人・恩人・知人

大塚誠

菊田・池屋

有島武郎

黒石課長

石田末子

3 批判精神

政治家

知識人

4 文章について

息遣いを感じさせる文体

作文による国語教育法

5 信仰について

6 結びとして

その1― 最初の感動

『人間の運命』というタイトルが、すでに、大河小説に相応しい、力強くて壮大な気運を感じさせてくれますが、

『人間の運命』から得られる、人生観、勇気、感動、驚きは、読む時期、読む回数によっても一人一人異なり、それはもう、無尽蔵だと思います。私も、読み返すたびに、胸に迫ってくるものが異なっていて、それはもう増えていくばかりです。

しかし、やはり、最初に受けた感動が圧倒的で、衝撃的でしたので、そのことからお話しようと思います。

みなさまもご存知のように、『人間の運命』は、明治・大正・昭和という 壮大な時間の流れの中に、歴史的事実を背景にして、主人公森次郎をはじめ、様々な人物が登場し、貧困、教育、友情、愛、出会いと別れ、信仰、戦争、再生、 といった人生における根本的な問題が興味深く描かれた、大河小説としての要素、魅力を十二分に備えた作品です。

最初に読み終えたとき、私は、一生、尽きることのない金脈を掘り当てた ように思いました。ついに、私が読みたかった作品に巡り会えたのだと思いました。初めて読んだにもかかわらず、懐かしさを覚えました。このノスタルジーで すが、自分は戦後生まれの世代に属しますし、子供のころは、日本人のほとんどの人は貧しかったと記憶していますので、森次郎の貧しさは、とても他人事には 思えなかったことにもあると思います。

そのとき、『人間の運命』から直観したものを申し上げますと、

『人間の運命』は日本の近代そのものである

冒頭の、次郎少年の目を通して描写される風景や瑞々しい心の動きは、トルストイの「幼年時代」を連想させるものでした。

明治・大正・昭和という時代と共に、困難を克服しながら成長してゆく森次郎の人生は、若い頃に読んだ、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を彷彿とさせました。

いえ、スケールの大きさ・面白さで、「ジャン・クリストフ」をはるかにしのぐ作品であると言えましょう。優しい心根を失わない次郎の姿は、よく耐え忍び、希望をもって生きることの大切さを、私達に教えてくれます。

『人間の運命』は、日本の近代が持つ問題を含むがゆえに、限りない広がりと底知れない味わい深さとを持つ大河小説であると感じました。

わかりやすい文章

作家にはそれぞれの役割と申しましょうか、使命があるように思います。

たとえば、三島由紀夫でしたなら、絢爛豪華な知性にあふれた文章、華麗 にして切れ味のよい文章で私達を楽しませてくれますし、宮澤賢治は、宝石のように輝く不思議な語感の言葉でもって、透明感ある世界にいざない、太宰治な ら、柔らかく流れるような文章で、心の繊細な動きを表現し、読者へのサービスにこれつとめます。

では、わが芹沢光治良の文章はどうか、と申しますと、
1行として、わかりにくい独り善がりな文章はありません。飾り 立てたり、ぼかしたり、曖昧にする言葉を選ばず、懇切丁寧かつ、率直な表現で、物事の本質に迫っていると思います。もちろん、そのことを物足りなく感じる 方がいらっしゃるとは思いますけれど、誰にでもわかる文章を書くということは、太陽のように偉大なことで、心に大きな愛がなければ出来ないことだと私は 思っています。

人間を育て、幸福にする文学

『人間の運命』を読み終えたとき、私はまだ愛読者の方を一人も存じ上げておりませんでしたが、何よりも、この作家の作品を好む読者の幸福というものが自然に思われました。そのとき受けた印象は、現在ますます強まってきています。

と申しますのも、この数年来、サロン・マグノリアを通して、芹沢文学を愛する人たちに少しずつ触れさせていただき、どの方も、程よい距離感を保ちながら、謙虚で、優しくて、温和な雰囲気を身に付けておられることを教えていただいたからです。

二十五年も続いているという芹沢文学愛好会は、誠に稀有な存在であると申せましょう。

『人間の運命』だけでなく、芹沢文学作品を正しく読み取るなら、読者は作家の魂を受け継ぎ、育てられるのだ、作家の精神は永遠に生かされるのだという、作家と読者の幸福な関係を目の当たりにし、本当に類まれなことであると、実感しています。

もちろん、生きていくということは、それだけで、病あり迷いあり生活苦 ありで、単純に言い切ってしまうことはできませんけれど、少なくても、『人間の運命』が私達の心に働きかけ、喜びへと導き、離れがたくする、そういう力が あることは確かなことですし、「芹沢文学」の本質もそこにあると思います。

日本の知性、良心、真心

『人間の運命』を読み終えたとき、私は、これは、日本の知性である、日本の良心である、日本の真心である、日本の文学のクラシックスである、と心に叫びました。

さて、世界に目を向けますなら、例えば、イギリスのシェークスピア、ト マス・ハーディ、ドイツのゲーテ、ハンス・カロッサ、フランスのロマン・ロランやバルザック、スタンダール、ロシアのトルストイ、ドストエフスキー、イン ドのタゴールというように、その国の知性を代表する作家が連想されます。ちょっと喩が古いのですが、私が申し上げているのは、クラシックス、つまり、古 典、読まれるべき作品という意味です。

私は、芹沢光治良の『人間の運命』は、真に日本人および日本を代表する作家であり、作品であると、確信していますし、世界に向けても申し上げたい、と思います。

『人間の運命』に貫かれている平和を求める強い意志、真摯な生き方、歯 に衣着せぬ批判精神であると同時に優しさで包んだ高い知性、『人間の運命』は人間の幸福にとって必要不可欠といっても過言ではない、これを世界が知らない なら、地球規模における損失、実にもったいないこと、と、感じた次第です。

以上、おおまかで、とりとめのないことを申し上げましたが、最初に私が『人間の運命』から受け取った感動です。


その2― 『人間の運命』に描かれた森次郎の友人・恩人・知人

『人間の運命』には、主人公森次郎をはじめ、様々な人物が描かれてい て、自伝的小説として読み取ることも出来るという側面もある以上、モデルの考察は避けて通れない問題である、と思っております。勿論、作者は、プライバ シーに十分に配慮して、実名・仮名・実像・虚像・そして虚構といった要素を駆使して創作しているようですが、一人一人取り上げていっても、面白い研究分野 であると考えております。

本日は、その中の登場人物で、私が魅力的と感じる森次郎の友人・知人のうちから、何人か取り上げてお話したいと思います。

友情1【大塚兵吾】(大塚誠)

まず、第2巻「友情」の巻から登場する大塚誠ですが、モデルは、芹沢文 学愛好会の皆川明子さまの実のお兄様でいらっしゃることをご存知の方も多いと思います。本名は大塚兵吾とおっしゃるそうですが、大塚誠として、その友情の 証が『人間の運命』の中に永遠に書きとめられています。

昭和十八年六月〜十九年五月にわたって「天理時報」に連載された『懺悔 紀』という長編小説があります。これは、全編を通して悲痛な思いが基調になっている作品であると、私は感じているのですが、この小説の中に、塚本友明とい う人物が登場しますが、こちらの方が、大塚兵吾様の実像に則した内容と思われます。と申しますのも、大塚兵吾様は、大正七年十月二十四日に、スペイン風邪 で亡くなられたと、皆川様より伺っております。

しかし、『人間の運命』では、作者は、大塚誠をそのスペイン風邪から奇 跡的に生還させ、フランスに留学させ、画家という職業を与え、シモン・マコトとしてフランスに帰化させ、フランス人女性クララと結婚させ、第二次世界大戦 中、フランス・日本と離れ離れになっていてもお互いの身の上に思いをはせるという、生涯における友人として描いております。

勿論、大塚誠のモデルについては、大塚兵吾様のほか、最初の新聞連載小説「明日を遂うて」の挿絵を描いた画家の小山敬三夫妻や、佐伯祐三なども関わっていることと思います。

私は、芹沢光治良は、作家にならなければ、画家になったのではないかと 想像することがあります。なぜなら、今日、残されていて、私どもが目にすることができる水彩画やスケッチなどを通して、デッサンの確かさ、色彩の使い方な どから光治良先生の絵の才能が伝わってくるからです。

光治良先生が、絵画に惹きつけられるようになったきっかけは、本人の資質はおいておき、沼津中学時代の前田ゆきちか先生との出会いに求められると思いますけれど、フランス留学で、佐伯祐三を知り得たことも大きかったのではないかと想像されます。

フランスに留学したときの思い出を綴った「巴里便り」というエッセイに書かれた佐伯祐三の姿は、非常に印象的です。

佐伯さんは東洋画の精神が出れば、自分はもう滅びてもいいと云っていま す。(中略)毎日、午後三時頃カンバスを抱えて帰り、声も出さずに椅子に倒れたまま昼食をとれないほど、絵の中に精魂(せいこん)を打ち込んで疲れてしま う精進を、私は学問をするのに真似たいと思います。勤勉に精魂を打ちこむ以外に、画面に輝きを産むことはできないと、佐伯さんは体験を話していますが、学 問でも同様だろうと信じます。

と、光治良先生の感動が伝わってくるような文章です。

さて、貧しかった一高時代、物心両面で助けてくれた大塚兵吾の、その無念の若い死を、作家は決して忘れなかっただろうと思うのです。それゆえ、感謝の思いをこめて、ご自分の絵画への関心や、才能、知識、技術などを、大塚誠に託したのではないかと思っております。

ですので、大塚誠は、作家の分身でもある、とも言えましょう。

光治良先生は、大塚誠を描くとき、共に語らい、共に歩んでいるように心強く感じ、また、とても楽しんで書いていたのではないかと、想像されるのです。

また、その名前についてですが、光治良先生は「誠」という名前をとてもお好きだったのではないかと思います。「まことの強い」とか「まことのこもった」とか、よく使われていますし、『結婚』という小説を読んだときに、そういった感想を強く持ちました。

その一番お好きな名前を大塚兵吾さまにさしあげている、芹沢先生の友情のあつさを思いました。

そして、芹沢芸術の別の側面である音楽への愛は、お嬢様方の人生に花開いていると、申し上げておきましょう。

友情2【菊池勇夫】(菊田、のち池屋)

次に、光治良先生の友人として名高い菊池勇夫ですが、この人は九州大学の総長をされた方で、人間の運命では、どのように描かれているかと申しますと、この人も第2巻「友情」の巻からの登場で、一高時代、最初「菊田」という名前で登場します。(A423〜)

菊田は東北出身で、「大塚とともに無二の親友で」、温和な雰囲気を見に付けていた

と、描かれています。(A445

訛りを直すことと自己主張できるようになることが目的だと思うのです が、二人とも一高の弁論部に入ったことをきっかけに親しくなり、月一回、鶴見祐輔邸で開かれる「縦の会」に連れ立って出かけ、色々話し合って、お互いの考 え方に多くの共通点を見いだし、信じあえる仲になったのだと、描かれています。

授業料未納でお金に窮した次郎が、貸費制の奨学金のことで、大賀氏の面接を受けようとて、大雪の朝、着ていったのは、この菊田から借りたマントでした。

さて、森次郎が帝大の経済学部に進んだとき、途中から法学部の「池屋」という人物が登場します。池屋は三巻の「愛」の巻では、次のように描写されています。(B「愛」139

池屋が背が高く健康な関係で、教室でも席がはなれ、寮でも同室したことはなかったが、その温和な人柄と緻密な頭脳とには、ひそかに信頼と敬意を払っていた

また、四巻の「出発」の巻(C273)では、

池屋は東北の城下町で武士の後裔として、折目正しく育てられ、鷹揚で内に厳しいものを秘めた育ちのよさが、全身にかおっていた。

この池屋に誘われて次郎は、読書会に入るのですが、この読書会というのは、

各自専門の分野でフランス語の書物を読み、それを報告しあって、知識の交換と学問の協力をする目的

という、いかにも帝大生らしい高尚で野心的なものでした。

これが機縁で、池屋と生涯をちぎるような友情を結ぼうとは、その時想像もしなかった。

とあります。

こうして次郎は、充実した大学生活を送り、高文試験勉強も池屋と共に励み、二人とも在学中に、その難しい国家試験に合格するという快挙を為し遂げました。

さて、みなさま、菊田と池屋の名前の上半分に注目してみてくださいませ。菊池になりますでしょう? この池屋が登場してからは、(C出発387)「例の読書会の菊田も(高文試験の)外交科に合格した」とはありますが、菊田に関する具体的な描写は少なくなります。

私は、これを発見したとき、創作上の秘密と言いましょうか、遊び心と言いましょうか、作家のひそかな茶目っ気に触れたように感じました。菊田と池屋は二人足すと菊池になるんだよ、という光治良先生の声が聞こえてくるように思いました。

菊池勇夫に関しては、昭和五十年七月十三日に七十七歳で亡くなったとき、芹沢先生は「長い旅路の伴侶」というエッセイ(『心の広場』186) に追悼文を記されていますけれど、『橋の手前』(「改造」昭和八年四月)という作品の中の花田教授にも、その面影を見ることができると思います。また、 『命ある日』(昭和十五年に新潮社から書き下ろし)という長編小説は、若い日の友情を感謝して菊池勇夫に捧げられた作品ですね。

 なお、菊池勇夫は、岩手県遠野市の名誉市民第一号の方で、その遺骨は、菩提寺の浄土宗善明寺(遠野市大工町二の五)に眠っています。(戒名は「深廣院殿勇誉法光無涯大居士」)昨年夏、主人と帰省の途中に立ち寄り、お墓参りをして来ました。お寺さんには、今でも菊池勇夫の正装した写真が飾られて、大切にされています。


恩人1【有島武郎】

さて、芹沢光治良が、恩人の一人として、また、「文学上のただ一人の先生」(『アルバム 有島武郎』昭和5411)と呼び、尊敬してやまなかった有島武郎ですが、麹町の彼の私邸における「草の葉会」の様子が『人間の運命』にも興味深く描かれています。(B「愛」9〜19

これも貴重な時代の一証言と言えるでしょう。

社会経済問題を話し合う「草の葉会」が発足したのは、大正六年三月ですが、『人間の運命』の中で、森次郎が友人石田孝一の紹介で、その会員になったのは、八月の米騒動による寺内内閣うんぬんの記述がありますから、大正七年の秋ごろのことでしょうか。

ホイットマンの詩の解読をする有島武郎の様子を「貴公子らしく端然として」とか「柔和な気品のある表情で」とかいうように伝えています。それにも増して、学生達の無遠慮な質問にも静かに答える有島の謙虚で誠実な態度に、次郎は感動しています。

有島武郎は学習院時代(十歳ごろ)、当時皇太子であった後の大正天皇の学友にも選ばれたほどですから、幼い頃から落ち着きのある、気立てのよい人物だったようです。

大正十二年七月八日、明らかにされた有島武郎心中事件の衝撃は、四巻の「出発」(510512)で、次郎の兄、一郎の嘆きを通して語られていますが、ここでは、浅野晃という人が書いた、当時の有島の姿をご紹介しようと思います。

(その前に、若干の説明。大学二年の夏休みに、東大新人会の友人達と北大の農場でアルバイトをしようとした浅野晃は、北大には、森本厚吉教授がいらっしゃる、有島武郎は彼の親友だから、紹介状をもらっていこうということで、有島邸を訪れることになった由)

二人はいきなり有島邸の玄関に立った。案内を乞ふと正面の障子が 開いて、有島さんが姿をあらはした。新人会の者ですがと手短かに来意を告げると、有島さんは「承知しました、まあお上がりなさい」といった。「いえ紹介状 さへ頂ければよいのですから」といふと、「今日は用事もないから、いいでせう……」といはれた。私らは応接間へ通された。

お茶が出て、お菓子が出た。森本教授宛ての紹介状も書いてもらっ た。私らはお礼を述べて帰らうとした。「まだいいでせう」と有島さんは引きとめた。「レコードでもかけますか。」曲はドボルザクの「ユモレスク」であっ た。「いいですね。も一度ききませう。」さういって氏は、同じ曲を二度かけた。(中略)

ある日、朝刊をあけて見ると、大きな見出しで有島さんの死が報ぜ られてゐた。軽井沢の山荘で縊死体で発見されたといふのだ。新聞の記事によると、私らが有島邸を訪ねた翌日あたりに、氏は家を出たものらしかった。さうだ とすると、私らが訪ねた時、氏はすでに死を決してゐたことになる。それでゐて、私らに対した氏は、あのやうに柔和で、平静でこれが死に赴く人とは、どう考 へても思へなかった。私は氏の突然の死に驚くよりも、死を目前にした、氏の沈着と、温容と厚情とに驚いた。驚いたといふより感歎した。今でも目をつむる と、あの日の有島さんの温容が、ありありと浮かんでくる。

実は、浅野晃は立正大学における私の恩師であり、ただいまご紹介申しましたのは、『浪漫派変転』(「高文堂出版」昭和六十三年八月 119)という書物の中の「有島武郎の思ひ出」という一節です。

有島武郎の友人で、彼の個人雑誌『泉』を編集していた足助素一という人 が、『泉』の終刊号で、有島武郎が心中した前後の消息と共に、自分は死ぬことを覚悟の上で波田野秋子と恋愛したのだという有島武郎の言葉を伝えています。 その中に「いつまでも帰らない帝大生の一団」うんぬんという描写があり、そのことかどうかわかりませんが、浅野晃が生前「足助素一は嘘を書いている」と おっしゃったことが思い出されます。

真実は「神のみぞ知る」ところでありますが、私の申し上げたいのは、芹沢先生と同じ様に、浅野晃もまた、有島武郎の謙虚で誠実で温和なお人柄を非常に敬愛しておられた、ということです。

戦時中、芹沢先生が、有島武郎の「草の葉会」と同じように、土曜日の夜 「アランの会」を開催し、一高生や帝大生を中心に多くの若い人々が慕い集ったことも、『人間の運命』に描かれているので、皆様よくご存知でしょうけれど、 やはり、浅野晃にも「浅野晃先生のおはなしを聞く会」というのがありまして、さきほどご紹介したようなエピソードを沢山お話してくださったものでした。 (これは、昭和59年3月の話。この会は1982.71989.12まで7年間続いた)

優れた魅力的な人物というのは、多くの人を魅きつけてやまないことの現れでしょうか。


恩人2【石黒忠篤】(黒石課長)

さて、『人間の運命』の中で、森次郎は大学卒業を前に、どのような職業 を選ぶべきかで大いに悩みますが、日本の産業を監督する官庁に入り、そこで貧しい人々の立場で、行政事務に携わることが「世の中に裨益する近道」ではなか ろうかと結論を出し、有島武郎に手紙で相談します。(C「出発」410

有島武郎は次郎の考えの正しいことを伝え、励まし、それに勇気を得た次 郎は「農商務省」に就職します。その勤務先、農商務省では、上司に黒石課長という人物が登場します。この黒石課長は、実に情けのある人で、仕事の内容にし ても留学問題にしても、次郎の希望に添うよう温情ある配慮してくれた次郎の恩人の一人です。

この黒石課長のモデルが石黒忠篤ですが、石黒忠篤の詳細な仕事の内容に ついては、ここにおられる小平佑様が、今年の『国文学「解釈と鑑賞」』三月号で、実に格調高く論じて下さいました。私の申し上げたかったこと以上のこと が、もう詳しく述べられていますので、蛇足になってしまうのですが。少しお話させていただくなら、

十八世紀から十九世紀にかけてヨーロッパでは、おそらくはイギリスの産 業革命が引き起こした反動からだと思うのですが、郷土のよさ、田園のよさを再認識し、土地と人との結びつきを強めようという考え方が興ります。これが「郷 土論」という考え方で、日本には、当初、地理学の学者たちによって、この考え方が紹介されたようです。

日本では、内村鑑三、新渡戸稲造、柳田國男らが、この考えに共鳴し、特 にドイツ留学の経験ある新渡戸稲造は、早くからドイツにおける「郷土保護」という考え方に共鳴し、明治三十一年に『農業本論』を書き、さらに明治四十年に は「地方(じかた)の研究」とテーマで講演します。その講演を聞いた柳田國男が、明治四十年頃から自宅で「郷土研究会」という名の集まりを持つようにな り、さらに、明治四十三年に、小石川小日向の新渡戸邸で、柳田國男を幹事役とした「郷土会」が発足します。

石黒忠篤は、その「郷土会」に集まったメンバーの一人であり、実践の人となり、戦前の日本の農政の基礎を築き、農業協同組合設立にも大きく貢献した人でもあったわけです。

(「郷土会」はその後、植物学、地理学、農政の実践という三方向に分かれる)

もちろん、忠篤さんお一人の力で出来たことではありませんが、『人間の運命』の中に、黒石課長として日本の農村と農民のために志を貫く姿が記録されていることは、以前から親しみを感じていた私にとりましては、まことに感慨深いものがあります。


知人【石田末子】(伊藤千代子の面影)

作者は、『人間の運命』の中で、明治から昭和にいたる時代の変革の複雑 な問題、具体的には、没落してゆく地主階級の様子、封建的とも言うべき名残をとどめている血縁関係、新しい思想問題に翻弄される家族の苦悩などを描くにあ たって、石田家という架空の場を設定し、その石田家の人々に複雑な問題を担わせたのではないかと、私は思っております。

石田家の中で、もっとも美しい目と心をもって描かれているのが、孝一の末の妹、末子です。(H「愛と死」88〜)

末子は、マルクス思想犯で牛込署の留置所に投獄され、拷問を受けますが 黙秘を続け、結核にかかっていることが分かり、次郎の尽力で清瀬村の結核療養所に送られます。しかし、その療養所でも、転向することはキリストの踏絵を踏 むようなものだとて拒み、死んでいきます。マルクス思想というより、フィアンセ林達郎(名門出で東大の秀才)への愛に殉じた、というべきでしょうか。

この描写をもってしても、芹沢光治良がマルクス思想に身を投じた人々に、同情的であったことは否めません。しかし、私は、マルクス主義についての知識を持ちませんし、ここでお話するつもりもありません。

ただ、黒い大きな美しい目をもった石田末子がある人の面影を宿していることを、お伝えしたいのです。それは、伊藤千代子という女性です。

伊藤千代子は、その死から六年経った昭和十年、歌人土屋文明が発表した短歌の中に、実名入りで、次のように歌われています。

まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに

高き世をただめざす少女等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき

伊藤千代子は、信州諏訪出身の才媛で、一九二八(昭和三年)年二月、東 京女子大在学中に共産党に入党し、翌月治安維持法違反の容疑(いわゆる三、十五)で検挙され、拷問を受けますが、転向を拒み続けます。しかし、同じ頃、逮 捕された夫の転向(実際に転向したのは、昭和九年)に動揺し、精神に異常をきたし、松沢病院に移され、翌年の九月二十四日、肺炎にかかり、二十四歳二ヶ月 の若さで亡くなります。

この伊藤千代子の夫が誰あろう、先に有島武郎のところでお話した浅野晃でした。

もちろん、実際に伊藤千代子が亡くなったのは、昭和四年ですし、『人間の運命』の石田末子の死は昭和七年の夏ごろと推定されるので、時期は大きく異なります。また、死因は肺炎と結核という違いもあり、二人を結びつけることには無理があります。

しかし、末子の黒い大きな目、という描写だけで私には十分でした。このことに気が付いたとき、それは、昨年の夏でしたが、私は、それまで抱いていた謎が解けたことを感じました。

私は、『人間の運命』を読んでからずっと考え続けておりました。『人間の運命』は、日本を代表するような、日本が誇りとするような素晴らしい作品です。

浅野晃は、なぜ、ご自分の先輩でもある芹沢光治良について話さなかったのか。なにゆえ、『人間の運命』について語らなかったのか。『人間の運命』を読まなかったのだろうか、と。

浅野晃先生は、実に心が広く暖かい方で、思想的に左にも右にも大きく揺れましたので、それぞれの思想の持つ長所も短所もよくご存知で、晩年はそこからも脱し、実に自在に、私達に古今東西の歴史、地理、文学などの知識を惜しみなく与えてくださいました。私の知識の実に95パーセントは浅野先生からの贈り物だと思っています。

しかし、私は浅野先生の口から芹沢光治良という名前を、ついぞ聞くことがありませんでした。

平常心とか、平静とか、没我という言葉が大変お好きでしたが、もし、 『人間の運命』を読んでいたなら、それはやはり、石田末子の描写には、平静ではいられなかったと思います。私でさえ、石田末子から、目に特徴のある伊藤千 代子を連想できたのですから、ましてや、自分の転向問題で、伊藤千代子を死なせた浅野晃にとって、それは、生涯における痛恨事であったわけですから。『人 間の運命』を読んだとしても、やはり話すことは出来なかったのだと思います。

光治良先生が、フランスから帰国された昭和三年の秋、伊藤千代子は既に 留置所にいますし、接点というのは考えられません。しかし、当時、マルクス思想によって、何とか少しでも社会をよくしていこうと、突き進む若い人々を個人 的に何人か知っていたことは十分考えられます。石田末子像はそういう人に捧げた芹沢先生の鎮魂の思いなのではあるまいか、と私は受け止めています。


その3― 批判精神

次は、批判精神ということについて、少しお話させていただきますが、私、思いますのに、光治良先生は、高い教育を受けても愛の感じられない人、周りの人の心を考えず自分の美学ばかりを求める人や、言葉と行動が一致しない人を、もっともお嫌いだったのではないでしょうか。

ここでは、例として近衛公、二木清、石田孝一を取り上げてみます。

十巻「夫婦の絆」の巻に、昭和十二年六月四日に発足した、第一次近衛内閣についての記述があります。(D504

元来、公家というのは、 権力に寄生した種族で、言葉は巧みだが、実行力はないから、近衛公が国家や国民のために、生命を賭(と)して、難局にあたることはあるまい(中略)勇気も 信念も力もない近衛公を、ただ天皇家に近いということと、未知数で清新だということだけで、救世主か英雄かのように喝采している(中略)遠からず近衛公が 身を引いたあと、国民は次には必ず、勇気と信念と力のある者を待望する危険がある

この箇所を読んだとき、近衛公のお孫さんにあたる細川護熙元総理大臣 が、少し前に(一九九四年四月二十八日)、政権を投げ出したことが鮮明に記憶に残っていたので、六十年も前に批判したことが、今日も、そっくりそのまま当 てはまることに、非常に驚くとともに、一体これは何という符号だろう、『人間の運命』は預言書なのか、と感じたことを覚えています。

また、十巻「夫婦の絆」(D370)の巻に、一人ヨーロッパの旅に出た、次郎の養父田部氏から、次郎にあてた手紙には、二木清の人間性について、注目すべきことが書かれています。

二木清の『パスカルに於ける人間の研究』という日本語の書物をもらっ た。(中略)大塚君の話では、この著者はお前の親しい人だそうだが、こんな人が日本にいるのならば、何故出発前に会わなかったか、残念でならない。パスカ ルについて、この書物はいろいろ教えてくれたが、今、この人に会ったら、この人がパスカルによって、どんなふうに人生を導かれたか、どんなに人間性を変え たか、問いたいと思う。書かれたことによって、その知識の該博なことはわかるが、知識は人間を動かさないからね。(中略)この人は愛のある哲学者である か、どうか。

これは、ペールの手紙を通して、二木清が、パスカルを学びながら、パスカルの人生を歩まなかったこと、根本から人間性を変えなかったこと、愛のない哲学者だったことを物語るものではないでしょうか。

『人間の運命』に散見される三木清をモデルとした二木清像は、全体としては好意的に描かれていますが、膨大な知識をもっていても愛の少ない三木清の、低い人間性もまた、作家に見抜かれていたように思います。

友人の一人石田孝一にも、作家は鋭い視線を向けています。特に印象的なのは、第十一巻「戦野にたつ」の巻(E189)で、孝一の弟、孝四郎に批判させている言葉です。

ぼく達は読書によって、 知識欲を満足させるばかりでなく、自己を変え、発展させる努力をしますが、兄は読書によって、自分をかざる知識の断片を集めるだけです。会話や講演の時美 化する材料を集めるようです。自己を変え、発展させる努力はしません。だから、超人的な読書をするのに拘らず、人間は少しも変らない(中略)兄は会話をす るには面白い人だが、人格的な影響を与えるような人間性はないと、思います。それは思想がないからです。思想を生かそうと努力しないからです、まことがな いからです……

まことにもって、痛烈な言葉ですが、しかし、愛情からでた批判でありますし、また、批判ばかりではありません。

戦争が終わって、再会した次郎に、孝一は自分の人生の最後を悟っていたかのように、美しい言葉を残します。(F「再会」350

美を忘れると、人間はこんなにも荒廃するのかと、胸をつかれてね。広い闇市に花一つなく、子供一人いないんだ。花と子供がない人生は砂漠だという言葉を、思い出した。

これを聞いた次郎は胸をあつくするのですが、本当に心に残る詩人の言葉だと思います。


その4― 文章について

息遣いを感じさせる文体

文章というものは、うまい文章ですと、文体などちっとも気にしないで、文章を読んでいるという意識もなく、自然に読み進むことができるものです。

私が、文体というものを意識させられるのは、非常にまずい文章を読んだときか、非常に個性的な文章、つまり、その作家でなければ書けない文章に接したときに限られるようです。

例えば、童話作家の北畠八穂、太宰治、イタリアに関するエッセイなどで知られる須賀敦子などは、もう、誰にも真似できない個性的な文章を書く作家だと思っています。

さて、『人間の運命』をはじめ、芹沢作品の文章が分かりやすいことは、 読んだ人誰もが感じることだと思うのですが、そして、先生ご自身も、フランス留学時代にベルグソンに会ったときの感動的な体験や、また、太平洋戦争で体験 した苦しみとその反省から、言葉や文章というものが、専門家や狭い仲間内だけに通じる難しい表現でなく

@ 論理的である

A 明白である

B 誰にでも理解できるような文章

を書こうとして精進されたことは、みなさまもよくご存知でいらっしゃいます。

「誰にでも理解できるような文章」と一口に言っても、これは、技術的なことだけでなく、心の深いところから出てくる愛情がなければ、決してできることではないと思います。

自己を満足させる文章を書くことに注意が向いて、読み手のことまでは、考えが至らないことが多いのではないかと思うのです。

人間に対する深い愛情と、明確な目標を持って努力を積み重ねた結果、特 に『人間の運命』では、そのわかりやすい文体が完成されているように思います。このような大長編にもかかわらず、読み手に疲れを感じさせない、どころか、 ある一定の心地よいリズムを保っている、というのは、驚異的なことです。

具体的に申し上げるなら、息継ぎ、つまり読点が多いことでしょうか。この読点が多いことにより、歯切れがよいばかりでなく、読者にかかりと受けの関係を迷わせない、したがって誤解を生じさせない、明白な文章となっているように思います。

このことは、自分で文章を書いてみるとわかることなのですが、芹沢光治良の文章は真似しようと思っても、とても同じようには書けないものです。

例えば、第13巻の「夜明け」(166)の中から少し引用してみますと、

戦争が末期になるにつれて起きる社会的な不安や混乱にあたって、目を鋭く光らせて聡く処さなければ、自由主義者として自分も消される危険を、やはり感じないではいられなかった。

実は、私はこの文章を、他の言葉に置き換えてみよう、別の言い方で表現しようと、何度も試みたのですが、うまくいきませんでした。この一文の確かさは、もう見事というほかはなく、揺るぎがまったくありません。きちっと構築されているからだと思います。

このように、芹沢光治良の文章には、これ以上、分かりやすい適切な表現は出来ない、最短の最適の文章なのだということを実感させられるのです。

皆様も、試しに、リライトに挑戦されてみてはいかがでしょうか?

また、読点が多いことに関連していますが、「息遣いを感じさせる文体」でもあるように思います。息遣い、つまり呼吸は、人間の世界というより、神の領域に属していると私は思っております。

一般的に、人の死について、よく、「誰それが息を引き取った」とか、 「息の根を止める」という言い方を耳にしますが、よく考えますと、これは、人間でなく、神の視点による表現なのですね。息を引き取っていくのは神であっ て、人間に自由にできるものではありませんし、「息の根を止める」のも、人間に許されているものではないと思うのです。

いつから、神の視点による、このような言葉が存在したのか、私にはわかりませんが、「息遣いを感じさせる文体」には、神秘的なものを感じています。

作文による国語教育法

第十四巻「再会」の巻(F455)で、次郎は四女貞子の通う小学校のPTA会長になったことから、子供達の書いた作文を読む機会に恵まれます。しかし、時代は戦後間もない物のない時代で、家庭生活の貧しさが、多くの子供の作文にもあからさまに反映されています。

そこで、次郎は真剣に考えます。

生活綴方とでもいうような作文が、小学生の作文として適当であるか、フランスで、小学生から高校生まで一貫して、強制的に実行させられる論理的で適確な表現を体得するための作文教育の方がよくはないか

ここで、私も、国語教育というものを考えさせられました。

おそらく、ここで作家が提案しているのは、あるテーマを与え、4つのW、1つのH(いつ、どこで、誰が、何を、どうしたか)の条件を確実に満たして、誰にでもわかる論理的な文章を書く訓練のことだろうと、思うのです。

それに対して、従来の作文指導というのは、おそらく、各自感じること、考えることを自由に書きなさい、といった発想や表現の幅を広げる方向に重点がおかれていたのではないかと、私は考えています。

前者(つまり、次郎の提案する)の方法を押し進めるなら、誰でも、ある一定の水準を保った文章を書けるようになれると推測されます。

しかし、後者の方法にも捨てがたいものがあります。なぜなら、これは日 本の伝統的な俳句や和歌の創り方と密接に結びついていて、短い詩歌の力を強めるには、実に効果的な方法だと思うからです。一瞬のうちにひらめいたものを手 繰り寄せたり、物事の本質に一気に迫っていく力は、4つのW、1つのHに捕われているうちに、弱まってしまう、あるいは見失ってしまうこともありうるからです。

そこで、どちらかではなく、どちらの方法も取り入れたなら、日本人の文章の表現力は、更に豊かになるのではないでしょうか?

この2つの方法に、百人一首や短歌などの暗誦の時間と、方言を話す地域であるなら、方言を使う時間を持つならば、充実した国語教育にできるのではと、考えています。


その5― 信仰について

私が初めて作家、芹沢光治良を知りましたのは、一九九六年六月のことでした。

堀辰雄の文学散歩の取材で、主人と軽井沢を訪れたときのことです。堀辰雄の別荘や文学記念館、また有島武郎の別荘などを回ってから軽井沢高原文庫に入って行きました。折りしも、芹沢光治良展が開催されていましたが、もちろん、その時は知るよしもありません。

階段を上がった正面に、美しい表情をした白髪の人物の写真が飾られていました。

その写真の人は、とても優しい表情で私を招くのです。慈愛に満ちた穏や かなまなざしに、私は誘われるように近づいていきました。私がその時、感じましたことは、その人は、「信仰の人である」ということでした。私にとりまし て、信仰の人と謙虚な人というのは、同じ意味を持っています。

それが、作家芹沢光治良との出会いでした。それから私の充実した悦びの日々が始まったのです。

私は、人間は本来、喜ばしい存在であると思っております。

人間そのものが、神秘的存在であり、みな、不思議な力を与えられて、この世界に生まれてきた、ただ、その思いを強く持つか持たないか、気づくか気づかないか、という違いだけなのではないか、と思っております。

私は、信仰を抱くというのは、「人間本来の自然な姿に立ち返ろうとする心の働き」のことだと思っております。「人間本来の自然な姿」とは、「謙虚な心で喜びの中に生きる」ことで、謙虚になりますと、自然に喜びの思いが湧いてきます。

『人間の運命』には、人間の神秘性に気づかせてくれる、導いてくれる力 がある、と感じているのですが、それは、一部の作家、曽野綾子氏・遠藤周作・三浦綾子といった作家を除く、多くの作家が書くことを避けてきた、信仰という ものが、この『人間の運命』には、意識的に描かれているからだと思うのです。

作家自身が、第1巻「父と子」のあとがきで、述べています。ちょっと長くなりますが非常に重要な文章ですので、引用してみましょう。

「三十数年前に、ソルボ ンヌ大学で社会経済学を勉強していた頃、主任教授のシミアン博士は、宗教や信仰を知らなければ、その国民の精神や生活の実体がわからないばかりか、その国 の社会現象も正確に識ることができないと、幾度も私に注意した。当時、私も日本の多くの知識人と同様に、自ら無信仰であるばかりでなく、日本人の宗教や信 仰を無視して、その知識を欠いていたが、それについて、教授はいつも私の怠慢を責めた。」(中略)

「私が宗教小説でもない、この小説の基調に、日本人の信仰をおい たのは、若い日に恩師シミアン教授にたたきこまれたことから発想したというよりも、この小説の時間――明治末期から今日まで、日本人の運命を左右した天皇 制というものと、強い関係があるからにすぎない。それに、いつか外国人に読んでもらえるのであるから、大きな構成の土台の一つに、習俗であっても、信仰と いうものをおくことで、日本人をよりよく識ってもらいたいからである。」

もちろん、信仰というのは、非常にデリケートなもので、これほど人間の幸福にとって必要不可欠のものでありながら、私もそうですが、人に勧められたり、押しつけられたりすることを何よりも嫌いますし、かえって反発したくもなるものです。

私はクリスチャンでも仏教徒でも天理教徒でもありませんが、バイブルや仏典を読むことは大好きで、イエス様もお釈迦様もおや様も、いずれの方も大きな深い愛をお持ちで、人間の幸福というものを真剣に考えてくださったのだと、慕わしい気持を抱いています。

特に、光治良先生の『教祖様』を読んでからは、せっかくご縁があって、私達の日本の地に生まれてくださったのですもの。日本生まれの中山みき様を、もっと親しみをこめて、「私たちの優しいおばあ様」といった気持で、大切にしなければ勿体無いと思っております。

さて、『人間の運命』の中には、さまざまな信仰を持った人が描かれています。

次郎の祖父母をはじめ、天理教に一生を捧げた両親、二代目親様と言われる井出クニ、次郎の兄一郎など。

また、ドメスティックな側面が強調されて描かれている森節子ですが、実は内的にもっとも劇的な変革を遂げた人ではなかったろうかと、不思議な気持でおります。

勿論、『人間の運命』は、天理教徒の立場で書かれたのではありません。 むしろ、次郎はその生い立ちゆえ、強い意志をもって、宗教に対して常に批判的であり、懐疑的であり、一定の距離を保って生きるという姿勢を最後まで貫いて います。そして、このことが、作品に厚みを持たせ、面白く、魅力的にしていると思います。

信仰不在の文学、つまり、神を慕う気持の見受けられない、敬虔な思いの込められていない作品というのは、ある一時期もてはやされても、それは一過性の現象であると、私は思っております。

『教祖様』によって蒔かれた信仰の種が、『人間の運命』の中で様々な形で育ち、そして、後の神シリーズで花開くという、一連の流れを読み取ることができるようにも思います。

この神秘的な事実は、圧倒的で、いまは、話すべき言葉も見つからないまま、感動のなかに生かされていることを思うばかりです。


その6― 結びとして

ここまで、私の独断で『人間の運命』の魅力について話して参りましたが、これは、勿論、ほんの一部分にすぎません。ほとんど手付かずの状態と言ってもよろしいと思います。

今後、様々な視点から取り上げられ、研究が進むだろうと思います。

遅ればせながら、この春から中央大学大学院で『人間の運命』を取り上げています。この中から多くの俊英が出て下さることを期待しています。

しかし、私は、研究が進むことより何より一人でも多くの人に『人間の運 命』を読んで欲しい。感動して欲しい。本屋さんに行ったなら、永遠のベストセラー聖書や仏典のようにいつでも手に入れることが出来る、その時、手に入らな くても、注文して取り寄せることができる、と言った状態が一日も早く来て欲しい、と願っています。

また、私は、世界の人々に向って、次のように述べたいと思います。

「『人間の運命』は、日本文学の誇りである。日本中の小学生から老齢に 至るまで、日本人なら誰でも知っている、そして、自分達の誇りとしている、日本には神のみこころに叶うような誠実な生き方をして、その恩寵を賜わった芹沢 光治良という作家がいる。この作家は、日本人の信仰・良心・まごころ・優しさ・知性・誠実さ・繊細さ、といったものを体現した人であった。彼は私達に、大 河小説『人間の運命』を残し、私達はこの作品を読むことで、愛と勇気を与えられている、どうか、皆さんもこの喜びを共にし、共に恩恵に浴されんことを。」 と。

このような思いが、一日も早く実現することを願いつつ、この話を終わりたいと思います。紳士ならびに淑女の皆様、本日は長い時間、拙い言葉にお耳を傾けてくださり、誠にありがとうございました。