小倉(名作のふるさと) 

               渡 部 芳 紀


小倉城内第十二師団跡(旧正門)

 北九州市の小倉を森鴎外を中心に 回ってみよう。

 森鴎外は明治三十二年六月十九日から三十 五年三月二十六日まで三年九ヶ月ほど、陸軍 第十二師団軍医部長として小倉に滞在した。

 明治三十二年六月十六日、新橋を発した鴎 外は、十七日、大阪に泊まり、十八日大阪から 徳山に至り、夜徳山から乗船。十九日午前三 時門司港に着き、雨の中を汽車で小倉に向か う。

<汽車の窓からは、崖の上にぴつしり立 て並べてある小家が見える。どの家も戸を開 け放して、女や子供が殆ど裸でゐる。(中略 )田圃の中に出る。稲の植附はもう済んでゐ る。(中略)がらがらと音がして、汽車が紫 川の鉄道橋を渡ると、間もなく小倉の停車場 に着く。(中略)室町の達見といふ宿屋に入 つた。>(「鶏」)

鴎外が着いたのは、今の西小倉駅である。当時は、ここが小倉駅で あった。南に三百メートルも行けば小倉城が あり、城内に第十二師団が駐屯していた。小 倉城は後で回るとして、今回は今の小倉駅か ら歩き始めよう。

 駅前広場に出て、まず目に入ってくるのは 毎年七月十日から十二日にかけて行われる、 小倉祇園太鼓のブロンズ像である。岩下俊作 の「無法松の一生」でも、知られている小倉 を代表する祭りだ。

祇園太鼓を正面に見たら 、駅前広場の右前方の方向に歩いていこう。 広場の南西道路脇に「森鴎外京町住居跡」の 碑がある。

<第十二師団軍医部長として赴任 した森鴎外先生は、明治三十二年六月から同 三十五年三月まで小倉に来住した。/その前 半は鍛冶町の家にあり、後半、三十三年の暮 れから第一師団に転任して東京へ去るまで、 京町五丁目百五十四番地に住んだ。しかし京 町の旧居は小倉駅の移転にともない、駅前広 場の一部となってしまった。/今はないが、 茂子夫人と新婚生活をおくり「即興詩人」の 名訳を完成し、のちに、明治の小倉の風物を 活写した小説「独身」の舞台となるなど、鴎 外文学にとって記念すべき京町の家は、この 碑の南二十五メートルの場所にあった。>と 彫ってある。

「独身」には、<小倉の雪の夜 に、戸の外の静かな時、その伝便の鈴の音が ちりん、ちりん、ちりん、ちりんと急調に聞 こえるのである。>とか<二人の客の帰った 迹あとは急にひつそりした。旭町の太鼓はいつ か止んでゐて、今まで聞えなかつた海の鳴る 音がする。>と当時のこの辺りの静かさが描 かれているが、今は小倉で最も賑やかな街角 の一つである。

 碑を見たら、駅前広場から真っ直ぐ南へ延 びる道の左側(東)を南へ歩こう。二百五十メートルも行った曲がり角の所に、「左 二百メートル・森鴎外旧居」の標識がある。
左に曲がり真っ直ぐ二百メートルも行った三 つ目の交差点の右向こう側の角に「かじまち薬 局」がある。その先右側が森鴎外旧居(鍛冶町 一−七−二)である。

森鴎外旧居

道路脇に「森鴎外旧居」の石柱がある。門を 入った左に案内板がある。
<森鴎外が旧陸軍第十二師団軍医部長として小倉に勤務(明治 三十二年六月〜三十五年三月)したおり、初 めの一年半を過ごした家。鴎外はこの家で軍 務のかたわら「我をして九州の富人たらしめ ば」「鴎外漁史とは誰ぞ」などを書き、また 「戦論」「即興詩人」の翻訳を手がけている 。
東京に帰ってから書いた小説「鶏」はこの 家を舞台にしたもので、間取りや庭の様子を かなりくわしく描写している。/開館 十時 〜十六時三十分/休館 月曜日及び祝日年末 年始/入館料無料>と書いてある。

 正面の玄関の左脇には、中村晋也作の鴎外 胸像がある。室内には入れないが、通り抜け の土間や庭から部屋の内部も十分に見学でき る。<生垣で圍んだ、相応な屋敷である。( 中略)真中に大きな百日紅の木がある。垣の 方に寄つて夾竹桃が五六本立つてゐる。>と 「鶏」に書かれた邸内を、「鶏」に登場する 様々な人々を思い浮かべながら歩くのも、面 白かろう。庭の南隅には、「鶏」に出てくる 馬小屋・別当部屋の跡もある。

森鴎外旧居と鴎外像

 旧居前の道を西へ真っ直ぐ行けば鴎外橋を 渡って小倉城に行けるが、折角小倉に来たの だから、少し回り道をして小倉城へ行こう。

 かじまち薬局の角を左(南)に曲がり、真 っ直ぐ南へ二百メートルも行くと、左側に堺 町公園がある。その公園の南或、東西に走る 大通り小文字通りを背に、「ホトトギス」の 女流俳人杉田久女の句碑が立っている。
<花衣ぬぐやまつはるひもいろ/\>と達筆で彫 ってある。近くに住んでいたゆかりによる。

 久女の句碑を見たら、公園の南の大通りを 渡って、さらに南へ進もう。三百メートルも 行くと、途中古船場公園の脇を通って、神岳 川に至る。川の手前を川沿いに右へ曲がり、 二百メートルも行くとホテルニュー田川の先 の角に、「無法松の一生」の碑がある。

中央に、作者岩下俊作の書で「無法松之碑」と彫 られ、その左手前の太鼓形の碑面には、<古 船場町の人富島松五郎は無法松の名をもって 知られたがその性純情にして清爽、哀切の生 涯は我等の胸を打つものがあった 無法松は 岩下俊作の詩と夢の世界に生まれた永遠の人 間像である。市井の歌である。美と愛の精神 である。/劉寒吉識>と彫ってある。

「無法松之碑」

同じく右手前の碑面には、<古船場三丁目−−独身 者の松五郎が住んでいた町でこの町は俥夫羅 宇の仕替香具師土方等の自由労働者達が大勢 住んでいた そしてこの町には木賃宿が三軒 もあって 渡り鳥の様に町から町へ漂白する 猿回し オイチニの薬売り 山伏等がいつも 一杯だつた/富島松五郎伝より>と「無法松 の一生」の原作の一節が彫られている。

 「無法松之碑」を見たら、碑の前の神岳川 に沿ってさらに北西に進もう。モノレール小 倉線の下を潜り、二百メートルも行くと旦過 橋の所に出る。大通りを越えると、橋の袂か ら北に魚町の市場街が延びている。市内でも 最も活気のある通りの一つである。二百メー トルも行って左へ曲がり、東映会館井筒屋の 南前を通って行くと、紫川にかかった鴎外橋 に出る。人だけが渡れる橋である。橋を渡っ た先に鴎外の碑がある。

森鴎外碑

 碑は、六角柱の形をしている。これは、「 独身」の最初の章で<常磐橋の袂に円い柱が 立つてゐる。これに広告を張り付けるのであ る。赤や青や黄な紙に、大きい文字だの、あ らい筆使ひの絵だのを書いて、新しく開けた 店の広告、それから芝居見せものなどの興行 の広告をするのである。>と書かれた広告塔 の形に模したのである。
各面に鴎外の作品の一節が彫られている。
例えば、一面には、<私は豊前の小倉に足かけ四年ゐた/「二人の 友」より>と彫ってあり、また一面には、< 明治三十四年九月四日/夕 常磐橋上所見/  稲妻を遮る雲のいろの濃き/夜 雷雨      鴎外森林太郎/「小倉日記」より >と彫ってある。

 常磐橋は、鴎外橋から紫川に沿って三百メ ートル北へ行った所に掛かってある。「鶏」 にも度々登場する、鴎外と関わりの深い橋だ。

 鴎外の碑から、北九州市役所の北の城内公 園を横切って行くと、小倉城に出る。天守閣 の南の方には、第十二師団司令部の正門が残 っている。鴎外が、毎日通った門である。天 守閣は、九州民芸資料館になっており、見晴 らしも良いので、登ってみると良いだろう。

第十二師団司令部跡

 天守閣を見たなら、城の北の端に続く堀に 沿った道を、西へ行こう。城跡を離れ、大門 一丁目を西へ二百メートルも行くと、広い通 りに出る。向こう側に渡り、ちょっと右へ進 み、すぐ左に曲がって少し行くと安国寺(小 倉北区堅町一−二−十三)がある。
「二人の友」の<安国寺さん>、「独身」の<寧国寺 さん>こと玉水俊〓(しゅんこ)が住職を勤めた寺で ある。鴎外も度々訪れ、「小倉安国寺の記」 「小倉安国寺古冢(こちょう)の記」などを書いてい る。

 安国寺を見たら、城跡に戻り北へ行けば、 西小倉駅である。元の小倉駅で、鴎外は明治 三十二年六月、この駅に降り立ったのであっ た。東に一駅行けば、現在の小倉駅に戻る。

 なお、小倉駅の南東約二キロ、足立山の山 裾の寿山町の福聚寺や、妙見町の妙見神社な ども鴎外はよく訪れている。時間の余裕のあ るときは、訪れてみたい。

 小倉時代の鴎外の姿は、「小倉日記」に詳 しい。松本清張の「或る『小倉日記』伝」と時代の違う二つの作品を繙きながら、小倉やその周辺の地域を歩くのもよかろう。


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中央大学文学部文学科国文学専攻
渡部芳紀研究室