小樽と伊藤整 

               渡 部 芳 紀



 小樽は、伊藤整の出身地だけあって、「海の見 える町」「若き詩人の肖像」「幽鬼の町」ほ か多くの作品の舞台となっている。主たる舞 台を廻ってみよう。

駅前の通りを真っ直ぐ北 へ運河の中央橋へ向かうと三百メートルも行 つた角が
<駅前の通りである第二防火線が、 稲穂町の第一大通りと交差する左側の角にあ るこの市の唯一の洋風ホテルである北洋ホテ ル>「幽鬼の街」のあった所。現在、ガソリ ンスタンドとグリーンホテルになっている。

真っ直ぐ五百メートルも下れば小樽運河であ る。小樽運河は現在もっとも小樽観光のメッ カなので「幽鬼の街」では脇役だが訪れよう。

小樽運河

運河にかかった中央橋から一つ東の浅草橋ま でが運河観光の中心である。運河に沿つて東 へ遊歩道を進めば二百メートルほどで浅草橋 に至る。この浅草橋から南へ延びる道が第一 防火線である。交差点を南へ渡ったすぐ右 角は政寿司の運河店。食事時なら寄りたい小樽 を代表する店である。その先にペテルブルグ ミュージアム(旧北海道拓殖銀行小樽支店)があ る。小林多喜二の勤めていた銀行だ。その先 の交差点の右向こうに小樽郵便局、左手前角 に旧三菱銀行小樽支店、左手向こうには、旧 第一銀行小樽支店がある。「幽鬼の街」でも もっとも主要な舞台である。

作品では
<右は色内街へ出る角で北海道拓殖銀行、左は堺町 の角で三菱銀行支店があり、その五階には小 樽商工会議所がある。向角の右には小樽郵便 局の低い二階建の古色蒼然たる玄関があり、 左角には白亜の現代風な第一銀行小樽支店が 聳えている。現在は金融資料館になって見学できる。金庫などは、見物である。
 その並びに沿って坂を上がれば、 為替貯金支局があり、日本銀行小樽支店(が四 隅に塔のある大きな姿態で蹲まっている。こ こは商業都市小樽の中心地なのだ。>と描写 されている。

日銀小樽支店

今日、ここに描かれた全ての建物が保存されているのでこの辺りは時間 をかけてゆっくり見物したい。なお付近には 「幽鬼の街」とは直接は関係ないながらも多 くの古い建物が保存されているので一緒に鑑賞 したい。日本銀行は道路の左側(南)、そ の真向かいにあるのが旧為替貯金局、現・小 樽文学館・美術館である。

ここで小樽文学館 に入り小樽と近代文学との関係の概略を押さ えておきたい。伊藤整、小林多喜二を初め小 樽と関わりを持った多くの文学者の展示がな されている。

小樽文学館

日銀の北側の通りを東へ七百メ ートルも行くと寿司屋通りを過ぎて水天宮と 小樽公園を結ぶ公園通りに出る。北へ登れば 水天宮に至る。
<石の鳥居をくぐり、やがて 胸を着くような高い白い石段を攀登(よじのぼ)って 行った。石段の頂上には郷社水天宮があり、 (中略)小樽港が一望に見渡された>。
水天宮正面の階段脇には石川啄木の歌<かなしきは小 樽の人よ詩よまぬ声のあらさよ>を彫った歌 碑がある。この公園通りを南へ突き当たれば 小樽公園である。

水天宮啄木歌碑

日銀のある第一防火線の東 の寿司屋通りの下を妙見川が流れている。多 くの幽鬼の顔が<後から後からと川のせせら ぎの面に浮かび消えた。>と描かれた川だ。 いまは上流と運河に近い下流とが水面を見せ ているだけである。

日銀前の第一防火線を南 へ緩い坂を登って行けば不動銀行、北門銀行、 大黒屋などの舞台の跡を通り、さらに鉄道を越 えて南へ登れば右手に小樽警察署、左手に入 つた所に稲穂小学校がある。
小樽警察署は小林多喜二の「一九二八・三・一五」の舞台 である。稲穂小学校では、芥川龍之介が講演をしている。
稲穂小学校の東側の道を北へ進めば 地獄坂を経て小林多喜二の学んだ小樽商業高 校、さらに登れば伊藤整の学んだ小樽商科大 学がある。

小樽商業高校の前から右手に走る 道を登ると旭展望台に至る。小樽市街を一望 出来るのでぜひ訪れたい。
展望台の背後の広 場には小林多喜二の大きな碑がある。北海道 主審の本郷新作の多喜二の顔の像を配した碑 である。

小林多喜二碑

 稲穂小学校の北側の道を東へ行けば小樽公 園である。入った取っつきに石川啄木の歌碑 がある。

小樽公園啄木歌碑

公園の南に沿って花園小学校がある。 「幽鬼の街」にも取り上げられている整が芥 川龍之介の講演を聞いた所だ。

市街北西域では手宮公園を訪れたい。「若き詩人の肖像」 で、恋人と逢引きする所。緑の美しい高台の 公園である。
公園の先には、「江差追分」に出てくる高島港がある。

その他市内 には「幽鬼の街」「若き詩人の肖像」ほか伊藤整の 多くの作品にゆかりの地がある。時間の範囲で 廻りたい。

 小樽の西隣の塩谷では、バス停塩谷待合所 で下りて西へ国道五号線を行くと左に伊藤整 文学碑の案内が出てくる(余市方面からだと 標識がない)。国道から斜めに左へ坂を登っ て行くと右手に伊藤整の文学碑ある。ゴロタ の丘の碑だ。前には国道を隔てて塩谷の海が 広がっている。

伊藤整碑

国道に戻って東へ5〇〇メー トルも行ったバス停塩谷小学校下から少し小 樽より北海道信用金庫の塩谷支店の向かい (国道の西脇)が伊藤整の実家の跡である。最近 取り壊され今は新たな工事が行われている。バス停から南へ200メートルも登ると伊藤整の学んび、校歌も作っている塩谷小学校がある。(一九九五年七月末現在)

時間の余裕のある ときは西の忍路や蘭島まで足を延ばすと整 の青春時代の舞台を味わえることであろう。

忍路 小樽市西域の港。「若き詩人の肖 像」の舞台。
<淋しいところながらも、妙な 魅力のあるところであった。それは、湾が小 さく美しく、ひっそりとしている事にもよる であろう。両側は黒い崖になり、前浜だけ白 い砂が、小さな波に洗われている。だが、や っぱり古くから人がここに集って、栄えた後 だ、というような一種の味わいが、どことな く淋しい家並や自然のありかたの中に漂って いる。>「忍路と高島」

蘭島 小樽の西域の海岸。<北海道の代 表的な海水浴場である。>「北海道の旅」

資料「伊藤整と小樽」
明治39年4月 伊藤整が二歳の時、松前より忍路(おしょろ)郡塩谷 村伍助沢番外地に転入。
42年     同塩谷村八十五番地(現・塩谷一の十三)に転居。
明治44年4月 塩谷尋常高等小学校入学。
大正6年3月  同校を首席で卒業。
4月、北海道庁小樽中学校(現・潮陵高校)に進学。 小樽区緑町一丁目三番地の小学校の同級生小 林北一郎の家に寄寓。後、潮見台町、緑町に 姉照と自炊生活。
大正8年7月から14年3 月、小樽高等商業高校卒業まで塩谷の自宅か ら汽車通学。
大正11年4月、小樽高等商業 高校(現・小樽商科大学)入学。一年上に、 小林多喜二、高浜年尾がいた。
大正14年3 月、同校卒業。
4月、小樽市中学校(現・長 橋中学校)教諭となる。初め、自宅から通っ たが、夜間の補習の教師も兼ね、市内東雲町、 のち富岡町に止宿。
市内坂本町に小樽中学校 の新校舎落成と同時に同校宿直室に寄宿。
昭 和2年4月、東京商科大学に入学したが休学に し、教員を続ける。この頃、塩谷百五十番地 に転居。
5月20日、市内花園小学校で改造 社主催の芥川龍之介、里見××のの講演を聞 く。
昭和3年3月、小樽市中学校教諭を辞し、 4月、上京。
昭和13年7月下旬、「セルパン」の文化講演「非常時の文学」のため春 山行夫、阿部知二らと帰郷。
昭和16年7月、母の見舞いに訪れる。
昭和21年4月、北海道大学予科講師をなり郷里に移る。
7月、杉並に戻り、9月、北大を辞任。
昭和30年9月頃、『小説新潮』の「作家故郷へ行く」 の取材のため家族をともなって帰郷。母校塩 谷小学校の校歌を作詞する。
昭和36年7月28日、母危篤の報に帰郷。8月1日、 母タマ逝去。初七日まで滞在。
翌37年7月末、母の一周忌のため訪れ、初めて母の出 身地松前町白神を訪れる。
昭和40年10月9日、旭展望台にたった小林多喜二文学碑除幕 式に瀬沼茂樹と参列。


◎リンク

塩谷小学校
伊藤整が学び校歌も作っている塩谷小学校のホームページ。
小樽のけんたろさんの「私設弓道場」
伊藤整が小樽高等商業(現小樽商科大学)時代属した弓道部の後輩の作っているホームページ。
小樽と石川啄木

石川啄木を歩く


「名作のふるさと」ホームページ


中央大学ホームページ

中央大学文学部ホームページ


中央大学文学部文学科国文学専攻
渡部芳紀研究室