軽 井 沢 を 歩 く  

               渡 部 芳 紀


追分の樹下思惟像


堀辰雄と関わりの深い軽井沢を歩いてみよう。

先ずは追分駅北西一・五キロの所にある堀 辰雄文学記念館を訪れよう。
ここは堀辰雄終 焉の地である。昭和二十八年五月二十八日、 この地の自宅で帰らぬ人となった。今その終 焉の家を中心に堀辰雄文学記念館がある。

旧中山道から南、落葉松の並木の小道へ入ると 右手に記念館管理棟がある。三百円を払って 中に入る。(この三百円には三笠ホテルや追 分郷土館の入館料も含まれている。)ここは 常設展や特別展をやる場所だ。奥には堀家か ら寄贈された堀の蔵書も収められている。

管理棟を見たら外に出て管理棟の東南に接し て立つ堀終焉の家を見よう。四畳半と三畳の 二部屋の小じんまりした家だが堀が晩年の二 年を過ごした家だ。中には入れないが南から ガラス戸越しに十分内部の様子が見て取れる。 籐椅子や家具も当時のものが置かれている。

堀辰雄終焉の家


家の東前にある明るく白い建物は堀辰雄の常 設展示館だ。堀の生い立ちを生まれから死ま で六つのコーナーに分けて展示している。未 亡人の堀多恵子さんから寄贈された堀ゆかり の品々も展示されている。あとで高原文庫で 見学できる堀の住んだ別荘の模型も置かれて いる。

堀辰雄記念館・展示館


特に注意して見て欲しいのは、建物の 南側にサンルームのように作られたコーナー の壁に張られたパネルである。そこには軽井 沢と堀との関わりを克明に地図に書き込んで ある。四つの別荘の位置や彼がよく宿泊した 旅館ホテルなど詳細に元の写真も添えて展示 してある。今回、これを見たくてまず最初に ここを訪れたのである。水源地の別荘(八三 五番)、水車小屋別荘(六三五番)、第三の 別荘(六五三番)、第四の別荘(一四一二番 )と詳しく記述されている。それらの別荘の あった位置やゆかりの地を確かめた後軽井沢廻 りに出たいものである。

メモをとったり位置 を確かめたら展示館を出て中庭を見よう。広 い庭は芝生におおわれ安らぎの場となってい る。庭の西側に堀の設計した書斎が立つてい る。南と西を塞いだ独特の建て方だ。残念な がら堀はこの書斎の完成を見ずに世を去って いる。

(この項、堀辰雄文学記念館安川 館長に大変お世話になった。記して感謝いた したい。なお記念館の電話は〇二六七−四五 −二〇五〇である。駐車場は旧道の向かい側 に一〇台ぶんほどの広さのものがある。)

 堀辰雄文学記念館を見たら次に旧道を西へ 少し行った油屋旅館を訪れよう。今は道の北 側に移転しているが堀や立原道造が訪れた頃 は、道の南向かいにあった。旧館は、昭和一 二年夏、火災で焼失した。当時滞在していた 立原は命からがら脱出したという。堀はたま たま軽井沢の川端康成の別荘に行っていて助 かった。なお一時堀が滞在した油屋の離れは 現油屋の東隣にある。油屋と追分を素材にし て「ふるさとびと」が書かれている。

旧中山道をさらに西へ行くと旧本陣跡と高 札場跡がある。さらに西へ進めば泉洞寺があ る。寺の山門を入らないでその手前から左 (西)へ入る小道を道なりに寺の西側に沿つ て行くと道は北へ向かいすぐ右手前方に同寺 の墓地が見えて来る。墓地に入つたすぐ右 手脇に小さな石の仏が座っている。

<その藁屋根の篩寺の、木ぶかい墓地へゆく小径のか たはらに、一体の小さな苔蒸(こけむ)した石仏が、 笹むらのなかに何かしをらしい姿で、ちらち らと木洩れ日に光つて見えてゐる。(中略) いかにもお粗末なもので、石仏といつても、 ここいらにはざらにある脆い焼石、−−顔も 鼻のあたりが欠け、天衣などもすつかり磨滅 し、そのうへ苔が半身を被つてしまつてゐる のだ。右手を頬にあてて、頭を傾かしげてゐる その姿がちよつとおもしろい。(中略)無心 な姿勢だ。(中略)そんな笹むらのなかの何 でもない石仏だが、その村でひと夏を過ごし てゐるうちに、いつかその石仏のあるあたり が、それまで一度もさういつたものに心を寄 せたことのない私にも、その村での散歩の愉 しみのひとつになつた。>「樹下」と描かれ ている石仏である。

「樹下」の石仏


 旧道に戻ってさらに西へ進むと国道十八号線 に出る。その北の角には
<村の西のはずれに は、大名も下乗したといわれる、枡形(ますがた)の 石積がいまもわづかに残つてゐる。>「ふる さとびと」と書かれた枡形の位置にある「つが るや」がある。今は枡形は無くなってしまった が、その位置を示す枡形ゆかりの店「つがる や」は昔の名残をわずかながらとどめている。 国道を五十メートルも西に進むと右手に小諸 方面に向かう道が分れている。国道の南には 旧中山道が分かれている。

ここは<その少し先のところで、街道が二つに分かれ、一つは 北国街道となり、そのまま林のなかへ、もう 一つは、遠くの八やつヶ岳たけの裾すそまでひろが ってゐる佐久さくの平たひら を見下ろしながら中 山道なかせんだうとなつて低くなつてゆく。そこの あたりが、この村を印象ぶかいものにさせて ゐる、「分去わかさ れ」である。/その分去れ のあたり、(中略)供養塔くやうたうななどがいく つも立つていたりしてゐる。>「ふるさとび と」と書かれた「分去れ」である。

 堀辰雄文学記念館を中心に追分を見たら、 次に中軽井沢駅の南二、三キロの所にある塩 沢湖の近く(東南)にある軽井沢高原文庫を 訪れよう。

軽井沢高原文庫


同文庫は軽井沢にゆかりの深い文 学者を中心としてとりあげ展示をしている。 入口手前の左側には室生犀星の筆跡で軽井沢 高原文庫と書いてある。文庫の手前左の小川 の辺には立原道造の詩碑があり、右手には野 上弥生の書斎が移築されている。また文庫の 前、道を隔てた向かい、駐車場の脇上に有島 武郎の別荘浄月庵が移築されている。

文庫の二階が展示室になっており、軽井沢に関わり のあった作家たちの展示がされている。時々 特別展も行われ多彩な展示を行っている。

 展示室の裏に抜けると林へ出る。右手へ進 と堀辰雄の第四の別荘が移築されている。バ ンガロー風の洒落た建物だ。

堀辰雄第四別荘


 時間の余裕がある時は、中軽井沢の東、国 道沿いにある軽井沢町図書館・資料館でも文 学資料が見られる。

 これらの記念館で堀や軽井沢と近代文学の 関わりの情報を得たらいよいよ軽井沢の中心 に向かおう。

 軽井沢の駅から北に真っ直ぐ道が延びてい る。まずは私も北へ進もう。
 この軽井沢駅前は、堀の「ルウベンスの戯 画」の冒頭の舞台である。

<それは漆黒の自 動車であつた。その自動車が軽井沢ステエシ ヨンの表口まで来て停と まると、中から一人 のドイツ人らしい娘を降ろした。彼はそれが あんまり美しい車だつたのでタクシイではあ るまいと思つたが、(中略)車の方へ歩いて 行つた。>と作品は始まる。私もバスかタク シーで北へ向かおう。

 北へ二キロも進むと右斜めに入る道がある。 ここを入って一キロちょっと行くと万平ホテ ルである。
この入り口が<彼はそこまで来る と自動車を停めさせた。/自動車は町からす こし離れたホテルの方へトランクだけを乗せ て走つて行つた。>「ルウベンスの戯画」と ころだろうか。

<彼はゆつくり歩きながら本 町通りへはいって行つた。本町通りは彼が思 つたよりもひつそりしてゐた。(中略)彼は しかしすぐに見おぼえある郵便局を見つけた。 >とあるのはさらに北へ進み、旧軽井沢ロー タリーの所から右斜めに曲がって五、六百メ ートルも行った右手にある現在の軽井沢観光 会館のこと。道は旧中山道である。

観光会館 の手前の道を右に曲がり二百メートルも行く と軽井沢会テニスコートにぶつかる。美智子 妃殿下と現天皇陛下とが恋を実らせた所。 「麦藁帽子」の舞台でもある。<有名な詩人(室生犀星) に連れられて、或る高原へ行つた。(中略) テニスコオトの付近は、毎日賑(にぎ)やかで、ま るで戸外舞踏会が催されてゐるやうだつた。 >と描かれている。

 テニスコートの南の道を東へ進めば万平ホ テルに到る。途中百メートルも行って左(北) へ入る道があったら左に曲がろう。すぐ小さ な川を渡る。標識があるので幸福の谷の方向 へ進もう。斜め前方へ道なりに入って行く。 左に入る道の二本目の所に案内標識が沢山指 してある。そのなかにHAPPY VALL EYの矢印もある。その二つ目の小径を左 (北)へ入って行く。石畳風の美しい道であ る。ここが桜沢、愛称幸福の谷である。この 道の先左手に川端康成の別荘があった。油屋 を焼きだされた堀は川端の別荘で冬を越して いる。

幸福の谷


この幸福の谷は、「風立ちぬ」の最後 の章「死のかげの谷」で<私の借りた小屋は 、その村からすこし北へはひつた、或る小さ な谷にあつて、そこいらには古くから外人た ちの別荘があちこちに立つてゐる。−−なん でもそれらの別荘の一番はずれになつてゐる 筈だつた。(中略)外人たちがこの谷を称し て幸福の谷と云つてゐるとか。(中略)死の かげの谷。・・そう、よつぽどそう云つ方が この谷には似合いそうだな>と初めは描き、

最後には<私の前方に横(よこ)た わつてゐるこの 谷のすべてのものは(中略)私にはその何も かもが親しくなつている。この人々の謂(い う) ところの幸福の谷−−そう、なるほどこうや つて住み慣れてしまへば、私だつてそう人々 と一しよになつて呼んでも好いやうな気がす る位だが、・・此処ふぁけは、谷の向ふ側は あんなに風がざわめいてゐるといふのに、本 当に静かだこと。>と幸福の谷の愛称を肯定 して結んでいる。この幸福の谷の入口のすぐ 東は万平ホテルの西に接している。

 万平ホテルは、「ルウベンスの戯画」<彼 は客間の窓から顔を。出して中庭に咲いてゐ る向日葵ひまわりの花をぼんやり眺めてゐた。> や「聖家族」<軽井沢のマンペイ・ホテルで 偶然、彼女は九鬼に出会つたことがあつた。 (中略)ホテルでは、夫人の部屋は二階にあ つて、向日葵ひまわりの咲いてゐる中庭に面して ゐた。>、「ふるさとびと」、「菜穂子」の 舞台である。

 万平ホテルから南へ真っ直ぐ進み五百メー トルも行くと小川がある。その川に沿って左 岸を道が南へ下っている。この道はささやき の道またの名をアカシアの道という。南へ少 し行った左手(東側)に旧サナトリウムがあ った。このサナトリュウムの前後の道は堀辰 雄の愛した道だ。

アカシアの道


<サナトリウムの裏の生け 垣の前は何遍も行つたり来たりしたけど、 (中略)其處そこから先きの、その生け垣に代 つてその川べりの道を縁どりだしてゐるアカ シアの並木には、ついぞ注意をしたことがな かつた。ところが或る日のこと、サナトリウ ムの前まで来かかつた時、私の行く手の小径 こみち がひどく何時いつもと変つてゐるやうに見 えた。(中略)アカシアの並木は何処まで行 つても尽きないやうに見えた。>「美しい村 」と描かれている。

旧サナトリュウムの裏の 道を東へ辿った1412番に堀第四の別荘が あった。先程高原文庫で見た建物である。

 観光会館(旧軽井沢郵便局)前に戻ろう。
 観光会館前から北へ二、三百メートルも行 けば<b>つるや旅館である。軽井沢でも特に主 要な所である。その手前の道を左に曲がれば 片山広子(松村みね子)の別荘や愛宕山に到 る道に続く。<向ふの曲り角を一人の少女が 曲がつて行つた>「ルウベンスの戯画」道で あろう。そちらは後ほど廻ることにして、ま ずはつるや旅館に行こう。

 つるやには、芥川龍之介、谷崎潤一郎、堀 辰雄、松村みね子(片山広子)など多くの文 人が泊まっている。芥川が木登りする映画の 一こまがあるがその舞台はつるやである。 「美しき村」を初め堀の作品にも度々登場す る。特に「美しき村」では主人公が泊まって いる所として大事な旅館だ。

<そんな(注−秋の)寂しさがこの六月の高 原にはまるで無いことが何よりも僕は好きで す。(中略)何ともいへず爽やかで幸福です。 (中略)私は村はずれの宿屋に帰って来た。 私がその宿屋に滞在する度にいつも私にあて がわれる離れの一室。(中略)藤棚の下では 村の子供たちが輪になつて遊んでゐた。> 「美しい村」 <僕のいま起居 してゐるのはこの宿屋の奥の離れです。(中 略)縁側から見上げると、丁度、母屋の藤棚 が真向ふに見えます。>「美しき村」。

つる やも油屋同様火災で焼けその離れも失われた が場所は同じ所にあり藤棚も健在である。つ るやの西端を北から南へと小川が流れている がそれを上へ辿れば旧水車場址に到る。

 つるやの西は後で廻ることにしてまずは中 山道を北へ辿ろう。つるやの前の道を北へ行 くと二百メートルほどで川を渡る。道は真っ 直ぐ碓井峠に向かうが川沿いに左に曲がって 行くと二百メートル位先の左手(川の左岸) に室生犀星の詩碑がある。堀を軽井沢に結び 付けた人として大事な詩人である。テニスコ ートの所で触れたように「麦藁帽子」に登場 する。

もとに戻って中山道を上り碓氷峠に至 る。
<その村の東北に一つの峠があつた。そ の旧道には樅もみや山毛欅ぶななどが暗いほど鬱 蒼うつさうと茂つてゐた。(中略)私は例の気ま ぐれから峠まで登つた帰り途、その峠の上に ある小さな部落の子供等二人と道づれになつ て降りて来たことがあつた。>「美しき村」

 峠には熊野神社があり石の風車が奉納され ている。山口誓子の句碑もある。峠をやや下 ったところにある展望台にはタゴールの碑が ある。

 つるやに戻ろう。つるやの前の道を北へ五 〇メートルほど進み最初の道を左に曲がる。 百メートルも行くと小さな流れを渡る。その あたりが水車場趾である。今はつるやの駐車 場になっているあたりである。その北付近に 堀の第二の別荘があった。つるやの駐車場の 西側の道を北へ辿れば水源地にいく。堀の第 一の別荘のあったところだ。

水車場趾から道を西南に辿れば本通りの一本 西の通りを行くことになる。堀が水車の道と 命名した道だ。南へ下り左(東から来た細道 との交差点に右手(西)へ行くところに沢山 の名札が案内としてでている。そこを西に曲 がれば愛宕方面に進む。すぐの道を右(北) へ曲がればまず右手に片山広子の別荘がある。 その前(西)に堀辰雄三番目の別荘(六百五 十三番)がある。

 水車の道から曲がって来た道に戻り標識に 従って北へ進めば愛宕山到る。道は途中から 愛宕神社の参道になる。

<或る小高い丘の頂 にあるお天狗てんぐ 様のところまで登つてみよ うと思つて、私は、去年の落葉ですつかり地 肌じはだ の見えないほど埋まつてゐるやや急な 山径やまみちをガサガサと音させながら登って行 つた。>。

頂上近くに愛宕神社がある。その 背後は縦に割れた(柱状せつり)岩が立った 絶壁になってゐる。作品では「巨人の椅子」 となっている(巨人の椅子は軽井沢駅の東南 の矢ヶ崎山にある。)が現在はオルガン・ロ ックと呼ばれている。

 水車の道に戻り南へ辿れば神宮寺の裏を通 り<b>聖パウロカトリック教会の前に出る。「美 しき村」「風立ちぬ」などに登場する軽井沢 で最も知られた教会だ。

 最後に町の西の方にある雲場池を訪れよう。 静かな澄んだ池である。 <昨日の夕方、軽井沢から中山道を自動車で 沓掛(くつかけ)、古宿(ふるじゆく) 、借宿(かりやど)、それから 追分(おひわけ)と、私の滞在してゐる村まで帰つて きたが、その古宿と借宿との間には高原のま ん中にぽつんぽつんと半ばこはれかかつた氷 室がいくつも立つていて、丁度いまそのあた り一面に蕎麦の白い花が咲きみだれてゐて、 何とも云へず綺麗だつた。(中略)十四年の 夏(中略)私はよく芥川さんのお伴をして峠 や近所の古駅などを見てまはつた。ことにい ま私のゐる追分宿などが、すっかり疲れ切つ たなりに、昔の面影をそつくりそのまま残し てゐるので一番お気に入られてゐたやうであ つた。軽井沢のやうなハイカラなところも一 方ではお好きらしかつたが・・(中略)軽井 沢ホテルで売残りの犬のオークションをやつ たことがあつた。有名な犬嫌ひの芥川さんも 私を連れてそれを見に往かれた。>「高原に て」

<この山麓では、九月はたいへん雲が多い。 (中略)雲は絶えず西から東へとときどき日 かげを翳らせながら流れてゆく。さういう雲 のなかから、浅間山もたえず見え隠れしなが ら、ときどきその全貌をすつきりと爽やかに 見せたりする。山肌はいよいよ黄ばみ、夏な どもつと多いを思つてゐた煙が、思いがけず、 殆どあるかないか位にしか立つてゐなかつた りする。ーーがさういふ時くらゐ、浅間山が 魅惑的に見えることはない。日がぱあつと当 たつて、それがまだ何者をも温めてゐない、 もうかなり肌寒いやうな朝など、(中略)浅 間はきまつて雲ひとつない山肌を冷え冷えと 見せてゐる。その山肌一めんに日が赤あかと あたり出すのを眺めてゐると、山自身が見る 間に淡い雲を湧き立たせ、ヴェイルのやうに 漂はせ、だんだんそれが濃くなつていつて、 しばらくする裡に自分自身を半分以上その雲 のなかに隠してしまふ間それから終日、その なかに見え隠れしてゐる。(中略)その浅間 も、追分の供養塔などの立ち竝んだ村はづれ ーー北国街道と中山道との分わ か去さ れーー に立つて真白な花ざかりの蕎麦畑などの彼方 に眺めやつてゐると、いかにも穏やかで、親 しみ深く、毎日慣れてゐる私の裡にまでそこ はかとない旅情を生ぜしめる。>「初秋の浅 間」


リンク


軽井沢文学サロン
軽井沢とその周辺をとりあげた作家と文学作品を網羅的に纏めた凄いホームページ。
京都外国語大学図書館の「百年前の日本と世界」
今から100年前、1904(明治37)年に生まれた堀辰雄の紹介があります。

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