北原白秋文学散歩

               渡 部 芳 紀


柳川の水路

あなたは(2000.2.13〜) 人目の訪問者です。


白秋の足跡をたどってみた。白秋のヱネルギッシュな行動力には恐れ入る。充分に書ききれなかったのが残念である。写真は千五百枚ほど撮った。それでもなかなか思うようにいかない。今回も多くの人のお世話になった。心からお礼を申し上げたい。


樺太
大正十四年八月、鉄道省主催の樺太観光団に加わり高麗丸で二週間の航海を楽しむ。その間、安別、真岡、本闘、豊原、大泊、敷香を巡遊し、<最後にその旅行 の主要目的地であつた海豹鳥の壮観に驚き>、オホーツクを南下して稚内に着いている。この旅行は、『フレップ・トリップ』として大正十四年十二月号から昭 和二年三月号まで『女性』に連載され、昭和三年二月、アルス社から刊行された。

真岡(現ホルムスク)


北海道
稚内 大正十四年夏、樺太からの帰り立ち寄 り、ここで樺太観光団と別れ、北海道を函館へと南下、途中、<旭川でアイヌの熊祭を観、札幌に逗留>(『フレップ・トリップ』「巻末に」)している。

深川
大正十四年夏、樺太からの帰途この地を訪れ一週間滞在している。市内一己町の丸山公園の西展望台に白秋歌碑がある。屯田兵によって開かれた水田を背に、 <一己の/屯田兵の村/ならし/やゝ夕づく/この眺望を>と「海阪」の一首が刻されている。深川駅の東側の陸橋を北へ渡りしばらく行って右手に入った左 側、寺の背後に墓地を兼ねた小高い円い丘がある。寺の手前の道を左へ登って行くとやがて白秋碑の前に出る。

小樽
大正十四年八月初句、鉄道省主催の樺太観光団に加わり樺太への途中高麗丸で小樽を訪れ、数日滞在している。<海岸には西瓜の山だ。丘だ。煙突だ、レールだ、そして防波堤だ。浮標だ。>(『フレップ・トリップ』)と描いている。

函館
大正十四年夏、樺太旅行の帰り、稚内から南下、函館に入っている。 <海を越えて当別のトラピスト修道院を訪ねた>り、汐首岬に 行ったりしている。『海豹と雲』の「汐首岬」では、<たうたうと波騒ぐ汐首岬、/鮮やけし、雑草の青、さみどり、/ああ、げに、いにしへのアイヌ・モシ リ、/言問へよ、今にして辺の岬岬>とうたっている。「朝−−トラピスト修道院」では、<揺りいづる鐸のかずの/六つあまり、七つか、八つ/夜はあけぬ、 麺麭類の粉かとも花は咲きて。/露ながら、人はあり、/いのりつつ、野に刈りつつ。/しづけさや、よき寺や/カトリコの朝弥撒や。/鷹のごと光るもの/山 の気に吹きながれて、/美しき八月や、/翼ただ海を指しぬ>とその感興を描いている。

トラピスト修道院


岩手県

盛岡
白秋の訪れの記録はない。市内梨木町二−一の伊藤方の庭に、故伊藤岩太郎氏によって立てられた玉詠六首碑があり、その右から二番目に白秋の<うゑまぜてし をりよろしき秋ぐさの/花のさかりを見て遊ぶなり>の歌が彫り込まれている。他には啄木、牧水、節、茂吉、利玄の歌が彫られている。もし眺めたい時には、 事前にはがきででも了承を得て尋ねたいものである。

花巻・平泉
昭和十五年六月、仙台の『多磨』東北大会に出たあと足を延ばしている。「金色堂を思ふ」と題し<閑かさは金色堂の庭にして湧井の桶口水滴りにけり>(『牡丹木』)と詠じている。

宮城県

仙台
昭和十五年六月、『多磨』東北大会に出席のため訪れている。そのあと松島、築館に回わっている。

福島県

福島
昭和八年十一月、講演のため訪れている。昭和十一年四月三十日作として「福島市歌」を作り、<東北の関門、/若き我が都市、/栄あれ福島、/我等 開かむ。>と、山田耕作作曲で歌われた。<冬日ぐれ文字摺石の傍遊ぶ子らが石蹴り音ひびきけり>(『夢殿』)の歌もその折の作である。

須賀川
昭和十八年四月に出された第十二歌集(遺歌集)『牡丹の木』の序は<須賀川の牡丹は木の古いので知られてゐるが、このほどその園主のしるべから焚木として そのひとくくりを送つて来た。冬夜牡丹の木を焚くといふことは、話には聞いてゐたが、それは何といふ高貴な雅びかと思はれる。眼を病む今の私にはいみじき 贈りものでないことはない。>とし、続いて<須賀川の牡丹の木のめでたきを瀘にくべよちふ雪ふる夜半に>ほか四首を掲げている。昭和十五年のことである。 白秋自身須賀川を訪れたわけではないが、眼疾に悩まされた白秋にとり須賀川の牡丹の香りはひとしお心にしみたことであろう。そのゆかりにより、牡丹園の正門を入って真すぐ進んだすぐ左手に美しい碑が立ち、前掲の歌が彫られている。この碑の先には原石鼎の句碑もある。牡丹やバラの季節に訪れるとよいだろう。
高速道からなら須賀川インターを出て一直線に東へ進んだ左側。駅からなら駅前通りを直進し、インターからの道を左へ回ってしばらく行ったところ。地元の人なら誰でも知っている名勝である。

茨城県

大津(北茨城)
昭和三年夏、大津町の小学佼で児童自由詩の講演を頼まれ訪れている。

五浦
昭和三年の夏、訪れ、天心の旧居天心荘に泊まっている。

水戸
昭和十年二月、水戸市歌作成のため訪れ、三月二十二日付で<東海、水は環る鹿島、/水戸あり、那珂は貫く。/弘道ここに興り/清明いよよ透れり>と作り山田耕作の作曲で歌われた。<円刈の幾むろ躑躅春あさし早や開けはなつ楽寿楼見ゆ(『渓流唱』)などの歌もある。

潮来
大正六年三月、『読売新聞』の「日曜附録」に「潮来の黎明」を発表し、<潮来は随分鶏の多い処だ><到る処の真菰><物音もせぬ古い寂しい街竝><潮来出 島も冬はたまらなく寂しい>と冬の潮来を尋ねた印象を描いている。大正十三年四月の『日光』には、「浅春舟行」の「微塵光」の中で<十二橋三つはくぐりぬ 糠星にせんだんの実の明る空見て><夜の靄に焚火する子の面あかりちかぢかと見つ潮来には来し>と詠じている。この頃も訪れたのだろうか。<靄ごもり鹿島 遊行ぞおもしろき蛙啼く田の間を榜ぎつつ>ともあり、鹿島にも回っているようだ。

栃木県

塩原
大正十二年八月八日頃、前田夕暮、吉植庄亮、橋田東聲らと訪れ、口語歌を残している。
「浴泉俯瞰」では、詞書で<塩の湯、対岸の岸壁の下、渓流のへりに場のわくところがある><この渓の湯は高い楼上より俯瞰する時に愈々仙家のものとなる>とし、
<裸婦ばかり、/渓の湯に寝て笑つてゐる、/天に小さな日が廻つてる。>ほかの口語歌を作っている。

宇都宮
大正十二年八月、塩原への途次、
雀の宮通過の際には、<雀の声だな、/雀の宮といふ駅だな、/やはり旅だな、/また発車だな。>と歌い、
宇都宮では、<旅さきで、講演をして、/暑い日だ、/のうぜんかづらが咲いて、/市街だ。>と詠じている。

西那須野
同じく《西那須野駅まで》では、<秋が来て/夏が去ります、/まつしろなかんぺうを干した/那須の野つ原>と歌っている。


那須温泉
昭和九年一月、家族と那須温泉に遊んでいる。

群馬県

前橋
大正四年一月に、朔太郎を訪れ大正十二年四月にも、碓氷峠を下ったあと、朔太郎を尋ねている。朔太郎は日の丸を掲げて歓迎したという。昭和十四年十一月中旬には、理研前橋工場を視察見学のため訪れている。

伊香保
昭和十四年十一月中旬、前橋から回っている。翌日には榛名湖畔に遊んでいる。

湯檜曾(水上)
昭和十四年冬、吟遊旅行で 訪れている。湯檜曾駅前から道を上ること五百メートルほどの左側に広々とした湯檜曾公園がある。その広場の中央に丸っぽい自然石が置かれ歌碑となってい る。<こごしかる/湯檜曾の村や/片谿と/目ざしたのめて/冬はありつつ>と、その折の歌が彫られている。昭和五十七年十二月に作られたもの。さらに上へ 登れば谷川岳を望める天神平ロープウェイ、さらに奥へはいれば、谷川岳一の倉沢にいたる。駅前の道を百メートルほど上った右手に与謝野鉄幹の歌碑もある。

磯部温泉
昭和十二年一月初め、大手拓次 『藍色の蟇』上梓を墓前に報告するため訪れ、磯部館に数日滞在している。磯部駅からまっすぐ北へ百メートルほど行くと磯部公園に 突き当たる。園内には大手拓次はじめ犀星、朔太郎など十四基の碑がある。公園の一番奥まった木立の中に、白秋の歌碑がある。<華やかにさびしき秋や千町田 の/ほなみがすゑを群雀立つ>の歌が彫られている。これは『雀の卵』の「葛飾閑吟集」中の一首。昭和三十九年立てられたもの。駅の方へもどり、小さな交叉 点を右(西)へ行くと万平ホテルに突き当たる。旧鳳来館で、大手拓次の出た家。入口に大きな拓次の碑が立っている。磯部を訪れたついでに廻わってみたい。

横川
大正十二年四月、大屋別所追分をへて碓氷峠熊の平から坂本まで徒歩で下っている。随筆「碓氷嶺」では、<碓氷の南がはにかかると、もう若葉の渦><ところどころはまた燃え立つばかりの岩躑躅>と叙している。
「碓氷の春」として、<碓氷嶺の南おもてとなりにけりくだりつつ思ふ春のふかきを><裏妙義つつじにほへり日の道やいただき近う寄り明るらし>など多くの歌を残している。
現在、旧横川駅の南下の国道沿いにある東軽井沢ステーションドライブインの駐車場の西の出入口附近南側に大きな白秋歌碑が作られ、<碓氷嶺>の歌が彫られている。車の通行の激しいところなので気を付けて跳めたい。時間の余裕があれば名物の釜めしを賞味するのもよいだろう。

千葉県

香取
大正十三年四月『日光』に「浅春舟行」の「深靄」として<香取より鹿島へまゐる舟の路物思はずあらむゆたかにも榜ぎ>とある。『海豹と雲』(昭4.8刊) には、「早春−香取神宮−」という詩をせ<槙のこずゑに、青鷺の/群れて巣をもつ幽けさよ。/空のはるかを、日の暈の/擬りかけつつ行き消えぬ>と描いて いる。香取を訪れた印象を踏まえているのであろう。


印旛沼
大正十二年五月中旬、千葉県歌人大会よりの帰り、古泉千樫、尾山篤二郎、橋田東声らと、吉植庄亮を尋ね、ともに吟行している。舟遊びをしたり、<村の若衆 笛や太鼓をはやして興をたすけ、一夜を酒に皆酔ひけるが、白秋その踊りのむれにまじり、自らも踊りて飽くなし。遂に自ら鰌となりて、鰌の踊ををどる> (「印旛沼吟行集」)という。「印旛沼展望」と題し<印旛沼家居とぼしき沼尻にも老木の楊絮深みたり>と詠っている。

木更津
明治四十五年秋、人妻松下俊子との苦しい恋から死に所を求めてこの地に船で渡ったことがあるという。<木更津へ渡る。海浜に出でてあまりに悲しかりけれ ば>と詞書し、<いと酢き、赤き柘榴をひきちぎり日の光る海に投げつけにけり>(「哀傷篇」『朱欒』大元・9。『桐の花』所収)という歌が作られている。

市川

 大正五年五月中旬、江口章子と結婚し、千菓県東葛飾郡真間(現市川市真間)の亀井院に寄寓した。京成線真間駅でおり、少し西に進んだあと北方へ入れば真 間の継橋から、手児奈堂にいたる。亀井院はその裏である。『雀の卵』の「葛飾閑吟集」の「序に代へて」で、<大正五年五月中旬、妻とともに葛飾は真間の手 児奈廟堂の片ほとり、亀井坊といふに、仮の宿を求む>と述べている。「薄野」と詞書きした<薄野に白くかぼそく立つ煙あはれなれども消すよしもなし>とい う佳歌をはじめ、「真間に移る」では<葛飾の真間の継橋夏近し二人わたれりその継橋を><葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花>と詠じ ている。真間の継橋は、現在は溝のような小水路の上に形ばかりかけられている。その北の右に手児奈堂がある。境内には吉田冬葉の句碑がある。
手児奈堂を北へ進めば弘法寺にいたる。水原秋桜子の句碑が山門の左に、高野素十の句碑が山門を入った右奥にある。弘法寺の裏にぬけ、西方へ江戸川べりまで行くと、高台になった里見公園に出る。
ここに、白秋旧居「紫烟草舎」が移築されている。江戸川の対岸からこの地に移したもの。

「紫烟草舎」


建物の南側に白秋歌碑があ る。<華やかに/さびしき秋や/千町田の/ほなみが/すゑを/群雀/立つ>と「葛飾閑吟集」の一首が白秋自筆で彫られている。
ここより江戸川の東岸をさかのばると本土寺にいたる。ここに伊藤左千夫「野菊の墓」の碑がある。
ここより西へ進み、江戸川べりに出れば、そこが矢切の渡しだ。対岸に渡れば柴又帝釈天に出られる。

船橋
昭和十五年十月七日、「船橋児童の歌」の依頼を受け船橋小学佼を訪れている。十一月一日に作詩が成る。その三番は、<天に聳ゆる無電塔/雲に連る 袖ヶ浦/かがやく希望ここにして/我等は挙る、たくましく>とある。ほかに、「裸童行進」と題し<雲母なす海見ゆといふ潮霧りて塩田の外は我眼暗きに>ほ か十七首の歌を読んでいる。

東京都

白秋と東京との関わりは、時間を迫って年譜風にたどってみる。彼がいかに引越をしたかよくわかると思う。

明治三十七年九月、牧水と牛込穴八幡下の清致館に同宿。

明治三十八年三月、高田馬場に一戸を借り、 ばあやの三田ひろを雇って移り住む。

明治三十九年晩夏、高田の奥の源兵衛村に移る。

明治四十年五月、千駄ケ谷に弟と住む。 同年年末、牛込北山伏町に転居。

明治四十一年十月末、神楽坂二丁目に転居。

明治四十二年十月、本郷動坂に移る。

明治四十三年二月、牛込新小川町3−34に移る。

明治四十三年九月、青山原宿に移り、隣家の人妻松下俊子と知りあう。この転居が後に白秋の運命を変えて行く。

明治四十四年二月、家を畳み木挽町二葉館で下宿生活を始める。

明治四十四年七月、日本橋蠣殻町の岩佐病院に筋肉炎手術のため入院。 同年十月、飯田河岸金原館に移る。同年年末、京橋区新富町の新富座裏に移る。

明治四十五年一月、母および妹家子上京、弟鉄雄と四人、浅草聖天横町に住む。同年五月、越前堀お岩稲荷の隣に転居。人妻松下俊子との苦しき恋が絶頂となる。七月に、俊子の夫から姦通罪で告訴される。同七月六日から二十日まで二週間、市ケ谷の未決監に拘置される。弟鉄雄の奔走により保釈となり、八月十日免訴放免となる。

(大正二年五月から大正三年三月まで三崎に住む)

大正三年三月三日、妻俊子および某家の姉妹とともに小笠原父島に渡る。<大わだつみの波にたゞよふ椰子の実のはてしも知らぬ旅もするかも>ほか多くの歌を残している。

同年七月、麻布十番の家族の家に帰る。

(大正五年五月中旬から葛飾の真間の亀井院に住む)

大正五年六月末、真間より江戸川の対岸の小岩村三谷(現・江戸川区北小岩8−30−17)に移り、紫烟草舎を創立。現在北小岩8−23−19の八幡神社の境内入口の右に歌碑が作られている。<いつしかに/夏のあはれと/なりにけり/乾草小屋の/桃いろの月>と彫られている。

大正六年六月、京橋区築地本願寺横に間借り生活を始める。 同年七月、木郷区動坂町三六四番地に移る。

(大正七年三月より大正十五年五月まで小田原に住む。)

大正十二年三月、前田夕暮、大木惇夫らと奥多摩の御岳に登っている。その際、奥多摩の風物を「多摩川上流の歌」として多数歌にしてい る。青梅市沢井2−770の小沢酒造を見学した印象を「多摩の浅香」の「造り酒屋の歌」として長歌と反歌を作り、『篁』に収録している。長歌では、<西多 摩の造酒屋は門櫓いかしく高く、棟さはに倉建て並め、殿づくり>と歌い、反歌として<西多摩の山の酒屋の鉾杉は三もと五もと青き鉾杉>と詠じている。この 反歌は昭和四十二年三月歌碑として作られ小沢酒造の庭に据えられている。

大正十五年五月、小田原から上京、下谷区谷中天王寺十八(現・谷中七丁目)の墓畔に居を構えた。

昭和二年三月、大森馬込緑ケ丘に転居。

昭和三年四月、世田谷区若林二三七番地(現 若林3−15−1)に転居。子息が成城学園に入学のため。ここに近い世田谷1−23−3世田谷信用金庫本店前に「ぼろ市のうちの碑」がある。<ぼろ市に/冬はまづしき/道のしも/桜小学に/通ふ子ら/はも>と横長の碑石に彫られている。

昭和六年五月、東京市外砧村西山野一八六九 (現・世田谷区砧6−13−18)に転居。

昭和十年八月三十一日、妻や知人と奥多摩小河内村をまわり、湖底に沈む村民の気持を「山河哀傷吟」「山河愛惜吟」「厳冬一夜吟」と合せて百六十一首作った。

昭和十一年一月二十八日、市外砧村喜多見成 城南十九(現・世田谷区成城l−32)に転居。

昭和十二年八月、高尾山薬王院で『多磨』第二回全国大会を開く。その際作った「高尾山薬王院唱」十七首の中の一首<我が精進/こもる高尾は/夏雲の/下谷うづみ/波と/なづさふ>が歌碑となっている。

高尾 山のケーブルかリフトの終点から参道を歩いて行った茶店の手前右(北)側にある。

同年十一月十日、駿河台の杏雲堂病院に入院。糖尿病および腎臓病による眼底出血と判明。翌年一月七日まで入院したが視力は回復しない。

昭和十五年四月、杉並区阿佐ケ谷五−一(現・ 阿佐谷北5−1−4)に転居。

昭和十七年二月、宿痾の腎臓病・糖尿病が悪化、慶応病院に入院。三月十八日、杏雲堂病院に移る。四月八日、退院、自宅療養につとめる。

昭和十七年十一月二日午前七時五十分、阿佐谷の自宅で永眠。 同年十一月五日、吉山斎場にて葬儀を行う。同年十二月二十一日、多摩墓地に葬られる。

なお、武蔵野市吉祥寺南町3−27−4岡部方に、白秋の高弟若林牧春建立の渓流唱歌碑があり、<行く水の/目にとどまらぬ青みなわ/せきれいの/尾は触れにたりけり>の一首が刻されている。

神奈川県

登戸(川崎)
昭和五年、稲田青年団の依頼により「多摩川音頭」を作詞している。登戸の歴史、多摩川の風物をよみ込んでいる。登戸の丸山教境内の藤の花をよんだ部分が碑となって、丸山教本庁内の本殿前に立っている。
丸山教は、明治期、飛躍的に発展した富士信仰の新興民衆宗教。教祖は伊藤六郎兵 衛。その教祖の名を境内の藤ととりあわせて <多摩の登戸六郎兵衛さまよ/藤は六尺いまさかり>と碑に彫られている。小田急線向ケ丘遊園で下車し、北西の多摩区役所をめざし、世田谷通りを渡って少し入ったところに丸山教本庁がある。境内の東隅に藤棚がある。境内には、佐藤紅緑、佐藤惣之助などのもある。

柿生・王禅寺(川崎)
昭和十年十月、妻菊子を伴って柿生の王禅寺を訪れ、昭和十五年三月には、『多摩』の吟行会を催している。
 その時の印象を「柿生」という長歌で<柿生ふる柿生の里、名のみかは禅寺丸柿、山柿の赤きを見れば、まつぶさに秋は闌けたる、(中略)この柿の朱の豆 柿、垣内にも庭にも外にも、道べにも丘にも野にも、照る玉と綴る山柿、柿生はよしも>と詠じ、<柿生ふる柿生の里は照る玉のつぶさに赤し秋年々に><王禅 寺いまも老樹の本柿の朱なるからに御山のさびつ>と反歌をつけている。
 柿生駅よりバスに乗り原子力センター前で降り、南へゆるい坂をのぼりすぐ右の小道へはいり込むと王禅寺に到達する。今も、白秋が訪れた時と変わらぬ閑寂 の地で、すぐ近くが川崎市の住宅街がせまっているとは信じられぬくらいだ。正式の参道は南側から続いていて階段を上がって山門、それをくぐって正面の階段 を上がると本堂がある。本堂に向かって右手へ道をたどり、旧庫裏にまわると、建物の東側に、禅寺丸柿の原木が植わっている。原木といってもそれほどの大木というわけではない。その根方に、先の長歌の前半を彫った白秋歌碑が立っている。
 昭和四十二年十一月、 白秋二十五回忌に白菊会の手により建立された。碑陰には、菊子夫人の筆により<死に近い病床に在って最終ノートに赤鉛筆で記した長歌「柿生」の劈頭の一節 をここに刻む柿生を想う五十二首の短歌とともに歌集『橡』に収められた作品のこの草稿は絶筆に近い>としるされている。境内を荒さぬようにして静かに散索 してみたい。なお柿生は、やはり秋、柿が色づく頃訪れるのがよいようだ。今まで緑一色だった田園のあちこちにまるで朱の花が咲いたように柿の木が林立して いる様はこの地ならではの光景である。

三浦(三崎)
明治四十三年暮春、初めて三浦三崎に遊ぶ。大正二年一月二日には、人妻松下俊子との恋愛の苦しみから死をみつめて海路三浦三崎に渡り、真福寺に漢学者公田連太郎を訪ねたりしている。そのあと十日ばかり商人宿に滞在している。その年の五月、俊子と結婚し、一家をあげて三崎町向ケ崎に移住し、新生の生活を始める。しかし、父と弟の鉄雄は魚類仲買業に失敗、東京にもどり、白秋夫妻は、三崎二町谷の臨済宗見桃寺に寄寓した。
大正三年一月には、三崎町六合(海外)四〇四二番地に仮寓。同年三月三日、小笠原に渡るため去っている。この間の歌は『雲母』に結実した。その後も、大正 十二年二月、前田夕暮を訪れ、昭和十六年六月には、見桃寺の歌碑建設のため訪れ、十月下旬から十一月二日までは、油壷ホテルに滞在、十一月二日、見桃寺に おける歌碑除幕式に出席。さらに魚市場、八景原、城ケ崎を訪れている。

三浦三崎を訪れたら、まず城ケ島に渡りたい。バスやタクシーで橋を渡って行ける。橋を下った、ちょうど橋の真下の海辺に有名な「城ケ島の雨」の碑が堂々と立っている。<雨はふるふる/城ケ島の/磯に/利休鼠の/雨がふる>と 彫り込まれている。大正二年、芸術座音楽会のために「舟唄」として作ったも の。梁田貞の作曲で歌われ流行した。その曲の一節が、碑の手前に譜碑として刻されている。昭和二十四年七月に立てられたもの。昭和三十五年四月、城ケ島大 橋架橋のため現在地に移され、その際、梁田貞の譜碑が添えられた。碑は、白秋の希望により“帆型の石が荒磯に突き差したように“が生かされて立てられてい る。
この碑の背後、橋の真下に「白秋会館」がある。様々な展示や資料の販売をしている。
城ケ島の外海よりも見物したい。 橋をもどり、三崎側の橋の下が向ケ崎である。白秋の住んでいたところは向ケ崎公園のあたり。跡地のほとんどは道路になっているという。三浦市の作った「白秋旧居跡」の案 内板があり、<恍惚とよろめきわたるわだつうみの鱗の宮のほとりにぞ住む>の歌や、旧居が異人館と呼ばれたゆえんや、大正十二年二月一日、タ暮に訪れた際 <今は無き我家の跡に櫓かけて磯の良夜を子ら太鼓うつ>と歌ったと、<石崖にこども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼>と詠んだ入江も埋立てられたこと など、懇切丁寧に紹介している。
三崎の西海岸へ回り少し入った三浦市白石町十九−二に見桃寺がある。昔の桃の御所跡で、今も桃が値えられている。寺の建物は建て替えられて白秋の頃の面影は無い。参道の突き当たりの左方に、白秋の最初の碑がある。<さびしさに秋成がふみよみさして/庭にいでたり白菊のはな>と彫られている。「雨月物語」の「菊花の約」が背景にあるという。帰途には、油壷を見るのもいいだろう。

鎌倉
昭和十五年八月十一日より三日間、 『多磨』第三回大会を鎌倉円覚寺で開催している。翌十六年一月にも家族とともに誘れている。円覚寺では、<山といへば五山のひとつ臨済のこの大き寺の夏に籠る我は>と歌い、『牡丹の木』収録の「父と子−鎌倉海浜ホテルにて」では、<旅にしある寒き燈かげや子が読むに哲学通論聴きつつ父は>ほか多くの歌を作っている。

平塚
昭和四年春、平塚新宿耽二業組合に招かれ、料亭武蔵野に滞在「平塚音頭」と「平塚小唄」を作詞した。町田嘉章が作曲し大変流行した。この「平塚音頭」の一番の初めの都分が<白鷺の白鷺の/飛べば夕日の高麗寺/月になるやら風ぢゃやら>が碑となって、鷺塚に 並んで立っている。鷺塚は昭和十三年八月、台風で平塚海軍火薬廠内にいた約五百羽の白鷺が死んだのを供養したもの。旧火薬廠跡地の一角にある平塚共済病院 の敷地内に今移されてある。共済病院の正面の南側にある旧門を入ったすぐとっつきの塚の上、木立に囲まれた木暗い中に二つの碑が立っている。 なお、この地の東方の文化公園内には宮沢賢治の碑があるので暇な折は見たいもの。

小田原
明治四十四年九月末から一か月ほど御辛ケ浜で病後の静養をしたのを初め、大正七年三月、御幸ケ浜の養生館に仮寓、四月に十字町旧お花畑に転地、さらに十月には、十字町天神山(現・城山4−19−8)の浄土宗樹高山伝肇寺に移る。
大正八年夏には、寺の東側の竹林に、萱屋根に藁壁の住居と方丈風の書斎を建て、「木兎の家」と称した。大正九年六月洋館を新築することになったが、妻章子と離別する。
大正十年四月、新築の洋館で新しい妻佐藤菊子と結婚、安定した家庭生活を手にする。以後大正十五年五月までこの地に住む。白秋三十三歳から四十一歳までの 八年間であった。童謡や児童詩に力を入れ、民謡の新作にも努めた。また、菊子との安定した家庭生活は、しばらく遠ざかっていた歌作をもうながした。白秋の もっとも油の乗った時代が小田原時代だったと言えよう。
 現在、伝 肇寺境内本堂の東側の「木兎の家」の跡には 「みみづく幼稚園」ができており、その広場の隅、伝肇寺の側に「赤い鳥小鳥」童謡歌碑が立てられている。かわいらしい小型の石に、<赤い鳥小烏/なぜ/\赤い/赤い実をたべた>以下三番までが刻されている。昭和三十二年五月に作られたもの。
伝肇寺は、旧東海道、国道一号線が東海道線のガードをくぐったら、すぐ東にまがり、JRに沿った小道を百メートルも進み、突き当たりを左へたどり、二又路を右へたどるとすぐ左側にある。伝肇寺と寺の名で聞くより、「みみづく幼稚園」とたずねた方が地元の人にわかりやすい。
なお、駅寄りの城跡(城内)にある郷土文化館には白秋記念室がある。こちらもついでに見学したいものである。城内の二宮神社には当地出身の北村透谷文学碑もある。

(補遺)
 小田原を訪れたら、南町二ー三−四にある小田原文学館を訪れよう。
 小田原城の南入り口から南へ国道一号線を横切り、三百メートルも南下すると、西に 向かう西海子(さいかち)小路に出る。右に曲がると左手に児童相談所、保険福 祉事務所を経て、小田原文学館がある。幕末から明治にかけて活躍した元宮内大 臣田中光顕の建てたスペイン風の洋館。一階は北村透谷、尾崎一雄、川崎長太 郎、北原武夫、牧野信一など、小田原出身の文学者、二階は、斉藤緑雨、北原白 秋、谷崎潤一郎、佐藤春夫、三好達治、坂口安吾、川田順など小田原に住んだ文 学者の展示がされている。庭も広く木々や季節季節の花々も美しい。庭の南域に は白秋童謡館が ある。こちらは、純日本家屋を使って白秋に関して静かな展示がされている。たっぷり時間を取って優雅な時間を過ごしたいものである。舘への道脇には伝肇寺 にあるのと同じ「赤い鳥小鳥」童謡歌碑がある。文学館では「小田原文学散歩道」の地図入りパンフレットや『小田原・箱根・真鶴・湯河原・文学散歩』(千 円)も手に入る。

箱根
小田原に住んでいたので、箱根はしばしば訪れている。「函嶺の冬」では、<山岨の石だたみ道にあたる陽のこのあかるさよ冬とし思ふに>と詠み、「箱根山麓 の歌」では、<雪しろき旧街道の松並木妻と子と出ればおもしろく見ゆ>などと詠じている。昭和十五年十一月中旬、芦の野畔神山ホテルや強羅ホテルに滞在 し、『白秋詩歌集』の編集をしている。

新潟県

新潟
大正十一年六月中頃、新潟市で童謡音楽会が開催された際、招かれて訪れ、音楽会のあと日本海の浜辺を散索、その際の印象が「すなやま」に結実した。同じ年の十月にも新潟師範学校で講演を行っている。
駅から真っすぐ北へ進んで日本海に突き当たったやや西寄りにある護国神社の境内に白秋童謡碑がある。本殿前の鳥居を背にややもどる感じに左ななめの小道に入って行くと戦没者慰霊の「乎和の礎」の裏手、道の右側(陸側)に松に囲まれた大きな碑がある。「すなやま」<うみはあらうみむこうはさどよ/すずめ なけなけもうひはくれた(以下略)>と全文が彫り込んである。海側は松が繁って海は全く見えない。
小道をさらに北東へ進むと海を眺めて坂口安吾の碑がある。新潟出身の縁による。
さらに小道を行けば芭蕉堂がある。芭蕉堂の裏の展望台に登れば日本海が一望できる。天気の良い日は、佐渡も見える。
護国神社境内から出て、一般道を五分も東北へ行けば会津八一記念館に至る。二階が展示室になっている。書家でもある八一の美しい字を眺めていると、心が静まってくるようだ。
記念館の前の道を真っすぐ南南東へ歩めばやがて駅に到る。途中でバスかタクシーに乗るのもよい。

湯沢温泉
昭和十二年六月に訪れ昭和十四年 十一月中旬にも、訪れている。さらに六日町に回っている。

池の平
昭和七年一月、家族とともに訪れ、はじめてスキーを試みている。 ほか、昭和四年六月頃、良寛の遺跡をめぐっている。

長野県

軽井沢
大正十年八月、星野温泉において催された自由教育夏季講習会の講師として訪れている。この時の印象をもとに『水墨集』中の「落葉松」が作られた。
中軽井沢から鬼押し出し方面への道を北上すると星野温泉にいたる。東ななめに星野温泉へ入る道の右手前に大きな岩を使って白秋詩碑が作られている。<世の中よ/あはれなりけり/常なけど/うれしかりけり/山川に山かはの音/落葉松に/落葉松のかぜ>と 最後の一連が白秋の自筆で彫り出され、全文は左下に活字で彫られている。昭和四十四年五月に立てられたもの。最後の第八連が『水墨集』に収める際追加され たと伝説化されているが、それは間違い。第四連が、「からまつ遺抄」として、後に発表され、『水墨集』に入れる際、第四連のところに入った。
なお、大正十二年春には、追分沓掛に遊び<夕山は落葉松つづきから松に白かんばまじり霧小雨あり>(「追分の油屋まで」)<追分の辻に出て見て簡素なり馬頭観音の四月の夕陽>(「追分の宿」)などの歌を残している。

大屋
明治四十二年十一月中旬、『方寸』同人と訪れ、『折々の手記』の「信州より」の中で<信州の空気は石油問屋のやうに冷たい。十一月中旬の日光に浅間山一帯 の枯色が紫がかつて、山麓の部落部落の高い倉庫が白く光つてゐる>と途中の風景を叙している。大正十二年四月、山本鼎の農民美術研究所の開所式に臨むた め、妻子をつれて訪れている。「農民美術の歌――口語体短歌――」(『詩と音楽』大12・8)では、<農民美術の展覧会も/近まつて来た。/信濃の春も/ 輝いて来た。><あの光るのは/千曲川ですと、/指さした、/山高帽の/野菜くさい手。>などと歌っている。

別所温泉(上田)
大正十二年四月中旬、妻子を率て、別所温泉七久里の湯に遊び、柏屋本店に数日滞在。隣接の北向観音にも詣でている。この時の感興は「放牧の絵馬」七十六首「七久里の蕗」八十六首など多数の歌に詠まれ、大正十五年には民謡「別所の春」に歌われている。北向観音常楽寺の境内柏屋本店に近く白秋の歌碑が立っている。<観音の/この大前に/奉子/絵馬は信濃の/春風の駒>と「放牧の絵馬」の「春駒」の歌が彫られ、その左に、白秋の顔のレリーフが作られている。昭和三十七年十一月立てられたもの。

白秋歌碑


常楽寺美術館には、白秋が詠んだ歌の原本が陳列してある。碑の右前方には川口松太郎「愛染かつら」のもとになった桂の大木が立ち、その根方には愛染堂がある。

霧ケ峰
昭和十年十一月、霧ケ峰に遊んでい る。

山梨県

韮崎
明治四十二年十一月、長野県の大屋を訪れた帰り、韮崎に立ち寄っている。「信州より」(『折々の手記』)では、<午後一時十分汽車韮崎に着く。昼 過ぎ方、高原の空気は湖上の朝のやうに冷たい。(中略)漸次の高まつてゆく裾野から八ヶ岳の絶頂に至る、初冬の日光と冷やかなる青空と――凡てがしみじみ とした情調だ。画に描いたら素敵に気の利いたものになる>と描いている。韮崎駅前の広場の右前方に、木立を背にして白秋歌碑が立っている。<韮崎の/白き ペンキの驛標に/薄日のしみて/光るさみしさ>とはっきりした活字で彫り込まれている。隣りには窪田空穂の歌碑もある。駅前とは思えないような静かさが印 象的である。

静岡県

富士山周辺
昭和七年十一月、富士五湖を訪れている。詩「本栖湖」(『新頌』)では、<本 栖湖のへうべうたる、/往き、消ゆる/薄墨の雲に、/しろがねの燻して。>と描いている。昭和九年六月には、富士裾野の野鳥の会に参加、昭和十二年五月に は、『多麿』野鳥を聴く会を須走で行い、山中湖に回っている。<鳥のこゑここださわだつすその富士は花葉の時いたりける>(『渓流唱』)とその時に詠んで いる。

伊東
木下杢太郎の友人としてたびたび訪れている。昭和四年初春には、杢太郎の兄、太 田賢二郎(二代目伊東市長)の依頼を受け、 市内の旅館に一週間ほど滞在、想を練り、「伊東音頭」「伊東小唄」を作った。伊東駅より海岸に出て、海岸道路を南へ行くと松川河口の渚橋に出る。橋を渡っ て右手、川沿いの川口公園に「伊東音頭」の碑がある。<伊東湯どころ/ひがしの海にヨホホイ/朝はゆららと/潮にゆららと日が昇る>と彫られている。渚橋 の北詰、海岸側にはなぎさ公園があり、木下杢太郎の「海の入日」の詩碑が立っている。

長岡温泉
昭和十二年十月、『新万葉集』の選歌のため滞在している。

修善寺
大正十三年一月初め、家族とともに滞在している。

湯ヶ島
昭和十年一月、落合楼に二〇日あまり滞在、その時の印象をもとに「湯ヶ島音頭」や「渓流唱」が作られた。<行く水の目にとどまらぬ青水沫鶺鴒の尾は触れに たりけり><眼は向ふ大きかぐろき岩づらの上のたぎちのひといろの渦>などがある。落合楼には、白秋の筆跡が多数残されている。

下田
昭和九年六月五日、高弟穂積忠に案内され、車で天城を越え下田に出て、土肥に回 わっている。下田市白浜の大浜海岸に遊び、「白浜砂丘」(『渓流唱』)の歌を残している。そのうち<砂丘壁に来ゐる鶺鴒昼ひさしかげ移る見れば歩みつつあり>の歌が碑となって海岸に立っている。

白浜海岸


清水
大正十三年一月五日、国柱会の田中智学の懇招に応じ家族と共に三保の最勝閣におもむき五日間滞在している。羽衣の松、竜華寺なども探勝、<清閑極まりな し>(「不二大観」『改造』大13・4)と述べ、長歌一章、短歌百七十三首を作っている。<清見潟満干の潮に揺り育つ海苔の香寒し春は来につつ><春は早 や三保の砂地に這ふ蔓の白豌豆の花も見えけり><風速の三保の砂やま清しくて遊ぶにはよき玉敷きにけり>などと歌っている。

美保の松原より


市内上原一七六の千手寺の門前に、白秋の「狐音頭」の碑があり、<狐十七、ヨウ/千手の寺に/ぼん/\/こよい願あけ/もちの日>と刻されている。 静岡鉄道新清水駅から三つ目の狐ヶ崎下車、旧東海道を静岡方面へ進み十七夜山保育園の裏手にある。境内に「白秋庵」という茶屋があり、普茶料理を味わうこ ともできる。
日本平パークセンター屋上には「ちゃっきりぶし」民謡碑がある。作詞の白秋、作曲の町田嘉章のレリーフも左右に配し、嘉章自筆の楽譜、白秋自筆の歌詞を銅板にしたこった碑になっている。

浜名湖(鷲津、館山寺)
昭和七年十月十三日、民謡の作詞の依頼を受けた白秋は、吉村左亮と鷲津(湖西市)を訪れ、翌日浜名湖を巡航し、館山寺も訪れている。昭和八年一月にも両地 を訪問している。七年には<遠つあふみ浜名のみ海冬ちかし真鴨翔れり地の昏きに>(『夢殿』)と歌っている。館山寺海水浴場の湖畔の周遊自転車道脇に、白 秋歌碑があり<館山寺/松山隠し/湖を来て/こゝは小春の/入江さざなみ>と刻されている。この 自転車道に沿ってほかに浜名湖にゆかりの短歌や俳句の碑が十三基つくられている。鷲津の本興寺境内に白秋歌碑があり、<水の音/ただにひとつぞ/きこえけ る/そのほかはなにも/申すことなし>(『夢殿』)と白秋の筆跡で彫られている。「鷲津節」もこの時のものである。

舘山寺温泉

愛知県

名古屋
昭和二年八月の日本ラインを中心とした周遊には名古屋を基地としている。昭和十一年一月、大和からの帰途、名古屋に遊んでいる。昭和十六年一二月にも、九州からの帰り立ち寄っている。

岐阜県

恵那
大正七年秋、門下の牧野暮葉(律太) の招きにより永田山の乳母の懐にあった伊藤金四郎の鳥屋に遊ぶ。その時の白秋自筆の<ほうい/\/\/霜がこいぞ/つぐみよ>の詩文をもとに、昭和四十六 年三月、白秋ゆかりの市内永田の長田神社跡に、永田地区有志の手で立てられている。バスかタクシーで永田にいたり、その左前方五百メートルといった方向に たどれば、ゆるやかな斜面の中ほど、水田を前に小さな公園があり、子供の遊び場になっている。その一角に高さ一メートルほどの小さな神社が木立のもとにあ る。その前に、天竜の青石でできた一メートルほどの白秋碑がある。白秋の碑だけ求めて、こうして田園の中に入り込んでみるのも文学散歩の楽しみの一つであ る。恵那峡は、昭和二年八月十二日の夕方に訪れ、タ焼の下、舟で見物している。「木曾川」の中の「恵那峡」では、<恵那峡の幽邃はともすると日本ラインの 蒙宕を凌ぐ。ここまで登つて来なければ木曾川の綜合美は解せられない。すばらしい。すばらしい>と賞讃し、その夜は満月下の中律川で過ごしている。昭和十 一年の十月にもこの地を訪れている。恵那峡の渡船場附近から見ると、ダム湖に突き出した細い岬が目に入る。この岬の突端に白秋歌碑がある。渡船場を左に進 み、恵那峡の大フジの下を過ぎ、郷土植物園の標柱の左の小道をたどって行くと岬の突端に出られる。昭和三十三年四月に立てられたもの。<薄のにしろくかぼ そく立つ煙/あれはなれども消すよしもなし>(『雀の卵』)と「葛飾前歌」の一首が彫られている。地元に残された白秋自筆の軸から写されたもの。

美濃加茂
昭和二年八月初句、日本ラインを訪れた際通過している。昭和七年十一月には、吉植庄亮と訪れ、望川楼に泊まっている。翌日、隣の祐泉寺を訪れ、<細葉樫秋 雨ふれり/うち見やる/石燈籠のあをごけのいろ>の歌を残し、同歌がその筆跡で歌碑になり、祐泉寺の入口左側に据えられている。祐泉寺は美濃加茂市太田本 町2−3−14。美濃太田駅からまっすぐ木曾川まで進み突き当たりを右へまがったすぐ左にある。木曾川に臨んだ景色の良いところ。瀟洒な寺や庫裏の建物を 味わいたい。境内には、この町出身の坪内逍遥の碑も木曾川を跳めて立っている。

犬山
昭和二年八月四日から数日滞在、犬山城に登り<小さな白い三層楼、何と典雅な、しかもまた均斉した、美しい天主閣であらう>(「木曾川」)とその感動を書き、日本ラインを訪れている。昭和七年十月には、吉植庄亮と静両の方から回って来ている。

岐阜
昭和二年八月初旬、訪れている。その際の鵜飼見物の感興を詠んだ長歌が「鵜匠頭山下幹司翁歌碑」となっている。
長良橋の南詰、橋から上流側に階段を下りた小公園の木立の下、川を背にして立っている。背後には鵜飼舟が並んでいるのも壮観である。


「鵜匠頭山下幹司翁歌碑」前の風景


訪れたついでに、岐阜城にロープウェイで登って濃尾平野の展望を楽しみたい。木曾川、長良川が光り、斎藤道三、信長、秀吉を思うのも格別である。

養老
昭和二年八月、鉄道省「大阪毎日新 聞」「東京日日新聞」の嘱を受けた「日木新八景」選定後木曾川流域を訪れている。養老公園内に歌碑がある。
養老公園は養老の滝を中心とした一帯で、碑は、養老寺の先、「ふるさと会館」の上、河東碧悟桐の<明るくて桃の花に菜たねさしそふる>の句碑を右に見て、右へ坂道を登り、養老神社の鳥居のもと、左の道端にある。自然石に<紫蘭咲いて/いささか紅き/石のくま/めにみえてすずし/夏去りにたり>と白秋の筆跡で彫られ、碑の脇には紫蘭が植えられている。昭和五十五年、養老観光協会により作られたもの。白秋の泊まった豆馬亭も近い。
鳥居をくぐって右に清流左に濃尾乎野の展望を楽しみながら少し行くと養老神社。急な階段を登ると正面に神社、その右手に日本百名水の一つ菊水泉が湧いている。神社からさらに進み、リフトか徒歩で養老の滝に到る。木暗さの中の滝の涼しさを味わいたいものである。

養老の滝


高山・平湯
昭和七年十月、吉植庄亮と訪れている。

三重県

伊勢
明治三十九年十月、与謝野寛、茅野粛々、吉井勇らと訪れている。昭和四年十月初め遷宮を見るため訪れている。これは「遷宮奉拝記」として『東京日 日新間』『大阪毎日新聞』に、昭和四年十月初旬連載された。<黄に浮き立つて明るい檜の素木の宇治橋を、わたくしは渡つてゐた。清麗な五十鈴川の水色、そ の神橋の向う袂に、枝ぶりも香ひもかうがうしい一本の栴檀の老樹をわたくしは見た>としるしている。

熊野
明治三十九年十月、伊勢から熊野へ足を延ばしている。

京都府

京都
明治三十九年、伊勢・奈良から京都を訪れている。

奈良県

奈良
明治三十九年、昭和四年春、昭和十一年八月、昭和十六年春と、たびたび訪れてい る。昭和四年春には、法隆寺を訪れ、<四十日にわたる荒涼たる我が満蒙の旅は、むしろこの法隆寺を美しく見んためなりしがごとし>と詞書きし、<菫咲く春 は夢殿日おもてを石段の目に乾く埴土>と詠んでいる。昭和五年には、大阪から羽田に飛行し、<青丹よし奈良の都の藤若葉けふ新たなり我は空行く>と詠む。 十一年、唐招提寺に拝した鑑真和上の像をしのんで、<盲ひはててなほし柔らとます目見に聖なにをか宿したまひし><唐寺の日なかの照りに物思はず勢ひし夏 は眼も清みにけり>などと詠じている。

唐招提寺


唐招提寺境内に歌碑が立ち、<水楢の/柔き嫩葉は/み眼にして/花よりもなほや/白う匂はむ>と刻されてある。いずれも歌集『黒檜』の中の歌である。

信貴山
昭和十一年八月一日から三日まで、 この地で『多麿』第一回大会を行っている。<信貴の山月明らなりはろばろと真昼は我の飛びわたり来し><信貴の山榧のこずゑに照る月のそれまでを見て我やねぶりし>(『渓流唱』)などと詠っている。

橿原
昭和十六年春、九州からの帰り立ち寄っている。

吉野
昭和十六年四月初め、九州の神武聖蹟巡拝の帰り、奈良県の弟子の案内で吉野町国栖から宇陀へ回っている。途中、色生の鞘橋で、<春雨不尽>として、<春雨のけなるき降りや屋根坐して雫垂りなる宇陀の鞘橋>(『牡丹の木』)と詠っている。吉野町色生の善生寺門前にこの歌を彫った碑が立てられている。

大坂府

大阪
昭和十二年三月、福助足袋の社歌の依頼を受け堺を訪れている。その後、大阪市、浜寺を回わっている。

和歌山県

白良温泉
昭和九年八月末、妻子と訪れ一週間ほど滞在している。

兵庫県

神戸
昭和四年五月初め、満州から船で神戸へ帰って来ている。昭和九年八月二十二日には、台湾より帰港している。

洲本
淡路島の洲本市字原字上人の島太郎方に川端千枝追悼歌碑がある。白秋が洲本出身の弟子川端千枝の逝去に当たり贈った追悼歌を五十年忌にあたり碑にしたもの。<円けくて肉いろの月おぼろなり白南風あけの茅蜩のこゑ>ほか全七首が彫られている。

岡山県

倉敷
昭和十年晩春、九州からの帰り訪れている。

広島県

厳島
明治四十年八月、新詩社の与謝野寛、平野万里、吉井勇、木下杢太郎と「五足の靴」の第一日を、当地に過ごしている。

厳島神社


山口県

下関
明治四十年八月、「五足の靴」の旅で赤間が関を訪れている。

香川県

高松
昭和十年六月初め、九州からの帰途、 訪れている。

琴平
金刀比羅宮境内に、白秋の山の歌歌碑が作られている。<守れ/権現/夜明けよ/ 霧よ/山は/いのちの/みそぎ/場所>と彫られている。

金比羅神社


大分県

大分
大分市木の上六九七の少林寺境内に白秋歌碑がある。菊子夫人(大分高女第三回卒)と同窓で、少林寺を生家とする河村ツヤ(同第二回卒)が同郷の関 係でこの寺を訪れたらしい。<山かげの/ここのみ寺の/かえるては/ただあおあおし/松にまじりて>と白秋自筆で彫られている。バスをおりて細道を北へ 登ったところにある。

久住
昭和三年八月三日、別府の油屋熊八等の案内で久住高原雨降り峠を訪れている。現在久住町久住字赤川に歌碑が立っている。国民宿舎久住高原荘から国道四四二 号線を一キロほど東へ下ったところ、赤川バス停の東方、道路の北側の小高いところに大きな茶色がかった石が堂々と立っている。<草深野/ここに仰げば/国 の秀や/久住は高し/雲を生みつつ>と彫られている。背景には久住の変化に富んだ山容が美しい。前景には、久住高原のなだらかな斜面がかなたへと下ってい る。阿蘇と別府を結ぶやまなみハイウェイから少し東へ入ったところ。機会があったら訪ねてみたい。

久住高原・久住山


湯布院
昭和三年四月に訪れている。

別府
昭和三年四月、訪れ遊んでいる。昭和十六年四月はじめにも別府から海路大阪へ向かっている。

宇佐八幡宮
「海道東征」に歌われている。

福岡県

小倉
昭和十年五月、長崎を訪れた帰途、立ち寄っている。

北九州市
八幡
昭和四年五月、八幡製鉄所歌のため訪れている。その際の感興をもとに「八幡小唄」「鉄の都」なども作られている。八幡区中央三丁目高炉台公園内に 「八幡小唄」の碑がある。<山へ山へと/八幡はのぼる/はがねつむように/家がたつ>と彫られている。同八幡東区皿倉山頂東展望台前には、「鉄の都」碑が ある。<たかる人波さすがよ八幡/山は帆ばしら海は北/舟も入海洞の海/こゝの御空で立つ煙ぢゃえ/えゝま立つ煙ぢゃえ>とある。

福岡
明治四十年七月三十一日、「五足の靴」の一行が福岡に入り、千代の松原、筥崎八幡香椎の宮から海の中道を見、泳いだりする。<丘に登つて玄海灘を見る。降 つて磯を歩く。風なければ晴れたる海は静かである。>と描写している。中洲の川丈旅館前に「五足の靴」文学碑がある。博多の夜をこの旅館に泊まったゆかり による。吉井勇の歌<旅籠屋の/名を川丈と/いひしこと/ふとおもひ出て/むかし恋しむ>が上に彫られ、下に解説が刻まれている。


「五足の靴」の歌碑


昭和十六年三月には、「海道東征」が「福岡日日新聞」の文化賞を受賞し、訪れている。

大刀洗
昭和三年四月、「大阪朝日新聞」の嘱を受け、恩地孝四郎と旅客機ドルニェ・メルクールで大刀洗から大阪へ向かい芸術飛行をしている。

大牟田(三池炭坑)
明治四十年八月、「五足の靴」の一行が訪れている。<大牟田は平地である、表面は唯の田だ、稲が青々と繋って日の光りの中に生存を嬉でゐる、裏面は即ち炭鉱だ>と描き、炭鉱の中に降りて<真暗だ、中は夕立がしてゐる><五人は地獄をめぐる>とその見学の思いを写している。

柳川・三橋
<私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳河の街を貫流する数知れぬ溝渠のにほ ひには日に日に廃れゆく旧い封建時代の白壁が今なほ懐かしい影を映す>(「わが生ひたち」)としるしている柳川は、今は廃市のおもかげはない。西鉄柳河駅 前に着くと白秋の「からたち」の碑が出迎えてくれる。まずは三柱神社へ向かおう。

三柱神社
この入口鳥居の附近には三つの白秋にかかわる碑がある。鳥居の手前の橋の手前左側に<水郷柳川こゝは/我が生れの 里である/この水の柳川こそは/我が詩歌の母体である/この水の構図/この地相にして/はじめて我が体は生じ/我が風は成つた>と最後の著書『水の構図』 のはしがきを彫った碑がある。橋を渡った左手の料亭旅館松月の玄関前には「立秋」(『思ひ出』)の詩碑がある。もとのノスカイ(遊女屋)「懐月楼」の跡を 記念したもの。この旅館の裏側に回り込むと、「五足の靴ゆかりの碑」がある。一行が建物の三階で休憩した縁による。

川下り
三柱神社の入口、「松月」の前から 川下りの船に乗れる。南へ柳の間を下って行くと、右の岸に<色にして老木の柳うちしだる/我が柳河の水の豊けさ>と彫った白秋歌碑が立っている。舟は右に 曲がり柳川城水門をくぐる。水門の右手の上に見えるのは虚子の句碑である。<広ごれる春曙の水輪かな>とある。西へ向かう水路は一番美しいところ。木々の 緑におおわれ、あひるが遊び、汲水場がある。

柳川の水路


さらに下って行くと右手に宮格二の碑があり、日吉神社境内には、うなぎ供養碑、長谷健の碑などがある。しばらく南下すると「お花」につき当たり、舟は「お花」を左回りにぐるりと回わり、「お花」の西、なまこ壁の美しい殿の倉前を過ぎる。川下りのクライマックスの場だ。

殿の倉前の水路


すぐ左(西)に曲がり沖ノ端の水天宮の前に着く。白秋の生家も近い。



白秋生家・白秋記念館
舟を降り右へ進み、 信号を左へ行けば数分で白秋生家に着く。美しいなまこ壁の建物だ。一・二階が見学できる。

白秋生家


裏にぬけると、生誕百年を記念した柳川 市立歴史民俗資料館・北原白秋記念館が開館。数々の資料を展示している。



白秋詩苑
生家に向かって左側の小道を入ると矢留小学佼の手前に白秋詩苑がある。藤棚と向かいあって「帰去来」の詩碑が立っている。<山門は我が産土/雲騰 る南風のまほら、飛ばまし、今一度(以下略)>とある。昭和十六年二月に作詩されたもの。矢留小学佼には<紫にほふ雲仙の/山の南の雲に見て>と白秋の 作った校歌がしるされている。ここより「お花」に向かおう。途中の専念寺は北原家の菩提寺だったところ。「お花」の横、水路に面したところが殿の倉。水面 に映えるなまこ壁が美しい。その壁前に<幾つかに還り来にけり倉下や/揺るる水照の影はありつつ>と彫った白秋歌碑がある。


「お花」
旧藩主立花家の別邸。四方水路をめぐらした七千坪の地域に、明治四十年頃の粋をこらして建てた洋館、大広間を中心に、松濤園と呼ばれる庭園がある。古松二八〇本庭石一五〇〇が配され、冬は野鴨が飛来するという。

「お花」の庭園


白秋は、昭和十六年三月、『多磨』九州大会をここで行っている。宿泊もできるので、ぜひ泊まってみたいところである。なお、白秋生家の隣りに檀一雄が生まれている。「お花」の東方五百メートルにある福巌寺には、檀一雄の墓がある。この寺は立花家の菩提寺でもある。

瀬高
柳河の東南、三橋町の隣の瀬高町の東方、高速道路をくぐり抜け東の山に入り込んだところにある清水寺一一一七−四の清水寺本坊の正面玄関に向かって右手の木立の中に白秋の「きじ車」の歌碑がある。きじ車は、瀬高町清水寺ゆかりの郷土玩具である。<ちゝこいし/はゝこいしてふ/子のきじは/赤とあをもて/染められにけり>とある。清水寺の三重塔の脇には、この町出身の児童文学者与田準一文学碑が立っている。

佐賀県

佐賀
明治四十年八月、「五足の靴」の仲間と訪れ佐賀城を一周したりしている。

唐津
明治四十年八月、「五足の靴」の仲間は、佐賀から当地へ進み、虹の松原領巾振山、唐津近松寺などを訪れている。昭和四年五月にも、八幡に来た折、こちらに回っている。

唐津・虹の松原

呼子
明治四十年夏の「五足の靴」の旅で訪れたほか、昭和四年五月にも訪れている。このあと、伊万里、有田をへて佐世保に向かっている。

長崎県

佐世保
明治四十年八月、「五足の靴」の旅で訪れ、京屋旅館に泊まっている。<思ひの外不恰好な街である。(中略)唯徒らに細長い、真直な大通が一筋、挙骨のやうに中央に横はつて、肋骨とばかり数多の横町を走らせて居る>と評している。
旧京屋旅館前の下京町京町児童公園内「五足の靴文学碑」が立っている。
同じく下京町の夜店公園内には、「五足の靴文学碑」が立ち、与謝野鉄幹の即興詩が刻まれている。昭和十年五月にも訪れている。

平戸
「五足の靴」の一行は、佐世保から船で平戸に入る。亀岡神社に詣で阿蘭陀堀を見る。<比較的美しい容貌の女が多い>と書きとめている。

長崎
明治四十年夏、「五足の靴」の一行とともに訪れる。万才町3−23の西日本新聞総局前に、「五足の靴」碑が立っている。昭和十年五月、長崎三菱造船所の所歌のため訪れ、造船所諏訪公園唐八景伊王島浦上天主堂など訪れている。

大浦天主堂


伊王島
昭和十年五月頃訪れている。瀬戸屋敷四七〇の俊寛碑に隣り合わせに、白秋の「伊王島」の長歌と反歌とを彫った碑が立っている。<いにしへの流され人もかくありてすゑいきどほり海を睨みき>とある。

雲仙
昭和十年五月二十九日訪れ宮崎旅館に投宿している。旅館の玄関口右手に白秋歌碑がある。<色ふかくつつじしづもる山の原夏向ふ風の光りつつ来る>と「雲仙原」十二首のうちの一つが彫られている。つつじの季節には、碑の背面の庭はつつじの花が燃え上がる。他に<雲仙ケ岳つつじ咲き満つけだしくも夏来るらし躑躅咲き満つ>などがある。
旅館の裏手は雲仙地獄である。切支丹殉教碑などを見ながら一周するのもよい。九州ホテル前にはタゴールの碑もある。

島原
明治四十年、「五足の靴」の一行が三角からやって来る。有馬城跡を見、天草四郎をしのんでいる。昭和十年五月頃、島原にも足を延ばしている。

熊本県

南関
白秋は明治十八(1885)年一月二十五 日、母の実家である南関町外目の石井家に生まれた。現在、石井家の門を入った右手に生誕歌碑が据えられている。<春霞関の外目は玉蘭のはなざかりかも母の玉名は>と刻まれている。白秋二十年忌の昭和三十七年十一月二日に作られたもの。『思ひ出』の「わが生ひたち」では、<第二の故郷>は<物静かな山中の小市街である>と言っている。
町内の関町バスターミナルには「そうめん歌碑」が ある。<てうち索麺戸ごとにかけ並め日ざかりや関のおもてはしづけかりにし>と彫られている。
関東の大津山阿蘇神社境内には、 <大津山/こゝの御宮の/見わたしを/旅がものと/我等/すずしむ>の歌碑が立っている。
南関第一小学佼玄関前には、白秋の作った校歌の碑がある。<翠したゝる大津山/空 に充ち満つ日の光>と始まっている。

天草
明治四十年八月、「五足の靴」の一行は長崎県茂木より天草の宮岡に着き天草下島の西海岸を南下し牛深から三角へ出航している。

富岡
「五足の靴」の一行は、荒海から<波静かなる富岡港に上陸>している。町内には与謝野寛の碑や林芙美子の碑がある。


五足の靴文学遊歩道
富岡から十四キロほど南、国民宿舎あまくさ荘から一キロ南には、天草町教育委員会の手で旧道を整備した遊歩道が作られている。美しい海と海岸を見ながらゆっくり歩いてみるのもよい。

大江の天主堂
天草町大江字長尾に大江の天主堂がある。「五足の靴」の中でも最も印象的な場所である。
『御堂口はやゝ小高い所に在つて> と書いているが、本当に、山あいの村の中、忽然と丘の中腹に天主堂があらわれると夢を見ているような感じになる。一行は、そこの「パアテルさん」から色々 話を聞く。このパアテルさんは、明治十八年二十五歳で宜教師としてこの地を訪れ、昭和十六年八十二歳でなくなっている。神父が私費を投じて作った天主堂は 昭和八年に完成したもの。天主堂の下、駐車場の脇に吉井勇<白秋とともに泊りし天草の/大江の宿は伴天連の宿>歌碑が「五足の靴」の記念として立っている。


大江天主堂と吉井勇歌碑


天主堂の内部にも入れるので静かに礼拝したい。内部に畳が敷かれているのがいい。天主堂の左手にはガルニエ神父の胸像をのせた敬慕碑がある。その先を左へおりると、はるかに海が見えるところに神父の墓がある。
なお大江で白秋たちが泊まった高砂屋は今もなごりをとどめている。その前に「五足の靴」の碑がたてられている。大江から船で牛深に向かっている。陸路なら崎津を通る。崎津の教会は海辺の美しい建物だ。白秋と関係ないがぜひ訪れてみたいところ。

牛深
大江より船で夕刻に着き今津屋に泊まる。ここより一行は三角へ向かう。

本渡
「五足の靴」の一行の訪れはないが、 市の西の丘の上にある殉教公園天草切支丹館 前庭に白秋詩碑がある。『邪宗門』の「天草雅歌」の「ただ秘めよ」の一節<日ひけるは、/あな、わが少女、天草の蜜の少女よ>以下の一節が彫り出されている。天草四郎の銅像や中村貞女の句碑などがある。切支丹館もぜひ見学したいもの。

殉教公園


三角
牛深より船で三角に着いている。ここより島原にまわっている。

長洲
「五足の靴」の一行は、島原より長洲 へ渡る。<長洲は其の名の如く遠浅の海である>と描いている。熊本長洲からこちらにまわる。<熊本は大なる村落である>と描いている。水前寺の画津湖に遊んでいる。

阿蘇
「五足の靴」の一行は、阿蘇に登山している。途中垂玉の湯につかり、<如何見ても城廓である><名もいゝが、実に大に気に入つた>と書いている。翌日噴火口に登る。<火口に近くに随つて硫黄の香は犇々と逼つてくる。噴火口が見えるや否や、予等が心は猛獣の如く荒くなつた>と書いている。

阿蘇中岳火口


下りは、草千里浜から湯の谷温泉へ向かう。そこで休憩し栃の木温泉に泊まる。翌日馬車で熊本にもどっている。

宮崎県

高千穂

高千穂峡


昭和十六年の三月末頃、訪れている。高千穂峡見物の一方の拠点御橋の手前、「みはしかけ茶屋」の前の駐車場の脇、小さな池を背に、白秋の御塩井(この地の地名)歌碑が立っている。「真名井」の長歌と短歌が刻まれている。<真名井湧く老木がもと、照る玉の澄むは見つつ、(中略)今にして、我はや死にせむ、この道半ば><ひく水に麻のをひてて月まつは/清き河原の天地根元作りの家>とある。

白秋碑のとなりには、宮崎出身の若山牧水の<幾山河/こえさりゆかば /寂しさの/はてなむ国ぞ/けふも旅ゆく>と彫ってある。

なお、この旅は、宮崎観光協会の招待によるもので、三月二十五日から一週間、「海道東征」聖地巡礼の旅をつづけた。


美美津


その際、神武天皇生誕の地と言われる狭野神宮を初めとして、皇子原、宮崎神宮、八紘一宇の基柱、皇居屋、青島、鵜戸、西都原の古墳、笠沙の岬、御船出の美美津、五箇瀬川、臼杵をまわり、最後に高千穂にやって来たのである。

中国・蒙古
昭和四年三月末から四〇余日、 南満州鉄道の招致に応じ、満蒙各地を歴遊している。

韓国・北朝鮮
昭和十年七月末、大阪毎日新聞社の委嘱による「朝鮮八景」のため、慶州京城平城扶余など巡遊し、八月上旬に帰京している。

台湾
昭和九年六月末、当時の台湾総督府並びに教育会の招きに応じ、一ケ月ほど全島を巡歴している。


(写真・筆者) [わたべ よしのり 中央大学教授]


リンク

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北原白秋はじめ市川に関連する文化的情報が豊かにあります。


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中央大学文学部文学科国文学専攻
渡部芳紀研究室