堺 (名作のふるさと) 

               渡 部 芳 紀


与謝野晶子生家跡の歌碑


 歌人与謝野晶子の故郷を歩いてみ よう。

 まず市役所を訪ねよう。
市役所は南海高野線の堺東駅の駅前南側にある。駅 前広場に出て南を見ると二十一階建の高層ビ ルが見える。それが市役所なのですぐわかる 。市役所の三階に市政情報センタ−がある。 ここで堺観光地図や「与謝野晶子文学碑めぐ り」などをもらえる。

 資料を手に入れたらエ レ−ベ−タ−で最上階の二十一階に上ろう。 回廊式の展望台になっている。市内が一望の もとで、西には遥かに海が見える。その手前 には大阪に続く高速道路が走っている。東南 には東洋一とも言われる仁徳天皇陵が緑に包 まれている。古代と現代が同居している町で ある。回廊を回ると一部が喫茶部になってい る。その一角には赤い毛繊を敷いた席ができ ている。堺は千利休の出身地でもあるのだ。 後にその旧居跡も訪れよう。

 市役所からはまず市役所南西にある、(市役所の東を南 北に走る道(一条通り)を三百m南下し東西 に走る国道三百十号線との交差点から西に百 m)にある市民会館に行こう。
市民会館の南 の駐車場の南、国道三百十号線を背に晶子の 歌碑がたっている。歌碑の上部には晶子の顔 のレリ−フが造られている。
碑面には<母と して女人の身をば裂ける血に/清まらぬ世は あらじとぞ思ふ>と彫ってある。

 国道三百十号線を西へ八百mも行くと晶子 生家近くの宿院の交差点だがその前に堺市博 物館を訪ねよう。仁徳天皇陵の南に接する大 仙公園にある。
市民会館の東南角の交差点か ら一条通りを南へ八百mほど行き、御陵通り との交差点から東へ一キロほど行った所。バ ス停堺市博物館前の南の公園内に博物館はあ る。
入口近くには千利休の銅像がある。筆者 が訪れた時は生憎月曜日で見学できなかった 。博物館で晶子、利休らの予備知識を掴ん で町に出たい。
博物館の西方向に大仙公園の 一つの中心平和の塔がある。

平和の塔

塔の西百メートルほど の所、日本庭園に行く途中に晶子歌碑がある 。
<花の名は一年草もある故に忘れず星は忘 れやすかり>と彫ってある。

晶子歌碑

碑から北へ市立 中央図書館の案内表示に従って行くと図書館 に到る。図書館に向かって左に晶子の顔のレ リ−フを付けた歌碑がある。
<堺の津南蛮船 の行き交へば春秋いかに入りまじりけむ>と 彫ってある。館内には晶子関係の資料もある 。時間がある時は閲覧するとよい

。図書館に 向かって右手には河井酔茗の詩碑がある。
<或る年の始めふるさとの友へ/年ごとに/ ゆづりゆづりて/譲り葉の/ゆづりしあとに /また新しく>と彫ってある。

河井酔茗詩碑

碑のうらには <河井酔茗、本名又平。明治七年堺北旅篭町 に生まる。生家は呉服を商う。つとに文学に 志し、二十八年雑誌「文庫」の記者として詩 欄を担当、三十四年処女詩集「無弦弓」を刊 行、のち「詩人」をおこして口語自由詩運動 の道を拓き、「女子文壇」等によって女性文 芸の育成に努め、終生 日本近代詩の歴史と ともに歩んだ。日本芸術院会員。昭和四十年 一月十七日寂。>と彫ってある。

公園内には 古墳が沢山ある。それらを見て歩くのも楽し い。その最たるものが公園の北にある仁徳天 皇陵であろう。またの名を大仙古墳と言い、 五世紀代の前方後円墳。墳丘は長さ四百八十 六m、後円部直径二百四十五m、前方部幅 三百五mで世界最大の墳墓だという。

 博物館を中心に大仙公園周辺を見たら、市 内の見物をしよう。先ほどの市民会館から西 へ一キロも行った路面電車との交差点が宿院 の交差点だ。線路に沿って北へ百五十mも行 くと道路の左脇(西)の舗道に横長の白い石 の晶子歌碑がある。
<海こひし潮の遠鳴りか ぞへつヽ少女となりし父母の家>と歌巻「冬 柏亭双巻」のうち「春風抄」よりとった歌が 彫ってある。
碑の隣には石柱に「与謝野晶子 生家の跡」と彫ってある。この碑より道路よ りに晶子の生家があったゆかりによる。

晶子歌碑

碑の脇の案内板には<歌人・与謝野晶子は、明治 十一年十二月七日、当時の堺のほぼ中央にあ たる大道筋沿いに店を構えた菓子商「鳳宗 七」の三女として生れました。幼い頃から父 宗七のすすめで漢学を習い、十七歳頃から在 阪の文学会に入り歌を詠み始めました。明治 三十四年、のちに夫となる与謝野鉄幹のもと へ上京、本格的に歌の道を歩き始め代表作 「みだれ髪」を発表しました。>と説明され ている。

 碑の所から道の向いのやや北を見ると三和 銀行堺支店の建物が見える。その前の道脇に は甲斐町の碑があり、その台座の側面に<菜 種の香古いさかいひたすらむ踏ままほしけれ 殿馬場の道>と晶子の歌が彫ってある。

 宿院の交差点から西へ行った最初の細道を 左(南)へ入り百mも行った左(東)に千利 休の家跡がある。千利休は野上弥生子が「秀 吉と利休」に、井上靖が「本覚坊遺文」に書 いている。

 路面電車の道を北へ進み八百mも行った、路 面電車の停留所では二つ目の花田口の所から 道を東へ四百メートルほど行くと泉陽高等学校(車 之町東三丁)がある。晶子の出身校だ。
正門を入って左へ進むと晶子碑の案内板がありそ れに従って校舎の裏に回ると<あヽおとうと よ君を泣く 君死にたまふことなかれ(以下 略)>と「君死にたまふことなかれ」の一節 を彫った詩碑がある。

晶子詩碑

 泉陽高校の北には妙国寺がある。門は北側 にある。森鴎外の小説「堺事件」の舞台であ る。
慶応四年(一八六八)二月十五日、フラ ンス軍艦ジュプレ−号の水兵が堺港から許可 なく上陸、神社や民家に土足であがり大騒ぎ となり警備の土佐藩士が帰艦を求めたが言葉 が通じず、さらにフランス兵による隊旗略奪 などに端を発しフランス水兵十数人を殺傷した事件。
フランス側は賠償金十五万ドルと土佐藩士の 処刑を要求、成立直後の弱小政府はこれを飲 み二十名が切腹することになり妙国寺境内で フランス側立ちあいのもと切腹が行なわれた 。十一人に到った時フランス側は<人々が身 命を軽んじて公に奉ぜられるには感服した が、何分その惨憺たる状況を目撃するに忍び ないから、残る人々の助命の事を日本政府に 申し立てる>「堺事件」と切腹の中止を求め た。寺には遺品が残されている。妙国寺の境 内には「英士割腹跡」の碑がたっている。境 内の天然記念物の大蘇鐵は信長が安土城に移 した時夜ごと堺へ帰りたいと泣いたという伝 説がある。妙国寺の北隣の宝珠院には土佐十 一烈士の墓がある。

 宝珠院の北には西本願寺別院がある。本堂 の左手前に晶子の歌碑がある。<劫初より作 りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘ひとつ打 つ>と彫ってある。

 さらに別院の前の道を北へ進んだ突当りに ある覚応寺には<その子はたちくしになが るヽくろかみのおごりの春のうつくしきか な>と彫った歌碑がある。

覚応寺の歌碑

先代の住職河野鉄 南が鉄幹・晶子の知合で二人この寺を訪れて もいる。自分で格子戸を開けて境内に入れ る。パンフレットも置いてある。静かに過ご したい。

 晶子の生家前を走っていた路面電車阪堺電 軌阪堺線の南の終点浜寺駅前には浜寺公園が 旧海岸線に沿って南北に拡がっている。

浜寺公園

中央の入口から入って右手に百mほど行った松 の林のなかに<ふるさとの和泉の山をきはや かに浮けし海より朝風ぞ吹く>と彫った晶子 歌碑がある。浜寺海岸は晶子・鉄幹のロマン スの序章となった舞台である。

 海岸線を北へ辿って宿院の交差点から西へ 真直来た道とのぶつかるあたりに大浜公園が ある。その海岸の端に旧灯台がある。明治十 年に作られた我国最古の木造灯台で国の文化 財になっている。ついでに訪れたい。

旧灯台

 この灯台から海岸沿いに市内に戻っていく と明治初年仏人撃攘の処の碑がある。堺事件 の発端の地である。いくつかの記念碑がたっ ている。二百メートルも進んで北に曲がれば南海 電鉄の堺駅に出る。

 今回は与謝野晶子を中心に堺の町を歩いて みた。もっと歴史の遺蹟があることと思うが 無学で触れられ無かった。またの機会に追加したい。


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「名作のふるさと」ホームページ


中央大学文学部文学科国文学専攻
渡部芳紀研究室