三島由紀夫と浅野晃

   野乃宮 紀子

 

浅野晃について  浅野晃はその生涯において二百冊に余る著書を書き残したといわれるが、資質としては何よりもすぐれた詩人であった。浅野には〈文学とは美を表現することで あり、その表現が人生の至上所に届くなら最高の作品になる〉という考えが根底にあった。(この考えは三島由紀夫にも通じるものである。)この考えを骨格と して膨大な数の詩を生み出した。そして、悲憤・悲痛といったものが詩を突き上げさせる原動力であることは、古今東西の詩人の例に待つまでもなく浅野にとっ ても真実であった。

 

その経歴を簡単に紹介しよう。

明治三十四(一 九〇一)年八月十五日、陸軍薬剤官であった駒太郎とステとの次男として、父の勤務地滋賀県大津市で生まれる。兄はすでに夭逝していたため実質的な長男で あった。明治四十三年、九歳のとき父の転任で東京に移る。大正八年、東京府立一中を卒業、九月に第三高等学校(京都)に入学。中谷孝雄や梶井基次郎らと相 知る。ボードレール、ニーチェ、ベルグソンなどの書に親しみ、西田哲学に傾倒する。大正十一年三月、第三高等学校を卒業、四月、東京帝国大学法学部仏蘭西 法科に入学。大正十二年一月、新人会に入る。大正十四年三月帝大卒業、四月経済学部大学院に入り財政学を専攻(一年で退学)。産業労働調査所(産労)の所 員となり、野坂参三、生涯の盟友水野成夫を知る。(水野成夫は戦後の経済界の四天王の一人と言われ、池田内閣を影で支えたとされる。)大正十五年、日本共 産党に入党、共産党フラクションのキャップとして活動。弘文堂からマルクスの「哲学の貧困」の訳書を刊行。昭和三年三月、三、一五事件で逮捕される。昭和 五年三月、保釈出所。昭和六年(一九三一)二月二十七日、沢田ミネと結婚。昭和七年秋、ショーペンハウワー「意志と現識としての世界」(博文館、姉崎訳) を読み、マルクスに決別する。昭和十一年、岡倉天心の「東洋の理想」に感動し、天心の志をつぐことを決意。詩や評論を書き始める。昭和十二年、岡倉天心の 「東洋の理想」の訳を創元社から出版。昭和十三年、ペン部隊として武漢作戦に従軍。白水社から「時代と運命」を出版。昭和十七年、陸軍宣伝班員としてジャ ワ遠征に参加。乗船した佐倉丸が撃沈され、スンダ海峡で辛くも救助される。昭和二十年(一九四五)五月、東京大空襲で杉並の自宅全焼。十月、家族とともに 北海道勇払に移り住む。昭和二十三年四月、詩集「風死なず」を出版。五月、腹膜炎で危篤状態となり、開腹手術五回、九死に一生を得る。昭和二十五年五月、 保田與重郎の招きで奈良桜井の保田邸に起臥、飛鳥に遊ぶ。七月、家族とともに東京に戻る。昭和二十八年、柳田国男の命で「民間伝承」の編集に携わる。昭和 三十年、立正大学文学部教授となる。昭和三十八年八月、詩集「寒色」を出版。昭和三十九年一月、詩集「寒色」にて第十五回読売文学賞受賞。昭和四十年三 月、詩集「天と海」を出版。昭和四十七年十月、月刊誌「浪曼」を創刊。昭和五十一年三月、立正大学を定年退職。昭和六十年五月、「浅野晃 全詩集」を出 版。平成二年(一九九〇)一月二十九日、心不全にて八十九年の波乱万丈の生涯を閉じる。

 

三島由紀夫について  昭和元年(一九二五)生まれの昭和時代の申し子の如き、時代の頂点を極めた天才の一人としてあまりにも有名な存在であろうから、いまここで稚拙な文を連ね る必要はないだろう。学習院高等科を首席で卒業、天皇陛下から銀時計を拝受するなど、学生時代から抜きん出ていた彼が、作家として生きることを決意。戦後 の混乱と荒廃の中で、破壊された日本的なもの・美的なもの・劇的なるものを求めて文章道を驀進、行動の場を広げ、数々の輝かしい経歴を重ね、心身ともにメ タモルフォーゼを遂げ、四十五歳、若さの名残の中に自刃して果てた、真に稀有な存在である。

作 品の数々に見出される華麗にして比類のない表現力、圧倒的知識量には、知性の高さ・輝きを目の当たりにする思いである。詩人的熱情をもって、美の構築に果 敢に挑戦し続けたその姿勢に脱帽である。あえて欠点をあげるなら、心理描写において〈人間が本来もっている渾沌を余りに切り捨て(中略)曖昧さ、あるいは 割り切れぬところを無くすというところで、その人間を死なして〉(三谷信「級友 三島由紀夫」笠間書院刊、昭和六十年七月)いる点であろう。

 

浅野晃と三島由紀夫 その表現方法は異なるが、ともに日本を愛し将来を憂い、この国に自分の誠心を捧げた二人である。浅野晃は詩集「天と海」によって、三島由紀夫は作品と彼自身の生命をもって。

この共に丑年生まれ、二回り年の違う大学先輩後輩の二人の接点はいつごろであろうか。

 

昭 和三十九年一月二十三日、浅野晃は詩集「寒色」によって第十五回読売文学賞を受賞する。この受賞は佐藤春夫の強い推薦によるものであった。この頃、次のよ うな三島の文章が残されていることから見て、少なくてもこの時期、三島が浅野に注目していたことは明らかである。(因みに三島は、昭和三十二年「金閣寺」 (第八回、小説部門)と、昭和三十七年「十日の菊」(第十三回、戯曲部門)とで読売文学賞を受賞している。)

 

〈ちかごろ感動した本として、私は浅野 晃氏の詩集「寒色」を挙げなければならない。これは現代日本人によって書かれた離騒経ともいふべき詩集である。

あ とがきによると、浅野氏が終戦後北海道勇払の曠野に流寓した当時の作ださうだが、ここには日本人の民族的悲歌の一つの頂点があつて、敗戦の歴史はどんな詳 細な戦史よりも、この一冊の薄い詩集にこもつてゐるといふ感じを私は抱いた。(中略)この詩集の美しさは、憤りにある。潜在した憤りが噴流してゐる詩もあ れば、それが深い治癒にみちびかれた詩もあるけれど、根本的な詩心は憤りにある。それはかつて東洋では公的な詩の発想の基であつたが、近代的な抒情がすべ てを蝕んだのちに、このやうな稀有な詩が生まれたのは、面白いことだ。しかもここでは、憤りの政治的な性質はすべて浄化され、「それの焔の色とりどりの無 言」しか見えないのである。〉(「芸術断想――憤りの詩心」『芸術生活』昭和三十九年四月)

 

若 き日に〈佐藤春夫から、貴方の年代には行李一杯の原稿を書きまくれといわれた〉(三谷信「級友 三島由紀夫」笠間書院刊、昭和六十年七月)三島である。佐 藤春夫の門下であった浅野晃に対し親しい気持ちを抱いたことであろう。そして、「寒色」に触れたあたりから、三島は急速に浅野の持つ(おおやけ)という意識に魅かれ近づいて行ったのではあるまいか。

 

昭和四十年三 月、浅野晃は詩集「天と海 英霊に捧げる七十二章」を出版する。これは、副題が示す如く、太平洋戦争で亡くなった人々(もちろん身近な人をも含んでいる) に捧げた鎮魂歌である。戦後二十年という区切りの年でもあり、この詩集を世に贈り得たことは浅野晃にとって感慨深いものがあっただろうと思われる。

責務の詩人浅野 晃に三島由紀夫は心服したであろう。同時に自分の責務の在り方についても思いを馳せたに違いない。優れたものに心を留め、認めることのできた三島である。 昭和四十二年五月、「天と海」は三島由紀夫の朗読、山本直純の音楽という組み合わせでレコード化される。甘やかで誠実さを感じさせる三島由紀夫の声である が、このときの三島の文章も音楽的である。

 

「天 と海」は、抒情詩であると共に叙事詩であり、一人の詩人の作品であると共に国民的作品であり、近代詩であると共に万葉集にただちにつながる古典詩であり、 その感動の巨大さ、慟哭の深さは、ギリシャ悲劇、たとへば、アイスキュロスの「ペルシア人」に匹敵する。この七十二章を読み返すごとに、私の胸には、大洋 のやうな感動が迫り、国が敗れたことの痛恨と悲しみがひたひたと寄せてくる。浅野晃氏は、日本の詩人としての最大の「責務」を果たしたのである。

 それを私が 朗読するとは身の程知らずであるが、この詩に感動した者の一人としての立場から、いはば作者と読者の相聞といふ形で、ただ心をこめて朗読するのみである。 この詩の偉大さの前には、末梢的な技巧は何ら用をなさぬと思ふ。事実、マイクに向かつて朗読しつつ、第六十六章「アジアの岸の歌」や第六十八章「ミンドロ の岬から……」などにいたると、澎湃たる浪曼的感動が胸に溢れ、自分の身がこれらの詩句によつて天空へ引き上げられて、はるか南溟の島々を瞰下ろし、潮鳴 りのあひだに呼び交はす英霊たちの声を、この耳に聴いたやうな気がしたのである。もつともこれは私の主観的感動であつて、出来上つた朗読そのものが、人に どれだけの感動を与へるかについては、そこに自ら技術の問題が入つてくることを、私は知らぬではない。朗読者としての私には感動はあるが技術はない。た だ、この詩作品自らをして語らせるお手助けをするだけである。しかし、あくまでもこの作品は、技術があつて感動のない人によつては朗読されるべきではない と思ふ。(中略)私はこの新しい試みが、「天と海」の感動をより広汎な人々の心にしみ入らせる一助ともなれば、と望んでゐる。

「天と海」について〈初出〉「天と海」レコードジャケット・タクト電機・昭和四十二年五月(四月にレコード吹き込み)

 

三 島は、この時期、最後の大作「豊饒の海」に取り組んでいる。人間の考えることは変転してやまないが、不変の傾向というものはある。三島の場合、一瞬にして 消滅する芝居のようなものへの憧憬や、死への憬れ、というより死に対してすら積極果敢に挑んでいく、といった強さがあるように思われる。三島自身が好きだ という「憂国」や「豊饒の海」第二巻の「奔馬」、また「アポロの杯」のミランダ王の言葉〈生まれざりしなら最も善し、次善はただちに死へ赴くことぞ〉にそ のことがよく表れている。そして、公という考え方へのセンスがいよいよ磨かれていく。

 

昭和四十五年十月一日、浅野晃は詩集「観自在讃」を出版する。当然、三島由紀夫にも贈呈され、三島から礼状が届く。日付は十月二十六日、三島の自決からほぼ一カ月前であった。

 

《前略

御無沙汰ばかり重ねてをります無礼を何卒お恕し下さい。

さて此度、御詩集「観自在讃」を頂載いたし、厚く御礼申上げます。丁度仕事の忙しい時で、一段落ついてから、静かな心境で拝読するのをたのしみにいたしつゝ、延引、今日に及びました。

外の嵐の夜、この長詩を拝読する想ひは一際切なるものがあり、「それほど私らの海岸線は繊細で、敏感で、悲しいのだ」といふ心にしみる一行を拝誦してゐると、野分の彼方に日本の形のすみずみまでが思ひ浮びました。

アンコール.トムのバィヨンのふしぎな仏顔がアヴァローキテシュヴァラであるといふ説から「癩王のテラス」といふ戯曲を書いたこともある小生とて、観自在菩薩の信仰には、一方ならぬ関心を持ってまゐりましたが、御高作に触れて、観自在の目がアジアの目であり、(「まことにアジアが精神でなかったらそれは何ものでもなかったらう」)こ の目と、日本の歴史の悠久をつなぐ視点を、新たに教へられた感じがいたしました。「天と海」以来、御作に触れる毎に、胸奥にいひしれぬものが湧き起り、慷 慨の焔が胸を充たし、歴史の不如意に足摺りしたくなるやうな気持が強く起って、むしろ御詩集を繙くのが怖ろしいやうな気になるのでありますが、今度の「観 自在讃」では、嵐と共に鎮魂が、激越な憂国の想ひと共に静謐が、遠い一片の青空のやうにのぞいてゐます。それでも私の好みかして、第三歌にもっとも心を打 たれました。

今の世に稀な、高い純度の感動を味はふことができましたことを、本当に感謝いたします。

向寒の折柄、何卒御自愛御専一に、

        怱々

十月二十六日 三島由紀夫

浅野晃様》

 

死を目前にした人の文とは思えぬ乱れのない高揚感ある書簡である。これまで引用したものと同様、浅野晃の詩の本質を的確にとらえている。なにより浅野晃に対する敬愛の念が伺えよう。

浅野晃は三島由紀夫亡き後、その精神を継承すべく、林房雄、保田與重郎らと共に憂国忌を発起し、永らくその代表を務めたのである。

 

すぐれた文学作品は、人間の心を潤し、勇気を与え、人間らしくあらしめる力を持つものである。三島由紀夫の作品も浅野晃の詩も、その力を充分に持っている。世界に誇り、世界に貢献できる力を備えている。多くの人にもっと読まれることを望むものである。

 

潟qューマンサイエンス 主任研究員 ののみやのりこ