梶井基次郎の魅力

渡部芳紀

 梶井にとって幸福とは、虚構の世界に王国を築くことであった。もちろんさめた梶井の眼はそれが砂上の楼閣であることも知っていた。シジフォスの労働のように無駄な行為と知りながら、あえて、その無為の行為に己をかけたのである。

 梶井にとり結果は問題でなかった。その過程が全てであった。到達した時の順位だはなく、ゴールに到るまでの経過が大切であった。

 一言で言えば、絶えず挑戦すること、働きかけること、その中に、幸福を、価値を、生き甲斐を感じた。受け身の人生、受け身の生き方は赦されなかった。それが、結核というしびょうをにとりつかれ、眼前に死を突きつけられた男の、残された生を生ききるための方法だった。

 幸福とは、絶対的なものではない。それは、相対的なもの、心の持ち様にある。いくら金があったり、地位が高くても、幸せを実感出来ない人もいるし、いくら貧しくても、幸福に満たされている人もいる。

 梶井は、結核という不幸、残された生がわずかしかないという不幸を、残された短い生を、燃焼しつくすことで、挽回しようとした。

 梶井の作品は、そうした、生への挑戦の軌跡である。しかもそれは、破れることを知った戦いであった。蟷螂の斧を振りかざし、曳かれ者の小唄を歌うのである。

 そうした、梶井の挑戦の、最も鮮明に打ち出された作品が「冬の蝿」である。病気の<疲労>と<倦怠>が<私> の、回りに<冬の蝿>を住まわせている。日光浴をしながら<生の幻影で私を瞞そうとする><だらしのない愛情>の象徴である<太陽を憎>んでいる<私> は、<酷寒の中の自由>に憧れる。<日の当たった風景>の中の<感情の弛緩><神経の鈍麻><理性の欺瞞>に満ちた<世間における幸福>のかわりに、<た とえ人はそのなかでは幸福ではないにしても、そこには私の心を澄ませ心を透き徹らせる>世界に憧れるのである。ある日、<私>は、闇の峠に自分を遺棄し、 闇の中を歩くことにより、<私の運命そのままの四囲><私の心そのままの姿>を手にし、<私の神経は(中略)張り切り><決然とした意志を感じ><新しい 戦慄>を感じる。生の燃焼の一瞬がそこにあった。その死という運命への挑戦が、彼の回りから<冬の蝿>を放逐した。「冬の蝿」は、そうした挑戦お姿を映し た作品である。

 が、その挑戦はその感動は、かりそめのものであることも<私>は知っていた。<冬の蝿>を放逐した、その背後に運命の<気まぐれ>を感じとり運命の手から逃れられぬ<憂鬱>をも感じるのである。

 しかし、<私>の挑戦は、また繰り返されるであろう。命の終わるその時まで、絶えず挑戦しつづける中に、<私>の生き甲斐があることを<私>は知っているのである。(注1)

 この運命に挑戦する姿勢の形を変えたものが、梶井文学によく描かれる<凝視>である。ものを見つめる中に、己の 生を確認しようというのである。存在証明を得ようというのである。それは、生を拒まれた者、行動を拒まれた者に許される唯一の能動であり、働きかけであっ た。自分に与えられた死という運命から眼を反らさず、真っ正面から見据える。その中に、生きがいを見出すのである。「ある心の風景」に最も顕著にそうした 特徴は表れ、「蒼穹」「筧の話」「交尾」といった珠玉の作品にもつながっていくのである。

 梶井文学は、そうした挑戦と<凝視>による生の燃焼の記録である。「ある心の風景」にそれは描かれ(<「視るこ と、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」(中略)その誘惑ーー病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距たりを おいて眺められるものとなる心の不思議>)、「城のある町にて」でそれは語られる(<草や虫や雲や風景を眼の前に据えて、秘かに抑えて来た心を燃えさせ る、ただそのことだけが仕甲斐のあること>)。

 もちろん、このような幸福は、極めて観念的なものである。本人の心の中だけの現象であり他人には容喙できないこ とである。しかし、本人にはこの幸福こそ全てなのである。<私は街の上で非常に幸福であった。(中略)なにがさて私は幸福であったのだ。>「檸檬」であ り、<そのときの恍惚状態そのものが、結局すべてである(中略)空の空なる恍惚万歳>「ある崖上の感情」なのである。あとは、読者がそれを実感できるかど うかである。感じることが出来る読者は感動し、感じない人は心動かされないのである。

 そうした、虚構の中に己を生かし、自己を燃やす姿勢は、虚構の完成、文体の完成へと向かわせる。完璧な構成、完 璧な表現、完成された文体、へ限りなく近づこうと言う姿勢がそこにはある。読者は、そうした表現そのもの、文体そのもの、作品そのものを楽しむのである。 変な理屈は必要ないのである。梶井作品は、読むだけで快感なのである。

 そうした作品全体の魅力はもとより、部分の魅力にも触れないわけにはいかない。「檸檬」の<ガチャガチャした色 の階調をひっそりと紡錘形の身体に中に吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた><檸檬>、「城のある町にて」の、<「チン、チン」「チン、チン」 (中略)質の緻密な玉を硬度の高い金属ではじくような虫>の鳴き声、「ある心の風景」の、<病気の汚れた彼の血を、洗い清めてくれる><朝鮮の鈴>、ほか 梶井作品の全体に散りばめられた珠玉のようなイメージの数々、それらは、読者の心を豊かに彩ってくれるのである。

 最後に、梶井文学に散りばめられた諧謔(ユーモア)の魅力も見落とすわけにはいかにだろう。初期の「檸檬」から「交尾」「のんきな患者」までそれが流れている。

 一見、暗く、病鬱に閉ざされた不健康なせかいのように見える梶井文学の世界は、逞しく、健康で、明るく、透明で、煌めきのある豊穣の世界なのである。

 これ以上の贅言は避けよう。あとは、読者それぞれが自分の手で直に梶井文学に触れ、それぞれにとっての魅力を引き出してくれればいいのである。

                      (「解釈と鑑賞」1999.6


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