浅野晃・ノート

   野乃宮 紀子

〈保 田與重郎といへば、日本浪曼派といふことになる。(中略)明治文学このかた浪曼派の流れは脈々と今に流れつづけてゐる。私はこの中に育った一人〉であり、 〈『日本浪曼派』の仲間ではあるが、同人ではなかった〉(『浪曼派変転』高文堂出版社、昭和六十三年十月)という浅野晃先生のお話を身近に拝聴する機会に 恵まれた。場所は立正大学で、一九八三年十一月から一九八九年十二月までのほぼ毎月一回である。お話の内容は日本浪曼派のみならず、古今東西の歴史、地 理、文学、音楽、絵画、その他多岐に亘っていたが、ことに人物論が面白かった。そのお話を記録したノートが数冊、私の手元にある。私の元気の源であり、生 涯における宝物である。先生は一九九〇年一月二十九日、八十九才で亡くなられたが、実にその一月前まで、私どもに広く深い学恩を暖かく示されたのであっ た。

浅 野晃先生には、日本浪曼派に関するまとまった著作として『浪曼派変転』のほかに『随聞・日本浪曼派』(鳥影社、昭和六十二年)がある。日本浪曼派が成立す ることになった経緯や、その系譜に連なる人々に関して檜山三郎の質問に答える形で余すところなく伝えているので参考にしていただきたい。

今 回は、浅野晃ノートから、保田與重郎、柳田国男、津田左右吉、桑原武夫のエピソードを中心にご紹介しよう。できうる限り先生の口吻を忠実に再現した。話が 展開していく様の面白さ、学識の広さ・深さ、卓見、詩情、ユーモア、鋭い批判精神、暖かいお人柄などを味わっていただけるなら、無上の喜びである。

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保田與重郎のこと

保田與重郎君は、非常に教育熱心で感心したことがあった。

昭和二十五年ご ろであるが、奈良の桜井の実家――彼の家は吉野に山林か何かを持っていた大地主であった――に僕を呼んだ。奈良県に入ったら、戦争前と何も変わっていない ことに驚いた。長閑で戦争なんかどこにあったのかと思うほどだった。夜になると、子供達が机に向かって勉強する。するといちいちそれらを見てやるのだっ た。尾崎士郎の連載なども切り抜いて「これは良い」とか言っていた。エネルギッシュな男だった。

エネルギーというものは、出せば出すほど出てくる、というのが、保田君の考え方である。僕なんか子供向けの本は随分書いたが、自分の子供の教育には消極的で、こんなところにエネルギーを使えば、肝心のところで力が出ないのではないかという変な迷信に捕らわれていた。

今度、必要に迫られて保田君のものを読んだが、実に細かいところを書いている。種本はマルクスかレーニンだろう。彼は横文字は読めなかったが、友達に、ドイツ語、英語、フランス語を読ませて記憶していた。記憶力の非常によい男だった。

(だから、これによって)非常に広範囲のものを読んでいることになった。

全集の第三巻にセントヘレナ――ナポレオン――のことを書いている。これは百枚以上を『コギト』に一気に載せたものだが、箕作さんの「フランス革命史」が種本ではないか。この「フランス革命史」というのが非常に面白い。

芳賀檀は 矢一さんの長男である。矢一さんはドイツの文芸学を東大で講義した人であるが、自分の家で檀を教育するのにドイツ語でやった。檀は東大を出たが、すぐドイ ツに五年ほど留学したため、ドイツ語の方が出来て日本語がうまくない。ヘルマン・ヘッセの訳などがあるが、本人には原典の方の理解が深いのではないか。檀 はドイツでベルトラムに師事した。ベルトラムはニーチェが専門だった。昭和八年ごろ、ニーチェをひっさげて帰国し、保田君がその頃、芳賀檀と出会った。 ニーチェの頭には超人のモデルとして、ナポレオンがあった。二人で盛んにナポレオンのことを話し合った。

保田君は「セントヘレナ」――後に「詩人と英雄」という本になる――を、芳賀君は「ナポレオン・ボナパルト」――後に「英雄の性格」という本になる――を『コギト』に発表する。ほとんど芳賀君がしゃべったものを書いたのではないか。

とにかく、保田君はエネルギーが無尽蔵であった。

  ―― 一九八六年三月十五日(土)のお話より――

 

柳田国男先生(碩学)を中心に

柳田国男先生の成城の家(「緑陰小舎」)が信州の飯田に移転することになった。

息子の為正さんが幸い健在で、奥さんが絵を描いている。そのグループの展覧会をやっていて、僕はこの間、その展覧会に行って来た。二階の屋根裏だけは昔のままだが、すっかり変わっていた。庭が狭くなっていた。

昭和三十七年の八月に柳田先生は亡くなったが、その年の春頃伺ったのが最後じゃないか。駅からすぐだったので、あっという間に着いたので驚いてしまった。蔵書はすべて成城大学へ寄贈されたので中味はからだった。

改めていろんなことを思い出されて、今日は先生の生涯を話そうと思う。

 

どうしてああいう不思議な偉い人が出たのか、今はああいう人は出ない。碩学、――僕の知っている人は柳田先生が最後である。巨匠だとか、いろいろ言っているが、僕らの実感では、柳田先生は碩学の基準になる人です。

 

津田左右吉先生も碩学の人と言える。どちらが上かと言われると困るけど。

津田先生に「僕は柳田先生を知らないんだけれど、どんな人?」と言われて、「そう言わずにお会いになったら?」と言った。あとで岩波が仲を取り持って会ったらしい。「どうでした?」と聞いたら、「そうだね」という返事で波長が合わなかったらしい。

碩学同士が八十歳近くでいきなり会ったってねぇ。どちらもお互いのものは読んでいないし。柳田先生は津田先生のものを読んでいるけれど、読んだと言わない。回りが大先生に仕立ててしまっている。

碩学というと、中味は違うが、僕はいつでも両先生のことを考える。

 

南方熊楠さんには碩学+αがある。僕は会ったことがないけれど、単なる碩学でなく化け物である。柳田先生そのものが、南方さんを巨人であるとおっしゃっている。

 

昭和十三年頃、「アジア問題講座」を水野茂夫君とで十三回予定で出すことになり、毎回の巻頭文を偉い先生に書いてもらうことになった。柳田先生、津田先生、長谷川如是閑先生、…。

水野君はいやだと言うし、巻頭文を貰いに行くのが僕の仕事だった。突進すれば、うまくいくことが分かった。

 

津田先生は、あの頃、赤坂見附の大久保利通邸の近くに住んでおられた。そこへいきなり乗り込んでお願いした。上がって話をしているうちに先生は段々興奮してきて、大体の顔ぶれを聞いて頷いた。そういうことで僕は津田先生と知り合った。

 

アジア問題講座で知り合った先生が多かった。

三宅雪嶺先 生も、そう。雪嶺先生には一度しかお会いしていないが、昭和十三年ごろ原稿をお願いにあがった。初台に住んでおられたが、まるでバラックでびっくりした。 奥さんの花圃(かほ)先生が障子を開けた。雪嶺先生はお写真で見たとおりの顔で、簡単に「結構ですよ」と引き受けた。そして、「君、書けよ。最近書いたも のが二、三あるからそれから君選んでよ。これをうまいこと混ぜ合わせれば出来るよ。」と言われて、僕はボーとして帰って来た。先生の文章には特徴があっ た。その頃、雪嶺先生は八十一、二歳でしょうか。今の僕より若いのだけど、細かいことから超えた心境にあったのだろう。どうやって、三つのものを混ぜたの か…とにかく僕は書いた。

 

その次、柳田先生にお願いしたら、「僕の書きたいことは、君知っているから、君、適当に書けよ。」「それじゃ、ご指定ください。」「そんなもの必要ないだろう。」

そこで、先生のスタイルで書いて先生のところへ持って行ったら、「これでいいよ。」

 

えらいことになったのは、大川周明さん。

乗り込んで行っ たら、すごい玄関で、袴を穿いた少年剣士が出て来て「先生にお目にかかりたい。」と言ったら、周明先生も袴で出て来た。「引き受けたいけど、僕は今忙しい んだ。」そこで帰ったら僕も困るから、「誰が考えても、先生はアジア問題の第一人者ですから」と言ったら、書いてもいいということになった。書いてもらっ たのは良かったが、後で呼び出されて、あぶなくあの人の子分にされそうだった。危なく虎口を脱した。

大川さんは東京裁判で演技をした。アメリカ側にとっては、頭痛の種だった。気の触れた真似をして病院に入り、二年間『コーラン』の訳をした。大した役者ですよ。

しょっちゅう誘いがあったが、辛うじて虎口を逃れた。

 

和田清先生は、東大の中国史(清朝史)が専門で、小田急の梅ケ丘に住んでおられた。ここへも乗り込んだら、えらい共鳴してくださった。和田先生は、田中克己君の先生です。田中君は浪曼派の詩人で『四季』という雑誌に詩を書いていた。詩だけでは食えないで歴史家になった。

 

今考えてみると、諸先生に体当たりをしたが、どちらからも拒否されなかったので、僕は自信みたいなのがついた。拒否されなかったばかりでなく、繋がりを得た。

 

一番偉い感じを受けたのは雪嶺先生で、南方さんより上なのではないか?

どうして上なのかと理詰めにされると弱いのだが。

 

柳田先生のことに戻りますけれど、碩学というのはご本人の素質ということもありますけれど、年譜を見た方が面白い。

郷里は、兵庫県 の加古川のほとり。お父さんはお医者さんの松岡操で姫路藩の儒者について儒学を学んだ。職業は医者だが、儒学も教えていたので、儒者としての名の方が高 かった。お母さんのことについては書かれていないが、お祖母さんが非常な学者だった。漢籍も教え、古文も出来た。柳田先生はこのお祖母さんの素質を受け継 いだのではないか。

お兄さんは井上 通泰さん、眼科医で国文学者、和歌もよくした。次弟の松岡静雄さんは海軍大佐、記紀研究家でもある。末弟の松岡映丘さんは日本画家。兄弟みな才能ある立派 な人達だが、柳田国男という碩学が出来ていく環境は、どこへ行っても、松岡家というのは貧乏だ、ということです。男の子が多かったので、方々へ養子に出さ れたり、働きに出されたりで、みな苦学したようだ。援助を受けて長男が東大を出て眼科医として一家の柱になったのは非常な幸運だ。柳田先生は三男でアルバ イトとして留守番居をやらされたが、どこへ行っても漢籍・古文などを読んだ。乱読して、そして、それを覚えている。

 

因みに南方さんはもっと積極的で、全部自分で写す。「和漢山菜辞典」(東洋文庫)なども全部写している。

 

後に柳田先生は要のところを克明にノートをとる習慣を身につけた。今でいうカード。僕らは、ああいうことは出来ないで、ただただ驚嘆していた。民俗学では、門下もすべてあのカードを活用している。

 

スケールは南方さんの方が上みたいですけど、エネルギーは柳田先生も相当ある。

問題は、エネルギーの量で先生を凌ぐ量を持っているかどうかで、本当は出藍の弟子が出てくることが望ましいのだが、レベルダウンしているのではないか?

 

柳田先生の少年時代、いくらでも本が読める。乱読、それが基礎になる。記憶力がおそろしくいい。十一歳のとき、蔵家三木家に一年間預けられ一年間本を読み暮らす。

明治十一年十四歳、体が弱いため長兄の友、小川家に預けられ、本を乱読して暮らす。

明治二十三年十六歳、冬上京。兄井上通泰の家から図書館へ通う。そこで何でもかんでも漢籍から江戸の戯作まで読んだ。

文学との出会いは、明治二十五年十八歳、松浦萩坪の門に入り、和歌を学ぶ。同門に田山花袋がいて同門相知る。明治二十七年二十歳、花袋と日光に行き、尾崎紅葉に会う。

明治二十八年二 十一歳のとき、『文学界』に書く。明治二十九年二十二歳、花袋と共に国木田独歩を訪問する。『文学界』、『国民の友』に書く。この間明治二十二〜二十五年 にかけて鴎外がやっていた『しがらみ草紙』に書く。明治二十七年一高に入る。校友会に書く。明治三十一年二十四歳、東大に入る。『帝国文学』に書くように なる。

新進の文学者だったが、また一方で農政学をやり、こちらの道を辿る。それというのも、文壇は花袋の自然主義の勢力になってきて、柳田先生の関心はなくなったのではないか。

しかし、一方で藤村ら、詩人との交流は繋がっている。

農政学が民俗学の基礎になる。柳田先生の先生は松崎蔵之助。

明治三十三年二十六歳で卒業、農務省農務局に入る。同時に大学院にも籍を置く。早稲田大学で農政学を講義する。これが民俗学の出発点となっている。

 

一昨日、成城に行ったらあの辺りに東京農業大学がある。学生募集の看板には農業経済学があるばかりで、農業政治学の方はない。

柳田先生の農政学のあとを石黒忠篤さんが継いだが、石黒農政は戦争に負けてどこかへいなくなってしまった。東畑精一がそのあとを継いだが、これが日本の農業を滅ぼした。東畑農政は全く骨なし。彼は三重の男で中谷孝雄の家と隣り合わせ。勉強はできる。百点満点は取り、大変な天才と騒がれたが、いざとなると全く駄目。

農政学の募集がないというのは、現在の日本の象徴だ。努力して作った土を破壊して、土は死んでしまった。石黒以来、農政学は無くなってしまった。

 

柳田先生の民俗学は、本来は農政学から始まる。本道でなく脇道を行ったためにフォークロアの成果を見た。柳田民俗学も消えようとしている。これからは文化人類学の時代だといっているが…。

石田英一郎君は文化人類学から出発したが、柳田民俗学に帰って来た。柳田先生の最後の弟子じゃないか。惜しい事に早く死んでしまった。

僕らが惜しいと思うのは、民俗学は農政学から出発した、そのことが見失われている。国学院大学の樋口君などは楽天的で、米などは心配ないよ、と言っているが、僕はやはり心配だ。

柳田先生は、晩年「先祖の話」「海上の道」などを書かれたが、四十巻近くある著書の半分は農政学だ。それも火が消えたようになくなってしまった。

柳田先生は詩人的なエネルギーをいつも燃焼して詩的エネルギーが大きかった。学問的エネルギーとどちらが大きいとも言えないくらいだ。

 

僕は柳田先生を 一般の読者に近づける役割を果たした。創元社で創元選書を出したいといったとき、僕は柳田先生を、と言ったんだ。第一巻は柳田先生の「昔話と文学」に決 まった。これで柳田先生は、初めて広い範囲に読者を持った。学術論文ではなく、文学あるいは随想文学として読まれる、という道が開かれた。そういうふうに して、学問というものを根付けていかなくてはいけない。

 

昭和二十五年に 北海道から帰って来て柳田先生の所へ挨拶に行ったとき、「君は五年もいたそうだけど何をしていたのかね?」「はい、詩を書いていました。」と言ったら、 「この大事なときに詠嘆をこととしているとは何事だ。」と怒られた。僕は先生の歌を褒めたことがない。だってうまくないもの。まぁ、宣長より上ですけど ね。

―― 一九八七年十二月十二日(土)のお話より――

 

津田左右吉先生(第二芸術論)を中心に

この間、桑原武夫君が亡くなった。実を言うと彼には一度しか会っていなかった。彼は三高に丁度入れ替わりのように入ってきた。会ったのは、三好達治君が死んで東京でお葬式があったとき、お通夜の席で初めて紹介された。「これが桑原君か。変ったところのないごく普通の人間だ。」と思った。

関係のない存在だったのだが、戦後の第二芸術論で――僕は戦後、北海道へ行って帰って津田先生のお宅に伺ったとき、――何かの話から桑原君のことになった。

津田先生は「あの小僧、若造のくせに短歌や俳句を馬鹿にしてやがる。」と激しく攻撃した。あまりの剣幕にびっくりして「先生、まあそんなに怒らないで。彼の言う事にも一理あるでしょう。」「君はどっちの味方だ。」と矛先を向けられた。

 

おとっつぁんの桑原隲蔵、京大教授――僕等は東洋史の教科書で知っていた――は、当時の権威であった。

津田先生は、被害者であった白鳥倉吉さんのお弟子さんだった。白鳥倉吉さんは桑原隲蔵のために東大の教授になれないで、学習院の教授になった。が、幸いなことに今の陛下(昭和天皇)は学習院で白鳥さんから歴史を学ばれた。

津田先生に言わ せると、自分の師匠がいじめられたという実感がある。「あれの息子だからロクなことはない。」というのが津田先生の言い分である。第二芸術論でジャーナリ ズムの脚光を浴びた、それも津田先生の癇に障った。僕は何も知らなかったから、桑原君を庇ったら、先生の怒りを買ってしまった。

津田先生というのは、「わたくし」の恨みの無い人で、公正な無私の方であったが、桑原武夫の恨みだけは特別だった。日本の和歌や俳句を非常に重要なものと考えておられたから、けちをつけられたことで怒りが増大した。

僕もこれを肝に銘じて、「わたくし」の恨みだけは晴らすことのないようにしたい。

 

桑原君は、歌人や俳人の急所を衝いた。歌人や俳人は、表面、何気ない風を装っていたが、ショックを受け、自信が相当揺らいだ。しかし、(このような批判は)何も桑原君が初めてではない。

明治時代に遡 り、文学というもの――詩歌、戯曲、小説の三つあるのだが――が西洋から入ってきた。その中で、津波のように入ってきたのが小説である。当時の劣等感、ど うしても新しい小説としての形が出てこないとかなわない。そこで、二葉亭四迷などが出て、坪内逍遥を引き継ぐ。

西洋の文学の本体――本流――は小説なんだ。「ポンペイ最後の日」、「レ・ミゼラブル」などの英訳に天心などは感心している。

ツルゲーネフが パリへ亡命したとき、フランスの作家達が彼のもとに集まる。彼の作品の英訳・仏訳が出てロシア文学というものに読者が出てくる。少し遅れて日本へ彼の英訳 が入ってきた。本体であっても、スタンダール、バルザックなどは、フローベルやユーゴーに較べて読まれていない。詩歌のシェリー、バイロン、キーツも入っ てきたが、本体は何といっても小説で、本体で押してゆくのが近代文学である、というような感じであった。

詩歌の地位は必 ずしも低くなかったが、量的に足りないから、小説なんかが出てくると押されてしまう。明治三十年代は外国の翻訳小説が盛んに出るようになった。日本で問題 になったのは和歌と俳句である。その人口は相当なものであったろうから、明治になっても惰性で月並みなものを作っていた。

そういう中で正岡子規が 出て来て、何とかしようという気運が起こったのは、不思議と言えば不思議である。その子規は、東大の哲学科でリアリティの問題が分からず落第してやめる。 子規は文学をどのように受け取っているか? 彼はフェロノサのリテアチェア――表現――を学んでいる。文学とは美を表現することである、と。そこで俳句で も美をふりかざすようになる。どうして子規は俳句を好むようになったのか? 東大の図書館で連歌の歴史から何から写している。俳句分類は、子規全集の半分 を占める。明治二十五年頃、そういうことが根岸の片隅で行われていても誰も気付かない。

 

明治三十年代は和歌の革新時代であった。明治の終わり、伊藤左千夫の出た頃になると、非常に前衛的なものになってくる。それがとても面白い。そのラジカルな急先鋒に立ったのが、齊藤茂吉である。根岸派の中では、左千夫の歌が一番ラジカルである。恋歌が多い。茶人趣味で、これは誰それの茶碗だとか言って、子規を閉口させたらしい。

一方、精神医茂吉の歌は同じラジカルでも徹底して近代的である。彼の相棒に皮膚科の医者木下杢太郎がいた。この二人が、文学の近代化にいろんな働きをする。今で言うと、草野心平のようなもの。彼のようなタレント性はないが。

余談ですが、草野心平がお能の真似をしたのには、びっくりした。津田先生は、これをタレントと言うのですよ、とおっしゃった。

木下らの始めた『スバル』の運動なんか、タレント化の第一号のようなものだ。日本の文学をモダン化することに非常に貢献した。

茂吉は、日本でも最も早くニーチェに取り憑かれた人で、このニーチェ的なモダニズムのエネルギーは島木赤彦に伝わる。

 

正岡子規から始まった短歌・俳句のルネッサンス運動は、茂吉・赤彦に来て巨大な前衛運動になり、文壇・歌壇・絵画界に至るまで大きな震動を与える。

絵画では、岸田劉生の影響が大きい。万鉄五郎など、僕ら中学時代、上野の美術館に見に行ったものだ。万鉄五郎と並び称される人に里見勝蔵がいる。

岸田劉生のエネルギーは茂吉一派と繋がるものがある。

 

桑原君の第二・ 第三芸術論は一つの見方には違いないけれど、それじゃ、和歌・俳句が第二芸術論で説明がつくかと言えば、それは出来ない。日本の文学は、やはり和歌から始 まったことである。文学はリテラチュア・エクスプレッション――文学的印象――の表現である。大長編「カラマーゾフの兄弟」や「レ・ミゼラブル」と、芭蕉の一句と較べたら、量的にはかなわないが、重い・深いで言えば、芭蕉の一句の方が重いかもしれない。

島木赤彦の「(表現が)どこまで至り得ているか?」ということを考えると、より深いところまで届いている方が上ということになる。一句として微々たるものでも深いところまで届いていれば、如何に大長編でも負けである。

人生の寂寥境・人生の至上所まで届いていれば、最高の作品である。

柿本人麻呂の歌のあるものは、至上所に届いているという。微々たる作品数でも本当の意味での絶唱である。“至上所”というものを基本に考えると、短いものが有利である。

芭蕉なんかが一番有利になってくる。

  夏草やつわどもどもが夢の跡

  行く春を近江の人と惜しみけり

“至上所”を基本に考えると、第二芸術論は成り立たない。歌人・俳人は確信があるから、身を削っても一首・一句にかけてやっている。

俳句や和歌は詩形が短いから日本語がわからないと駄目なので、翻訳では理解されるのに無理がある。しかし、英語に次いで日本語をやる人の方が多くなるのではないか?

このことにより、和歌でも俳句でもそのままの形で世界中の人々に理解されるような展望が開かれるかもしれない。

到達点は、絵などは一挙にわかってしまう。絵の具はマテリアル――物質――である。西洋画は物質がゴテゴテしている。水墨画は物質があるかなきか、しかし、有る。

 

短い詩形、特に 俳句・和歌は今後も大きな問題になる。和歌滅亡論――組合せ論――というのがある。新しいものが出来あがる余地がなくなると、コンピュータなどははじき出 しているが、しかし、表現に向かって、表現しようという衝動は衰えない。それがある以上、和歌・俳句の存在理由は厳然としてあると、僕は思う。

 

桑原君のやったことで、いいことだなと思うのは、柳田国男先生の『遠野物語』をいち早く評価したこと。僕以外に柳田文学に感動したのが桑原君であることを印象深く思い出す。その次が『大菩薩峠』。

いち早く非常に 高く評価した人は泉鏡花であろうと言われている。鏡花は谷崎潤一郎に伝え、谷崎は直木三十五に伝えた。『南国太平記』が直木の出世作で、谷崎のところに 行ってえばったら「お前のはまだまだだ。『大菩薩峠』を読んでみろ。」そこで読んだら「聞きしに勝る傑作だ。」と言って兜を脱いだ。

谷崎さんには、二、三回しか会っていないが、じかに会うと、何とも言えない暖かさを感じさせる人。「しっかりやれ。」と激励するその暖かさがじかに伝わってくるのだが、文学は非常に冷酷でそういうものがなくなる。僕は谷崎が『大菩薩峠』を高く買ったというのは事実だと思う。

桑原君はルソー 研究を、チームとして共同研究して新しい成果をあげたということを聞いているが、見たことがないので知らない。ただ、『大菩薩峠』を熱心に評価したのは桑 原君である。桑原君の業績は、柳田国男の作品を文学として評価したこと、『大菩薩峠』を明治以後の日本人の書いた文学の最上のものとして位置付けたこと、 その点だけは僕は認めざるを得ない。

―― 一九八八年四月十六日、六月四日(土)のお話より――

枚数の制約から、ごく一部の紹介になった。武者小路実篤、島崎藤村、岡倉天心、佐藤春夫、辰野隆、三好達治、小林秀雄、等等、枚挙にいとまがないが、後日に託したい。

           潟qューマンサイエンス テクニカルライター ののみやのりこ

「解釈と鑑賞」平成十四年五月号掲載