淺野晃先生略年譜

鈴木敏幸作成

明治34年1901)

☆陸軍薬剤官で あった駒太郎とステ(佐賀)との次男として、父の勤務地滋賀県大津市で出生。父の同僚で、あい前後して生まれた島田叡(後に敗戦直前の沖縄県知事)と共に 〈あきら〉と命名された。兄は既に夭折、為に、実質的な長男として育てられた。父母ともに石川県金沢の人。父方の家は代々の蒔絵師、母方は貿易商を営むと いった家柄であった。

明治37年1904)3歳

24日。御前会議にて、対露交渉を打切り、開戦を決定》

☆父出征(姫路師団)。

明治39年1906)5歳

☆父が戦地から凱旋、金鶏勲章をうける。

明治41年1908)7歳

広島市の済美小学校に入学。

明治43年1910)9歳

☆父の転任により、一家東京に移る。麻布の本村小学校の二年生、翌年、同じ麻生の南山小学校に転入。南山の同級生には蔵原惟人がいた。

明治44年1911)10歳

9月、弟の猛(7歳)が疫痢にて急死。

大正元年1912)11歳

913日。明治天皇大葬。乃木希典殉死》

☆明治天皇の霊轜を青山の通りに座して拝した。

大正2年1922)12歳

☆青山師範付属小学校に転入。同級生に飯島正、三村|、三村文平、一色曜雄などがいた。飯島と親しくなり、短歌・俳句・探偵小説などをつくりはじめる。

大正3年1914)13歳

4月、東京府立一中に入学。同級生に、飯島・蔵原のほか、富永太郎・河上徹太郎・足利惇氏・杉本栄一など。一年上に五島茂・池谷信三郎、一年下には、小林秀雄・正岡忠三郎などがいた。

大正5年1916)15歳

☆このころから「アララギ」の会員となり、島木赤彦・斉藤茂吉の選をうける。

大正6年1917)16歳

☆このころ回覧誌「リラの花」をはじめる。同人には、蔵原・飯島・近藤孝太郎・松井文二・村井泰男・淺見昇・平山哲太郎などがいた。

315目、ロシア、ロマノフ王朝倒れる》

大正8年1919)18歳

3月、東京府立一中を卒業。7月、蔵原・飯島とともに京都に行き、三高を受験。

9月、三高文丙に入学。文丙には、飯島・島田叡・北川冬彦など、文乙に大宅壮一・中谷孝雄・山口誓子、理科には、梶井基次郎・岡潔などがいた。

大正9年1920)19歳

☆同人誌「リラ」を出す。蔵原.村井・松井は詩、近藤は翻訳をのせる。淺野は〈ボードレールとダンディズムの芸術〉と題した評論であった(「リラ」は創刊号のみで、廃刊となる)。

大正10年1921)20歳

☆小方又星と共に、〈三高詩会〉を創る。会員には伊吹武彦・中島要造・村岡智勝や一年下の河盛好蔵などがいた。

12月、卒業を前に記念詩集『三月』〈内山良男・大久保まひと・小方又星(夭折)・河盛淳二(好蔵)・サイトウ、ショウ(斉藤晌)・鈴木武雄・中島要・村岡ムロとの共著〉を出す。この頃、西田哲学に心酔し、西田幾多郎宅に出入りするようになる。

大正2年1922)21歳

3月、第三高等学校卒業。4月、東京帝国大学法学部仏蘭西法科に入学。

☆田付辰子の葉山の別荘に行き、クローデルの『人質』を共訳、始めて稿料を手にする。

大正12年1923)22歳

☆マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』を読み、強い衝撃を受ける。

☆かねて3高の連中からすすめられていた「新人会」(大宅壮一・服部之総・志賀義雄、のちに林房雄・菊川忠雄など)に入会する。

91目、上野桜木町の自宅で、関東大震災に遭う。母と共に、谷中の墓地に避難する。

大正12年1924)23歳

5月、長野県立諏訪中学校に赴任、英語を担当する。五味智英・藤森正雄・小尾虎雄(乕雄)など多くの秀才がいた。

6月、第七次「新思潮」を創刊(第六次の川端康成らが卒業したので、大宅・小方・淺野が川端と交渉して承認をとりつけた)。「新思潮」三号にて終わる。

☆この年の夏、櫛田民蔵に会い、生涯の師と仰ぐことになる。

大正14年1925)24歳

2月、上京して卒業試験を受け、3月、卒業。

4月、東京帝大経済学部大学院に入学。大内兵衛について、財政学を専攻、同じ教室には鈴木武雄・美濃部亮吉などがいた(一年で退学)。

☆野坂参三の産業労働調査所(産労)に入所。当時はまだ慶応の学生であった野呂栄太郎がいただけで、志賀義雄と淺野とが入所して正式の所員となる。

☆大倉高商(東京経済大学)・産業組合中央学校で〈民法〉を教える。

☆この月、京都に行き、三高の入学式で先輩の代表として、「自由」と題した演説をする。

☆この年、学校の構内で三年ぶりに梶井基次郎と顔を合わせた。二人で芝生に横になり、一時間ほど話し込む。梶井は『資本論』は面白いかとしきりに尋ねていたとされる。

大正15年昭和元年1926)25歳

1月、水野成夫が産労に入所、生涯の盟友となる。

3月、学連事件で家宅捜索をうける。

4月、大正13年頃より翻訳を始めていた『哲学の貧困』を、弘文堂より、マルクス主義叢書の一冊として刊行。

10月、労働農民党本部書記となる。

12月、日本共産党に入党。宣伝煽動部に属した。仲間には福本和夫・水野・志賀・門屋博・石田英一郎などがいた。

昭和2年1927)26歳

1月、党の司令で労農党本部の中に共産党のフラクを作り、そのキャップとなる。

☆この頃、エンゲルスの『空想より科学へ』(岩波文庫)など、共産主義関係の著述が多い。

昭和3年1928)27歳

315日、いわゆる315事件おこる。社会主義者に対する検挙者数が、全国で千六百名にものぼり、このうち約五百名が起訴される》

☆住居は秘していたので検挙は免れた。

325日ころ、中尾勝男が街頭で逮捕され、持っていた党員名簿(暗号)が、当局の手にわたる。至急対応策を講じたが後手に廻った。

48日、滝野川の村尾(関東地方委員長)のアジトを訪れたところを、門屋と共に逮捕され、日本橋久松署に留置される。

5月、市ケ谷刑務所の未決へ収監。面会に来た父が「共産主義も結構だが、天子様に弓をひくことは許さぬ」と口数少なく述べたとされる。

昭和4年1929)28歳

☆春ごろから獄中で解党問題がおこる。これは水野が口火を切り、上申書の形で論争が行なわれた。

昭和5年1930)29歳

3月、保釈出所。

☆水野を中心に、日本共産党労働者派(解党派)をつくり、コミンテルンからの離脱を宣言した。

昭和6年1931)30歳

217日、沢田ミネと結婚。麻布飯倉の八百屋の二階に新居を定めたが……。

☆馬込に転居。この家には水野の家族のほか、藤井・山添・村山七郎などが合宿。

5月、肋膜炎を患う。

6月、公判開始を前に、病をおして地下にもぐる。住居を池袋・鵠沼・渋谷・立川・鷺の宮など転々と移す。ミネ夫人によれば、布団ひと組と三個の林檎箱(この三つが食台・食器棚・本棚であった)、これをタクシーに乗せては旅から旅へ……。

昭和7年1932)31歳

324日、梶井基次郎逝く。

5月、長女和子誕生。

7月に沼袋、9月に上高田に転居。

昭和8年1933)32歳

☆この頃、労働者派の運動行きづまり、壊滅状態となる。

☆千歳船橋に転居。水野が玉川の瀬田にいたので、毎日のように瀬田へ行き、水野の釣りにつきあう。

☆ショウペンハワーの『意志と現識としての世界』を古本屋で買い求め耽読、へーゲル、マルクスと決別すべき意をつよめる。

昭和9年1934)33歳

2月、妹の喜美枝が面疔を病んで急死(享年24歳)。

3月、居を再び上高田に移す。最初は、百姓屋の奥の一軒を借り、二度目は靴屋の二階といった具合であった。

10月、櫛田にマルクスからの背反を告白する。

115日、櫛田が急逝したことを新聞で知り、すぐさま駆け付け、遺体を二階の書斎から遺族と共に階下におろし、礼拝してただちにその場を去る。

昭和10年1935)34歳

6月、四年にわたる地下生活を打切り、裁判をうける。執行猶予の判決。

8月、次女由紀子誕生。

☆小山田嘉一から『天心全集』を借りてきて、初めて『東洋の理想』を読む。

☆北川の「麺麭」に参加、毎号寄稿する。当初は刀田八九郎の筆名を用いた。

昭和11年1936)35歳

☆もっぱら『東洋の理想』を耽読して、天心の志をつぐべき決意をかためる。

☆この冬、渋谷宮益坂の古本屋で棚ざらしになっている『東洋の理想』の英文原著を見つけ、日夜耽読、やがて翻訳にとりかかる。

☆皆川治広の大孝塾研究所に入り、ベルグソンの『道徳と宗教の二源泉』の翻訳にあたる(所員に西雅雄・大間知篤三・福間敏男その他)。

☆大間知を介して、柳田国男の知遇を得るようになる。

昭和12年1937)36歳

1月、門屋博が月刊誌「新評論」を創刊。毎号、文化時評を執筆する。

☆この夏、「麺麭」に長編叙事詩〈青墓の処女〉をのせ、佐藤春夫の讃をうける。

☆この秋、新日本文化の会が発足、機関誌「新日本」を出すことになり、編集委員に加わる(佐藤春夫・倉田百三・萩原朔太郎・中河与一・中谷孝雄・三好達治・藤田徳太郎・林房雄・芳賀檀・保田与重郎など)。

☆この頃から、佐藤や辰野隆の知遇を得るようになる。

☆この年、「麺麭」「新評論」で岡倉天心を唱導すること多し。

昭和13年1938)37歳

1月「新日本」創刊。以後毎号執筆する。

《前年、2226事件、8月上海事変……》

《菊地寛氏か ら提出された従軍希望の作家の顔触れについて協議を重ねた(内閣情報部において)結果、左の二十二氏が決定した。菊地寛・久米正雄・吉川英治・白井喬一・ 吉屋信子・佐藤春夫・川口松太郎・北村小松・杉山平助・岸田国士・片岡鉄平・林芙美子・小島政二郎・尾崎士郎・滝井孝作・富沢有為男・中谷孝雄・丹羽文 雄・深田久弥・浜本浩・淺野晃・佐藤惣之助》827日、朝日新聞の記事より。

9月、ペン部隊として武漢作戦に従軍する。

9江から上海に帰って報道部で、石浜知行・小沢正元・火野葦平・中山省三郎などと起居を共にする。たまたま門屋が来て、以後二人で各所を廻る。

10月末、水野からの電報で帰国。

☆水野の『アジア問題講座』の企画を聞き、準備にかかる。

12月、『アジア問題』(創元社)第一回配本。

☆暮れちかく、水野が反東條工作事件に連座して、憲兵隊に拘禁される。

昭和14年1939)38歳

☆毎日のように憲兵隊に日参して、三月始めになり、水野やっと釈放される。

4月、長男昂(たかし)誕生。

☆河盛好蔵のすすめで、モロアの『英国史』の翻訳を白水社から出すことになり、水野と志賀高原の発哺温泉に行き翻訳を強行軍で始める。

10月、小山田嘉一逝く。

☆『英国史』上下二巻ベストセラーとなる。

☆この年、「文芸日本」が創刊され同人となる。

☆この年、田辺茂一が創めた「文学者」の同人(尾崎士郎・尾崎一雄・水野成夫・上泉秀信・伊藤整・丹羽文雄・石川達三・本多顕彰など)となり、毎号詩をのせる。

昭和15年1940)39歳

3月、喜入虎太郎逝く。

☆この年、「文芸日本」の九州講演で、福岡から熊本を廻る。

昭和16年1941)40歳

☆夏、水野の招待で北海道の勇払工場を訪れる。

128日、米英蘭華に宣戦、大東亜戦争と呼称することにする》9日の朝日新聞より。

☆徴用をうけて陸軍宣伝班員となり、麻布八部隊に入る。

☆この年、川端康成のあとをうけて「少女の友」の作文選者となる。

昭和17年1942)41歳

☆陸軍宣伝班としてジャワ遠征に参加。12日、東京を発ち、大阪から船で台湾へ。2月始め高雄を出発、31日未明、バンダン湾に入って船(佐倉丸)は魚雷二発をうけて沈む。スンダの潮流を流されること、一時間あまり、かろうじて救助された時は、大宅壮一・横山隆一など重油をあびた真黒な顔で、互いに互いが誰であるか弁別できなかったとされる。

8月中旬、帰還命令により、海軍機でジャカルタを発ちシンガポールに立ち寄り、ここの水交社に半月ほど止宿。この間マレーの宣伝班(井伏鱒二・海音寺潮五郎・神保光太郎・中島健蔵・吉川英治など)と会う。

9月、サイゴン。10月台北などと各所で旧友と久闊を叙しながら、11月になって東京に帰る。

☆この間、4月に次男礼二誕生。

5月、萩原朔太郎逝く。

昭和18年1943)42歳

8月、和歌山県田辺市の古典講習会に、影山正治・藤田徳太郎と共に参加。

122日、父駒太郎死去(享年73歳)。

☆この年だけで、雑誌などに掲載された、評論や座談会、短歌のたぐいまでを数えると60点あまり、単行本は10点におよぶ。

昭和19年1944)43歳

☆春、ジャワから帰国した武田麟太郎が、ジャワ独立のために動いてくれというので奔走したりもした。

☆秋、時子山常三郎らと北海道を講演して廻る。

昭和20年1945)44歳

41日、家族が疎開のために、北海道に立つ。

5月、空襲で永福町の家が全焼、蔵書のほとんどを失う。

10月、家族を伴い北海道の勇払に移り住む。この地に、水野の国策パルプ勇払工場があった。

☆この頃から、新たな詩作を始める。半紙に書きしたためた量は、うずたかく積み上がる程の量であったとされる。かくして、勇払は淺野にとって、戦後詩の源泉の地ともなる。

昭和21年1946)45歳

☆この年公職追放となる。

330日、母ステ死去(享年70歳)。

昭和22年1947)46歳

2月、勇払工場で有志の短歌会を開く。また、苫小牧の文化運動に力を貸す。

☆この年、室蘭製鉄所の労働学校で『資本論』の講義をする。

昭和23年1948)47歳

51日、腹膜炎を患う。一週間昏睡状態で意識がなかった。五回の開腹手術を受け、12月になって退院・万死に一生を得る。

8月、戦後詩集の第一弾ともすべき『風死なず』が東京玄文社よりでた。

昭和24年1949)48歳

☆酣燈社の依頼で、ホイットマンの詩の翻訳にとりかかる。

昭和25年1950)49歳

5月、保田与重郎の招きで飛鳥に遊ぶ。

7月、水野が東京に家を見つけてくれたので、勇払を引払う。

昭和26年1951)50歳

☆この年、追放解除される。

昭和27年1952)51歳

4月、佐藤春夫、春の日の会。

☆新宿にて、斉藤茂吉の文化勲章祝賀会。

昭和28年1953)52歳

1月、「文芸日本」復刊第1号。

5月、北海道穂別の歌碑〈秋なれば山ちかぢかと見えて来ぬなつかしき山見えて来にけり〉除幕式。

9月、折口信夫逝く。

☆この年、「民間伝承」に〈ものぐさ手帖〉の連載をはじめる。

昭和29年1954)53歳

4月、竹下数馬のすすめで、立正大学で近代文学を講義するようになる。

昭和30年1955)54歳

1月、石橋湛山の選挙応援で伊豆を廻る。

4月、立正大学文学部専任教授となる。

昭和31年1956)55歳

4月、高村光太郎逝く。

9月、ハンス・カロッサ逝く。

☆この年、小高根二郎・田中克己「果樹園」創刊、同人となる。

昭和32年1957)56歳

12月、田園調布に転居。新築祝いに大宅壮一・藤井米三・南喜一・山添直などが集まる。

昭和33年1958)57歳

☆大間知篤三・大森志郎の提唱で「古典研究会」が始まる。

昭和34年1959)58歳

3月、来日中のアーサー・ケストラーに会う。

8月、師友協会の夏期講座に出講のため、四国西条に行く。

☆この年、成田れん子逝く。

昭和35年1960)59歳

4月、賀川豊彦逝く。

6月、仙台市長に当選した島野武の招きで、門屋博・河上徹太郎・草野心平と共に、蔵王山麓の温泉を巡り歩く。

昭和36年1961)60歳

7月、外村繁逝く。

12月、津田左右吉逝く。

昭和37年1962)61歳

8月、柳田国男逝く。

9月、吉川英治逝く。

昭和38年1963)62歳

☆夏、室蘭製鉄所付属高校から招かれ、校歌(作詞淺野・作曲小松清)の発表会に行く。

昭和39年1964)63歳

1月、詩集『寒色』で読売文学賞を受ける(小説部門が井上靖、評論・伝記が福原麟太郎、研究・翻訳が白洲正子、中西進)。

2月、尾崎士郎逝く。

3月、梶井基次郎三十三回忌。

4月、三好達治逝く。

4月、霞山会館で読売文学賞受賞祝賀会。

56日、佐藤春夫逝く。

昭和40年1965)64歳

3月、蔵原伸二郎逝く。

5月、知恩院で佐藤春夫一周忌。

昭和41年1966)65歳

8月、足を骨折。

1022目、横山正明逝く。

☆この年、亀井勝一郎逝く。

昭和42年1967)66歳

3月・詩集『天と海』がレコード(三島由紀夫が朗読、山本直純が作曲)になり、その発表会が伊沢甲子麿の司会で行なわれる。

昭和43年1968)67歳

7月、アメリカのヘンリー・スミスが来訪、新人会当時のことをテープにとっていく。

11月、石田英1郎逝く。

昭和44年1969)68歳

68日、北海道の勇払で『天と海』の詩碑〈われらはみな愛した責務と永訣の時を〉除幕式。

11月、長谷川如是閑・伊藤整逝く。

昭和45年1970)69歳

1月、富沢有為男・南喜一逝く。

8月、田園調布から渋谷に転居。

11月、大宅壮一・三島由紀夫逝く。

昭和46年1971)70歳

412日、三浦義一葬儀。このあと、中谷・林・保田と、日本浪曼派復刊のことを話す。

8月、横山亮一逝く。

11月、伊豆湯ケ島で梶井の文学碑の除幕式。

12月、大八一中会の旅行で、彦根・京都に遊ぶ(名倉順三・吉田精一・足利惇氏など)。

昭和47年1972)71歳

54日、水野成夫逝く。

10月、月刊誌「浪曼」創刊。中谷・林・保田・壇一雄・田中忠雄と連名で創刊宣言を発表。

☆この年、川端康成・安藤一郎・平林たい子逝く。

昭和48年1973)72歳

8月、孫たちと共に、伊豆の今井浜に遊ぶ。

昭和49年1974)73歳

1月、神経痛療養のため夫人と熱海ホテルに滞在する。

10月、丸山薫逝く。

昭和50年1975)74歳

4月、小松清逝く。

5月、渡辺一夫逝く。

7月、詩誌「倭寇」(鈴木敏幸)の同人となる。

10月、小山富士夫・林房雄逝く。

☆この年、金子光晴・棟方志功・村野四郎逝く。

昭和51年1976)75歳

1月、壇一雄逝く。

22日、立正大学最終講義。

2月、五反田で詩集『草原』の出版記念会。

3月、立正大学文学部教授を定年退職。名誉教授となる。

昭和52年1977)76歳

7月、大木惇夫逝く。

10月、竹下数馬と出雲崎に遊ぶ。

11月、前田鉄之助逝く。

☆この年、山岸外史逝く。

昭和53年1978)77歳

3月、中谷と北川(冬彦)の火事見舞に行く。

26日、国際文化会館で水野の七回忌。

1022日、穂別の横山正明十三回忌。

昭和54年1979)78歳

1月、「浪曼派」創刊号発刊、中谷・保田・芳賀・坊城俊民・濱川博などと編集委員となる。

3月、「倭寇」に〈境忠一君を追悼する辞〉をのせる。

5月、ソルジェニーツィンの『収容所群島』を読む。

7月、「浪曼派」に〈田園の憂欝〉論の連載を始める。

9月、ソルジェニーツィンの『クレムリンヘの手紙』『自由人への警告』を読む(淺野の読書量は抜群であった。例えば、角川の文庫本でも27冊にもおよぶ『大菩薩峠』を、読書の余暇に年に五・六回ほどは読み返していたとされる)。

9月、木村毅逝く。

昭和55年1980)79歳

☆岩下俊作逝く。

2月、一中会で蔵原惟人・村井康男と会した。「民間伝承」に〈水野成夫のこと〉(第21回)をのせる。

3月、尾島庄太郎逝く。

4月、五味康裕・田中冬二逝く。

5月、大内兵衛逝く。

9月、河上徹太郎逝く。

昭和56年1981)80歳

1月、「経済読本」に〈南方熊楠論〉の連載を創める。

2月、金婚の祝い。27日、中谷と土牛展を見る。

3月、梶井基次郎五十回忌に出席。日本詩人クラブで講演。

411日、松本楼で中谷と共に八十の賀の会が催される。保田も上京、これが最期の別れとなる。

6月、本間久雄逝く。

7月、手塚富雄著作集の最終巻届く。

9月、村松正俊逝く。

104日、保田与重郎逝く。義仲寺で密葬、桜井で本葬。

12月、田辺茂一逝く。

昭和57年1982)81歳

1月、立正大学国文卒業生有志により、傘寿の賀会。

2月、大間知の著作集完成祝賀会。

3月、小田忠夫・高崎正秀・小沢俊郎・井野利也逝く。

4月、小島政見邸で花見。世耕正隆大臣就任祝賀会。

5月、立正大学国文学会で「日本浪曼派の文学」と題して講演。

6月、西脇順三郎逝く。

724日、佐藤春夫夫人急逝する。この日、第一回の「淺野晃先生のはなしを聞く会」(幹事、山下正治)が開かれる。この会は、死の床につく二週間ほど前まで、連綿と休むことなく八年間にわたって続く。

10月、義仲寺で保田の一周忌。

☆伊吹武彦逝く。

☆中谷と塩原に遊ぶ。

11月、『ものぐさ手帖』経済往来社から刊行。

☆「憂国忌」に発起人代表として玉串を捧げる。

12月、中谷邸新築祝い。

昭和58年1983)82歳

4月、八王子日朝寺(尾崎文英)に〈日の春よ〉の詩碑建立。

☆この年、小林秀雄・手塚富雄逝く。

昭和59年1984)83歳

4月、「不二歌壇」の選者となる。

10月、「春秋」復刊第一号刊行、編集同人となる。『明治・大正・昭和史』を借成社より刊行。

昭和60年1985)84歳

5月、『定本淺野晃全詩集』をわこう出版社(鈴木敏幸の編集で、装丁は増田朱躬)より刊行。

7月、大東塾夏期講習会で「文学の心」と題して講演する。

☆月刊雑誌「祖国と青年」に〈国史余香〉を連載しはじめる。

昭和61年1986)85歳

☆「世界日報」に〈浪曼派変転〉を百回にわたって連載。

昭和62年1987)86歳

6月、檜山三郎編『随聞・日本浪曼派』を鳥影社から出版。

☆この年、竹山道雄逝く。

昭和63年1988)87歳

10月、『浪曼派変転』(装丁、根本正義)を高文堂出版社から刊行。二百冊にものぼる著書は、実質的にこれが最期となる。

☆この年、様々なかたちで米寿の祝いが行なわれた。新宿で開かれた会では、「さあこれから、みんなで淺野をやっつけなければいけないよ!」といたって、意気軒高なのは中谷孝雄であった。因みに「倭冠」第21号の〈あとがき〉を引用しておく。「会(小社で開いた祝賀の)は乾杯をする為に、この世に生を得たような内木文英氏の音頭に始まり、実証学的オカマ論から、淺野先生の短歌朗詠に至った」などとある。

平成元年1989)88歳

☆「経済往来」の二月号で、田中清玄と対談。

6月、『岡倉天心論攷』の新装版を永田書房から出版。

8月、内木文英の『泣き虫人生』出版記念会に出席。風邪ぎみのため、途中で退席。結局、この風邪はついに治ることはなかった。

☆この頃から、好きだった本もほとんど手にすることはなくなった。

1125日、「日本ホイットマン協会」で、ホイットマンについて講演。一時間半に及び熱弁をふるい、ホイットマンの原詩を朗読しながら、肉体は滅んでも、魂は永遠とした。

1216日、「淺野晃先生のはなしを聞く会」。この会は、つごう七十八回におよび、これが最期となった。帰宅後、ミネ夫人に「来年からは、講演も原稿もいっさい断る」と言ったとされる。

平成2年1990)89歳

☆はたして、11日、救急車で近くの世田谷区玉井病院へ運ばれ、次いで千代田区の九段坂病院へ入院。29日、午後二時ついに帰らぬ人となる。死因は心不全。

131日、世田谷区妙揚寺で葬儀。喪主は夫人ミネ、葬儀委員長竹下数馬、導師岡部光恵、弔辞は伊藤桂一・白井忠功、進行係は山下正治であった。中谷は病軀をおして夫人と共に参じ、棺に一輪の菊花を抛げ入れた。寒として白きものの舞う日であった。
戒名は大融院懿徳日晃居士。

 

【思うに、淺野晃の一生とは何で あったか。二百冊にあまる著書を書き残した事を讃すべきであるか。そのような物量的な事ではおさまるまい。それよりも「私がもしもマルクスに出会わなかっ たなら、もっとのんびりとした人生を……」との意を述べた(十一月「淺野晃先生のはなしを聞く会」)、この言こそ、讃して挙げるべきかもしれない。

この中には二百冊の本以上の重み を感ずる。この一言の中には、淺野の人生というより、明治・大正・昭和・平成に至る日本近代と、二十世紀の世界史の起因と終焉そのものが凝縮されているよ うな気もする。歴史とは終始足踏みのみを繰り返すばかりであって、我々が思うほどには進歩していないものかもしれない。】

 

 以上、浅野先生の教え子の鈴木敏幸氏が、同人誌『倭寇』23号(わこう出版社)の「浅野晃先生追悼号」(平成31月)に掲載された、「浅野晃先生略年譜」を、氏のご好意によりそのまま(漢数字は半角数字に変えてあります)載せさせて戴いております。快く掲載をお許し戴いた鈴木氏に感謝いたします。(野乃宮紀子)