筒井康隆『パプリカ』論

07E1101021E 長久保 智裕



目次



序論


本論

第一章 『パプリカ』の世界設定

第二章 物語の二重構造

第三章 ヒロインの二重構造

第四章 『パプリカ』に見る「超虚構性」

第五章 筒井康隆にとっての「夢」

第六章 アニメーション映画『パプリカ』と筒井康隆の他メディアへの影響

結論、終わりに

参考文献








序論 


 筒井康隆という人物は小説家・劇作家・俳優と様々な顔を持ち、またその作風もパロディやスラップスティック、本格SFなど多岐に渡る。 近年では東浩紀との交流からライトノベルという比較的新しい、言ってしまえば若者向けの文学作品(当論文ではライトノベルを文学として扱うことの是非という点に論旨を置いているわけでは無いので、ここでは便宜上文学作品と呼称させて頂く)
に興味を示し、雑誌『ファウスト』に掲載された『ビアンカ・オーバースタディ』でライトノベル作家デビューを果たすなど、とても高齢とは思えぬフットワークの軽さを見せている。 挿絵は人気ライトノベル『涼宮ハルヒシリーズ』のいとうのいぢが担当していることなどから見ても分かるように、 近年の、加えて言えば高齢の文学作家には珍しい程アニメや漫画等のサブカルチャーにある種の親和性を持った作家であると言えるだろう。

 執筆活動初期からして江戸川乱歩の目に留まったのが本格的なデビューのきっかけであり、近代から現代にかけて数々の文学作家、前述のようなライトノベルというゼロ年代の文化と、これほどまでに多種多様に交わった経緯のある作家というのは後にも先にも筒井康隆ただ一人と言っても過言ではない。

 何も作家の経緯のみを取り上げて異質であるから、という理由で研究対象とした訳ではなく、筒井康隆に関して言えばその作品性こそが特異なのである。元々俳優・演劇を志していたという出自故か小説だけに留まらない多角的な視野を持っていて、既存の文学の枠組みを踏み越えるような前衛的な作品も数多く発表している。また皮肉を含んだブラックユーモアも多く、これは本人のある種の破天荒とも言える性質の表れとも言えるだろう。またその攻撃性ゆえに出版社や権力者団体とのトラブルも多い。以上簡単にまとめただけでもその作風の多彩さは推し量ることが出来、事実筒井康隆の著作・インタビューはともに膨大な数に渡り、一人の作家としてその全体像を把握することはあまりにも困難である。そのため、本論では作家論的な観点から少し距離を置き『パプリカ』という一つの作品を突き詰めて考察し、その「内宇宙」から筒井康隆という作家の一面を垣間見ることとする。

 『パプリカ』は筒井康隆によって「夢」をテーマに書かれた長編SF小説である。女性誌『マリ・クレール』誌上で一九九一年一月号〜一九九二年三月号に第一部、一九九二年八月号〜一九九三年六月号に第二部が連載され、一九九三年に出版された。一九九三年というのは筒井にとって大きな事件があり、一つの転換点とも言える年である。というのも、角川書店発行の高等学校国語教科書に収録されることとなった『無人警察』内の癲癇の記述が差別にあたるということで日本てんかん協会から抗議を受けたのである。この件に関しては数度交渉を行ったものの決裂しており、さらには角川書店が無断で『無人警察』を削除したことに怒り、結果的には『噂の眞相』に連載していたマスコミ日記「笑犬樓よりの眺望」上で断筆を宣言するに到った。ここから暫くの間断筆期間が続き、一九九七年に新潮社、角川書店、文藝春秋とそれぞれ出版社側での自主規制を行わないということを確認する覚書を取り交わした後に執筆を再開した。安易な表現規制に真っ向からの対立をした訳であるが後にも先にも断筆したのはこの時ただ一回きりである。『パプリカ』はそれが自身の最後の著作になる可能性もあったという点で、断筆前最後の長編小説であることは少なからぬ意味を持っているのではないか、またそれを最後に小説家をやめても構わない、と考えられる程の何かがあったのであろうか。膨大な著作の中から『パプリカ』を選んだ一つの理由がこれである。

 ここで一つ本論に入る前にSF作品である本作を研究の対象とする理由を一つ付け加えておこう。

 筒井康隆の固執するSF志向に「虚構であることを前提とした虚構」「超虚構性」というものがある。これは「虚構性を強調した虚構」こそがSFの本質であるとする考え方で、その手法の一種であるメタフィクションは、登場人物が自身を虚構の存在であると認識しているという設定の『虚人たち』や、使用できる文字が一文字ずつ減っていくという『残像に口紅を』などに見受けられる。この「超虚構性」に関して筒井は『着想の技術』(注一)の中で次のように述べている。


  たとえば文学の至上の命題とされている人間性の探求が超虚構性の小説の中でいかに行われているかを考えてみると、思いつくことはSFでいうインナー・スペースである。これはニュー・ウェーブSFが追求している内宇宙のことであり、時には「追求する」「探求する」といった強いことばが嫌われ、「内宇宙へのトリップ」などと、想像力を軽く飛翔させることも同時に表現できるような言いまわしが使われる。一方私小説が理想とするところは、自己を描き尽してひとつの小宇宙を想像し、読者を同化、共感に導く作品で、これこそドイツの哲学者ハルトマンがその美学で最高の芸術として述べた「小天地想」であり、いわばミクロコスモスである。自然主義と超虚構性という手法の違いはあるが描こうとするところは共に自己の内なる宇宙であり、そう考えてみると自然主義と超虚構性の行きつく先は文学の極北、極南ではなく、円環構造の接点なのではないだろうか


 多少冗長な引用となってしまったが、この意見に賛同を示すことで簡単にSFを研究の対象とする根拠とさせていただくこととする。以上のことを踏まえ、本論文では『パプリカ』の構造を俯瞰しながら諸問題を考察し、『パプリカ』の魅力と筒井康隆が我々に投げかけるメッセージを探ることを目的として以下本論に入ることとする。また本作を原作としたアニメーション映画『パプリカ』を考察することでより一層「虚構と現実」というテーマに踏み込んでいきたい。なお、本文中からの引用は全て平成十四年発行の新潮文庫版からとする。



本論

第一章 『パプリカ』の世界設定


 『パプリカ』における世界では他人の夢を映像化することが、またそれに干渉することで精神病治療に役立てることが可能となっている。こうした技術はPT(サイコセラピー)技術と呼ばれ、その恩恵にあずかった精神病研究が発展した近未来を舞台としている。ここでは仮に近未来と仮定するが、実際の詳細な年代は明かされてはいない。作品中に「フロッピー」が登場することや、登場人物の一人である能勢龍夫が中学生の時分に見たと語る映画『007ドクターノオ』が邦題『007は殺しの番号』で上映されたのは一九六三年であることなどが時代を類推するヒントとなり、能勢が五十代だとしても凡そ二〇〇〇年前後が舞台であろうことが分かる。出版年当時の一九九三年と比較しても遠い未来という訳ではなく、また本作のように天才の介在なしに突然PT技術だけが急発達するとも考えにくいため、どちらかといえば近未来の並行世界であると考えられる。ビートルズの曲『P.S.アイラブユー』等実在する具体的な例が作品中に登場することが多く見られるのは世界観に説得力を持たせるためであろう。能勢自身が見た『ドクター・モローの島』(一九七七年)や『ジャングル・ジム』(一九四八年)等の古い映画は実在のものである反面、それらの映画に交じって息子が借りて来た最近の映画として紹介された『サイバー・セーバー』は架空のものであり、具体的な年数の特定を避けている。しかし実際に調べなければ存在していないかどうかは分からず、近未来感のある「サイバー」なんていう単語を潜ませているあたり、嘘を混ぜる手腕は巧みであると言えるだろう。

 こうした細部のディテールの甲斐あって、現実的な世界観と対比される形でPT技術は異質に目立って映り、注意を惹くことに成功している。PT機器の具体的な原理は作中で開発者である時田が記者たちに言って聞かせるセリフに以下のようなものがある。


 それからまあ、精神病理やって、片一方じゃやっぱりコンピューターいじってて、それと脳電図にも関心があって、だからこれとこれ組み合わせたら、なんて思っていて、そのうちファイバー束でフロート型コンピューター画像処理のスリット・ノー・チェック方式ができるんじゃないかなんて思いついて、それで脳の検査したら、脳波以外のものが画像としていっぱい出てきたんです


 これはあくまでPT機器の原理のほんの基礎部分の説明であり、その後も「離散フラクタル圧縮」「相似マッピング空間」「フロート・コア」等の横文字を交えた難解な言葉を多用していることからも分かるように読者の理解を要求しているものではなく、これらの用語はあくまでSFであるという意味合いを印象付けるものに留まるものだということである。(もちろん理解し、実践出来る説明だとしたら作品外の現実世界で夢の可視化が可能だということになってしまうのだが。)こうした難解な用語で新技術の説明をすることで読者を煙に巻くという手法はSF作品にはしばしば見受けられ、またこうした超理論は往々にしてSF愛好家に好まれる傾向があり、これは筒井のサービス精神の一環であるとも言える。

 ともあれ、世界観に関してのみ言えば現実感を持たせるように巧みに作られていてなお且つ「精神医学」にのみ発達しているという、本作のために用意された、まさしく夢のような世界であると言えるのだ。



第二章 物語の二重構造


 『パプリカ』の物語は、精神医学研究所の研究者千葉敦子を主人公とし、研究所内部の権力争いや千葉敦子扮する夢探偵パプリカによる治療といった人間関係を描いた第一部と、最新のPT機器であるDCミニをめぐる虚実入り乱れた争奪戦を大衆娯楽的に描いた第二部という二部構成となっている。

 本作における第一部の役割は非常に明確である。筒井康隆の得意とするスラップスティックな作風、前衛文学的なメタフィクションは鳴りを潜め、カッチリとした至って現実的な文体、言い方を変えれば純文学的な書き方でもって表現されている。研究所内での権力争いやPT機器の説明といった現実的な内容の導入部は後の大衆娯楽SF的な展開を思えば非常に弱く地味であり、その現実感が意図的であるということは後になって初めて分かる。パプリカによる夢治療もフロイトやユングといった実在の古典夢分析に基づいた問診を中心としているため、これまた地に足の着いたと言うべきか、あくまで現実的なところから夢を観察しているような印象を受ける。しかしここで読者は夢分析のすごさを至って自然に体験することとなる。それはパプリカが不安神経症をピタリと言い当てていくことに対してではなく、パプリカに寄り添う形で夢分析を見て来た読者にとって、能勢龍夫と粉川利美の人間性が他のどの登場人物よりも正確に把握できてしまうことである。この二人が第二部でパプリカを助けるために奔走するというのがひどく当たり前のことであるように思えてしまうのである。人間性の追求が文学の至上の命題であるとするならば、それは夢によって示されるという筒井の主張が読み取れるのである。

 第一部では同時に第二部へと繋がっていく事件の一端も徐々に垣間見えてくることになるが、ここまではあくまで作品内世界にとっても常識的な範囲でPT機器が治療、または分裂病患者の夢を投射することによる人格破壊に利用されているのみである。唯一DCミニのアナフィラキシーによって粉川の夢に乾精次郎がジャック・インしてしまうというアクシデントはあるが、これは第一部に第二部における出来事が介入することで、第二部全てが夢であるという短絡的な仮定への予防線だと考えられる。以上のことより第一部は大まかに言ってしまえば到って現実的であると言える。

 しかし、夢の内容がことごとく精神病の問題と結びつくことや、パプリカ・千葉敦子が作中の主要な男性ほぼ全員(時田、島、津村、小山内、橋本、能勢、粉川、松兼)、ましてや敦子の女性助手、柿本からまでも寵愛・心酔の対象となっていることなど、あまりに都合が良すぎる点が多い。こうした都合の良さは、現実感を伴った純文学的な文章でありながらどこか虚構、すなわち夢の気配を感じさせる。

 第二部は一転して虚構と現実の境界線が曖昧になっていくスラップスティックな展開、まさしく大衆娯楽SF小説といった内容である。最新のPT機器であるDCミニはアナフィラキシー、免疫過敏性によって、離れた距離でPT機器を使用している夢へのアクセスを可能とするだけに留まらず、とうとう現実を侵食し始める。夢を通じて小山内からDCミニを現実に奪い返したことを皮切りに、最初は夢の中から現実世界に電話がかかる、といったような間接的な影響が、そのうちに一度でもDCミニを使用した者はその残留効果によって、夢から現れた巨大な日本人形はレストランの天井ガラスを割り、夢から現れた虎はとうとう実際の死者を出した。終盤では夢の力を使った戦いはエスカレートしていき、夢と現実は境界を失っていく。第二部の文体は序盤では理路整然としているが、夢の現実への介入が始まると次第に短文が増えていく。文章の現実感がそのまま作品内での現実感とリンクしているのだが、これが終盤になると文章と内容の現実感が必ずしも一致しなくなるという「虚構を前提とした虚構」を逆手に取る手法が取られている。これもまた虚構性について深い造詣を持つ筒井ならではの手腕による所が大きい。

 以上の二部構成から『パプリカ』の物語は一見して第一部で「現実」が、第二部で「夢」がそれぞれ描かれた二重構造を有していると見ることが出来る。しかしこの二つは決して過去の多くの夢作品、それは例えば芥川龍之介の『黄粱夢』であるとかのように相克関係にある訳ではない。より大きな視点から見れば夢と現実はまた別の虚構を構成しているに過ぎないのである。その根拠として、別の視点からこの二部構成を見てみると、『パプリカ』では大まかに計五回分の夢を扱っている。第一部での能勢と粉川がそれぞれ二回ずつ、第二部は全体が長篇の夢である。夢というのはレム睡眠の状態の時に見ることが多く、一晩の睡眠では四五回のレム睡眠が現れるという。「今の時間に見る夢はだいたい短いんだけど、情報が凝縮されてるわ。芸術的短篇映画ってところかな。朝がた見るのは一時間ほどもある娯楽的な長篇特作映画」という作中のパプリカの言を借りるならば、能勢と粉川の夢が「芸術的短篇映画」であり、第二部の荒唐無稽な夢が「娯楽的な長篇特作映画」である。つまり『パプリカ』という作品自体が、一晩の間に見る「夢」であると考えることが出来るのである。

 また第二部の最後に「店内に、『P・S・アイラブユー』が流れていた」という書き出しで始まる、千葉敦子・時田浩作のノーベル賞の受賞を祝う宴での会話と、「店内に、『P・S・アイラブユー』が流れている」という書き出しの、玖珂と陣内による回想の二つの後日談がある。本来であれば読者は小説を読み終えその物語から抜け出すにあたって、限りなく俯瞰した視点になるため、締めくくりには過去形が相応しい。ところが、本作品では本来ならば前者の「しかし能勢はけんめいに言いつのるのだった。『会おうと思えば、いつだって夢で会えるんだよ。(略)』」という形で終わるところが、急に現実に引き戻されるような現在形表現での回想が入るのである。これはまるで今までが夢であったかのような感覚を引き起こし、さらに「『それで、あれはやっぱり、夢だったのかなあ』玖珂は答えない。陣内に背を向けたままの玖珂は、瞑想に耽っているように瞼を落している。その答えを知っているのかいないのか彼の顔の笑みは、ますます仏像のそれに近付いていくのだった。」とすることで夢かどうかの判断を読者に委ねている。夢かうつつか、といったこの回想は夢というテーマから言うならば起きぬけの「半覚醒」の状態であり、『パプリカ』という作品が物語全体を通して一夜の夢であることを示すもう一つの根拠となるのである。



第三章 ヒロインの二重構造


 本作『パプリカ』のヒロイン千葉敦子は二つの顔を持っている。一つはノーベル賞級の精神医学研究所勤務の優秀なサイコセラピストである千葉敦子であり、一つは人々の夢に入り込む夢探偵のパプリカである。主に現実世界を担う千葉敦子と、夢世界での夢探偵パプリカはそのまま現実と夢という対比で表すことも出来るであろう。妖艶な妙齢のキャリアウーマンと、そばかすを付けた誰にでも愛される少女性の象徴としてのパプリカはやはり一見して相容れないように思える。しかし視点を変えれば、どちらも男たちの理想としての女性像であることに変わりはなく、虚構も現実も合わせた「夢」のような存在であると言える。また「パプリカ」という名前に関して付け加えるならば、パプリカの持つ一般的な意味についても触れるべきであろう。パプリカはナス科の多年草であるトウガラシ族トウガラシの一種で、辛味がなく甘い品種であるため甘唐辛子とも言われている。その一方で乾燥させ粉末化することで唐辛子にも似た独特の風味を持つ香辛料にもなる。甘みを持った果実と香辛料という二面性やトレードマークである赤いシャツのイメージはパプリカにぴったりと符合する。

 また『パプリカ』というタイトルに触れるならば、そのタイトル自体も作品そのものが一夜の夢であることを示すもう一つの手掛かりであると言える。小説のタイトルは基本的には、物語全体を通して一貫した主題やモチーフが充てられる場合が多い。本作を見通して一つのタイトルで総括するとすれば、それは『パプリカ』を置いて他にはないのである。



第四章 『パプリカ』に見る「超虚構性」


 筒井康隆のSF創作における志向に関しては序論でも触れたように、「虚構であることを前提とした虚構」「超虚構性」ということを重視している。では、本作『パプリカ』についてはどういった点にその「超虚構性」を見出すことが出来るだろうか。 はじめに表面上からも分かる点を挙げることとする。それは第二部における荒唐無稽ともいえるスラップスティックな出来事の連続である。事件という枠での「超虚構性」に関しては以下に引用する『着想の技術』の『虚構と現実』内の「事件」という項目に詳しい。


  虚構内で起る事件の独自性とはいったいどのようなものになるだろうか。超自然現象や天変地異にしてもいつ現実によって真似られるかわからぬ可能性を持っていることは、奇妙な事件が現実に起るたび、われわれSF作家の間で囁かれる「誰それの作品の盗作だ」という冗談によって証明される。そもそもそれ以前に、虚構によって描かれた超自然現象や天変地異は規模こそ異なるもののその殆どが現実に起ったことや起ったのではないかと噂されていることに端を発している場合が多い。こう考えてみると虚構内における事件の独自性を主張しようとすれば、単に現実に起ったのと同じ事件の規模を大きくするか、事件の数を多くするかという、せいぜい数量的な優位によって現実を越えようと試みることぐらいしか残されていないのである。そしてそのどちらも、もはや虚構の世界ではさんざ使い古され、エスカレートにエスカレートを重ねてしまっている。


同じく『虚構と現実』「事件」の項目では今まで虚構化されなかった事件の可能性として「同一主人公の身に事件がふたつ以上」「同時に起り」「そのふたつ以上の事件がそれぞれ互いに無関係である」というものを挙げているがこれは実際に著作『虚人たち』の中で実験されることなった。さて『パプリカ』に戻って考えてみると、乾精次郎の夢を中心に悪魔や怪物の類が溢れ出すという事件であり、こうした現象が世界規模で同時多発するという事件は現実に起こり得るかという問題があるが、その可能性は限りなく低いと言っていい。しかしそもそもその前提条件である夢の顕在化というもの自体が可能、もしくはそれに類することが可能であれば、無いと言い切ることは出来ないであろう。限りなく「虚構的」ではあるがその極北からはいくらか距離を置いていると判断せざるを得ない。

 次にパプリカという主人公の虚構性について論じてみたい。同じく『虚構と現実』の「人物」の項目に「虚構の存在であることを自覚した作中人物を登場させること」というものがある。これも実は先に挙げた『虚人たち』によってすでに描かれているのだが、本作『パプリカ』ではこれは少し変わった形で実践されていると言える。つまり、他人の夢を虚構とした場合、夢探偵パプリカは夢の中の存在、つまり「虚構の存在であることを自覚した作中人物」なのである。『パプリカ』における「超虚構性」は主に作中人物の夢(虚構)が階層構造を取ることによって説明される。読者から見るとまず『パプリカ』の世界の外縁であるバー「ラジオ・クラブ」のマスターである陣内と、ウェイターである玖珂が存在する。この二人が最も読者に近い所に位置しているということがラストシーンから読み取ることが出来るのは前述の通りであり、つまり『パプリカ』の物語の大部分が彼ら二人の夢であるという可能性が浮上するのである。さらに内側に踏み込んで行くと乾精次郎、小山内、氷室、パプリカ、時田、島、能勢、粉川の個々人の夢が複雑に入り乱れ、複雑な階層構造を成している。しかし虚構を積み重ねることでは結局のところ「エスカレートにエスカレートを重ね」るだけであって、それが「超虚構性」として成功したかというと疑問が残る。

 「超虚構性」という面で『パプリカ』の事件に関して論ずるならば別段重要ではない。常に挑戦的であり続ける筒井の『パプリカ』における挑戦は、その対象であり続けた「超虚構性」ではなくその他の部分、どちらかといえば内省に向いている。これは筒井にとって『パプリカ』が一つの区切りの作品であるとする根拠の一つとなり得るのである。



第五章 筒井康隆にとっての「夢」


 以上、第二章・第三章で述べてきたように、『パプリカ』という作品はそれ自体が一夜の夢と近似した構成をとっている。「夢」というテーマは筒井康隆にとって大学在学中からの興味の対象であり、それは「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」という卒業論文からも見て取れる。実際に夢を直接テーマとした作品、夢から着想を得た作品ともに全体から見れば多くはないものの、夢の重要性については自身が編集した『夢探偵』(注二)というアンソロジーの冒頭では次のように語っている。


 現実は夢化され、夢は現化される。夢とは現実の聖化であり、美的理想化であり、抽象化であり、虚構化である。つまり「物語化」なのである。これによって現実は改造され、新しい夢に奉仕する。

 近代人が近代理念を「夢」と呼んだ理由はここにある。また文学が夢を重視しなければならなくなった理由もここにある。近代からの超克を成し遂げるのはポスト構造主義などではない。実は夢なのだ。



 また夢に関しては同書に収録されている『夢の検閲官』、また著作『着想の技術』、本作『パプリカ』の文章中にあるように、筒井はフロイトやユングといった夢分析に造詣が深く、その扱いは極めて意識的である。『夢の検閲官』の解説部分によれば、夢とはその人の無意識の願望に検閲の力が加わって歪められたものであり、「歪められて夢に出て来たものを『顕在内容』歪められる前のもとの内容を『潜在内容』という」とある。世間的に広く知られているフロイトの夢分析では夢の内容である「顕在内容」から「潜在内容」という願望を分析することが可能であるとしている。『パプリカ』が一夜の夢であるという仮定に基づくならば、物語として表面的に表れている「顕在内容」に対して著者の意図が「潜在内容」として隠されていても何ら不思議なことではない。

 それでは、実際『パプリカ』に潜ませたであろう意図、というものは一体どのように現れているのだろうか。本論文では本作の根幹である物語と主人公に現れる現実と虚構の二重構造という点に注目したい。二重構造は大きなものとしては『パプリカ』を構成する第一部と第二部、またパプリカの二つの顔に見ることが出来る。前者では第一部を現実、第二部を夢と解釈することが出来、『パプリカ』という作品の二つの方向性がうかがえる。しかしこの第一部と第二部は決して相反するものではなく、ともに『パプリカ』という一つの虚構を構成する要素である。その互いの関係は実際の現実と夢の関係がそうであるように、夢である第二部は現実である第一部の「物語化」であると考えられる。そしてそれは同時に、現実と夢、どちらが欠けても『パプリカ』という虚構が成り立ち得ないということを表しているのではないだろうか。それは後者のパプリカの二重構造でも言えることであって、千葉敦子という現実と、「物語化」されたパプリカという夢が合わさって初めて夢のような女性が形成されるのである。

 以上の二点の「顕在内容」から筒井康隆の願望とも言える「潜在内容」が浮かび上がってくる。それはつまり虚構と現実の融和であり、置き換えれば反自然主義と自然主義の交錯である。こうした考えを念頭に置くと、作品の本筋である夢と現実が交錯する恐怖、というものが願望に対する警告であるように思えてしまうのはいささか深読みであろうか。

 ここで少し、冒頭で否定した作家論的な立場に戻って考えてみたい。筒井康隆は家族で作ったSF同人誌『NULL』で作家デビューを果たした。当時はSFを受け入れられるような新人賞が無かったためであるが、これが江戸川乱歩の目に止まり、乱歩主催の雑誌『宝石』に短篇『お助け』が転載されたのが、実質的な作家デビューである。筒井康隆に初期から変わらぬ特徴があるとすれば、それはやはりSFということになるであろう。

 『着想の技術』内の『楽しき哉地獄』の「ジャンル――専門と専門家」の項目にはこうある。


 無視され、歯牙にもかけられぬことに対してはSFの初期から慣れてはいたのだが、SFが隆盛をきわめ、無視できぬとあって噛みつくような酷評をされはじめてからは、他のジャンルでの仕事はヤバいと思いはじめた。しかしこちらにそう思わせることこそ敵の戦略ではないかと思ったりもし、実際他のジャンルに食い込んでいけそうなアイディアはしばしば思いつくわけで、これをやらねばSFの発展はない文化の向上はないなどと自分に暗示をかけてやっぱり書き、またまたいやな目に会う、ということの繰り返しがえんえんと現在に到るまで続いている。


 筒井康隆にとってSFは排斥の連続であった。人間性の追求が文学の至上の命題とされ、純文学、自然主義文学が重視された風潮はどんなにか辛いことであっただろう。また同書の同項目にこんなことも書いている。


 SFが文学各ジャンルに浸透し得る「ものの見かた」だということをはっきりと認識したのはほんの数年前である。それまではどうかというと黄金期のアメリカSFをお手本にしてあれに追いつけこれを追い越せ、あれに加えて日本的感性を、これに加えておれの専門のシュール・リアリズムをなどと、SF中心に懸命に書いている一方で、「どうですSF童話をひとつ書いてみませんか」「歴史小説をSF的に」「ジャズになりそうなSFを」「SFルポルタージュは可能でしょうか」「純文学も書けるでしょう」などと各ジャンルからの注文があり、そのひとつひとつを試みては「おーっ。これもいける」「おーっ。書いた」「おーっ。でけた」「おーっ」などといちいち新発見に喜んだものであったが、文学全ジャンルに浸透し得る「ものの見かた」であってみればこれは当然のことであり、たとえて言うなら精神分裂病というものの存在を未だ知らずしてその多様な症状ひとつひとつを発見するたびに狂喜し、単なる症状にいろいろな病名をつけていた精神病理学初期の段階に相当しよう。
(中略)
あちこちで痛い目にあいながらも、一方ではSFの可能性を確かめたい気持も強い。



 SFの「ものの見かた」を得た筒井康隆が描くSF小説『パプリカ』は果たしてどのような文学と手を組んだのであろうか。本論文での結論は交錯する「自然主義と反自然主義」をSFの「ものの見かた」で描いた、というものである。筒井康隆にかかれば相容れないとされてきた自然主義と反自然主義は互いに絡まりあって一つの『パプリカ』という虚構を形成してしまうのである。そういう点でSFの可能性は確かにあるのだということが言えるだろう。



第六章 アニメーション映画『パプリカ』と筒井康隆の他メディアへの影響


筒井 私の『パプリカ』という作品はお読みになりましたか。
今  実は『パーフェクト・ブルー』の次には『パプリカ』をアニメ化したかったんですよ。当時、企画していた会社がなくなってしまったので、それっきりになってしまいましたが。
筒井 うわあ、それはやってほしかった。
今  夢探偵のパプリカが、夢の中におりていくというのがとにかく面白く、私のなかでは非常に大きな作品です。
筒井 だろうと思った。『パーフェクト・ブルー』を見た後、絶対に『パプリカ』を気に行って下さるだろう、今さんにアニメ化してほしいなと思ったんですよ。

(『アニメ―ジュ』二〇〇四年二月号)


 テレビアニメシリーズ『妄想代理人』の放送を前にアニメーション監督今敏と筒井康隆の対談が組まれた。監督のブログによれば対談の相手は雑誌『アニメ―ジュ』から提案された人から何人か候補を選ぶ形で希望を取ったという。筒井康隆という名前を見つけてダメで元々という気持ちで希望したら本当に実現してしまった。その対談での会話である。元々今敏監督は筒井康隆の大学生時代からの熱心に読んでいたファンであり、アニメ制作のうえでも筒井康隆の影響を多大に受けている。

 このように、筒井康隆という作家が現在第一線でサブカルチャーを支えている人間に与えた影響というのは計り知れず、具体的に名前を挙げてファンだと公言している漫画家では例えば高橋留美子などがいる。高橋は代表作『うる星やつら』の中に筒井康隆の作品名を登場させたり、また一九八四年公開の『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』のパンフレットには『あるいは夢でいっぱいの海』(『あるいは酒でいっぱいの海』)、『時をかけるあたる』(『時をかける少女』)等の筒井作品のパロディが掲載されている。

 また大ヒット漫画『幽☆遊☆白書』、『HUNTER×HUNTER』を描いたことで著名な富樫義博もその連載作『レベルE』の主人公の名前を「筒井雪隆」としている等、その関心の度合いを伺える。作中では他にも江戸川乱歩、坂口安吾、夢野久作、ハワード・フィリップ・ラヴクラフトといった小説家の名前を捩ったキャラクターが散見される。ちなみにこの作品では「筒井雪隆」は短気で気性が激しいなどチンピラ然とした姿で描かれる。そこにはやはり筒井本人の人間性の強烈さが見え隠れする。

 今敏も筒井に大きく影響を受けた作家の一人であり、一作目の劇場監督作品『パーフェクトブルー』での「虚実混淆」の仕掛けは『パプリカ』の文章のような映像を作りたいという思いから出来たものであった。アニメーション監督の前は漫画家として活動しており、代表作の一つ『OPUS』では架空の漫画『RESONANCE』のキャラクターとその作者が漫画と現実を行き来するという「虚構であることを前提とした虚構」を押し出されたものだ。また最終的に『OPUS』の作者である「今敏」なる人物も漫画内に登場し、実際連載されていた雑誌の廃刊(事実そうなってしまい、この内容が掲載された単行本が発行されたのは2011年である)について言及するなど複数の階層構造はまさしく筒井譲りの「超虚構性」である。

 小説とアニメーション、漫画とジャンルは違っても、今敏は間違いなく筒井康隆の継嗣の一人であったはずであるが、残念ながら二〇一〇年八月に四十六歳という若さでこの世を去った。生前の対談で筒井康隆自身が映画化してほしいと語ったものが実現し、今敏監督のアニメーション映画『パプリカ』は二〇〇六年に公開された。『パプリカ』は第六三回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に正式出品され、同映画祭ではスタンディングオベーションで迎えられることとなった。

 今敏は『パプリカ』を映像化するにあたって「基本的なストーリー以外は全て変えた」と言っているように、映画版は原作からの多くの変更点がある。その理由としてはそもそも長い映画は上映回数の関係で敬遠されがちであるという事情もあり、90分という尺の中で物語を再構成しなくてはならないことや、第一部・第二部といった切れ目がフィルムには無いということもある。また『アニメージュ』二〇〇六年二月号のインタビューでは次のように語っている。


 原作ファンのひとりである私が「映画にするならこうじゃないかな」という解釈でアレンジしています。たとえば、私が原作で一番インパクトを受けた「巨大な日本人形が登場する」というシーンがありますが、そのまま使うわけではないにしろ、そのイメージを取り込まないで『パプリカ』はないだろう、とか。そういう風に、原作のなかで印象に残ったシーンや、「ここは映像にしてみたい」と思ったシーンを膨らませて、エンタテインメントとして構成しているんです。

 それから、『パプリカ』以外の作品も含めた“筒井康隆エッセンス”も盛り込みたい。原作の『パプリカ』ではあまり出てこなかった“言葉”というモチーフも取り入れようと思っています。



 DCミニをめぐって乾精次郎、小山内守雄と対立するという基本ストーリーは変わらないものの、乾が副理事長から理事長になり、島が所長という肩書きのみに省略されているように、研究所内の権力争いという構造は後退している。また乾のカルト的な思想は語られない。パプリカの夢探偵を体験するのは粉川一人となり能勢は登場しない。粉川も一介の刑事となっている。物語はDCミニが盗まれることを始点に動き出し、早いうちにその免疫過敏症、アナフィラキシーが現れる。

 どうもこれだけ語ると随分と簡略化され原作からはかけはなれた映画になっているように思えてしまうが、実際に見てみると分かるように要素の組み換えが行われており、原作で出て来た要素が別のキャラクターのものとなっていたりと、まるで原作『パプリカ』が再度夢として顕在化するために検閲が行われているようである。例えばそれはアニメ映画での粉川の映画好きという設定であり、これは原作では能勢を構成する一要素であったはずだ。これは夢分析的に言えばパプリカを助ける役目という共通点から粉川と能勢が混同されたということでもある。その点、今敏は非常に意識的で、同インタビュー内ではまたこのように語っている。


 原作だからどうこう、オリジナルだからどうこうというのは、特に考えていないです。確かに、原作を逐一再現しようとすると大変かもしれない。でも今回は、筒井先生の原作という大きな枠組みを借りてきて、その中で「自分が使うのはこれとこれ。それをこう解釈して、こう組み合わせる」という関わり方をさせて頂いているので。
 (中略)
 でもそこは印象を大事にして、強調した方が面白い。もちろん同じ原作ファンでも、それぞれにまったく違う印象を抱いているでしょう。そういう意味も含めて、原作と映画は別物だと考えています。
 でも、そこで何でも好き勝手にしていいわけでもない。原作に対する敬意が多分にないと、単に企画として借りてきたものになってしまう――そこが、原作ものの難しさとは言えるかも知れませんね。原作者にはきちんと「お礼」をしなくてはいけないですが、それは原作をまるごと再現するようなことではないと、私なりに考えているんです。「私はこの作品をこのように解釈し、このように広げました」というアプローチで映像化し、原作者の方がそれを見て「これはこれで面白いね」って感じて頂けたら、一番いいのではないかと思います。



 実際に出来あがったフィルムは押韻を含めた七五調の言葉遊びであるとか筒井康隆的なエッセンスを多く含み、原作の第二部を彷彿させる「娯楽的な大衆特作映画」ではあるものの、今敏という一人の才能によって全く新しい夢となって出力された新しい『パプリカ』なのである。そこにはもはや原作との比較の上での分析は通用しない。

 しかし「虚実混淆」の部分ではまさしく筒井の遺伝子を受けた直系の世代である今敏ならではの表現力で描かれる。一文を映像におけるワンカットに見立て、夢世界での文章と文章の飛躍を、カットの切り替えによって全く別の画面にすり替えるというのがこれであるが、映画では粉川利美の夢で次々に映画のキャラクターになっていく場面等で見ることが出来た。また小説第二部では一文の中で虚実が混ざっていくが、これはワンカットの中でシームレスに夢の中のキャラクターが現れる(映画内では粉川とパプリカが映画館の客席に座っていた際に後部から夢が流れ込んでくる場面などが印象的である)といった方法で見事に表現された。『パプリカ』に何度も実写の企画が持ち上がっても実現されなかったのはこういった部分もあるだろう。役者や背景などの現実が介在しなくては成り立たない実写によって虚構を表すよりは、漫画・アニメは元来からして虚構であるため(アニメは声優という現実が介在するが)、「超虚構性」に対して親和性が高いのである。こうした事情から見れば筒井康隆が漫画・アニメ等のサブカルチャーに理解を示すのは想像に難くないのである。

 映画はアニメに相応しい形で全く新しいものとして再構成されたエンタテインメントである以上、原作と比較する意味には乏しいが、それでも映画と原作とを比較するのならばただ一点を置いて他にない。それは玖珂と陣内の存在である。原作『パプリカ』でもこの二人の立ち位置が登場人物の一つ外側にあるということは前述の通りであるが、映画版『パプリカ』ではこれに対する一種の回答が与えられる。原作では六本木に存在する「バー・ラジオクラブ」が映画版ではインターネット上のサイト「レディオクラブ」となっているのである。この場所はパプリカと会える場所という要素は変わらず、玖珂を筒井康隆が、陣内を今敏がそれぞれ声をあてているのである。これを根拠として、原作は玖珂と陣内がその他の登場人物の夢をみていたとするのはいささか反則的で乱暴であるが、一つ外側の枠の存在であるとするのは許されるであろうか。



結論、終わりに



 『パプリカ』という物語は筒井康隆作品の中で殊更取り上げられることのあまりない作品である。登場人物がみな文房具で特異なストーリー展開をする実験的な作品である『虚航船団』、登場人物が全員自分たちが虚構の存在であることを自覚していることを始めとして様々な虚構性を追求した実験作『虚人たち』、五十音から一音ずつ消えていき、その音を使ったものすらその存在が消えていくという『残像に口紅を』。本作はこれらのように何かそれと分かりやすい文学的な実験がされている訳ではない。たとえば「夢」をテーマとした作品ならば谷崎潤一郎賞を受賞した『夢の木坂分岐点』もある。対して本作『パプリカ』はどうであったか。執拗な分析を試みなければ、ただ娯楽小説として読まれるだけであっただろう。

 私が本作をテーマとして選んだのも、実の所筒井康隆が断筆する前の最後の長篇SFだからという理由の他には映画版『パプリカ』の存在ももちろんあった。というよりは元々映画版『パプリカ』が今敏にとっての最後の監督作品となってしまったのを受けてのことであった。断筆前の筒井康隆にとっての「遺作」となった『パプリカ』は、奇しくもこの作品に巡り合わせてくれたアニメーション映画監督である今敏にとっても「遺作」となってしまったが、今敏にとっての最期、断筆前の筒井康隆の「最後」を飾るに相応しい深みのある作品だと感じられる。

 夢というのは作品の題材とするには細心の注意が必要である。ともすれば一般的に夢オチと揶揄されるように、物語の結末を手放しで放置してしまうということにもなりかねないからである。その点筒井康隆はおよそ夢のスペシャリストとも言えた。大学在学中にフロイト全集を読破することに始まり、卒業論文のテーマにも「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」を選んでいること、また『着想の技術』で明かされた夢を創作へと昇華する方法論の数々は、まさしく「夢」というテーマの重要性を熟知した作家の姿であった。

 実際に『パプリカ』を読み解くにあたって筒井康隆の夢に対する真摯な態度を前提とした論を展開することが非常に多くなったが、論文としてまとめるという行為を通した今ではそれは確かに間違いではなかったと胸を張って主張出来る。結果として『パプリカ』に秘められた筒井康隆の願望として自然主義と反自然主義の交錯、および『パプリカ』を描くことそれ自体がSFの可能性を示すという一つの目的だったということは既に述べた。『パプリカ』は世間的にはスラップスティックな終盤、『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』という一連の三部作のヒロイン七瀬にも通じる魅力的なパプリカというヒロイン、虚実入り混じる夢というテーマ、という筒井康隆の特質をこれでもかと盛り込んだ長篇娯楽小説である。しかし長篇娯楽小説も一つ一つ分析することで物語という「顕在内容」に秘められた作者の意図「潜在内容」が確かに存在するのである。これを持ってSF作家としての筒井康隆の夢分析を終えようと思う。





注釈

・注一 筒井康隆『着想の技術』 新潮文庫平成元年九月
・注二 筒井康隆編『夢探偵』 光文社一九八九年六月


参考文献

・八橋一郎『評伝筒井康隆』新潮社昭和六十年十二月
・日下三蔵『日本SF全集・総解説』早川書房二〇〇七年十一月
・長山靖生『日本SF精神史――幕末・明治から戦後まで』河出ブックス二〇〇九年十二月




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