吉行淳之介論

 

06E1102013E 桃井ゆめか

 

 

目次

 

 

序章 

第一章 吉行淳之介論 

 第一節 先行研究

 第二節 吉行淳之介初期作品における他者の描写

 第節 吉行淳之介の他者への距離感            

第二章 吉行淳之介とアイデンティティ 

 第一節 「アイデンティティ」とは

 第二節 吉行淳之介とアイデンティティ

終章 現代のアイデンティティに対する吉行淳之介の意義 


 

序章

 

1.現代におけるアイデンティティの問題意識

 私は自分が記号的に判断されることに、常々疑問を抱いていた。例えば私が最も違和感を覚えてきたのは、「女」という記号である。「おしとやか」「優しい」「小奇麗」「器用」「家事ができる」など、幼い頃から「女」として自分に与えられてきたイメージを厭い、小さいころは男の子と一緒に外で遊んでいたものだ(その結果事故で複雑骨折をして、かねてより好きだった漫画の方にのめり込むにいたる)。

今でも私は誰かの中で記号的な「私」が作られてしまうこと――「桃井ゆめかはこういった人間だ」という、簡潔にイメージ化された自分の像が、他人の中で生きていること――を恐れている。私がどんな人間であるのか私自身にすら判らないというのに他者によって意味づけされる「私」と、私が何となく感じる「私」が食い違っている……サイズの合わない靴を履いているような居心地の悪さがそこにある(図1)。そればらば私は「変な人間だ」「訳が判らない」と思われていた方が気が楽だ。おそらくはその「よく判らない」というもやもやした感じの方が、本当の(と示せるものがあるかはさておいて、本質に近い部分の)私に近いものを表せていると感じるからだ。

 

 吉行淳之介の文体に惹かれたのは、吉行が相手に記号的なものを安易に付与する以外の形で他者を見ようとしているように思えるからだ。

吉行の『原色の街』で、主人公が「自分を娼婦として追いやる黄色い目から逃れようとして、自ら娼婦になってしまった」というような描写を見たとき、私はそこに自分と同じような感覚――自分に関して、他者に勝手な意味づけをされることから逃れたい気持ち――を感じた。吉行が同じような感覚を有していたかは判らないが、少なくとも吉行は一定の場所へ押し込められることを厭い(激しい女性関係もその表れなのかもしれない)、時代性のステレオタイプ(流行の服をまとって得意げな顔をしたり、「ワーキングプア」などのはやり言葉に関して声高に注目を浴びるためのような主張を述べることなど)からも離れた場所に身を置こうとしていた(「新しい物ほど古びていく」という感覚や、自らを「外れ者」と称する感覚がこれを表している)。

私は吉行のその距離感に安心する。まず流行を味方にして一方的に責めたてられる感じがしない(たとえば『美しい日本語』という本が流行ったときに友人Aから「美しい日本語」というものを主張されたとする。そのとき私は友人Aだけでなく、その本を支持する大衆からも「美しい日本語」を押し付けられているような錯覚を覚える。同意見の味方がたくさんいるということで、勝ち誇ったように、違う意見を持った人のことをろくに検証せず意見を押し付けることはままあることだ。たとえば「常識」という言葉)。そういった「流行」(ある意味での社会(広告会社・メディア・利益を求める何かなど)が用意した「これが良いものなんだ」という記号。その記号に収まるべきであることを社会がなんとなく押し付けてくる)を無造作に使ってしまわないためには、それがどういうものか考える能力が大事なのではないかと思う。それが吉行の場合「主流から距離を置くこと」(=客観性)であり、「新しい物ほど古びていく」という感覚や自らを「外れ者」と称する感覚がそこにつながるのではないかと思っている(東京から関西へ発ってみて初めてエスカレーターの立つ位置が左右逆であるということを実感するように、自分の置かれている場所(流行などの時代性など)から距離を置いてみようとすることは、記号的な固定観念にとらわれないうえで大事なことであるように思う)。

 

吉行小説はそういった「距離感」を持ちながら、容易に捕らえることのできない心情などの形のないものを、「悲しい」「嬉しい」といった形容詞で安易に使用することをせずに文章を書いていった。吉行は色などの感覚で捉えられるものを道具として、簡単に言い切らない形で小説をかいている。それは人間に一定の記号を付与できないことへの気づきなのではないかと思う。そういった吉行淳之介のアイデンティティへの眼差しは、現代に通用するものなのではないかということを、国文学の分野のみで一義的に考えていくのではなく社会学に視野を延ばして考えていきたいと思った。

 

 

2.初期吉行淳之介作品群に着目する意義

 本稿では吉行の初期作品郡を中心として、その文体を手がかりに吉行の他者の描き方を検証していく。作品の内容ではなく文体に着目する理由は、吉行の思想性は作品の内容よりむしろその記述の仕方の方に現れていると感じたからだ。文体が思想性をよく表していることの説明として、杉山康彦の「思想表現としての文体」〔注1〕を引く。「作家は作中人物の外側から書くか、内側から書くか。内側から書く場合作中人物の外側である肉体行動と内部である心とをどのようなかかわりで書くか。(中略)そのような文と文とをどのようにかかわらせるか。これはそのまま作家の世界への関わり方を示すものであり、それこそがその作家の最も本源的な思想に他ならず、その作家の文学の本質は、このような文章の機構そのものに潜むものでなければならない。」ここで説明されている「文体」は作家の個性、とくに外的世界との関わり方に関係しており、私が言及したい吉行の「他者の描き方」に対するアプローチとして合致すると考え、文体と作家論をつなげるに至った。

 中でも初期作品に着目する理由は、第一に、「目玉」などの後期作品を呼んだ折、私がもっとも目を引いた豊かな色彩表現、眼による小説の特徴がよく現れているのは後期よりむしろ初期であると感じたためである。第二に、関根英二が「〈他者〉の消失」〔注2〕において以下のように書いてあった意見を参考にした。

 

社会に根本的になじめない感性の表現として始まった吉行の〈書くこと〉の動機は、初期においては、〈私的〉なものの不透明さという焦点が他者の中の共同化できないものに対する開いた関心の表現になりえていたのだが、後期においては、主人公が抱えるあいまいな性の気分は、そのまま世界の〈公的〉な真実へと変質してしまい、〈遊び〉あるいは〈無為〉を核とするこの作家の形而上学の体系化に協力するものになっている。吉行は個人的な人生哲学を確立するのに性急なために、他者を新鮮な驚きとして受け止めていた自身の感受性を急いで風化させてしまうように見えるのである。そうした感性こそが、彼の書くことのはじめの動機を支えていたにもかかわらずである。

 

 また、初期作品としての区切りは、同じく「〈他者〉の消失」に「砂の上の植物群」がひとつの決定的な転換点となったとあり、父親の年齢を越えたという時期的にも、内容・文体の実験的要素としてもその意見に共感できたため、「砂の上の植物群」(昭和三十八年)までを範囲とした。

 

〔注1〕杉山康彦「思想表現としての文体」(『国文学解釈と鑑賞 四十一(五)』至文堂 一九七六年四月 三二〜四〇頁)

〔注2〕関根英二『「他者」の消去 吉行淳之介と近代文学』(勁草書房 一九九三年三月)

 

 

3.本論の流れ

まず、本論で主題に置きたいことは「吉行淳之介の初期作品群の他者の描き方は、現代における多重で複雑なアイデンティティの時代において意義がある」ということである。

 吉行作品における特徴として、まず鋭い五感を通した描写をあげる。吉行は五感――すなわち視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚が優れた描写を書いている。ここで重要な点は心情をそのまま描かずに肉体感覚を通している点である。吉行の鋭い肉体感覚は心情のとらえる鋭さでもある。

 吉行において、五感の中でも特に鋭いのが「視覚」である。視覚的な描写が細やかであることもさることながら、中でも色彩の豊かさ、特に「赤」と「石膏色」の使い方に特徴がある。「赤」「石膏色」はそれぞれ吉行の心情を象徴する色であり、その色を突き詰めていくと、自己存在という深いところまで降りていくことができる。吉行における「視る」という行為は、ただ外側の描写をなでるだけではなく、色という道具を手がかりに内面にまで踏み込んでいこうとする行為なのである。

 自らの感覚を頼りにして書く対象への「近さ」と、心情を描くにも観察的な「遠さ」が吉行の文章に共存している。これは習作期を経た末の結果であり、「ただ感じたままに書く陳腐な「詩」ではなく、ただ理知的な冷たい眼で対象を見つめるような「散文」の立場でもなく」、その中間こそが吉行作品独自の微妙な距離感を演出している。

 吉行作品における距離感は、吉行の過去の体験にも基づいている。病気による劣等感や戦争などによる死の体験は吉行に「自分が身を置かれている社会の不確実さ」を気づかせ、懐疑的な姿勢を助長させる。一方でその社会に巻き込まれ続ける「体」と自らの「心」は切り離せないという感覚も同時に持っている。

 ただ吉行に顕著なのは、時代を支配するイデオロギーへの懐疑であり、そういった時代性(流行的なもの)を作品に投げ入れてしまうことの脆弱性(流行が過ぎればすぐ古臭くなってしまう)ことに意識的である。吉行作品に社会というものが描かれないのは、こうした意図が大きく関わっている。しかしそれは逆に社会というものの存在を鋭く見据えているということであり、吉行はなるべく時代性といったものに頼らない形で、自らの感覚を通して、時代を越えて通用しうる人間観察(アイデンティティへの接近)を行なうのである。

 以上までが第一章の流れであり、第二章からは社会学的方面からアプローチを進める。まず、吉行が生きた時代と現代はだいぶ離れつつあるわけだが(一番大きな点として、戦中に青春時代を過ごした吉行に対し、現在の青年は戦争を知らない)これを近代化という大きな枠文の中で一貫した流れでつかみ直す。これにより吉行の持つ問題意識が現在にも無関係でないことを考える。

 現在、私たち個人はアイデンティティについての悩みをこと欠かないが、それは個人的なことではなく極めて社会的な作用の中で起っている。私という「個人」があるためにはそれを承認する「他者」の存在が不可欠であり、その承認する「他者」とは複雑な関係の中であらゆるところに存在するのである(私という人間は大学・家・バイト先、あらゆるところに属しており、あらゆる他者とあらゆる関係性を結んでいる)。

 私たちは無意識のうちに他者からの「意味づけ」を受けている。それと同時に私たち自身も他者への「意味づけ」を行なっている。その相互的なアイデンティティのやりとりに敏感だったのが、時代を懐疑し、形容詞を使わずに自己の感覚から他者を描こうとした吉行の手法だったのである。現在煩雑になった所属コミュニティや不安定化する社会の中で私たちのアイデンティティはますます拠り所をなくしているが、吉行の時代に縛られない姿勢は変化の中にも耐えうる、かえって安定した姿勢なのである。


 

第一章 吉行淳之介論

 

第一節 先行研究

 

 本節では、吉行淳之介の生きた時代を整理し、文壇的な立場を把握した上で評価の変遷をまとめていくと同時に、参考文献の研究史的な位置づけをまとめていく。(記述は小田切進編『日本近代文学大事典 三』(講談社 一九七七年十一月十八日)を中心に行う。また、「私の文学放浪」(吉行淳之介『吉行淳之介全集 第八巻』(新潮社 一九九八年五月十日))は本稿全体に渡って引用しているため、各所で特に注記しない)

 

 

1.略歴

 吉行淳之介は一九二四(大正十三)年四月十三日、岡山県岡山市に生まれる。父・吉行エイスケは昭和初頭、新興芸術派の中心にいた小説家で、ダダとモダニズムの混融した特異な作風で知られた。母は美容家のあぐり。淳之介は長男で、妹に女優の和子、詩人の理恵がいる。吉行は幼少より病気がちであり、昭和十五年腸チフスで入院中に父を亡くし、十八年の学徒動員で応召したが、気管支喘息のため入営四日目に帰郷を許される。

 戦後、経済的な理由から二十二年には大学を中退し、新太陽社に入社、大衆娯楽誌の編集に勤めた。多忙を極める中同人誌を発行・参加する中で、散文詩風の小説を発表していく。吉行自身が「散文としての処女作」とする『薔薇販売人』は、昭和二十五年「真実」に掲載された。『原色の街』(「世代」昭和二十六年)、『ある脱出』(「群像」昭和二十七年)が芥川賞候補作に選ばれ、肺結核で新太陽社を退社・入院する中、『驟雨』で第三十一回芥川賞を受賞。以降作家的地位を定め、本格的な作家業に取り組むことを決意する。同じころに安岡章太郎や小島信夫ら同世代の作家たちとの交流も緊密化して、当時の文壇用語で「第三の新人」と呼ばれた個性の存在が、ようやく明瞭になっていった。

 吉行は妻以外にも女性関係があり、女優の宮城まり子は『闇の中の祝祭』、ホステスの大塚英子は『暗室』の題材となっており、吉行の代表作と深い関わりがある。一九九四(平成六)年七月二十六日、宮城まり子に看取られながら肝臓癌で亡くなる。

 

 

2.第三の新人について

 「第三の新人」とは、昭和二十年代後半に文壇に登場してきた一群の新人作家たちを概括的に呼ぶ文壇用語である。この呼称を初めて用いたのは、昭和二十八年一月「文學界」に載った山本健吉の『第三の新人』という評論であり、前年一月同雑誌に載った臼井吉見の評論、『第二の新人』をふまえている。

 「第三の新人」の最たる特性は、彼らの文学が第一次戦後派の文学に対して、かなりの距離を置いていた事である。それまでは「確たる目的意識と豊かな思想性、社会性」を持った戦後派の文学(吉行が言う「重厚コワオモテ」の文学)が主流であったが、吉行らの文学は個人的な空間(家庭や女性関係)に焦点が当てられており、この呼称は当初いくぶん侮蔑的なニュアンスさえ含んでいた。

 昭和三十二年当時、第三の新人への悪評は絶えなかった。「私の文学放浪」で「その悪評の内容は、前回に述べたように服部達の説の引用借用でないものも、おおむねその節に吸収され得るものが多かった」とあるので、吉行自身が服部達の「新世代の作家たち」を引いて「第三の新人」の特徴をまとめている記述を引用する。

 

  一、ビーダマイヤー的様式の優勢(内容形式とも小ぢんまりした作品を書く作家が多い。塙英夫の「背教徒」、前田純敬の「練尾布由子」などを除いて、彼らの今日までの代表的な作品はすべて短編である)

  二、戦後派作家との対立(大ざっぱに言って、戦後派作家は素朴実在的リアリティへの懐疑から出発し、新世代の作家はその懐疑への懐疑〈もしくはその単純な肯定〉から出発したと言えようが、以下に述べる新世代作家のさまざまな特色――即物性・日常性・生活性・現状維持性・伝統性・抒情性・単調性・私小説性・形式性・非倫理性・非論理性、反批評性、非政治性等々の傾向は、すべて従来の戦後派作家の基本的な諸傾向と対立するものである)

  三、素朴実在的リアリティへの依存(そのために、彼らの素材には多くの日常的な生活が選ばれるし、戦場・外地・監獄といった非日常的な状況を扱うときにも、その極限状況的な、つまり形而上的な面にではなく、日常生活の延長としての性格を持つ面に、主としてスポットライトが当てられる)。

  四、私小説伝統への接近。

  五、批評性の衰弱。

  六、政治的関心の欠如。

  そして、これらの共通性を作り出した原因として、服部は次の三つを挙げる。一、戦争の影響。二、既成作家への反撥。三、現在の社会情勢(挑戦事変による特需が表面的安定へのテコ入れとなった。こういう社会情勢と、新世代の作家ジャーナリズムへの登場との間に、わたしはある対応関係を認める。彼らはいわば特需文学派なのである)

 

 また、三十年下半期には既成道徳などには縛られない開放的で行動的な青春を描いた石原慎太郎の「太陽の季節」、昭和三十三年の上半期には戦後の現実を一種の透明な知的な眼で捉えた大江健三郎の「飼育」などが芥川賞を受賞し、「小説における物語性の回復」として評論家の賛成を得ていた。第三の新人は第一次大戦派と石原たち新勢力に挟まれた、存在感の薄い世代でもあった。〔注1〕

しかし彼らは戦後派文学の思想性政治性に対して意識的な無関心の姿勢を貫くことによって、それぞれ個人的な体験の意味を掘り下げ逆に独自の文学的世界を作り出していき、「第三の新人」は評価を改めていった。

 

 

3.吉行淳之介の評価

 「第三の新人」ははじめ、その個人的な空間に焦点を当てた作風から、社会性のない軽い文学であると批判された。江藤淳は『吉行淳之介試論』〔注2〕などで吉行淳之介をまじめな実生活から降りてしまった自分を批判する目を持たない、「休暇中」の作家であると批判した。休暇とは「人間の顔を見ないで済む時間、自分が決して他人との動的な関係にまきこまれずにすむという保證をえて、一人でいられる時間」のことである。つまり吉行は自らの内側だけの既知の領域に閉じこもり、洗練された文章であたかも他者を描いているかのような錯覚を引き起こさせているだけだというのである。江藤は「休暇」の文学は未知なものを体験させてくれない、と述べる。

 しかし時代が下るにつれ吉行を評価するものは多くなり、川村二郎は『感覚の鏡』〔注3〕で「輪郭鮮明な鏡像が、輪郭を失って解体していく無定形な時代に、その存在それ自体を通じて、異議を提出している」とし、「上の世界と下の世界、秩序の領域と無秩序の領域とのひそかな関連、照応を、常に注意深く探り確かめている」と書いている。つまり吉行の作品は、社会から切り離された個人的な空間に留まっているように見えて、それは確固たる思想性を欠いた現在(時代の明確な言及はないが、『感覚の鏡』が書かれたのは「群像」の一九七八年一月号から十二月号であり、日本で学生闘争が鎮火し大きなイデオロギーを喪失した時期と重なる)を批判しているのであり、吉行はそんな社会と自身の間に感覚を行き来させながら作品を書いている、というのだ。川村は吉行の個人的な領域から社会的な領域を見すえる感覚を評価している。

 一方で関根英二は『〈他者〉の消失』〔注4〕で「江藤は吉行が提出する主体には責任のある〈行為〉に繋がるような世界との関係がない点を未成熟としているわけだが、逆に川村は、直接行為的には繋がらないものとして世界と主体の関係を提示する吉行の〈認識〉に成熟した精神の深さを読み込むわけである。」と二つの論を比較したうえで、「成熟という概念を世界の〈意味〉をつかむことと重ね合わせてとらえている点で、江藤と川村の議論の枠組みそのものは実は同じものなのであり、両者に欠けているのは、〈意味〉へしがみつくことで安定しようと望む人間一般に不可避に近い性向そのものを問い直せるような視点であるだろう。」としている。すなわち、吉行の小説において着目すべきは、吉行が描いた他者にどのような意味が見出せるかではなく、「他者との了解の最終的な不可能性を予測」した上でそれを確認しようとする閉鎖性にある。関根は初期の吉行に見られる他者との交わりへの恐れと憧れのリアリティ(決して吉行作品の他者との関係性それ自体がリアルなのではない)を評価しつつも、自分の中で完結した他者(他者性を喪失した他者)を描くことに対し批判的である。

 関根英二の論を引いて、日本におけるジェンダー論の火付け役となった上野千鶴子は、『文学を社会学する』〔注5〕において吉行を「〈夢の女〉にいったん逃走した主人公が、たどりつくもうひとつの〈女からの逃走〉の果てで、「愛の不能」という二十世紀的な主題を、吉行は戦後日本的な卑小さで繰り返すのだが、それは男の身勝手の夢のなかに、あらかじめ仕組まれていたナルスティックな自閉の予期された帰結なのである。」と批判する。『文学を社会学する』が刊行されたのは二〇〇〇年末であるが、これ以降も吉行に関する現代からの評価はあまり芳しくないように思える。二〇〇六年に『国文学 解釈と鑑賞』に掲載された「座談会――第三の新人 二十一世紀からの照射」〔注6〕の中で、大杉重雄氏は「吉行の中には古典的な男女の枠組みっていうのがあるんじゃないかと。(中略)やはりあるべき前提、倫理観があって、それを崩すように書いているんだと思うんです。でもその前提というものが、現代からはなかなかわかりにくいというところがあるかなと。」と述べ、吉行文学と変化が加速した現代との「ズレ」を指摘している。いずれも吉行淳之介の文学は現在の時代性に必ずしも迎合されないという評価が成されているようである。

 

〔注1〕居邦朗「吉行淳之介と第三の新人」(『国文学 解釈と鑑賞 四〇(十一)』至文堂 一三二〜一三七頁)の記述をまとめた。

〔注2〕江藤淳「吉行淳之介試論」(『文學界・十三(四‐六)』文芸春秋社 一九五九年四月一日 一三八〜一四七頁)

〔注3〕川村二郎『感覚の鏡 吉行淳之介論』(講談社 一九七九年四月)

〔注4〕関根英二の前述の著書。

〔注5〕上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』(朝日新聞社 二〇〇三年十一月)

〔注6〕大杉重男・伊藤氏貴・拓植光彦「座談会―第三の新人 二一世紀からの照射」(『国文学 解釈と鑑賞 七十一(二)』至文堂 二〇〇六年二月十六〜十九頁)

 

 

 

第二節 吉行淳之介初期作品における他者の描写

 

 本節では吉行の特に初期における作品群における文体を頼りに、他者の描写の方法をみていく。

 

 

1.病的なまでの五感の鋭さ

 吉行は感覚の鋭い作家である。三浦雅志は『メランコリーの水脈』〔注1〕において「視覚は言うに及ばず、聴覚、嗅覚、味覚、あるいは触覚が、ほとんど病的なほどに研ぎ澄まされている。」と評している。その例として、三浦は「原色の街」の以下の文を引いている。

 

 地面にうずくまるようにして指先で支えている線香花火の、爆ぜる音と煙のにおい、縁日のアセチレンガスのにおい。夜店の前を行き来する白っぽい浴衣やシャツの色。夜の空気のなかでひびく、下駄の音。長いコンクリート塀に指先をあてがって歩いて行くときの、ざらざらと光ってくる指先の感触。

 

 この文では始めに「におい」がきて、「色」「音」「感触」が描写されている。つまり嗅覚、視覚、聴覚、触覚、ほぼ五感の全てが連続的に作動していることになる。こうした感覚を通した文章は吉行作品のいたるところに出てくるので、他にも引いてみることとする。

 

  一郎の眼には、火口が映っている。白い薄い煙を透して、火口壁の内側の向いの壁の色がぼんやり浮かび上っている。硫黄の蒸気の臭いが、ただよっている。

  一瞬、一郎はかるい眩暈を覚えた。気がついてみると、一郎は、ズボンのポケットに入れた手の指で、太腿の肉をぎゅと摘んでいた。自分でははっきり気づいていなかったが、足だけ勝手に走り出すかもしれないような不安に襲われていたものとみえる。

 

 「夏の休暇」の中の一文であるが、ここでは視覚の次に嗅覚が現れ、次に触覚に移っている。さらにこの一文で吉行の特徴を現しているのは、心理描写の遠さである。一郎は「不安に襲われていた」という心理状態を示すわけだが、これまで感覚や動作が単純な現在形もしくは過去形で語られていたのに対し、突如心情だけが「不安に襲われていたものとみえる」という観察的な視点が露わになっている。体に引き付けるかのように五感を通して描かれている風景に対して、反対に心は引き離されて描かれている。ここで重要なのは、吉行は「嬉しい」「悲しい」といった心情を表す形容詞を端的に用いることをしない、ということである(これは吉行が意図的に行なっていることであり、詳細な引用は次の節でまとめて掲載する)。吉行は造形のない「心」というものに触れようとするとき、独特な方法を用いている。その独特な方法というものが出てくる「紫陽花」の中の一文を引用する。

 

 その向日葵は、彼の目に毒々しい色に映ってきた。花弁の黄色も濃すぎるようにおもえたし、焦茶色の花芯も大きく盛り上りすぎていた。そして、全体として、湿った粉っぽさで、彼の心に張り付いてきた。

 

「湿った粉っぽさ」とは、物質的な要素であり、どちらかといえば触覚で感じる類のものである。当然本来それは肉体で感ぜられるべきものであるが、ここではその「湿った粉っぽさ」という物質的な要素がそのまま「彼の心」に到達し、それが心情として描かれている。そこには肉体的に感じられるものと心情で感じられるものとの隔たりがない〔注2〕

吉行の作品における心情描写とはそのまま感覚の描写とつながっている。すなわち吉行作品の随所に見られる鋭すぎる感覚の表現は、そのまま心情の表現を試みるものなのである。これが顕著に現れているのは「視覚」であり、視覚から入り込んでくる「色彩」なのである。

 

〔注1〕三浦雅志『メランコリーの水脈』(講談社 二〇〇三年五月十日)

〔注2〕吉行は皮膚アレルギーで心と身体が繋がっていることを実感していた。

 

 

2.色彩感覚に優れている「眼」

 吉行の小説に出てくる鋭い感覚の中で、群を抜いて鋭いのが「眼」である。例として吉行作品の中から風景描写をいくつか抜き出してみる。まずは「青い花」の描写を引く。

 

  依然として雨は降りつづいた。草に覆われていない部分の地面では、赤い土が彼方此方雨水のためにえぐられ、雨水が細い川となって勢いよく流れはじめた。彼らは、しばしば彼女の家に遊びに行った。彼女は家族と一緒に避暑にきていて、家族の人たちは新しく知り合いになった少年たちを款待(かんたい)した。そして、彼女の家の中で、彼女の軀は、堅い少女の殻をかぶったままのようにみえた。それは、少年たちの遊び仲間として相応しい、青い酸味のある固さだった。(中略)

  髪の毛をポマードで光らせ、型変りの眼鏡をかけているその男を、少年たちは見知っていた。青や赤のストレート武器の小屋の群れの中に、その男の家屋だけが、特別仕立てに立派に造られてあった。自動車も備えてあった。そして、その男は、紅や白粉をたくさん塗った女たちを従えて、派手な花模様のシャツの裾をひるがえしながら、颯爽と歩いていた。

 

 次は「風景の中の関係」の描写を引く。

 

彼はあらためて、横たわっている女を見た。幅のひろい、醜い顔である。口紅がひどく赤い。顔いちめんに、面皰(にきび)が吹き出している。いや、面皰ではない、べつの吹出物かもしれない。そのあちこちの先端が、化膿している。その薄い金属の板の下の皮膚には、小さな穴が開いているらしい。

  金色の小片がちりばめられている女の顔に、媚びた笑いがいっぱいになる。黄色い肥(ふと)った腕が、彼に向かって差しのべられている。

 

例に挙げた中だけでも、「赤」「青」「紅」「白」「黄色」など様々な色が描かれており、視覚を通して濃い描写がされている〔注1〕。こうした色彩の中でも、吉行作品において特に印象的な使われ方をするものは「石膏色」と「赤」である〔注2〕。例えば、あるとき世界が「石膏色」にしか見えなくなってしまった男の話が「鳥獣虫魚」であり、ここでは「石膏色」が作品を支配している。

 

 その頃、街の風物は、私にとって全て石膏色であった。長くポールをつき出して、ゆっくり走っている市外電車は、石膏色の昆虫だった。地面にへばりついて動き回っている自動車の類も、石膏色の堅い殻に甲われた昆虫だった。

  そういう機械類ばかりでなく、路上ですれちがう人間たち、街角で出会いがしらに向かい合う人間たちも、みな私の眼の中でさまざまの変形と褪色を起こし、みるみる石膏色の見馴れないモノになってしまった。

 

また、吉行自身が「散文の処女作」とする「薔薇販売人」の冒頭にも、「石膏色」が現れている。

 

  眼下に石膏色の市街が広がって、その中を昆虫の触覚のようにポールを斜につき出して、古風な電車がのろのろ動いていた。(中略)

  だが彼の眼を惹いたものは、全く装飾のない鼠色の壁に、緋色の羽織が辺りの空気を圧する華やかさで掛けられていたことだ。

 

 「薔薇販売人」も「鳥獣虫魚」も始めは「石膏色」の状態から始まっていく。この「石膏色」というのがどういうものか「鳥獣虫魚」からもう少し詳しく引用すると、「私の同僚の、色彩を持った人間たち」が「うっかりすると、その人間たちもたちまちのうちに、私から遠く離れ去って、手がかりのない場所で、石膏色の見慣れない形にうずくまってしまいそうな」感覚なのである。すなわち、見慣れた物事ですら「遠い」と感じ、「見慣れない」と感じてしまうような、現実味がなく何かが欠落したような状態なのである(三浦雅志は『メランコリーの水脈』でこの状態を「メランコリー状態」と呼んでいる)。だから「薔薇販売人」の主人公である檜井は、勤め先に行くはずであったその現実世界からそれて、逆方向のバスに乗っていくのである。

 この状態から化学反応を起こさせ物語を進展させるのは、「赤」の存在である。宛もなく街をふらふらとしていた檜井は緋色の羽織に惹かれてその家に薔薇と偽った野いちごを売りに訪ねることを決める。緋色の羽織を身に着ける女、ミワコは、夕方からの商売、つまり水商売をしており、この「赤」とはしばしば女性を、特に娼婦を象徴する色でもある。例えば、「原色の街」の冒頭の娼婦の街の描写は、「赤」にまみれている。

 

細い道は枝を生やしたり先が分かれたりしながら続いていて、その両側には、どぎつい色あくどい色が氾濫している。ハート型に曲げられたネオン管の中では、赤いネオンが震えている。洋風の家の入り口にはピンク色の布がたれていて、その前に唇と爪の真赤な女が幾人も佇んでいる。

 

 「赤」は物語を動かす化学反応の元となるが、吉行自身も「私の文学放浪」の中で女性との関係が自身の作品に刺激を与えていることに触れている。

 

  従って当時の私は、精神の緊張がおのずから起るのを待っていたのだが、これがなかなか起らない。ただ、女性のと入り組んだ関係ができると、昂揚が起る場合が多かった。その女性との関係を書くわけではない。関係が刺戟となって精神の緊張が起り、なにか書いてみる気持ちになった。

 

 ただし、この色彩はただの象徴に留まらない。なぜなら、「石膏色」や「赤」について描写すればするほど、その描写は自身の内面に戻ってくるからである。世界を執拗に隅々まで見ていこうとすると、必ず「見る」存在である自身にも行き当たるからである。「薔薇販売人」のラストは、ミワコと暮らす伊留間という男を暴こうとして、自身を暴いてしまうことで終わる。

 

 今こそ、この襖を開き、そこに蹲っている伊留間の眼を、彼の感情の動きのすべてを知悉した視線をもって、ハッシと打つのだ。(中略)

  彼は感じるのだった。彼は伊留間と言う男について、何を確実に知っていると言うのか。曝かれたのは伊留間恭吾の姿勢ではなく、彼自身の姿勢ではなかったか。

 

先ほど感覚と心情が描写として密接に関わりあっていることはまとめたが、造形を持たないイメージを色彩に託しそれを視るという行為は。形のない自己存在にまで言及していこうとする姿勢につながるのである。

 

〔注1〕吉行は「砂の上の植物群」の題材をクレーの絵画に認めている。

〔注2〕吉行のエッセーに「石膏色と赤」がある。

 

 

3.「散文」と「詩」の間にある散文詩

 以上までで、吉行の文章が五感に密接につながりつつ書かれていること、それは造形のないものを捉えようとする試みであること、鋭すぎる感覚はやがて造形を持たない自己存在にまで差し迫ることを挙げた。これについて、第三の新人らと同年代の評論家・福田宏年は、「性の不毛の作為性」〔注1〕の中で「病気持ちの虚弱児たち〔引用者注・第三の新人のこと〕は、最初から華やかな第一線の動きから降りてしまった趣があり、狭い世界にとじこもり、うずくまって、感覚的な反芻を繰り返すだけであった。まるで、主義も主張もあらばこそ、信ずべきはただこの感覚のみとでも言っているようなところがあった。」と指摘する。第三の新人はその作品の社会性・政治性のなさをしばしば批判されたが、それとこの感覚を頼りにした描写の方法は無関係ではない。それでも吉行が感覚と観察、近さと遠さを孕んだ文体でもって小説を書くことには、彼の習作期が関係している。

 吉行は「私の文学放浪」の中で「処女作はなにか、と問われたときには、「薔薇販売人」と答えることにしている。この作品で、はじめて私は散文が書けた、とおもった。」と答えている。それまでの作品について、吉行は「詩の領域に属するもの」としている。吉行は詩と小説の違いを「出発点から目的地までを直線で結んだものが散文だとすれば、螺旋状の線で結ばれるのが詩である」としている。当時の吉行はこれを「目的地を手探りするための螺旋状の線であり、また、目的地がはっきりしなくても舞踊の形自体に意味が求められる」と捉えていた。つまり吉行の言う「詩」は、昂揚が起こり、浮かんだものをただ形にするだけで良いものであった。しかし小説の場合、昂揚したそのままで書き始めると「悲壮で感傷的で、鈍重な、たどたどしくまじめな、まとめきれない、匂いも味もない、退屈な、陳腐な」ものになってしまうのだという。

散文が書けるということは、「対象と作者自身の心との距離の測定に成功すること」であり、昂揚をただ外に出すだけでなく、いったん押し殺すことが必要となる。つまりそれは感覚的なところから離れて、理知的で客観的な意識で目的に向って文章を統制していく必要があるということである。「薔薇販売人」に至るまでと習作期を比較し、吉行作品の基盤となる文章ができあがるまでを考察した藤村耕治の「ある到達と出発――吉行淳之介初期作品論――」〔注2〕によると、吉行の詩と小説の違いは〈詩――主観――夢想――自己完結性〉〈小説――客観――現実――他者(女)との関係〉という図式によって分けられる。藤村は「薔薇販売人」以前の習作が吉行の自意識のみによる葛藤を描いた作品であり、その中の他者は作者の恣意性に歪められた他者にはなりきれない他者でしかないと指摘している。しかし、自己というものは他者との関係性がなければ存在し得ないため、本当に自己を書ききるためには他者を描かなければならないのである。よって、客観によって他者を手に入れてはじめて、吉行の作品は小説になりえたのである。

 だが、吉行は完全に客観的な姿勢を持つことについて、「それもまことに正しいが、しかし対象にたいして石のように冷たい心でいては、そこから何も生まれてはこない。」ということも同時に述べている。それが前述した吉行作品の文体の特徴「心情から遠く離れ観察する視点」「肉体感覚から出発して世界を描こうとする視点」という点に出ている。吉行は二つの視点をあわせることで、他者への関心から完全に自身を離してしまうことなく自己の感覚を頼りに他者を描こうとする微妙な距離感を保っている。詩の文体で書こうとすれば自分の言葉に他者を回収してしまい、散文の文体で書けば作品を操る「作者」の視点が強くなりすぎてしまい人物に肉薄することが出来なくなるのである。

 

〔注1〕福田宏年「性の不毛の作為性――吉行淳之介論」(『文學界・十九(七‐九)』文芸春秋社 一九六五年七月一日 一五〇〜一五九頁)

〔注2〕藤村耕治の「ある到達と出発――吉行淳之介初期作品論――」(『文學界 五八(九)』(文化公論社 二〇〇四年九月 一〇七〜一二六頁)

 

 

第三節 吉行淳之介の持つ他者への距離感

 

 吉行の文体の特徴として挙げられる微妙な距離感(優れた色彩感覚・鋭すぎる五感によって対象が「観察」されていく)は、吉行自体の体験からも影響している。本節では、吉行が四十歳のときにその作家人生を振り返ったエッセイ、「私の文学放浪」の記述を頼りに、吉行自身のあり方と文体のつながりを通し、その距離感について言及していく。

 

 

1.吉行淳之介の社会からの疎外感

 吉行は小説を書き始める動機を、世間に受け容れられない自分の感性に居場所を与えたかったからだと答えている。吉行の抱いた疎外感とは、小説を書く問題意識の根底にある感覚なのである。

 吉行の少年時代両親は共に健在であったが、決してその愛情を惜しみなく受けることが出来なかった吉行は、「孤児のような気分」を感じていたと語る。祖母と祖父の別居や、美容家として仕事人間であった母、滅多に帰ってくることがなかった父・吉行エイスケなどがその感覚に影響している。エイスケは作家であったが、吉行自身は「大人になるまでずっと父の作品を読んだことがなかった」と発言している。高校受験のとき、面接官から「父の作品を読んでどう思うか」と聞かれ、「読んだことがないので判らない」と返したというエピソードがある。吉行はもっとも身近な社会的集団と言える家族に対して近しい感情を抱いておらず、また吉行作品で「家族」に焦点が当てられることはほとんどないのである。

 吉行が社会からの疎外感を感じていた理由の一つに、「劣等感」というものがあるが、その「劣等感」は吉行の抱える病気と切っても切り離すことができない。吉行は喘息持ちで体が弱く、喧嘩が弱いことや持久走が苦手であることはコンプレックスにつながっていた(四月十三日生まれの吉行が四月一日生まれに届けられており、一つ上の学年で学ばなければいけなかったことも、同世代の少年たちより体力がなかった要因となっている)。一方で吉行は学業では優秀な成績を修めていたのだが、父は何をしても吉行を誉めることはなかった。勉強はできても一流の優等生ではないという感覚が吉行の中には残り、自らを「一夜漬けの優等生」と称するなど、その「劣等感」は生半可な優秀さで容易に拭い去れるものではなかった。

 吉行の病気は生涯吉行につきまとっていた。昭和十五年、吉行は腸チフスで入院し、四十日もの間生死をさまよった。父・エイスケはこの入院の間に狭心症で三十四歳の若さで亡くなっている。藤村耕治は「ある到達と出発」〔注1〕で、「四十日もの間、生死の境を彷徨ったこの体験は、少年淳之介に肉体的・生理的な身近なものとして〈生〉と〈死〉を感覚させたと思われる。(中略)実存的感覚などと言えば大袈裟に過ぎるが、このことが〈生〉や〈死〉を観念としてのみ捉えがちな同年代の少年たちよりずっと早く、戦争に対してシニカルで懐疑的な感覚を抱いた彼の所謂「生理」に、何らかの影響を及ぼしたのではないかと私は考える」〔注2〕と述べている。吉行にとって死とは観念的なものではなく、実際に自らの肉体に襲いかかりうる実態に近いものを持ったものだったのである。吉行は昭和十八年学徒動員で応召し、気管支喘息のため四日で帰郷を許され戦場に行くことは免れるが、吉行は時代によって与えられる死をリアルな形で受け取っていたであろう。その後も病気は吉行にまとわり続け、肺結核で闘病中に芥川賞受賞を受賞することとなる(この病気によって新聞社を辞めていた吉行は、以降作家として生計を立てていくことを決意する)。皮膚アレルギーも吉行の持病の一つで、一九五七年読売新聞の「近況報告」〔注3〕では「皮膚と心の関係がすこぶる密接になっている。あるいは、この症状は精神に関しての一種の危険信号かもしれぬと思う。」と答えており、病気が吉行の体と心を密接につなげるものであったことがうかがえる(病気の治癒と心の変化を密接に結びつけた作品に『童謡』などがある)。

 吉行と死を深くつなぎ合わせたのは、もちろん戦争もであった(吉行の戦争体験を語った(そして作者自身が「九割の事実を込めた唯一の作品」と言及する)作品に『焔の中』がある)。吉行は「戦争が終わるころには自分は生きていないだろう」と感じていた。ところが戦争は終わってしまい、吉行は生き続けた。吉行は死の延長、思いがけずして転がり込んできてしまった生を生きたわけであり、それは〈生〉と〈死〉の一見相容れぬ二極が同居する生だったのである。吉行は戦後与えられた平和というものがそれまでのイデオロギーを全く無視する形で成立したことを体感していた。戦前は戦争に賛成し、戦後は民主主義に賛成していった多くの人々を見ながら、吉行は時代を迎合する人々への懐疑を募らせていったのである。

 吉行にとって少年期の病気や孤独感の記憶は、精神的にも肉体的にも自身を大衆の中に投じることの出来ない「ズレ」の感覚を植えつける一つの要因となった(体の弱さは、身体能力的になじめないという感覚と、結果集団としてなじみにくくなるという感覚を相互に引き起こしており、吉行の意識に複雑に絡んできている)。これらの集団になじめないという体験も、吉行に大衆があがめるところのイデオロギーの不確定さを気づかせたのではないだろうか。

 

〔注1〕前述した藤村耕治の論文。

〔注2)江藤の言う「休暇の感覚」は死の感覚が要因となっている。

〔注3〕吉行淳之介「皮膚とこゝろ」(『読売新聞』読売新聞社 昭和三二年七月一二日 夕刊四面)

 

 

2.吉行淳之介の文学への姿勢

 吉行の時代への懐疑は「新しいものほど古びていく」という思想によく表れる。吉行はダダが流行したまさにそのときに出されていた父親の作品に対してもこの言葉を使っており、時代というものが不変のものではなく可変のものであるという自覚が出ている。「私の亡父は、昭和初年の「新興芸術派」に属する小説家で、当時はすこぶる目新しく新鮮な文章として受入れられたムキもあったようだが、現在では古くさくて読むに耐えない。当時、新鮮とおもえた部分が、まず腐っている。(中略)もう一つ、形容詞の多い文章は、湿気が多くなる。なるべく乾いた、透明な文章を書こうというのが、私の心がけていることである(吉行淳之介『わたしの文章作法』)」また吉行は友人である澁澤龍彦にも、手紙で同じ言葉を残している(「生誕八十年 澁澤龍彦回顧展 ここちよいサロン」展示資料より)。

 吉行が作品中において心情を表す形容詞を使わない、という特徴は先に述べたが、形容詞を使わないことも時代性から距離を置く作法の一つである。形容詞はその時代によって意味が異なってくるものであり、例えば「すごし」という言葉は現在では「すごい」で「とても優れている」といった意味合いで使われるが、古くは「恐ろしい、物寂しい」という意味で最も使われていた。これは形容詞の意味づけが時代時代の価値観に大きく左右されることに関連している。ブルデューは『社会学の社会学』〔注1〕で形容詞に私たちが日常において無意識に受け入れている社会的な固定観念などが絡み合っていることを指摘している。「よくあるように、それとは知らずにある社会哲学を受け入れてしまうためには、日常用語に語らせておくだけで、言語のレッセ・フェール〔注2〕に身を任せるだけで、十分です。辞書を見れば、政治的な神話作用で一杯です(私が思い浮かべているのは、たとえばたくさんある形容詞の対なんです。派手な/地味な、高い/低い、稀有の/月並みな、といった)。」私の理解で述べると、つまり普段私たちが何の気なしに縛られているもの(道徳観や倫理観、伝統や流行などさまざまなもの)が形容詞には絡み合っているということである。形容詞を意識的に避けようとする吉行の文学は、書き方のレベルで社会との距離がとられているのである。それは逆説的に、社会的に与えられるものを無条件に受け入れることへの懐疑が含まれているのであり、吉行は自分の置かれている社会的な背景というものを意識して捕らえているということである(社会的な背景にまったく無関心ならば、ブルデューが言うように社会的な諸要素は自動的にくっついてきてしまうのである)。その姿勢は決して非社会的なものではなく、社会的なものを意識していたからこそ強くとられた行為であった。

 吉行は自らを「外れ者」として位置づけ、あえて時代から身を離すようなスタンスを取り続けていた。吉行はエッセイ「私はなぜ書くか」の中で小説を書き始めた理由を「なぜ小説を書きはじめたか、簡単にいえば、世の中に受け容れられない自分の感受性や感覚に場所を与えたいという気持ちがはじまりである。」と述べている。つまり吉行の意識はマイノリティの側から出発しているのである。吉行のマイノリティの立場として象徴的なエピソードが「戦中少数派の発言」に書かれている。「その日の休憩時間に事務室のラウド・スピーカーが、真珠湾の大戦果を報告した。生徒たちは一斉に歓声をあげて、教室から飛び出していった。三階の教室の窓から見下ろしていると、スピーカーの前はみるみる黒山の人だかりとなった。私はその光景を暗然としてながめていた。あたりを見まわすと教室の中はガランとして、残っているのは私一人しかいない。」この戦争の時代に戦果に沸いた同年代の少年たちに対して、吉行は一人教室の中に取り残された。これは吉行の「世の中に受け容れられない自分の感受性や感覚」を象徴する出来事であり、同時に人々が迎合する時代/人々の行動に大きな影響を及ぼしてしまう時代というものに対してのアンチテーゼを感じさせる。

 吉行は『軽薄のすすめ』において「確たる目的意識と豊かな思想性、社会性」を持った第一次戦後派の文学を「重厚コワオモテ」と表現し、これからの時代は「重厚コワオモテ」ではなく「鋭い軽薄さ」が重要だと述べている。「重厚コワオモテ」の文学は文学にそのまま政治的な価値観が求められるようなものであり、関根英二が批判するところの、西洋近代的な一義的な価値観にとらわれている。吉行は「重厚」に対する「軽薄」、「淑女」に対する「娼婦」に価値を置き、「価値の転換」をはかっている。この言葉の使い方では、時代的な価値にとらわれた言葉をいったん引き剥がすという形で、ブルデューの言うところのレッセ・フェールから解き放つ文章の書き方の試みがなされているのである。

 

 吉行は「マイノリティに属する」という自らの体験を持ったまま、戦争という大きな時代の転換を経験したことで、自らの背後にある時代の支配性を敏感に感じ取っていた。それが吉行に観察的なデタッチメントの文体を書かせた。だが同時に、吉行は否応なしに関係性の中におかれる「肉体」とそこから切り離したがっている「心」が、互いに通じ合っているものであることに気づいている(この感覚は吉行の持病にも関係しており、吉行は読売新聞の近況「皮膚とこゝろ」で「皮膚と心が密接に関連してしまっているので根を詰めた仕事をするとみるみる症状が悪化する」と書いている。病気というのは上手く機能しているように見える状態から無理やり引き剥がされる体験であるため、もろさや複雑さ・時にはありがたさを再認識する体験としては非常に重要である。また「原色の街」のあけみは心と体を別に保とうとして最終的に失敗する)。それゆえに吉行は完全に客観的に対象を描こうとする「散文」の形ではなく、吉行=作者自身も人間関係の中に入っていくような「詩」の要素も用いて小説を書くのである。

 

 吉行は鋭い感覚を通した文体や、社会へのデタッチメントを試みる姿勢から、「社会性がない、政治性がない」という批判の中にしばしば置かれてきた。また、吉行の小説に見られる幻想的な部分とリアリティを持つ部分が併合した中途半端さも批判されるところとなった。しかし吉行は時代が提供する思想性などのいいかげんさを知っており、またその社会に置かれる自分の体から心を切り離そうとしてしまうこともできないことを知っていた。完全に社会から自身を切り離してしまうことも自己の昂揚に身を任せることもしなかった吉行の姿勢は、複雑な社会・諸所の人間関係を、近代的な一義的な価値観に押し込めることができないことを示しているものとして、評価できる。

 

〔注1〕ピエール・ブルデュー『社会学の社会学』(藤原書店 一九九一年四月二五日)

〔注2〕フランス語で「するままにしておく」という意味で、ブルデューは私たちの日常で使う言葉に無意識のうちにその社会の文化的なもの(日本語で虹は七色、英語のRainbowは六色など、言葉を使った瞬間についてくるその社会での固定観念など)がつきまとってくることを指していると解釈する。


 

第二章 吉行淳之介とアイデンティティ

 

第一節 現代とアイデンティティ

 

 吉行の執筆姿勢も、「座談会――第三の新人 21世紀からの照射」〔注1〕の中では「やはりあるべき前提、倫理観があって、それを崩すように書いているんだと思うんです。でもその前提というものが、現代からはなかなかわかりにくいというところがあるかなと。」という指摘が成されている。確かに、吉行の体験した戦争の時代を知るものは今や少数派になり、吉行が距離を置こうとした時代は当に過去のものになっているかもしれない。だが、現代を生きる私たちに、吉行の時代のような、そこで暮らしている人の行動を制限・促進してしまうような思想性(戦争における軍国主義や、学生闘争における社会主義など)がないといえば、そんなことはありえない。私たちをひそかに操るような時代性は「分かりにくく」なったものの、「なくなった」わけではない。それはより複雑で一元的には捉えられない形で張り巡らされているだけに過ぎない。そもそも、「都市の文学」と言われた吉行の文学はまさに近代を象徴するものであり、現代はただその延長なのだ。「戦争」という目立ちすぎる時代にとらわれ、吉行の「時代に対しようとする姿勢」を限定してしまうことは正しくない。

         

〔注1〕大杉重男・伊藤氏貴・拓植光彦の前述の対談。

 

 

1.近代とは何か

 確かに、吉行の生きた時代だけを考えれば、「戦争」という時代を体験していない私たちにとって吉行の感性は古びたものに思えるかもしれない。吉行がかつて批判しようとしていたもの(軍国主義やそれに対する第一次戦後派の重厚な批判精神など)について私たちは想像する余地しかないし、実際に戦後という変化の中に立たされていた時代観を肌で感じることはできない。しかしここで着目すべきなのは、吉行の意識は必ずしも「戦争」という時代だけに向いていなかったことである。

吉行は、「私の文学放浪」の中で父・エイスケに関し「少年のころは一種の敵愾心のために、文章を書きはじめてからはその文章の古さのために、読了できなかった。当時としては、きわめて目新しい文章であったものが、流行遅れの衣装のように古くなっている。」と批判している。吉行エイスケが亡くなったのは一九四〇年、その活躍時期は昭和初期である。つまり吉行は軍国主義の興廃の外側でも、時代に即した「新しいもの」がその時代の栄光をなくせば古びてしまうという感覚を抱いていたのであり、変動する時代性にすがることへ向けられていた吉行の批判精神を、戦争や軍国主義に向けられていたものと限定することはできない。また『原色の街』の執筆理由として、吉行は「この作品は、いわゆる赤線地帯であるが、その場所の風俗を書こうとおもったわけではない。(中略)私の意図の一つは、当たり前の女性の心理と整理の間に起こる断層についてであって、そのためには娼婦の町という環境が便利だったので背景に選んだ。意図のもう一つは、娼婦の町に沈んでゆく主人公に花束をささげ、世の中で華やいでいるもう一人の主人公の令嬢の腕の中の花束をむしり取ることであった。善と悪、美と醜についての世の中の考え方に対して、破壊的な心持でこの作品を書いた」と述べている。すなわちここで吉行の描くところの本意とは、「赤線地帯」という時代の「遺物」(今となってはもう私たちは直接的に知りえないもの)を描くことではなく、「令嬢」と「娼婦」という二人の女性にそれぞれ持つ身分・割り当てられた「美と醜」という価値観を逆転し剥ぎ取ってみせることである。現在相変わらず「美と醜」という時代の恣意的な価値観を安易に用いがちな私たちに対し、この批判精神が「時代が違う」という理由で私たちに当てはまらないとは思えない。この現代と吉行のつながりは決して偶然の産物ではなく、現代と吉行の生きた時代がつながっているのだという事実を念頭に置いておかなければならない。

 では、吉行が置かれていた時代とはいかなるものであったか。知識不足の観は否めないが、「近代化」という言葉なくして吉行の生きた時代の根底に流れるものを捉えることはできないので、『社会学小事典』〔注1〕の記述を元に整理を試みる。

 

 近代化とは、血縁関係や地域が基盤となる共同体中心の社会から、学校や企業など帰属する組織や集団が選択可能な社会への変化のことを言う。近代化する以前は一般的に、生産力の未発達、地域的閉鎖性(共同体規制や伝統の権威の支配)、個人の集団への埋没などによって特徴付けられる。このほか、西洋的な文化が浸透する以前の各社会は様々な文化を持っていた。

前近代の秩序の転換は市民革命によって成された。市民革命とは、封建社会における領主や貴族、僧侶などの特権を廃止し、彼らによる階級支配を排除することにより資本制社会への移行を実現した社会革命である。それぞれの国によって経緯は様々であるが、イギリスのピューリタン革命および名誉革命、フランス革命、アメリカ独立革命などがある。この革命はそれまで肯定されてきた封建的身分秩序を否定し、基本的人権を等しく教授しうる自由で平等な諸個人からなる社会という理念に立脚しており、すなわちこれが個人主義の基盤となった。

近代と前近代は十八世紀から十九世紀にかけてイギリスに起こったいわゆる産業革命によって分けられる。工場制機械工業の導入により、産業構造が農業中心の型から工業中心の型へと移り変わった(このため、産業化は工業化とほぼ同義に使われる)。工業化により工場が都市に設立されると、農業を営んでいた人々が都市部に流入した。これによりそれまで土地・血縁などで代々結ばれてきた共同体の形から、都市に多様な人々を受け入れる形のコミュニティが形成された。同時に、人々はこれまで血脈などによって定められていた職業や居住地から、選択性を手に入れた。

 

市民革命と産業革命が大きな要素となって、現在につながる価値観の基盤が形成された。現在はこの変化がより加速しており、たとえば共同体の選択性はより複雑になっている。自身を例に所属する共同体の複雑さを考えてみると、家、大学、内定先、大学内のサークル、大学外で趣味で集まったサークルなど、さまざまな共同体に身を置いており、私はそこでそれぞれ異なった役割を与えられている。加えて、活動時間だけを考えると家よりも大学に属している時間のほうが長いのであり、自身の身をおく主軸となる共同体の存在は揺らぐ。その現在活動時間の多い大学での生活も、もうじき(無事に卒業することができれば)活動基盤は内定先(これもいつかは「勤務先」にシフトする)に移るのである。

この複雑さが私たちに容易に特定の「拠り所」(人でも、共同体でも、思想でも何でもよい)を作らせない。吉行は「私の文学放浪」で自らのことを「個人主義だと信じていた」と述べており、帰属意識を持つことをしなかったが、その姿勢はしばしば「都会的」ということにつながっていく。これについては吉行が都会育ち〔注2〕ということもあるが、大久保典夫は「吉行淳之介における都会」〔注3〕の中で「吉行じしんが〈都会〉をどのように書いたかということになると、はっきりいって〈女体〉の背景としての風景以上には描いていない。」と指摘している。どちらかといえば吉行の「都会性」はその描写よりも態度に特徴が表れている。そもそも、文学的な意味での「都会性」とはどう使われている概念なのか。柘植光彦は「吉行淳之介と近代文学」〔注4〕でまず「江戸的」ではなく「東京的」であることを挙げている。その違いについて、「江戸的な都会性の特質を“いき”というもので代表するとすれば、東京的な都会性の特質とは、“酔わない”“覚めている”ことで代表されるというわけである。そこには、執拗さをきらい、ほどのよさを好むという美意識があり、他人に対してつねに一定の距離をとる冷淡さと、はじらいがあり、さらには、ありとあらゆる社会的、人間的かかわりから遠ざかろうとするニヒリズムがある。」と述べている。都会的(東京的)な作家の性質としては、東京の中流以上の家族の出身であり、西欧的な教養を持ち、たとえばそれは永井荷風や白樺派の諸作家に見られる。吉行も典型的な「都会的」な作家であり、加賀乙彦は「吉行淳之介論」〔注5〕で「男女は個として別々であって、そうあることで、“わずらわしさ”を避け、傷つかず、あっさりすっきり垢抜けしていられる。これは都会人の感覚である。隣人というのはあかの他人であって、相互に干渉せず、といって反目もせず共存している大都会の人間関係に慣れた人の美意識である。」と述べている。

 こういった個人主義に基づいた吉行の態度は、現代の私たちにも大いに通ずるところがある。吉行の描いた作品世界と私たちの日常は、近代化という流れの中で同様の景色を持ち続けているのである。

 

〔注1〕濱嶋朗・竹内郁郎・石川晃弘編『社会学小辞典 新版増補版』(有斐閣 二〇〇五年五月)

〔注2〕吉行は大正十三年岡山市に生まれ、三歳の時に父母ともに東京市に移住している。

〔注3〕大久保典夫「吉行淳之介における都会」(『国文学 解釈と鑑賞 四〇(十一)』至文堂 一九七五年十月 六〇〜六四頁)

〔注4〕拓殖光彦「吉行淳之介と近代文学―都会性をめぐって」(右同 一二六〜一三七頁)

〔注5〕加賀乙彦「吉行淳之介論」(『国文学解釈と鑑賞 五〇(七)』至文堂 一九八五年六月 六〜一一頁)

 

 

2.アイデンティティとは何か

吉行は社会に自分の感性の置き場所がないというところから小説を書き始めた。つまり吉行の作家人生とは、自らのアイデンティティが社会的肯定が得られないことから出発している。また、吉行の鋭い感覚は自己存在にすら踏み込むものであった。吉行が体感してきたこと・吉行が成したことを考えるとき、アイデンティティというものが何かについて触れざるを得ない。

ここからのアイデンティティに関する事項は、イタリアの社会学者アルベルト・メルッチの『プレイング・セルフ』をもとに整理していく。アルベルト・メルッチは臨床心理学を元に個々人と対話する形で社会構造へと言及を広げていった、ミクロとマクロ双方と向かい合わせながら仕事をした人物である。吉行になされた「個人的な文学」という批判と、社会へのつながりを考えるには、その双方の視点が不可欠であると考え、以降『プレイング・セルフ』を参照していく。(特に第二章と第七章を中心に扱うが、複雑に前後するため注は都度掲載することはしない)

 まず、アイデンティティという言葉の意味は、普段私たちが何気なく使用する気軽さに反して難しい。それは日本語に「アイデンティティ」を的確に訳せる言葉・概念が存在しないせいでもあるが、とにかくイメージだけで語ってしまわないためにも、メルッチ言葉を引くことから始めてみる。

 

私たちはアイデンティティという言葉を、ある人について、もしくは集団について用いるが、いずれの場合にも、以下の三つの特徴に関して言及している。すなわち、一つめは、時間のさまざまな移り変わりと環境への適応をこえてなお主体が連続性を持つこと、二つめは、この主体が他者に対して線引きをすること、三つめは、承認し、承認される能力である。

 

以下私の解釈を述べると、まず私たちはアイデンティティという言葉を個人にも集団にも使うことがある。個人の場合は「私は何者か」という問いに代表されるが、集団の場合は例えば「日本のアイデンティティ」(思いついたことを挙げるならば不戦国であること、真面目であること等)などと言うときに用いられるだろう。特徴の一つ目は、時間が流れ環境が変わっても、「私」という存在は継続して存在し続けるということである(先ほど挙げた例で言うならばつまり私はもうじき大学を卒業して社会人になるであろうけれども、所属が変わっても私であることに変わりはないということだ)。二つめは、私が、「私とあなたは違う」という差異を提示することである。三つめは、私が他者が他者であることを認め、私が私であることを他者から認めてもらう力である。すなわちアイデンティティとは、時間・環境が変わっても同じ「私」として継続し続け、その「私」が他者と違いを持ったものであると設定し、「私」と他者の間で互いに一つ目・二つ目の事項を承認できることを指す。

このアイデンティティを安定的に保つことは、現代においてはますます困難になっている。近代化によって土地や血脈に固定されていた共同体が選択可能なコミュニティに変容したことは前述したが、かつて自らの血を神格化してアイデンティティを肯定したり(神話の数々は、祖先が世界を創世したという物語を形成し、自らの血脈を神聖化し支配の正当化や共同体の結束を強めることに利用されてきた。『古事記』『日本書紀』における日本神話もそうであり、天照大御神の子孫であるとされる天皇を中心とした支配を肯定していた。ところが第二次世界大戦の敗戦により、神話を軸とする神道と政治は「危険」とされ分断されることとなり、解体された)〔注1〕、地域や職業によるアイデンティティの保障はなくなった。私たちの所属する集団のアイデンティティは可変のものとなり、現代の私たちが属する組織や集団は同時に複数存在しうるものであり(例えば私は誰かの友人であり、また別の誰かにとっては同僚であり、家族にとっては家族なのである。それはすべて同じ人間であり、複雑な網のように個人をめぐっている)、アイデンティティを確保するための諸要素の複雑化はだいぶ進行した。

 だがそもそも個人のアイデンティティが要求されるようになったのは近代以降であり、それまで共同体に準拠する存在であった個人にはアイデンティティを求められることはなく、求める必要もなかった。個人のアイデンティティは必ず求められるべきものという抱きがちな前提を崩すために、グァヤキ族の例を引用する。

 

 日々の糧を得るために過酷な環境の中を横断して遊牧・狩猟する小さな居住集団にとって、集団の存続こそが他の全てに優先する死活問題である。この至上命題は、集団内部の個々人の間に緊密な相互依存を生み出すとともに、ジェンダーに基づく厳密な分業を生み出す。そのような離れた個人の差異のための余地はほとんどなく、社会的な制約は、いかなる犠牲を払ってでも遵守されなければならない。内的な連帯亜崩壊した暁には、集団そのものが存続できなくなるであろう。

 

 グァヤキ族の場合、集団の存続が各個人の生存に直接的に結びついており、集団の仲間を頼ることによって自分が生きられるという感覚が根付いている。個人は集団なしでは生きられないのであり、集団は個人の集団としての連帯がなければ存続できない。死活問題の切実な議題で結ばれた集団と個人の相互関係は集団と個を安易に分けられないほど強固なものである。逆に、このことは自分にとって自己以外の他者の存在がどれほど切実に必要となってくるかの例でもある。この他者の重要性は今日における個人主義により(個人をあまりに尊重しようという風潮により)個人の重要性より声高に語られることは少ないが、アイデンティティとは自己が承認し他者に承認される関係がなければならないのであり、その関係のバランスが崩れたときさまざまな社会問題を引き起こすのである。

 

  いかなる場合でも、アイデンティティは自分で自分を認識する能力と他者に承認してもらう可能性の両方を内包した関係である。自立的承認と他律的商人のこうした二極性は、アイデンティティの構成に関して先に言及しておいた二つの次元、すなわち統一性と差異に沿って分けられる。一方で、私たちは自分が誰であるかを宣言する。つまり、「私はXである」とか「Yである」とか主張する。そうすることによって、自分の存在が今まで度落ち変わらないことを宣言し、さらにはそれが他者によって認められると期待している。この次元を、「同一化(identification)」と呼ぶことができよう。他方で、私たちは自己を他者から区別し、そうした違いを認めてもらおうとする。これを「差異の肯定(the affirmation of difference)」と呼ぶことができるだろう。

 

アイデンティティは自己の認識・他者の承認・同化・差異の4つの極のベクトルがバランスよく行きかっていなければならない。このベクトルのバランスが崩れたとき、例えば「私は私である」といった主張や「私はあなたとは違う」といった主張が他者から承認されなかったり、あるいは、いい加減にしか認められないとき、私たちのアイデンティティは関係から切断されてしまう。これはふつう、青年期のある時期、大人社会への反抗で形で個別に他者から自己のアイデンティティにおける主張を承認してもらう必要が強くあるときに起こるという。このパターンは自己陶酔や過剰に引きこもってしまう事例を引き起こしたりもする。

このように、アイデンティティの諸問題は絶えず他者の存在を要求しているのである。

 

〔注1〕瓜生中『知識ゼロからの神社と祭り入門』(幻冬舎 二〇〇三年一月三十日)、阿蘇谷正彦『こんなに身近な日本の神々』(毎日新聞社 二〇〇四年十月二十日)、鎌谷東二監修・渋谷伸博著『面白いほどよくわかる日本の神社』(日本文芸社 二〇〇七年五月三十日)以上の本をまとめた。

 

 

第二節 吉行淳之介とアイデンティティ

 

これまで見てきた「都会的」な吉行作品に見られた他者の描き方は、家族や友人といった明らかに関係を結んでいる他者よりも、とりわけあまりなじみのない他者との関係――赤の他人、それは多く娼婦と客の関係でであったり、または「世間」という直接的には見えないけれどその圧倒的な大衆の力で存在感を放っている他者との関係――について非常に敏感に書かれている。吉行が描く他者は、自己の日常性から離れた「自分の生活に直接関わってこない、無責任に付き合うことのできる他者」であったため、しばしば批判の対象となるが、その「付き合いに責任のない他者」との間でアイデンティティの承認をやりとりする行為に着目することによって現代「希薄化しがち」と言われる他者との関係の根深さについて考えさせられるだろう。

 「原色の街」はまさに他者とのアイデンティティのやりとりの紛争を描いている。あけみは自らを娼婦のように扱う「あの女とはいくらで寝られるかな」といった、男たちの「黄色い眼」から逃れるために自ら娼婦になってしまった女である。これは他者から強くレッテルを張られてしまうパターンで、先ほどの四つの極において他者からのベクトルが強すぎるパターンである。一方で元木という男は、執拗な観察によって女を枠組みに当てはめていく男で、むしろレッテルを貼り付けることにひどく自覚的な人物である。

 

  この日の見合いの結果、元木英夫が作り上げた原瑠璃子という女の像は、右のようなものであった。その像が実際の彼女とどのくらい差異があるか、ということを考える男では、彼はなかった。対象に触発された彼自身の心中の像を最も大切にして、実際の相手を無理に捩じ曲げても、その像の型の中に押し込めてしまおうとするのである。

 

 私たちが生活するうえでありがちなことは、むしろ無自覚的に枠組みに捉われ・当てはめてしまうことであって、この二人のパターンは過剰なモデルとして描かれている。例えば、あらゆる文化的なものは私たちの生活の根本にからみついている。例えば「私は誰であるか」というアイデンティティの欲求も、長い間「私は誰か」という「誰」の部分を自分では選択しえなかった人々にとっては、問い自体が存在しえなかった。だがそういった時代による流れを飛ばして私たちは無条件で「個人のアイデンティティは大事だ」ということを思い込んでいる。しかし私たちは何かを恣意的な枠組みに当てはめることから逃れることはできない。そもそも私たちが用いている言葉自体が、文字という「図形」あるいは口頭の場合「音の羅列」に「意味」が与えられているだけのものである(言葉が恣意的なものでないのだとしたら、日本語や英語で同じものを違う言葉で言うこと自体がおかしい。犬をDogと言っても間違いでないのであり、要するに何でもいいものを個々人のコミュニケーションのために共通の基盤として共有しているのであり、私たちはそういった道具なしに他者と関わることはかなり困難である。図2)。

 吉行自身はこの当てはめる・当てはめられるという関係に非常に敏感な人物である。吉行はイメージを当てはめる世間の目を感じていたからこそ、「原色の街」の中で「美」と「醜」、「娼婦」と「令嬢」の価値転換を試みるのである。また自らもまた自らの恣意性を「当てはめる」ことにも敏感であって、例えば形容詞を安易に使おうとしないところがその自覚であり、形がなく複雑な私たちの心に対し「悲しい」「嬉しい」といった形容詞をそのまま当てはめるのではなく、感覚を手探りするようにして心情を表現しようとするのである。吉行の微妙な距離感、時代から距離を置こうとし、自己の感覚を通し形のないものを書き込もうという手法は、他者との関わり――自分がいかに他者からあらゆるものを受信し、また与えているか――に自覚的であることでの、共通の前提(時代性・言葉など)をあえて脱ぎ捨てた、他者との地道な関わり方の過程なのである。


 

終章

現代のアイデンティティに対する吉行淳之介の意義

 

リーマンショックやドバイショックなどで経済的にも不透明さが残る現代に確たるイデオロギーなどはなく、「不安定な時代」を生きている私たちだが、私たちは無意識のうちに文化や社会からの制約を受け規定されている(自己のアイデンティティを形成する諸要素として絡み合っている)。むしろ所属コミュニティの多様化などによって私たちに影響する諸関係というものはどんどん複雑になっていくのだが、眼に見える思想性がなく、かつてなく複雑になっていくそれらの諸関係は、どんどん私たちの目に見えづらいものとなっている。しかし判りにくいからこそ、吉行のようにその影響を受けている・与えていることに自覚的になることが必要となってくる。

 何故吉行は自分の感覚に頼って小説を書かざるを得なかったのか。それは戦争における軍国主義に懐疑を抱き続けた青春時代を送り、戦後そのイデオロギーの崩壊を目の当たりにした吉行にとって、とりあえず感じられるところの自己の感覚というものを頼りに書いていくしかなかったのである。「吉行淳之介と娼婦の街」〔注1〕で長谷部出男は「吉行さんにとっての娼婦の街は、肉体という確かなものを媒介にして、精神という不確かなものを手探りする場だったのだと思う」と述べている。時代性から離れ、そこにある身体から出発するという手法が「非社会的・非政治的」と批判されたことは既に十分繰り返してきたが、むしろ不安定に変動しうる社会性・政治性という〈重厚コワオモテ〉のものから離れて自己の感覚から世界を再観察することは、社会的・政治的であることよりもむしろしっかりとした土台で社会というものを見つめていたのである。

 

〔注1〕長部日出男「吉行淳之介と娼婦の街」(『国文学 解釈と鑑賞 四〇(十一)』至文堂 一九七五年十月 五十三〜五十九頁)

 

(修正前本文(注釈書き足し前) 二七六六五字)


 

【参考文献】

 

※吉行の外堀を埋めるために本論からぶれる論文等についても読んでいるが、煩雑になるため論から遠いものは一部省略した。

※同雑誌内に掲載されているものは「右同」として一部雑誌名を省略している。

※一冊の本に同一著者で複数の作品が収録されている場合、特に参考にした作品は抜き出すが他は省略する。

 

 

■吉行淳之介作品等

吉行淳之介『原色の街』新潮社 昭和四一年十月二十日

 「原色の街」「驟雨」「薔薇販売人」「夏の休暇」「漂う部屋」

吉行淳之介『娼婦の部屋・不意の出来事』新潮社 昭和四一年十一月十日

 「娼婦の部屋」「寝台の舟」「鳥獣虫魚」「青い花」「海沿いの土地で」「手鞠」「風景の中の関係」「童謡」「出口」「花束」「紫陽花」「食卓の光景」「不意の出来事」

吉行淳之介『砂の上の植物群』新潮社 昭和四二年四月二十五日

 「砂の上の植物群」「樹々は緑か」

吉行淳之介『闇の中の祝祭』新潮社 昭和四六年十月十五日

 「闇の中の祝祭」「赤い歳月」

吉行淳之介『目玉』(新潮社 一九九三年七月二五日)

 「目玉」「解説」川本二郎

吉行淳之介『吉行淳之介全集 第2巻』(新潮社 一九九七年)

 「白い神経毬」「八重歯」「深夜の散歩」「手鞠」「未知の人」「青い映画の話」「島へ行く」「がらんどう」「蛸の話」「ハーバー・ライト」「電話と短刀」「童謡」「子供の領分」

吉行淳之介『吉行淳之介全集 第十三巻』(新潮社 一九九八年五月一〇日)

 「焔の中」「街の底で」

 

■吉行淳之介エッセイ等

吉行淳之介『軽薄のすすめ』角川書店 昭和四八年一月三十日

 「重厚と軽薄」「コワモテ風の姿勢を排す」「戦中少数派の発言」 「男女同権」「日本の男たち」「一夫一婦制について」「男の虚栄」 「東京大空襲の話」「青春の記憶」「芥川賞と私」「作品と制作プロセス」「小説とモデル問題」「プライバシーについて」

吉行淳之介他『文体とは何か 二十四人の文学者が語る』(平凡社 一九七八年十一月)

吉行淳之介『吉行淳之介研究』(講談社 一九八五年一月)

吉行淳之介『吉行淳之介全集 第八巻』(新潮社 一九九八年五月十日)

 「私の文学放浪」「わが文学生活」

吉行淳之介『女をめぐる断想』(角川春樹事務所 一九九八年七月)

吉行淳之介著・荻原魚雷編『吉行淳之介エッセイ・コレクション2』(筑摩書房 二〇〇四年三月十日)

「石膏色と赤」「私はなぜ書くか」「ことばの感覚」「言葉と表情」「わたしの文章作法」「なんのせいか」「恥」

吉行淳之介著・荻原魚雷編『吉行淳之介エッセイ・コレクション3』(筑摩書房 二〇〇四年四月七日)

 「生と性(その一)」

 

第三者による作家追想

鈴木重生『虚空から花を 若き日の吉行淳之介』(中央大学人文科学研究所 一九九六年三月)

『わが友吉行淳之介 その素顔と作品』鈴木重生(未知谷 二〇〇七年五月十五日)

 

■第三者による論文

江藤淳「吉行淳之介試論」(『文學界・十三(四‐六)』文芸春秋社 一九五九年四月一日 一三八〜一四七頁)

福田宏年「性の不毛の作為性――吉行淳之介論」(『文學界・十九(七‐九)』文芸春秋社 一九六五年七月一日 一五〇〜一五九頁)

長部日出男「吉行淳之介と娼婦の街」(『国文学 解釈と鑑賞 四〇(十一)』至文堂 一九七五年十月 五十三〜五十九頁)

大久保典夫「吉行淳之介における都会」(右同 六十〜六十四頁)

遠丸立「文体の喚起するイメージ」(右同 九十八〜一〇三頁)

山田有策「吉行淳之介の道具立て――肉体・生理の自覚的方法化」(右同 一〇四〜一一〇頁)

山田有策「吉行淳之介の〈私〉意識」(右同 一一一〜一一七頁)

拓殖光彦「吉行淳之介と近代文学―都会性をめぐって」(右同 一二六〜一三七頁)

鳥居邦朗「吉行淳之介と第三の新人」(右同 一三二〜一三七頁)

原子朗「近代作家から現代作家へ――その文体の推移」(『国文学解釈と鑑賞 四十一(五)』至文堂 一九七六年四月 六〜一六頁)

森川達也「近代作家の文体観」(右同 一七〜三一頁)

杉山康彦「思想表現としての文体」(右同 三二〜四〇頁)

神谷忠孝「作家の文体をさぐる 吉行淳之介」 (右同 一二八〜一三二頁)

小田切進編『日本近代文学大事典 三』(講談社 一九七七年十一月十八日)

 「戦後の文学」「戦後派文学」「戦争文学」「第三の新人」「ダダ」「吉行エイスケ」「吉行淳之介」

川村二郎『感覚の鏡 吉行淳之介論』(講談社 一九七九年四月)

加賀乙彦「吉行淳之介論」(『国文学解釈と鑑賞 五〇(七)』至文堂 一九八五年六月 六〜一一頁)

紅野敏郎「吉行淳之介の出発期――三冊の「葦」――」(右同 九五〜一〇二頁)

荻久保泰幸「吉行淳之介の習作期」(右同 一〇三〜一〇八頁)

森川達也「吉行淳之介の短編小説の魅力」(右同 一〇九〜一一四頁)

長部日出雄「吉行淳之介の随筆の魅力」(右同 一一五〜一一八頁)

宇波彰「吉行淳之介の文体」(右同 一五二〜一五八頁)

関根英二『「他者」の消去 吉行淳之介と近代文学』(勁草書房 一九九三年三月)

山本容朗『人間・吉行淳之介』(筑摩書房 一九九五年七月十五日)

久世光彦「生勃えの戯れ唄――吉行淳之介論」(『文學界・五十(三)』文芸春秋社 一九九六年三月 一五四〜一六三頁)

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文芸春秋 一九九七年十月十日)

越河美波「鋭い軽薄さということ」(『日本文学誌要 六十』法政大学国文学会 一九九九年七月 六七〜七八頁)

文彬「吉行淳之介の文学――その前半期についての試論――」(『帝京国文学 八』帝京大学国語国文学会 二〇〇一年九月 三二九〜三四八)

三浦雅志『メランコリーの水脈』(講談社 二〇〇三年五月十日)

木谷喜美枝「吉行淳之介「夏の休暇」」(『国文学解釈と鑑賞 六九(四)』至文堂 二〇〇四年四月 一三四〜一三九頁)

藤村耕治「ある到達と出発――吉行淳之介初期作品論――」(『文學界 五八(九)』(文化公論社 二〇〇四年九月 一〇七〜一二六頁)

春木眞巳「吉行淳之介「原色の街」と軍国主義――同人誌「世代」と、竹山道雄のナチス批判からの影響――」(『同志社国文学 六十一』同志社大学国文学会 二〇〇四年十一月 二五八〜二六八頁)

大杉重男・伊藤氏貴・拓植光彦「座談会―第三の新人 二一世紀からの照射」(『国文学 解釈と鑑賞 七十一(二)』至文堂 二〇〇六年二月十六〜十九頁)

安藤宏「自意識と関係性」(右同 四十六〜四十七頁)

佐藤泉「吉行淳之介論」(右同 七十三〜八十一頁)

西野浩子「終わりのないことへの恐怖――吉行淳之介『闇の中の祝祭』――」(『立正大学国語国文(四六)』立正大学国語国文学会 二〇〇七年  二二〜三一頁)

清水良典「吉行淳之介論――メモとしての「軀」(『立正大學國語國文 四五』立正大学國語國文學會 二〇〇七年三月)

植木朝子「吉行淳之介と童謡――童謡に触発された小説群をめぐって――」(『十文字国文 十三』(十文字学園女子短期大学国語国文学会 二〇〇七年三月二十五日 三十三〜六十頁)

石田仁志「吉行淳之介「暗室」――ジェンダーの揺らぎ」『研究紀要 三十()』(『国文学 解釈と鑑賞 七三(四)』至文堂 二〇〇八年四月 一三四〜一四〇頁 )

阿部到「梶井基次郎の影響――吉行淳之介の場合――」(『研究紀要・三十(一) 』志学館区間大学人間関係学部 二〇〇九年一月三十日 一〇五〜一一九頁)

駒村吉重「夫が宮城まり子の元へ去った日、遺骨となって帰った日」(『週刊新潮 五四(二九)』新潮社 二〇〇九年七月三〇日 四八〜五一頁)

 

■新聞記事

兎見康三「文学は消耗品か」(『読売新聞』読売新聞社 昭和三一年三月一九日 朝刊八面)

吉行淳之介「皮膚とこゝろ」(『読売新聞』読売新聞社 昭和三二年七月一二日 夕刊四面)

福田宏年「現代作家に望むG」(『読売新聞』読売新聞社 昭和三三年十一月二〇日 夕刊三面)

江藤淳「二枚目と三枚目の文学」(『読売新聞』読売新聞社 昭和三四年四月八日 夕刊三面)

吉行淳之介「性と文学 私の立場(終)」(『読売新聞』読売新聞社 昭和三九年四月七日 夕刊五面)

山本健吉「文芸時評〈上〉」(『読売新聞』読売新聞社 昭和四〇年二月二六日 夕刊九面)

佐伯彰「現代小説の“母の崩壊”」(『読売新聞』読売新聞社 昭和四二四年六月二九日 夕刊七面)

藤村記者「文壇事件史――戦後編」(『読売新聞』読売新聞社 昭和四三年九月八日 朝刊一八面)

山川淳平「記者の目:豪雨 生死、紙一重の高齢者」(『毎日新聞』毎日新聞社 二〇〇九年九月一〇日 東京朝刊九面)

「類似ラブホテル:警察・行政・消防、初の合同査察――町田駅周辺/神奈川」(『毎日新聞』毎日新聞社 二〇〇九年一二月一一日 神奈川二五面)

 

■社会学関連

ピエール・ブルデュー『社会学の社会学』(藤原書店 一九九一年四月二五日)

上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』(朝日新聞社 二〇〇三年十一月)

新原道信『境界領域への旅 岬からの社会学的探求』(大月書店 二〇〇七年七月二十日)

アルベルト・メルッチ『プレイング・セルフ 惑星社会における人間と意味』(ハーベスト社 二〇〇八年)

濱嶋朗・竹内郁郎・石川晃弘編『社会学小辞典 新版増補版』(有斐閣 二〇〇五年五月)

 「近代化」「産業化」「都市化」「市民革命」「前近代社会」「封建社会」

 

■その他

瓜生中『知識ゼロからの神社と祭り入門』(幻冬舎 二〇〇三年一月三十日)

阿蘇谷正彦『こんなに身近な日本の神々』(毎日新聞社 二〇〇四年十月二十日)

鎌谷東二監修・渋谷伸博著『面白いほどよくわかる日本の神社』(日本文芸社 二〇〇七年五月三十日)以上の本をまとめた。