正岡子規論

                                       

00E1102033J 高島 萌

はじめに

 明治初頭、すでにただの遊びに廃れ、その存亡も怪しくなりつつあった、俳句・短歌を

文学芸術に仕立て直したのが子規であり、現在の日本語の基礎の礎をなしたのも、また子

規その人である。当時は勿論、後世への影響も多大な、文学史上に残る大事業は子規とい

う名前のとおり血を吐きながら成されたことであった。

 晩年には、身動きすることすらできない、寝たきりの病床生活の中でも、毎日執筆を続

ける、その圧倒的な精神力は、いったい如何ほどのものだったのだろうか。また、その力

の源とも言うべきものは何だったのか。

 その寝たきりの病床生活の果てに、何を思い、見て、この革新にまで至ったのだろう

か。革新の内容を追いながら、子規のまなざしの向こう、そして残された革新の影響を

探っていきたい。

一、文学者子規の誕生

 俳人であり、歌人であり、散文家。本名は常規、幼名処之助、また升。別号獺祭書屋主

人、竹の里人、その他多数。慶応三年九月十七日、伊予温泉郡藤原新町(現在松山市)に

生まれる。三十六歳という短い生涯を日本伝統文学の革新に捧げた、大文学者正岡子規。

しかし、子規自身はじめから文学者を目指していたわけではなかった。ここで言う子規の

誕生とは、単に正岡常規個人の誕生のことではなく、文学者を志す意識の芽生えをいう。

この章では、子規が文学者を志すまでを追うにあたり、子規の人間的基盤、特に子規のも

ともとある人間性、精神性、そして病気とのかかわりの三つの観点から探っていきたい。

(一) = まれに見る精力家子規

文学者を志すまでに、子規にはなりたいものが文学者のほかにいくつもあった。

明治十五、六年子規十六、七歳のころ、まず子規は政治家たろうと志す。自由民権運動の

影響を受けて、学業をなおざりにして演説に熱中し、「自由何クニカアル」「天将二黒塊

をアラワサントス」などの演題で政治を論じ、あまりに激しい演説振りに監督から弁士中

止を命ぜられることもあった。

そして明治十六年五月、上京の志に燃えていた子規は、東京にあった母方の叔父加拓川に

訴え、その許しを得て、中学を退学し、上京、東京大学予備門に入学する。入学当初、将

来の夢は「大政治家」であったのだが、十八年ころには、「壮士」の講釈に魅せられ、哲

学を目的にしようと考える。この頃の子規は詩文を作ることはその次で、人生第一の目的

とは考えていなかったようである。二十二年ころは、一転して志望が審美学に向かい、坪

内逍遥・二葉亭四迷以下の新文学勃興の機運に触れ、特に幸田露伴の『風流仏』に感嘆し

て、自分でも小説『月の都』を執筆、その草稿を持って二十五年二月露伴を訪れるが、あ

まり芳しくない評価を受け、やや小説家の志望を断念する。その年五月、郷党の後輩虚子

への手紙に、「僕は小説家となるを欲せず、詩人とならんことを欲す」と言い、同じく碧

梧桐への手紙に、「人間よりは花鳥風月がすき也」と言っている。このときに子規は、俳

句作家になることを宣言したのである。

このように文学者たろうと決心するまでに、子規の将来の展望は政治家、哲学者、小説家

と、実にさまざまでめまぐるしく変わり、そのひとつひとつをあきらめる。子規が俳句作

家となったのは、それまでのいくつもの志の断念の上に立っているのだ。

また、父早世のあと、子規六歳のころ、外祖父の儒者大原観山に漢学を学び、その吸収も

大変よく、期待を一身に受けたいそうかわいがられた。そんな子規はややもすると、同好

のもの同士集まり漢詩漢文を作り、山水画を描き、「桜亭雑誌」(明治十二年四月、子規

十三歳)はじめ、多数の回覧雑誌を作る。後々子規の文学活動の基本になる、仲間同士切

磋琢磨していくグループ活動の基礎が、このころからうかがえる。また、稗史小説に読み

ふけり、しばしば寄席に通い、軍談を聞きに行った。また、大学予備門入学後すぐに子規

はベースボールに熱中し、仲間内から「ボール狂」と呼ばれていた。「名キャッチャー」

と知られ、率先して中心になり寮生たちを集めては、しばしばベースボール大会を開いて

いた。

若年時代子規はとかくその関心の幅が広く、また、多方面に高い才を見せた。しかし、や

るとなれば徹底して打ち込む。そして、行動力があり、何か行動を起こせば必ずその中心

にいる。後の大文学者子規はもともと、文学のみにとらわれない、まれに見る精力家なの

であった。

(二) = 子規の精神背景

 子規の父正岡常尚、通称隼太は松山藩御馬廻加番(領主久松氏の馬側に牙で付き添い、

護衛にあたる小姓組)で、食禄十四石の下級武士であり、外祖父大原有恒(観山は号)は

松山藩学教授を勤めた、松山藩でもっとも偉大な学者であった。松山藩は幕末の政治的な

揺れ動きの中で、終始佐幕側についていた。維新後、佐幕派に属した諸藩の出身者は、政

治的には栄達の道のほとんどを閉ざされるという境遇にあった。維新後の松山の状態を、

虚子は次のようにつづる。

「廃藩置県で、しかも松山藩は一旦朝敵といふ側に間はりましたので、士は職を失つて、

大した官吏にも採用されることができませんでした。官吏といふものは大がい薩長土の人

が入り込んできまして、県の要路をしめました。」松山の士は、「大がい無職のまゝ衣食

をしたり、或は県庁か郡役所の小役人になつたり、中には小使いになつたりする者もあり

ました。」(『虚子自伝』昭二十三年十一月・菁柿堂)

このように松山の藩士たちはたちまちのうちに落ちぶれ、生活窮迫の辛苦をなめるととも

に、社会的に不当な扱いを受ける屈辱を心底味わうのである。そしてこのような松山藩の

状態は、そのまま子規の現実でもあった。

 一方時は新時代、明治。町は自由民権運動の声にあふれた。子規の精神には明治の精神

ともいうべきものに与するところも多くあったに違いない。すでに時代は四民平等の社会

であり、学問次第で誰でも社会の上流に立つことができる世の中である。

「当時の青年たちが視野を旧藩による小範囲から世界を拡げ、日本全体を捉えてゆくゆき

方は、一つには政府の方針ではあったが、それと同時に佐幕側に立った旧藩出身者たち

が、自己の立場を日本全体に拡大し、それによって幕府側に立った不利を解消しようとす

る生き方ともかかわるもので・・・」(松井利彦著『士魂の文学 正岡子規』62項)佐幕

藩出身の不遇な立場を、努力次第でどうにでも変えられるのである。子規はこの形勢逆転

のチャンスに、希望を胸一杯に膨らませ、また、佐幕藩ゆえの屈辱を反動に、強い立身出

世の野心を育てていったのであろう。

(三) = 不治の病の宣告

 以上、人間性、精神性の二つの観点からみたところを一旦まとめると、生来幅広い関心

を持ち、それに大概応じることのできる才を持ち、行動力があり、やるとなれば徹底して

打ち込む大いなる精力の持ち主で、また時代の風潮と自身の佐幕派としての屈辱ゆえに、

強い立身出世の野望を抱いている。

 しかし、この二点からだと、文学者たり得る要素を備えているというだけで、才識高い

子規の数あるほかの可能性から「文学者」を志すという決定打には、まだ足りないような

気がする。

 ところで、子規の文学、その活動を語るのに、まず子規の病に触れないではいられない

だろう。この「病」という観点にこそ、この問題のもっとも重要な、それこそ決定打に

なったと私は考える。

 大学へ入る前年、明治二十二年五月九日、子規は喀血する。一週間も続いて毎夜五勺

(一勺=18ミリリットル)くらいの喀血がやまなかったという。医師はこれを結核と診

断する。結核は当時不治の病といわれていた。

「我が命は今より十年」子規はあとせいぜい十年程度しか生きられない、短命であること

を否がおうにも意識し、将来の健康の深い自覚をもつ。残り十年で、何ができるか。そし

てどうすれば、名声を後世に残すことができようか、子規は悩んだ。そのときの様子を次

のように書き残している。

「政治家とならんか、文学者とならんか、我は文学者を擇ばん。」

政治家というものは、四十歳を超えなければ、天下を動かすことができない。朝夕の命も

定まらない身で、どうして四十歳を待つことができようか。しかし、文学はそうではな

い。四十歳を待たず、三十歳を待たず。(明治32年「病床餞後」)

 どうしたって自分が生きられるのは後十年そこそこだ、という運命がまず決まり、その

ために名を挙げるための手段に、さほど年齢と関係しない文学を選んだ。これが生来文学

に限らない才識、精力と強烈な立身出世の野心を持つ子規が文学者を志す決定的な要因で

ある。

 また、この喀血を機に、「子規」という号を付ける。「子規」とは鳴き声の悲痛な様を

「泣いて血を吐く」と喩えられるほととぎすのことであり、ずばり結核の隠語でもある。

こうした名を自ら付すことによって、残りわずかな命を文学に捧げる決意を新たに固めた

ことだろう。こうして不治の病・結核という逃れられない運命から、名実ともに「文学者

子規」が誕生するのである。

二、文学革新

 そうして文学者として志を決めた子規は、早速残りわずかな命を一秒たりとも無駄にし

まいと、文学の研究に打ち込む。そして字のごとく「天下を動かす」革新をなすのであ

る。以下、子規のなした文学革新の内容について見ていきたい。

(一) = 俳句の革新

 文学を志そうと思っても俳句をやるか小説をやるか決めかねていた子規は、当時幸田露

伴の小説「風流仏」に強い感銘を受けて、自分でも小説「月の都」を書きあげるが、挫

折、自分には小説家の才能はないと悟り、「人間よりは花鳥風月がすき也」と文学の対象

を自然に向け、また自然の中でも特に日本の天然、風流を謡う文学ということで、俳句、

短歌という日本の伝統文学を自分の仕事に選ぶ決心をする。

 そうして子規が早速手をつけたのが俳句の革新である。

 まず子規は、明治二十二年ごろから着手していた『俳句分類』の仕事に、明治二十四年

の冬に本格的に取り組み没頭する。二十二年五月の喀血以来、長生きできないだろうと

悟った子規が、後世に残す事業として生涯をかけた仕事である。

この『俳句分類』とは古い俳書にある俳句を季題別に一つ一つ分類していく仕事で、連歌

時代に始まり、定門、談林を経て、『春の日』『あらの』などでようやく佳境に入り始

め、初めて『猿蓑』を繙いたときは、嬉しくてたまらなかったと述懐している。そして俳

句分類を進めるうちに、芭蕉から蕪村へと移って元禄俳句の価値を再認識する。後にこの

『俳句分類』の仕事は子規の俳句開眼の強固な下地になっていくのである。

「小生『俳句分類』日夜怠らず、今は背丈にあまり候。」これは、原稿を整理して積み上

げてみると、大人の身長をはるかに超していたという子規の記述である。膨大な量の古俳

諧を分類することにより、句を峻別する批評眼をすさまじい勢いで養い、また、子規自身

の作句の成長にもなるのだった。

一方、『俳句分類』を続けるうちに、ひとつの事実が浮かび上がってきた。それは松尾芭

蕉以後の江戸時代の俳諧が次第に低俗な趣味に流されて、江戸末期から明治の初めにかけ

ては、俳諧は滅亡状態になっているということであった。しかも、俳諧の総称といわれる

人たちは、あいも変わらず月並みの俳句を作っていて、俳諧は明治年間に滅亡するという

見解を子規は示し、俳諧の立て直しを図るのである。

そして明治二十五年六月、子規の俳句革新運動の第一声となった『獺祭書屋俳話』が新聞

「日本」に掲載される。『獺祭書屋俳話』は、子規が『俳句分類』の仕事を通して得た古

俳諧の知識の蓄積を縦横に発揮したもので、まずそれまでに俳諧において神格化された芭

蕉を否定し、ことに月並みの旧派宗匠に対する攻撃ははばかるところがなかった。その攻

撃の内容は、主に次の三点からであった。

一、感情に迫ってくるものがない。

二、着想が形式的で新鮮さがない。

三、決まりきった用語しか用いない。

そして、例を挙げて、一つ一つの句を具体的に批判していったのである。

 これに対して読者は大きな反響を寄せる。この運動は明治の書生たちに呼びかけた書生

たちによる、書生調の俳句運動で、たちまち世の中を風靡し、新派、日本派、根岸派と呼

ばれ、ある種異常なまでの成功をまたたくまに収める。

 明治二十年ころから、文学藝術のあらゆる分野で、改良論・改革論が盛んになったが、

その背後には、極端な欧化熱の反動としての、国民意識の昂揚による国粋保存の空気が存

在していた。この『獺祭書屋俳話』が掲載された新聞「日本」は、社長陸羯南の思想のナ

ショナリズム、国粋主義を主張し、その立場の急先鋒となっていた新聞である。つまり、

この子規の文学革新運動は、この新聞の国家主義・日本主義的啓蒙運動の一翼を担う形で

推し進められたのであり、運動の大いなる反響は、純粋に文学の革新へ向けられたわけで

はなかった。

 その後、『俳諧大要』(明治二十八年)と『俳人蕪村』(明治三十年)とを発表し、そ

の中で写生論を唱える。『俳諧大要』には「写実」という言葉で、「空想」に対する優位

がはっきり述べられている。子規の写生開眼は明治二十六年ころから始まった中村不折ら

洋画家との付き合いによるものだった。不折の写生は、視覚によって、色彩、事物の形

状、位置、全体の構図を捉え、構成してゆくもので、取捨選択は認めるが加筆は認めない

という内容であった。子規自身の写生理論としては、〈初めは自己の感じたる事物を現は

さんとすると共に、自己の感じたる結果をも現さんとしたるを、終には自己の感じたる結

果をも現はさんとしたるを終には〉〈自己の感じたる結果を現すことの蛇足なるを知り、

単に美と感ぜしめたる客観の事物ばかりを現はすに至りたるなり〉(明二九年「我が俳

句」)と語り、独自の理論を展開する。

「写生」か「理想」かということは、あらゆる藝術文化学の分野で、当時対立する思想

だった。逍遥の「没理想」に対する鴎外の「理想」、紅葉の「写実」に対する露伴の「理

想」フォンタネージ、小山正太郎の「写生」に対するフェノロサ、岡倉天心の「妙想」

──そして子規は、紅葉と露伴との対立時代に、(露伴の『風流仏』に感嘆するネど、)

明らかに露伴に与していながら理想を排して写生の上に立った。だが、紅葉より露伴を好

んだ子規は、本性において理想派であることを暴露しているとも見られる。(「正岡子規

─その人と文学」)

山本健吉氏の発言である。写生論を唱えながらも実は、子規は「本性において理想派であ

る」と言うのであるが、これに関して私は、つまり「大文学者」になるために子規は自分

の本性を曲げたのではないかと考える。あの運命の宣告を受けたときの決意が、子規本来

が生来持っているさまざまな要素を、俳句短歌の大文学者たらしむように仕立てていって

いるのだ。

 ともかく、子規の俳句運動はひとまず、明治二十八、九年のころには、世間から承認さ

れる形となっていた。新聞「日本」の選句欄の投句者は二十年代末には全国的な広がりを

持つようになり、子規を中心とする一派は〈日本派〉と呼ばれ、明治新派の主流として発

展し、俳壇に大きな影響力を持つに至る。こうした成果は、地方に強い新聞「日本」を拠

点として活動したことが大きな要因に挙がる。(俳句の運動に限らず、「日本」新聞記者

となった子規はそのほとんどの文学運動をこの新聞「日本」を拠点に活動する。それには

社長羯南の多大な庇護があり、そのために病床にありながら子規はあれだけの文学活動を

行えたのである。)

(二) = 短歌の革新

 俳句運動で成功を収めた子規は、次に短歌の革新運動に乗り出す。子規の短歌革新の意

見は、明治二十六年に発表された「文界八つあたり」の中にすでにあり、当時の歌詠みの

階層があまりにも片寄っていることへの反発が述べられている。また翌二十七年には、

「文学漫言」という文章の中で、万葉集尊重の意見を述べ、二十八年「棒三昧」の中で、

御歌所派と海上派の歌を比較論評している。明治二十九年、雑誌「日本人」の中でも、和

歌は年寄りだけのものになってしまって、少年で熱心に取り組むものはなく、ますます活

気のないものになっている、と残念がっている。これらのことを考えると、子規の短歌革

新が、単なる思いつきではなく、前々からの念願によって着々と準備され、実行に移され

たものであることがわかる。

 実際の短歌革新の行動の第一歩になったのは、子規の歌論であり、本格的な作家活動の

開始でもあった『歌よみに与ふる書』の発表だった。明治三十一年二、三月に、新聞「日

本」で十回にわたり連載された。このころ子規は日清戦争に従軍して帰ってきたころで、

向こうの過酷な生活に病状を悪化させており、この『歌よみに与ふる書』はすでに病床で

執筆されていた。内容は、

貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気

の知らぬこと

という痛烈なことばにあるように、『古今和歌集』と桂園派和歌を真っ向から否定し、そ

の一方で『萬葉集』や『金槐和歌集』を称揚するというものであった。

それまで古今集、新古今集は和歌の聖典といわれており、紀貫之は和歌の神様のような存

在であった。それを「下らぬ集」「下手な歌よみ」と評するのだから、歌壇界への衝撃は

相当なものであり、当然子規に対しての反発が起こった。しかし、反発が起こったのは、

歌壇界だけではなく、あまりに激しい論調のため、子規の活動拠点である新聞「日本」か

らも主筆の羯南をはじめとする掲載反対の声が上がる。しかし、これらの反発を押し切っ

て、結局そのままの形で発表せしめたのは、子規の絶大な自信と命をかけた決意とに押さ

れたからであろう。また、痛烈な批判を堂々と言ってのけるのは、言うなれば子規節とも

言うか、もはや子規の書く文章の魅力のひとつだったのではないだろうか。その表現こそ

厳しかったかもしれないが、まったくのでたらめを言っているわけではないし、確固とし

たる論で語るのであるから、少なくとも一意見と迎えられるべきなのである。また、反

骨、批判精神あふれる痛快すぎる主張を、文学論に限らず毎回楽しみにしていたファンも

いたに違いない。

革新の運動はこれで終わらずに、さらに古今集のどこがくだらないのか、なぜ萬用集は優

れているのか、一つ一つ具体的に示していった。子規は理論を示すだけなく、常にその実

践をした。『歌よみに与ふる書』の連載が終わると、続いて「百中十首」と題した短歌を

載せだした。新しい短歌とはこのように作るのだ、と自ら示した実作で、彼独特の理論の

裏づけをしようとした。

   縁先に玉巻く芭蕉玉解けて五尺のみどり手水鉢を掩ふ

   「藤の花長うして雨ふらんとす」とつくりし我句人は取らざりき

柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもありぬしぶきぞうまき

単純、簡潔、わかりやすいこと、客観的態度で、対象に対して忠実であること。これらの

歌には、俳句において会得した客観的叙法がそのまま用いられていて、子規が俳句の方法

を短歌に持ち込もうとしたことがわかる。短歌といえ、俳句といえ、長い短いの差がある

だけで、詩であり文学である点においてはどちらも変わらないはずである、だから俳句で

の方法もそのまま短歌の上に活かしうるもの、と子規は考えたのである。

ところで、和歌の革新は、実は子規よりも先に与謝野鉄幹が手を付けていた。(明治二十

九年、鉄幹が『東西南北』を出して短歌革新に一番乗りで着手した。そのときの気持ちを

「余も亦、破れたる鐘を撃ち、錆びたる長刀をを揮うて舞はんと欲するもの、只その力足

らずして、空しく鉄幹に先鞭を着けられたるを恨む」と述べている。)鉄幹の運動の示し

方は、ただ感情的なだけで、それに対して子規は常に理論的で現実的であった。何より実

践があった。鉄幹の改革論に満足できなかったのは当然のことだろう。

『歌よみに与ふる書』は、浅香社や明星派の人々からも、厳しい非難の声を浴びせられ

た。しかしその一方で、子規の考え方に共鳴し感動して、その門を叩きに若者が尋ねてく

るようになった。香取秀真、丘麓、蕨真、安江秋水、森田義郎、長塚節、伊藤左千夫らで

ある。彼らは後の根岸短歌会を開く門人たちで、子規の短歌の革新をともに盛り上げてい

く。

俳句の革新は子規の生きている間にその成果が認められた。しかし、短歌の方はという

と、当時の和歌会の天下人であった鉄幹とは対立の関係にあり、鉄幹の浪漫的で甘美な歌

風に比べて、「写生」を基調とする子規の歌風は、地味で青年への魅力に乏しく、歌壇界

から無視されるような、まったくの無勢力集団ではなかったものの、子規の存命中には俳

句の革新運動のときのような輝かしい成功を収めることはできなかった。しかし、子規の

主張は「アララギ」として継承され、彼の死後、その真価は広く世の中に承認されるよう

になる。その歌論は近代短歌の成立に大きな影響を与え、またそれはその影響は現在に

至っても深く浸透し続けている。

(三) = 写生文

 明治三十一年、三十二年ころから、子規は虚子の手で雑誌『ほとゝぎす』を舞台に、文

章革新を志す。子規の文学革新といえば、俳句、短歌の革新運動と並びもうひとつ、文章

の革新、写生文の発案を欠かすことができない。子規は俳句で写生を実践して生み出した

方法を今度は文章に転用しようと考えた。

 子規は『ホトトギス』が東京で発行されることになった三十一年十月から「小園の記」

などの作品をはじめ、写生的文章を書くことを試みた。そして明治三十二年十二月、新聞

「日本」で「歳旦歳暮に関する記事」を募集する。よく三十三年一月「叙事文」を発表、

その冒頭で〈文章のおもしろさにも様々あれども古文雅語などを持ちゐ手ことばのかざり

を主としたるはこゝに言はず。将た作者の理想などたみに述べて趣向の珍らしきを主とし

たる文もこゝに言はず。こゝに言はんと欲する所は世の中に現れ来りたる事物(天然界に

ても人間界にても)を写して面白き文章を作る法なり。〉と述べて、言葉の飾りを主とし

た文、趣向の珍しさを主とした文ではなく、事物を写した文で〈面白き文章〉を作る法を

明らかにした。直接の方法としては〈或る景色又は人事を見て面白し思ひし時に、そを文

章に直して読者をして己と同様に感ぜしめんする。〉そのために〈言葉を飾るべからず。

誇張を加ふべからず。只ありのまゝに其事物を模写するを可とす〉と説明している。

 つまり「ことばを飾らず大げさな表現を加えず、ただありのまま見たままに事物を模写

することが、おもしろい文章を作る方法である。」というのである。さらに、優れた叙事

文を書くには、事実をただ詳しく書くばかりではなく、「感動の中心点をとらえ、写生す

るものとしないものを選ぶこと、言文一致かそれに近い文体を用いること」としている。

この「叙事文」の発表で、子規は当時流行していた、修飾語をたくさんつけて飾りたてた

美文や観念文に対して、わかりやすい口語文を打ち出し、文章の革新を目指したのであ

る。

 三十三年九月、子規庵で「山会」と称して、各自が文章を持ち寄って批評し合う会が催

された。この会の名前の由来は「文章にはヤマがなくちゃならん。」と会が始まってから

程なくして言うようになった子規の主張にある。しかし、実際そう言わなければならな

かったほど、最初は山のない、あまりに平面的な文章が多かったという話である。山会で

は種々の試みがなされ、山会の門人らから高浜虚子・河東碧梧桐・長塚節・伊藤左千夫な

どのすぐれた写生文が生まれた。その後、写生の手法を小説に取り入れるようになり、夏

目漱石の「我輩は猫である」「草枕」などはこの方法を応用した。虚子は写生文の方法に

よる小説集『鶏頭』を出し、その後「俳諧士」「続俳諧士」などの小説を試みた。節は

「土」、左千夫の「野菊の墓」などの小説に写生法を用いた。写生文の運動は、明治の口

語文体の確立に大きく寄与するなど、文学に限らず広く影響を及ぼした。

三、病床六尺の世界で

 以上、子規のなした三つの文学革新運動をみてきた。これら三つはそれぞれをひとつに

切り離せるものではなく、三つの革新の上に一貫してひとつの理論が横たわっている。そ

の理論こそ、「只ありのまゝに」写しとる、すなわち「写生」である。

 この写生は子規の文学論を代表するものであるが、結核の病状が悪化し、脊椎カリエス

の発症後、病床に寝たきりになるようになってから、さらに子規の写生の世界は広がりと

奥行きを増し、芸術の極みとも言うべき領域に達していく。

 子規が命の一滴まで費やした、文学の革新の最後の境地を開いた、病床六尺の世界はど

んな世界だったのか、そしてその中で子規がたどりついたものは何か、以下見ていきた

い。

(一) = 病床六尺の世界

 子規がその生涯の最後を過ごした場所、それは寝たきりで身動きひとつ自由にできな

かった子規の布団一枚、「病床六尺」の世界である。

病床六尺、これが我が世界である。しかも、この六尺の病床が余には広すぎるのである。

わずかに手を伸ばして畳に触れることはあるが、ふとんの外へまで足を延ばして体をくつ

ろぐこともできない。はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動け

ないことがある。

 明治三十五年五月五日から同年九月十七日まで書き綴られた「病床六尺」の冒頭であ

る。子規が病臥を強いられるほどに病状が著しく悪くなったのは、明治二十八年に日清戦

争に新聞記者として子規自身の強い希望で従軍し、そして帰ってきたあとからのことであ

る。日本への帰国の途についた船中で、五月十七日に喀血をし始め、六七日ほとんど血を

吐きとおすような状態であった。このときの喀血が原因で、子規は死ぬまで起つことがで

きなくなり、日本新聞社員でありながら死ぬまでの七年間出社することはできなかった。

そして、二十九年三月、前々からの腰の痛みはリューマチではなく、脊椎カリエスである

と専門医から診断される。脊椎カリエスとは、結核菌が骨に転移し、溶けて膿みだすとい

う病気で、いよいよ生命の緊張は高まった。カリエスの告知を受けたときの心情を虚子へ

の手紙にこう記している。「貴兄驚き給うな 僕ハ自ら驚きたり」「医師ハ言へり此病は

僂麻質斯(リウマチ)ニあらずと」「(カリエスは)歩行し得ざることここに五旬、体温

高き時は三十九度ニ上り低きときは三十五度七分ニ下る 忽ち熱くして汗胸を濡ふす 一

日も精神の不愉快を葛u梛「犬燭・・w)ことなし 詩を作り俳句を作るには誠に誂え向きの

病気なりとて自ら喜びぬ」と、このように、カリエスの衝撃も語りながら、それでもな

お、文学への革新の心意気を高めている。

 しかし、気迫とは裏腹に体調はますます悪くなり、全く歩けないようになる。たまった

膿を出すために切開手術も試みたが、結果はよくなかった。発熱が毎日続き、手術のあと

の穴から膿汁がさかんに流れ出た。腰は腫れ、足は立たず、背中はただれて皮がはげ、尻

にはいくつもの穴があいて、それをガーゼで覆っていた。

 三十三年、子規三十四歳の八月十三日の朝に二十八年来の多量の喀血をする。数日の間

筆を持つこともできないような衰弱で、それからは床から一切離れることができなくなっ

てしまった。その病の苦痛がよくわかるよう、子規自身書き残した文章を次にいくつか引

用する。

 おかしければ笑う。悲しければなく。しかし、痛の激しいときにはしようがないから、

うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙ってこらえているかする。その中で黙ってこらえてい

るのが一番苦しい。さかんにうめき、さかんに叫び、さかんに泣くと少しく痛が減ずる。

(明治三十四年四月十九日「墨汁一滴」)

だんだんに痛みがつのってくる。背中から左の横腹や腰にかけて、あそこやここで、かわ

るがわる痛んでくることは地獄で鬼の攻めを受けるように二六時中、少しの間断もない。

さなくても骨ばかりのやせた体に終始痛みが加わるので、わずかの身動きさえならず、苦

しいの苦しくないのと、そんなことを言うだけ野暮なぐらいになってきた。

 はじめは客の前をはばかって、わずかに顔をしかめたり、わずかに泣き声を出すぐらい

なことであったが、後には、それも我慢できなくなってきた。友達の前であろうが、知ら

ぬ人の前であろうが、痛いときには、泣く、わめュ、怒る、たわごとを言う、人をしかり

つける、大声を上げてあんあんと泣く、したい放題のことをして、もはや遠慮も何もする

余地がなくなってきた。(明治三十五年四月「病床苦語」)

 ほとんど毎日気違のような苦しみをする。この苦しみを受けまいと思うて、いろいろに

工夫して、あるいは動かぬ体をむりに動かしてみる。いよいよ煩悶する。頭がムシャ???

となる。もはやたまらんので、こらえにこらえた袋の緒は切れて、遂に破裂する。もうこ

うなるとだめである。絶叫。号泣。ますます絶叫する。ますます号泣する。その苦しみ、

その痛みなんとも形容することはできない。むしろ真の狂人となってしまえば楽であろう

と思うけれど、それもできぬ。もし死ぬることができれば、それは何より望むところであ

る。しかし死ぬることができれば、それは何よりも望むところである。しかし死塗子とも

できねば殺してくれるものもない。

 一日の苦しみは夜に入って、ようよう減じ、わずかに眠気さした時には、その日のく痛

が終わると共に、早翌朝寝起きの苦痛が思いやられる。寝起きほど苦しいときはないので

ある。誰かこの苦しみを助けてくれるものはあるまいか。誰かこの苦しみをたすけてくれ

るものはあるまいか。(明治三十五年六月二十日「病床六尺」)

 子規は明治二十九年から三十五年九月十九日の死に至るまでの約七年間を病床にあって

苦しみ、戦い抜いた。いや、病と共存したといった方が子規文学の表現に適うだろう。こ

のすさまじい病苦に生きたからこそ、子規文学の最後の境地、写生が開かれる。『歌よみ

に与ふる書』も「叙事文」も、病床に臥しながら書かれ、そのほかにも、数々の随筆を執

筆していく。

(二) = その先に見たもの

 死が近づくにつれ、子規文学の真髄、写生の表現はより純度を増して、研ぎ澄まされて

いく。病臥にて書かれた作品をいくつかここで広げてみる。

鶏頭の十四五本もありぬべし

鬚剃るや上野の鐘のかすむ日に

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

松の葉の細き葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみのうえにとどかざりけり

いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす

病床についてから書かれた作品には、このように、子規の眼前にある草花を題材にしたも

のが多い。それは目の前の情景の描写のみに徹し、感情を表すような言葉は一切なく、そ

こに作者の我というものはまるで見出せない。客観的態度を忠実に守っている。字面から

「単純で無造作で、平淡。」と評する人もいるだろう。子規は本当にただ単に自然の描写

をしただけで、何も子規の感情や意思は作品に込めていないのか。私はそうは思わない。

むしろ字面には表しきれないところに子規の写生の真髄があり、私からすれば、「複雑

で、相当な意識によりかなり作りこまれており、その奥行きは子規個人の人生だけでな

く、生ということを総括するまでに深い。」と、このぐらい言いたいものである。

死に限りなく近づいた子規は、壮絶な病苦に泣いてわめいて、自分の、「我」のすべてを

さらけ出し、同時に限りなく自然に近づいた。死と生とが、これまでになく隔たりを持た

ず、子規はどこまでも誠実にまっすぐに自然と向き合って接した。すると自然が子規にあ

るひとつのことを語りかけてきた。それは生命あるものの輝き、喜び、生命の賛歌であっ

た。本当は、自然はいつだってこれを語りかけているのだが、人はいつも見過ごしてばか

りいる。病床から眺められる庭は、小さいけれども、死が刻々と近づく子規にとっては、

どれほどまぶしい情景であったことであろうか。一見して何も語ることのないように見え

る子規の作品には、もはや叶えきれない数々の願望の上澄みを掬うように、生命への称賛

と慈しみの気持ちが、一つ一つ共通して込められているのだ。

自然の代弁者となった子規であるが、その表現はメッセージを直接表すのではなく、メッ

セージを伝える自然の姿をそのまま絵画的に描写する方法をとる。そんな表現を鉄幹や蒲

原有明、北原白秋など、想像力が欠けていると批判する声もある。それは花を見て、花が

ある、とだけ思う精神と一緒だと私は考える。子規文学の真価はそこにあるのではない。

まず子規自身が作品を作るまでの経緯、美しいと思い、そこからさらに生じる意識を作品

にし、そしてそれらが作品を通して読んだ人にまた伝わる経緯の二つに子規文学の真価は

ある。想像力が欠けているということに関しても、文面だけ追えば、確かに事実を述べて

いるだけに違いないが、精密な描写は、短歌は三十一字、俳句は十七字という短文にもか

かわらず、その場面の情景がありありと目の前に浮かび、色や形が浮かべば、今度は次第

に記述されていないにおいや温度、その他あらゆる感覚が想像に浮かぶ。子規の文学に言

う想像力は読む側において豊かである。読めばそれと知らず、生命の光に触れて、心が温

まり、その美しさにあこがれ、ときめき、心は耐えずはやる。この短文を読むだけで、ど

こへでも行ける。無限に広がっていく。

そんな風に感じるのは世界に私ひとりだけであろうか。しかしさらに続けて思うことは、

身動きひとつできない寝たきりの子規だったが、もしかしたら、こうして無限に広がる夢

の世界に遊んでいたのではないだろうか。現実には、六尺の布団一枚の狭小の世界に釘付

けになっていながら、自由な精神の世界に遊び、病の苦痛を紛らわせて、また、写生の方

法で自然と語らい、あこがれ、ときめき、命を捧げたはずの文学から逆に命を与えられ

た。そのため、通常であればすでに息絶えているはずの体であそこまで、文学の革新をな

すまで生きいていられたのかもしれない。

子規の文学は、死と直面した結果、それまで誰も踏み入れなかった写生の境地に達するこ

とができた。この病による写生の開眼は子規文学に余すことなく発揮され、俳句短歌だけ

でなく、随筆作品においても珠玉といわれる名作の数々が作られた。病によって文学者子

規が生まれ、また病によって文学者の生を全うしたのである。

おわりに

こうして大成した写生を軸に、子規は俳句・短歌・文章の革新を遂げた。子規の周りには

たくさんの若者が子規を師と仰ぎ、集まった。若者たちはその後それぞれに成長し、名を

挙げる。若者たちが子規の下に集まった弟子たちは、子規から文学のことだけ学ぼうとし

たのではなく、きっと夢やあこがれの尽きない子規の魂をともに追いかけたのではない

か。子規は文学の革新という偉業を残したが、こうして若者に夢を追いかける力を授ける

ことも、また子規のなした偉業なのである。その魂は作品や理論に残されており、子規の

死後も作品を通して、現代に生きる私たちにも受け継がれていく。子規の短い命を懸けた

偉業は文学とその魂の両方が今もなお脈打っている。

(400字詰め原稿46枚相当)

参考資料

= 『伝記 正岡子規』(松山市教育委員会文化教育課 松山市民双書 20)青葉

図書 昭和五十四年二月

= 山本健吉「正岡子規─人と文学─」(山本健吉全集 第12巻)講談社 昭和五

十八年三月

= 藤川忠治『正岡子規』(シリーズ 近代短歌・人と作品7)桜楓社 昭和四十一

年十月

= 松井利彦『士魂の文学 正岡子規』 新典社 昭和六十一年四月

= 松井利彦『正岡子規の研究 上』 明治書院 昭和五十一年五月

= 黒澤勉『病者の文学─正岡子規』信山社 平成十年七月

= 正岡子規『子規全集第四巻 俳論俳話一』 講談社 昭和五十一年十一

= 正岡子規『子規全集第十二巻 随筆二』 講談社 昭和五十年十月 

= 正岡子規『子規全集第十四巻 評論日記』 講談社 昭和五十一年一月

= 高浜虚子選『子規句集』岩波書店 平成五年四月

= 土屋文明選『子規歌集』岩波書店 昭和三十五年一月