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青海路行記

中国の地図
 青海路と呼ばれる交易ルートは、祁連山脈南側の高原を東西に貫き、東は臨夏、西寧を起点に西のタリム盆地まで延びるルートであり、祁連山脈北側の河西回廊ルートとは補完関係にある。歴史的には吐谷渾・吐蕃・コクシラなどの諸政権がこの地域をおさえて覇権を確立した。現在でも青海路沿線には往時の遺跡が数多く残っている。
 1999年7月、私は、ほぼひと月かけてこの青海路を辿り、その沿線にある諸遺跡の残存状況を確認した。訪問先、遺跡は多数に及んだが、ここでは青海路の情況とその沿線上の主要な遺跡について報告したい。





 1999年7月14日、私は青海省へ入るべく、灼熱の敦煌からチベットの入り口であるゴルムド行きのバスに乗り込んだ。バスで南へ進むこと3時間半、高山病による頭痛に耐えつつ祁連山西脈(アルティン=ターグ)を越えると、一面礫に覆われたツァイダム(柴達木)盆地が広がった。標高3000mを遙かに超えた、果てしのない無人のゴビ灘である。上空には雨雲が陰鬱にたれ込めており、緑一つ無いその光景は、人に絶望感すら抱かせる。 青海省の景色
 盆地の光景は、バスの進行に伴って刻一刻と変化する。果てしのない礫砂漠、地表に生えたかのような奇岩群、真っ白で巨大な塩湖や塩沢群が、交互に現れては過ぎ去る。なお「ツァイダム」とはモンゴル語であり、「塩沢」の意という。これは、16世紀にモンゴルが青海省一帯を占領した時の地名である。このツァイダムの塩は、現在、中国国内で最大の生産量を誇っている。
 地の果てとも思える荒涼としたゴルムド市は、ツァイダム盆地の南縁に位置し、青海路の途上にある。ここから青海路を東に辿り、崑崙の支脈のすぐ北側に沿って都蘭県へ向かった。この間350kmは茫漠としたゴビ灘だけである。しかしながら1959年、約3000年前の住居跡がこの辺りの諾木洪で発見されており、その自然環境の厳しさにもかかわらず古来から文化があったことが証明されている。




 7月16日、ゴルムドを出て9時間後、深夜3時に都蘭県へ着いた。7月中旬ながら鼻息さえ白くなるほど気温は低く、断続的に氷雨も降る。時折放たれる稲妻の閃光を頼りに建物の廃墟を探し、寒さに震えながら夜明けを待った。「都蘭」とはモンゴル語で「温暖」の意というが、実に皮肉に思える。
 都蘭県に立ち寄ったのは吐蕃時代の墓群があるからである。墓群は都蘭県を去ること東南約30kmに位置する。有名な熱水大墓は、高さ11m、東西55m、南北37mといい、後背の山から見下ろすと平頂式の四角錐型で、吐蕃王墓に共通する形であった。現在は発掘で大きく削り取られているが、なお原型を保っている。大墓は吐蕃の青海進出期(7世紀後半)のものと考えられ、発掘により西域人図像が出土した。当時まだ河西回廊を併呑していなかった吐蕃は、西域との交易に青海路を活用していたのであろう。



 7月24日、まず青海路本線を東に進んだ。西寧から楽都までの道は、湟河の南に沿って延びる平坦で新しい道であった。本来の道は湟河の北沿いであるが、数年前からこの新道が開通したという。楽都は4世紀末、南涼が都を置いた楽都城があり、元明に至るまで湟 青海省の風景 河流域の要衝となった。楽都故城は青海路沿いに位置し、後背には急峻な岩山(裙子山)、を備え、前面には入り組んだ峡谷を擁すが、城壁自体の残存状況は極めて悪い。楽都には明代、楽都故城にかわって新たに築かれた碾伯故城がある。こちらの城壁は今なお郊外に聳え、かつての威風を漂わせている。また、この町には、明初に洪武帝が建てた瞿曇寺が残っている。楽都滞在中、偶然にも瞿曇寺で開かれる花会に重なり、これを見学する機会に恵まれた。寺院前の狭い広場は、色鮮やかな民族衣装を身に着けた人々でとても賑わっていた。

 楽都から民和まではバスで3時間ほどの距離であるが、一転して断崖沿いの難道に変わった。この路は青海路から外れており、近年の西寧蘭州道の開通によって開通したものである。民和から南下し、臨夏方面に進んで青海路古道と合流すると、前涼の晋興郡故城(4世紀)、後涼の三河郡故城(4世紀)、コクシラの丹陽故城(12世紀)、明の古?故城(14世紀)など、次々と古城群が現れる。民和では文物管理局の先生に案内していただき、その他多くの遺跡を見学することが出来た。



青海省の風景  7月31日、青海湖北岸ルートを辿った。西寧の西の湟水上流には湟源県がある。ここは明から清の前期まで、茶馬交易の拠点として繁栄を誇っていた町であった。現在、さびれた県内に点在する「小北京」の語は、往時の繁栄を伝える残滓である。湟源県南部の街道沿いには唐蕃戦争(8世紀)の主要舞台となった石堡故城(718年吐蕃築城)が残っており、ここが青海路と唐蕃ルートとの合流点であったことを実感し得た。石堡城は三面断崖の山頂平面上にあり、名称通り険阻で容易に人を近付かせるものではない。私も頂部に登ることが出来ず、麓からこれを呆然として眺めざるを得なかった。最近、付近から当時の戦死者を埋めた万人坑が発見されたという。
 湟源から海晏に西行すると標高が俄に上がり、それまでの広葉樹林から草原へと植生が変化した。ここには王莽の西海郡故城(1世紀)があり、さらに海晏県の西、青海湖西岸には吐谷渾の伏俟故城(6〜7世紀)があり、共に今なおその姿を留めていた。伏俟城は青海路の要衝として知られているが、今回訪れてこれが開けた平原上に存在すること、また極めて小規模であることを実感し、伏俟城を交易拠点として考える上で、改めて示唆を得ることが出来た。



青海省の古城  8月9日、最後に西寧から河西回廊の張掖へ抜ける祁連山越えを辿った。この道は祁連山支脈と本脈の並列する二山脈を縦断している。バスで西寧から北行し、大通県を過ぎると、まず祁連山支脈の大板山脈が姿を現した。大板山を登って尾根に着いたとき、「霍去病到来」の看板が立てられていたのは印象的であった。大粒の雹が降る中、大板山脈を越えるとバスは大通河渓谷へ下りた。
 この渓谷には後漢時代に護羌校尉が置かれていたという古城(1〜2世紀)がある。この古城を実見したく思ったが、1999年の段階で当地区(門源県)は非開放地区であり、公安の厳しい叱責と監視を受けて古城の踏査はできなかった。
 8月10日、大通河渓谷を後にして、祁連山本脈を登り始めた。祁連山本脈の南麓、すなわち青海省側の山肌は一面草原に覆われ、そこには「毛牛(ヤク)」が無数に放牧されている。ところが山頂を過ぎて祁連山本脈の甘粛省側を下ると、山相は岩肌の露出した荒々しい斜面に変わった。山脈を隔てて降水量が全く違うためである。やがてそれを下りきると眼前に一面の砂漠が広がった。河西回廊に出たのである。
 この日のうちに張掖へ着き、青海路を辿る旅行は無事に終了した。

園田俊介