中央大学東洋史学研究室 中央大学
中央大学東洋史学研究室トップページへ
中央大学東洋史学専攻の案内
中央大学東洋史学共同研究室の案内
中央大学東洋史学 各研究室の案内
中央大学東洋史学 アジア諸地域への誘い
中央大学東洋史学 在校生の方へ
中央大学東洋史学 受験生の方へ
中央大学東洋史学 白東史学会
中央大学東洋史学研究室 リンク集
ホーム > アジア諸地域への誘い > ベトナム紀行


ベトナム紀行

 それまで曇りがちだった空は、ベトナムで初めて見る朝日の強烈な光を受けて輝いていた。ハノイから南へ、ベトナム中部の古都フエを目指す夜行バスからの、これ以上ない位に鮮烈な東南アジアの風景だった。

 修士論文を書き終えて4日後、私は飛行機でベトナム北部の首都ハノイに飛んだ。目的は東南アジア周遊、と言うよりカンボジアのアンコール遺跡群だった。ハノイからベトナムを縦断してホーチミンへ、西に向かってカンボジアに入り首都プノンペン、アンコール遺跡の街シェムリアップ、そして最後にタイのバンコクに抜けて帰国する予定だった。

 2004年に西チベットのカイラス山を訪れ、信仰と地球の姿に衝撃を受けた。今回、大学院を卒業して就職する前に、人が造り出した「信仰」であるアンコール遺跡をどうしても見ておきたかった。ベトナムはそのための通過点・・・・・のはずだった。

 しかし、幸いなことにベトナムはこの旅でカンボジアと同じ位、あるいはそれ以上に強烈な印象を残してくれることとなった。ハノイからフエへの移動中に見たベトナムの朝、はるかに続く田園、三角の編み笠をかぶり天秤棒を担ぐ人々、人の手で一本一本田植えをする姿、水牛を追い立てる子供たち、強烈な日差しと霞がかる湿度と深く濃い緑、この風景はその始まりだった。

 午前9時過ぎにフエに到着、移動の疲れがあったので部屋ですぐに休むつもりだったが・・・
 「今日はいい天気だぞ! おまえは運が良い、これからバイクで(ベトナム最後の王朝阮朝の)皇帝の陵墓をまわらないか!?」

 そして小型バイクの後ろに座る。ほとんど徹夜の状態で、我ながらよく頑張ったとあきれるが、3つの皇帝陵墓を見てまわったのだった。陵墓は中国の影響を強く受けつつ、近代王朝らしく西洋への傾倒をうかがわせるものもあった。壁面に磁器の破片で描いた文様や文字、紫禁城を思わせる黄色い瓦、漢字の石碑、それらとともにフランス統治の影響を受けた西洋建築風の建物もよく残っている。強大な周辺国や西欧の力への複雑な思いを見るようだった。

 フエには他に阮朝の王宮があり、陵墓群とあわせて世界遺産に指定されている。王宮自体は戦争で破壊されて一部が残るのみとなっているが、南方の湿度によって城壁は黒ずみ、鮮やかな色彩と独特なコントラストを生み出す。フエの街をバイクで風を切って走るのは、心地よかった。

 ベトナムと言えば、最近では急速な経済発展が注目されている。バイク天国であるベトナムではバイクを「Honda」と呼ぶとか・・・(ちなみにベトナムにも盆栽があり、やはり「Bonsai」と呼ぶらしい)。その中にあっても、やはり人々のすべてがその恩恵を等しく受けられるわけではない。中国でも見てきた現実だ。フエ最大の市場を見てまわり、裏手の川沿いに出たとき、水辺の住民に出会った。対岸には整備されつつあるフエの新市街、こちら側には昔ながらの小舟と、河で体を洗う人々、そして水面にせり出すようにして作られた彼らの住居。トタンや木材で雑多に作られた家は、対岸とあまりに遠かった。

 それらの風景にカメラを向けていると、河の中で体を洗っていた男性がこちらを見ている。手を振ってバク転したり足を出して逆立ちしたり、パフォーマンスを披露してくれた。僕は「Good!」と手振りで示す。・・・と、彼は全力のクロールでこちらに泳いできて、「Hi!」。近くの飲み物屋台の子供たちも含めて、ささやかな交流が出来た。彼らの笑顔はフエの世界遺産より何より、僕の記憶に焼き付いた。

 フエを後にして、海辺の街ホイアンへと向かう。フエから数時間の距離だ。ここは個人的にどうしても来てみたい街だった。日本が鎖国する以前、この街には海上交易によって多くの外国人が住みつき、日本人町も形成されていたのだ。東アジア貿易の拠点、ホイアン(會安)、今も「日本橋」という日本人が建てたと言われる木造の橋が残る。この橋、面白いことに橋の両側にそれぞれ猿と犬が祀られている。当時、橋の一方に日本人町、もう一方に中国人町があったそうだが、仲が悪かったのだろうか・・・?

 今でも小さな街だが、家の造りが面白い。京都の長屋とそっくりなのだ。間口が狭く奥に細長い二階建ての木造家屋、奥には中庭もあり、手前は店舗、奥が住居だったようだ。みやげ物店が多く観光地化されてはいるが、その雰囲気は日本人には懐かしい。川の河口に面していて、街も港と市場を中心に広がる。
 その川辺を歩いていて、10才くらいの女の子にオイデオイデされた。そして、彼女とその母親が漕ぐ小舟に乗って水上散歩に出かけた。もちろん有料だったが、水面から見る港の活気はなかなかきれいだった。何より人々の足として船が活躍している様子を直に見ることが出来たのだ。少女は英語が上手かった。私なんかよりよほどよくしゃべる。おかげで漁師が網で魚を捕る様子や小さな水上マーケットの様子なども(完全ではないが)理解できた。

 岸に戻ると少女が土産物らしきペンダントをくれた。お礼に「中央大学」ロゴ入りボールペンをあげた。この場合は物より思い出、しかしさらにコーラをおごることになった。

 この子に限らず、ベトナム人は体型が細い。女性は特にほっそりしていて、女子高校生の制服らしい白のアオザイの女の子はとてもきれいに見える。この後カンボジアに入ることになったが、カンボジア人はもっとがっしりした、線の太い体格をしていた。明らかに民族系統が違うようだったが、文化的な違いも大きいようだった。

 ベトナム人は色白を美人の条件にするらしく、南国の太陽光線を嫌う。土地柄に矛盾するようだが、女性は手袋・長袖・マスク・サングラス・帽子と重装備の人が珍しくなかった。逆にカンボジア人は浅黒く焼けていた。ベトナムはやはり中国の影響が強いのだろうか。 

 余談になるが、私はこの後のホーチミンで北京留学の際のベトナム人の友人と再会した。その時うっかり、「ベトナムは中国の影響が大きいね。文化とか建築とか・・・」と言ってしまったのだが、友人は「いや、全部ベトナム独自のものだよ!」と真顔で強調していた。常に周辺国と戦い続けてきたベトナム人のアイデンティティーは確固たるものがあるのだろう。

 ベトナムを実際に訪れるまで、私の中のベトナム人像は「おっとりしていて親切」というものだった。しかしこの旅行で、中国人に匹敵するほどの自己主張と押しの強さを思い知らされることとなった。

 ホイアンを離れた後、私はホーチミンでベトナム戦争の実態をまざまざと見せつけられる事となった。様々な外圧に抵抗し続けてきた民族としての強さが、今のベトナム発展の原動力なのかもしれない。ホーチミンの南には巨大なメコン川が9つに別れた河口をもってベトナムの大地を潤している。この一帯では3ヶ月で稲が育つそうだ。こうした恵まれた大地の上で、ようやく平和な独立を得たこの国は、その力強さを外に向け出している。中国・日本と似ていながら、まったく異なる国だった。

 その後私はベトナムから陸路で国境を越え、カンボジアに入る。そして内戦の傷跡と治安の不安定のなかで、ベトナムと比べてあまりに遅れた発展の現状を目の当たりにする。1000年かけて自然に帰るアンコール遺跡の巨大建築群は、想像以上の存在感を見せてくれた。その一方で、遺跡のあるシェムリアップからバンコクへのメインルートのすぐ2メートルわきで、地雷除去が行われている現実。タイではバンコク滞在中に市街中心部で反タクシン首相の大規模デモが行われていた。

過去と現在の両面を頭に焼き付けて、バンコクを後にした。

2006年 野本尚史 記