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(1) 弁 (べん) (2) 字 (あざな) (3) 諱 (いみな) その一 (4) 諱 (いみな) その二
(5) 聖賢 (せいけん) (6) 陰・陽 (いん・よう) (7) 七夕(しちせき/たなばた) (8) 未央 (びおう)
(9) 矜恃・矜持 (きょうじ) (10) 複姓 (ふくせい) (11) 粟 (ぞく) (12) 互文 (ごぶん)
(13) 例 (れい) (14) 紫 (し/むらさき) (15) 更衣 (こうい/ころもがえ) (16) 塞 (さい)
(17) 芸 (うん) (18) 余 (よ) (19) 寒食 (かんしょく) (20) 丈夫 (じょうふ)
(21) 愛日 (あいじつ) (22) 狼 (ろう/おおかみ) (23) 干支 (かんし/えと) (24) 姫 (き/ひめ)
(25) 茶 (ちゃ) (26) 相 (そう/あい) (27) 孤独 (こどく) (28) 戻 (れい/もとる)
(29) 助教 (じょきょう) (30) 松柏 (しょうはく) (31) 糞 (ふん) (32) 細君 (さいくん)
(33) 秋 (あき) (34) 志学・弱冠 (しがく・じゃっかん) (35) 助字 (じょじ)
(36) 遂 (すい/ついに) (37) 甲 (こう) (38) 塗炭 (とたん) (39) 観光 (かんこう)
(40) 柿・杮 (し・はい) (41) 文・質 (ぶん・しつ) (42) 卿 (けい) (43) 八佾 (はちいつ) *追記
(44) 如 (じょ/ごとし) (45) 猫 (びょう/ねこ) (46) 兎角 (とかく) (47) 尼 (じ/に)
(48) 虫・蟲 (き・ちゅう/むし) (49) 篇・編 (へん・へん) (50) 巣 (そう/す) (51) 鴆毒 (ちんどく)
(52) 水上・水中 (すいじょう・すいちゅう) (53) 蘭 (らん) *改訂版 (54) 猿声 (えんせい)
(55) 影響 (えいきょう) (56) 共和 (きょうわ) (57) 豹変 (ひょうへん) (58) 結草 (けっそう)
(59) 都合 (つごう) (60) 張本 (ちょうほん) (61) 還暦 (かんれき) (62) 箕裘 (ききゅう)
(63) 兵 (へい) (64) 分野 (ぶんや) (65) 菊 (きく) (66) 稽古 (けいこ)
(67) 臥薪嘗胆 (がしんしょうたん) (68) 蓬 (ほう/よもぎ) (69) 控 (こう/ひかえる) (70) 合従連衡 (がっしょうれんこう)
(71) 冒瀆 (ぼうとく) (72) 堂 (どう) (73) 擡頭 (たいとう) (74) 室 (しつ)
(75) 科斗 (かと) (76) 斗 (と) (77) 杏林 (きょうりん) (78) 対策 (たいさく)
(79) 貸・借 (たい・しゃく) (80) 玉 (ぎょく/たま) (81) 角 (かく/かど・つの) (82) 不宣 (ふせん)
(83) 人間 (じんかん/にんげん) (84) 青山 (せいざん) (85) 膾炙 (かいしゃ) (86) 鬼門 (きもん)
(87) 凝脂 (ぎょうし) (88) 蛾眉 (がび) (89) 哲学 (てつがく) (90) 反訓 (はんくん)
(91) 陽死 (ようし) (92) 筋 (すじ) (93) 小学 (しょうがく) (94) 桃 (もも)
(95) 御 (ぎょ・ご/おん・み) (96) 紳士 (しんし) (97) 携帯 (けいたい) (98) 達者 (たっしゃ)
(100) 麒麟 (きりん)
(99) 白 (はく/しろ・もうす
▼漢語百題 (1)~(50) >漢語百題 (51)~
 


 弁理士と弁護士は今ではどちらも弁の字を用いるが、本来は辨理士と辯護士であって、ベンの字が異なるのである。両方の資格を持つ方が、名刺にちゃんと辨と辯を書き分けておられて感心したことがある。もともと意味の異なる弁・辨・辯・瓣の4種の字を弁の一字で表すようになったのはなぜだろう。複雑な文字を簡単な文字で代用したとしても、少々荒っぽいのではなかろうか。

 弁はかんむりを表す。辨(本字は辧)は刀で二つに分けることから、分ける、わきまえる、おさめる。辨理は事務を処理する意味である。辯は言葉で分ける意から辯論、辯舌、辯解などに使う。瓣は花瓣(花びら)や安全瓣などに用いる。
 ちなみに方言を表す関西辯などという使い方は日本固有のもの。辨当というのは面桶(メンツウ)の転化とも便利なものの意の便当から来たともいわれ(『広辞苑』)、これも日本固有の語である。

 辨や辯に似た字に、編むという意の辮があり、これも弁で代用されることがある。辮髪は頭髪の一部を残して剃り落とし残した髪を長く編むというアジア北方民族の男性の髪型で、清朝をたてた満州族が漢民族に強制したことで知られる。

 写真の辮髪の男性は明治20年(1887)石川県生まれの日本人。十代で中国大陸に単身渡った。この写真は二十歳ごろ、時は清朝最末期であった。やがて日本から進出してきた商社に通訳として採用され、郷里に一旦もどって結婚した。結婚写真には、七三に分けた短髪、口ひげを蓄えた姿で写っている。相前後して辛亥革命が起こって清朝は滅ぶ(1911)。夫妻は商社員として長春、漢口、上海と移り住み、その間に五人の子をもうけた。大正4年(1915)に長春で生まれた長男が私の父である。旧制中学受験のため一人で日本に帰っていた長男を追いかけるように、日本転勤になって一家が帰国するのは昭和の初め。満州国建国(1932)は5年ほどのちのことである。(2007/7/18)

 


 浅田次郎『蒼穹の昴』第七章(講談社文庫)に次のようなくだりがある。
 「少(シャオチェン)?……」
  槍の穂先を咽元(のどもと)に突きつけられて、栄禄は失禁した。
 「汝のような下郎に字(あざな)を呼ばれるいわれはない」
 「閣下……李鴻章(りイホンチャン)閣下……」

中国人は名と字(あざな)を持っていた。たとえば孔子の名は丘、字は仲尼という。現在はもうつけなくなっているだろうが毛沢東も潤之という字を持っていた。名は生れた時につけられるが、字は二十歳の成人式につけられた。女性の場合は婚約を期につけられたという。 名は本人が自称に用いるか、あるいは目上の者から呼ばれる場合に使われた。目下の者が目上の者の名を呼ぶのはたいへん失礼なことで、必ず字(あざな)で呼んだ。つまり字(あざな)は敬意をこめた呼称なのである。

 『論語』を読むとそのことがよくわかる。孔子は弟子である仲由という人物をその名の由(ゆう)で呼ぶ。しかし、地の文では「子路(しろ)曰く」などと字(あざな)の子路を用いている。これは『論語』が孔子の孫弟子たちの手によって成ったため、編纂者たちが敬意をはらって子路と書いたのである。木村英一訳注『論語』(講談社文庫)では「子路さん」や「子貢さん」と、字(あざな)にはみな「さん」をつけていて、字(あざな)の意味合いがわかりやすい。

 上にあげた『蒼穹の昴』の例でいうと、ここは「鴻章」と呼ばれた李鴻章が「汝のような下郎に名で呼ばれるいわれはない」と怒るのでなければならない。浅田次郎氏は字を親しい者や目下に使う呼称、いわば愛称や「あだな」のようなものと思っているのではないか。同じく第七章に占い師の老婆が「とうとう慰庭めが上に破軍の星が回座した。慰庭は国を滅ぼす」という場面がある。慰庭は袁世凱の字(あざな)である。字(あざな)が敬称であることを知っていれば、「慰庭めが」といわず「世凱めが」となるであろう。

 宮城谷昌光『史記の風景』(新潮文庫)の「名とあざな」の章では「本名は家族のなかでつかい、あざなは対外的につかう」とあるが、これもおかしい。本名は外でも用いるし、家族間でも字は使う。年齢や身分の上下関係こそが要点なのである。(2007/7/18)

 


 目上の者の名を呼んではいけないのであるから、当然、子供は親の名を口にすることは許されない。父親の名は父が生きているうちでもタブーであるが、父の死後はいっそうきびしいタブーとなる。父の名は死と同時に諱(いみな)となる。死後はふつう謚(おくりな)というのを付けてそれを呼び、生前の名で呼ぶことを忌みたのである。この避諱(ひき)(諱を避ける)の風習は中国では厳格に守られてきた。父の名を口に出すだけでなく、書いてもいけないし、耳にしても目にしても親不孝とみなされた。この風習は中国の古い習慣に基づくものと思われるが、儒教で孝が盛んにいわれるようになると、それにつれてますます厳しくなっていったのである。

 役所に勤めている人が、書類の中に父の名を見るたびに大声で泣いて仕事ができず、やめさせられたなどというエピソードが6世紀ごろの書物に出ている。こうした諱のタブーにまつわる話はたくさんある。いくつか挙げてみよう。

『史記』を書いた司馬遷は父の名が談だったので、『史記』に出てくる談のつく名前を同の字に代えている。歴史家が実在する人の名前を勝手にかえていいものかと思われるが、それだけこのタブーが厳しいものだったのである。

父だけでなく祖父の名も避けなければならない。書聖として有名な王羲之は祖父の名が正だったので、正月の代わりに初月または一月と書き、正の字が必要なときには政の字で代用していた。
 実は王羲之の七人の息子の名には王献之などというように、みな父親と同じ「之」の字がついている。そのため、避諱の例外として取り上げられたり、避諱がゆるんでいた例として扱われるのであるが、王羲之が名前のタブーをおろそかにしていないことは、祖父の諱を厳重に避けていることからもわかる。では、なぜ同じ「之」を使うのか。はっきりしたことはわからないが、おそらく「之」は軽い音で意味の無い字だからこの字だけは構わないというのが理由と思われる。

唐の詩人の杜甫は父の名が閑であったために、杜甫の詩には閑の字は一度も使われていない。

唐の法律では、父や祖父の名にふれる官職に任命されてこれを辞退しない者は一年の刑に処せられた。

唐代の詩人李賀は父の名(晋粛)に進と同音の晋があるという理由で、エリートコースの進士に挙げられるのを拒んだ。これに関しては韓愈が「諱の辯」という論文を書いて、二字のうち一字が諱にふれるのは許されてもいいのではないかと述べている。

手紙を書く時は相手の父の名にふれないようにしなければならない。

 以上のようなことがいろいろとおこってくるので、子供に名をつけるときは孫の身になって使用度の低い文字にしておく配慮がいるわけである。
 日本では父親の名の一字をとって子の名にする例が古今にわたってよく見られる。これは中国人には考えられないことなのである。父親の名を口に出してはいけないといった厳しいタブーは現代の中国ではもうないはずだが、父親の名を子供につけるということはありえないのである。(2007/7/18)

 


 中国では天子、皇帝の名もタブーである。王や神聖な人物の名を避けて口に出さないというのは、日本も含めて世界各地に見られた風習ではあるが、中国のような大国で、しかも周代以来三千年以上守り続けられた例は他にはない。

 このタブーは日常生活にまで大きな影響を与えた。新しく即位した天子の名と同じ文字を用いる地名や人名は改名させられた。自分の名が天子と同じであった場合は名のかわりに字を用いることも多かった。歴代王朝は天子の諱を管理する役職を設け、使ってはいけない文字を定めた。王家の先祖にまで遡るため、たくさんの文字が使用できないことになり、代用の文字が使われた。唐代では法律で規制し違反者は処罰され、宋代では科挙(官僚の採用試験)の答案にそういう文字を用いると落第になった。宋の高宗の時には五十五字もあったから大変である。

 天子の名のタブーは私たち日本人にもその影響が及んでいる。

もともと首都を意味する言葉は「京師(けいし)」であったが、晋の時代に「師」の文字が天子の名にあったために使えなくなり、「京都(けいと)」というようになった。この、都を表わす京都という普通名詞が日本では「キョウト」という固有名詞になっているのである。

唐の太宗の名は世民、その子の高宗は治で、よく使われる「世」と「民」と「治」が使えなくなった。唐代では代わりに「代」「人」「理」を用いた。「世の民」という言葉は「代人」となる。我々の使う「二代目」「代々」や「君が代」の「代」はこの時代に「世」を「代」にかえて用いた名残りである。

 時代によってタブーとされる文字が違うから、書物を読むためには「避諱(ひき)」の知識が必要になる。たとえば清朝に刊行された書物では人名の玄を元と書きかえてある。清では玄が使えない文字だったということを知らないで、見たままを書くと実際の人物の名前を間違うことになる。
 逆に、避けてある文字からその書物の刊行された時代がわかる。古典の文字など、どうしても別の字に置き換えられない場合は最後の一画を省略する。これを欠画という。「玄」なら最後の点を書かないのである。

 諱のタブー、つまり親や天子の名を避けるというルールは儒教の成立とは別の、中国古代の土俗的な信仰や習慣に基づいたものだったのであろう。「孝」が儒教の中で強調され重視されるに従って、「孝」の一つの現象としての諱のタブーが厳しく言われるようになったのだと考えられる。
 日本にも古代民俗として諱のタブーはあったのであろうが、強いものではなかった。儒教が伝えられ、「孝」が説かれ、中世には中国の礼制を取り入れて避諱が制度化されたが、人々の意識として孝とは結びつかず、生活の中に入ることはなかった。(2007/7/18)

 


 聖賢とは文字通り聖人賢人の意味だが、清酒と濁酒のことをもいう。『三国志』魏書の徐荃伝に「酔客、酒の清き者を謂ひて聖人と為し、濁れる者を賢人と為す」とあるに基づく。
杜甫の「飲中八仙歌」の一節に
 左相日興費萬錢
 飲如長鯨吸百川
 銜杯樂聖稱避賢 
   左相が日興、万錢を費やし
   飲むは長鯨の百川を吸うが如し
   杯を銜みて聖を楽しみ賢を避くと称す
とある。左相とは李適之のことで、「聖を楽しみ賢を避くと称す」、すなわち清酒は飲むが濁酒は飲まないと称していたというのである。

 江戸後期大坂の儒学者中井履軒は「聖賢扇」というものを作っている。原本は失われたが、子の中井柚園が模写したものが懐徳堂文庫(大阪大学附属図書館蔵)に現存している。これは扇の表に聖人賢人学者の名前を書き、裏にそれぞれを酒に喩えて評語が記してあるもの。聖賢が清酒と濁酒をも意味することから連想し、履軒は彼一流の遊び心を発揮したのであろう。その表裏両面を対照させて次に記す(表記は一部改変した)。朱子学者であった履軒のこと、儒学者以外はもちろんとして、目の敵としていた徂徠学派に酷評を与えているのは当然であるが、程子・朱子にも批判を含んでいる点が注目される。

(表) (裏)
醸評
孔孟 伊丹極上御膳酒 称賛に詞なし
漢以来俗学 諸国の酒 上酒もあり粗酒もあり、処により時によりて様々差 別あり、但よきというには限りあり、あしきは限り なし
老荘 薩摩アハモリ たまたまに一盞の賞玩、但酒宴に出されぬ
チンタ 夷狄人はうまがるげな
道家 薬保命酒 名目は結構なれど取りあぐる人なし
神道 濁醪(どぶろく) 古代はこれにて事すみたるか
焼酎 暑中或いは積気おさへに一杯はよき事もあるべし
畢竟は毒と心得たるがよからん
程朱 伊丹並諸白 どちらからみても江戸づみづみ、但並酒の古道具を用ひて造られたる故、すこしのうつり臭(が)あり、又実が漓(うす)うて足がよはひ、ここが御膳酒におよばぬ所
明諸儒 火入酒 損じたる酒をなをすが手段。但酢き味はなをりたるやうなれど灰の気が鼻をつく。さらは酒はなをりたるにあらずや
陽明 (にせ)伊丹酒 急度伊丹極上御膳酒と印はあれど、実は並酒に焼酎を合たるものと見えたり。やはりビイドロの猪口にてまいるべし。間してはいけまい
仁齋 新酒 下戸がすく
徂徠 春臺 鬼ころし あらき計(ばかり)にて酒ともおもほらず
右の外 練酒 あま酒 九年酒
本返し酢 合酒品々御望次第
参考:『懐徳堂事典』大阪大学出版会/写真:『懐徳堂絵はがき』懐徳堂記念会
(2007/7/18)


 


 陰陽説は中国古代の自然哲学というべきもので、自然界のあらゆる事象を陰陽二気から考えていこうとする二元論である。この考えは戦国後期ごろから流行し、そののちさまざまな思想の中に組み入れられていった。陽はもともと丘(山)の日の当たる側をいい、陰は日の当たらない側をいう。そこから日そのものを太陽、月を太陰ともいうようになった。

 さて、陽とは山に日が当たる側、すなわち山の南側をさす。当然、陰は山の北側をさす。ところが川の場合はそうではない。中国では川はたいてい西から東に流れているため、日が当たるのは北側の岸になる。つまり川の北が陽になるのであり、川の南が陰となる。岐陽という町は岐山の南にあり、洛陽は洛水の北にあるといえばわかるだろう。秦の都は山の南、川の北にあったため、咸陽(かんよう)と名付けられた。「咸」は「みな」の意である。

 江戸時代大坂の儒者中井竹山(ちくざん)の詩文集は『奠陰集(てんいんしゅう)』という。奠は澱に通じ淀川のこと。その陰、すなわち南側というのは大坂の市中を指す。現在の淀川は近代になって改修された新淀川で、淀川区・西淀川区と北区・福島区・此花区に挟まれて流れているが、昔の淀川は現在の大川にあたり、都島区毛馬から南下して天満橋で西に向かい、中之島で堂島川と土佐堀川に分かれる。中之島の南を流れる土佐堀川にかかった淀屋橋の南のたもと近くに、中井竹山が学主を務めた大坂学問所「懐徳堂」があった。懐徳堂はまた竹山とその弟履軒の生家でもあったから、まさに「奠陰っ子」なのであった。

 竹山の門人山片蟠桃(やまがた・ばんとう)は『夢ノ代』雑書篇にて、京都右京を長安、左京を洛陽に擬したのは漢土の真似とはいえ余りに拙いではないか、と語っている。彼によると次第に左京が中心になったので洛陽が京の別名になっのだそうだが、洛水の北側という洛陽の本来の意味は消えてしまったのである。さらに蟠桃はいう、学者がいたずらに漢土に似せんがために国名や地名のかしら字に陽を加え、信陽(信濃)、摂陽(摂津)、武陽(武蔵)、崎陽(長崎)などとしているが、陰陽の意味も考えずに恥ずべきことだ、と。

 私はこれを読んで、横浜名物シューマイの崎陽軒(きようけん)を思い出した。崎陽軒のホームページには創業者は横浜の人とあり、その名の由来は書いていない。おそらく中国からシューマイが伝えられた長崎にちなんでつけた名であったろう。
(図は岸田知子・脇田修共著『懐徳堂とその人びと』より)
(2007/7/24)

 


 天の川をはさむ牽牛星と織女星についての伝説は中国ではずいぶん古くからあったようで、前5世紀ごろには成立していた『詩経』にすでに見られる(小雅・大東)。また後漢時代の「古詩十九首」の中にある次の詩もこの伝説を有名にした。河漢とは天の川のこと。

   迢迢牽牛星  迢迢たる牽牛星
   皎皎河漢女  皎皎たる河漢の女(むすめ)
   纖纖擢素手  纖纖と素手を擢んで
   札札弄機杼  札札と機杼を弄ぶ
   終日不成章  終日 章を成さず
   泣涕零如雨  泣涕零(お)ちて雨の如し
   河漢淸且淺  河漢は淸く且つ淺し
   相去復幾許  相去ること復(ま)た幾許(いくばく)
   盈盈一水間  盈盈たる一水の間
   眽眽不得語  眽眽として語るを得ず

 その後、次第に物語として完成し、織女は天帝の孫で雲錦を織っていたが、天の川の西側に住む牛郎に嫁いでからは仕事を中断してしまったので、怒った天帝によって牛郎との仲を割かれ毎年7月7日だけ会うことを許された、ということになった。また、鵲(かささぎ)が翼をならべて二人を結ぶ橋を作ったという話も付け加えられた。

 一方、女たちが織物の巧みな織女に糸や針や果物を捧げて裁縫などの技芸の上達を祈る風習ができた。これを乞巧奠(きっこうでん)(巧みになることを乞うまつり)という。唐・宋時代にはこの風習が特に盛んに行われたという。「七夕まつり」のルーツである。

 牽牛と織女の物語は日本には奈良時代に伝わったが、日本の古代からの棚機女(たなばたつめ)の信仰と混じり合うことになった。棚機女とは、神の嫁として選ばれて神の訪れを待ちながら神のために棚機(たなばた)(横板のついた織機)で布を織る処女をいう。平安中期の『源氏物語』では棚機女を表す「たなばた」がすでに織女星の意味で使われていることから、中国伝来の物語が浸透していたことがわかる。「七夕」を「たなばた」と読むようになった経緯は以上のとおりである。ちなみに「機」は字の中に「糸」が二つ並んでいることからもわかるように、本来「はた織り道具」の意味で、そこから「からくり」や「仕掛け」の意味に用いるようになったのである。

 宮中の年中行事となった七夕は、初期には七月七日に相撲をしたり七夕の詩歌を読む習わしがあった。古くは『万葉集』に山上憶良や柿本人麻呂などの手になる多数の七夕の歌が収録されているが、これ以後も男女の逢瀬をもの悲しく詠う題材として好まれた。やがて、七夕は乞巧奠、すなわち女たちが技芸上達を願うまつりが中心となっていった。

 鎌倉・室町時代になると、朝廷や貴族のみならず武家でも年中行事となった。南北朝時代には「七遊」といって、七百首の詩歌、七調子の管弦、七百の毬、七十献の酒など、七にちなんだ遊びをすることが流行したという。江戸時代には一般庶民の間でも七夕が行われ、笹竹に短冊や色紙をつけるまつりとなっていった。本来は女たちの手仕事の上達を祈願した短冊も、今ではさまざまな願いごとを書くものになっている。

 とはいえ、笹竹がスーパーでしか入手できず、終わったあとは私の子供のころは川に流したものだが、今ではそうもいかない。季節の遊びとして今様の「七遊」を試みるのも一興かもしれない。「七夕」を題に俳句を作り(漢詩とまではいわない)、七種の酒に七種の肴、セブンブリッジや七ならべのトランプゲームなどなど。いかがだろうか。(2007/7/24)

 


 「未」の字は「まだ」という意味で、多くは下に否定を伴う。漢文訓読では「いまだ……ず」と読む打ち消しの語である。「未来」は「いまだ来たらず」、まだ来ていないという意味である。似たことばの「将来」は「まさに来たらんとす」で、こちらのほうが「未来」より今に近い。「未」を文末に用いて疑問形を作ることもある。たとえば「寒梅著花未」(王維の詩より)は「寒梅 花を著けしや、いまだしや」と読み、花をつけただろうか、まだかなという意味になる。

 未央は「まだ半ばにもならない」ということから、「尽きない」というめでたい意味になり、漢代では宮殿の名につけられた。未央宮(びおうきゅう)である。唐の詩人白居易(楽天)の「長恨歌」に「太液の芙蓉、未央の柳」と歌われている。
 
 最近の日本で「未」の字を使う名前をよく見かけるようになった。羽仁未央(はに・みお)が最初ではないかと教えてくれた人がいる。彼女が父の羽仁進監督作品「初恋地獄篇」主演で登場してきたとき、確かにその名に新奇な印象を受けた記憶がある。

 未央の場合はめでたい意味のよい名前であるが、最近はどうもと首をかしげるような名に出会うことが多い。特に「未」の一字に未来という意味があるように勘違いしているとしか思えない場合がある。未晴と未和、ミハル、ミワ。未来が晴れている、未来が平和という願いを込めた名前であろうが、そうは読めない。「いまだ晴れず」と「いまだ和せず」で、ずっと雨、ずっと喧嘩ということになる。未歩と書いてマホとルビがふってある名前、命名者は「いまだ歩まず」、まだ歩かないという意味がわかっているのかいないのか。

 また、単にミの音を表す万葉仮名的な使用例があり、名前の最後に未を用いるのはこれにあたるだろう。たとえば祐未ならば「たすけられしや、いまだしや」、まだ助けられてないのか、になり、来未なら「来たりしや、いまだしや」、まだ来ていないのかという意味になるとは考えもしないで命名したのであろう。

 こんなことをいうといささか語弊があるかもしれないが、漢文読みの悪癖としてご容赦願いたい。ただ、これから親になる人たちには命名の際に一度は漢和辞典を引くことを忘れないでほしいと思うのである(そのために漢和辞典の使い方も知っておいてほしい)。

 ついでに、最近は女の子に真央という名が見られる。大地真央という芸名を最初に見たとき、大地の真ん中というのは宝塚にしては豪快な名だと思ったものだが、浅田真央チャン以来、かわいいイメージができたようだ。(2007/7/24)

 


 自尊心が強いことをいう「矜恃」という語を「矜持」と書いてあるのを見かけるようになったので、ちょっと調べてみた。『広辞苑』第五版には「矜恃」だけが載っていて、「矜持とも書く」とある。手元のハンディな漢和辞典『新字源』(角川書店)には「矜恃」も「矜持」も載っていて、「矜持」のほうは「自分をおさえつつしむ」とあり、出典として南朝宋の鮑照の詩句「放縦少矜持」があげてある。これは鮑照の詩集『鮑氏集』巻五所収の「答客」の一句である。詩の全文は長いので対になった部分のみをあげてみよう。自らの性格を自嘲的に述べている。
  愛賞好偏越  愛賞するに偏越を好み
  放縦少矜持  放縦にして矜持少なし

 ところが諸橋『大漢和辞典』(大修館書店)には「矜恃」はあるが「矜持」は載っていない。おおよその漢和辞典の熟語の出どころである『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』を調べてみると、ちゃんと両方載っている。「矜持」の用例は『晋書』王羲之伝と上にあげた鮑照の詩。

 王羲之伝は次の通り。
  郗鑒(ちかん)が娘婿を王導の身内から選ぼうとしたとき、王氏の若者を下見に行った者が「どの若者も立派だが[郗鑒が婿をさがしているという]噂が届いていて、みな自分をおさえて行儀よくしている(咸自矜持)。ただ一人腹ばいになってものを食べ、なにも聞いてないような者がいる」と報告した。鑒は「これこそよい婿だ」といい、会いに行くとそれが王羲之だった。そこで娘を彼にやった。

 これほどきちんとした用例のある「矜持」を『大漢和辞典』が載せていないのはミスといえよう。しかし、「矜持」の語が確かにあるとしても「矜恃」とは明確に意味が違うのである。『広辞苑』で「矜恃」と「矜持」を同一視しているのは明らかな間違いである。

 「矜恃」とあるべきところに「矜持」と書く理由として次の二点が考えられる。
 ①誇りを持つことをいうことばであるから「持」を使ってしまう。
 ②「恃」が常用漢字になく、似ている「持」を使ってしまう。
特に②が今後の漢字の誤用に大きく関わってくる要因となるであろう。やがて置き換え文字として、「矜恃」がすべて「矜持」となる可能性もある。(2007/7/24)

 


 森鷗外の「寒山拾得」では、俗臭紛々たる官僚閭丘胤(りょきゅういん)を閭氏と書いているが、閭丘が姓であるから閭丘氏でなければならない。複姓(二字の姓)の場合、略して最初の一字で呼ぶことはない。司馬氏を司氏、欧陽氏を欧氏とは呼ばないのである(欧虞[欧陽詢・虞世南]などと併称する場合を除く)。

 だから、閭氏と書いたのは鷗外の誤りであるとされてきた。ところが、鷗外研究家によると、鷗外は閭丘が姓だと明確に認識した上で、あえて閭を姓としていることが明らかにされたそうだ(岩波書店『鷗外歴史文学集』第四巻注釈)。読者にわかりやすく閭氏としたのではないかということだが、これが事実ならば、鷗外先生らしからぬ余計なサービスというほかはない。

 五経の一つ『春秋』には三つの解説書がある。『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『春秋左氏伝』のいわゆる春秋三伝である。『公羊伝』の作者は公羊高、『穀梁伝』の作者は穀梁赤、『左氏伝』(『春秋左伝』ともいう)の作者は左丘明といわれている。公羊(くよう)・穀梁(こくりょう)ともに複姓であるからそれが書名にも現れている。左丘(さきゅう)も複姓と見られてきたが、それならばなぜ『左丘伝』といわないのだろうか。山片蟠桃は『夢ノ代』経論篇にて「春秋ヲ伝スル人ハ左氏ナリ。ユヘニ題名明ラカニ春秋左氏伝ト云。左丘氏ニアラザルナリ」と述べている。春秋三伝の作者については何もわかっていない。

 古代においては意外に複姓が多い。『論語』に出てくるものを少々挙げてみよう。端木(たんぼく)・顓孫(せんそん)・公冶(こうや)・南宮(なんきゅう)・漆雕(しっちょう)・公西(こうせい)。いずれも孔子の門人の姓である。しかし『論語』以降、これらの姓はほとんど見かけなくなっている。

 どうも日本人は複姓になじみが薄いせいか、中国人は皆一字姓だと思っているところがある。井上靖の『敦煌』に尉遅光という人物が登場する。隋唐期は北朝系の異民族出身者が史書に多く登場するが、かれらは自国語の姓を漢字に置き換えたため、見慣れぬ複姓が増えた。この尉遅(うっち)もそうした姓の一つである。この作品が映画化されたとき、新聞広告では「尉」を姓とみなし「遅光」とのあいだに少し間を置いていた。原作を確認すると当然のことながら尉遅を姓としていたから、これは広報担当者による間違いであった。広報さんは原作を読むべし。(2007/7/31)


 


 米(べい)は本来は穀物の脱穀した実をいうことばである。この米(べい)に殻がついた状態を表す字が粟(ぞく)である。つまり脱穀する前の外皮のついたままの穀物を粟(ぞく)という。ふつう五穀というと、麻・黍(もちきび)・稷(きび)・麦・豆をいい(『周礼』疾医の注)、また麻のかわりに稲を数えることもある(『孟子』滕文公の注)。これら穀物の総称として粟(ぞく)の語は用いられた。

 ちなみに禾(か・のぎ)はイネ科の植物の穂を表す象形文字である。黍・稷・稲の字にはいずれも禾がついていることからわかるように、すべてイネ科である。

 昔の中国では官吏の俸給は穀物で支給されたから、粟は俸禄の意味にもなった。
 『史記』伯夷列伝には伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の兄弟の物語が書かれてある。殷王朝末期、兄弟の父の孤竹君は跡継ぎに弟の叔斉を指名した。父の死後、叔斉は兄の伯夷に譲ろうとする。伯夷は父の遺言に反することはできないといって家を出、叔斉もまた兄に同行する。ふたりは人格者として評判の高い西伯昌のもとへ向かうが、到着するとちょうど西伯昌(周の文王)が亡くなり、息子の武王が殷王を討ちに行くところであった。兄弟は「父が亡くなって葬ることもせず戦に行くとは孝といえるか、臣下でありながら君主を殺すのは仁といえるか」と武王を諫めた。側近に討たれようとした兄弟を太公が「これ義人なり」といって助けた。
 さて、武王は殷を滅ぼし周王朝を樹立した。以下『史記』の文章を引いてみよう。
而して伯夷叔斉これを恥じ、義として周粟(しゅうぞく)を食(は)まず、首陽山に隠れ、薇を采りてこれを食む。餓ゑて且(まさ)に死なんとするに及び歌を作る。其の辞に曰く、(この歌を「采薇の歌」というがここでは略す)。遂に首陽山に餓死す。
 ここに「義として周粟を食まず」というのは、子として臣として正しい道を行っていない周からの俸禄を受け取ることは、正義に照らしてできないとして断ったという意味である。周に仕えず、収入がないので、山に入り野草を採って暮らしていたが、やがて餓死してしまったという。江戸川柳に「痩せこけた死骸があるとワラビ採り」というのがあるが、これは伯夷と叔斉を詠んだものである。
 
 この「粟(ぞく)を食(は)む」は、どこに勤めているかを聞かれたとき、勤務先の名をあげて「○○○の粟を食んでおります」という使い方ができることばであるが、あるいはもう相手に通じないかもしれない。

 日本でも粟は穀物の意味で用いられたが、転じてイネ科のアワの意味でも使うようになった。「粟餅」や「濡れ手で粟」のアワである。日本では五穀とは稲・麦・黍・粟(あわ)・豆をいう。(2007/7/31)


 


 漢文の表現方法の一つとして互文というのがある。『大漢和辞典』で「互文」を引くと、
二つの文、又は二つの句に於て、一方に説くことと他方に説くこととが、互いに相通じ、相補って意を完くする書き方。例へば、中庸の「吾説夏禮、杞不足徴也、吾學殷禮、有宋存焉、」の文に就いて云へば、徴するに足らず、存するあり、の二句は、實は互に上下雙方に繫がつてゐるのであるが、文を省く爲に、各々一方丈に用ひて、其の意を他にも通ぜしめたのである。
と、たいへんわかりにくく解説してある。

 これは『中庸』が下敷きにしている『論語』八佾篇の次のことばから見ていかないと理解できないだろう。
  子曰、夏禮吾能言之、杞不足徴也、殷禮吾能言之、宋不足徴也、文獻不足故也、足則  吾能徴之矣
先生がいわれた、「夏の礼についてはわたしは語ることができるが、(その子孫の)杞の国では証拠が足りない。殷の礼についてはわたしは語ることができるが、(その子孫の)宋の国でも証拠が足りない。記録も賢人も十分でないからである。十分であればわたしもそれを証拠にできるのだが。
 『中庸』では同じく孔子のことばとして「わたしは夏の礼について説くが、杞の国では証拠が足りない。わたしは殷の礼を学んでいるが、宋の国が存在して(その礼を伝えて)いる」という。『論語』とは違うように見えるが、孔頴達の疏には、ここは杞も宋も「徴するに足らず」であり、また杞も宋も「存する有り」と読むのであるとし、続けて「互文見義」(文を互いにして義をあらわす)とある。

 『新字源』(角川書店)では
文章のなかで、一方で述べたことは他方で省き、双方であい補うようにした表現法。
たとえば「説文」に「饔(とう)は熟食(たいた食べ物)なり、飧(そん)は晡(ばんめし)なり」とあり、この文が饔も飧もたいた食べ物であり、饔は朝食であることを示すなど。
とあって『説文解字』の段玉裁の注「於饔不言朝、於飧不言熟、互文錯見也」を引用している。これは『説文解字』第五篇下「食」の部「飧」の注である。なお、字義の説明中、「晡(ほ、ひぐれ)」とあるのは「餔(ほ、ゆうめし)」のまちがいであろう。

 『大漢和』のあげる『中庸』の例をAxByとすれば「AもBもxでありyである」となる。しかし、『新字源』のあげる『説文解字』の例を同じAxByで表すと「AもBもxであり、BがyならAはzである」となる。前者のほうが一般的な互文といえるであろうが、後者のようなものもあるようだ。こうなると注記がないと正確に読むのは困難だ。

 『大修館漢文学習ハンドブック』には例として次の一文があげられている。
不以物喜、不以己悲(物を以て喜ばず、己を以て悲しまず)
これは范仲淹の「岳陽楼記」のことばで、物と己を以て喜悲せず(外物や自身のことでもって喜んだり悲しんだりはしない)と同じ意味になると説明されてある。否定文ではあるが前者タイプである。

 互文の例として日常的によく見られるのは「天長地久」「東奔西走」「日進月歩」といった四字熟語である。これはわかりやすい。いずれも「天地長久す」「東西に奔走す」「日月に進歩す」と同じ意味になる。「日進月歩」の場合、日も月も進み歩んでいるわけで、日だけが進み、月だけが歩んでいるわけではない。

 聖徳太子の作と伝えられる「十七条憲法」第一条に「上和下睦」ということばが出てくる。これは「上下和睦」と同義の互文である。すなわち、上も下もなかよくむつみ合うことをいう。このように読むべきことは第十五章に「初章云ふ、上下和諧す、と」とあることからも明白である。「初章」とはもちろん第一章を指し、「和諧」はなかよくすることで「和睦」と同じ意味である。つまり「十七条憲法」の作者は、第一章の「上和下睦」を「上下和諧」と読み替えているのであるから、「上和下睦」は「上下和睦」の意味なのである。

 ところが、この第一章は有名な「和を以て貴きと為す」で始まる章であるだけに、ことさら聖徳太子の「和」の精神とか「和」の思想を強調する向きがあって、「上和下睦」も誤って現代語訳されていることが多い。中西進『国家を築いたしなやかな日本知』(ウェッジ)では、ここを「上に立つ者が和の心を持ち、下の者が仲よく議論する」と訳している。中西先生が「十七条憲法」を最後までお読みになったかどうか、いささか疑念を抱かざるを得ない。(2007/8/8)


 


 最近のテレビ番組では、出演者の話していることばを字幕で流すことが多くなった。聴覚障害のある人に向けて増えているというのならいい傾向なのだが、必ずしもそうではなさそうだ。バラエティー番組ではおもしろさをそれによって倍増できると思いこんでいるかのように強調された大きな文字が流れることもある。おかげで、つい漢字のまちがいを見つけてしまう。

 よく見かけるのが「たとえる」のまちがいである。「彼女を動物にたとえると」のように、ほかの事物になぞらえる場合は「譬える」、あるいは「喩える」でなくてはならない。それを「例えると」と書くとまちがいである。

 「例」の字は、例をあげて述べる場合に「例えば」とか「例えをあげる」と使う。しかし実際は、例として事物になぞらえる、ということもあって、なかなか使い分けがむずかしい。近頃はワイドショーからニュース番組にまで、なぞらえるの意味での「例える」の使用が増えてきた。

 「例える」を誤って使うのはテレビ局の人間だけではない。実は、本学文学部の広報冊子2007年版にも残念ながら見つけてしまった。こともあろうに巻頭の学部長談話の中に「文学部は例えるなら骨董屋街のようなもの」と書かれてある。もちろん、ここは「譬えるなら」あるいは「喩えるなら」でなくてはならない。学部長に取材して文章にまとめたのは制作会社の社員である。多忙のため原稿をチェックできなかった学部長はその社員の実力を信じていたようだが裏切られてしまった。

 困ったことに「譬」も「喩」も常用漢字にない。だから、ひらがなで書いていいのである。しかし、漢字を使わなくてはならないという世間の意識が、常用漢字にある「例」を用いる傾向を生んだのであろう。この流れは止められないと思う。「例え」が「譬え」「喩え」の置き換え文字として辞書に現れる日は近いかもしれない。私はむしろ、「例」も含めてすべて「たとえば」はひらがなで書くべきだと思っている。

 ついでながら、もう一つの「たとえ」がある。「たとえ火の中水の中」という「たとえ」である。この「たとえ」は「たとい」のなまったもの。漢字では「縦え」「仮使」「仮令」などと書く。字面でわかるように「かりに、もしも」の意味である。(2007/8/8)


 


 『論語』陽貨篇に次の文章がある。
子曰、悪紫之奪朱也、悪鄭声之乱雅楽也、悪利口之覆邦家者、
子曰く、紫の朱を奪ふを悪(にく)む。鄭声の雅楽を乱すを悪む。利口の邦家を覆(くつがへ)すを悪む。
先生がいわれた、「紫が朱色を圧倒するのが憎い。鄭の国の音楽が雅楽を乱すのが憎い。口達者なものが国家をくつがえすのが憎い。」

 青・赤(朱)・黄・白・黒(玄)の五色が五行の木・火・土・金・水の色として広まるのは戦国後期と思われる。しかし、五行に配当される五色にこれらの色が選ばれるのは意味のあることである。つまり、青・赤・黄は三原色であり、それに無彩色の白と黒が加わっている。古代人にもこれらが色の基本であることがわかっていたからであろう。ということは五行思想が成立する以前から、基本色としてのこの五色は建築物や車や衣服などによく用いられていたといってよいだろう。

 紫は青と赤を混合することで生まれる。孔子は基本カラーすなわち正色である朱色より、間色の紫が目立つのを嫌った。また、孔子は鄭の国の音楽を嫌った。鄭の国は黄河が下流域に入り、いくつもの支流の分岐点近くにあって、古くから交通量が多かった。街道沿いに繁華な街が生まれるように、鄭の都も俗っぽい賑わいを見せていた。そこでは音楽も通俗的なものが流行していたのである。正統的なものを好む孔子にとって、紫という色は、鄭の音楽や口達者な人と同じように、正統を乱す俗っぽいものであった。

(図は明の成祖が造営した北京紫禁城)
 紫色は漢代でも間色だからという理由で評価が低かった。「紫色蛙声(ししょくあせい)」ということばが『漢書』王莽伝に出てくる。紫色は間色、蛙声は邪音で、ともに正しくない喩えである。

 ところが六朝ごろから、紫が特別な意味合いをもつようになる(それは儒教の衰退にともなう孔子的価値観からの脱却ともみえる)。北斗の北に紫微垣(しびえん)という星座があり、これが天帝の居場所とされていた。そこから地上の天子の居所をこれになぞらえて紫宮というようになり(『晋書』など)、また仙人のいるところも紫宮や紫室などというようになった。つまり、紫に高貴な、あるいは神秘的なイメージができてきたのである。日本にもこのイメージが輸入され、紫は高貴な色とされるようになったとみてよいだろう。

 天子の御殿をいう「紫宸殿」は『唐書』百官志に初出する。紫は紫微星、宸は帝居をいう。この「紫宸殿」は日本にもさっそく取り入れられ、平安京内裏の正殿の名となった。

 明の太祖洪武帝は1373年、南京に宮城を新しく造営して「紫禁城」と呼んだ。成祖永楽帝は1417年、北京に遷都し宮城を造った。1420年に完成した宮城をまた紫禁城と呼び、明を滅ぼした清もこれを継承した。ちなみに「禁」はもともと神域をいう。そこから天子の居所や禁止の意味ができた。また、現在いうところの「故宮」とはもとの宮殿の意味で、紫禁城を指す。(2007/8/8)


 


 衣服を着替えることを更衣という。日中と夜間、寒暖や立場に応じた着替えすべてをいう。賓客が休息して衣服を替える部屋のことを更衣といった例が『漢書』東方朔伝に見える。また、厠に行くときに衣服を改めたことから、厠を更衣之室といった例もある(『論衡』四諱)。

 日本では、「こうい」と読めば更衣室などの語もあるように単なる着替えをいうが、「ころもがえ」と読めば季節によって衣服を替えることとして浸透している。宮中のしきたりにのっとり、4月1日から袷(あわせ)、6月1日から単衣(ひとえ)、10月1日から袷というのが基本的な更衣である。本来は旧暦でのしきたりであったが、明治政府は簡略化して新暦の6月1日と10月1日を更衣の日とした。この更衣は制服を着用する職種や学校ではまだ生きている。

 「四月一日」あるいは「四月朔日」と書いて「わたぬき」と読む姓がある。昔の風習では、冬は防寒用に表地と裏地の間に綿を入れて仕立てた着物を着ていた。その綿を外して仕立て替えて、春用の袷にしたものを4月1日から着用する。それに由来する姓である。

 小説家の山崎豊子さんは大阪船場の老舗の生まれで、船場のしきたりに詳しいことはこの地を舞台にした小説からよくうかがえる。山崎さんの「更衣」と題したエッセイの一部を紹介しよう(『主婦の友』1957年7月号掲載。『きものの花咲くころ』2006主婦の友社刊、再録)。

大阪の商家では、昔から季節の変わり目ごとに、きちんと更衣(ころもがえ)が実行されていた。たとえば、四月一日からは男女ともに袷着(あわせぎ)になり、袷長襦袢、袷羽織を着用する。六月一日からは単衣(ひとえ)、単衣襦袢と単衣羽織を用い、菖蒲節句から帷子(かたびら)、麻長襦袢、絽(ろ)羽織になり、浴衣(ゆかた)は六月十五日から、七月一日から薄物、絽長襦袢、紗(しゃ)の羽織、九月一日から単衣、十月から袷、十一月から綿入れといった具合に、更衣のしきたりが細分されている。もしこの更衣のしきたりを間違ったら、もの知らずと笑われるのが常であったから、たとえ気候の異変で温寒にくるいがあっても、きちんと守られたものである。

 これほど細かく更衣のしきたりが守られていたことに驚く。これを守れずに離縁された女性もいたと山崎さんは書いている。菖蒲節句は5月5日だが、おそらく節句は旧暦で行っていたのであろう。微妙な季節の移ろいを感じる日本人の美意識を背景に発達した豊かな着物文化と、それを支える富裕層の財力があってこそのものである。

 しかし、本来季節に応じた更衣であるはずなのに、しきたりが重視されたため、実際の気温とは食いちがいができても我慢しなければならないというのはおかしなことである。船場の商家のこの風習は、少なくとも山崎豊子さんの娘時代までは生き残っていた。おそらく新暦を用いていたのであろうが、そうとしてもかなり気温が高くなっても綿入れを着たり、梅雨入り前の蒸し暑い中に袷を着なければならないこともあっただろう。

 「更衣(こうい)」はまた平安時代の女官の官位名でもある。天皇の衣を替えることをつかさどったところからつけられた。『源氏物語』桐壺の冒頭、「いづれの御時か、女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに」の「更衣」である。(2007/8/20)


 


 閉塞の塞は「そく」と読んで、ふさぐの意である。一方、要塞や辺塞の塞は「さい」と読んで、とりでの意となる。中国大陸の北部、漢民族居住地の北方には騎馬民族が住んでいた。前4世紀ころから2世紀ごろまでは匈奴(きょうど)と呼ばれる民族が勢力を振るっていたし、唐のころは突厥(とっけつ)などがいた。それらの騎馬民族は隙を見ては南下し、漢民族の国を脅かした。万里の長城はその侵入を防ぐために築かれ、歴代の皇帝は辺境のとりでに軍隊を派遣して防衛につとめた。

 「塞翁馬(さいおうがうま)」ということばがある。「人間万事塞翁馬」ともいう。とりで近くの村に住む老人の馬がとりでの外に逃げた。困ったと思っていると北方の良馬を連れて戻ってきた。幸運だと喜んでいたら、息子がその馬から落ちて足を悪くした。ところがそのおかげで兵役を免れた。まこと禍福はあざなえる縄の如し。災い転じて福となる、という話で、『淮南子(えなんじ)』人間訓(じんかんくん)にもとづく。

 「ほくそえむ」の語源は「北叟笑む(ほくそうえむ)」であるとする説もあるらしい。北叟とは北のおじいさん、すなわち塞翁のことで、息子が戦で命を落とさずにすんだ、しめしめと笑うことから来たというのである。

 塞翁の逃げた馬が連れてきた馬は、たくましい匈奴の馬であった。北方の寒い地方で育つ馬は、秋になると冬に備えて脂肪を蓄えてよく肥え、ますますたくましくなる。その馬に乗った異民族が、秋の収穫をねらって南下してくるのは、辺境に住む人々にとって大きな脅威であった。初唐の杜審言(としんげん)が「秋高く塞馬肥ゆ」と詠んだのは、まさにそういう外敵(このころは突厥など)の脅威をいうのである。この詩句は日本では「天高く馬肥ゆる秋」として知られ、爽快な秋空の下、食欲も増す秋をいうことばであると理解されているようだが、本意はまったく異なる。

 盛唐のころ、辺塞詩(へんさいし)が流行した。周辺異民族との戦いや辺境の情景、兵士の望郷の思いなどをテーマにしたもので、実際に現地に行かないで都にいるまま想像して書いたものがほとんどである。
「出塞」   王昌齢(おうしょうれい)
秦時明月漢時関   秦時の明月 漢時の関
万里長征人未還   万里長征 人未だ還らず
但使龍城飛将在   但だ龍城に飛将をして在らしめば
不教胡馬度陰山   胡馬をして陰山を度(わた)らしめざらん
秦漢の昔より関を出て(*明月は関の名)
万里のかなたに出征した人はいまだに帰らない。
龍城に漢の名将李広がいてくれたなら、
北方民族の馬が陰山を越えて攻めてくることはなかっただろう。

 特に西方の砂漠地方の情景や特産品には詩人の興味をかきたてる要素があった。次にあげる詩も「葡萄美酒」「夜光杯」「琵琶」などエキゾチックな小道具が詩興を生み出している。

「涼州詞」   王翰(おうかん)
葡萄美酒夜光杯   葡萄の美酒 夜光の杯
欲飲琵琶馬上催   飲まんと欲すれば 琵琶 馬上で催す
酔臥沙場君莫笑   酔ふて沙場に伏す 君笑ふこと莫(なか)
古来征戦幾人回   古来征戦 幾人か回(かへ)
葡萄の美酒 夜光の杯
飲もうとすれば 誰かが琵琶を馬上で弾いている
酔払って砂上に倒れ伏しても 君よ笑わないでくれ
昔より戦場に出向いて いったい幾人が帰ってきたことか

 涼州とは現在の甘粛省にあって北は突厥、西は党項族の地に接した防衛の最前線であった。死と隣り合わせであるにもかかわらず、ここにはロマンティックなムードが漂う。最盛期の繁栄を楽しむ唐の都びとは、こうした辺塞詩を好んだのであった。(2007/8/20)


 


 芸の字は現在の日本では「げい」と読むが、これは教育漢字が藝の字の省略形として芸を用いるからである。本来、芸は藝とは別の字であり、「うん」と読む。この芸のつくことばをいくつかあげてみよう。

●「芸閣(うんかく)」書物の所蔵庫。書斎。
 「芸」は香草の名であって、紙虫(しみ)を防ぐため書物にはさむことから、書物を「芸帙(うんちつ)」や「芸編(うんぺん)」といい、その収蔵場所を「芸閣」や「芸館」という。宮中の書物をつかさどる秘書監を「芸臺」「芸署」ということもある。
 奈良時代末期、石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)が建てた我が国最古の図書館の名は「芸亭(うんてい)」であったが、これも芸が紙虫防止の香草で、そこから書物の意に用いられるようになったことによるのである。

●「芸生(うんせい)」陰暦11月の異名。
 『礼記』月令篇の「仲冬之月」の項に、「芸始生(芸始めて生ず)」とあるのに基づく。注に「芸は香草」とある。この芸という香草は仲冬、すなわち11月に生え出すのである。

●「芸芸(うんうん)」さかんなさま。多いさま。
 『老子』第16章に「夫物芸芸、各復帰其根(かの物の芸芸たる、各おの其の根に復帰す)」とある。これは、あらゆる生物はいかに茂り栄えても、それらがはえた根もとにもどってしまうのだという意味。ここでは「芸芸」は草木の葉の盛んに茂るイメージである。

●「芸穫(うんかく)」農耕をいう。
 芸は耘に通じて「くさぎる」と訓じる。『論語』微子篇に「植其杖而芸(其の杖を植てて芸る)」とある。「芸穫」は草を刈ったり収穫したり、で農耕の作業をいうのである。

 芸術系大学の中で正式名称に藝の字を用いるのは東京藝術大学のみのようだ。中国の簡体字では藝は草冠に乙と書く。藝と乙のどちらもyiと発音するからである。台湾では藝を用いるから、中国語圏では芸の字は上記の意味の語と認識される。となると、芸術は香草術、あるいは草刈り術となるはずである。もっとも、こういう誤解は耳にしたことがない。芸(うん)の字は古典の中に埋もれてしまったといえよう。(2007/9/12)


 


 「あまり」の意の余の本字は餘である。俗に餘の略字として用いられていた余を教育漢字に採用したのである。しかし、自称として用いる余はもともとから余なのである。つまり、「われ」という意味の余と「あまり」という意味の餘は別の字なのである。これが今では一しょになってしまった。

 ずいぶん前になるが、ある文章の中で漢文を引用した。漢文の部分を旧字体にするよう指定したら、印刷業者が自称の余を餘にしてきた。気を利かせたつもりだったのだろう。もちろん、これは餘計なことだった。

 「われ」の意では予も同じように用いる。また、我も吾も「われ」と読んで一般的な自称として使う。一方、古代中国では身分や立場によって特殊な自称が用いられた。朕は天子が用い、寡人は諸侯が用いた。寡人とは寡徳之人の略で、有徳であるべきなのに徳が寡(すく)ないという謙称である。君主の前での臣下の自称は臣である。

 現代の日本で特に子供から青年にかけて一般的に用いられる僕(ぼく)は、古く『漢書』司馬遷伝に用例が見られ、自らを下僕と謙遜するところから自称となった語である。

 現代では「おれ」を用いる男性も多い。この「おれ」には俺(えん)の字が当てられているが、北宋時代に作られた音韻書『集韻』に「俺我也、北人称我曰俺(俺は我なり、北人 我を称して俺といふ)」とあり、北方民族の自称の音を俺の字で表したと考えられる。南宋時代、中国大陸の北半分を北方民族が占有するにいたって、自称としての俺も俗語として広まっていったのであろう。日本語の「おれ」は「おのれ」から来ている。

 女性の場合は、男性の僕に対応する女性の召使いを意味する妾(しょう)が自称となった。日本語の「わらは」にこの字を当てる。「わらは」は「童(わらは)」と本来同じ語で、こどもを召使いとして用いたところから、召使いの意となり、武家の女性の謙称となった。

  落語「たらちね」(上方落語では「延陽伯」)には京都のお屋敷づとめをしていた女性が登場し、「みづからの姓名は」と名乗り始める。「みづから」という自称は『源氏物語』でも宮女が用いていることから、京都の宮中や公家屋敷で長く用いられていたことがわかる。(2007/9/12)


 


 冬至のあと105日目に当たる日の前後3日間は火を使うことを禁じて冷たいものを食べる風習があった。これを寒食という。春秋時代の介子推(かいしすい)の故事によるものであるという。

 介子推(介之推とも書く)は晋の文公(重耳)に仕え、文公が亡命中も常に側にいた。文公がめでたく帰国して即位したとき、亡命中に功労のあった者たちに褒賞を与えようとしたが、介子推は申し出なかった。彼は、晋が滅ぶことなく文公が即位したのは天の力あってのものなのに、だれかれとなくみずから手柄を申し出るのはあさましいこと、そういう世の中には住んではおれない、という。せめて胸のうちを文公に伝えてはどうかという母のことばにも、ことばは身の飾りにすぎない、隠れる身には飾りはいらないと答えた。そして母とともにどこかに隠れ住み、やがて死んでしまった。
▲蘇軾 「寒食帖」
▲黄庭堅 「寒食帖跋」 故宮博物院⑩宋・元の書(NHK出版)より

 『春秋左伝』僖公二十四年に書かれているのはこれだけであるが、伝説が生まれた。南朝梁のときに書かれた『荊楚歳時記』は『琴操』(漢あるいは晋の書という)を引いて、介子推(この書では介子綏(すい))は亡命中の文公に自分の股の肉を食べさせることもあった程よく仕えたが、帰国後は何の賞も受けなかった。子推は龍蛇の歌というのを作って身を隠した。文公は彼を求めたが、出てこない。そこで子推の隠れている山の木を焼いて出て来るのを待ったが、子推は木を抱いて死んだ。文公は哀れんで、五月五日に火を炊くのを禁じた、という。『荊楚歳時記』は続けて、五月五日というのは今とは異なっているが、世間の風習に従って変わったのであるとする。

 北宋の蘇軾(東坡)に「寒食帖」という書作品がある。「かんじきじょう」とも呼ぶ。縦34.1㎝横189.0㎝の巻子で、現在は台北の故宮博物院に収蔵されている。この書は、蘇軾が黄州(湖北省黄岡県)に左遷されていた47歳のときの詩「黄州寒食」二首を自ら書いたもの。詩では、黄州で三たび「寒食」を過ごして春を惜しんだことが詠われていて、足かけ三年も左遷されたままである自身の不遇を嘆いている。宋代では実際に寒食をしていたとは思えないが、年中行事として、また季節をあらわすことばとして、よく知れ渡っていたことがわかる。

 この「寒食帖」には黄庭堅(山谷)の跋が付いていることも有名である。蘇軾は「寒食帖」を書いたとき、あえて巻紙の残りの一部を空白にし「五百年後、人が跋を加えるのを待つ」と言ったというが、それからわずか20年足らずののちに黄庭堅が跋を入れたのである。跋は蘇軾の本文よりも大きく、黄庭堅の自信の大きさと蘇軾との親交の深さを示している。蘇軾の本文も黄庭堅の跋も共に書道史上の傑作である。(2007/9/12)


 


 丈夫とは身長が一丈の男子というところから、成人男子をいう。周代の一丈は八尺であり、一尺は22.5㎝であったといわれるから180㎝となる。かなりの長身であるが、周の政権下にあった黄河流域地方は今も昔も南部に比べて長身の人が多いようである。『孟子』滕文公上には昔の勇者の語ったことばとして次のことばが出てくる。
彼丈夫也、我丈夫也。吾何畏彼哉。
彼も丈夫なり、我も丈夫なり。吾何ぞ彼を畏れんや。
相手も一人の男なら、自分も一人の男である、どんな相手も畏れることはない、という意味である。

 丈夫はまた、立派な一人前の男という意味にも使われる。日本語では丈夫に「ますらを」という訓を与えている。さらに「立派な」を強調した語として大丈夫(だいじょうふ)がある。
大丈夫当雄飛、安能雌伏。
大丈夫まさに雄飛すべし、いづくんぞよく雌伏せん。(『後漢書』趙典伝)
というように用いる。立派な一人前の男なら立ち上がって活躍すべきであって、我慢して他人の支配に従うことはできない、という意味である。

 現代の日本では丈夫は「じょうぶ」と読み、体が健康であること、造りがしっかりしていることをいう。「丈夫で長持ち」や「亭主、丈夫で留守がいい」というフレーズが流行ったことがあった。

 大丈夫は「だいじょうぶ」と読み、しっかりしていること、まちがいないことをいう。「地震があったけれど大丈夫?」「うちは大丈夫」、あるいは「会社は大丈夫?」「いや、少々危ない」などとよく使う。
 「だいじょうぶマイ・フレンド」という映画があった(1983年封切)。私は観ていないが、タイトルが印象的で憶えていた。ピーター・フォンダ主演というのも記憶していたので、アメリカ映画かと思い、原題は何だろうと調べてみたら、村上龍原作・脚本・監督作品であった。日本に落ちてきた異星人(ピーター・フォンダ)を三人の若者たちが愛と友情と音楽で救う姿を描く、というものらしい。デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」といい最近の作品といい、村上さんは印象的ネーミングの達人である。この「だいじょうぶ」を漢字で「大丈夫」と書いたらずいぶん印象は変わる。私のような漢文人間は「立派な男の我が友」という意味にとったことだろう。(2007/9/12)


 


 愛には、いつくしむ、したしむ、こいしたう、めでるといった意味のほかに、おしむという意味がある。愛惜は愛も惜も同じくおしむ意味である。慈しんだり愛でたりするものは惜しむものでもあるから、その違いが明確でないこともある。割愛(かつあい)を『大漢和辞典』で調べると、「めづる心をさく。忍んで思ひきる。惜しみながら分ける」とある。用例をみても、愛でるものを割くか、惜しいものを割くか、結果としてはほとんど違いがない。

 愛日ということばがある。これには一つは「愛すべき日光」すなわち冬の太陽という意味がある。『春秋左伝』文公7年に「趙衰、冬日之日也、趙盾、夏日之日也」とあり、その杜預の注に「冬日可愛、夏日可畏(冬日は愛すべし、夏日は畏るべし)」とある。冬の太陽は暖かくありがたいもの、愛すべきものなのである。

 愛日のもう一つの意味は「日を惜しむ」である。日時を惜しんで励むべきことといえば、学問か政治、あるいは孝養である。日夜勉学に努めることを自らに課した学者たちが好んで「愛日」を号や室名に用いた。江戸後期の儒者、佐藤一齋の別号も愛日楼という。

 東京都新宿区に愛日小学校があり、同校のホームページによると校名の由来は『大戴礼記(だたいらいき)』の「君子愛日以学、及時以行」(君子は日を愛しみて以て学び、時に及びて以て行なう」によるとある。時を惜しんで勉学につとむべしという、いかにも明治13年創立の学校らしい命名である(同校の発祥は明治初めに遡るが2校が統合してこの名になったのが13年という)。

 かつて大阪市中央区今橋にも同名の小学校があった。ここも明治5年創立の伝統ある小学校であったが、生徒数の減少によって1990年に閉校になった。この愛日小学校は最初、升屋の跡地に建てられた。升屋というのは江戸後期の町人学者山片蟠桃(本姓長谷川氏)が奉公していた店である。その縁で升屋当主山片家の蔵書が愛日小学校に寄贈され、愛日文庫と名づけられた。その蔵書には漢籍のみならず世界地図や洋書も含まれ、江戸時代の大坂町人の好学ぶりをよく示している。

 大阪市立愛日小学校の校名の由来は『揚子法言』孝至篇の「孝子愛日(孝子は日を愛しむ)」によるという。日夜孝養に励むべしという校名であったのである。同じ名でありながら、意味するところが異なるというのも興味深い。(2007/9/19)


 


 オオカミという動物はよほど悪い印象を持たれていたようで、「狼心(ろうしん)」はオオカミのように欲深い心、「狼戻(ろうれい)」はオオカミのように心がひねくれて道理にはずれることをいう。また虎と並べた「虎狼」は残忍で欲深いもののたとえ。秦の始皇帝は虎狼の心を持つとして恐れられた(『史記』項羽本紀)。豺(やまいぬ)と並べた「豺狼(さいろう)」も同様の意味に用いられる。

 オオカミは欲深く残忍であるという以外に荒っぽくて雑な性格でもあるらしい。その寝床はとり散らかっていて乱雑だというところから「狼藉(ろうぜき)」ということばができた。「藉」は敷物、しとねの意。散らかっているという意味の「狼藉」が、日本では乱暴で無法なふるまいを意味するようになったのは、やはりオオカミの持つ悪者イメージが加わったからといってよいであろう。

 オオカミは警戒心も強かったようで、よく後ろを振り返った。そこから「狼顧(ろうこ)」は追跡者を恐れてよく振り返ることを意味する。また、オオカミのように体が前向きのままで後ろを振り返ることのできる首をもいう。魏・蜀・呉の三国を次々に制して晋を建国した司馬懿(しば・い)(宣帝)にはこの「狼顧の相」があったという(『晋書』宣帝紀)。

 「狼煙(ろうえん)」「狼火(ろうか)」はのろしのこと。オオカミの糞を薪に混ぜて燃やすと、風が吹いても煙がまっすぐにのぼるという。心がひねくれてねじまがっているとされるオオカミであるが、糞の煙はまっすぐだというのがおもしろい。

 「狼狽(ろうばい)」の「狽」はオオカミの一種で、前足が極端に短いため、いつもオオカミの後ろに乗って歩く。オオカミから離れると倒れて動けず、あわてるという。そこからこの語ができたという説が、『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』(唐・段成式撰)に紹介されている。狽という動物が実在したかどうかはしらないが、オオカミのおしりに前足を乗せて歩く狽を見かけたら、それこそ狼狽してしまいそうだ。

 現代の日本では「男はみんなオオカミよ」とか「オオカミなんか怖くない」といったフレーズが示すように、女の子の敵としてのオオカミが定着しているようだ。これは「赤ずきんちゃん」のオオカミから来ているのであろう。あるいは満月になると変身するという狼男伝説からだろうか。この狼男もマイケル・J・フォックスが演ずると学園の人気者になる(「ティーン・ウルフ」)。(2007/10/02) 


 


 干支とは十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の組み合わせをいい、60通りの順序を示すものである。古代中国殷王朝ではすでに暦の日付けを甲子、乙丑というように表していた。60日で一周するので、太陰暦ではちょうど2ヶ月分になる。

 戦国時代には五行(木火土金水)に十干を当てはめるようになった。つまり、木には甲と乙、火には丙と丁が当たる。これら二つの前が陽、後が陰になる。日本でもこれを受けて、木の陽である甲を「きのえ」、木の陰である乙を「きのと」、以下、丙を「ひのえ」、丁を「ひのと」、戊を「つちのえ」、己を「つちのと」、庚を「かのえ」、辛を「かのと」、壬を「みずのえ」、癸を「みずのと」と読む。干支を「えと」と読むのもここに由来する。

 どの辞書にもどの事典にも「え」は兄、「と」は弟と書かれている。ある学識高い先生は「と」は「妹」でなければならないといわれた。確かに兄(大・男)が陽を象徴するのであるから陰は妹(小・女)であるのが正しいと思う。

 十二支をネズミ・ウシ・トラ・ウサギと十二の動物に当てはめるのは遅くとも後漢ごろには一般的になっていたようだ。それに伴う迷信を後漢の王充は『論衡』で批判している。

 干支は漢代から年代の表記法にもなり、またその後、十二支を方位や時刻を表すのにも用いるようになった。現代では生まれ年を十二支で表すのを「干支(えと)」というが、上にも述べたように干支は十干十二支を組み合わせたものであり、「えと」は十干を「え」「と」で表すところから来ているのだから、意味がずいぶんずれてきている。せめて自分の生まれ年の干支は、たとえば「丁亥(てい・がい/ひのと・い)」と正しく憶えておきたいものである。

 さて、干支は十と十二の組み合わせだから、数学上は120通りの組み合わせができる。しかし、甲子・乙丑と組み合わせていくと10番目は癸酉となり、2巡目は甲戌から、3巡目は甲申から始まるというように、十二支は二つずつ前にずれていくので、一つずれた甲亥や甲酉は存在しない。それで60通りになるのである。

 懐徳堂文庫(大阪大学所蔵)には岩崎象外絵・中井履軒賛「解師伐袁図」がある。タイトルの「解」は蟹、「師」は軍隊、「袁」は猿。つまりサルカニ合戦の絵という意味である。これに『春秋左伝』の文体を模した物語が書かれているのである。冒頭は次の通り。

経、四十有七年春、王六月丁戌、大雨雪。夏七月、解師伐袁。甲亥、入袁、獲袁侯。戊丑、用袁侯于解山。
(経、四十有七年春、王の六月丁戌、大いに雪ふる。夏七月、解師 袁を伐つ。甲亥、袁に入り、袁侯を獲たり。戊丑、袁侯を解山に用ふ。)

 お気づきだろうか。春六月、夏七月もありえないし(旧暦では六月は夏、七月は秋)、夏に雪が降るのもおかしい。なにより、丁戌、甲亥、戊丑という干支は実在しないものなのである。戯文らしく、存在しない日付けを用いた履軒の遊び心がうかがえる。(2007/10/02)


 


 周王室の姓は姫(き)であった。周では姫氏一族や功臣に土地を与えて諸侯とした。これを封建諸侯といい、この制度を封建制度という。姫氏一族は王室と同姓の諸侯であり、功臣出身の諸侯は異姓の諸侯である。周王室は異姓諸侯には姫氏の女性を娶(めと)らせ、姻戚関係を結んだ。

 中国では結婚した女性は実家の姓で呼ばれる。これは姓は血のつながりを示すものであるとの考えからくる習慣である。家族の中で血のつながらない妻だけが別の姓を持つのであって、現代の夫婦別姓の事情とは異なる。もっとも日本もヨーロッパの教会制度に基づくファミリーの考え方を導入した明治の民法制定までは似たようなものであったらしい。国民の大多数は姓を持たなかったから無関係だとして、姓をもつ武家階級では妻はなにがしの妻と呼ばれることはあっても、なにがしが彼女の姓ではなかったのである。

 さて、異姓諸侯に嫁した周王室の娘たちは実家の姓、すなわち姫氏と呼ばれた。また、当時の諸侯間の婚姻の習慣として、姉妹そろって一人の男性に嫁すということも多かった。国家間のつながりをより強くしようということであろう。姫氏から嫁いできた姉を大姫、妹を小姫と呼ぶこともあった。そういうことがもとになって、次第に高貴な女性を姫と呼ぶようになっていったのである。さらに、○○姫というように女性の美称にも使われ、後宮の女性や妻以外の愛人の意味も加わった(寵姫・姫妾)。

 古代日本では男性の「ひこ(日子の意)」に対し、女性の美称として「ひめ(日女の意)」が用いられ、名前の後ろに付けて呼ぶことが多かった。漢字が移入された最初は比売・毘売と書かれている(木花之佐久夜毘売など)。いつから「ひめ」に姫の字を当てるようになったかは寡聞にして知らない。中古以降、貴人の娘を「ひめ」というようになり、その場合はすでに姫の字を用いている。

 女性であるもの、小さいもの、優しくてかわいい感じのものの名に姫を付けて呼ぶことも多い。歌姫、姫百合、姫鏡台などである。(2007/10/02)


 


 私は今、中央大学学友会茶道会の部長(顧問)をしている。決して茶道にくわしいということではない。在外研究期間中の同僚の代理をつとめているにすぎない。この茶道会では毎年11月に白門茶会を開催する。そのパンフレット用に書いた一文を以下に載せ、百題のうちの一題にしてお茶を濁すこととする。

 吉川英治の小説『三国志』の冒頭で、劉備玄徳は母へのみやげにと母の好物の茶を買います。当時、茶葉は薬としてたいへん高価でしたが、劉備はあり金はたいて買うのです。このシーンは明の小説『三国志演義』にはありませんから、吉川英治の創作ということになりますが、これがあることで劉備の母思いの優しい人柄が印象づけられます。他の薬草ではなく茶であるところが心憎いといえましょう。劉備の母が穏やかな顔で茶を飲む情景までが浮かんできます。苦い薬草ならそうはいきません。

(図版:唐代茶器 西安近郊法門寺で発見された)
弘法大師空海の詩文集『性霊集』には「窟観(くっかん)の余暇、時に印度の文を学び、茶湯(さとう)坐し来たって、ときに振旦(しんたん)の書を閲す」ということばがあります(巻四「梵字並びに雑文を献ずる表」)。「窟観」は閉じこもって真理を得る修行をすること、「印度の文」とは古代インドの梵字(サンスクリット文字)のこと、「振旦」は震旦とも書き中国のこと。つまり、仏道修行に励む合間に、時にはインドの文字を学んだり、茶湯を喫するときには、折にふれ中国の書を鑑賞します、という意味です。この文章は、空海が唐から帰国後に持ち帰ったサンスクリットの書物などを嵯峨天皇に献上する際に添え状として書かれたものです。私はこれこそ「茶湯」ということばが日本人の書いた文章に出てくる最初ではないかと思うのです。

 空海は804年に遣唐使一行とともに唐に渡り、密教を学び、当初20年の予定だった留学期間を2年で打ち切って806年に帰国しました。帰国の際には大量の仏典や仏具、曼荼羅図などを持ち帰ったのですが、個人的な持ち帰り品の中には、上に述べたようなサンスクリット文献や中国の書家の作品などに混じって、お茶もあったことでしょう。厳しい仏道修行の合間に、そのお茶を飲む。そのことがどれほど空海の心をなごませたかは想像に難くありません。

 お茶は劉備の時代は健康薬として飲まれていました。お茶に健康に役立つ物質が含まれていることは昔も今も変わりません。でも、それだけならこれほど長く人々に愛飲されることはなかったでしょう。空海は唐代の茶の飲み方をしていたと思われます。茶葉を固めたものを削り、それを煮出したのを飲むのです。作法も味も違うでしょう。しかし、お茶を飲んでくつろぎ、疲れた心やからだを和ませることは、空海もわれわれも変わりません。さかのぼって、劉備の時代でもお茶のこの作用を楽しんだに違いありません。

 完成された様式美を持ち、さまざまな文化の総合体でもある日本の茶道の奥底にも、国を超え時代を超えて流れるお茶のこの不思議な作用が存在するのは確かなことだと思います。どうぞ、お茶を楽しみ、くつろぎ、心を癒して、なごやかな時間をお過ごしください。(2007/10/10)


 


 「相」にはいろいろな意味があるが、動作が相手に及ぶことを表す場合があって、そのときは「あい」と訓読みし、「自」と対応する。自愛が自分を愛する意であるように、相愛は相手を愛する意である。普通は、書を愛すなら「愛書」というように、目的語は後に置かれるが、「自」「相」が動作を表す語(ここでは「愛」)より前に置かれるということでも、この二つは対応している。

 動作が相手に及ぶのであるから、主語によって「相」の訳語は「あなた」になったり「わたし」になったりする。「我相愛す」なら「わたしはあなたを愛す」になるが、「汝相愛す」なら「あなたはわたしを愛す」となるのである。

 「相」は「あいたがいに」という意味が一般的になってしまったが、漢文を読む上で「たがいに」では意味をまちがうケースが出てくるから注意しなければならない。
 『資治通鑑』を読んでいて次のことばに出会った(巻186唐紀二高祖武徳元年八月)。
諸君幸不相棄、当共帰関中。
時は西暦618年のこと。隋の煬帝が倒されたあと、我こそは次の天下人たらんと群雄が覇を競う。すでに大勢は唐による制覇に向かっていたが、天下統一はなしえていなかった。群雄のひとりである李密の勢力は次第に衰え、諸将にも失地回復を願う気力がなくなっていた。もはやこれまでと李密が自刎しようとしたとき、腹心の部下が抱き止めて号泣し、周りの者たちもみな泣いた。そのときに発した李密のことばがこれである。

 「諸君幸いに相(あい)棄てず、当(まさ)に共に関中に帰(き)すべし」。この「相」は「諸君」からみて相手、すなわち李密その人になる。したがってここは、諸君はありがたいことに私を見捨てなかった、一緒に関中に帰順しよう、となるのである。関中は長安を指し、擁立していた隋の恭帝からこの年禅譲を受けた唐が国都としていた。

 ついでながら、「帰」にも注意が必要である。帰宅や帰国などの語で、すっかりcome backの意味が一般的になってしまったが、とつぐが第一義で、そこから身を寄せる、なつく、したがう、おさまるなどの意味が生まれた。上の例の「帰」は「帰服」「帰順」の意、すなわち唐に降参するという意味であるが、それに気づかず、「関中に帰ろう」と訳してしまうとまちがいになる。「帰る」は出てきたところにもどるの意味であるから、李密は関中出身ということになってしまうが、事実はそうではない。「かえる」の意味でないときは「帰(き)す」と読む。(2007/10/10)


 


 「孤独」の「孤」は親(特に父親)のない子、「独」は子のない老人をいい、熟語としては、よるべない、頼りない状態のたとえに用いられる。孤独感や孤独死などと使われる場合のひとりぼっちという意味は国訓(日本での意味)である。

 孤の用例として『論語』泰伯篇に次のことばがある。
曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也、
曽子(そうし)曰はく、以て六尺(りくせき)の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪ふべからず。君子人(くんしじん)か、君子人なり。

 「六尺之孤(りくせきのこ)」は身長が6尺の孤児という意味で、父が死んで幼少で即位した君主をいう。周のころの1尺は22.5センチなので6尺は135センチとなる。現代の男の子なら小学校高学年にあたるだろうか。また1尺を2歳半とする計算方法もあり、それでは15歳ということになる。「百里之命」は百里四方の国、すなわち諸侯の国の政令をいう。曽子のこのことばは、まだ幼さの残る少年君主が頼ることができる人物、諸侯の国の政治を任せることのできる人物、いかなる大事にもその志を奪うことができない人物、こういう人物が君子といえる、という意味である。

 「孤独」を四字に引き延ばした「鰥寡孤独(かんかこどく)」ということばもある。これは『孟子』梁恵王篇下の次の文章に基づく。

老而無妻曰鰥、老而無夫曰寡、老而無子曰独、幼而無父曰孤。此四者、天下之窮民而無告者。文王発政施仁、必先斯四者。
老ひて妻無きを鰥(かん)と曰ひ、老ひて夫無きを寡(か)と曰ひ、老ひて子無きを独と曰ひ、幼くして父無きを孤と曰ふ。此の四者は天下の窮民にして告ぐる無き者。文王 政を発し仁を施すに、必ず斯(こ)の四者を先にす。

 妻のない老人、夫のない老女、子のない老人、親のない幼子、これらは社会の困窮者で、しかも自分の窮状を訴えるすべも持たない人々である、周の文王は仁政を行なうにあたって、まず彼らの救済から着手した、という。社会保障制度のない時代におけるこういう人たちの生活苦は想像を絶するものであっただろう。仁政とは社会的弱者に目を向けることから始まる。これは現代にも通じるであろう。  

妻のない男、すなわち「やもお」がなぜ魚ヘンの鰥の字なのか。魚はいつも目を開けている、妻がない男は寂しくて夜も眠れないから魚のように目を開けているのだ、鰥の字にはちゃんと「目」があるだろう、と教わったのは高校の漢文の授業で。高校生にいうことか、とそのとき思ったが、おかげで今も憶えている。確かに「鰥鰥(かんかん)」は寝ても目があいて眠れないさまをいうことばである。(2007/10/10)


 


 常用漢字表では戻の音訓は「レイ/もどす・もどる」となっているが、この「もどす・もどる」は漢字の原義にはないので、国訓だけが採用されている珍しい例といえよう。それだけ「もどす・もどる」として一般に使われていることを示している。

 戻は本来「もとる」と訓じ、そむく、ねじまがる、むごい、の意がある。ほかに、罪、わざわいの意味もある。また、いたる、さだめる、という意味の用例が古典には見られる。

 本字では戸の下に犬の字を書く。『説文解字』では犬が戸を身をくねらせてくぐりぬけるかたちであるという。そこから、もとる、いたるの意を表すようになったと見られる。常用漢字では犬を大に変えた省略形を使うから、ますます原義とは縁がなくなってしまった。

 「もとほる」(漢字では「回る」と書く)が、まわる、まがる、まがったことをする、という意味を持ち、これが道義にそむくの「もとる」と、もとの場所にかえるの「もどる」の両方の語源になったという説があるようだ(『広辞苑』など)。また、「もとる」を「もどる」ということもあったらしい(小学館『日本語大辞典』)。

 日本語の「もとる」と「もどる」とに近い関係があったとしても、漢字の戻にはもとにかえるの意味はない。同じく「もとる」の意味に使われる「悖」は「もどる」とは読まない。

 戻を用いる熟語には「暴戻(ぼうれい)」「違戻(いれい)」など、いずれも原義に基づいた語があるのだが、旺文社『漢字典』には「返戻(へんれい)」があげてある。確かに現代の日本にあって戻のつく熟語は保険の規約などに見られる「返戻金」ぐらいのものであるが、これは国訓に基づいた熟語であって、日本固有の語といえる。

 「戻太子(れいたいし)」とは漢の武帝の太子のことである。前91年、太子が宮中でまじないをして病床の武帝を呪ったという風評がたち、太子が自殺に追い込まれたが、のちに江充という者の偽りの訴えによることがわかった。この事件を巫蠱(ふこ)の獄という。気の毒な太子は戻太子(道義に背いた太子)と諡(おくりな)され歴史に名を残すことになったのである。(2007/10/16)


 


 2007年4月から全国の大学で助教授を准教授、助手のうち教育にも携わるものを助教と呼ぶようになった。准教授は新聞などにも登場回数が多いし、またアメリカの大学のassociate professorの訳語としてすでに知られていたから、認知度はかなり高いのではないだろうか。それにくらべて助教の語は一般的にはまだなじみが薄いといえよう。しかし、この助教は古い歴史を持つ語なのである。

 中国では都に置いた貴族子弟の教育機関を国学と総称するが、これが制度化されたのは晋の武帝のときで、その学校を国子学という。『晋書』武帝紀には咸寧2年5月に「立国子学(国子学を立てり)」とあるのみであるが、職官志では次のように詳述する。
晋初承魏制、置博士十九人。及咸寧四年、武帝初立国子学、定置国子祭酒・博士各一人、助教十五人、以教生徒。(以下略)
晋初、魏制を承け、博士十九人を置く。咸寧四年に及び、武帝初めて国子学を立て、国子祭酒・博士各一人、助教十五人を定置し、以て生徒を教ふ。(以下略)

 設置年が咸寧2年(276)と4年(278)のくいちがいがあるが、これは制度が整ったのが4年ということであろうか。「国子祭酒・博士各一人」は国子祭酒(学長にあたる)とそれぞれの専門分野の博士を1人ずつということで、博士の総数は魏の制度を踏襲したころの19名に近い数であったとみてよいだろう。南渡して東晋になった時に9人に減じ、元帝末に11人に増やし、さらに後に16人にしている。助教は孝武帝の太元10年(385)に定員を10人に減らしている。

 隋の煬帝は国子学を国子監と改称して教育行政機関の役割を与え、その下に改めて国子学などの諸学六校を置いた。唐もほぼそれを受け継ぎ、国子監の下に七学を設置した。助教は、七学のうち国子学・太学・広文館・四門学の四学に置かれた。

 日本でも唐制にならった大宝律令が作られ(701)、教育機関と教育行政機関を兼ねる大学寮が設置された。ここには教官として博士1人、助博士・音博士・算博士・書博士各2人が置かれたが、助博士は養老令(718)で助教と改称した。助教の語は中国では278年、日本では718年にデビューしているのである。

 江戸時代、一部の藩校では教授を助ける役目の助教が置かれていた。大坂の漢学塾懐徳堂でも初代学主三宅石庵時代に五井蘭洲は助教を務めている。明治以降、代用教員の俗称として用いられた、と『広辞苑』にはある。(2007/10/16)


 


 『論語』子罕篇に次のことばがある。

子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也。
子曰く、歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るることを知る。

 この孔子のことばは、気候が寒くなって周りの木々が葉を落としてから、はじめて松や柏が青々と残っていることがわかるという意味で、人も危難に遭ってはじめて、その真価がわかる、というたとえである。

 ここでわかるように松も柏も常緑樹である。松はともかく柏は、という人は柏餅(かしわもち)の柏を思い浮かべていることだろう。日本でいうカシワはブナ科の落葉樹であるが、柏はヒノキやコノテガシワなどの常緑樹をいう。常緑であることから、松とともに長く変わらないものや節操の堅いことのたとえに用いられる。日本でいえば松竹になろう。
 
 後漢に作られた「古詩十九首」の中に「去者日以疎、来者日以親(去る者は日に以て疎く、来る者は日に以て親し)」という有名なフレーズで始まる詩がある。その詩に次の句がある。

古墓犂為田   古墓 犂(す)かれて田と為り
松柏摧為薪   松柏 摧(くだ)かれて薪と為る

 古い墓が耕されて畑になり、墓のそばに植えられていた松や柏は砕かれてたきぎとなった。墓もできた当初は死者を悼んで大切にされていたことだろう。永遠に変わらぬ思いを込めて植えた松柏の木であったはずだ。それが今や姿を消している。まさに「去る者は日に以て疎し」、死んだ者は日に日に忘れられてしまうことを物語っているというのである。

 この詩では砕かれることになったけれど、永く続くという意味のめでたい語として松柏は用いられる。「松柏の寿」とは長寿、「松柏の茂(しげり)」は永く栄えることである。偓佺(あくせん)という仙人がいて、いつも松の実を食べていた。その実を食べた人は二、三百歳まで生きたという(『列仙伝』)。わが役行者(えんのぎょうじゃ)も松の葉を食べていたという(『日本霊異記』)。松のいつまでも枯れないイメージがパワーアップしたといえよう。

 昨今、山中で、あるいは浜辺で赤く枯れた松を見ることが多くなった。寂しい風景である。(2007/10/16)


 


 本コラム22の「狼」
 「狼煙(ろうえん)」「狼火(ろうか)」はのろしのこと。オオカミの糞を薪に混ぜて燃やすと、風が吹いても煙がまっすぐにのぼるという。
と書いたら、物知りな友人たちが教えてくれた。

  日本では、黒色火薬に使われる硝石(硝酸カリウム)を家康の頃まではポルトガル人から買っていたが、鎖国以来、各藩で生産した。まず雨が入り込まないようにして藁を敷き詰め、この上に牛糞や人糞を撒き、1年以上寝かせる。これを水に浸して濾過する、あるいは灰汁を加えて溶かし上澄みを取る。それを煮詰めると硝酸カリウムが得られたという。古民家の便所や台所、馬小屋の床下の土は硝石が豊富に含まれる  といわれる。ということは、狼に限らず動物の古い糞には硝石あるいは硝石を生み出 す成分が含まれているといえるのかも知れない。

 なるほど、糞を混ぜると含有する成分のおかげで煙が勢いよくまっすぐあがる。古代においては身近な獣であった狼の糞が用いられた、というわけで狼煙や狼火という語ができたと考えられる。まじないのように思われることにも科学的裏付けが可能なものがある。昔の人々は経験の積み重ねで知っていたのである。

 さて、糞の字は、食べた米が体内で変異したので米の下に異と書くと聞いたことがある。もちろん俗説であって、この字の字源はもう少し複雑である。異はちり取りを両手で持ったさまの変化したもの、米は撒き棄てる意味の番(播)の変化したものといわれる。

 高校の時、英語の先生が、軍隊時代に米田共一という人物がいて、当然あだ名は「クソイチ」であった、と黒板に縦書きでその名を書きながら話してくれたことがあった。今思えば先生の創作かもしれない。

 漢字を分解して憶えることはよくあり、私はいつも壽を書くときは「さむらい(士)のフエ、一インチ(吋)」と口ずさむ。漢字を分解して予言や予兆をそこに見いだすことが中国では歴史上にしばしば見られる。前漢王朝を倒して新を建国した王莽は、表面に「貨泉」の文字のある貨幣を用いた。泉は白水、貨は眞人に分解できる。すなわち白水という地から光武帝が興って後漢王朝を建てる前兆であったという。反乱の首謀者がみずからこうした予言書を作った例もあるが、その話はまたいずれ。(2007/10/23)

 


 学生のころ、中学生対象の業者試験の採点バイトをしたことがある。熟語の読みを問う問題で、細君を「ほそくん」と答えたのが多いことに驚いた。「ほそぎみ」「ほそいくん」もかなりあった。中学生にとって細君は、ほとんど読むこともない大人の小説に出てくるなじみのない語であったのだろう。

 細君の語は漢の東方朔(とうほう・さく)のエピソードに由来する。東方朔は経書に通じ文章を善くし、弁舌の立つ直諫の人物であったが、滑稽な言動が多く、『史記』では滑稽列伝(巻126)に載っている。奇行が多いことから世間から狂人と呼ばれたが、朔は「私はただ世を避けて朝廷の間にいるのです、昔の人は世を避けて深山にいたものですが」と語ったという。

 『漢書』には東方朔伝(巻65)が立伝されていて、多くのエピソードを通してかれの人となりを詳しく知ることができる。かれの頓智を効かせた独特のユーモアは、武帝にたいへん愛された。
 三伏の日(夏至のあとの庚(かのえ)の日、虫追いの祭をする)に勅命で従官に肉を賜わることになったが、取り仕切る官吏が日暮れになっても来ないので、朔は勝手に剣を抜いて肉を切り、持って帰ってしまった。翌日、武帝に責められた朔は冠を脱いで詫びたが、さらに武帝が「自らを責めてみよ」というので、次のようにいった。「朔よ、賜り物を受けるのに勅命を待たないとは何と無礼なことよ。剣を抜いて肉を切るとは何と勇壮なことよ。切り取る量の多くないことは何と無欲なことよ。家に帰って細君に贈るとは何と思いやり深いことよ」と。武帝は笑って、「責めさせたつもりが、逆に自分をほめおった」といい、さらに酒一石と肉百斤を与え、帰宅して細君に贈らせた。

 顔師古(がん・しこ)の注には「細君は朔の妻の名。一説に、細は小なり、朔自ら諸侯に比して其の妻を小君と謂う」とある。つまり、細君とは朔の妻の名前だというのである。また一説では、細君は小君と同じで、朔は自らを諸侯になぞらえ君とし、妻を細君といったという。ともかく、細君の語はここを初出とする。

 西晋の夏侯湛(かこう・たん)の撰になる「東方朔画賛」は東方朔の画像(現存しない)に添えた賛文で、『文選』巻47に収められている。王羲之の代表的楷書作品として有名な「東方朔画賛」はこれを書いたものである。
 『列仙伝』には、東方朔は宣帝の初年にうるさい世を避けて衣冠を官舎においたまま姿を消したとあるが、これは『史記』の「世を朝廷の間に避く」から発展した話であると思われる。以後、東方朔は神仙(仙人)として語られ、西王母の桃を食べて長寿を得た、いつまでも童子のような顔をしていたなどの伝説も生まれた。(2007/10/23)


 


 日本語の「あき」の語源には諸説があるそうだが、私は「あく」から来たという説に納得している。「あく」は充分で満足すること。そこから、もうそれ以上はいやだという意味ができた。江戸後期ごろから使われ出したという「あきる」では、いやになるの意味だけになっている。この「あく」は漢字では飽の字が当てられる。農耕社会において最も大切なのは穀物の収穫であり、収穫が満ち足りる季節、それが「あき」である。漢字の秋にはちゃんとイネ科植物を表わす禾がついている。

 春夏秋冬のうち、種を植える季節「春」と収穫の季節「秋」をならべた「春秋」は歳月の意味になり、「幾春秋」「春秋に富む」などと用いる。この「春秋に富む」は、まだ歳月が多く残るということで、若いの意。そこから、将来性がある、経験不足、とプラスマイナス両面で用いられる。筆者も昔「春秋に富んでいる」といわれ、ほめられたつもりでいたが、それこそ「春秋に富む」証しであって、後年になってどうも後者のほうらしいと気づいたのであった。

 さらに「秋」だけで歳月を意味することもある。「千秋」は千年のこと。「一日千秋(いちじつせんしゅう)の思い」とは一日が千年もの長さに感じるほど待ち遠しい思いをいう。
 「千秋万歳(せんしゅうばんざい)」は千年万年という意味で、長寿を祝うことばでもある。後半の「万歳」はめでたいときの呼び声としておなじみである。日本では、年の初めにめでたいことを滑稽な掛け合いで演ずる芸能が各地にあって「千秋万歳」とか、地名を冠して「○○万歳」と呼ばれた。この「まんざい」が現代の「漫才」のルーツである。

 この「千秋万歳」には別の使い方がある。皇帝が年老いた。今後のことを重臣たちが相談をする。その際、「今上(きんじょう)がお亡くなりになったあとは」などと縁起でもないことは口が裂けてもいえない。そういうときに「千秋万歳の後は」というのである。帝には長生きしてもらいたい、しかしいくら長寿であっても千年万年の後はもうお亡くなりになっているのであるから、そのときはどうしましょう、というふうにいうのならかまわない。つまり、「千秋万歳の後」とは(まだ生きておられる高貴な方の)死後という意味になる。我が家では愚息が「母上の千秋万歳の後は」と使っている。確かにいわれたほうも気分がいい。

 また、「秋」には「たいせつな時」の意味もあって、「国家存亡の秋」などと使う。この場合の「秋」は「とき」と読む。決して秋(あき)に国が滅ぶのではない。 (2007/11/13)

 


 年齢の異名で有名なのは次の『論語』為政篇に基づくものであろう。

子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩、
子曰はく、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(みみした)がふ。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。

 ここから15歳を志学、30歳を而立、40歳を不惑、50歳を知命、60歳を耳順、70歳を従心というようになった。その使用例として陶淵明の詩「責子(子を責む)」の一部をあげてみよう。

阿舒已二八 懶惰故無匹
阿宣行志学 而不愛文術
阿舒 已に二八 懶惰(らんだ)故(もと)より匹(たぐひ)無し
阿宣 行くゆく志学 而(しか)も文術を愛せず

 陶淵明には五人の息子があった。長男の阿舒(阿は愛称の接頭語)は二八、すなわち16歳であるが怠けもの、次男の阿宣は志学、すなわち15歳で、学に志すべき年齢だというのに勉強嫌い。その弟たちも父の心知らず、とグチをこぼした陶淵明は「天運 苟(まこと)に此(かく)の如くんば、且(しばら)く杯中の物を進めん」と、酒をあおるのであった。

 さて、『礼記』曲礼篇には次のことばがある。
人生十年曰幼学、二十曰弱冠、三十曰壮有室、四十曰強而仕、五十曰艾服官政、六十曰耆指使、七十曰老而伝、八十九十曰耄、
人生十年を幼と曰(い)ひ学ぶ。二十を弱と曰ひ冠す。三十を壮と曰ひ室を有す。四十を強と曰ひて仕ふ。五十を艾(がい)と曰ひ官政に服す。六十を耆(き)と曰ひ指使す。七十を老と曰ひて伝ふ。八十九十を耄(もう)と曰ふ。

 これが弱冠ということばの由来であるが、「二十曰弱冠」は上の通り「二十を弱と曰ひ冠す」と読むのである。つまり二十歳になった者を弱と呼んで、成人の証しである冠を着けるという意味なのである。そこから二十歳を弱冠と呼ぶようになったのだが、『礼記』の文意は決して「二十を弱冠と曰ふ」ではない。弱冠は転じて二十歳前後のわかものを指すときにも用いるようになった。

 ついでながら、「弱」は「わかい」の意味。日本で「わかい」の意で用いる「若」には本来「わかい」の意はない。「弱」の「よわい」という意味を嫌って、同音の「若」を用いるようになったといわれる。漢文を読んでいて「老弱」と出てくれば、老人とわかものと解釈しなければならない。(2007/11/13)


 


 漢字はその字源に基づく本来の意味で用いられる場合は実字という。日本語文法では名詞・動詞・形容詞などにあたるとみてよい。それ以外の意味で用いて文章の意味を助ける役目をする場合の字を助字あるいは助辞、また虚字という。これは日本語文法ではおおむね前置詞・副詞・接続詞・疑問詞・感嘆詞などにあたる。

 助字の意味が実字と関連する場合とほとんど関係ない場合とがある。「与」を「~と」「ともに」と読むのは本字の「与(くみ)する」に関連するからであるが、疑問を示す「~か」と読むのは本字とは関係ない。
 前者の例としては
   因(よ)る =よって
   果(はた)す=はたして
   会(あ)う =たまたま
   尽(つく)す=ことごとく
   数(かぞ)う=しばしば
   還(かえ)る=また
などがあり、後者の例としては
   安・悪=いずくんぞ
   許  =ばかり
   将  =まさに~べし
   如  =もし・ごとし (如は「ゆく」意)
   縦  =たとひ
   第  =ただ
   然  =しかし (然は「もえる」意)
などがある。

 漢文の初学者にはこの助字はなかなかやっかいなもので、助字であることに気づかず実字で読んでしまうことがある。語順や文意から考えておかしいと思ったら助字として調べ直すといい。とはいえ、ン十年漢文人を続けていても迂闊にも気づかないことがある。

良業為取履、因長跪履之(『史記』留侯世家)
 この「良」は張良のこと。「業」は職業と取りそうであるが、ここは「すでに」と読む。下の「因」に呼応していることに気づけば納得できよう。したがって「良 業(すで)に為(ため)に履(くつ)を取り、因(よ)って長跪して之を履(は)かしむ」と訓ず。

 助字は漢文を読んでいて出てくるたびにおぼえるほかない。読みが同じでも意味が違うこともある。たとえば同じ「すなわち」でも「乃」「即」「則」「輒(輙)」ではそれぞれ意味が異なるのであるが、通用されることもあるからややこしい。助字の意味を調べるのに便利なものに『新字源』(角川書店)巻末の「助字解説」がある。本格的に調べる場合は清・康煕年間に劉淇が著した『助字辨略』が名著として知られている。江戸時代の京都の学者伊藤東涯に『助字考』がある。これは文末の助字に限って用例をあげ解説を加えている。

 最近、中国学関係のある学会で引用文献(書き下し文)中の「動もすれば」を「どうもすれば」と読んだ発表者がいた。これは当然「ややもすれば」と読まなければならない。質問タイムに突っこみを入れようかと思ったが、会場のほぼ全員が気づいているであろうし、あまりに些細なことなので黙っていた。発表者の専門分野が中国学でなかったためもあり、会場は寛大であった。(2007/11/21)




 引き続き助字に関する話である。中学のころ、書き取りの問題に「成就」などとならんで「遂行」という熟語がよく出てきた。もちろん「すいこう」が答であるが、「ついこう」とまちがえることが多い。それほど、この遂の字は「ついに」と読むことに慣れている。しかし、日本語の「ついに」と遂の字の意味は異なるのである。

 大学の時、学部の演習で恩師M先生が毎年『資治通鑑』を読んでおられた。私は学部の3年から恩師が定年退官されるまでの5年間、この授業に出ていた。我々中哲の院生・学生あわせても3人ほど、それに東洋史や国文の学生が毎年1人か2人出ていた。当番を決めて読んでいったが、新米が助字を読む段になると、M先生は毎年同じ質問をし、説明をされた。最も多く繰り返されたのが「遂に」である。

 「この【遂に】の意味は?」。「とうとう、ですか?」。すると先生はしてやったりとばかり、こうおっしゃるのだ。「遂」という字は、ある状況がずーと続いて来てまだ続いていくことを表す。だから「かくて」と訳すのがよい、と。私の当時のノートには、遂の字の横に長い長い矢印が書いてあって途中に今を示す黒丸がある。

 そのうち私も大学の教壇に立って、いろいろな古典を教えるようになった(教えることはまさに学ぶことである)。『春秋左伝』には、戦の前線から退いて「遂に」逃げ去った、というような記述が出てくる。この「遂に」は退去が続いて「そのまま」逃げ去ったという意味になる。「かくて」と訳してもいいのだが、この記述に出会って以来、私は「遂」を「そのまま続けて」と訳すことが多くなった。教室では黒板に書いた「遂」の字にこざとヘンを付け加え、「隧道」(すいどう=トンネル)を思い浮かべるようにと話す。「とうとう」なら行き止まりになる。隧道は先が抜けて、まだ道が続くのである。

 日本語の「ついに」は「おわりに、とうとう、結局」の意味である。この意味にあたる「ついに」の漢字は「終・卒・竟」などで、いずれも「おわる」意味を持つ。ところが日常的にこの「ついに」を「遂に」と書くようになってしまったため、漢文の「遂」をまちがえて訳すことが多くなったのである。わかりにくいときは「遂」を飛ばして訳すほうが、「とうとう、おわりに」と誤訳するよりいいのではないかと思う。 

 ついでにもう一つ助字の話。非常な、とても、という意味の「すこぶる」は漢字では「頗る」と書く。ところが、この「頗」は、かなり、少し多い程度という意味である。これも日本語の意味に引きずられると誤訳を招く。(2007/11/21)


 


 阪神間では「甲」の字によく出会う。甲子園、甲陽園、甲東園。以上は西宮市の地名であり駅名にもある。最近、神戸市東灘区にJR甲南山手という駅もできた。神戸市の甲南、西宮市の甲陽、甲陵。これは学校名(甲陵は私が一年だけ通った中学校)。この中で甲子園だけは前述した干支による命名。甲子の年にできた甲子園球場の周辺の地名である。甲南は神戸市の北に横たわる六甲山の南の意味。甲陽園・甲東園・甲陵は六甲山脈東端の甲山(かぶとやま)に因む。甲陽学院はもと甲子園球場の近くにあったが、現在は文字通り甲山の南麓に存在する。周辺には甲山の名を冠した病院や県立高校もある。

 六甲山は神功皇后が六つのカブトを埋めたことで名付けられたといわれるが、あくまで伝説であり、私は武庫川(むこがわ)のムコの字を置き換えたのであろうと思っている。武庫川自体も淀川の向こうの川であったのだろうが、これも神功皇后かなにかの伝説にからめて武庫という物騒な字になったのかもしれない。一方、甲山はお椀を伏せたようなその形に由来することは見ればすぐわかる。

 ところで、今、甲を「かぶと」として書いてきている。漢和辞典でこの字を引いてみよう。字義の最後に国訓として①物の背面「手の甲」②かん、声の調子の高いこと「甲高い」③かぶと、とある(『新字源』)。つまり「かぶと」カブトは日本での読みなのである。では本来の甲の意味は何か。亀の甲羅を思い起こしてみよう。甲羅は亀の体を覆うもので、頭は覆っていない。つまり甲は「よろい」なのである。「かぶと」は兜あるいは冑と書く。甲冑(かっちゅう)は「よろいとかぶと」をいう。日本において、いつのまにか誤訳されてしまったのであろう。

 甲虫(こうちゅう)とは昆虫のうち外皮と上翅が堅い種類をいう。よろいに覆われているようにみえるから甲虫なのである。コガネムシやカミキリムシ、ゲンゴロウもこの仲間。いわゆるカブトムシはコウチュウ目コガネムシ科に属し、角の形が兜の前立てに似ているから名付けられた。したがって兜虫と書くのが正しい。しかし、一般的には甲虫と書かれているから、目名の甲虫(こうちゅう)と紛らわしい。

 このように漢字が日本に来て意味が食い違ってしまった例が他にもある。「轡」は本来は「たづな」である。この字の構造を見てみよう。下の口は車につないだ馬の口である。この口から両側に糸(手綱)が出ている。ここに注目したのが本来の意味である。ところが日本ではこの字を「くつわ」と読む。字の構造のうち、口に注目したからであろう。 くつわは銜、鑣、勒と書く。前二つは金属製、最後のは革製であることがわかる。「轡銜(ひかん)」「轡勒(ひろく)」で、「たづなとくつわ」となる。(2007/11/21)


 


 塗炭とは塗(どろ)と炭のことで、きたないもののたとえに用いられる。
如朝衣朝冠、坐於塗炭(『孟子』公孫丑)
朝衣朝冠して塗炭に坐するが如し。
(朝廷に出る時の正装をしてきたないどろや炭の中に座るようなものだ。)

 また、どろに塗(まみ)れ火で焼かれるような苦しみ、非常な難儀をもいう。
有夏昏徳、民墜塗炭(『書経』仲虺之誥)
有夏昏徳、民 塗炭に墜つ。
(夏は悪徳の世で、民は非常な難儀に陥った。)

 どろにまみれることと火で焼かれることは苦しみに大きな差があるように思えるのだが、古来並列されている。これで思い起こすのは『史記』刺客列伝の豫譲(よじょう)のことである。戦国時代、晋の豫譲は仕えていた智伯のかたきを討とうと趙襄子をねらい続ける。見破られないように体に漆を塗り炭を呑んで声をつぶすなど苦労を重ねるが、結局失敗して自殺した。漆を「塗」り「炭」を呑むことから「塗炭」という語ができてもおかしくはないのだが、そうはならなかった。ここからは敵討ちの苦心をいう「呑炭(どんたん)」ということばができた。

 昔、我が家では正月などには花札をするのが恒例で、人数がそろうと「八八(はちはち)」というゲームをした。配られた札による手役(てやく)の点数と勝負で得た点数を合算して競う。手役の中で、十点札が1枚で残りすべてが一点札(「す」)という役を十兵衛(とうべえ)、短冊の絵がある五点札が1枚で残りすべてが「す」という役を短兵衛(たんべえ)と呼ぶ。ところが十点札1枚と短冊1枚があって残りが「す」の場合、何の役もないし勝負でも点数を稼げない。早々に勝負から降りるに如かずとなる。
(図版:「トタンの苦しみ」の手札の一例)
これを我が家の大人たちは「トタンの苦しみ」と呼んでいた。
 私は十と短の「と・たん」とトタン板の掛ことばだと思い、熱いトタン板の上にいるような苦しみだと勝手に理解していた。長じて「塗炭」に出会い、庶民出身と思っていた幼なじみが実は由緒ある家の出であることを知ったような驚きとうれしさを感じたのであった。
 父母が「塗炭」を知っていたかどうかは定かでない。あるいは原義を知っていたかもしれない祖父母たちが使っていた「トタンの苦しみ」を単に花札用語として口にしていた可能性が高い。(2007/12/10)




 観光の語は『易経』観の卦(か)の「観国之光(国の光を観る)」とあるのが出典で、本来は国の政治や礼制などを観察してよく知るという意味である。そこから、国の政治や風俗を遊覧して視察するという意味になり、さらに名所旧跡を遊覧するという意味になった。現代では観光旅行、観光バスなどと物見遊山の意味で用いられていて、本来の意味はほとんど知られていない。したがって、「視察の名目で観光をした議員に引責辞任を要求」などという記事が出たりする。

 江戸後期、大坂学問所懐徳堂の学主中井竹山(ちくざんは、天明2年(1782)、京都の高辻胤長(高辻家は菅原道真の末裔)からの依頼を受け、『建学私議』と題した提案書と設計図面を呈上している。竹山は京都大坂に官学がないことを遺憾とし、京都には新しく官学を建て、大坂は懐徳堂を拡充して官学とし、江戸の昌平黌とで三都それぞれに官学を確立すべきであると提案した。『建学私議』の内容は、建学の理由から校名、学則、間取り、聯の字句にまで及ぶ詳細なものであった。竹山は京都の学校を「観光院」と命名し、御所内に聖堂と校舎を建設する計画であった。 
 この観光院という名は、学問をすることで国の政治や制度をよく知り、そしてそれをよりよい政治に役立てようという意図を物語っている。さらには、そこから竹山の政治志向の強さをもうかがうことができる。天明8年(1788)に京都大火があったこともあって、観光院設立は実現しなかった。

 寛政4年(1792)、懐徳堂は火災に遭い、再建が必要になった。竹山は、先の京都の観光院建設が夢に終わったので、せめてこの機に懐徳堂だけは規模を大きくして官学化をはかりたいと考えた。しかし、数度の幕府への働きかけも空しく、懐徳堂の再建こそ認可されたが計画は縮小を次々と命じられ、援助金の不足分を大坂町人の募金に頼って、旧来の堂より手狭な規模で再建するのが精一杯であった。

 大阪大学懐徳堂文庫には懐徳堂再建計画図と実際の着工図が残っている。また、幻となった観光院の設計図も残っている。竹山の夢に終わった2枚の図面にはよく似たところが見られる。(2007/12/10)


 


 標題の二字の区別がつくだろうか。ツクリの縦棒が前者は点と縦棒、後者は上から下までつながった縦棒になっている所が違うのだが、楷書体では全く同じに見える。どちらのツクリも音を表し、前者は「シ」、後者は「ハイ(またはフツ)」と読む。

 前者の柿は果物のカキである。音読みすることは少ない。日常では「熟柿(じゅくし)」くらいか。京都嵯峨野に俳人向井去来ゆかりの「落柿舎(らくししゃ)」がある。

後者の杮は木ヘンに朮と書く字の俗字であり、木の削りくずの意である。「杮(こけら)落とし」とは工事の最後に屋根の木くずを払い落とすことから、新築の劇場の初興業をいうことばとなった。「柿(かき)落とし」と書いて「こけらおとし」と読むのだと誤解している人が少なからずおられると思う。

 後者のハイ(フツ)という音符を持つ字には沛や芾がある。沛(はい)は水や雨がさかんに流れる(降る)さま、盛大なさまなどの意味がある。沛公(はいこう)といえば漢の高祖劉邦のこと。これは劉邦が旗揚げした地名にちなむ。
 芾は小型の漢和辞典には載っていない場合もあり、ほとんど使われない字ではあるが、書に関心のある人には北宋の書家、米芾(べいふつ)の名でなじみ深い。彼は同じ「ふつ」という音の黻を用いて米黻と署名することも多かった。

 肺の字は「はい」と読むことからわかるように、ツクリは「ハイ」であって、上から下まで一本棒で書くのが本来の字である。ところが古くからツクリを「シ」と同様に点と縦棒を別に書き、音も「し」と読むことが行われてきた。たとえば、『日本霊異記』(平安初期の仏教説話集)では要職にあって近侍する家臣の意味で「肺脯」ということばが使われているが、これを古い訓釈では「しふ」と読んでいる。「ハイ」と「シ」の区別はむずかしかったのであろう。

 常用漢字では俗字に従って、にくづきヘンに「シ」を書く字を採用しているが、「ハイ」ならば4画、「シ」ならば5画で、より簡略にするという目的に反しているし、なにより意味と音符の合成という漢字の構造を無視している。(2007/12/12)

 


 山から木を切り出してきたとする。その原木を樸(ぼく/あらき)、あるいは朴という。それは木そのものの実質として存在する。そういう実質的、本質的な存在や状態を「質」という。飾り気がないという意味の質朴ということばもここから生まれた。原木の皮を剥ぎ、表面を磨いて、そこに模様を付けたり飾りを彫り込んだりする。その模様や飾りを「文」という。文様の文であり、紋は糸で織りだした文をいう。そして「文化」とは装飾的になることである。

言い換えると、自然のままの状態は「質」であり、人の手を加えた状態が「文」になるのである。太古の時代、石を石のまま、すはわち「質」として用いているうちは「文化」とはいわない。そこから進んで、石を削って道具として用いるようになることが、「文化」や「文明」の誕生となるのである。
 
 孔子は「質」も「文」も大切だと考えた。原木の本質的な良さももちろん必要であるが、それを加工して施した飾りこそ文化であり、高いレベルの文化的社会の象徴であるとした。周公以来の礼や教養こそ、社会に施された模様、「文」であると考えていたのである。

 人の手を加えたもの、人工物を文化ととらえた孔子に対し、これを無用なものと否定したのは老子・荘子の思想である。「無為自然」、すなわち人為を無くしてありのままで生きることこそ大切であると説いた。それは文明否定の思想であり、このような考えが生まれるのは、文明が高度に進んでいた証しともいえよう。

 さて、『論語』雍也篇に次の有名なことばがある。
子曰、質勝文則野、文勝質則史、文質彬彬、然後君子、
子曰く、質、文に勝れば則ち野(や)。文、質に勝れば則ち史。文質彬彬(ひんぴん)として、然(しか)る後(のち)に君子なり。
 質が文に勝っている、すなわち実質だけで飾りがないのは野人(文化・教養のない人)である。逆に飾りが目立って実質に乏しいのは朝廷の史(文書係)である。知識としての文化には通じているが実質的な中身を備えていないからである。飾りと実質とが美しくとけあってこそ、はじめてその人は君子となるのである。

 空海の著作と伝えられる『篆隷万象名義(てんれいばんしょうみょうぎ)』は日本最古の漢字辞書である。部首別に並べた字について、反切(漢字2字でその音を表す方法)で音を示し、次にその字の意味(字義)が書かれてある。「史」の字義は「文多質少(文 多く、質 少なし)」とあって、上記の『論語』雍也篇の文章を踏まえていることは明白である。「史」の本来の意味である文書係という字義はなく、『論語』を知っている人でなければ理解できないことばが字義として書かれているのである。
 この例は、『篆隷万象名義』が初学者向けの辞書として作られたのではなく、著者の備忘録的な色彩の強いものであろうと私が推測する根拠の一つである。(2008/1/8)

 


 引き出しから新聞の切り抜きが出てきた。93年6月9日と日付がある。林えり子さんの「メオトピア物語」257で題して「卿と郎~岸田俊子と中島信行」。以下、要約して紹介する。
 中島信行は明治14年に自由党創立に加わり、副総理となって板垣退助を助けた人物。陸奥宗光の妹と結婚したが先立たれた。岸田俊子は幕末の京都に生まれ、神童として知られ、15歳で京都府知事の推薦で宮中文事御用掛となって皇后に『孟子』の進講をしたという。その後、女性民権運動の先駆者として活動する。二人は明治17年に「自由結婚」をして世を騒がせた。この夫婦は夫が妻を「卿」と呼び、妻が夫を「郎」と呼んだという。

 さて、林えり子さんの文章を引用しよう。
  字典によると、「卿」は朝廷の上官や執政の大臣の意味、他人の敬称につかうとある。「親卿愛卿、是以卿卿」との世説があり、「卿卿」を夫や妻の呼称とした例もあるらしい。
ここで「世説」とあるのは『世説新語』のことであるが、林さんは世間の説とでもとらえておられるようだ。しかも、その漢文の正しい意味をご存知でないようだ。

 『世説新語』惑溺篇には次の説話がある。
王安豊婦常卿安豊、安豊曰婦人卿壻於礼為不敬、後勿復爾、婦曰親卿愛卿、是以卿卿、我不卿卿、誰当卿卿、遂恒聴之、
王安豊の婦 常に安豊を卿とす。安豊曰はく、婦人の壻(むこ)を卿とするは礼に於いて不敬と為す。後は復(ま)た爾(しか)ること勿(な)かれと。婦曰はく卿に親しみ卿を愛す。是(ここ)を以て卿を卿とす。我れ卿を卿とせずんば、誰か当(まさ)に卿を卿とすべきと。遂に恒にこれを聴(ゆる)す。
 王安豊の妻はいつも夫の安豊を「卿」と呼んでいた。安豊が「婦人が夫を卿と呼ぶのは礼の作法では不敬にあたる。今後はもうそう呼ぶことのないように」というと、妻は「卿に親しみ卿を愛すればこそ、卿を卿と呼ぶのです。私が卿を卿と呼ばなければ、だれが卿を卿と呼べばいいのですか」といった。かくて、いつも卿と呼ぶことを許すことになった。

 「卿」は『世説新語』の時代(六朝時代)では二人称としてはややぞんざいな呼び方で、同等もしくは目下の者に対して用いられる。今風にいうと「君(きみ)」にあたるだろう。夫が妻を「卿」と呼ぶのは古い詩にも用例があるが、王安豊の妻は夫を「卿」と呼ぶ。安豊が妻をたしなめたら、「卿」を連呼してやりこめられた話である。この文中の「卿卿」は「卿を卿とす」と読む。どうもここから「卿卿」が妻が夫を呼ぶことばになったようである。

 「郎」は新郎という語からもわかるように夫を意味し、妻が夫を呼ぶことばとしても用いた。冒頭の中島・岸田夫妻は新時代の礎を築いた人たちではあるが、さすが江戸時代生まれで漢籍に親しんで育ったことがわかる。(2008/1/8)

 


 NHK-BS1で放映された韓国KBS制作のドキュメンタリー「儒教」をみた。シリーズの第1回をみた限りでは、孔子の生涯などの解説に首をかしげるところが1、2あったが、全体としてよくできていた。中国・ベトナム・韓国・日本を取材し、儒教を現代にも通用する思想として描いている。「仁」は身近な家族への「孝」から次第に外に向かって実現されると解説した後、中国や韓国の人たちに「家族を大切にしないでどうして社会や国の指導者になれるか」と語らせているところは儒教の根幹をよくつかんでいたと思う。
 興味深かったのは、中国で女性の自立を援助する活動をしている女性の「儒教は時代によっていろいろな解釈がされてきた」ということば。つまり、女性に忍従を強いるなどの悪弊を生んだのは儒教そのものではなく、ある時代の解釈によるのだという考え方で、最近の中国での儒教復興の動きを現している。

この番組では、中国で儒教教育を授業科目に採用する学校が多くなっていること、山東省曲阜の孔子廟の祭典に国家の代表が出席したこと、北京国子監の整備が進められていることなども伝えていた。孔子廟での祭典では「八佾の舞い」が演じられていた。

 台北の孔子廟での孔子を祀る釈奠(せきてん)の儀式をビデオでみたことがあるが、ここでも八佾の舞いが演じられていた。佾とは列のことで、1列8人が8列、計64人による舞いをいう。
 『論語』八佾篇に次のことばがある。
孔子謂季氏、八佾舞於庭、是可忍也、孰不可忍也、
孔子 季氏を謂(い)ふ、八佾 庭に舞はす、是(これ)を忍ぶべくんば、孰(いづ)れをか忍ぶべからざらん。
 魯の家老にすぎない季孫氏が、天子の祭祀での舞いである八佾の舞いを自宅の庭で舞わせている。なんという僭越な行為であろうか、と憤る孔子は「これががまんできるなら、どんなことにだってがまんできる」とまで言い切るのである。
 ちなみに八佾が天子の舞いで、諸侯は六佾(6×6=36人)、卿大夫は四佾(4×4= 16人)、士は二佾(2×2=4人)。したがって季氏ならば四佾でなければならない。

 司馬遷は『史記』を書く際、孔子の伝記を諸侯の伝記である世家(せいか)に入れた。唐の玄宗は孔子に文宣王という尊号を与えた。つまり孔子は死後に諸侯並みの待遇を受けるようになったのである。しかし、諸侯でさえも自分の家で八佾の舞いをさせることは、孔子から見れば不遜な行いであるはずである。というわけで、孔子廟での八佾の舞いをみるたびに、なぜ八佾なのか、と不思議に思うのである。もしやあれは六佾であったか。いや、数えて8列あったと思う。孔子祭の映像を見ることがあれば、舞いの列を数えることを忘れずに。(2008/1/8)

(追記 2008.10.27)
 中国哲学の若い研究者である関村博道氏より、台北孔子廟釈奠の最近の映像DVDをいただいた。よくみると「八佾の舞い」ではなく「六佾の舞い」であった。孔子をちゃんと諸侯待遇に処しているのである。以前に見たVTRでは列の数をよく数えたとはいえないから、「八佾」と思ったのは私の思いこみであったのだろう。とすると、曲阜孔子廟の舞いも6列だったか。NHKに再放送を期待するより、曲阜に行って実見するにしくはないのだが。
 



 「龍が如く」というゲームソフトのCMを耳にして驚いた。ゲームソフトが開発されてテレビCMに登場するまでには、多くの人や業者が関わっていることだろう。その中に、これはおかしいと気づいた人物はいなかったのだろうか。気づいた人がいたとしても、もう製品としてできあがっていたということだろうか。

 これは日本語文法の問題である。「~のような」という意味の「ごとし」という助動詞は体言(主に名詞)に接続するときは「の」、用言(おもに動詞)に接続するときは、その連体形に「が」をつける。例をあげてみよう。
 「花のごとき顔(かんばせ)」。これは「花」という体言に「ごとし」を接続するのだから「の」でつないでいる。
 「花の匂ふがごとき顔」。これは「匂ふ」という用言に「ごとし」を接続するのだから「匂ふ」の連体形(ここでは終止形と同じ「匂ふ」)に「が」でつないでいる。
「龍」と「ごとし」を用いて「龍のように」と表現するなら、「龍の如く[昇る]」「龍の[昇る]が如く」でなければならない。

 「ごとし」は漢字では「如」「若」が用いられる。次の漢文はどう読むか。
  「如蝶舞、如蜂刺」
   A「蝶の如く舞ひ、蜂の如く刺す」
   B「蝶の舞ふが如く、蜂の刺すが如し」
   ・・・「舞如蝶、刺如蜂(舞ふこと蝶の如く、刺すこと蜂の如し)」
と、二つの読み方ができる。「の」と「が」の使い分けに注意されたい。ただし、Aの訓読と同じ意味にする場合、漢文としては「刺如蜂、舞如蝶(刺すこと蜂の如く、舞ふこと蝶の如し)」のほうがおさまりがいい。

 「○○はまるで~のようだ」と具体的な事物になぞらえる言い方を比況法という。中国の書論(書芸術に関する論著)の世界では、晋代において各書体の特徴を比況法を用いて説明していた。次にあげるのは晋の衛恒(えいこう)の「四体書勢」の一文である。

(古文)矯然特出、若龍騰于川、森爾下頽、若雨墜于天、或引筆奮力、若鴻雁高飛翩翩。
(古文は)矯然として特出すること、龍の川から騰るが若し。森爾として下頽すること、雨の天より墜つるが若し。或いは筆を引き力を奮ふこと、鴻雁の高く飛びて翩翩たるが若し。

 自然界の現象や生物になぞらえることによって、書体(ここでは古文という古い書体)の特徴を述べるのであるが、現代の目から見て成功しているとは言い難い。

 南北朝時代に登場する書評(個人の書作品の評)ではこの比況法が個人の書を説明するのに用いられている。そもそも具体的な事物をあげてわかりやすく表現しようというのが目的であるはずが、ここでもかえって何かわからなくしていることが多い。伝統的書評の代表とされる南斉・袁昂(えんこう)の「古今書評」から例をあげてみよう。さて、どのような書作品であるか、想像できるだろうか。残念ながらこれらの人物の書は現存していない。
  
・陶隠居書、如呉興小児形容。雖未成長、而骨体甚駿快。
陶隠居(陶弘景)の書は、呉興(浙江地方の地名)の小児の形容の如し。
未だ成長せざると雖も骨体甚だ駿快なり。

・蕭子雲書、如上林春花。遠近贍望、無処不発。
蕭子雲の書は、上林(皇帝の庭園、上林苑)の春の花の如し。
遠近贍望するに、処(ところ)として発(ひら)かざるは無し。

・孟光禄書、如崩崖、人見可畏。
孟光禄の書は、崩崖の如し。人見て畏るべし。(2008/1/22)

 


 十二支になぜネコがいないのか。これは昔の中国にネコがいなかったからである。ネコは西方が原産の動物で、古代エジプトでは鼠対策として飼育され、神聖視すらされていた。ネコのミイラも残っている。

 中国にはいつごろ入ってきたのだろう。殷代(前16世紀ごろ~前11世紀ごろ)の甲骨文字には猫の文字はないから、この時代にはいなかったとみてよい。文献に最初に見える「猫」は前5世紀ごろに編まれた『詩経』大雅・韓奕にある。
有熊有羆有猫有虎
熊有り、羆(ひぐま)有り、猫有り、虎有り。

 しかし、ここでは並ぶ動物が猛獣であること、また前漢に書かれた注に
猫似虎毛浅者也
猫は虎に似て毛の浅き者なり。
とあること、また『爾雅』釈獣に
虎竊毛、謂之
虎の毛を竊(ぬす)む、これを(さん)猫と謂ふ。
とあることから、毛の薄い虎に似たネコ科の猛獣と思われる。

 次に古いのは『礼記』郊特牲に出てくる猫である。
迎猫、為其食田鼠也
猫を迎ふるは、其の田鼠を食ふがためなり。
 ここの猫はネズミを捕らえるネコであり、『礼記』がまとめられた前漢初めまでにはネズミ対策として輸入されていたということになる。

 ものの順序を示す「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の十二支にネズミ・ウシ・トラ・ウサギと動物が当てはめられたのは前漢ごろとされている。後漢の王充の『論衡』では、そこから生じた迷信を批判しているから、十二支の動物は後漢にはすっかり世に広まっていたと考えられる。前漢のころ、まだまだ身近な動物ではなかった輸入動物のネコは十二支に入ることはできなかったのである。

 ネコが身近な動物でなかったことは猫の字のつく熟語が漢語としてはほとんどないことからもわかる。一方、日本語の辞典には「猫かぶり」「猫かわいがり」「猫背」「猫の額」「猫なで声」「猫ばば」などの語が並ぶ。おそらく奈良時代ごろに中国から日本に輸入されたネコは、日本人にすっかりなじんだ存在になったことを示している。

 ちなみに猫の字の旁(つくり)である苗(びょう・みょう)は鳴き声をあらわす。『詩経』に出てきた毛の薄いトラに似た猛獣もビョウ、あるいはミョウと鳴いたのであろう。(2008/2/6)

 


 夏目漱石の『草枕』の有名な冒頭部分に「兎角に人の世は住みにくい」とある、この「兎角」はなんだろう。これは副詞「とかく」に当て字をしたものであって、この場合は何にせよの意。他にも、なにやかやと、ややもすれば、といった意味で用いられる。同じ意味の「とにかく」「ともかく」にも「兎に角」「兎も角」とこの当て字が用いられることが多い。

 しかし、本来の「兎角」には別の意味がある。うさぎには角はない。また亀には毛はない。そこでこれらを並べた「兎角亀毛(とかくきもう)」ということばは、存在しないものを意味する。これは仏典にあることばである。

 空海の青年時代の著作『三教指帰』には兎角公、亀毛先生という人物が登場する。兎角公の息子の名は蛭牙(しつが)公子であり、この蛭牙というのも蛭(ひる)には牙、すなわち歯がないことから存在しないことを意味する。この著作には虚亡隠士や仮名乞児も登場するが、これらもまた実体のないことを意味する名前がついている。

 論著の中に架空の人物を登場させるとき、こうした「ありえないもの」や「なんにもない」というような意味の名をつけることは中国の古い文章にはみられる。その代表的なものは漢の司馬相如(しばしょうじょ)の「子虚上林賦(しきょじょうりんふ)」である。この賦では虚言を意味する子虚という名の人物と、架空の人間を意味する烏有(うゆう)先生、実在しないという意味の亡是公(ぼうぜこう)が登場する。
 ちなみに「烏有」は訓読すると「烏(なん)ぞ有らんや」となり、どうして有ろうか、いや無いという意味。何も無くなってしまうことを「烏有に帰す」という。

 この「子虚上林賦」は子虚が楚王の庭園の見事さを述べ、烏有先生が斉王の庭園を自慢し、最後に亡是公が天子の上林苑のすばらしさを説くという構成になっている。空海の『三教指帰』が、亀毛先生が儒教を学ぶことの効果を述べ、虚亡隠士が道教のすばらしさを説き、最後に仮名乞児が仏教の優位を論ずるという構成になっていることと比べあわせると、架空の人物名もよく似ていて、影響を受けているのは明らかである。
 
  『三教指帰』に文章表現や構成上の影響を与えた論著は他にもあるのだが、その中で、漢の王褒(おうほう)の「四子講徳論」も、微斯文学(びしぶんがく)、虚儀夫子(きょぎふうし)、浮遊先生(ふゆうせんせい)、陳丘子(ちんきゅうし)という四人の対話による筋立てである。これら登場人物の名も微・虚・浮遊という実体のなさそうなはかなげなものになっている。(2008/2/6)

 


 孔子の姓名は孔丘、(あざな)は仲尼である。これを読んで、あれっと思う人もいるかも知れない。なぜ尼(あま)なのかと。そもそも孔子の時代には仏教は中国には伝わっていない。釈迦は孔子と同時代の人である。それなのに、なぜ、男性の孔子が尼なのか。

 女性の仏道修行者を意味する梵語(サンスクリット)のbhiksuniは中国において音訳されて比丘尼と書かれた。男性修行僧はbhiksuといい、比丘と書く。ビク、ビクニは苾芻、苾芻尼と書くこともあり、空海は上表文や書状においてしばしば苾芻(ひっすう)空海と自称している。
 尼は比丘尼、あるいは苾芻尼の略称である。つまり、単に「ニ」という音に当てられた字であって、本来はその字に女性仏道修行者の意味はないのである。

 尼の字は、『説文解字』では「从後近之(後ろよりこれに近づく)」とあって、近づく、近いの意味がある。「昵懇(じっこん)」の「昵」と通じる。やすんずる、いこう、さだめる、などの用例もあるようだ。

 孔子の字(あざな)については、尼丘(じきゅう)という山に祈って授かった子であったから、名を丘、字を仲尼としたといわれている(『史記』孔子世家)。ちなみに仲は次男であることを示す。

 北魏・孝文帝の時代に姓は陽、名は尼、字は景文という人物がいて、『魏書』巻72に立伝されている。文才をもって知られ、秘書著作郎を務めた。もちろん、尼僧とは全く関係がない。

 ちなみに僧の字も梵語のsamghaの音訳である僧伽の略である。僧伽とは比丘の集団をいうことばであったが、一人の比丘をいうようにもなった。僧の字は『集韻』(宋代編纂の字書)には「不寧也(寧らかならざるなり)」とあるが、用例は知らない。
 今、僧の字を含む熟語のすべては僧侶の意で用いているといってよい。ただ、王羲之の後裔でもある南斉の王僧虔をはじめとして、南朝人に名に僧のつく人物が何人かいるが、その由来は何であろうか。いささか気になる。

 寺の字にも触れておこう。寺は役所の意であった。史書によく出てくる「鴻臚寺(こうろじ)」というのは宮中の儀式や来朝した異民族の接待をつかさどる役所のことで、日本からの遣隋使・遣唐使もここで世話になったのである。低い位の役人を寺人といい、特に後宮の仕事に従事する者、すなわち宦官を寺人ということがある。仏教伝来後は僧侶の居住する所を寺というようになったが、それ以前の用例には気をつけなければならない。(2008/2/27)

 


 虫は大きな頭をもつヘビをかたどってできた字で、マムシを意味し、音は「き」である。マムシの意の虺(き)の原字である。部首として爬虫類や貝類、昆虫類などの小動物を表わす。

 蟲は昆虫類の総称で、音は「ちゅう」である。この字は昔から略して虫と書かれることがあり、現在は「むし」の意味で略字の虫を用いている。

 蟲はまた動物の総称としても用いられる。『大戴礼記』易本命篇に次の一文がある。

有羽之蟲三百六十而鳳凰為之長、有毛之蟲三百六十而麒麟為之長、有甲之蟲三百六十而神亀為之長、有鱗之蟲三百六十而蛟龍為之長、倮之蟲三百六十而聖人為之長、 此乾坤之美類、禽獣万物之数也、
(う)有るの蟲、三百六十にして鳳凰これが長(ちょう)(た)り。毛有るの蟲、三百六十にして麒麟これが長為り。甲(こう)有るの蟲、三百六十にして神亀これが長為り。鱗有るの蟲、三百六十にして蛟龍(こうりゅう)これが長為り。倮(はだか)の蟲、三百六十にして聖人これが長為り。此れ乾坤の美類、禽獣万物の数なり。

 「羽蟲(うちゅう)」ははねのある動物、すなわち鳥類。三百六十種あって、その長は鳳凰であるという。「毛蟲(もうちゅう)」は日本語のケムシではない。毛のある動物、すなわち獣(けもの)類をいう。これも三百六十種あって、その長は麒麟。「甲蟲(こうちゅう)」は日本ではカミキリムシやカブトムシといった昆虫類の俗称でもあるが、甲羅のある動物、すなわち亀類をいうことばでもある。その長は神に供えられ占いに用いられる神亀であるというが、これは種類ではなく用途である。「鱗蟲(りんちゅう)」はうろこのある動物、つまり魚やヘビや龍をいう。倮は裸と同じで、「裸蟲(らちゅう)」は人間。その中の長は聖人であるという。

 日本語の慣用句では、「虫がいい」「虫の居所が悪い」「虫が知らせる」「虫が好かない」「泣き虫」「本の虫」「悪い虫がつく」など、いろいろな虫が登場する。具体的な昆虫になぞらえて使う「虫」もあり、感情や意識が心中の虫に引き起こされると考えたことからの用法もある。幼児が発作的に泣き出したり腹痛をおこしたりするのを「疳(かん)の虫」というが、これは寄生虫のせいであると考えられていたからである。

 気に入らない人を「ナフタリン」という。そのココロは「虫が好かない」。これを知っている人はもう少数派であろう。(2008/3/14)


 


 篇は竹かんむりに扁。編は糸へんに扁。この扁は、いた(板・版)やふだ(札)の意で、篇は竹のふだ、すなわち古代において文字を書いた竹簡のことである。そこから書物の意味になったが、巻と同様に書物の区分けに用いられることも多い。前篇・後篇や『論語』学而篇などと使う。
 編は文字を書いた竹簡を糸で綴じる意で、糸であむ、書物を作るの意味になった。「韋編三絶」は、孔子が『易』を愛読して、なめし革の細ひもで編んだ所が三回も切れてしまったという話(『史記』孔子世家)に基づき、何度もくりかえし書物を読むことをいう。

 篇と編の使い分けはあいまいで、通用されることが多い。篇は常用漢字になく編が書きかえ字になっているから、最近は特に混用されているようである。しかし、篇は一つの書き物、編は篇を編んだものだから篇の集合体、また複数の書物のまとまり、というイメージは大事にしたい。
 『広辞苑』で「ちょうへん」を調べると
ちょうへん【長篇・長編】①編章の長い詩歌・文章または小説。②長編小説の略。
ちょうへん・しょうせつ【長編小説】取材する世界が広汎にわたり、構想も複雑で登場人物も多数に及び、量においても長い小説。
とあり、篇と編の本来の字義の違いと通用・混用とのはざまで揺れている実態がうかがわれる。小説に限っていえば、長さの違いで短篇と長篇に分かれるが、この篇は編と書くこともある。内容や構想において規模の大きな小説を長編小説というが、このときは編を使うということになる。ついでに、説明文中に出てくる「編章」を同書で調べると、
へんしょう【篇章・編章】詩文の篇と章と。文章上、句の重なったものを章といい、章の重なったもの即ち篇を以て首尾完結する。転じて、文章、詩文。
とあって、見出しに編の字があるのに、説明文中は篇を用いている。ここは見出しも篇章のみにして、上の「ちょうへん」の説明も篇にすべきであろうが、実際に「編章」という使用例があるのかもしれない。

 一冊の書物の中の区分けには、やはり篇を使いたい。学生の書くものを読むと篇名を「○○編」としているのによく出会う。現代日本の文学では司馬遼太郎『竜馬がゆく』が立志篇以下五篇という構成であり、五木寛之の『青春の門』も筑豊篇などから成っている。最近は篇立ての長編小説をあまり見かけないが、書きかえ字の編になっているのに出会うことはごめんこうむりたい。(2008/4/2)
 


 中国の街中で見かける「雀巣」の看板。これはNestle(ネスレ)の訳語である。nestleの本来の意味の「巣を作る」にちなんで作られたのだろう。

 巣の字は見たとおり、木の上に作られた鳥のすをかたどってできた字である。本字では果の上に「く」が三つならんでいて、小枝を集めて作った様子をよく表している。この字を見ると、あるエピソードを思い出す。当コラム31で、反乱の首謀者がみずからの名を分解した予言書を作らせることがあると書いた。その一つの例である。

 皮日休という文人がいる。唐の咸通中の進士で、著書に『皮子文藪』『松陵唱和詩集』がある。『旧・新唐書』には立伝されていないが、『唐才子伝』巻八に次の話が載っている。
 黄巣の乱(875~884)のとき、皮日休は陵の副使となったが、賊軍の手に落ちた。黄巣は彼の才を惜しんで翰林学士の地位を授け、彼に讖文(予言書)を作らせて民衆を惑わそうとした。皮日休の作った文は次の通り。
欲知聖人姓、田八二十一。欲知聖人名、果頭三屈律。
(聖人の姓を知らんと欲せば、田八二十一。聖人の名を知らんと欲せば、果頭三屈律)
黄巣は、彼が心中に恨みを抱き自分を譏ったに違いないと思い、彼を殺してしまった。

 皮日休の作った予言書は、「聖人の姓は田・八・二十一の組み合わせ、聖人の名は果の頭に三つの曲がって立つもの(律=立)がある」という意味で、聖人の姓名が黄巣であることを示すものである。
 これを読んだ黄巣が喜ばなかったのは、彼自身の頭髪が少なかったからだといわれている。「果」は「顆」に通じるので「果頭三屈律」は丸い頭に毛が三本の意味になる。また、律には櫛けずる意味がある。『荀子』礼論篇に「濡櫛三律」とあり、注に「律、理髪也」とある。とすると、「果頭三屈律」は、丸い頭は三度櫛けずればそれで終わり、ということになる。

▲2002 年当時の二十八都鎮
 唐末に四川を除く中国のほとんど全土を荒らして唐朝滅亡の契機を作ったとされる農民の大反乱が起こり、黄巣はその指導者であった。筆者は2002年夏に中国福建省から浙江省に至る唐代の官道を旅したことがある。黄巣軍が通った道でもあり、それより前の804年に遣唐使一行とともに空海がたどったと思われる道でもある。福建省浦城から浙江省江山に向かう山越えの途中に仙霞関があり、そこに黄巣が通ったという説明の碑があった。そこから浙江省に入ったあたりに二十八都という変わった名の鎮(村)がある。黄巣軍が陣を布いた所であって、全国各地からの人がここに集まったため二十八もの方言が行き交ったということからついた名だそうだ。今も山間の村であるのに姓の種類が多いという。街道の両側に清代の住居が並ぶ風情はなかなかのもの。古鎮ブームの中国で今頃はここも整備されて観光地として賑わっていることだろう。(2008/4/16)

>漢語百題 (51)~
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