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(59) 都合 (つごう) (60) 張本 (ちょうほん) (61) 還暦 (かんれき) (62) 箕裘 (ききゅう)
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▼漢語百題 (51)~ >漢語百題 (1)~(50)
 


 今年度の私の授業の履修生に毒島(ぶすじま)という学生がいて、嘗ての東映フライヤーズの毒島選手を思い出した。名打者という評判であったが、顔やプレーをおぼえているわけではない。ただ、そのインパクトある姓が子供心に忘れられなかったのである。学生たちに聞くと「ストッパー毒島」というマンガがあるとかで、もはや難読姓ではなくなっているらしい。
 毒を「ぶす」と読むのは附子(ぶし・ぶす)から来ている。附子とはトリカブトの根から取る生薬で、鎮痛などに使用されるが猛毒でもある。烏頭(うず)ともいう。

 毒といえば、中国の史書に登場する有名な毒として鴆毒がある。澁澤龍彦の『毒薬の手帖』にはさまざまな毒薬をめぐるエピソードが集められているが、ほとんどがヨーロッパのものであり、中国産の毒としてはヒキガエルから採る蟾酥(せんそ)が登場するのみで、鴆毒は取り上げられていない。

 鴆とは羽に毒があるという鳥の名前。『山海経(せんがいきょう)』中山経には「女兀之山、其上多鴆」とあり、その注に「鴆、大如鵰、紫緑色、長頸赤啄、食蝮蛇類」とある。つまり、ワシほどの大きさで、紫がかった緑色、長い首と赤いくちばしを持ち、マムシや蛇などを食べるということだが、あてにはできない。マムシなどを食べるというのも毒鳥のイメージが先行しているのであろう。

 この鳥の羽を酒に浸した毒は古くは『春秋』や『国語』に見え、漢代以降もしばしば暗殺に用いられている。その毒酒を鴆酒、鴆毒で殺害することを鴆殺という。『漢書』高五王伝によると、漢の高祖劉邦の皇后であった呂后(呂太后)は高祖の夫人たちの息子を殺害するのに鴆毒を用いている。
 呂太后の実子である恵帝と、高祖が若いときに外に作った斉王肥とが呂太后の前で宴をすることになったとき、恵帝は斉王を上座に坐らせ家族同様の礼をした。これに怒った呂太后は側近に命じて二つの杯に鴆酒を注いで前に置かせ、斉王に呂太后の長寿を祝って飲み干させようとした。ところが、斉王が立ち上がると恵帝も立ち、一緒に寿の祝いをしようとした。恵帝も毒酒を飲んでしまうことを恐れた呂太后は、自分も立ち上がって杯をひっくり返してしまった。斉王はこれを怪しみ、そのあとは飲まないようにし、酔ったふりをして去り、事なきを得たのであった。
 高祖の死後に呂太后が戚夫人を虐待して殺害する話は有名であるが、当然ながらその息子の趙王如意にも容赦はしなかった。長安に呼び出し鴆殺してしまったのである。
 また、呂太后は呂氏の娘を趙王恢の后とし、側近たちも呂一族で占めたため、趙王恢は思うように振る舞えなかった。しかも王の愛姫を后は鴆殺してしまう。悲しんだ王は自殺する。呂太后は女のせいで自殺するのは宗廟の礼を無視しているとして、その継嗣を廃してしまった。趙王の后が鴆毒を用いたのも呂太后の指図であった可能性が高い。

 この毒は皇族が自決に用いるものでもあったらしい。王朝が衰退し、反乱軍が今日にも攻め入ろうとするとき、皇帝は鴆毒を用意する。賊の手にかかるという恥を受ける前に自殺し、せめてもの名を保とうとするのである。隋の煬帝(ようだい)も鴆毒を用意していて、宇文化及(うぶん かきゅう)らに攻め入られた際、「天子死自有法、何得加以鋒刃、取鴆酒来(天子死するに自ずから法有り、何ぞ加ふるに鋒刃を以てするを得ん。鴆酒を取りて来たれ)」というが許されず、縊殺されてしまった。

 このように史書にたびたび登場する鴆毒であるが、そもそも羽に毒のある鳥というものがいるのだろうか。そのような鳥は実在しないといわれている。また、それぞれの時代の鴆毒が同じものであったという証拠もない。それぞれの王朝の宮中において謎の毒薬が密かに作られ、その製法を隠すために鴆という鳥をでっちあげ、共通名称にしてきた、とは考えられないだろうか。(2008/5/7)

 


 漢詩に「水上」とあれば川のほとり、岸辺をいう。南宋初期の陳与義の詩「江南春」は次のように始まる。
雨後江上緑 雨後 江上の緑
客悲随眼新 客の悲しみ 眼に随ひて新たなり
 「江上の緑」は長江岸辺の木々の緑を指すことはいうまでもない。雨の後、長江の岸辺の緑が眼に映える。北宋滅亡とともに南宋の都臨安(杭州)に移ったばかりの旅寓の身には、この地で見るものすべてが悲しみを新たにする。みずみずしく美しい江南の風景も、亡国の民には悲しみの風景なのである。

 同様に「湖上」は湖のほとり。北宋の蘇軾の詩「飲湖上初晴後雨」の「湖上」は西湖のほとりをいう。杭州に刺史(長官)として赴任していた蘇軾が西湖のほとりで飲んでいると、晴れていた空が雨模様になっていく。晴れたときの波の光の美しさはもとより、次第にかすんでいく様子を「雨亦奇也(雨も亦た奇なり)」と賞め、有名な次の句を詠ず。
欲把西湖比西子 西湖を把(と)りて西子に比せんと欲すれば
淡粧濃抹摠相宜 淡粧濃抹 摠(すべ)て相宜し
西湖をいにしえの美女になぞらえて、晴れも雨も、すなわち薄い化粧も濃い化粧もどちらもいいものだというのである。
 さて、『奥の細道』の旅で象潟(きさがた)を訪れた芭蕉は雨に遭う。「日影やゝかたぶく比(ころ)、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作(もさく)して、雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷(たのもしき)と」浜辺の小屋で雨の夜を過ごした明朝、朝日の中に象潟に舟をうかべる。このとき詠んだ句が、
象潟や 雨に西施がねぶの花
である。象潟でねむの花が雨にうたれて閉じているのを見かけ、西施が目を閉じて眠っているさまに譬えた、いわゆる「見立て」の趣向の句であるが、「雨も又奇也」や西施の語から、上にあげた蘇軾の詩に触発されたことは明らかである。

 「上」と同様「中」の意味にも注意が必要である。「水中」「海中」は川や海の沖を指し、水面下をいうのではない。唐の杜甫の詩「江村」には次の句がある。
自去自来梁上燕 自ら去り自ら来たる梁上の燕
相親相近水中鴎 相親しみ相近づく水中の鴎
てんでに行き来している梁(はり)の上のツバメに対応させて、群がって泳ぐ川の中のカモメを描いている。カモメは水面上を泳いでいるのであって、潜っているのではない。

 『史記』秦始皇本紀に「海中有三神山(海中に三神山有り)」とある。これは、東の海の沖に三つの神仙(仙人)のいる山(島)があるということ。その話を信じた始皇帝が徐福に仙薬を取りに行かせたことから、日本各地に徐福伝説ができた。実は山東半島からは蜃気楼がみえるため、それを三神山と思っていたらしい。
 この「海中」を海面下と受け取った昔の日本人が発想したのが、浦島太郎の竜宮城なのではないだろうか。現実を離れた夢のような仙界が、なぜわざわざ海底に設定されなければならなかったのか。その不自然さは、「海中」の読み違いと考えれば納得できる。助けた亀に連れられて行ったのは海の沖に浮かぶ島で、そこで美しい仙女たちにもてなされたとあるべきだったのだ。もっともそれでは、「鯛やヒラメの舞い踊り」の歌はできなかったわけだが。(2008/5/7)

 


 大阪の古い名門女学校の同窓会は金蘭会といい、その後身である府立大手前高校同窓会にもその名が受け継がれている。また、その同窓会をルーツとする、金蘭会および金蘭の名を冠する中学から大学までが存在している。この「金蘭」の語は、『易経』繋辞伝の次のことばに由来する。 
二人同心、其利断金、同心之言、其臭如蘭
二人 心を同じくすれば、其の利なること金を断ず。心を同じくするの言、其の臭は蘭の如し。
 二人の心が通い合って同じになれば、金属を断ち切るほどの強さを持つ。心を通い合わせた者どうしのことばは、蘭のように芳しい香りを放つ。
「風信帖」(高野山大学選書第5巻『現代に生きる空海』より)
そこで、固く結ばれた芳しい友情を「金蘭之契(きんらんのちぎり)」「金蘭之交(きんらんのまじわり)」というようになった。「蘭契」「蘭交」ともいい、良い友を「蘭客」ともいう。

 空海が最澄に宛てた書状(「風信帖」)の第1通には末尾の宛名が「東嶺金蘭」と書いてある。東の山に住む親しい友という意味で、もちろん最澄を指す。文中にも「我金蘭」とある(図版右から7行目下)。このように金蘭を友人そのものの意味で用いる例は他には見かけないように思う。

 蘭というと、現代では華やかな西洋種の蘭を思い浮かべるが、東洋種の蘭の花は地味で目立たない。中国では古くから蘭はその香りを愛でるものであった。漢の武帝の作と伝えられる「秋風の辞」には次の句がある。
蘭有秀兮菊有芳 蘭に秀有り 菊に芳有り
懐佳人兮不能忘 佳人を懐ひて 忘るる能(あた)はず
蘭にならんで菊もまた、この時代では香りを楽しむもの。そしてどちらも佳人を想起させるものであった。

 蘭はその香りのよさから、美しいものや立派なもののたとえに用いられる。特に人格のすぐれたようすをあらわすことが多い。「蘭桂」は蘭や桂がともによい香りであることから、立派な人格や人望にたとえられる。四字にした「蘭薫桂馥(らんくんけいふく)」は互文(「漢語百題」12参照)で、蘭や桂の薫り高く馥郁(ふくいく)たるさまをいい、子弟の優秀さや子孫の繁栄を讃えることばとしても使われた。「蘭芳」「蘭薫」は美徳のたとえに用いられ、「蘭石」は、蘭のように芳しく石のように固いということから、人の天性の立派さのたとえに用いられた。

 わが国で「蘭学」といえば、オランダ語で学んだ西洋の学問を指す。オランダの音訳である阿蘭陀(和蘭とも書く)から来ていることはいうまでもない。江戸中期、享保年間(1716~1736)に幕府の書物奉行青木昆陽がオランダ語の書物を訳読したのに始まるとされる。。(2008/5/7, 2008/8/8改訂)

 


 四川省東部から湖北省にかけての巴東(はとう)と呼ばれる一帯には猿が多く棲息していて、いわゆる三峡下りの両岸からは猿の声がよく聞こえた。北魏の酈道元(れきどうげん)はその著『水経注』にこう書いている。
毎至晴初霜旦、林寒澗粛、常有高猿長嘯、属引淒異、空谷伝響、哀転久絶、
故漁者歌曰、巴東三峡巫峡長、猿鳴三声涙沾裳。
晴初霜旦に至る毎(ごと)に、林寒く澗(たに)(しず)かに、常に高猿の長嘯する有り、属引(しょくいん)淒異(せいい)にして、空谷響きを伝え、哀しみ転(うた)た久しく絶(きは)まる。故に漁者の歌に曰はく、
巴東三峡 巫峡(ふきょう)長し
猿鳴三声 涙 裳(もすそ)を沾(うるほ)
三峡とは長江中流の瞿塘峡・巫峡・西陵峡の三つをいい、中でも巫峡が長く感じられる。というのも猿の声が悲しげに響いて、涙が止まらないからと詠う。猿の声は峡谷を旅する者の寂しい思いをかき立てるのであった。

 平安時代の漢詩人大江澄明(おおえのすみあきら)は上の歌に興を得て、次の詩を作っている。
胡雁一声 秋破商客夢 胡雁一声  秋に商客の夢を破り
巴猿三叫 暁霑行人裳 巴猿三たび叫び 暁に行人の裳を霑(うるほ)
大江澄明にとって巴東の猿の声は、異境のロマンへと誘うものであったのであろう。
また、江戸時代の俳人其角(きかく)の次の句も上の「猿鳴三声」に材を取ったものといわれている。
声かれて猿の歯白し峰の月

 この地方の猿声は李白の詩「早発白帝城(つとに白帝城を発す)」にも詠われている。
朝辞白帝彩雲間 (あした)に辞す 白帝彩雲の間
千里江陵一日還 千里の江陵 一日に還る
両岸猿声啼不尽 両岸の猿声 啼いて尽きざるに
軽舟已過万重山 軽舟已に過ぐ 万重の山

 李白は「悲歌行」の末尾にも猿の声を登場させている。
富貴百年能幾何 富貴百年 能(よ)く幾何(いくばく)
死生一度人皆有 死生一度 人皆な有り
孤猿坐啼墳上月 孤猿坐して啼(な)く 墳上の月
且須一尽杯中酒 (しばら)くは須(すべから)く一たび杯中の酒を尽すべし
たとえ富貴を得たとしても人生たかだか百年、死はだれにでも訪れる。月光のもと、忘れ去られた墓の上で猿だけが啼く。いずれそういうことにもなろうが、今しばらくは杯中の酒でも飲み干そう。ここでは、群れから離れた猿の声が寂しさを強調するものとして使われている。

 さて、マーラーの「大地の歌」の歌詞は、ベトゲの訳詩集『中国の笛』に基づいている。中国語を知らなかったベトゲは、19世紀末にヨーロッパで出版されていた中国詩のドイツ語訳やフランス語訳をもとに自由に模倣した。マーラーは、『中国の笛』の詩をそのまま用いたり、一部変形させたり、二つの詩をつづり合わせたりしている。その第一楽章「大地の悲しみによせる酒の歌」はベトゲもマーラーも原詩は李白の詩であると明記しているが、李白にそのまま該当する詩はない。内容的に一致箇所が比較的多いとされるのは、上にあげた「悲歌行」と「将進酒」である。第一楽章の終盤をあげてみよう(渡辺護訳)。
かなたを見よ! 月明の墓場に
怪しき姿のうずくまれるを。
そは猿一匹! その啼き声が
生の甘き香りの中に鋭く響くを聴け!
酒をとれ! 友よ、今こそ時、
金杯を乾し給え!
生は暗し、死もまた暗し。
ここは「悲歌行」の「孤猿坐啼墳上月、且須一尽杯中酒」に該当すると見られるのであるが、猿のイメージに違いがあることに注目したい。
 猿の声は中国では旅情をかき立て、その寂しさを演出するものとしてよく登場する。「悲歌行」では「孤猿」とあって「墳」「月」 とともに一層の孤独感や無常感を表しているが、ベトゲの訳詩および「大地の歌」では不気味な死の使者の声というイメージで描かれている。ヨーロッパには野生の猿がいないため、中国の山に棲息する猿が理解できず、特殊なものと受け止めているのであろう。

ついでながら、第一楽章で繰り返される「生は暗し、死もまた暗し(Dunkel ist das Leben, ist der Tod)」という思いは、李白のものではない。いかに楽しい人生もせいぜい百年。生は短い、されど楽しい。楽しいからこそそのあとの死は悲しい。その悲しみを酒で忘れて短い生を楽しもう。かくて「且くは須く一たび杯中の酒を尽すべし」と詠うのである。生も死も暗いとするのは、インドも中国も日本も一からげにした19世紀末から20世紀初頭のオリエンタリズム流行下のヨーロッパ人の考えた「東洋的諦観」であって、むしろインド仏教的人生観といってよいものである、と筆者は別のところで書いたことがある。(2008/5/14)

 


 影響は文字通り「かげ」と「ひびき」である。そのまま姿と声という意味に使うことがある。「影響を得ず」とはすがたも声も得られない、まったく消息がつかめないことをいう。また、形につきそう影、声(音)につきそう響きは、形や声のような実体がない。そこで実体のないものという意味もある。『列子』黄帝篇には次の用例がみられる。
紀消子為周宣王養闘雞、十日而問、雞可闘已乎、曰、未也、方虚驕而恃気、十日又問、曰、未也、猶応影響。
紀消子 周の宣王の為に闘雞を養ふ。十日にして問ふ、雞は闘はしむべきかと。曰く、未だしなり。方に虚驕にして気を恃めりと。十日にして又た問ふ。曰く、未だしなり。猶ほ影響に応ずと。
 紀消子は周の宣王のために闘鶏を育てていた。十日たって、もう闘わせることができるかと問うと、まだです、からいばりして気力に頼るだけです、と答えた。また十日して問うと、まだです、影を見ては動き、響きを聞いては応えて鳴くありさまです、と答えた。実際に闘う相手を見極めず、実体のない影や響きに反応してしまうから、まだ実践は無理だというのである。ちなみに、この鶏はさらに十日たっても、敵を求めることに気がはやるとしてまだだとされ、次の十日でやっと「幾矣(ちかし)」とされる。他の鶏の声に応ずることなく、木で作った鶏に見えるようになったからであった。

 形には影、音には響きが必ずつきそうもの。そのように、あるものに他のものが密接な関係があることも影響という。『書経』大禹謨に次のことばがある。
禹曰、恵迪吉、従逆凶、惟影響。
禹曰く、迪(みち)に恵(したが)ふは吉、逆に従ふは凶、惟(こ)れ影響なり。
孔安国の伝には、
迪道也、順道吉、従逆凶、吉凶之報、若影之随形、響之応声、言不虚、
迪は道なり。道に順ふは吉、逆に従ふは凶。吉凶の報は、影の形に随ひ、響きの声に応ずるが若く、虚しからざるを言ふ。
とあり、蔡沈の伝には、
吉凶之応於善悪、猶影響之出於形声也。
吉凶の善悪に応ずるは、猶ほ影響の形声に出づるがごとし。
とある。要するに、正しい道に従うと吉が得られ、悪い道に従うと凶が得られることは、ちょうど影と響きが形と声に従って出てくるように、まさに必然の反応なのだというのである。

 しかし、現代日本語の「他に作用が及んで、反応・変化があらわれること。また、その反応・変化(『広辞苑』)」という意味が出てくるまでには、そして「影響を与える」や「影響力を持つ」などの使い方ができるまでには、もういくつかの変遷をたどらなくてはならないように思う。現代中国語でも日本語と同じ意味で使われているが、この意味の「影響」は近代になってからの日本からの逆輸入ではないかと推測している。(2008/5/27)

 


 斎藤毅著『明治のことば』(講談社学術文庫)を読んでいて、Republicの訳語に共和を当てた経緯を知った。箕作阮甫の養嗣子省吾がオランダ語のRepubliekを翻訳する際、当時の老儒大槻磐渓に問うたところ、西周(せいしゅう)時代の故事にならって「共和」を用いるのがよかろうとなったというのである(余談ではあるが、講談社学術文庫では「西周」に「にしあまね」とルビを振っている。本書第1章に西周(にし・あまね)が頻出していたことによるミスであろう)。

 その故事とは次の通りである。周の厲王が無道の政治をしたため、国民の怨みを買って出奔した。そのとき、周公と召公の二宰相が共に協力して、14年もの間、国王不在のまま政治を行なった。これを「共和」という(『史記』周本紀)。

 Republicは君主を置かず、人民から選出された者が国の代表となる政治体制を意味する。これは近代化以前の日本では想像できない国家のかたちであったため、訳語に困ったのである。ともかく国王不在の政治体制を表す漢語を中国古典から拾い出してきて用いたのであったが、Republicの意味とはもちろん大きく異なる。しかし、これがRepublicの訳語として定着し、今も「共和国」として多く用いられているばかりか、中国でも自らの国号を「中華人民共和国」としている。

 「合衆国」の起源には諸説があるが、斎藤毅氏によると、アメリカ合衆国の「合衆」は衆人が共同して事業を営む意であって、清朝人がRepublicの訳語として用いたのが最初ということだ。これも古典にあることばで、『周礼』春官大宗伯に「大封之礼、合衆(大封の礼には衆を合はす)」とある。したがって、「合衆国」はUnited States の直訳として州を合わせた国、あるいは衆人を合わせた国を意味するのではないのである。
 「合衆国」は1850年前後に日本に入って、文献や外交上で使われるようになった。もし、「合衆国」が定着しなければ、日本製の「共和国」でアメリカは呼ばれていたかもしれないのである。明治初めの日本の文献には「仏蘭西合衆国」などの用例があるが、これは「共和国」と同義であることの証しといえよう。
 ところが、United Statesの訳語として「合衆国」が定着したため、過去にUnited Statesを用いた国名を訳す場合に「合衆国」を用いた例が少なからずある。現在はアメリカとメキシコが「合衆国」である。
 一方、「合衆国」の語を作り出した中国が自国に「合衆国」を用いず、日本で用いられた「共和国」を用いることになったというのも興味深い。United Statesが「合衆国」であり、Republicが「共和国」であるという訳語が定着したためであろう。(2008/5/27)

 


 田辺聖子さんの『田辺写真館が見た“昭和”』(文藝春秋刊、文春文庫にも)はおもしろい。ときどき吹き出しそうになりながら、やがて戦火に消えていったものへの哀惜の念で胸がいっぱいになる。各章の冒頭に川柳を掲げるという趣向も気が利いている。岸本水府をはじめとする大阪の川柳結社「番傘本社」同人の作が多いのも、筆者にとって格別の思いがある。というのも、筆者の義父は若いときから水府さんに師事し、かつて番傘本社の幹事長をしていたこともあったから。ただし、田辺さんの大著『道頓堀の雨に別れて以来なり―川柳作家・岸本水府とその時代』には義父の名も句もでていない。川柳作家としては名句を残さなかったのであろう。

 さて、この書の第六章目にあたる「浪花立志伝(その一)」は、「大阪のどこに一旗あげる余地」という川柳を掲げたあと、次のように始まる。
 私は近頃“君子豹変(くんしひょうへん)”して(この四字熟語が読めず意味も不明、という若者が多いそうである。入試問題に出て、はしなくもそれが明らかにされた、と報じられていた。こういうコトバは、本来、小説・エッセーの中で自然におぼえるものであるが、現代は若者に阿諛追従(あゆついしょう)して─これもダメか─むつかしい字を書かなくなったからなあ。ともかく、君子のくせに意見がくらっと変わることであるが、これは節操を問うより、人生を長く生きてきて考えかたを訂正せざるを得ない事態にたちいたり、主義の看板を塗りかえることである。ああ、しんど……)、執筆の他に講演も引き受けている。

 「君子豹変」は『易経』革にあることば。
君子豹変、小人革面。
君子は豹変し、小人は面を革(あらた)む。
これは、君子、すなわち徳のある立派な人物が、過ちを改めて善に移るさまは豹の毛皮の模様のようにあざやかだが、小人、すなわち徳がなくつまらない人物は、過ちに気づくと顔つきを改めるだけだ、という意味である。

 人はだれでも過ちをする。たとえ君子であっても。ただ、君子が並の人と違うのは、過ちに気づくやいなや、すぐに改めることである。孔子もいっている(『論語』学而)。
子曰、君子(中略)過則勿憚改、
子曰はく、君子は(中略)過たば則ち改むるに憚(はばか)ること勿(な)かれ。
また、孔子の高弟の子貢も次のようにいう(『論語』子張)。
子貢曰、君子之過也、如日月之蝕焉、過也人皆見之、更也人皆仰之、
子貢曰はく、君子の過(あやま)ちや、日月の蝕の如し。過つや人みなこれを見る。更(あらた)むるや人みなこれを仰ぐ。
これは、君子の過ちは、日食や月食のようなもので、過ちをすると人々はみな見ているし、改めると人々はみな仰ぎ見る、という意味。君子は衆目監視の中で、過ちを目にもあざやかに改めてこそ、人から仰ぎ見られるのである(耳が痛い御仁もおられよう)。その、目にもあざやかな改心ぶり、を豹の毛皮のくっきりと美しい模様にたとえたのが「君子豹変」ということばである。

 したがって「君子豹変」は、君子が過ちを改めてきっぱりと善に移ることをいうのであるが、今や、考え方や態度を急変するという意味に使われる。田辺さんは「君子のくせに意見がくらっと変わること」と説明している。これだと、君子は意見を変えないものなのに、が前提となり、本来の意味からすっかり離れてしまっている。

 本書では、多くの若者にはおそらく意味不明な重厚で格調高い漢語が、軽妙な文体のあちこちに適切かつ効果的に多用されていて、さすが田辺聖子さんと敬慕の念をさらに強くしたのであるが、筆者にとっては(あくまで筆者にとっては)この「君子豹変」が瑕疵(かし)となって「画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く」ことになった。(2008/6/10)

 


 結草とは死後の恩返しをいう。この語は『春秋左伝』宣公15年に見える故事にもとづく。いささか長くなるが引用しよう。

 魏顆敗秦師于輔氏、獲杜回、秦之力人也、初魏武子有嬖妾、無子、武子疾、命顆曰、必嫁是、疾病則曰、必以為殉、及卒、顆嫁之、曰、疾病則乱、吾従其治也、及輔氏之役、顆見老人結草以亢杜回、杜回躓而顛、故獲之、夜夢之、曰、余而所嫁婦人之父也、爾用 先人之治命、余是以報、

 晋の魏顆(ぎか)が秦軍を輔氏(地名)で敗り、秦の武将で力持ちの杜回を捕らえた。さて、話は遡って、魏武子には愛人がいたが、その間に子はいなかった。武子が病気になった時、息子の顆に「わしの死後はこれを必ず嫁にやってくれ」といった。病気が重くなってくると「これを殉死させよ」といった。武子が亡くなった時、顆は彼女を嫁に出してやり、「病気が重い時は意識も乱れているものだ。私は冷静な時の命に従ったまでだ」といった。輔氏の戦いが起こって、顆は老人が草を結んで杜回をさえぎるのを見た。杜回はつまづいて倒れ、捕まった。その夜、魏顆は老人の夢を見た。老人は「私はあなたが嫁にやってくれた婦人の父です。あなたは父上の冷静な時の命を用いてくれた。だから恩返しをしたのです」といった。この老人はすでに亡くなっていて、亡霊となって現れ、草を結んで魏顆を助けたのであった。

 この話で興味深いことの一つは、死ぬ間際の遺言よりまだ病状が進まないころの遺言を重視したということ。女を助けるための方便ともいえようが、冷静な判断が可能なときのことばを重んずるというのは理にかなっている。

もう一つは、老人の亡霊が夢の中で語るということである。死者は生きている者の夢の中でしか語ることができないのである。『荘子』至楽篇にも、昼に見た髑髏が夢の中で語る話が出てくる。つまり、夢は生の世界と死の世界を結ぶものであるようだ。
 われわれの身近でも、病の床にあって、夢で今は亡き肉親に出会い誘われるままについていったが途中ではぐれて目が覚めた、などという話を聞くことがある。それは危なかった、ついていったらきっと死の世界に行っていただろう、などと老人が語ったりした。夢が生と死の境界にあるとする考えは、われわれの中にもひそんでいるのである。

 さて、この結草の語はどういうふうに使うのだろう。室鳩巣の「赤穂義人録」巻上に使用例が見られる。元禄16年(1703)2月、前年12月に亡君の仇を討った浅野の家臣四十六人に自裁の命が下った。そのとき、大石内蔵助良雄は預けられていた細川越中守に向かって次のように礼を述べた。
自去年蒙左右恩庇、事事過厚、実出非望、非臣等結草所能報也、
去年左右の恩庇を蒙りしより、事事厚きに過ぎ、実に非望に出づ。臣ら草を結ぶも能く報ゆる所に非ざるなり。
過分な厚遇に対して、死んだあとで恩返しをしようとしても到底報いるものではありませんと感謝しているのである。(2008/7/14)

 


 「都」の意味をたずねると、おそらく100%の人が「みやこ」と答えるであろう。ほかに意味はという問いに答えられる人はどれほどいるだろうか。中国語では「すべて」という意味でよく用いるから、中国語学習者にはおなじみのはず。ただし、現代になってからの用法ではない。「都」は昔から助字(当コラム35参照)としては「すべて」という意味で使われていたのである。『文選』から魏文帝「与呉質書(呉質に与ふる書)」の語句を次に引いておこう。
頃撰其遺文、都為一集。
(ちかごろ)其の遺文を撰し、都(すべ)て一集と為す。

 したがって、「都合」はすべて合わせて、合計という意味である。日本でも古くはこの意味で用いられていて、『広辞苑』では『平家物語』から「都合其勢七万騎」の例文を引いている。
 しかし、次第に異なる意味での使い方が一般的になっていったようで、『広辞苑』では(「都」はすべての意)とした上で、上記の意味を①とし、②ほかの事柄との関係、なりゆき、ぐあい、③やりくり、てはず、④ぐあいのよいさま、場所、⑤要するに、結局、をあげている。

 小学館の『日本語大辞典』には次のように書かれている。
①(―する)合うこと。合わせること。またその合計。総計。副詞的にも用いる。
②物事が曲折を経て落ち着くところ。つまるところ。
③(―する)工面すること。算段すること。また、その算段。やりくり。てはず。
④ぐあい。状況。状態。事情。
⑤ぐあいのよいさま。また。そういう場所。
引用の例文は省略するが、②以降は江戸時代から見られるようだ。

 『日本語大辞典』のダイジェスト版ともいうべき『国語大辞典』では、①に(「都」はすべての意)という注記をつけ加えている。『広辞苑』では同じ注記が冒頭にあるが、②以降には「すべて」の意味は無関係であるから、『国語大辞典』の書き方のほうが適切である。双方の③にあがった「やりくり、てはず」は「手番(テツガヒ)」の略転という説もあるようだ(『日本語大辞典』は『大言海』を引く)。 

 要するに、「都合」は中国人との筆談で使っても通用しないことばの一つではある。(2008/8/8)

 


 ここでいう張本は嘗ての強打者、張本(はりもと)勲さんのことではない。張本は「本を張る」ことで、すなわち伏線を張る、そこから伏線の意でも用いる。事件の経過を述べる際に、あらかじめ結果に繋がる伏線を張っておき、事件の結果が出た段階で、あれがこの伏線だったのだというように使う。注者が事件発端の伏線部分に書き入れることが多い。

 『大漢和辞典』には「後に書く文章の本となるものを前に記したもの。伏線」とあり、用例が三箇条挙げてある。
 用例1は『春秋左伝』隠公五年「翼侯奔随」の注である。
   晋内相攻伐不告乱、故不書、伝具其事、為後晋事張本。
 晋の国内では内乱があったのにそれを魯には告げなかった、だから『春秋』本文では書いていない。ところが伝ではそのことを一部始終書いているのは、のちの晋の事件の伏線を張っているからである、という意味。四句目の「為後晋事張本」は『大漢和』の句点に従うと「後の晋の事の張本を為す」となり、「張本」を「伏線」ととらえている。 
 用例2は白居易の「六讃偈」の「為来世張本」。ここも「来世の張本を為す」と読んでいる。
 用例3は蘇軾の「前赤壁賦」の「少焉月出於東山之上(しばらくして月 東山の上に出づ)」の注「前言清風、此言月出、一篇張本在此」。前に清風をいい、ここに月の出を言うのは、この賦一篇の伏線がここにあるのである、という意味になるのであろう。

 さて、「為○○張本」は上の用例1・2にみるように「○○の張本を為す」と読んでいいのだろうか。これは「○○の為(ため)に本を張る」と読むべきではないだろうか。用例1は「後の晋の事のために本を張る」、用例2は「来世のために本を張る」と読むのがいいのではないかと思う。本来は「本」が「伏線」の意味で、張本が「伏線を張る」であろう。それが定着してきて、張本で伏線の意味になった(「伏線」も「線を伏す」から「伏した線」をいうようになったのだろう)。用例3はそれにあたるのではないだろうか。

 「張本」の語を知ったのは、『資治通鑑』の演習に初めて出た大学3年のころである。宋の司馬光の『資治通鑑』は優れた通史であり、その文章も定評がある。元の胡三省の注もまた優れたものとして知られる。この胡注ではしばしば「為○○張本」が見られるが、我が恩師は「○○のために本を張る」と読んでおられたと記憶する。
 一例をあげると、唐紀の太宗貞観十六年十一月丁巳に、高麗でクーデターが起こり首謀者の暴挙に国民が苦しんでいると報告があったと記されている。その注には「為征高麗張本」とある。「高麗を征するが為に本を張る」、すなわちこのあとの高麗征伐の根拠をここにあらかじめ示しているというのである。

 ところで、現代では張本人ということばがよく使われるため、張本をその意味だと誤解することもあるようだ。ずいぶん前のことであるが、私の論文を読んだある方が、文中の「張本」は張本人と訳すべきを誤訳していると指摘してこられた。私は、『資治通鑑』の胡注の例文を示して反論申し上げた。するとその方は、初めて張本を辞書で引いてみて、伏線という意味があるのを知ったと書いてこられた。先入観で張本人と思いこんでおられたのであった。もっとも「○○の為に本を張る」と読むべきを「○○の張本を為す」という読み方は変えようとなさらなかったが。(2008/8/20)

 


 干支は、すでに述べた(当コラム23)ように60通りの組み合わせがあって、これを年を数えるのに用いると60年後に同じ干支が巡ってくることになる。甲子(かっし、きのえね)の年に生まれた人は次の甲子の年には満60歳になっているのである。そこで暦が一巡りしたということで還暦と呼ぶ。数え年では生まれたときに1歳と数えるから、還暦は61歳。もちろん当人にとっての時期としては変わらない。平均寿命がそれほど長くなかったころ、還暦は長生きの一つの目標であったに違いない。赤い頭巾に赤いちゃんちゃんこを着るのも、長寿を祝い、かつ赤子に戻ったことを意味するのであろう。

 満60歳を日本では還暦というが、中国では「耳順」や「華甲」を用いることが多い。「耳順」は『論語』為政篇の「六十にして耳順(みみしたが)ふ」に基づく(当コラム34参照)。「華甲」の華は立派なという意味。あるいは6つの十と1つの一からできているからともいわれる。甲は十干の最初の字で干支を代表することから年齢を意味する。

 70歳を古希(稀)という。これは杜甫の「曲江詩」の句「人生七十古来稀(まれ)なり」に由来することはよく知られている。日本では長寿の祝いとして、古稀のあとに喜寿、米寿、傘寿、卒寿、白寿と続く。喜寿は喜の異体字が七十七と書くのに似ていることから、七十七歳の祝いである。米は八十八と書くから。傘と卒は略字が八十、九十と書くことから。白の字は百から一を引いたものなので九十九歳の意味。

 漢字には耆(き)や耋(てつ)や耄(もう)という字がある。耆は60歳または70歳以上の老人、耋は80歳の老人、耄は80か90歳の老人をいうとあるが、きわめて年老いた者という意味で用いるため、その年齢には幅があり、また限定しないこともある。

 寿(壽)の字の中には老の形が含まれていることからもわかるように、この字は長生きをする、長生きを祝うという意味である。「寿(じゅ)す」とは目上の人にさかづきをすすめて健康を祝い長寿を願うことで、宴会の席での慣例であった。つまり、本来は長寿を祝う場に限定して用いられたものであったのだが、日本では(長寿に限らず)めでたいことをことばで祝う(ことほぐ)の意味に用いられるようになった。喜寿、米寿といったことばでの「寿」は本来の意味で用いられている例である。(2008/8/20)

 


 江戸後期の蘭学者大槻玄沢(1757~1827)の『蘭学階梯』(岩波日本思想大系64)を読んでいると巻之上に「余等、世々和蘭瘍医ニ箕裘ス」とあった。頭注によると「和蘭瘍医」は「オランダ流外科医」、「箕裘」は「父の家業をうけつぐ」。そこでここは、われわれは代々オランダ流外科医を家業として受け継いできた、の意となる。

 「箕裘」は『礼記』学記篇の次のことばに基づく。
良冶之子必学為裘、良弓之子必学為箕。
良冶(りょうや)の子は必ず裘を為(つく)るを学び、良弓の子は必ず箕を為るを学ぶ。
 名人といわれる鍛冶屋の子は、まず柔らかい皮で裘(かわごろも)を作ることから学び、弓作りの名人の子は必ず柔らかい竹を編んで箕(み)を作ることから学ぶ。扱いやすい素材を用いて、親の仕事を見ながら技を習得していくことをいい、ここから父祖の業を見習って受け継ぐことを「箕裘」というようになった。

ついでながら、箕は穀物にまじったゴミを分ける道具で、大きなちりとりの形をしている。ちりとりという意味もある。大阪府の北部にある箕面(みのお)市は近隣の府県以外の人には読みにくい地名であろう。市の西北部の山間に近畿で2番目に大きいという滝があり(1番は那智の滝)、その形が箕に似ているところから、古くから箕面の滝と呼ばれていた。滝の名がその辺りの村の名になり、市の名になった。だから「み」の「お(も)」であって、「みのう」とルビをうつのは正しくない(岩野泡鳴の短篇小説「ぼんち」では「みのう」と読んでいる)。また、箕の字を「みの」と読み、雨具の「蓑」と混同していることもある。

 閑話休題。大槻玄沢の父は仙台藩の支封一ノ関藩の医官大槻玄梁である。玄沢が『蘭学階梯』の例言の冒頭に「吾ガ藩ノ清庵建部先生世々瘍医[ゲクワ]ヲ掌(つかさど)リ、専ニ和蘭ノ法ヲ守ル。余二世師トシ事(つか)フ」と述べるように、一ノ関藩の建部清庵というオランダ流外科医に玄梁・玄沢の親子二代で師事した。したがって玄沢は子供のころから父の学問を見習ってきたわけで、それを「箕裘」と表現したのであろう。

 親の代から蘭法の医学を究めんと努力してきた玄沢であっても、その文章には漢学の深い素養を物語る字句が散りばめられている。それは、蘭学を学ぶにもまず漢学を「箕」や「裘」として学んでいたかのように見える。それは一面正しいといえよう。江戸時代の知識人は、自己表現の手段として漢文およびその書き下し文体しか持たなかったからである。しかし、玄沢は漢学の呪縛を逃れようとしていた。その強い意志が漢学の素養あふれる文章の中にうかがえるのである。(2008/8/20)

 


 芭蕉は奥州平泉で「夏草やつはものどもが夢の跡」の句を詠んだ。芭蕉は「つはもの」に兵の字をあてている。

 兵の字は斧を両手で持つ形からできていて、武器で打つことを表した。そこから武器や軍隊、いくさ、軍事の意味で用いられるようになった。
 日本語としては兵で兵卒、すなわち一人の兵士をイメージすることが多い。芭蕉もうしろに「ども」をつけて「兵士たち」「武人たち」として使っている。近代になっても新兵、二等兵などと用いられているから、a soldgerの意味が定着したのであろう。
 しかし、漢文では一兵士の意味で兵を用いることはまず見かけない。一兵士の場合は「卒」を用いる(もっとも卒で二十五人の兵士団を指す場合もある)。「勒兵(兵を勒す)」の兵は軍隊。軍隊の隊列を整えるという意味である。「兵隊」はもちろん軍隊の意であるが、「ひとりの兵隊」「兵隊さん」などと兵士を指すのは日本語である。
 
 漢文では兵を武器の意味で用いることが多いが、兵を兵士としてイメージしている日本人は読み違いを起こすかもしれない。たとえば「兵少食乏(兵少なく食乏し)」は武器が少なく食糧も不足していることであって、兵士不足をいっているのではない。「兵者不祥之器(兵は不祥の器なり)」(『老子』)の兵も武器である。

 『史記』伯夷列伝では、殷の紂王の討伐に向かう周の武王を諫めた伯夷と叔斉に対し、「左右欲兵之(左右これを兵(う)たんと欲す)」と書いている。お側の者たちが武器のやいば、すなわち兵刃で殺そうとしたのである。これは上記した兵の字源に最も近い使い方といえよう。

 兵を戦争や軍事という大きなものを指す語として使うことも、現代の日本人にはなじみが薄くなっている。「兵猶火(兵は猶ほ火のごとし)」(『春秋左伝』隠公4年)は、戦争は火のようなもので、あらゆるものを滅ぼしてしまうということ。「兵死地也(兵は死地なり)」(『史記』趙奢列伝)とは、戦争は命を失う危険な場所であるの意である。

 兵はまた兵法や戦術の意にも用いられる。「兵者詭道也(兵は詭道なり)」(『孫子』)や「兵貴神速(兵は神速を貴ぶ)」(『三国志』魏書・郭嘉伝)などはこれにあたる。

 「兵革(へいかく)」は兵が武器、革はよろい(昔、よろいは皮で作ったから)。そこから戦のことをいう。「兵戈(へいか)」はほこのこと。これも戦を意味する。武器の名前が戦争の意味になるのは「干戈(かんか)」も同じ。今の日本の元号「平成」の部首はそれぞれ「干」と「戈」であることをご存じだろうか。(2008/10/02)

 


 『広辞苑』で「天台山」を引くと、その名の由来として「その地の分野が天の三台星に応ずるところに因む名という」とあった。この文章を読んで、どういう意味なのかすぐにわかる人は少ないだろう。それは「分野」のせいである。

 分野を同じく『広辞苑』で調べると、ふつう用いられる「物事の方面・範囲。領域。勢力範囲」という意味は第二義にあげられている。では第一義は何かというと、「古代中国で、全土を天の二十八宿に配し、各地をつかさどる星宿を定めた天上の区分」とある。
 『大漢和辞典』では「戦国の時、天文家が中国全土を天の二十八宿に配当して区別した称。その分野に星変のある時は其の国に災があるといふ」とあり、角川の『新字源』では「春秋時代、天の二十八宿(星座)に相応するように中国全土を分けた区域」となっている。比べてみると、春秋か戦国か、発生時期にも違いはあるが、天の区分と地の区分のどちらをさすかがはっきりしない。これはむしろ天の星座とそれに対応する地上の区域とを定めることを「分野」といったと解するほうがよいのであろう。
 
 二十八宿とは中国固有の28の星座である。それを二、ないし三宿ごとに地上の12の国に配する。星宿と国の対応は次の表の通り(『大漢和辞典』より)。ここでは国名を「分野」と記している。『史記』宋微子世家に「心、宋之分野也」とある。「心」という星宿は宋の国の分野であるという意味であるが、逆に、宋の国は「心」の分野ということもできることになる。

星宿 角・亢・氐 房・心 尾・箕 室・壁 斗・牛・女 虚・危
分野 呉・越
星宿 奎・婁 胃・昴・畢 觜・参 井・鬼 柳・星・張 翼・軫
分野

 この「心」周辺に星変があれば、宋の国に災いが起こるという考えを分野説といい、中国古代の代表的な占星術である。

 この分野説の背景には、天上と人間界は対応関係にあるとする古くからの思想がある。たとえば天に十二ヶ月があるように人間には十二の大きな関節があり、三百六十六日は三百六十六の小関節に対応する。五行は五臓と、四時は四肢と、昼夜は覚と眠に対応するといった説なども根幹は同じである。

 天と人との対応(天人合一)をさらに進めた、人(天子)の政治に天が反応するという天人相関説は漢代に流行する。悪政が天変地異を招くという思想は後世の日本でも見られるが、天変地異が人心の不安を招き、政権が不安定になるという構図にも置き換わる。(2008/10/11)

 


 桜は音がオウで訓がサクラ、桃は音がトウで訓がモモ。ところが菊は音がキクで訓はない。
葛飾北斎「菊と虻」(北斎展図録より)
ひとすくいという意味の「一掬」は「いっきく」と読む。「匊」がキクという音符なのである。訓がないということは日本語になかったということである。菊は中国原産で、日本には奈良時代以降に渡来したといわれる。

 中国では古くは菊は香りをめでるもの、そして長寿の薬として愛用された。日本でも観賞用として品種改良が進んだのは江戸時代まで降る。
 菊華(花)酒というものがある。菊の咲く季節にその茎や葉を黍(きび)に混ぜて醸し、翌年の9月9日重陽の節句に飲むということが、前漢の雑事を記した『西京雑記』に書かれている。この酒を飲むと長寿を得られるとされた。

 実際に菊花酒を醸造するまでもなく、重陽の節句、あるいは菊の咲く季節になると、酒杯に菊花を浮かべて飲むことは広く行われたと思われる。陶淵明の有名な「飲酒」の詩に次の句がある。
采菊東籬下 悠然見南山 菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る
山気日夕佳 飛鳥相与還 山気 日夕に佳く 飛鳥 相与に還る
 秋の夕暮れ、閑居する陶淵明は家の東のまがきのもとで菊の花を採る。そしてゆったりと南山を見上げる。美しい夕べの山の気配の中を鳥たちが帰って行く。おそらくこの夜、陶淵明は摘んだ菊花を杯の酒に浮かべ、その香りを楽しみながら飲んだことであろう。

 陶淵明はこの詩のおかげで、菊好きとして知られるようになった。北宋の周敦頤(濂渓)の「愛蓮説」の冒頭には次のように書かれている。
水陸草花之花、可愛者甚蕃。晋陶淵明独愛菊。
水陸草花の花、愛すべき者甚だ蕃(おほ)し。晋の陶淵明は独り菊を愛す。
濂渓先生は唐代以降世間で牡丹が好まれるが、私は蓮を愛する、菊を愛するというのは陶淵明以後ほとんど聞かないと述べる。菊が鑑賞の対象になるような花ではなかったということでもあろう。 

 清代の志怪小説集『聊齋志異』に「黄英」と題した話がある。この頃は菊も改良されて観賞用として多くの品種があったらしく、菊愛好家が主人公である。主人公が菊の苗を求めての旅の帰途に姉弟の二人連れと知り合う。菊に詳しい弟と意気投合し、また姉の美しさにも惹かれて家に招く。この二人は実は菊の精であって、姓は陶、弟の名は三郎、姉の名は黄英(黄色い花の意)であり、陶淵明の子孫であるという。「菊好き」の陶淵明はとうとう子孫が菊の精になってしまったのである。三郎は淵明譲りの酒好きで、酔って正体を現してしまう。この話は太宰治が「清貧譚」という題で翻案し、江戸時代に舞台を移した。姉弟の姓は陶本になっている。(2008/10/30)

 


 『ケイコとマナブ』という情報誌がある。誌名を最初に知ったとき、そのネーミングのうまさに舌を巻いた。習いごとの情報を伝えるという雑誌の目的が、そのものを意味する、あるいは連想される男女の名前に託されて、だれにもわかるようになっている。お茶やお花のおけいこ、芝居のけいこというように「けいこ」の語はよく使われるが、これを漢字で「稽古」とすぐに書ける人はそう多くはあるまい。

 この「稽古」は『書経』堯典の「若稽古帝堯」という文章に由来するからずいぶん古い。
注には、
若順稽考也、能順考古道而行之者帝堯。
若は順、稽は考なり。能く古道に順考してこれを行ふ者は帝堯なり。
とある。つまり若は順う、稽は考えるの意であって、古道(古の帝王の道)に順って考え、実行できる者は帝堯である、となる。
 この注に従うと本文の「若稽古帝堯」は「古(いにしへ)に若(したが)ひ稽(かんが)ふるは帝堯なり」と読むことができる。ここから生まれた「稽古」は、昔のことがらを考えるという意味であった。

 古代中国民族は尚古主義であった。古の帝王を聖人視し、その政治を理想と考えた。したがって昔の聖王のいいお手本を考え習い、その通りに実践できる人物こそ、その時代の聖人といえるのである。すなわち昔のことを考えるという「稽古」は、古の正しい道を学ぶことを意味したのである。

 古を学ぶことは古の書物を学ぶこととほぼ同義になるから、「稽古」は学問や学習をする意で広く用いられるようになった。『後漢書』巻37桓栄伝には次の一文がある。
拝佚為太子太傅、而以栄為少傅、賜以輜車乗馬。栄大会諸生、陳其車馬印綬、曰、今日所蒙、稽古之力也。可不勉哉。
佚(張佚)を拝して太子太傅と為し、栄を以て少傅と為し、賜ふに輜車乗馬を以てす。栄 諸生を大会し、其の車馬印綬を陳べて曰く、今日の蒙むる所、稽古の力なり。勉めざるべけんや、と。
 光武帝に認められて太子少傅に任命された桓栄は、学生たちを集め、皇帝から賜った車馬や印綬を並べて、「今日の地位はすべて稽古の力による。諸君も励みたまえ」と言った。これは桓栄が若いころ貧しかったが、「稽古」すなわち学問に勉めたおかげで今日があるということをいっているのである。

 「稽古」は日本ではやがて武芸や遊芸などを習うことをいうようになったが、さらに「おけいこ」となり「ケイコ」にまでなるとは、聖王堯も予知できなかったであろう。(2008/11/11)

 


 春秋時代、呉の国と越の国との仲が悪かったことはよく知られている。「呉越同舟」とは、その仲の悪い二国の人どうしでも舟で乗り合わせて同じ危難にあったら、力を合わせて助け合うというのが本来の意味。現在では、仲の悪い者どうしが同じ場所に居合わせるという意味で用いられている。

 「臥薪嘗胆」という成語は呉と越をめぐって生まれた。『大漢和辞典』ではこの語について「呉王夫差が薪の上に臥して越に復讐することを忘れざらんとし、越王句践が胆を坐臥においてこれを嘗め、復讐を忘れざらんとした故事。復讐するため、艱難辛苦する喩。一説に臥薪と嘗胆との二事とも、越王句践のこととする」とある。詳しく調べてみよう。

 呉王闔廬は句践が新王に即位したばかりの越を攻撃した。この戦で呉王闔廬は射られて傷つき、それがもとで亡くなった。闔廬は臨終の際、太子夫差を王に立て、「句践が汝の父を殺したことを忘れるな」と言い残した。『史記』呉太伯世家では、このあと「三年、乃ち越に報ず」とあるだけであるが、『史記』越王句践世家では、次のようにもう少し詳しく述べている。
 翌々年、越王句践は呉王夫差が軍隊の訓練に怠りなく越に報復しようとしていることを聞き軍隊を興すが、呉王が精兵を発して越を敗った。越王は余兵五千人を会稽に留めていたが、呉王に包囲されてしまった。句践は会稽の地で苦しめられ、許されて国に帰ったあとも、会稽の恥を忘れまいとして次のようにした。
置膽於坐、坐臥即仰膽、飲食亦嘗膽。
膽(胆)を坐に置き、坐臥すれば即ち胆を仰ぎ、飲食するも亦た膽を嘗む。
つまり、『史記』では「臥薪」の話は出てこず、「嘗胆」は越王句践のエピソードとして出てくるのである。

 『呉越春秋』(後漢・趙曄撰)では句践帰国外伝第八に次の文がある。
越王念復呉讎非一旦也。苦身労心夜以接日、目臥則攻之以蓼、足寒則漬之以水、冬常抱氷、夏還握火。愁心苦志、懸膽於戸、出入嘗之、不絶於口中。
越王 呉に讎を復せんと念ふこと一旦に非ざるなり。身を苦しめ心を労すること夜以て日に接ぎ、目臥せれば則ちこれを攻むるに蓼を以てし、足寒ければ則ちこれを漬けるに水を以てし、冬は常に氷を抱き、夏は還た火を握る。愁心苦志あること、膽を戸に懸け、出入するにこれを嘗め、口中に絶えざらしむ。
越王句践が呉への復讐を忘れまいとして身に課したことは非常に過酷であった。眠くなったらタデで目を突き、足が冷えてきたら水に漬けた。冬には氷を抱き夏は火を握ったという。そして、つらい思いを持ち続けるように、戸口に胆をかけておき、出入りするたびにこれを嘗めて口中に苦い味を絶えないようにしたとある。しかし、ここでも「臥薪」は出てこない(『大漢和』をはじめ諸辞典では『呉越春秋』にて越王句践の「臥薪嘗胆」が見えるとするが、正確には「臥薪」ではない。筆者は四部叢刊本の『呉越春秋』を見たが、あるいは別本にあるのか、はたまた筆者の見落としか)。

 降って『十八史略』(元・曽先之撰)は次のように記している。
呉伐越、闔廬傷而死。子夫差立、子胥復事之。夫差志復讎、朝夕臥薪中、出入使人呼  曰、夫差、而忘越人之殺而父邪。
呉、 越を伐ち、闔廬傷つきて死す。子の夫差立ち、子胥 復たこれに事ふ。夫差 復 讎を志し、朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰く、夫差、而(なんぢ)越人の而の父を殺せしを忘れたるか、と。
 呉王闔廬の死後、即位した夫差は父の復讐を志し、薪の中で寝て、出入りするごとに人に「夫差よ、越が父を殺したことを忘れたか」といわせたのであった。2年後、呉は越を打ち破った。越王句践は会稽山に逃げ込み、呉王に許しを請い、帰国することができた。そして、
懸膽於坐臥、即仰膽嘗之曰、女忘会稽之恥邪。
膽を坐臥に懸け、即ち膽を仰ぎこれを嘗めて曰く、女(なんぢ)会稽の恥を忘れたるか、と。
と書いている。

 以上を整理すると次のようになる。

臥 薪 嘗 胆

『史記』越王句践世家

なし 越王句践

『呉越春秋』

なし 越王句践

『十八史略』

呉王夫差 越王句践

「臥薪嘗胆」は『十八史略』にて創作されたといってよいかと思う。(2008/12/11)

 


 春先にヨモギの若葉を採ってきて、さっと湯がいて冷凍しておいたのを、年末の餅つきで餅米に混ぜてつく。そうして作った草餅がよほどおいしかったのだろう、翌春に息子が学校帰りに毎日、ヨモギをランドセルいっぱいに摘んできたことを思い出す。
 ヨモギの成長した葉はお灸のモグサとなる。小さな円錐形にしたモグサを母の肩に置き線香で火をつけるのが、子供のころの私の日課だった。お灸とはいわず、「やいと」といった。「焼処(ヤキト)」の音便であるらしい(『広辞苑』)。

 蓬は曲がりくねって生える。
蓬生麻中、不扶而直。(『荀子』勧学篇)
(よもぎ) 麻中(まちゅう)に生ずれば、扶(たす)けずして直(なお)し。
これは、曲がりくねった蓬もまっすぐに生える麻の中に生えると支えなくても直立するように、善人と交われば自ずからよい人になるという意味である。ねじれ乱れて生えていることから、「蓬心」はねじれた心、「蓬髪」は乱れた髪をいう。

 蓬はさすらうという意味で用いられることもある。蓬は枯れると風に吹かれて転がっていくというのに基づく。これについて角川『新字源』では「蓬転」の項で次のように説明する。
蓬は一般によもぎと解されているが、現代の植物学の説では、砂地にはえ、風がふくと根のままぬけてころがり飛ぶ植物で、あざみ科に属するらしい。
「蓬転」は蓬が風に吹かれて飛んでいくように、所を定めずにあちこちと移ることをいう。この情景は日本人にはなじみがないが、空海の『三教指帰』巻下に次の対句がある。
萍遊諸州、蓬転異境。
(へい)のごとく諸州に遊び、蓬のごとく異境を転ず。
蓬に対応している萍は浮き草のことである。空海は中国の書物から「蓬転」の語を知識として得ていたのであって、実見に基づくのではないと思われる。

 ウェスタンソングの歌詞にtumbleweedということばが出てくる。これは、秋になると根本から折れて球状になって風で野原を転がる草をいう(『リーダース英和辞典』)。西部劇のシーンでもおなじみであるが、蓬はこれと同類なのであろう。荒野を転がっていく枯れ草。あてどなくさすらう旅人は、洋の東西を問わず、我が身をこれに擬えるのだ。(2008/12/20)

 


 朝日新聞に、「三洋電機の子会社○○が派遣従業員約100人を削減」としたあとに「親会社の三洋電機もパナソニックの子会社化をひかえる」と書いていた(2008.12.19)。この「子会社化をひかえる」は、「子会社化を見合わせる」とも「子会社化が間近に迫っている」とも、どちらにも取れる。子会社化を決定して話題になっている最中であるから、もし前者なら一大スクープとなるのだが、どうも記事の調子から見てそうではなさそうだ。しかし、紛らわしい。

 「ひかえる」には、まず自動詞としてA【空間的・時間的に近い所にある、待機する】の意味があり、他動詞としてB【ひきとめる、おさえる、近いところに置く、準備する】の意味がある。上記の場合は、「ひきとめる、おさえる」と「近いところに置く、準備する」の両方に取れてしまうのである。ここは「子会社化を当面ひかえる」のか「子会社化を間近にひかえる」のか、明確に書くべきである。

 ところで、「ひかえる」には漢字「控」があてられている。控の意味は『大漢和辞典』を参照してあげてみると、
(1) ①引く。ひかえる。(ひきよせる。弓をはる。馬をとめる。牽制する。)
②告げる。赴く。
③投げる。
④叩く。
⑤危急なこと。
(2)除く。
(3)打つ。叩く。
とある。(1)~(3)は発音上の区別がある。当然のことであるが、どの意味も中国古典中の使用例に基づいている。
 日本では、(1)の①「ひかえる」に上記の日本語としての意味AとBを盛り込んだようで、これが国訓として漢和辞典には載っている。さらに国訓としては「ひかえ、うつし」の意味も加わった。

 このように「控(ひかえる)」には多くの意味がある。われわれ給与生活者になじみのあるのは「控除」の語である。取り除く、差し引くの意味で、課税対象額からの控除はトクをする分、支給額からの控除はソンをする分というふうに、プラスマイナス両方で使うから、なんとなくややこしい。
 戯れに「控」を多用した、ありそうな悪文を作ってみた。
「課税控除の書類提出を控えて、控室で書類の控えに言い分を控えようとしたら、控えるようにいわれた。」(課税から差し引く分の書類提出に備えて、準備室で書類の写しに言い分を書いておこうとしたら、止めるよう言われた。)(2009/01/09)

 


 古代中国の戦国時代、韓・魏・趙・燕・楚・斉の六国が南北に連盟して秦に対抗しようとしたことを合従といい、この六国を連合して秦に仕えさせることを連衡という。
 従は縦と同じで、六国の南北連盟をタテとみたからであり、衡は横の意で、東の六国を西の秦に仕えさせる、この東西をヨコとみて衡と書くのである。したがって、合従の策を唱えた蘇秦、連衡の策を唱えた張儀のような策略派を縦横家と呼ぶのである。

 縦横の説については、『戦国策』(ここではあとで述べるように「連衡」ではなく「連横」であるが)高誘注が上記のように書いていて、『史記』索隠もこれを引く。
 一方、『漢書』刑法志の顔師古注では
戦国時、斉・楚・韓・魏・燕・趙為従、秦国為衡、謂其地形南北従長也、秦地形東西横長、故為衡也。
戦国時、斉・楚・韓・魏・燕・趙を従と為し、秦国を衡と為す。謂ふこころは其の地形南北に従長なればなり。秦の地形東西に横長、故に衡と為すなり。
とあって、地形的な縦長と横長の特徴から、戦国時代では六国を「従」、秦を「衡」といったというのである。とすると、「連衡」は東西に連なるではなく、秦に連なる、すなわち秦に仕えるという直接的な言い方になる。

 日本のたいていの辞典・事典の見出しでは「合従連衡」となっているが、『中国思想文化事典』(東京大学出版会)のみ「合縦連横」という見出しになっていて、解説文には「日本では連衡と書く」とある。

 「合従・連衡」の古い用例は『荀子』賦篇にある。
能合従、又能連衡。
よく合従し、またよく連衡す。
これは、南北東西によく繋がることをいい、具体的な戦国時代の外交政策を指しているのではない。南北につながるときは合従、東西のときは連衡ということばが古くから一般的に用いられていたことになり、顔師古注には合わない。

 「合従連衡」という成語の出典として有名なのは『史記』孟子荀卿列伝である。
天下方務於合従連衡、以攻伐為賢。
天下 方(まさ)に合従連衡に務め、攻伐を以て賢と為す。(そのころ天下中が合従や連衡の策を行わんとしていて、敵を攻め伐つことができる者を才能ある者とみなしていた。)
 『史記』巻69蘇秦列伝では、蘇秦が六国の君主を次々と説得し、同意を得たあとに、次のように書いている。 
於是六国従合而并力焉。蘇秦為従約長、并相六国。
是に於いて六国従合して力を并(あは)せり。蘇秦 従約の長と為り、六国に并相たり。(そこで六国は南北に連合して力をあわせることになった。蘇秦は南北同盟の長となり、全六国の宰相となった。)
ここでは「合従」ではなく「従合」となっているが、「縦」の字は用いられていない。

 同巻70張儀列伝では、張儀を信任していた秦の恵王が亡くなり、もともと張儀を快く思っていなかった武王が即位すると、群臣の多くが張儀を譏るようになる。張儀が武王に却けられたことを聞いた諸侯たちは「皆畔衡、復合従(みな衡に畔(そむ)き、また合従す)」と書いている。ここには「連衡」の語は出てこないが、張儀の説く策を「衡」と呼んでいる。

 同巻6始皇本紀では、太史公(司馬遷)が秦の歴代をふりかえり、孝公のとき、「外連衡而闘諸侯(外に連衡して諸侯を闘はしむ)」とあり、恵王・武王のときには、秦の強さを恐れた諸侯たちが「合従締交、相与為一」、合従の策にしたがって交わりを結び、一丸となった。その後、「約従離衡」、合従を約定し連衡を離散させ、諸国は秦を攻めたが困窮し「従散約解」、合従は散じて盟約は解け、諸侯は争って領地を秦に献じたと述べている。

 以上、『史記』では「合従・連衡」を用いているが、『戦国策』では巻三に、
蘇秦始将連横(蘇秦 始め連横を将(もち)ふ)
其後約従散横、以抑強秦(其の後、従を約し横を散じ、以て強秦を抑ふ)
天下之士合従、相聚於趙、而欲攻秦
(天下の士合従し、趙に相聚まりて秦を攻めんと欲す)
巻七に
張儀為秦連横説(張儀 秦の為に連横を説く)
とあるなど、「合従」と「連横」、略して「従」と「横」を用いている。

 また、賈誼「過秦論」(『文選』巻51)では、『史記』始皇本紀の文を用いて論じ、「外連衡而闘諸侯」「合従締交、相与為一」はそのままであるが、「約従離衡」は「約従離横」と変えている。
 『漢書』刑法志では
当此之時、合従連衡、転相攻伐、代為雌雄
(此の時に当たり、合従連衡し、転(うた)た相攻伐し、代りに雌雄を為さんとす)
と、「合従連衡」を成語として用いている。

 以上を要するに、「合従」を「合縦」と書く例は見あたらない。「連衡」と「連横」は両語ともに用いられているが、「連衡」は『史記』系、「連横」は『戦国策』系といってよいだろう。そして「連衡」が多数派であるのは明らかである。『中国思想文化事典』が「合縦連横」を見出しにあげ、「日本では連衡と書く」とわざわざいうのはなぜであろう。(2009/01/09)

 


 神聖なものや清らかなものをおかしけがすことをいう「冒瀆」を「冒涜」と書いている例を目にすることがあり、こんな変な略字を使って困ったものだと思っていた。それが頻発するようになってきたので、電子辞書(セイコー製)の『広辞苑』(第5版)を引いてみて驚いた。「ぼうとく」には「冒涜」の字のみが書かれていて、「冒瀆」はないのである。『広辞苑』の本物(冊子、このごろは紙媒体ともいう)を調べてみると、最新の第6版まですべて「冒瀆」であった。

 漢和辞典を2、3引いてみた。当然のことであるが『大漢和辞典』には「涜」の字はない。筆者愛用の角川『新字源』にもない。旺文社『漢字典』には「瀆」の項に俗字として収録している。
 「瀆」の「賣」の部分をこの字の通用字「売」に変えたということは見ればわかるが、そんなことを勝手にしてよいのだろうか。これはかつての「鴎外」論争を思い出させる。
 「區」は常用漢字では「区」という略字が採用された。だからといって「嘔」や「鷗」の「區」が自動的に「区」になるということはない。「森鴎外」と印字されることに国文学者たちが異を唱えたことがあった。「鴎」なんて字はない、特に固有名詞は本来の字で書くべきだということであった。これは、「鷗」の字が人名用漢字表に入れられることで決着がついたのだったか。いや、ついていないのか。ともかく、「鴎」流の略字がここにまた現れたということだ。

 電子辞書の『広辞苑』では「おうと」は「嘔吐」だが、「もりおうがい」は「森鴎外」だ。冊子の『広辞苑』ではすべて「森鷗外」になっている。
 パソコンの漢字変換でも試してみると、「冒涜」「嘔吐」「森鴎外」というように電子辞書と同じであった。
 「涜」はJISの第1水準、「瀆」は第3水準なんだそうである。「鴎」と「鷗」も第1水準と第3水準である。「嘔」は第2水準である。要するに電子機器では第1水準と第2水準までは使用するが、第3水準の字は用いないということか。そもそも「涜」という奇妙な字をJISの第一水準にしているのも変な話である。

 電子辞書のメーカー、セイコーのPRサイトには次のような注意書きがあった。
 電子辞書の表示では限られたドットで表現しているため、簡略化されて表示する漢  字があります。漢字の字形はJISの漢字表に準拠して作成したものを採用しているため、印刷字体とは異なるものがあります。
 しかし、同じ電子辞書に搭載されている『学研・漢字源(新版)』で「とく」を調べると、ここでも「涜」が出てきて「瀆」はないのだが、「纛」「黷」はある。この2字は「瀆」より画数は多いから、上記の注意書きは「瀆」を載せないという理由にはならない。「纛」「黷」は使用頻度はきわめて低そうであるがJIS第2水準である。「瀆」の場合、略字「涜」が第1水準になっていて市民権を得ている(ことになっている)から、略字のみを載せたのだろう。

 「涜」という字を採用したことについて、最初はメーカーの罪だと腹を立てていたが、結局はこんな変な字をJISの漢字表に採用したのが元凶であると気づいた。本来の漢字にはない日本製の漢字を国字というが、現代のコンピュータ社会では知らず知らずのうちに国字が作られているのである。
 私は電子辞書の手軽にスピーディーに調べられる長所を評価し、身近に置いて日常的に活用している。しかし今回、漢字については大いに不信の念を抱かされた。もし、答案に「冒涜」と書いて減点された学生が、電子辞書を証拠に申し立ててきたらどうするか。悩ましい現実の問題である。

 ちなみに「瀆」には第一義として、みぞ(溝)という意味があり、人工的な用水路のこともいうが、大きな川の意味でも使う。「四瀆」とは揚子江・黄河・淮水・済水をいう。次に、けがす、けがれ、あなどるなどの意味があり、「冒瀆」はこの意味での使用である。(2009/01/23)

 


 『論語』先進篇に「由也升堂矣、未入於室」(由や、堂に升れり、未だ室に入らず)とある。由とは仲由、字は子路。これは、孔子が子路の学問を評していったことばである。

 「堂」というのは、本来土を高く盛ったところ、またそこに建てられた大きな建物を表す。従って建物に入るには段を昇らなくてはならない。さらにはその建物の南向きの表座敷を指し、奥の座敷は「室」という。子路の学問は、たとえていえば、建物の上にあがり表座敷までは来ているが、奥の部屋までには至っていないという意味である。「堂に入(い)った様子」などという言い方も由来はこの『論語』のことばらしい。

映画「ラストエンペラー」が流行ったころ、映画を観ていなくとも、テレビCMやポスターで、幼帝が玉座につき大勢の臣下が階下にひれ伏すシーンを目にした人も多かったから、「堂」の説明がしやすかった。あの皇帝のいる建物が堂であり、玉座のある表座敷(テラスのような南向きの空間)も堂という。紫禁城の場合あの建物は太和殿というが、殿堂ということばがあるように、大きな建物という意味では堂は殿と同じなのである。
▲伽藍御影堂(現在)

 そういえば、日本の王朝時代、殿上人(てんじょうびと)を堂上人(とうしょうびと)ともいい、公家のことを堂上家(とうしょうけ)ともいった。

 一方、日本では寺院の最も中心となる建物を本堂といい、周辺の建物も堂と呼ぶことが多い。たとえば、高野山の壇上伽藍では、根本大塔を中心に、金堂(こんどう)、御影堂(みえどう)、不動堂、孔雀堂などの諸堂が配置され、時間を超越した空間を形作っている(余談ながら、筆者が高野山上で最も好きな場所はこの伽藍であり、ほとんどの観光客が奥の院と金剛峯寺だけで帰ってしまうことは実に残念なことだと思っている)。
 これらの堂は必ずしも大きな建物ではない。ふつう「お堂」というと小ぶりの仏教建築を思い起こす。「方丈」すなわち一丈四方、四畳半の堂もある。

 思うに、神仏を祀る大きな建物を天子の宮殿(堂)に模して作り、殿や堂といったのであろう。仏教寺院の御本尊を祀る建物を中国では大雄宝殿というが、日本ではこれを本堂といい、神社の御神体を祀るところを神殿というのが一般である。
 本尊以外の諸仏を祀る建物も堂の名で呼び、したがって小さな「お堂」も登場するようになったのである。そして、たいてい床が高く、テラスのような縁があり、外付けの階段を使って出入りする。これは中国古代の「堂」の様式のなごりといっていいのではないだろうか。(2009/02/13)

 


 頭を持ち上げる意味の「たいとう」は擡頭と書くのが正しいが、日本では台頭と書くことが多い。『広辞苑』では台頭と擡頭を併記し、旺文社『漢字典』では台頭に日本での使用を意味する「国」マークがついている。そもそも「台」に持ち上げるという意味はないから、擡のツクリの臺の常用漢字体を通用しているうちにそうなったのであろう。「抬」という字を使っている例もまま見られるが、この字は本コラム71であげた「涜」と同様、俗字である。

 擡頭には文字通りの頭をもたげる意から、「アジア諸国の擡頭」などと勢力を増すという意にも使われるが、さらにもう一つの意味がある。それは、文章を書くとき、帝王や高貴な人に関することば、あるいは姓名などを次行に送り、他行より一、二字分高く書いて敬意を表す書き方のことである。一字高く書くのを一字擡頭、二字高く書くのを二字擡頭という。たとえば今上(きんじょう)帝(当時の皇帝)を表す「上(しょう)」や「聖」は擡頭される。

 擡頭はまた擡写ともいい、清朝では特に厳格に行われた。一字擡頭を単擡、二字擡頭を双擡といい、三擡すなわち三字擡頭まであった。宮殿や政府官庁などに関しては一字、皇帝や皇后に関しては二字、先帝はじめ皇帝の祖先や皇太后、天地を祀る祭壇や廟などに関する場合は三字の擡頭であった。

手もとの『十三経注疏』(中文出版社影印本)には巻頭に清の阮元の撰した「重刻宋板注疏総目録」がついている。これを例にあげてみよう(図版参照)。「我朝経学最盛(我が朝、経学最も盛ん)」というのを「我」で行替えをし、一字擡頭で「朝」が書かれている。これは我が王朝、すなわち清朝に対する敬意を表している。また、「欽定四庫全書」が擡頭して書かれているのは、皇帝の勅命によってつくられたことを示す「欽定」の語に対する敬意である。『四庫全書』は乾隆帝の命によってつくられた。阮元は1764(乾隆29)年生まれで1849(道光29)年没。この文章を書いたのはおそらく道光年間であろうから、先々代の皇帝に対する敬意で三字擡頭となっていると思われる。(2009/03/06)

 


 「室」は家を表すウかんむりと至からできている。『説文解字』では「室屋皆从至、所止也(室屋皆な至に从(したが)ふ、止まる所なり)」とあり、段玉裁の注には「室屋者人所至而止也(室屋は人の至りて止まる所なり)」とある。室も屋も「至」を含んでいて、人が家の中で行きつく所、すなわち奥の部屋(居間、寝室)を意味し、ひいて家の意ともなる。「屋」のほうは、今は家の建物や屋根の意味での使用がふつうになっているが、「部屋」「寝屋」などに元の意味が残っている。

 『詩経』周南の有名な「桃夭」の詩の第一節と第二節は、
桃之夭夭、灼灼其華、之子于帰、宜其室家、
桃之夭夭、有蕡其実、之子于帰、宜其家室、
桃の夭夭たる、灼灼たる其の華。この子于(ゆ)きて帰(とつ)ぐ。其の室家に宜しからん。桃の夭夭たる、有蕡たる其の実。この子于(ゆ)きて帰(とつ)ぐ。其の家室に宜しからん。
とあり、双方の四句目の「室家」「家室」は家庭の意味で用いられている。

 また、「氷室」という語でもわかるように、室には穴という意味もある。黄河流域地方では断層を掘り込んだ横穴住居が昔から作られているが、関係があるかもしれない。また、『詩経』唐風「葛生」の詩には次の句がある。
夏之日冬之夜、百歳之後、帰于其居、
冬之夜夏之日、百歳之後、帰于其室、
夏の日冬の夜、百歳の後、其の居に帰り、冬の夜夏の日、百歳の後、其の室に帰る。
ここの「居」も「室」も墳墓、塚壙(ちょうこう)の意であると鄭玄の箋にある(壙は穴のこと)。 室は埋葬される穴であり、死後の住居でもある。

 部屋を意味することばに「房」がある。この字の音符「方」は「傍」にも通じるとおり、堂(当コラム72参照)のかたわらの小部屋を表す。表座敷が堂、奥の部屋が室、両脇の部屋が房ということになる。文房は書斎のことで、確かに家の脇のほうにあるものだ。ちなみに房中術の房は閨房のことで婦人の寝室をいう。
 ところで、心臓の四つの部分のことを日本語でも中国語でも左右の心室・心房と呼ぶ。奥まった「室」に対して「房」は脇の部屋と見えるが、あるいは垂れ下がったブドウのフサのイメージからの命名かもしれない。漢字の「房」をフサの意に読むのは国訓(日本語だけの用法)であるが、医学用語は日本から中国に輸出したものが多い。英語では心室はchamber(またはventricle)、心房はatriumというらしい。chamberは部屋、atriumは中庭の意味である。

 室が奥の部屋を指すことから、そこにいる妻のことも室という。「正室」「側室」の室である。奥方、奥様というのと同じである。
 『論語』に「由也升堂矣、未入於室(由や、堂に升れり、未だ室に入らず)」とある(同72参照)。由(子路)が室に入ることができないのはなぜかのクイズに、室には先生の奥方がいるから、と答えたら、さて。(2009/03/23)

 

図② 科斗書(『篆隷三十二体金剛般若波羅蜜経』)
図①「睡虎地秦簡」

 「科斗」とはオタマジャクシのことである。蝌蚪とも書く。また活東ともいうらしい。『爾雅』釈魚篇(『大漢和辞典』では釈蟲に誤る)には「科斗、活東」とあり、注に「蝦蟇子」とある。蝦蟇はガマで、ヒキガエルのこと。科斗と活東とは音通である。

 中国古代において、まだ筆墨がなかったころの文字は漆で書いたため点や線の頭が大きく下になるほど細くなって、ちょうどオタマジャクシのようであったから「科斗書」あるいは「科斗文字」と呼ばれたという。角川『新字源』の「蝌蚪文字」には「漢代に発見された竹簡(竹ふだ)に書いてあった」とある。『大漢和辞典』ではさらに詳しく「漢の景帝の時、魯の恭王が孔子の旧宅を壊り、其の壁中から尚書・礼記・論語・孝経等、数十篇を得たが、皆、竹簡に漆書した科斗の文であった。今言ふ古文尚書・古文孝経の如きは是である」とある。
 これは漢・孔安国の「尚書序」に基づいている。
至魯共王、好治宮室、壊孔子旧宅、以広其居、於壁中得先人所蔵古文、虞夏商周之書及伝、論語孝経、皆科斗文字、
魯の共王に至り、宮室を治むるを好み、孔子旧宅を壊り、以て其の居を広くせんとす。壁中に於いて先人の蔵する所の古文を得たり。虞・夏・商・周の書、及び伝、論語・孝経、皆な科斗文字なり。
 また『晋書』束皙伝には
晋太康二年、汲県人不準盗発魏襄王墓、或言安釐王冢、得竹書数十車、(中略)漆書皆科斗字、
晋太康二年、汲県人不準、魏の襄王の墓、或ひは言ふ安釐王の冢を盗発し、竹書数十車を得たり。(中略)漆書は皆な科斗字なり。
とある。竹簡に漆で書かれた文字はすべて科斗文字であったという。この時に得られた書を汲冢書(きゅうちょうしょ)と呼んでいる。

 さて、漢字の歴史上、実際にオタマジャクシのような文字はあっただろうか。現在発見されている竹簡の最古のものは春秋末期のもので、それ以後のものも多く発見されている。秦の始皇帝による焚書を避けて壁中に隠したのであれば、秦代の簡の文字と共通するはずである。また、戦国末期の魏の簡の文字もほぼ同じとみてよいだろう。秦代の竹簡の文字(図①)は、青銅器に刻された文字(金文)や石に彫られた文字(石文)とは異なり肉筆による筆写体であるから、左右対称性がくずれて、漢代の正式書体となる隷書に近づいている。これはオタマジャクシとは程遠い。

 時代が降って六朝期になると、さまざまに書体をデザインすることが流行した。それらの書体を雑体書あるいは雑体篆という。百体屏風というものも作られた。その流行は唐代まで続いていて、空海も唐から帰国後に嵯峨天皇からの依頼に応えて雑体屏風を書いている。それら雑体書の中に科斗書ないし科斗篆の名がある。
 雑体書がどんなものであったかを知る資料として南朝梁・蕭子良の『古今篆隷文体』(京都・毘沙門堂所蔵)が有名である。ここでは43体の雑体書が図示されているが、科斗書については上記の典拠に基づく説明文のみで、図示されていない。

 ところで、『篆隷三十二体金剛般若波羅蜜経』というものがある。岩手県水沢市の円通正法寺所蔵で昭和55年に木耳社から影印刊行されている。五代の僧夢英が集めた18体を宋代の僧道肎(どうこう)が増補し、32の書体で『金剛経』を書き分けたものという(小松茂美解説)。これには科斗書が書かれている(図②)が、科斗のイメージから創出したものであることは一目瞭然である。由来として「源出古文、或云顓頊製(源は古文より出づ、或いは顓頊製と云う)」とある。顓頊(せんぎょく)とは黄帝の孫であり、もはや伝説の闇の中から出てきた文字となっている。(2009/04/07)

 


 当コラム75「科斗」の「科」はあなやくぼみの意で、「斗」はひしゃくである。丸いくぼみのある頭にひしゃくの柄がついた形で、「科斗」はオタマジャクシの意になった。
 北斗七星は北の空のひしゃく型の七つ星をいう。「北斗星」「北斗」とも呼ばれる。学問・芸術の第一人者を「泰斗」というが、これは名山の代表格の泰山と北斗星を並べた「泰山北斗」の略で、どちらも仰ぎ尊ばれることからいう。
  
 「斗」は十升入りのマスでもあり、このマスも柄がついていた。十升すなわち一斗として容量の単位にも使われる。中国古代では一斗は1.94リットルで、今の日本の一升余りであるから、片手鍋のようにマスの柄を持って扱うこともできよう。
 「斗胆」は一斗マスほどの心という意味で、度量の大きいことをいう。「斗儲」とはわずかな蓄え、「斗禄」はわずかな俸禄のこと。胆ならば一斗マスは大きくても、蓄えや俸禄ならば一斗マスに入るほどではわずかな量ということになる。

 『論語』子路篇に「斗筲之人、何足算也(斗筲の人、何ぞ算ふるに足らんや)」ということばが出てくる。筲(しょう)は一斗二升入りの竹の器。「斗筲」とは器量が狭小なたとえである。人としてみれば、やはり一斗マスは小さい。大海や泰山にたとえられてこそ大人物である。

 ここで容量の単位を並べてみよう。小さいほうから勺、合、升、斗、石である。時代によって量が変わり、1斗は隋や唐では5.944リットルとなり、宋では9.488リットル、明では17.037リットル、清では10.355リットルとなった。現代ではメートル法に合わせたのであろう、1升が1リットル、1斗が10リットル、1石が100リットルとわかりやすい。日本の1升が1.8039リットル、1斗が18.039リットル、1石が180.39リットルと比べると半分強といったところ。

 「斗酒」といえば大酒である。「斗卮酒(とししゅ)」は1斗入りのさかづきの酒。『史記』項羽本紀の有名な「鴻門の会」のシーンでは、沛公(はいこう)(劉邦)危うしと見て登場した樊噲(はんかい)が、項羽から「壮士なり、これに卮酒を賜へ」といわれ「斗卮酒」を与えられている。樊噲は立ったままで一気飲みしてしまう。この時の1斗は2リットル足らず。もちろん豪傑には違いないが、日本でいう1升酒と変わらない。
 唐の李白は酒好きで有名だった。杜甫は「飲中八仙歌」で「李白一斗詩百篇」と詠った。李白は酒1斗飲む間に百篇の詩を作るという。この1斗はほぼ6リットルで、日本の5升である。これは大変な酒量であるが、ただし「一夜で」とは書いてない。 (2009/05/18)

 


 医科大学や病院、製薬会社、薬局など、医薬関係の団体名に「杏林」が冠されているものが多い。この由来はよく知られている。三国時代の呉の董奉(とうほう)が無料で治療するかわりに、重症者に五本、軽症者に一本の杏(あんず)を植えさせたところ、数年で杏の林ができたという故事に基づいて、杏林が名医を指すことになったのである。ちなみに、杏を植えさせたのは、その核の中の肉すなわち杏仁が薬になるからであろう。

この話の出典は『神仙伝』にある。ということは名医董奉は神仙(仙人)なのである。あらましを紹介しよう。
 董奉は何十年たっても姿形が変わらなかった。毒死した交州刺史(長官)杜燮(としょう)を蘇らせたことで歓待された。あらかじめ棺を作らせて死んだが、埋葬した棺を7日後に開けると姿はなかった。のちに廬山に住み、皮膚病で死にかけていた人を救った。また、旱魃に雨を降らせた。毎日、病人の治療をし薬代は取らず、治ったものに杏の木を植えさせたら数年で十万本の林になった。さまざまな鳥獣をその中で遊ばせたから草が生えなかった。杏の実がたくさん実ると、「杏が欲しいものは穀類一杯分を置いて、同量の実を持っていくように」と書いておいた。穀類を少量置いて杏を多く持って行く者があると、虎の群れが出てきて吼えた。逃げるときに杏を取り落とし、家に帰って調べてみると穀類の量と同じになっていた。また、杏を盗んだものは虎にかみ殺され、家族が実を返して詫びると、生き返らせた。董奉は毎年杏の実を売って穀類を買い、貧民に施した。県令の娘が魔物に取り憑かれていたのを救い、これを妻とした。子どもができないので養女を迎えた。この子が十余歳のとき、董奉は雲の中に飛び上がって去った。妻と娘はあんずを売って生活し、これを欺くものは虎が追い払った。董奉が人間界にいたのは三百年であった。

 『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』は、唐代初期に作られた類書である。類書とは、さまざまな項目に分けて並べられたことばについて文献上の用例をあげた、一種の百科事典的な書物をいう。『芸文類聚』巻87菓部に「杏」があり、以下の文章があげてある(ちなみに菓とは果物、木の実の意である)。
神仙伝曰、董奉居廬山、為治病、重者種杏五株、軽者一株、於林中所在、箪食一器、是換一穀、少者虎逐之、乃以穀賑貧窮、号董仙杏林、
神仙伝曰く、董奉 廬山に居り、治病を為す。重き者は杏五株を種(う)ゑ、軽き者は一株なり。林中の所在に於いて、箪食一器を是れ一穀に換ふ。少なき者は虎これを逐ふ。乃ち穀を以て貧窮に賑(あた)ふ。董仙杏林と号す、と。

 「神仙伝曰」とあるものの、『神仙伝』本文とはかなり文章が異なり、要約するだけでなく、本文にはない「号董仙杏林」という語句が加わっている。おそらく中国でも『神仙伝』の本文をすべて読んだ人は多くはなく、董奉のエピソードは『芸文類聚』などの類書で読んでいたであろう。本文にない「杏林」が名医を指すことばとして知れ渡ったのは、この『芸文類聚』によるといえるかもしれない。
 『芸文類聚』は日本の奈良平安期によく用いられた書物であった。この時代、中国渡来の書物が増加したとはいえ限りがあり、またそれを目にする機会もきわめて限られていた。そこで、このころの文章に引用された漢籍の語句は、『芸文類聚』をはじめとする類書から孫引きすることが多かったのである。だから、たとえば誰かの文に「神仙伝曰、董仙杏林」とあっても、『神仙伝』にはこのことばはないわけで、そうした場合、類書の介在が考えられる。もちろん、『神仙伝』と同文の引用でも類書の孫引きの可能性があることを忘れてはならない。

 董奉は、『蒙求(もうぎゅう)』では「董奉活燮」という標題で取り上げられ、『神仙伝』にも記されている交州刺史の杜燮を蘇生させた話が紹介されている。杜燮は『三国志』巻49「呉書」4に士燮(ししょう)として列伝されている実在人物である。「呉書」の注には『神仙伝』を引いて、「仙人董奉」が病死して三日後の燮に薬を与え頭を揺さぶって治したとある。
 『蒙求』では「扁鵲起虢」と対になっていて、戦国時代の伝説的名医扁鵲(へんじゃく)が、亡くなった虢(かく)の太子を蘇らせた話と並べてある。話は『神仙伝』をほぼ写す形で杏林のエピソードも紹介しているが、「民間僅百年」とあって、『神仙伝』の三百年と異なっている。ともあれ、董奉は病死者を蘇生させた名医として扁鵲と並んで有名だったのであり、「杏林」の語が目立った扱いを受けてはいない。(2009/06/23)

 

 「傾向と対策」シリーズという受験参考書がある。創刊以来60年、受験スタイルの変化に合わせてきて、最近もリニューアルしたそうだ。旺文社のホームページには次のようにある。

 旺文社の「傾向と対策」シリーズは、戦後の学制改革に伴い、新制大学が発足した昭和24(1949)年に創刊されました。新しい制度下での各大学の入試問題を分析し、各教科・科目の出題の“傾向”と“対策”を解説し、他に類のない独自の受験対策書として創られました。当時は同類の書籍がなく大変な売れ行きとなり、この本のシリー ズ名である「傾向と対策」が、現在日常的に使われている「○○の“傾向と対策”」という、表現の起源になったという説もあります。

 筆者が受験期を過ごしたころは、「傾向と対策」の出どころがこのシリーズであることを知った上で、少々シャレたつもりで「○○(たとえば恋愛)の傾向と対策」と使っていた気がする。 

 さて、「対策」ということばは、本来「策に対(こた)える」という意味であった。紙のなかった時代では、まず「簡」という細い竹の札に書いてこれを革ひもで綴じ合わせた。これを「策」といい、また「冊」ともいう(「册」の字は簡を綴じ合わせた形を象ったものである)。
 漢代、官吏の登用にあたって、政治上の問題を天子の名のもとに策に書いた。これを「策問」といい、それに受験者が対えた文章を「対策」といった。建元元年(前140)、武帝の策問に対えて董仲舒(とうちゅうじょ)がたてまつった「賢良対策」は、漢の政治を儒教理念に基づくべしとしたもので、これによって儒教国家中国が始まったとして有名である。(ちなみに「対」は上位者の質問にこたえる際に用いる。『論語』などでも「対」と「答」の使い分けで、質問者と応答者の地位が明らかになる。)

 『大漢和辞典』では「対策」には上記の意味のみが書かれてあるが、われわれが用いる意味はこれではない。もちろん、旺文社の「傾向と対策」の「対策」も。手許のハンディタイプの漢和辞典で調べてみた。旺文社『漢字典』では上記の意味を①とし、次に「国(日本固有の意味)」マークつきで
②相手の出方や事件に対する方策
とあり、角川『新字源』でも上記の意味の①に続いて「国」マークつきで、
②相手の態度や画策に応じて立てる方策
③ある事件に対する方策
とある。
 『広辞苑』では
①相手の態度や事件の状況に応じてとる方策
②(策(木の札)に書かれた問題にこたえる意)古代中国や律令制下の官吏採用のための論文試験で、課題に答えて漢文の作文を提出すること、またその答案
とある。

 ところで、これらの辞書で用いられている「方策」も気になる。本来、「方策」の「方」は木の板、「策」は竹の札をいう。紙のなかった時代は方策に書いたことから、転じて記録・文書をいうのであって、『大漢和辞典』にはこの意味だけが書かれてある。しかし、『新字源』『漢字典』では、第二義として「国」マークつきで「はかりごと、手段」とあり、『広辞苑』も同様である。

 現在、われわれが用いている「対策」は「あることに対応して行なう手段」の意味の日本語であって、漢代以来の意味から遠く離れてしまった。語釈の中に用いられた「方策」もまた本来の意味から離れた日本語である。
 一方、現代中国語でも「対策」は「地震対策」「公害対策」などと「応付的方法」の意味で用いられている。これはおそらく近代以後の日本の使用例に基づくものであろう。(2009/07/22)

 


 貸と借とはどうも苦手である。もちろん実際に物(特にお金)を貸したり借りたりすることも極力避けたいが、ここでいう苦手とは、二文字の書き分けが苦手だということである。「かす」「かりる」と聞いて字に書くとき、貸か借か必ず迷ってしまう。迷ったときに頭の中で思い浮かべるのは「貸与」「借用」の二語である。これで区別をしている(熟語で字を憶えるのはオススメの方法)。

 図書館で本を借りることは、図書館側からみれば貸すことになる。だから「貸し出し」カウンターにならび、「貸し出し期間は一週間」と言われたりする。利用者側からすれば「借り出し」であり「借り出し期間」である。
 おおかたの公立図書館ではホームページを作っていて、たいへん親切丁寧に利用のしかたを教えてくれる。その中では、「本が借りたいときは」という利用者を主語とした文章がある一方で、図書館を主語とする「貸し出し」ということばも使われている。特に「貸し出し期間」ということばは全国共通のようである。「貸し出し」のことばに、借りたい人に「貸してやる」という前時代的姿勢が見えるというのはおおげさだろうか。公共サービスに徹して「みんなの図書館」であろうとするなら、利用者を主語とした「借り出し期間」とすべきではないだろうか。

 「常用漢字表」では「貸 タイ・かす」「借 シャク・かりる」とあるから、現代日本ではこれを憶えておけばよい。しかし、「貸」の字には「かりる」の意味もあるからややこしい。魏の字書『広雅』の「釈詁」には「貸、借也」とある。用例として『荘子』外物篇の次の話をあげておこう。
荘周家貧、故往貸粟於監河侯、
(荘周は家貧し。故に往きて粟を監河侯に貸る。)
 荘周とは荘子のこと。貧しくて食べ物がないから、監河侯に借りに行った。ここでは「貸」を「かる」と読む。「粟(ぞく)」は穀物の総称(当コラム11を参照)。監河侯は「そのうち、私の領地の税金が入ってくるはずだから、その中から金を貸してあげよう」という。今の食べ物に困っている荘周は腹を立てて、こんな話をする。
 「私が昨日こちらに来る途中で、車の轍(わだち)の水たまりの中にいる鮒(ふな)から声をかけられました。鮒は『一斗か一升かの水でもいいですから、もしあれば運んできて私を救ってくださるまいか』といいました。そこで私は『私はこれから南へ行ってかの地の王のお目にかかるつもりだ。その力添えで揚子江の水をこちらに流れるようにしてあげようと思うが、どうだね』といいましたところ、鮒はひどく腹を立てて、こういいました。
吾失我常与、我無所処、吾得斗升之水然活耳、君乃言此、曽不如早索我於枯魚之肆。
(吾れ我が常与を失へり。我処る所無し。吾れ斗升の水を得れば然ち活きんのみ。君乃ち此を言ふは、曽て早く我を枯魚の肆に索むるに如かず)
 『私はいつも離れたことのない水を失い、身のおきどころもありません。一斗一升のわずかな水でも得られたなら、それで生きることができます。あなたは、そんなのんびりしたことをいうが、その足で私を乾物屋の店先で探したほうが、よほど早手回しですよ』」。
 危険や困窮のさしせまったことをいう「轍鮒之急(てっぷのきゅう)」の成語はこの話に由来する。(2009/10/22)

 


 玉は「たま」と訓ずるが「球」ではない。つまり「たま」というからといって球体を思い浮かべてはならないのである。玉は宝石や美しい石の総称である。「玉石混交」は美しい宝石とただの石ころが混ざっていること、すなわち善悪が入り交じっていることをいう。

 玉はさまざまな形に加工される。中には球体になるものもあるだろうが、平たい円盤状のものも多い。真ん中に穴が空いていて、その直径は周りの輪の幅の半分のものを「璧(へき)」という。図版は世界最大級の璧で4000年前のもの(台座は清代のもの。台北故宮博物院所蔵)。きず一つない璧を完璧といい、同じくらいに立派な二つのものを双璧という。これより穴の大きなものは「環」と呼ぶ。
 戦国時代、趙の恵文王が持っていた璧を「連城の璧」という。秦の昭王が十五城と交換しようとしたことからついた名である。

 項羽と劉邦が会見した有名な「鴻門の会」で、范増が腰につけた「玦(けつ)」を挙げて、項羽に示すシーンがある。玦は璧の輪の一箇所が欠けた形をしていて、缺(欠)に通じるため、玦と書く。このシーンでは缺を決意の「決」にかけて、劉邦を撃つ決断を迫ったのであった。

「珪」は「圭」とも書き、平たくて上部が屋根型にとがった形の玉をいう。天子が諸侯を封ずるときに授けるもので、諸侯の身分証明書のようなものであった。先端がとがっているため、「圭角」とは角張った性格や態度をいい、江戸時代の儒学者山崎闇齋は「圭角の人」として知られていた。

 玉はまたさまざまな細工を施した工芸品にも仕上げられる。図版の「玉鳳」は前14世紀~前11世紀のもの。穴にひもを通して首からかけたのだろうか。どうみても手塚治虫の「火の鳥」である。1976年に河南省の古代の墓から発見された。
 台北の故宮博物館には清代に作られた翡翠の「玉白菜」がある。この「玉白菜」は台湾の人には大変な人気で、いつも人だかり。ミュージアムショップでも「白菜くん」グッズが並んでいる。台湾で故宮博物院に行ったというと、現地の人に必ずといっていいほど「白菜は見たか」と聞かれるほどである。
 台北の故宮博物院には球形の玉の彫り物もあって、これも人気が高い。何重にも重なった球形がそれぞれ動くもので、上から彫っていってこんなことができるとはとても思えない。(2009/12/09)

 


 角の字はもともと牛の硬いつのの形をかたどっていて、「つの」や「かど」の意で用いられる。角張った所は内側から見れば隅(すみ)でもあるから、「すみ」とも訓じるが、これは常用漢字表にはない。

 同じ字で読み方が幾通りもある姓として、まず頭に浮かぶのは「角谷」である。 「かく・かど・つの・すみ」と「たに・や」の組み合わせで八通りはある。筆者の知っている範囲でも「かくたに」さん、「すみたに」さん、「すみや」さんがおられる。

 髪を左右に分けて高い所で巻いた子どもの髪型を二本の角に見立てて「総角」というが、日本では揚げて巻くところから「あげまき」と読み、「揚巻」とも書く。こちらの方はアップして巻いた女性の髪型も指すようだ。歌舞伎の助六の愛人、遊女の名でもある。

 角一本だけというのを英語でいえばユニコーン。これは馬に似て額に一本の角を持つヨーロッパの伝説上の動物、一角獣を指す。この角で作った杯には解毒作用があるという。
 さて、江戸時代の蘭学の創始者ともいうべき青木昆陽の随筆『昆陽漫録』に「一角」の項がある。

▲図4 イッカク標本(牙)
国立科学博物館(同右)
  阿蘭陀大訳今村源右衛門、阿蘭陀ノ諸書ヲ考ヘテ、一角ノ説ヲ著シ、一角獣ノ図ヲノス。ソノ略ニ云ク、(と一角獣の姿などについて述べ)一角獣女児ヲ好ミ、香ヲ悦ブ。イツノ頃ヨリカ、獣ノ角ニアラズ。北海ノ魚ノ一角ナリトモ云ヘリ。

 漢方薬として輸入されていたウニコオルという長い角状のものの正体が何か、当時の日本ではわからなかった。オランダの本草学(薬学)の書に、ウニコオル(ユニコーン)は伝説の一角獣の角であるとして図も添えられていた。オランダ通詞の今村源右衛門は一書を著して、一角獣の体の特徴のみならず、女性とよい香りを好むという性向までも詳述した。さらにその角は北海の魚のものであるという説も出てきたと書いた。これに対し、昆陽は「コノ説モ一定ナラザレバ信ズベカラズ」と述べている。

 『昆陽漫録』は元文年間(1736~1740)から遅くとも宝暦3年(1753)には書かれていた書である。この50年ほど後の天明6年(1786)、大坂の木村蒹葭堂は『一角纂考』を著した。この書の上巻では、昆陽が載せたのと同じ「一角獣図」と、長い角状のものを頭部に持つ魚を描いた「一角魚身有鱗図」を蘭書からの引用として載せ、さらに自らが描いたであろう写真図も示し、和漢の書物を中心に考察した結果として、一角は魚の牙であるとしている。蒹葭堂の指摘するように、一角とは北極海周辺に住むクジラ目イッカク科の海獣の歯牙で、ふつうでも長さ二・五メートル程度、大きなものでは長さ三メートル、根本の直径は十センチにも達する。なお、この書の下巻は大槻玄沢が洋書翻訳の成果を中心に紹介している。(2010/01/23)

▲図1 青木昆陽『昆陽漫録』一角獣図 (『日本随筆大成』20)
▲図2 木村蒹葭堂『一角纂考』一角獣図・一角魚身有鱗図(大阪歴史博物館編
『木村蒹葭堂なにわ知の巨人』(展覧会図録、2003)
▲図3 木村蒹葭堂『一角纂考』写真図 (同上)




 




 


 最近はなんでもメールですませ、手紙を書くことが少なくなっている。若い人たちであればなおのことであろう。書くとしても「お元気ですか」で始まり「さようなら」で終わるようなもので、就職活動などで初めて「拝啓」で始まり「敬具」で終わる手紙を書く経験をするのかもしれない。

 手紙では相手に対する敬意が重視される。まして目上の人や高位の人に出す場合は、ことばをきわめて敬意を表す。それが独特の書簡用語を生み出した。
 「頓首」というのは頭を低く下げ、地面に打ち付ける敬礼のことで、ふつう手紙の末尾に置いて相手に対する敬意を示す。東晋・王羲之の尺牘(せきとく)(手紙のこと)では「頓首」が多用されている。たとえば「姨母帖(いぼじょう)」では「十一月十三日羲之頓首頓首」で始まり、「羲之頓首頓首」で終わっていて、前後に四回も繰り返されている。
 「死罪」ということばを用いることもある。これは死罪にもあたる失礼を詫びるという意味で、王羲之の「安西帖」では末尾に「羲之死罪死罪」とある。

 「不宣」は「不宣備」ともいい、言い尽くせないことをいう。この原形の「不能宣備」は『文選』に見られるが、「不宣」が書簡の文末用語として登場するのは唐になってからで、初唐・陳子昂の「為蘇令本与岺内史啓」(『陳拾遺集』巻十)に出てくる(「啓」とは上表文の一種)。
無任企仰之至。謹奉啓。不宣。
(企仰の至りに任ふる無し。謹しんで啓を奉ず。不宣。)
 中唐になると、顔真卿、独孤及、韓愈、柳宗元の書簡にもしばしば見られ、韓愈の「啓」の例もあるが、大抵は目上、あるいは友人に当てた書簡に用いている。宋代には一般に友人間で使われるようになり、さらに降って、清においては「不具」や「不備」と共に人間関係の上下にかかわらず用いられるようになっていた。

 さて、空海が804年に唐に渡った時、遣唐大使に代わって書いたとされる「為大使与福州観察使書」、自らの帰国を願い出た「与本国使請共帰啓」、橘逸勢に代わって帰国を願って書いた「為橘学生与本国使啓」、帰国直前に書かれた「与越州節度使求内外経書啓」には、いずれも文末に「不宣」の語を用いている。また、空海は帰国後の書状でもしばしば「不宣」を用いている。
 空海が入唐以前に学んでいた『文選』などには「不宣」は登場しないのであるから、空海が在唐中に当時流行しはじめた「不宣」を知って、帰国前の書状に用いたことは理解できる。では唐に着いた直後に書いた書状に「不宣」の語があるのはなぜだろう。可能性としては二つのことが考えられる。一つは、日本出発の前に唐からのナマの書簡を見て、すでに知っていたこと。もう一つは、この「為大使与福州観察使書」は帰国後に書き直されたものであったこと。さあ、どっち。筆者は後者の可能性が高いのではないかと考えている。

 藤沢周平著『市塵(しじん)』は、新井白石を主人公とするたいへんすぐれた小説である。この中に「不宣」に関しての一文がある。

将軍あての朝鮮国王の結辞は、これまでずっと「不宣」の二字を使用して来たが、このたびは新将軍の名が家宣なので、「不宣」の文字を使用しないようにと対馬藩から申し入れたのに対して、朝鮮側はすばやく応じて措置した。

 当然、しかるべき史料に基づいているのであろうが、ここではわかりやすく小説の文章を借りた。これは諱(いみな)の問題である。諱については当コラム(3) (4)を参照されたい。(2010/02/15)

 


 「人間」と書いてあれば、日本人ならほぼ全員が「にんげん」と読み、人の意味であるというであろう。しかし、この語はもとは「じんかん」と読み、世間と同義の語なのである。「人間(じんかん)」の使用例で有名なのは李白の「山中問答」の詩である。

問余何意棲碧山 余に問ふ 何の意ぞ碧山に棲むと
笑而不答心自閑 笑って答へず 心自(おのずか)ら閑なり
桃花流水窅然去 桃花流水窅然(ようぜん)として去り
別有天地非人間 別に天地の人間に非ざる有り

 最後の句は、人間すなわち俗人の世界とは違う別の天地があるという意味である。

 さて、日本倫理学の父ともいうべき和辻哲郎は、『人間の学としての倫理学』第1章において、倫理学とは「人間関係・従って人間の共同態の根柢たる秩序・道理を明らかにしようとする学問」であるとし、さらに「人間」という言葉の意味について語っている。
 和辻は「人間」と「人」が同じ意味に用いられていることに言及する。字書『言海』には、人間とは「よのなか」「世間」を意味し、「俗に誤って人の意となった」とある。しかし、「誤って」というのは「数世紀にわたる日本人の歴史的生活において、無自覚的にではあるがしかも人間に対する直接の理解に基づいて、社会的に起こった事件」なのであるとし、「人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を現している、と見てよいならば、人間が人の意に解されるのもまた正しいのである」という。
さらに和辻はいう。「かかる(人間が人の意味になる)転用はシナにおいては決して起こらなかった。人間とはあくまでも世間、人の世であって、人ではない。別有天地非人間([別に天地の人間に非ざる有り]李白)と言われる場合の「人間」は明らかに人間社会である。ここでは別天地が人の世のものでないとして示されている。人間行路難([人間、行路難し]蘇軾)とは人間社会における世渡りのむずかしさであり、人間万事塞翁馬とは歴史的社会的なる出来事の予測し難いことをいう。仏教の漢訳経典も厳密にこの用法を守っている」と。たとえば輪廻転生する世界の中の「人間」は人の世界の意味なのである。 和辻は、シナ語の「人間」を学び取った日本人も、初めはその用法を守ってきたという。「人間の人」という用例もある。謡曲「綾鼓」では「世の中は人間万事塞翁が馬」というように、世の中と人間を等置している。
 そして、日本では仏教の六道輪廻の思想の広まりの過程で、畜生界の住者たる畜生と、人間の住者たる人が対比されるうちに、畜生に対して人間(=人)という言い方が生じてきたと考え、狂言「こんくわい」で狐に「人間とはいふものはあどないものぢゃ」と言わしめているのを適例として挙げている。

 人と人間が同じ意味で用いられていることは、人間は人と人との間の関係を無くして存在しないものであるという和辻倫理学の根幹を物語るのに格好の材料を提供しているのである。さすが和辻先生、和漢の書物から的確な例を引いて、人間が人と同じ意味になった経緯を論じておられる。

 和辻先生は「人間」の読み方には触れておられないが、世の中の意味の「人間」が漢音の「じんかん」で、人の意味の「人間」が呉音の「にんげん」であるのも、後者が仏教に由来することからうなづける(仏教語は多く呉音で読まれる)。
 なお、『人間の学としての倫理学』は岩波文庫を用いた。(2010/03/09)

 


 前回「人間」を読んだ息子が、「人間(じんかん)」を初めて知ったのは高校で「人間到るところ青山あり」を習った時だという。そういえば、このことばのほうが人口に膾炙(かいしゃ)しているかもしれない。しかし、「にんげん」と読むものだと思っている人も少なくはなさそうだ。

 「青山」は字の通り、樹木が青々と茂っている山をいう。
  望天門山(天門山を望む)  李白
天門中断楚江開 天門中断して楚江開く
碧水東流至北回 碧水東に流れ北に至って回(めぐ)
両岸青山相対出 両岸の青山相対して出づ
孤帆一片日辺来 孤帆一片日辺(じっぺん)より来たる

 さて、北宋の蘇軾(東坡)の詩集『東坡先生詩』巻二十二に「繋御史台獄云子由二首(御史台獄に繋がれ子由に云ふ二首)」がある。蘇軾は王安石の新法に反対した旧法党の主要人物で、新法党が政権を握るたびに投獄されたり僻地に流されたりした。御史台というのは官吏の不正を暴く役所。ここに捕らえられたとき、弟の蘇轍(字は子由)に送った詩である。この詩(七言律詩)の第一首の第三連(第五・六句)に
是処青山可蔵骨 是処(ここ)の青山 骨を蔵すべし
他年夜雨独傷神 他年の夜雨 独り神(しん)を傷まん
とある。故郷でもないここの青山にも骨を埋める覚悟はある。後年、夜の雨だけが私の霊を悲しんでくれることになっても。
 こうして青山は墓地という意味を合わせ持つようになった。

 「人間到るところ青山あり」は次の詩に由来する。
  題壁詩(壁に題する詩) 釈月性(げっしょう)
男児立志出郷関 男児 志を立て郷関を出づ
学若不成死不還 学 若(も)し成らざれば死すとも還らず
埋骨何期墳墓地 骨を埋むるに何ぞ墳墓の地を期せん
人間到処有青山 人間(じんかん)到る処青山有り
 志を立てて故郷を出たら、学問を成すまでは帰らない。成しえなければ異境の地で死ぬのも覚悟である。骨を埋めるのは故郷の墓地とは限らない。世の中、どこにでも骨を埋める青山があるのだから。
 作者の月性は日本の幕末の詩僧であるが、この詩は彼の作ではないという説もある。

 ちなみに東京の青山(あおやま)という地名は美濃郡上の青山氏の邸があったことによる(『広辞苑』)。青山墓地というのは偶然にしてはできすぎの感がある。(2010/03/23)

 


 前回に登場した「膾炙」について書いてみよう(このところしりとり風になっている)。「膾」はなます(細切りした生肉)、「炙」はあぶり肉、今でいう焼き肉である。どちらもおいしいごちそうなので、人がすぐ箸で運んで口にしたことから、「人口に膾炙す」とは人々の口にのぼり、話題になって知れ渡ることをいう。

 膾は現代でいえば、韓国料理のユッケを想像すればよいだろう。『論語』郷党篇に
食不厭精、膾不厭細、
食は精を厭(いと)はず、膾は細きを厭はず。
ご飯は白いほうがよく、膾は細いほうがよい、とある。膾は生肉だから新鮮でなければならないが、さらに粗雑な切り方では「人を害(そこな)ふ」と朱注にある。消化のために細く切るほうがよいというのである。ともあれ、生で食べられるほどの新しい肉を、腕のいい料理人によって細切りされたものは、格別のごちそうにちがいない。

 「羹(あつもの)に懲りて膾を吹く」ということばもある。熱い肉入りスープで懲りて、冷たい膾もフーフー吹いて食べるという意味で、一度失敗したのに懲りて無益な用心をすることをいう。羹もなかなかのごちそうであった。ちなみに「羊羹」とは羊肉のスープ。日本ではいつのころからか、餡を寒天で固めた甘い菓子の名となった。

 「膾炙」がおいしいごちそうの代表であることは、古くは孟子が語っている。『孟子』尽心下(二百五十八)には次のようにある。 
曽晳嗜羊棗、而曽子不忍食羊棗、公孫丑問曰、膾炙与羊棗孰美、孟子曰、膾炙哉、公孫丑曰、然則曽子何為食膾炙而不食羊棗、曰、膾炙所同、羊棗所独也、(以下略)
曽晳(そうせき)、羊棗(ようそう)を嗜(たしなむ。曽子、羊棗を食ふに忍びず。公孫丑(こうそんちゅう)問ひて曰はく「膾炙と羊棗といづれか美なる」と。孟子曰はく「膾炙なるかな」と。公孫丑曰はく「然らば則ち曽子 何為(なんす)れぞ膾炙を食ひて羊棗を食はざる」と。曰はく「膾炙は同じくする所、羊棗は独りする所なり。(以下略)」と。
 孔子の弟子の曽子(曽参)は親孝行で有名な人物。曽子の父の曽晳は羊棗が好物であった。羊棗とはなにかよくわからないが、柿の小さなもので熟すと黒くなるものだとする説がある。曽子は父の好物を食べるに忍びなかった。このことについて公孫丑が孟子にたずねた。「膾炙と羊棗とどちらがうまいでしょう」。孟子「もちろん膾炙だよ」。公孫丑「ではなぜ曽子は膾炙は食べて羊棗を食べないのですか」。孟子「膾炙はだれもが好むものだが、羊棗は特別な人だけが好むものだ」。すなわち、曽子は父だけが好む食べ物を、父に遠慮して食べなかったというわけである。

 東晋の王羲之は「書聖」として知られた人物である。その伝記(『晋書』巻八十王羲之伝)には次の記事がある。
羲之幼訥於言、人未之奇、年十三、嘗謁周顗、顗察而異之、時重牛心炙、坐客未噉、顗先割啗羲之、於是始知名。
羲之 幼きとき言に訥、人未だこれを奇とせず。年十三にして、嘗て周顗に謁す。顗 察してこれを異とす。時に牛心炙を重んず。坐客未だ噉はざるに、顗 先ず割きて羲之に啗はす。ここに於いて始めて名を知らる。
 王羲之は幼少のころは口べたで、だれも彼が才能ある人物とは思っていなかった。十三歳になったあるとき、周顗に会う機会があった。周顗は彼をよく見て、並みの子ではないと感じた。当時は牛の心臓の焼き肉が一番のごちそうであった。今でいえばココロとかハツであろうか。そのごちそうが前に出ていて、まだだれも箸をつけていなかったが、周顗は最初に切り取って羲之に食べさせたのであった。このことがあってから、王羲之の名が知られるようになったという話である。焼き肉にも時によって流行りの部位があったようだ。(2010/05/21)

 


 鬼門とは、「陰陽道で、鬼が出入りするといって万事に忌み嫌う方角で、艮(うしとら)すなわち東北の称」と『広辞苑』にある。
 鬼門を出入りする鬼は「き」と読むのであるが、日本ではこれを「おに」と読み、「うしとら」に因んで、牛の角を生やし虎のふんどしをはいた形で描かれる。

 本来、鬼(き)とは死者の霊をいう。 霊の存在を否定する考えを無鬼論といい、中国では後漢の王充という無鬼論者として有名な人物がいるが、わが山片蟠桃も徹底した無鬼論を展開している。蟠桃の『夢ノ代』の無鬼篇上第二章には、『史記』黄帝本紀(五帝本紀の内)の「鬼神山川封禪」の語句が「鬼神」の初出であると述べ、同じく顓頊(せんぎょく)本紀(同)にも「依鬼神以制義(鬼神に依りて以て義を制す)」とあるのを引き、「コレミナ山川ノ神ヲ云也」とする。つまり、『史記』でいう鬼神は山川の神のことをいっているのであって、死者の霊の存在を認めるものではないとするのである。

 このあとに次のように続けている。
同注ニ海外経ヲ引テ云、
東海中有山焉、名曰土索、上有大桃樹、屈蟠三千里、東北有門、名曰鬼門、万鬼所衆也、天帝使神人守之。一名欝塁、主閲領万鬼、若害人之鬼、以葦索縛之、射以桃弧、投虎食也、
コレハ仏家ニ曰悪鬼ニ似タリ。桓武帝ノ時、最澄ナル僧コノ鬼門ノ説ヲトリテ、王城ノ鬼門ヲ守ルト詈(ののし)リテ、叡山ヲ開ク。コノ鬼門ハ桃樹ノ東北也。是ヲ我邦ノ王城ニ用ユベキニアラザル也。

 「海外経」というのは中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』の篇名である。わざわざ『史記』の注に引かれている海外経を引くのは、現行の『山海経』にはこの文章が載っていないからである(注に引く海外経原文では「天帝使神人守之」のあとに「一名神荼」の句がある)。海外経の文意は次の通り。
 東海の沖に山があり、名を土索という。その山に大きな桃の木があって、三千里にもわたって枝をうねりまがらせている。その東北に門があり、名を鬼門といい、多くの鬼が集まる。天帝は神人にこの門を守らせた。その名を(神荼と)欝塁といい、鬼たちを統治することを任務とした。もし人に害を与える鬼がいれば、葦の縄でしばり、桃の弓で射て、虎の餌食にした。

 蟠桃は、ここでいう鬼は仏教でいう悪鬼に似ているといい、後文で日本の中世以後の鬼はみなこの悪鬼を指すという。そして、桓武天皇のとき、最澄はこの鬼門の説を取り上げ、御所の鬼門を守るためと騒ぎ立てて、御所の東北に当たる比叡山に延暦寺を建てた。海外経の鬼門は土索山の桃の木の東北にあるのであって、これをわが国の御所に当てはめるのはもってのほかだ、と述べる。『山海経』といった荒唐無稽な書を批判するのも忘れない。

 蟠桃は同じ内容のことを同書天文篇でもすでに述べている。第十九章では冒頭から、
鬼門ト云(いう)事ハ、最澄比叡山ヲ開カンガ為(ため)ニ云出ス処、アヽ憎ムベシ。
といい、『山海経』海外経の同文を引いている。
 
 鬼門のことは『叡岳要記』にあるが、最澄が言い出したというのは後世の説であるらしい(岩波思想大系頭注)。ともあれ、陰陽道にも取り入れられ、日本では東北を鬼門といって忌み嫌うことになったわけであるが、まったく根拠のないことであるからと、蟠桃には腹立たしいかぎりであったにちがいない。

 昔、恩師を囲む席上で、ある人が「先生は鬼門のことも考えてお家を建てましたか」と聞いた。恩師がご自宅の設計をご自身でなさったという話は、我々のあいだでは有名であった。恩師は笑いながら、「私は鬼門などは信じないけれど、万一、家を売らなければならないようになったときに売れなくては困るから、そういうことも調べて建てました」とおっしゃった。まだ若かった私は、これこそ大人の考え方だとたいへんに感心したものである。(2010/06/23)

 


 凝脂とは文字通り、凝固した脂肪の意であるが、中国では古くから白くなめらかな肌のたとえに用いられてきた。

 『詩経』衛風の「碩人」の詩に次の句がある。
手如柔荑、膚如凝脂、
(手は柔荑の如く、膚は凝脂の如し)

 碩人は美人の意。その手は生えたばかりの木の芽のように柔らかく、肌は固まった脂のようになめらかだという。美しい肌を動物の脂肪、すなわちラードにたとえるのは、動物の肉を食することが多く、その脂肪も目にふれることが多かったからである。

 しかし、凝脂は女性の肌をいうばかりではない。『世説新語』容止篇には次の説話がある。

王右軍見杜弘治、歎曰、面如凝脂、眼如点漆、此神仙中人。
王右軍 杜弘治を見て、歎じて曰く、面は凝脂の如く、眼は点漆の如し。此れ神仙中の人なり。

 王右軍とは東晋の「書聖」王羲之のこと。杜弘治に会って思わずため息をもらし、「顔は凝脂のよう、眼は漆を点じたかのよう。此れこそ神仙中の人だ」といったという。
 篇名の「容止」は容貌風采の意味。六朝時代は、官僚である士大夫が貴族化して、容貌風采が尊重された。容止篇にはそうしたエピソードが集められている。この話からも、美しい男性が賞賛の対象となっていたことや、神仙(仙人)が理想の人間像として意識されていたことがうかがえる。

 とはいえ「凝脂」で有名なのは何といっても李白の「長恨歌」に詠われている楊貴妃の肌である。

春寒賜浴華清池 春寒くして浴を賜ふ華清の池
温泉水滑洗凝脂 温泉の水は滑らかにして凝脂に洗(そそ)

 楊氏の娘は、長安郊外の驪山(りざん)温泉の離宮、華清宮で初めて皇帝(玄宗)に謁見した。その美しさに心を奪われた皇帝は、彼女のために特別の浴室を作らせた。まだ寒さの残る春の日に、その浴室の湯にひたる彼女の肌の白く滑らかなようすを、白居易はこのように詠った。脂ということばが、そそがれる温泉の水をはじいている若い肌をも連想させ、たいへんにエロティックな描写になっている。
 白くきめ細かい肌を日本語では「餅肌(もちはだ)」というが、色っぽさでは凝脂に軍配があがるだろう。(2010/08/19)

 


 前回(87)の「凝脂」でも引いた『詩経』衛風の「碩人」をもう少し長く引用してみよう。

手如柔荑、膚如凝脂、領如蝤蠐、歯如瓠犀、螓首蛾眉、巧笑倩兮、美目盻兮、
手は柔荑(じゅうい)の如く、膚は凝脂の如く、領は蝤蠐(しゅうせい)の如く、歯は瓠犀(こさい)の如く、螓首(しんしゅ)蛾眉にして、巧笑倩(せん)たり、美目盻(けい)たり。

 碩人とはここでは美人のこと。美人のさまをいろいろなものに譬えているのである。手は生えてきたばかりの芽のように柔らかい。肌は固まった脂のように白くなめらかだ。領(うなじ)はキクイムシのそれのように細い。歯はひさごのタネのようにきれいにならんでいる。ナツゼミのように広くて白い額(ひたい)に、蛾の触角のように細く美しく曲がっている眉。 にっこり笑うさまは美しく、美しい目元はくっきりしている、という。

 われわれにはその譬えがピンとこないものもあるが、「螓首」や「蛾眉」はそれだけで美人を指すことばになった。特に「蛾眉」は後世の詩文によく登場する(一説に蛾は娥であるという。娥は美しい、また美人の意。しかし、虫の名を並べた中にあっては蛾でよいのではないかと思う)。

 戦国時代の楚の地方の歌を集めた『楚辞』の代表的作品「離騒」にも「蛾眉」は登場する。

衆女嫉余之蛾眉兮、謡諑謂余以善淫。
衆女 余の蛾眉を嫉み、謡(うた)ひ諑(うった)へ、余を謂(い)ふに善く淫するを以てす。

 女たちは私の美しい眉、すなわち美貌をねたんで、私を淫らな者といいふらした、と訳されるが、実は作者屈原が政界の徒党を組む者たちから、その高潔な行ないをねたまれ、君主に讒言されたことを暗喩しているのである。「蛾眉」は『詩経』の舞台である黄河流域地方だけではなく、南方の楚でも美貌を指していたことがわかる。

 『詩経』以後、諸々の詩文に用いられた「蛾眉」は、空海の『三教指帰』にも出てくる。巻下に次の句がある。

婕娟蛾眉、逐霞以飛雲閣、的皪貝歯、添露而咸零落。
婕娟(しょうけん)たる蛾眉、霞を逐ひて以て雲閣に飛び、
的皪(てきれき)たる貝歯(ばいし)、露に添ひて咸(み)な零落す。

 なかなか難解な句であるが、ここは福永光司訳をあげておくと、細く美しい美人の眉も霞とともに雲の宮居に飛び去り、貝のように白く輝く美女の歯も露とともにみな脱けおちてしまう(『空海 三教指帰ほか』中公クラシックス)、となる。

 「蛾眉」は唐代詩人にもよく用いられた。初唐の劉廷芝の詩「代悲白頭翁」は「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」の句が有名であるが、この詩の終わりのほうに次の句がある。

宛転蛾眉能幾時 宛転たる蛾眉 能く幾時ぞ
須臾鶴髪乱如絲 須臾にして鶴髪 乱れて絲の如し

 「宛転」は美しい曲線を描くこと。うるわしい眉の女性も若くて美しい時期はどれほどあるというのか。あっというまに白い髪がもつれた糸のようになってしまう、という。

 盛唐の詩人李白の五言絶句「怨情」にも「蛾眉」は現れる。

美人捲珠簾 美人 珠簾を捲き
深坐顰蛾眉 深く坐して蛾眉を顰(ひそ)

 美人は珠のすだれを巻き上げて、深く腰をかけ、なにか悩みでもあるのだろう、美しい眉をひそめる。これは昔の美女西施(せいし)が病のために苦しげに眉をひそめたという話を想起させる。西施の悩ましげなようすが美しいので、醜女がまねをしたら皆が気味悪がったという「顰みに倣(なら)う」は『荘子』天運篇を出典とする。

 白居易の「長恨歌」では、楊貴妃の死のシーンに「蛾眉」が登場する。

六車不発無奈何 六車 発せず 奈何(いかん)ともする無く
宛転蛾眉馬前死 宛転たる蛾眉 馬前に死す

 都を反乱軍に占拠されて、玄宗一行は成都を目指して出発した。西に百余里の馬嵬(ばかい)駅までたどりついたとき、この乱の原因は楊氏一族にあるとして近衛兵らが騒ぎ出す。ついには楊貴妃を自殺させ、その亡骸を兵士の前に持ち出す。
 吉川幸次郎は上の二句について、
   六軍とは、天子の近衛兵六部隊。宛転たる蛾眉とは、蛾の羽根のように、長く丸く眉をひくのが、唐のモードであった。「馬前に死す」。美しいなきがらが、兵士たちの好奇のひとみの前にさらされたことを、うまく写した三字である。
と書いている(『続・新唐詩選』岩波新書)。「蛾眉」は、「蛾の羽根のように」とあるが、蛾の羽根は長くはないから、ここは触角でないとおかしい。また、これが「唐のモード」というが、『詩経』以来、美人の眉は「蛾眉」と決まっている。
 ともあれ、ここでは「蛾眉」の語だけで楊貴妃を指す。楊貴妃は登場まもなく「凝脂」の肌を見せ、永別のシーンでは「蛾眉」と詠われている。美人を形容することばは『詩経』より営々と受け継がれているのである。

 眉はいつの時代でも細く湾曲したのが美しいとされてきたのだが、美人の理想体型はどうであろうか。古代の『詩経』に描かれた美人は、キクイムシのように細いうなじのスラリとした体型であったようで、降って隋・初唐の陶製の俑にも共通する。ところが、中唐ごろからの美人像はふっくら体型に変わってきていて、正倉院御物の「鳥毛立女像」にも見られるが、これは玄宗好みであったといわれている。つまり、楊貴妃はふっくらタイプだったのである。晩唐期の宮女を描いた絵をみるとふっくら体型の女性が並んでいる。そののち、たとえば明代の美人画ではまたもやほっそり型が登場しているから、ふっくらタイプがもてはやされた時代は限られていたようだ。
 ちなみに図でもわかるように、明代では額と鼻すじとあごを白く塗る化粧法が流行ったが、額を白く塗るのは「螓首」に由来するのかもしれない。しかし、平板なアジア女性の顔を立体的に見せるこの化粧法は、現代にも通じるものである。(2010/09/20)

図版1 隋の女俑 図版2 中唐の女俑 図版3 明・唐寅「四美図」

 
 


 よく知られているように、「哲学」ということばは「宗教」などと同様に日本製である。英語のPhilosophyは古代ギリシャ語のPhilosophiaをそのまま移したもので、これはphilein(愛する)という動詞とsophia(知恵ないし知識)という名詞を組み合わせてつくられた合成語であり、「知を愛すること」つまり「愛知」という意味である。この3行は木田元先生の『反哲学入門』冒頭からの引き写し。ついでながら、この『反哲学入門』はたいへんおもしろい。最近、新潮文庫からも出た。

 西周(にしあまね)は江戸末期の「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」で日本最初の哲学の講義をしたときには、Philosophyを「希哲学」と訳した。西周はphilosophyの意味を、北宋の儒学者周敦頤(しゅうとんい)が『通書』の中で「士希賢(士は賢を希(ねが)ふ)」といっている「希賢」と同じだろうと考え、しかし「希賢学」では儒教色が強いから「希哲学」とした。その後、オランダ留学ののち、明治になってからどういうわけか「希」の字を削って「哲学」にした。もとの意味の「愛」の部分が消えてしまったことになる。ここも木田先生の受け売り。木田先生は「希哲学」では語呂が悪くて、面倒くさいから「哲学」にしたんでしょう、と述べておられる。

 ついでながらsophia は「上知(智)」と訳されることがある。この「上知」は『論語』に拠る。陽貨篇に孔子のことばとして「唯上知与下愚不移(唯だ上知と下愚は移らず)」とある。だれでも後天的な習いによってよくも悪くもなるものだが、とびきりの賢い者と愚か者は移ることはないという意味。

 さて、「希哲学」でなくて「哲学」だからこそ一般の耳にもなじみやすかったといえるだろうが、もし「愛知学」になっていたら、今の「哲学」のもつ、なにやら深淵でむずかしそうなイメージは生まれなかっただろう。日本では「愛国」を「愛の国」と読ませることもあるくらいだから(かつて「幸福」から「愛国」への国鉄切符がブームになったことがある)、「愛の知識の学」と勘違いされないとも限らない。

 「愛知」と聞くと愛知県を思いおこす。愛知県の「愛知」の由来は何だろう。愛知県の公式ホームページによると、

「あいち」の地名は、万葉集巻三の高市黒人の歌「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」に詠まれている「年魚市潟(あゆちがた)」に由来するといわれ、「あゆち」が「あいち」に転じ、愛智(郡)の郡名もここから生まれました。廃藩置県後、県庁が愛知郡の名古屋城内に置かれたところから県名に採用されました。

とある。「あゆち」から転化した「あいち」という和語に漢字があてはめられたということらしい。

 さて、もうひとつの「愛知」がある。東海道新幹線で滋賀県内を通っているとき、車窓から「滋賀県立愛知高等学校」という学校があるのが見える。この「愛知」は「えち」と読む。2009年に創立百周年を迎えた古い学校で、前身の女学校が大正11年から「愛知」を名乗っていて、昭和23年に県立愛知高等学校になった。住所は愛知郡愛荘町愛知川とある。愛の字だらけの住所だが、「愛知」の名は愛知川(えちがわ)に由来し、中山道愛知川宿として栄えた。愛荘町は2006年の「平成の大合併」で愛知川町と秦荘町がくっついてできたから新しい。こっちは「あいしょう」と読むのだが、そう読んでしまうと大合併の大弊害というべき由来不明の町名になる。
中山道の愛知川宿は、歌川広重・渓斎英泉合作の「木曽海道六拾九次」の中では「恵智川」となっている(これは広重の作品。中山道広重美術館のホームページで絵を見ることができる)。『太平記』に愛知川の名が見られるそうだが(未見)、江戸時代に宿場の名として恵智川になっていたのかもしれない。たとえば愛知県の知立(ちりゅう)は、古くから知立・智立と書かれていたが、江戸時代に東海道の宿としては「池鯉鮒(ちりふ)」と名付けられていたのと同じように。

 「愛知」といういかにも理知的造語風の漢語的地名がどちらも和語の音にあてたものであったことは意表を突かれたようでおもしろい、と思うのは筆者だけだろうか。(2010/09/20)

 


 『論語』泰伯篇に次のことばがある。
舜有臣五人、而天下治、武王曰、予有乱臣十人、孔子曰、才難、不其然乎、(以下略)
(舜に臣五人有りて、天下治まる。武王曰く、予に乱臣十人有り、と。孔子曰く、才難し。其れ然らずや。)
 周の武王のことばの「乱臣」の「乱」は「治」の意味なので、ここは「わたしには治めてくれる者が十人いる」となる。舜の時で五人、周の建国時で十人、を受けて、孔子は「人材は得がたいものだ。そうではないかね」といったのである。

 乱の字はみだれた糸を両手で分けるさまからできたとされ、「おさめる」が第一義。『書経』皋陶謨の「乱而敬」は「おさまりて敬あり」と読む。
 やがて、みだれた糸そのものに視点が移り、「みだれる」の意で用いられるようになった。漢和辞典の「乱」のつく熟語はすべて「みだれる」の意であって、この字に「おさめる」の意味があることを知る人はまずいない。

 このように、一字で正反対の意味を持つことを「反訓」という。『大漢和辞典』では例として、「徂(シス)を存(ソンス)とし、乱(ミダル)を治(ヲサム)とし、曩(ヒサシ)を曏(シバシ)とし、故(フルシ)を今(イマ)となす類」とあげているが、これは『爾雅』釈詁の「徂在存也」の注に基づいている。
以徂為存、猶以乱為治、以曩為曏、以故為今、此皆詁訓義有反覆旁通、美悪不嫌同名、
(徂を以て存と為すは、猶ほ乱を以て治と為し、曩を以て曏と為し、故を以て今と為すがごとし。此れ皆な詁訓の義、反覆旁通して、美悪同名を嫌はざる有り)
 
 そこで①「徂」②「曩」③「故」の字をあらためて調べてみた。
「徂」は「ゆく(往)・しぬ」のほかに「ながらえる(存)」の意がある。
「曩」は『説文解字』では「曩、曏也」とあって、「曏」と同じであるとする。ところが、『爾雅』釈詁では「曩、久也」とあり、『説文解字』では「曏、不久也」とある。つまり、「曩」は「ひさし」と「ひさしからず(しばし)」の意があるということになる。
「故」は「もと、むかし、もとより」の意で、「旧」と説明される。「ゆえに」や「事」の意もあるが、「今」の意はみつからない。

 ほかに反訓として有名なのは「離」に「はなれる」と「つく(着)」の意があることだろう。「離離」という語は、離ればなれになるさまと並び連なるさまの両意があるから気をつけなければならない。この字の場合、「離」と同音の「麗(り)」に「ならぶ(並)・つく(着)」の意があることから、通用していたため、反訓を持つことになったと思われる。「逆」に「むかえる(迎)」と「さからう」の意味があるのも反訓といってよいかもしれない。
反訓を持つように至った事情は、文字によって異なるといっていいだろう。『爾雅』注にいうように、反覆して用いているうち、反対の意味でも紛らわしくなくなったのであろう。小島祐馬博士の論文には十八の例があげられているそうだが、古い論文なので見つけることができないでいる。(2010/12/13)

 


 前回にあげた反訓とまではいかないが、よく見知っている漢字に意外な意味があることがある。たとえば「爽」。さわやか、あきらかという意味はよく知られていて、「爽快」「颯爽」という熟語もおなじみである。
 一方、この「爽」には、たがう(違)、まどう(惑)、ほろびる(亡)といった意味もある。「爽徳」はさわやかな徳ではない。悪徳、まちがった行いの意味である。

昔昭王娶於房、曰房后、実有爽徳。
昔、昭王 房に娶(めと)り、房后と曰(い)ふ。実(まこと)に爽徳有り。
(『国語』周語上)

 まぎらわしいことに、「爽然」の語は二つの意味で用いられている。

白笴夜長嘯 白笴に夜長嘯す
爽然渓谷寒 爽然として渓谷寒し
(李白「遊秋浦白笴陂二首」其二 『分類補註李太白詩』巻之二十)

「白笴」は陂(坡、つつみ)の名。夜、白笴陂で声を長く引いて詩を詠っていると、さわやかでひんやりとした風が渓谷から吹いてくる。この「爽然」はさわやかなさまをいう。では次の用例はどうだろうか。

読服鳥賦、同死生、軽去就、又爽然自失矣。
服鳥賦を読めば、死生を同じうし、去就を軽んず。又た爽然自失せり。
(『史記』屈原賈生伝賛)

 服鳥はふくろうのこと。『史記』によると、賈誼が長沙に左遷されて三年たったころ、ふくろうが彼の宿舎に飛び込み、部屋の隅に止まった。ふくろうは遠くまで飛ぶ力がないから、自分がこのまま長沙に没することを意味するのだろうと察し、また長沙は低湿の地なので、ここでは長寿が得られないことを思い、「服鳥賦」を作ってみずから慰めたという。『史記』はこの「服鳥賦」を載せている(『文選』には「鵩鳥賦」と題して収録されている)。賈誼はその後一年あまりして都にもどった。賈誼伝末尾の太史公(司馬遷)論賛にあるのが上記のことばである。
 「服鳥賦」を読むと、賈誼は死も生も同じに見て、身の処し方を軽んじている。これは彼が自分を忘れてぼんやりしているとしかいいようがない。「爽然自失」は「茫然自失」と同じで、「爽」と「亡」と「茫」は意が通じているのである。

 タイトルの「陽死」の意味がわかる人は少ないだろう。「陽」は日光の当たるところをいう。したがって、ひなた、山の南を指し、太陽そのものをもいう。そこから、うわべの意も持つようになり、いつわる、ふりをするという意味にもなった。「陽言」はいつわりのことば、「陽死」は死んだふりをすることである。

胡騎得広、広時傷、置両馬間、絡而盛之臥、行十余里、広陽死。
胡騎 広を得たり。広時に傷つけり。両馬の間に置き、絡(つな)ぎてこれに盛り臥せしめ、行くこと十余里。広 陽死す。
(『漢書』李広蘇建伝)

 漢の将軍李広が北方の異民族と戦ったとき、敵軍には李広を生きたまま捕らえよという命令が出ていた。敵の騎兵が広を捕らえたとき、広は傷ついていた。敵は彼を二頭の馬の間に置き、二頭をつないだ綱の上に寝かせたまま、十余里進んだ。広はじっと死んだふりをしていた、という話である。(2011/1/12)

 


 子どものころ、痩せた人を「ほねかわすじえもん」といったものだ。漢字で書くと「骨皮筋右衛門」となるのであろう。骨と皮と筋だけで肉がないということだ。この「筋」は何を指すのだろう。
 『広辞苑』で「すじ(筋)」を調べると実に多くの意味が並んでいるが、大きく分けて①筋肉②細長く一続きになっているもの③一続きの関係、となる。「骨皮筋右衛門」の「筋」は①の筋肉に当てはまるのであるが、ほかにもからだ関係では「鼻筋」「青筋(血管のこと)」があり、こちらはどちらも②に当てられている。
 しかし、痩せた男性をいう「すじえもん」や「すじお」の「すじ」を単に筋肉に置き換えると、筋肉隆々たる「キン肉マン」のイメージになってしまう。語感の持つイメージは、本来の意味とは離れてしまうことがあるようだ。

 さて、「筋」の②に分類される意味として、道や道路がある。大阪市内中心部では東西の道を「通り」といい、南北の道を「筋」という。ニューヨークでは東西をstreet、南北をavenueというそうだが、同じように呼び名を分けているのである。本町通り、中央通りは東西の道、御堂筋、堺筋、四ツ橋筋などは南北の道である。

 大阪は西に海があって、江戸時代にはそこから船が川や運河を東にさかのぼり、市中の川岸に立つ蔵に荷物を上げた。したがって、川沿いに大きな道ができ、人馬の行き交いが盛んであった。これが通りであって東西に伸びている。今も残る古い商家の表口は東西の通りに面しているが、これは大阪における物流が水運によるものであった名残りである。
 筋はもともとは通りと通りを南北に結ぶ脇道、小路をさした。明治以後、人や物の流れは南北に変わり、キタとミナミを結ぶ幹線道路として御堂筋が大幅に拡張され、平行するいくつもの「筋」が整備された。その下に掘られた地下鉄も「筋」名で呼ばれるようになった。こうして、今や大阪の「筋」は大きな道路となっている。
 
 大阪の中心地船場では、東西の「通り」を挟んで町が成立し、今でも「平野町」「安土町」「瓦町」などは町名でもあり「通り」の名でもある。ところが、船場を離れた地では南北の路が町を形成することもあった。
 今の大阪ミナミの繁華街の中心には八幡筋や三津寺筋などの東西の「筋」があって、御堂筋や心斎橋筋などの南北の「筋」と直交している。このあたりは畳屋町、笠屋町、玉屋町などの町で、一本の南北の道を挟んだ両側で町を形作っていた。ここに住む人たちは町を東西に結ぶ脇道を八幡筋や三津寺筋などと呼んだのである。

 また、こんな資料もあるそうだ(図版参照)。安政5年(1858)に大坂の書店の本の奥付に、書店の住所が「心斎橋通塩町筋西北角」となっている。ふつうならば「心斎橋筋塩屋町通」となるはずである。そこで、ふと思い出したのは京都の地名表記である。京都市内中心部では町名とは別に、どの通りとどの通りの角であるかを重ねて表記することが多い。そのとき、今歩いてきた道を先に書くのである。「四条河原町」は四条通りを歩いて来て河原町にぶつかったところ、四条通りは東西の道なので、そのあとに「上がる」とあれば北に曲がって河原町通りに入っていく。「河原町四条」は逆に南北の河原町通りを歩いてきて四条通りにぶつかったところ。そのあとには「東入る」か「西入る」がついていれば四条通に入っていくことになる。
 今では京都市内だけになったこの表記方法が、あるいは江戸時代の大阪にも一部の人の中で使われていたのかもしれない。そして、このころには心斎橋筋が大通りになっていて、塩屋町が小道になっていたのかもしれない。この大坂の本屋さんは大通りの心斎橋「通り」を通ってきて、脇道の塩町「筋」を西に曲がった北側ですと書いているのではないだろうか。
(この項は大阪市教育委員会発行『いちょう並木』2010年10月号の橋爪節也著「おおさかKEYわーど」第7回を参考にした。図版もその記事に拠る。)(2011/1/12)

 


 たとえば『京都大学人文科学研究所漢籍分類目録』『東京大学東洋文化研究所漢籍分類目録』などの漢籍分類目録では、漢籍を「経・史・子・集」の四部に分類している。その中の経部(経書の部)の最後には小学類として「訓詁」「説文」「各体字書」「音韻」「目録叢刻」の属の書物が収められている。つまり、文字の作りやその意味、発音などの文字学分野を「小学」といい、これは経書の部に入っているということになる。なぜ、文字学を小学というのか、またそれが経部に含まれるのか。

 そもそも小学というのは学校の名称であって、大学とともに古く『礼記』に現れている。
『礼記』王制篇には、

天子命之教、然後為学、小学在公宮南之左、大学在郊、
天子これに教えを命じ、然る後に学を為す。小学は公宮の南の左に在り、大学は郊に在り。

とある。さらに王制篇には次のような記述がある。

有虞氏養国老於上庠、養庶老於下庠、夏后氏養国老於東庠、 養庶老於西庠、殷人養国老於右学、養庶老於左学、周人養国老於東膠、養庶老於虞庠、 虞庠在国之西郊、
有虞(ゆうぐ)氏、国老を上庠(じょうしょう)に養ひ、庶老を下庠に養ふ。夏后氏、国老を東序に養ひ、 庶老を西序に養ふ。殷人、国老を右学に養ひ、庶老を左学に養ふ。周人、国老を東膠(とうこう)に養ひ、庶老を虞庠に養ふ。 虞庠は国の西郊に在り。

 ここの注に「みな学の名なり。異なるは、四代相変ずるのみ」とあり、また「上庠・右学は大学なり」、「下庠・左学は小学なり」、「東序・東膠また大学なり」「西序・虞庠また小学なり」とある。つまり、国に大学と小学があって、時代によって名称が異なるということになる。これを整理すると、下表のようになる。

時 代 有虞氏(舜) 夏后氏(夏) 殷 代 周 代
学校名 上庠 下庠 東庠 西庠 右学 左学 東膠 虞庠
種 類 大学 小学 大学 小学 大学 小学 大学 小学

 もっとも、これらは文献上の存在で、この通りの学校が実在したという証拠はない。入学年齢については、小学に八または九歳、大学に十五歳、あるいは小学に十三歳、大学に二十歳などと諸説がある。
 小学では、小道・小節・小芸、つまり道徳や礼節や学問の基礎を学ぶとされた。具体的には礼・楽・射(弓を射ること)・御(馬車を操縦すること)・書・数といういわゆる六芸(りくげい)(知識人の教養科目)の基礎を「小学」と呼んだ。

 ところが、漢代になって「小学」の中身は文字学に変わる。『漢書』芸文志には「小学十家三十五篇」として文字学の書を収めているが、そこには次の一文がある。

古者、八歳入小学、故周官保氏、掌養国子、教之六書、謂象形・象事・象意・象声・転注・仮借、造字之本也、
(いにしえ)は、八歳にして小学に入る。故に周官保氏、国子を養ふを掌(つかさど)り、これに六書(りくしょ)を教ふ。象形・象事・象意・象声・転注・仮借と謂ふは、字を造るの本なり。

 ここでいう「六書」とは漢字の構成や字義に関する原理で、後漢・許慎の『説文解字』叙では象形・指事・形声・会意・転注・仮借とされているが、同じものである。

 つまり、漢以後、「小学」は文字学を指すことになり、それは経書を学ぶ基本とされたから、冒頭にあげたように漢籍目録では経部に小学類が入っているのである。
 この背景には、漢代における儒学のあり方がある。漢代においては儒学とは経書を学ぶことであり、その学問方法は訓詁学(字句の意味の解釈学)であった。そのため、文字学が学問の基礎として重要視されるようになった。「小学」が、知識人になるための教養科目から、経学研究の基礎学である文字学に変化したのはそういうわけであろう。儒学とは経学、経学研究は訓詁学という流れは、宋代に朱子が登場してくるまで主流であったのである。

 朱子の登場は「小学」の中身も変えてしまった。その名もずばり『小学』という書物がある。これは朱子の著述として知られてきたが、実は朱子の門人の劉子澄が師の教えを受けて著した書である。この書には朱子の「題小学(小学に題す)」がついていて、こう書かれてある。

古者小学、教人以灑掃応対進退之節、愛親敬長隆師親友之道、皆所以為修身斉家治国平天下之本。
古は小学、人に教うるに灑掃応対進退の節、親を愛し長を敬ひ師を隆くし友に親しむ道を以てす。皆な身を修め家を斉(ととの)へ国を治め天下を平らかにするの本たる所以(ゆえん)なり。

 昔、「小学」では、掃除や客の応対、立ち居ふるまいといった礼節や、親を愛し年長者を敬い師を尊び友人と仲良くすることを教えた。どれも、「身を修め家を斉へ国を治め天下を平らかにする」ことの基本であるからである、という。
 この「修身斉家治国平天下」とは『大学』に出てくることばである。つまり、朱子は、昔の「大学」で学ぶことが書いてあるのが『大学』であり、その基本となることを学ぶのが「小学」で、そこで学べきものとして『小学』という書を考えたのであって、内容もこれに即したものになっている。

 というわけで、題名に「小学」がつく書物には、文字に関する書(『小学鉤沈』など)と、朱子学の『小学』に関する書(『小学集注』など)、初学者向けの書の意味のもの(『小学紺珠』など)があるのである。(2011/2/7)

 


 桃の節句といえば三月三日であるが、今の暦ではまだ桃の花は咲かない。旧暦の三月三日ならば、まさに桃の花の真っ盛りである。

 日本で花見といえば桜であるが、中国でそれに相当するのは桃やスモモ(李)の花を見ることであった。唐の李白にも「春夜宴桃李園序(春夜、桃李の園に宴するの序)」という一文があり、冒頭の
夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客、
それ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。
は、芭蕉の『奥の細道』に引かれていることで有名である。満開の花を眺めると、自ずから人生を思うのは古今東西変わりない。
浮生若夢、為歓幾何、
浮生は夢の若し、歓びを為すこと幾何(いくばく)ぞ。

 桃は実もおいしい。『史記』李将軍列伝の賛に「諺(ことわざ)に曰く」として次のことばが出てくる。
桃李不言、下自成蹊、
桃李 言はざれども、下に自ずから蹊を成す。
 桃やスモモは何も言わないが、花が美しく実もおいしいから人が集まり、その木の下には自然に道ができる。徳のある人のもとには、何も言わなくても自然に人が集まってくるというたとえである。これに由来する「成蹊」という名の学校が関東と関西にある。

 桃は花があでやかで愛らしく、実がおいしく、葉もよく繁る。古くは『詩経』にても歌われた(周南桃夭)。
桃之夭夭 灼灼其華 之子于帰 宜其室家
桃之夭夭 有蕡其実 之子于帰 宜其家室
桃之夭夭 其葉蓁蓁 之子于帰 宜其家人
桃の夭夭(ようよう)たる、灼灼(しゃくしゃく)たる其の華、この子于(ゆ)き帰(とつ)ぐ、其の室家に宜(よろ)しからん。
桃の夭夭たる、蕡(ふん)たる有り其の実、この子于き帰ぐ、其の家室に宜しからん。
桃の夭夭たる、其の葉蓁蓁(しんしん)たり、この子于き帰ぐ、其の家人に宜しからん。
この詩では嫁いでいく娘の愛らしさを桃の花に、子宝を桃の実に、子孫繁栄を桃の繁る葉にたとえている。

 桃はさらに枝にも役目があって、厄除けの効力があると見られていた。平安時代の宮中の年中行事、追儺(ついな)では桃の弓が用いられた。『広辞苑』では次のように記す。
大晦日の夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式。舎人の鬼に扮装した者を、内裏の四門をめぐって追い回す。大舎人長が方相氏(ほうそうし)の役をつとめ、黄金四つ目の仮面をかぶり、玄衣朱裳を着し、手に矛・楯を執った。これを大儺(たいな)といい、紺の布衣に緋の抹額(まっこう)を着けて大儺に従って駆けまわる童子を小儺(しょうな)とよぶ。殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る。古く中国に始まり、日本には7世紀末、文武天皇の頃から伝わり、社寺・民間にも行われた。近世、民間では節分の行  事となる。

 ここに出てくる方相氏は、『周礼(しゅらい)』夏官を典拠とする。
方相氏掌蒙熊皮、黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隷而時難、以索室敺疫、
方相氏は熊皮(ゆうひ)を蒙(かうむ)り、黄金四目、玄衣朱裳し、戈を執り盾を揚げ、百隷を帥(ひき)ゐて時に難じ、以て室を索(もと)めて疫を敺(く)するを掌(つかさど)る。
このとき、また「賓客饗食賓射(賓客、饗食賓射す)」とあるが、桃の弓と葦の矢で鬼を射るとは書いていない。

 一方、『春秋左氏伝』昭公四年に次の記述がある。
其出之也、桃弧棘矢、以除其災、
其のこれを出づるや、桃の弧、棘の矢、以て其の災を除く。
これについて孔頴達の正義では服虔の「桃所以逃凶也(桃は凶を逃るる所以なり)」ということばを引いている。 
 つまり、桃は「逃」に通じて「のがれる」という意味があるのである。桃の木に厄除けの働きがあるというのは、どうやらここに由来するらしい。追儺の桃の弓も、厄から逃れるためであった。

 中国の西方、崑崙山には蟠桃(ばんとう)という桃の木があり、三千年に一度開花し実を結び、これを食べると長寿が得られるという。西王母という仙女がその木を守っているとされた。この伝説から、桃には仙界のイメージが加わった。
 理想郷という意味の「桃源郷」は、東晋の陶淵明の「桃花源記」に基づくが、桃の花のあでやかな色とともに仙界のイメージを抜きにしては生まれなかっただろう。

 この蟠桃を号に用いたのが、江戸時代後期の大坂の町人学者山片蟠桃であった。本姓は長谷川、店での名は小右衛門という升屋の大番頭は、主家に対する功績から親戚並みの扱いを受けることになり、山片芳秀を名乗った。彼は『宰我ノ償(さいがのつぐない)』を書いて「山片蟠桃」と署名したが、のち稿を改め『夢ノ代(ゆめのしろ)』と改題した著作には「山片芳秀」と署名した。したがって「山片蟠桃」は一度きりのペンネームであった。後世、この名で有名になるとは思いもしなかったであろう。迷信を嫌い、伝説・伝承を否定した彼であったから、番頭を蟠桃と言い換えたたった一度のネーミングを後悔していることであろう。(2011/4/7)

 


 「御」は、君主のそばにはべってその用をたすこと、またその人(近臣)をさしたが、馬をあやつって歩を進める「馭(ぎょ)」に通じて、馬を使う、車を進める、進めるの意が加わった。「制御」など、ふせぐという意味で用いられることもあるが、この「御」は本来は「禦」である。

 一方、「御」は天子の行ないや持ち物につける敬語としても用いられる。「御衣(ぎょい)」は天子の衣服、「御苑(ぎょえん)」は天子の庭、「御筆(ぎょひつ)」は天子の書いた書画、「御製(ぎょせい)」は天子の作った文章や詩歌や音曲をいう。

 天子が自ら書物に注することを「御注(ぎょちゅう)」という。『御注孝経』とは唐の玄宗が注を書いた『孝経』のことである。
 『太平御覧(たいへいぎょらん)』は北宋・太宗の勅命によって編まれた類書(多くの書物の中からことがらや語句を集め、分類し編集した一種の百科全書)であるが、はじめは『太平編類』といった。これを太宗が読んで、『太平御覧』と名を改めた。「御覧」は天子が読むことである。

 日本では天子に限定した用法ももちろんあって、その場合は「ぎょ」と読むが、「ご」や「おん」「み」と読んで一般的な尊敬・敬意を示すことばとして用いることが多い。御衣(おんぞ)もお召し物という意味で用いられ、御覧(ごらん)は見るの敬語となった。御礼・御挨拶・御結婚・御誕生とあっても天子の礼や挨拶や結婚や誕生とはだれも思わない。御社(おんしゃ)や御意向などと「御」を多用する日本人の書状を、古典の知識を持つ中国人が見たら驚くであろう。
 また、丁寧語である「お」に「御」の字を当てたから、御食事・御箸・御茶というように身の回りに「御」のオンパレードというありさまになった。

 ある会合への出席依頼状が来たとする。文面には「御多忙中のところ御出席を賜りたい」というふうに「御」の字が並ぶ。出欠の返信はがきには「御出席・御欠席」とあり、差出人の欄には「御住所・御氏名・御勤務先」などとある。返事を出すときはこの「御」を小筆の軸の端に墨をつけてポンと押して(要するにで)消せと教わった。私は墨を使わないから、ボールペンでグルグルとを書いて消している。

 「御前(ぎょぜん)」という語は天子のいるところ、あるいは天子の近くにはべることであったのが、日本では貴人そのひとをいう「ごぜん」となり、「母御前」のように貴婦人を指す敬語、また「静御前」のように婦人の敬称ともなった。やがて「おまえ」という目上を指す二人称代名詞となり、今では主に男性が同等あるいは目下を指して用いる語となったという流れの中には、日本独自の語彙変化のルールが隠されているのだろう。(2011/5/13)

 


 gentlemanの訳語としてだれでも知っている「紳士」の「紳」は「大帯(おおおび)」のことである。結んだ端を腰まで垂らした大帯は高官が礼装するときに用いた。

 『論語』衛霊公篇に次の話がある。
子張問行、子曰、言忠信、行篤敬、雖蛮貊之邦行矣、言不忠信、行不篤敬、雖州里行乎哉、立則見其参於前也、在輿則見其倚於衡也、夫然後行也、子張書諸紳、
子張、行なはれんことを問ふ。子曰く、「言(げん) 忠信、行 篤敬なれば、蛮貊(ばんぱく)の邦と雖も行なはれん。言 忠信ならず、行 篤敬ならざれば、州里と雖も行なはれんや。立ちては則ち其の前に参するを見、輿に在りては則ち其の衡(こう)に倚(よ)るを見る。夫(そ)れ然る後に行なはれん」と。子張、諸(これ)を紳に書す。

 これは子張が孔子先生に「言葉にまごころがあり、行ないに篤くつつしむ気持ちがあれば、野蛮な外国でも思った通りのことが行われるものだが、逆に言葉にまごころがなく、行ないにつつしむ気持ちがなければ、国内の州や里でも行なわれない。立っているときはそのこと(忠信と篤敬)が前にありありと見え、車に乗っているときはその横木に寄りかかっているように見える。そのようになって始めて行われるのだ」と言われ、その言葉を忘れないように「紳に書す」、すなわち垂れた大帯の端に書きつけたという話である。

 帯に書かずともいいように、ふつうは笏(こつ)を用いた。笏とは竹を薄く削った板で、官吏が儀礼の際に忘れては困ることをメモ書きして帯にはさむもの。いわばカンニングペーパーのような働きをした。なじみ深い聖徳太子の画像で、太子が手に持っている上部が丸みを帯びた板状のものが笏である。あるいはお雛様の男雛が手に持つものといえばわかりやすいだろうか。日本でも衣冠束帯姿には欠かせない小道具となっている。
 ちなみに、笏は日本では「しゃく」と呼ぶが、これは「こつ」が骨の音と同じなので避け、笏の長さが一尺であることから尺の音を借りたのである。

 笏を帯にはさむことを「縉紳(しんしん)」、紳(おび)に縉(はさ)むといった。「紳士」は「縉紳之士」のことで、士大夫階級の者、すなわち高位高官をいう。

 英語のgentleには家柄がいいというような意味もあるようだが、ふつうは礼儀正しく、穏やかな、ということであろう。訳語としての紳士も元の意味は忘れ去られ、「紳士的」などと用いられても決して「官僚的」という意味ではないことはもちろんである。(2011/5/13)

 


 この十年ばかりの間に「携帯」という漢語ほど使用頻度が高まったものはほかにあるまい。もちろん、携帯電話の普及のせいであり、いまや、「携帯」といえば携帯電話を指す。つい最近まで携帯ラジオなることばもあったが、今はほとんどのラジオは携帯できるから、こっちはラジオだけで通用する。
 「携帯小説(ケータイ小説)」や「携帯ゲーム」とは持ち歩ける小型の小説本やゲームではなく、携帯電話によってインターネットアクセスして読める小説や遊べるゲームのこと。「携帯忘れた」「携帯貸して」など、「電話」はたいてい省略される。

 以前は「けいたい」で「携帯」と書かせる書き取り問題は、結構むずかしい問題としてテストの常連であった。「たずさえる」で「携」を書かせる問題もかなりの難問であった。今はどうなのであろう。ケータイと仮名書きすることも多くなって、元の漢字を知らない世代が登場するようになれば、「携帯」は書き取りテストに再登場しているかもしれない。

 持ち運ぶことができるという意味で用いられている語に「懐中」がある。着物のふところに入れて運ぶということから名付けられた。『広辞苑』で調べると、懐中鏡、懐中笠、懐中合羽(がっぱ)、懐中汁粉(しるこ)、懐中硯(すずり)、懐中電灯、懐中時計が出てくる。もしも着物を常用する時代に携帯電話が発明されていたら、懐中電話と命名されていた可能性もある。

 着物では、ふところと並んで袖の中も小物を入れて運ぶことができる。「袖珍本」というのは袖の中に入るほどの小型本をいう。現代風にいえばポケット版である。

 ポケットといえばポケットベル(ポケベルと略称)というものがあった。携帯電話がポケット電話にならなかったのは、小型電話機あるいは移動電話機としての発達の歴史があったからだろうか。確かにポケットに入らない大きさの携帯電話時代もあったのである。重い箱形の機械をバイクの荷台に載せて電話をしているシーンは、あれは何の映画だったか。さすれば、携帯電話は懐中電話にはならなかったということにもなる。

 今の若い人は携帯電話のなかったころが信じられないといい、携帯電話がない状態をこわいという。携帯電話がなくても生きていけたんだよ。そりゃ不便なこともあったけれど。待ち合わせ場所を間違って1時間も2時間も待ったあげく会えなかったり、下宿の呼び出し電話に相手がなかなか出ず、10円玉がなくなりそうになったり。でも手紙をもらう喜びもあったし、もちろん会って話すことのほうが楽しいに決まってる。携帯電話のなかったころの青春のほうが楽しかったかもしれない。少なくともハラハラドキドキはしていたように思う。(2011/6/22)

 


 『論語』雍也篇で、季康子が孔子に
賜也、可使従政也与、
(賜や、政に従はしむべきか。)
と問うた。季康子は魯の御三家季孫氏で、魯の家老。名は肥。康は諡(おくりな)である。賜とは孔子の弟子子貢の名(姓は端木)。「賜は政治に従事させることができるか」と聞いたのである。孔子の答は次の通り。
賜也達、於従政乎何有、
(賜や達、政に従ふに於いてか何か有らん。)
「賜は達です。政治に従事するくらい何でもありません」という意味である。
 ここの「達」について、孔安国は「謂通於物理(物の理に通ずるを謂ふ)」といい、朱子は「通事理(事理に通ず)」と注している。つまり、「達」とは、事物に通達しているという意味である。

 「達」をめぐっては『論語』顔淵篇にも次の問答がある。 
子張問、士何如斯可謂之達矣、
(子張問ふ、士 何如(いか)なれば斯(こ)れこれを達と謂ふべき。)
子曰、何哉、爾所謂達者、
(子曰く、何ぞや、爾(なんぢ)の所謂(いはゆる)達とは。)
子張対曰、在邦必聞、在家必聞、
(子張対へて曰く、邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。)
子曰、是聞也、非達也、夫達者、質直而好義、察言而観色、慮以下人、在邦必達、在家必達、夫聞者色取仁而行違、居之不疑、在邦必聞、在家必聞、
(子曰く、是れ聞(ぶん)なり、達に非ざるなり。夫(そ)れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮って以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色に仁を取りて行なひは違ひ、これに居りて疑はず。邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。)
 子張が質問した、「士はどのようにすれば達といえるのでしょうか」と。先生が「おまえのいう達とはどのようなものか」と聞き返されたので、子張は「国でも家でも必ず評判のいいことです」と答えた。そこで先生はいわれた、「それは聞(ぶん)ということで達ではない。達とは飾り気がなく正直で正義を好み、人のことばをよく察して顔つきを見、思慮深く人にへりくだることで、こういう人が国にあっても家にあっても必ず達だといわれるのだ。聞とは顔つきは仁者のようであるが行いは違っていて、そのままでいて疑いをもたない。そういう人が国にあっても家にあっても聞、すなわち評判がよいといわれるのだ」と。 
 あの人はできる人だと評判になることと「達」とは違う。うわべがよければ評判になるが、本当に物事に通達している人は思慮深くて腰が低いものだというのである。 
 
 「達者」とは「達」である人、ものごとの道理をわきまえている人をいう。達人や達士とも同じ意味である。『春秋左伝』昭公七年九月の項に出ている。
 魯の孟僖子(仲孫獲)は昭公の儀礼を補佐することができなかったことを悩み、礼の勉強を始め、少しでも礼を備えた人にはつき従って学び取ろうとした。臨終のとき、家老を呼んで次のように言った。
礼人之幹也、無礼無以立、吾聞、将有達者、曰孔丘、聖人之後也、
(礼は人の幹なり。礼無くんば以て立つ無し。吾れ聞く、将に達者有らんとすと。孔丘と曰ひ、聖人の後なり)。
「礼は人の根幹である。礼がなかったら人として立って行けない。私はこういう話を聞いた。物事に通達した人が現れようとしていると。その人は孔丘といい、聖人の後裔である」と、孟僖子は孔子の先祖たちがすぐれた人々で君主を助けてきたことを語り、さらに
聖人有明徳者、若不当世、其後必有達人、
(聖人の明徳有る者、若し世に当たらざれば、其の後、必ず達人有らん)
 「聖人で立派な徳を持った人がもし国の君にならなかったときは、その子孫に必ず達人が現れる」ということばをあげ、それこそ孔丘その人であるから、私の死後には子の説(孟懿子)と何忌(南宮敬叔)を彼に仕えさせて礼を学ばせるように、といった。
 ここで達者と達人は同じ意味で用いられて、聖人と並ぶほどの位置づけがされている。人の根幹である礼を学ぶには、あらゆる物事に通達した人物に付き従って学ばなくてはならないのである。

 『荘子』斉物論篇には、
唯達者知通為一、
(ただ達者のみ、通じて一たるを知る。)
とある。ただ道に通じた者だけが、あらゆる対立や差別は存在せず、すべてが通じて一であることを知る、という意味である。つまり、荘子の思想の中心である「万物斉同」を真に理解するのが「達者」であるということになる。儒家であれ道家であれ「達者」には、ふつうの人がなかなかなれそうにもない超越した人物のイメージがある。

 この「達者」が、日本語ではからだが健康なことをいうことばになった。『広辞苑』では「達者事(たっしゃごと)」という語があげられていて、力仕事という意味での用例が井原西鶴にあるらしい。「達者」を元気だ、力があるという使い方をするのは江戸時代からなのだろう。今では少々古い語感を持つことばになった。若い人はまず使わないだろう。「お達者くらぶ」という高齢者向けの番組がNHKにあった。「お達者」ということばが元気な高齢者のイメージに合うのだろう。今もその名を使う高齢者のサークルやバンドがあるようだ。

 三橋美智也の歌に「達者でな」というのがあった、
藁にまみれてヨー 育てた栗毛
今日は買われてヨー 町へゆく
あゝオーラ オーラ 達者でナ
あゝ オーラ オーラ 風邪引くな
あゝ風邪引くな
離す手綱が ふるえ ふるえてる
「達者でな」と語りかけているのは、売られていく馬である。物事に通達した賢人をいうことばのなんという変わりようだろう。「達人」は料理の達人など、技に熟達した人という意味で用いられている。

 それにしても、体が健康だという意味の日本語は、以前に取り上げた「丈夫」(当コラム20)やこの「達者」、それに「元気」のいずれも漢語としては別の意味を持っていたことは興味深い(ちなみに「元気」とは万物を生成する根源的な精気をいう)。(2011/7/05)

 


 白は色がしろいというのが第一義で、そこからいさぎよい(潔白)や、黒の示す意味と反対の意味(清い・正しいなど)が生まれた。また、しろくするということから夜が明けるの意もあり、あきらか、まじりけがないの意、むなしい(空白)の意もある。
 一方、もうす、つげるという意味もある。「建白」「自白」「告白」の「白」はこの意である。

 五行(木火土金水)の金は、色では白、季節では秋、方角では西に当たるから、秋を白秋といい、西の聖獣を白虎という。

 多くの中で最も優れたものをいうことばに「白眉」がある。これは『三国志』蜀書の馬良伝に拠る。
馬良字季常、襄陽宜城人也、兄弟五人並有才名、郷里為之諺曰、馬氏五常、白眉最良、良眉中有白毛、故以称之、
馬良、字(あざな)は季常、襄陽宜城の人なり。兄弟五人、並びに才名有り。郷里これがために諺して曰く、「馬氏五常、白眉最良なり」と。良、眉中に白毛有り。故に以てこれを称す。
 馬氏の五人兄弟はみな才子として有名であった。郷里の人々は「馬氏の五人の常(兄弟のアザナにはみな常がついていた)では白眉が最も優秀だ」と噂しあった。馬良の眉の中に白い毛があったために、彼を白眉と称したのである。ちなみに馬良のアザナは季常なので、五人兄弟の末っ子であったことがわかる。

 軽蔑した目つきで見ることを「白眼視」という。これは『晋書』阮籍伝の逸話から。
不拘礼教、能為青白眼、礼俗之士、以白眼対之。
礼教に拘はらず、能く青白眼を為し、礼俗の士は、白眼を以てこれに対す。
 阮籍は礼の教えは俗っぽいものだとみなして、それにとらわれることはなかった。彼は、ふつうの目つきと白眼とを使い分け、礼に染まった俗人には白眼で応対したという。

 さて、当コラム99回に「白」を出してきたのにはわけがある。日本では「白」の字で「九十九」を表すことがある。九十九歳の祝いを「白寿」というのが好例である。九十九は百から一を引いた数であり、「百」の字から一画を取ったら「白」になるからである。
 「白髪」を「九十九髪」と書き、「つくもがみ」と読む。「九十九」を「つくも」と読むのは「つぐもも(次ぐ百)」すなわち百に満たないの意の略だともいい、白髪がツクモという海草に似ているからともいう。

 大阪の千里ニュータウンに津雲台(つくもだい)という地名がある。昔、大学院生のころ、そこにある府立高校に非常勤講師として週に2日通った。津雲という地名に造語っぽい感じを抱いていたが、あるとき、いつもと違う路線のバスに乗ったら、「九十九」というバス停があったのだ。もちろん、「つくも」と読む。おそらく白い土壌の高台であったのだろう。そこで、白すなわち九十九と名付けられた。それがニュータウンになったときに津雲台という人工的な名に変わり、旧名がバス停の名に残ったということか、と合点したのであった。この地名の由来については、あくまで筆者の勝手な思い込みであるが、存外当たっているのではないかと思っている。(2011/7/14)

 

NEW !
 「麒麟」とは、古代中国の想像上の動物。「麒麟」あるいは「麒」や「麟」でも用いられる。『詩経』周南・麟之趾(りんしし)の詩がこの名前の最も古い登場であろう。この詩には「麟之趾(あし)」「麟之定(ひたい)」「麟之角」が出てくる。この麟は瑞獣(めでたい獣)として解釈されてきたが、近年はこれを否定し、鹿を神格化して述べたものとする説も出ている。

 麒麟は『礼記』礼運篇では四霊の一つとして出てくる。
何謂四霊、麟鳳亀龍、謂之四霊
何をか四霊と謂ふ。麟鳳亀龍、これを四霊と謂ふ。
 霊とは神霊なる生物の意味である。人が龍を養うと魚は逃げなくなり、鳳を養うと鳥は逃げなくなり、麟を養うと獣は逃げなくなり、亀を養うと人民の心が離れないという。もちろん、そういうことができる人とは聖人君子である。

 礼運篇には次の文章もある。
故天降膏露、地出醴泉、山出器車、河出馬図、鳳凰麒麟、皆在郊棷、亀龍在宮沼、
故に天は膏露を降し、地は醴泉を出し、山は器車を出し、河は馬図を出す。鳳凰麒麟は、皆な郊棷(こうしゅ)に在り、亀龍 宮沼に在り。
 聖人君子がよい政治を行うと、天は甘い露を降し、地は甘い泉を湧き出し、山は金属器や車を産出し、河からは龍馬が予言書を背負って出てくる。これらはすべて瑞祥である。さらに鳳凰と麒麟が郊外の藪地に、亀と龍が宮殿の池にいる。これは聖人が四霊を養っていることをいう。

 諸子の書物にも麒麟は登場する。『孟子』公孫丑篇上に
豈惟民哉、麒麟之於走獣、鳳凰之於飛鳥、泰山之於丘垤、河海之於行潦、類也、
(あに)(ただ)民のみならんや。麒麟の走獣に於ける、鳳凰の飛鳥に於ける、泰山の丘垤(きゅうてつ)に於ける、河海の行潦(こうろう)に於ける、類なり。
とある。これは孔子の弟子の有若のことばとして「ただ人だけに高下があるのではない。麒麟と走獣、鳳凰と飛鳥、泰山と丘陵、黄河大海と水たまり、みな同類である」という。

 『管子』封禅篇には、
鳳凰麒麟不来、嘉穀不生、
(鳳凰麒麟来たらざれば、嘉穀生ぜず。)
とあって、鳳凰や麒麟が現れないような君王のもとでは、いい穀物は生えないという。以上の例から麒麟と鳳凰は対応する関係として用いられていることがわかる。

 最古の漢字字書である後漢・許慎撰『説文解字』の「麒」の項では、その姿について述べられている。
麒麟、仁獣也、麇身、牛尾、一角
麒麟、仁獣なり。麇の身、牛の尾、一角なり。
「麇」は「麕」「麏」とも書き、訓は「のろ」。鹿の一種である。のろの体に牛の尾を持ち、一本の角を生やしているとある。

 『説文解字』では「麟」の字は見出し字になく「鹿」の下に「吝」を書いた字があり(これも「りん」と読む)、「牝麒」、つまり雌の麒をいうとある。麒が雄、麟が雌という説が、こののち語り継がれていく。

 麒麟の姿や性向については、呉の陸機の『毛詩草木鳥獣虫獣魚疏』にてさらに詳しく述べられている。なお、この書は『詩経(毛詩ともいう)』に登場する植物や動物を解説したもので、上述した「麟之趾」の麟について書いたものである。
麟、麕身、牛尾、馬足、黄色、円蹏、一角、角端有肉、音中鍾呂、行中規矩、遊必択地、詳而後処、不履生虫、不践生草、不群居、不侶行、不入陥阱、不罹羅網、王者至仁、則出。
麟は麕(のろ)の身、牛の尾、馬の足、黄色、円い蹏(ひづめ)、一角、角端に肉有り。音は鍾呂に中(あた)り、行なひは規矩に中る。遊ぶに必ず地を択び、詳かにして後に処る。生虫を履まず、生草を践まず、群居せず、侶行せず、陥阱に入らず、羅網に罹らず。王者至仁ならば、則ち出づ。)
麟は麕(のろ)の体、牛の尾、馬の足、黄色の毛、丸いひづめで、一本の角があり、角の端に肉がある。音は鍾(かね)の呂(陰の調子)にあたり、その行ないは規矩にあてはまる。遊ぶに必ず土地を選び、その地をよく知ってから留まる。生き物や生きた草を踏まず、群がって住まず、連れだって行かず、落とし穴に入らない。王者が至仁であれば、世に現れる。

 麒麟の姿は、日本人にとってはキリンビールのラベルでおなじみである(左の図はキリンビールのラベルから切り抜いた麒麟である)。キリンビールのホームページでは、キリンビール大学芸術学部森羅万象学科キリン史専攻の町田忍教授という方が講義を展開していて、その第2講に「麒麟はどこから来たのか?」がある。そこにはこう書いてある。

麒麟は「広辞苑」によると「麒」が雄、「麟」は雌だという。想像上の動物で麒麟は聖人が世に出る前にその姿を現すとされているもので、鳳凰、龍、亀などと共に中国では古代からの四霊の一つとされている。前漢時代(紀元前約200年)の書「易伝」によると、形は鹿に似て、牛の尾と鳥の蹄とを具え、背毛は五色で毛は黄色、背の高さは一文二尺あるという。

 では『広辞苑』で麒麟を引いてみよう。
(雄を「麒」、雌を「麟」という)中国で聖人の出る前に現れると称する想像上の動物。形は鹿に似て大きく、尾は牛に、蹄は馬に似、背毛は五彩で毛は黄色、頭上に肉に包まれた角がある。生草を踏まず生物を食わないという。

 『広辞苑』の記事は『説文解字』や『毛詩草木鳥獣虫獣魚疏』の寄せ集めだが、「背毛は五彩」はこれら二書にはない。町田教授は『広辞苑』の記事に少々書き加えておられる。一つは四霊で、これは上述の『礼記』によるもの。もう一つ、前漢の書『易伝』をあげ、「背毛五彩」や背の高さはこれに拠るとしている。
 前漢の『易伝』とは、ふつう京房(けいぼう)撰『京氏易伝(けいしえきでん)』をいう。京房であれば生卒年は前77~前37年であるから、「紀元前約200年」はおかしい(これは前漢王朝の始まりである)。しかし、『京氏易伝』には麒麟に関する記事は見られない。それはそれとして、「鳥の蹄」は「馬の蹄」、背の高さの「一文二尺」は「一丈二尺」の書きまちがいだろう。

 ところで、町田教授はキリンビールのマークの絵の由来については述べておられない。大正年間から使われていたようだが、おそらく『古今図書集成』の図(『大漢和辞典』掲載、右図)や『和漢三才図絵』の図あたりをデザインしたものではないだろうか。

 傑出した人物を麒麟にたとえることがあり、それが少年である場合は「麒麟児」と呼んだ。以前、麒麟児という醜名(しこな)のお相撲さんがいて、命名した親方のセンスのよさに感心したものだ。

 麒麟といえば有名なのが「獲麟(かくりん)」の語である。『春秋』に、
春西狩獲麟、
(春、西のかた狩りして麟を獲たり。)
とある。春に西の狩りで麟がつかまったというのである。仁獣である麒麟は聖王の出現を待って現れるものといわれた。それが、この混乱を極めた無政府状態のような世に現れたというのはどういうことだろう。麟においても善政に感応する力が衰えたというのだろうか。原史料を編纂して『春秋』を書いてきた(とされている)孔子は、ここで筆を絶ち、『春秋』経は「西狩獲麟」で終わった、と『公羊伝』はいう。しかし、『左氏伝』は哀公16年夏四月の孔子の死去まで経文を続け、そのあと27年まで伝文のみを記した。

 ともあれ、孔子が『春秋』を「西狩獲麟」の句をもって筆を絶ち、その後に亡くなったことから、「獲麟」は絶筆を意味するようになった。また、誤用されて、孔子の死をいうことにもなり、さらに転じて臨終あるいは臨終の辞世の意ともなった。(2011/9/29)


 2007年に始まった「漢語百題」は4年を経て、ようやく百題に至った。最終話に「獲麟」の話を持ってきたが、だからといって筆を絶つということではない。ちょっと休憩して、書き残したこと(まだまだあるぞ)をぼちぼち書いていこうと思っている。だから、ひとまず擱筆(かくひつ)(こっちは「筆をおく」の意)。
 
>漢語百題 (1)~(50)
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